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ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936) 第 IV 巻:投資誘因

第 12 章 長期期待の状態

(山形浩生
原文:http://bit.ly/qHSkh5

セクション I

 前の章で、投資の規模は、金利と、現時点でのいろいろな規模の当期投資に対応した資本の限界効率関係(スケジュール)の関係で決まることを見ました。また資本の限界効率は、資本的資産の供給価格と、その見込み収益の関係で決まります。本章では、ある資産の見込み収益を決めるいくつかの要因を、もっと詳しく検討しましょう。

 見込み収益の期待の元となる検討事項は、一部は大なり小なり確実にわかっていると想定できる既存の事実に左右され、一部は様々な水準の確信を持って予測するしかできない、将来の出来事に左右されます。前者の中には、かなり資本の手助けが大きくないと効率的に生産できないような財の場合、既存の各種資本的資産のストックや、資本的資産全般のストック、既存消費者の需要などがあります。後者としては、資本的資産のストックの種類や量、消費者の嗜好の将来変化、検討している投資の寿命中の各時点で、有効需要がどのくらい強いか、その寿命中に名目賃金単位がどう変わるか、といったものがあります。後者をカバーする心理的な予想を、長期期待の状態と呼んでまとめましょう——これは短期の期待とはちがうものです。短期の期待とは、生産者が既存工場で今日生産を開始したときに、完成した製品がいくらで売れるかを推定する根拠となる期待です。これについては五章で検討しました。

セクション II

 期待を形成するとき、とても不確実なことをあまり重視するのは愚かです1。ですから、多少は自信が持てそうな事実に期待が流されるのは、無理からぬことです。漠然としたわずかな知識しかない事項のほうがずっと結果に関連が深く、自信を持てる部分はあまり関連していない場合ですらそうです。このため長期期待の形成にあたっては、現状についての事実が、ある意味で分不相応なほどの重みをもって入り込んできます。一般的な手法は、現状を見てそれをそのまま将来にのばすことで、それを補正するのは、変化を期待すべき多少なりとも明確な理由がある場合に限ります。

 ですから人の決断を左右する長期期待の状態は、わかる範囲で最も見込みの高い予測だけに基づくものではありません。その予測にどれだけ自信があるか——最高の予測がまるでまちがっている可能性をどれほど高く見積もるかにも左右されます。大きな変化が予想されても、そうした変化が実際にどんな形のものか非常に不確実なら、自信は弱いものになります。

 一般に言う自信の状態は、実務家がいつも最大限の、もっとも神経質な関心を常に払うものです。でも経済学者たちはこれを慎重に分析しておらず、おおむねそれを一般論で語ってすませてきました。特に、それが経済問題に対して持つ意味合いが、資本の限界効率に対する重要な影響を通じてもたらされる、ということは明らかにされてきませんでした。投資の率に影響する要因としては、資本の限界効率表と、自信の状態という二種類の別々の要因があるのではないのです。自信の状態が関係するのは、それが資本の限界効率に影響する大きな要因の一つだからなのです。資本の限界効率表とはつまり、投資需要表と同じものです。

 でも、自信の状態それ自体について、あまり言えることはありません。私たちの結論は、主に実際の市場や事業心理の観察に頼る必要があります。だからこそ、ここからの脱線は、本書の大部分とは抽象度がちがうのです。

 考察の便宜のため、以下の自信の状態をめぐる議論では、金利変化はないものとします。そして、以下のセクションでは、投資価値の変化がひたすら、その見込み収益期待の変化によるもので、その見込み収益を資本化する金利の変化にはまったく左右されないものとします。でも金利変化の影響は、自信状態の変化による影響に簡単に重ね合わせることができます。

セクション III

 突出した事実として、人が見込み収益を推定するときには、きわめてあぶなっかしい知識を根拠にするしかない、ということがあります。何年か先に投資の収益を律する要因についての人々の知識は、通常は実にわずかで、しばしば無視していいほどのものでしかありません。正直言って、鉄道、銅鉱山、繊維工場、特許薬の事業権、大西洋横断客船、ロンドンシティの建物の、十年先の収益を予測するための知識ベースは、実に少ないし時にはゼロです。いや5年先ですら同様です。実は、本気でそんな推計をしようとする連中はあまりに少数派で、その行動が市場を左右することはありません。

 昔の事業は、実際にそれを実施する人物や、その友人仲間などが主に所有していました。事業こそ我が命と張り切るような、楽観的な気質と建設的な衝動を持つ個人が十分に供給されるかどうかで、その当時の投資は左右されたものです。そういう人々は、見込み収益の厳密な計算なんかまじめに見ません。そうした事業は一部は宝くじのようなものでしたが、最終的な結果は、マネージャーたちの能力や人柄が、平均より上か下かにもかなり左右されてきました。でも投資額から見た平均的な結果が、その時点の金利よりも高いか等しいか低かったかは、事後的にすらだれにもわかりません。でも、天然資源採掘や独占事業を除けば、たぶん各種投資の平均実績は、進歩と繁栄の時代にあってすら、それを推し進めた希望には満たないものだったことは考えられます。ビジネスマンは、運と実力の入り交じったゲームをしており、その平均結果は、そのゲームに参加するプレーヤーたちにはわからないのです。人間の天性として、賭けに魅力を感じず、工場や鉄道や鉱山や農場づくりに(利潤以外の)満足感をおぼえないのであれば、冷たい計算の結果だけでは、あまり投資は起こらないかもしれません。

 昔ながらの民間事業に投資しようという判断は、社会全体にとってはもとより、その個人にとっても、ほぼ後戻りのできない決断でした。今日のように所有と経営の分離が一般化してしまい、組織化された投資市場が発達すると、それは時に投資を促進しますが、ときにはシステムの不安定性を大いに高めます。証券市場がなければ、いったん実施した投資をしょっちゅう再評価しても意味はありません。でも証券取引所は、すでに実施済みの多くの投資を毎日のように再評価します。その再評価は、個人に(ただし社会全体は無理ですが)、自分の投資決断を改定する機会をしょっちゅう与えます。まるで農民が、朝食後に晴雨計をたたき、朝の 10 時から 11 時にかけて農場事業から資本を引き上げると決め、週の後半にかけて、また農場事業に復帰すべきかを再考できるようなものです。でも、証券取引所による日々の再評価は、主に古い投資の個人間取引を支援するために行われるものですが、どうしても当期の新規投資にも決定的な影響を与えてしまいます。なぜなら、似たような既存事業が買えるのに、それより高い費用で新規事業を立ち上げるのは無意味だからです。一方で、もし株式市場に上場してすぐに利益を得られるならば、新規プロジェクトに想像を絶するような金額をつぎ込むだけの誘因も生まれます2。したがって、ある種の投資は専門事業者によるまともな期待に基づくのではなく、株価にあらわれた、証券取引所で取引をする連中の平均的な期待に左右されることになります3。では、このような日ごと、時には時間ごとの既存投資再評価がきわめて重要なら、それは実際にどのように行われているのでしょうか?

セクション IV

 実際の世界では、人々は一般に、実際にはただの慣習でしかないものにすがろうと暗黙に合意しています。その慣習の本質――ただしそれはもちろん、そんなに単純には決まらないのですが――は、変化を予想すべき具体的な理由がない限り、現状が無限に続くと想定することです。これは別に、現状が無限に続くと人々が本気で信じているのだ、という話ではありません。広範な経験からして、そんなことがあり得ないのはみんな知っています。長期にわたる投資の実績は、当初の期待と一致することはほとんどありません。また、無知な状態にある人にとっては、どちらの方向へのまちがいも同じくらいの可能性があるので、等確率に基づく平均の発生確率的期待は現状のままに落ち着くのだ、という議論で行動を合理化することもできません。簡単に示せることですが、無知状態にあるから数学的に等確率だという想定は、ばかげた結果につながります。それは要するに、既存の市場による値付けはどんな方法で導かれたものだろうと、投資収益に影響する事実に関する既存知識との関連において一意的に正しい、と想定していることになります。そして、それがこの知識の変化に比例してのみ変わるのだ、という想定もあることになります。でも哲学的にいえばこれが一意的に正しいはずはありません。既存の知識は数学的な期待計算に十分な基盤を提供しないからです。実際問題として、市場価格には見込み収益と何ら関係のない考慮事項が山ほど入り込んでくるのです。

 とはいえ、上の習慣的な計算手法は、人々が習慣を維持するとあてにできる限り、かなりの継続性と安定性と一貫性を持つものではあります。

 というのも、組織化された投資市場があって、その習慣維持があてになるなら、投資家としては自分の抱える唯一のリスクが、目先の将来に関するニュースの大きな変化だけだという考え方を積極的に抱いてかまわないからです。そうした変化が起きる可能性は、投資家自身が見積もってみることもできますし、どのみちあまり大きくないでしょう。習慣が成立し続けると想定するなら、投資価値を左右するのはそうした変化だけなので、自分の投資の十年後の価値がわからなくても、眠れないほど心配だったりはしません。ですから個別の投資家にとって、その投資は短期ではそこそこ「安全」になります。したがって習慣が続くと多少なりともあてにできて、判断を改定して投資を変える機会があるなら、その短期をいくらでも積み重ねたところでやはり安全ということになります。社会全体にとって「固定」の投資が、こうして個人にとっては「流動的」にされてしまうのです。

 主要な投資市場が発達したのは、こうした手順などに基づいてのことなのは間違いありません。でも習慣は、物事がこれほど恣意的であることを考えれば、それなりの弱点があってもおかしくありません。こうした不確実な部分が、投資を十分確保できないという現代の問題に、かなり貢献しているのです。

セクション V

 この不確実性をさらに強化する要因に、いくつかざっと触れておきましょう。

(1)
社会の総資本投資の中で、実際にその投資物件を管理運用せず、その状況について、現状だろうと見通しだろうと何ら特別な知識を持たない人が所有するエクイティ部分がだんだん増えてきました。その結果として実際に投資物件を所有したり、買おうとしたりする人が評価するときに、本当の知識に基づく部分は深刻に減っています。
(2)
既存投資の利潤は日々変動しますが、明らかにつかみどころのない、どうでもいい性質の変化もあります。それが市場に対して全体的に過剰でばかばかしいほどの影響を持ってしまいがちです。たとえば、アメリカの製氷企業は、だれも氷を買わない冬よりは、季節的に利潤の高い夏のほうが株価が高いとか。祝日が続くと、イギリス鉄道網の市場評価額は数百万ポンドも上がってしまいます。
(3)
多数の無知な個人の群集心理の結果となる世間的な評価は、見込み収益に対して影響しない要因により、意見がいきなり変動したら、激しく変動しかねません。そうした評価を安定に保つような、確信の強い根っこがないからです。特に異常時には、状況が絶対に変わると予想すべき明確な根拠がなくても、現状がいつまでも続くという仮説が説得力を失い、市場は楽観論と悲観論の波に翻弄されます。これには何の理屈もなく、でもまともな計算のための確固たる根拠がなければ、ある意味で適正なものとも言えるのです。
(4)
でも、特に注目すべき特徴が一つあります。平均的な民間投資家を超える、判断力と知識を持った専門エキスパートたちの競争によって、自前の無知な投資家の気まぐれなど矯正されるだろうと思うかもしれません。でも実は、専門投資家や投機家たちのエネルギーや技量は、主に別のことに向けられているのです。というのもこうした人々のほとんどは、実は投資の寿命全体にわたる、見込みの高い収益の長期予測を改善しようなどとは思っていないのです。むしろ世間的な評価基準の変化を、一般大衆よりもちょっと早めに予想することにばかり血道をあげているのです。彼らはその投資が、それを「持ち続ける」ために買う人にとっていくらの価値かなど気にせず、大衆心理の影響下で、市場がそれを三ヶ月後とか一年後にいくらだと評価するか、ということを気にしています。さらに、この行動は何かまちがった性向の結果というわけではありません。これまで説明したような線で組織された投資市場の、不可欠な結果なのです。というのも、見込み収益を見て 30 の価値はあると思った投資であっても、三ヶ月後の市場がそれを 20 にしか評価しないと思えば、その投資に25を出すのは筋が通らないからです。

 ですから専門投資家は、体験的に市場の大衆心理に大きく影響しそうな来るべき変化を、ニュースや気運から予測することに専念するしかありません。これは「流動性」んるものを念頭に組織された投資市場の結果として、避けられないものです。正統ファイナンスの公理として、流動性フェティッシュほど反社会的なものは絶対ありません。これは投資機関として、自分のリソースを「流動的な」証券保有に集中させるのが、立派な美徳であるというドクトリンです。これは、社会全体としてみれば流動的な投資などはない、ということを忘れています。技能の高い投資の社会的な狙いは、未来を包む時と無知の暗黒{力} {フォース}を打破することであるべきです。でも今日の高技能投資が持つ実際の私的な狙いとは、アメリカ人たちがいみじくも言う「出発合図を出し抜く」、つまり群衆を出し抜いて、悪い、価値の下がるババを他の連中に押しつけることなのです。

 投資の長期にわたる見込み収益を予測するのではなく、ほんの数ヶ月ほど先の世間的な価値評価の基盤を予測するという知恵比べは、専門投資家というタカの餌食になるためのカモが世間にいる必要せありません――専門家同士でできるゲームなのです。また、世間的な価値評価基準が、まともな長期的有効性を持つなどというおめでたい信念を、だれかが抱き続けている必要さえありません。なぜならそれは、いわばスナップ遊び、ババ抜き、椅子取りゲームのようなものだからです。早過ぎもせずおそ過ぎもしないタイミングで「スナップ」と言った者の勝ち、ゲーム終了までにババを隣の人にまわせば勝ち、音楽が止まったときに自分の椅子が確保できれば勝ち。こうしたお遊戯は、熱心に楽しく遊べますが、でも参加者全員が、ババがまわっていることは承知しているし、音楽が止まったら誰かは椅子なしになることも知っているのです。

 あるいは、例えをちょっと変えると、専門投資家は百人の写真から最高の美女六人を選ぶといった、ありがちな新聞の懸賞になぞらえることができます。賞をもらえるのは、その投票した人全体の平均的な嗜好に一番近い人を選んだ人物です。したがってそれぞれの参加者は、自分が一番美人だと思う顔を選ぶのではなく、他の参加者たちがよいと思う見込みが高い顔を選ばなくてはならず、その他の参加者たちも、まったく同じ視点でその問題に取り組んでいるのです。自分の判断として、だれが本当に最高の美女かを選ぶ、という話ではないし、平均的な意見で見たらだれが美人と判断されるか、という問題でさえありません。平均的な意見が、平均的な意見は何になると考えるかを予測しようとして、みんなが頭を使うという第三段階に到達しているのです。そして思うに、第四段階、第五段階、それ以上の予測を実践する者さえおります。

 でもそれ以外に、主流である暇つぶしなどに惑わされず、形成できる最高のまともな長期予測に基づいて投資を購入し続ける有能な個人がいるなら、その人は絶対に大儲けできるはずだろう、と異議を唱える読者もおいででしょう。まずお答えしておくと、そうした真面目な個人は確かにいるし、そういう人々が、ゲームをしているだけの参加者に対して強い影響力を持てるかどうかで、投資市場は大きく変わります。でも、現代の投資市場では、そうした個人が優勢になれない要因がいくつかあることも、指摘しなければなりません。今日では、まともな長期期待に基づく投資はあまりに難しすぎて、ほとんど実行不可能なのです。そんなものを試みる人は、群衆よりも群衆の振る舞いをうまく当てようとする人物に比べて、ずっとがんばって働かなくてはならないし、大きなリスクも負担しなければなりません。そして知力が同じなら、ずっとひどいまちがいもしかねないのです。経験的に見て、社会的に最も有益な投資方針が、最も儲かるものだという明確な証拠はありません。時の力と将来に対する自らの無知に打ち勝つには、他人を出し抜くよりも高い知力が必要です。まして人生は短い――人間の本性は即効性を求めますし、手早く儲けるのは独特のスリルがありますし、遙か先の収益は、一般の人はかなり高い率で割り引くものなのです。専門投資のゲームは、ギャンブラー気質のまったくない人には、耐え難いほど退屈で、えらくやっかいなものです。でもそういう気質のある人は、その性向に対してそれなりの対価を支払わねばならないのです。さらに短期的な市場変動を無視しようと提案する投資家は、安全のためにかなり巨額の資金が必要だし、借金による運用はあまり大規模に、いやまったくやってはいけません――知力と資金力の一定ストックよりは、暇つぶしゲームからの収益が高くなるもう一つの理由がこれです。最後に、投資ファンドが委員会や理事会や銀行に運営されている場合、公益に最も貢献してくれる長期投資家こそが、実務においては最大の批判に直面させられます4。なぜなら、その長期投資家の行動の本質はまさに、平均的な見解から見ればエキセントリックで、世間に逆らうもので、無鉄砲だということだからです。その人が成功すれば、そいつが無鉄砲だという一般の信念が裏付けられるだけです。そして短期的にその人が成功しなくても(その可能性はとても高いはずです)、ほとんど同情してもらえないでしょう。現世の知恵の教えでは、世間に逆らって成功するよりも、世間に流されて失敗するほうが評判は高いのです。
(5)
これまで主に、投機家や投機的投資家自身の自信状態を考えてきました。そして当人が見通しに満足している限り、その人は市場金利でお金を無限に調達できるのだ、と暗黙に想定したかのようです。もちろん、実際にはそんなことはあり得ません。ですから自信状態の他の面も考慮する必要があります。それはつまり、融資を受けようとする人々についての融資機関の自信です。これはときに、信用状態と呼ばれます。株価の崩壊は、資本の限界効率に惨憺たる反応を引き起こしますが、その株価崩壊の原因は投機的な自信の弱まりかもしれず、信用状態の低下かもしれません。でも崩壊にはどちらか片方で十分ですが、株価回復には両方が復活しなくてはなりません。というのも、信用の弱まりだけでも株価崩壊は起きますが、それが強化されるというのは回復の必要条件であって、十分条件ではないからです。

セクション VI

 こうした検討事項は、経済学者の視野の外ではありません。でも、正しい視点の元に置く必要があります。市場の心理を予測する活動に、投機ということばをあてはめて、資産の寿命を通じた見込み総収益を予測する活動を事業と呼ぶことをお許しいただけるなら、常に投機が事業にまさるというわけでは決してありません。しかしながら、投資市場の仕組みが改善すれば、投機が支配的になる危険は、確かに増えます。世界最大の投資市場の一つ、つまりニューヨークでは、投機(上の意味で)の影響はすさまじい。金融分野の外ですら、アメリカ人たちは平均的な見解が平均的と見なす見解を見つけようとする活動に、必要以上の興味を示しがちです。そしてこの国民的な弱みの宿敵が株式市場なのです。アメリカ人にとっては、多くのイギリス人がいまだにやるような「配当収益」を当てにした投資は珍しいのだ、と言われます。アメリカ人は、株価上昇の見込みがないと、投資商品を購入したりしません。これは言い換えると、アメリカ人が投資商品を購入するときには、見込み収益などあまり期待せず、世間的な価値評価基準が自分にとって有利に変わるのを期待しているのだ、ということです。つまりアメリカ人は、上述の意味で投機家なのです。事業の安定した流れがあれば、その上のあぶくとして投機家がいても害はありません。でも事業のほうが投機の大渦におけるあぶくになってしまうと、その立場は深刻なものです。ある国の資本発展がカジノ活動の副産物になってしまったら、その仕事はたぶんまずい出来となるでしょう。ウォール街という機関の適切な社会目標は、新規投資を将来収益から見て最も利益の高いチャンネルに流し込むことだと考えられていますが、それが達成した成功の度合いを見ると、自由放任資本主義の傑出した勝利とはとても呼べません——ウォール街最高の頭脳が実はまったく別の目標を目指しているのだと考える私が正しければ、これは驚くほどのことではありませんが。

 こうした傾向は、見事に「流動的」な投資市場を組織したことによる、ほとんど逃れようのない傾向なのです。通常、カジノは公共の利益からして、出入りが難しくて高価であるべきだ、とだれもが合意します。そして証券取引所もそうあるべきかもしれません。ロンドン証券取引所が、ウォール街より罪が軽いのは、国民性の差によるのではないかもしれません。平均的アメリカ人にとってのウォール街に比べ、平均的なイギリス人にとってスログモートン街は、敷居が高くて高価だからかもしれません。ロンドン証券取引所での取引につきまとう仲買人の「上前(うわまえ)」、高い仲介手数料や、税務署に支払うべき高い取引税は 、市場の流動性を引き下げて、ウォール街を特徴付ける取引の相当部分を排除しているのです(とはいえ二週間決済口座(訳注:取引の決済を二週間後にやればよいという口座。決済までの期間が長いので投機にも追懐安い。このため最近廃止された。)の慣行はこの正反対に機能しますが)5あらゆる取引に政府が高い取引税をかければ、アメリカで事業よりも投機が圧倒的だという状況を緩和する改革として、きわめて有効かもしれません。

 現代投資市場の異様な様子を見ていると、投資商品の購入は結婚と同じく、永続的で解消不能にしてしまい、例外は死かよほど重大な原因に限るようにしたほうが、現代の邪悪に対する治療として有益ではないか、という結論のほうに流されそうにもなります。というのもそうすれば、投資家は長期の見通しに目を向けることを余儀なくされ、他のものは見なくなるからです。でもこの方便をちょっと考えてみると、ジレンマにつきあたります。投資市場の流動性が、新規投資をときに阻害することはあっても、しばしばそれを支援することに思い当たるのです。個別の投資家がそれぞれ、自分の関与が「流動的だ」と自画自賛するという事実(これが全投資家に集合的に当てはまることはあり得ないのですが)は、投資家の不安を鎮め、ずっとリスクを負担しやすくしてくれます。貯蓄を保有する別の手段が個人に提供されている限り、もし個別の投資商品購入が非流動的になれば、新規投資は深刻に阻害されます。これがジレンマです。個人が富を貯め込んだり、お金を貸したりすることに富を費やせるなら、実際の資本的資産の購入という代替選択肢に、十分な魅力は持たせられません(特にその資本的資産を管理運営せず、それについてほとんど何も知らない人物にとっては)。それを可能にするには、そうした資産をすぐに換金できるような市場を組織するしかないのです。

 現代世界の経済生活を襲う、自信 (安心) の危機に対する唯一の過激な治療法は、個人に対して自分の所得の消費と、何らかの資本的資産に対する生産発注の両者以外の選択肢を認めないことです。投資先の資本的資産は、危なっかしい証拠に基づいているにしても、その人にとって自分に手の届く最も有望な投資と思えるものでかまいません。将来について、いつも以上に疑念に襲われた場合には、その困惑により新規投資を減らしてもっと消費を増やすこともありましょう。でも現在では、疑念に襲われたら所得を消費にも投資にも使わないという選択肢が認められています。消費の増大はその選択肢がもたらすような、悲惨で累積的で広範な悪影響は回避させてくれます。

 お金を貯め込むことの社会的な危険を強調した人々は、もちろん上と似たような話が念頭にありました。でもその人々も、お金の貯め込みに何ら変化がなくても、あるいは少なくともある程度以上の変化がなくても、そうした現象が起こる可能性がある、という点は見すごしていたのです。

セクション VII

 投機による不安定性以外に、人間の天性が持つ特徴からくる不安定性もあります。人々の積極的な活動の相当部分は、道徳的だろうと快楽的だろうと経済的だろうと、数学的な期待よりは、自然に湧いてくる楽観論によるものなのです。たぶん、かなりたってからでないと結果の全貌がわからないようなことを積極的にやろうという人々の決断は、ほとんどがアニマルスピリットの結果でしかないのでしょう――これは手をこまねくより何かをしようという、自然に湧いてくる衝動です。定量的な便益に定量的な発生確率をかけた、加重平均の結果としてそんな決断が下されるのではありません。目論見書に書かれた内容がいかに率直で誠意あるものだろうと、事業はそれに従って動いているふりをしているだけです。将来便益の厳密な計算などに基づいていない点では、南極探検より多少ましでしかありません。ですから、アニマルスピリットが衰えて自然発生的な楽観論が崩れ、数学的な期待以外あてにできなくなると、事業は衰退して死にます――その際の損失の恐れは、以前の利潤期待に比べて根拠の点では大差ないのですが。

 将来に続く希望に依存した事業が、社会全体にとって有益なのはまちがいないことです。でも個人の努力が適切になるのは、適切な計算がアニマルスピリットに補填支持される場合だけなのです。パイオニアたちはしばしば、最終的に損をするんじゃないかという考えに襲われます(これは経験的に私たちも彼らもまちがいなく知っていることです)が、アニマルスピリットの働きがあればこそ、健康な人が死の予想を無視するように、そうした考えも振り払えるのです。

 残念ながらこれは、不景気や不況の度合いがさらにひどくなるということだけでなく、経済の繁栄があまりにも、平均的なビジネスマンにとって適切な社会政治的雰囲気の有無に依存しすぎている、ということを意味しています。労働党政権やニューディール政策の恐れが事業を低迷させるとしても、これは適切な計算の結果でもなければ、政治的な意図をもった陰謀の結果でもないかもしれません――単に、自然発生的な楽観論の微妙なバランスが崩された結果でしかないのです。ですから投資の見込みを推計するにあたっては、それを大きく左右するような自然発生的な活動を行う人々の不安やヒステリー、あげくはその人々の腹具合や天気に対する反応にまで、配慮が必要になるのです。

 だからといって、すべてが不合理な心理の波に左右されるのだ、と結論してはいけません。それどころか、長期期待の状態は安定していることが多いし、そうでない時も、他の要因が補正効果を発揮します。ここでは単に、将来に影響する人の決断が、個人的なものも政治的なものも経済的なものも、厳密な数学的期待には頼れないということを忘れないようにしているだけです。そんな計算のもとになるものが存在しないからです。そして世の中を動かすのは、人々の生得的な活動の衝動であり、合理的な主体というのは、各種の選択肢をできるだけうまく選ぼうとし、できるときには計算もしますが、しばしば気まぐれや感情や運に頼ってしまうのです。

セクション VIII

 さらに、将来に対する無知の影響を実際には多少緩和してくれる、重要な要因がいくつかあります。複利計算の作用と、時間経過に伴う陳腐化の可能性の組み合わせのために、多くの個別投資は本当に、比較的近い時期の収益で見込み総収益の大部分が決まってくるのです。超長期投資で最も重要なもの、つまり建物となると、そのリスクを長期契約で投資家から入居者に転嫁、あるいはせめて折半できることもよくあります。入居者としては、居場所確保の継続性と確実性のほうが、リスクを上回ると判断するわけです。また、もう一つ重要な長期投資は公益事業ですが、ある所定の利ざやをもたらす料金を課す権利と、独占特権との組み合わせで、見込み収益の相当部分は実質的に保証されています。最後に、ますます多くの種類の投資が公共機関によって行われたり、あるいは公共機関がリスクを取る形で実施されたりするようになっています。それらは、その商業的な収益が長期にわたってどんなものかにはおかまいなしに、社会的な便益の見込みがあるという一般的な想定にはっきり支配されたもので、数字の上での期待収益が、少なくとも現在の金利と等しいかどうか、といった条件を満たそうなどとは考えられていません――とはいえ、公共機関にどのくらいの支払い能力があるかによって、それが実施できる投資活動の規模は決定的に決まってしまうのですが。

 したがって、短期の変化が長期期待状態に与える影響の重要性を、金利変化とは別個に、十分に検討してきましたが、それでもやはり少なくとも通常の状況では、投資の量に決定的ではないにせよ大きな影響を与えるものとして、金利に話を戻すべきでしょう。でも、金利管理だけで適切な投資量を継続的にどこまで刺激し続けられるかは、やってみないとわかりません。

 私はといえば、金融政策だけで金利を左右できるかどうか、今ではちょっと疑問に思っています。国は資本財の限界効率を、長期的な視点で一般社会にとっての利益に基づいて計算できる立場にあるのですから、国が投資を直接まとめる責任をもっと負うべきだと私は期待しています。なぜかというと、いままで述べてきた原理に基づいて計算される、各種の資本の限界効率に関する市場推計は、変動があまりに大きすぎて、金利の現実的な変化でそれを相殺するのは無理である公算が高いからです。


  1. 「とても不確実」というのは、あり得そうにない、というのとは意味がちがいます。拙著『確率論』第六章「議論の重み」を参照。{p148note}

  2. 拙著『貨幣論』 (vol. ii. p. 195) で、企業の株価がとても高くて、有利な条件で新株発行すればもっと資本を集められる場合には、低金利で融資を受けられるのと同じ効果があると指摘しました。いまやこれは、既存株式の高い株価は、同種の資本の限界効率上昇をもたらし、したがって(投資は資本の限界効率と金利の比較に左右されるので)金利低下と同じ効果がある、と言い直すべきでしょう。

  3. これはもちろん、すぐに市場で取引できない事業や、まともに対応する流通証券がない事業には当てはまりません。そうした例外的なカテゴリーの事業は、かつてはとてもたくさんありました。でも新規投資の総額に占める割合でみると、その重要性は急速に下がっています。

  4. 投資信託や保険事務所が、投資ポートフォリオからの所得だけでなく、市場での資本価格まで計算するという慣行は、通常は手堅いものと思われていますが、これもまた資本価格の短期的な変動に注目しすぎる傾向を助長するものかもしれません。

  5. ウォール街の取引所が開いているとき、投資の売買の少なくとも半分は、投機家がその日のうちに転売買することを意図して行われているとか。これは先物取引にもしばしば当てはまります。

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