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ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936) 第 IV 巻:投資誘因

第 16 章 資本の性質についての考察あれこれ

(山形浩生
原文:http://bit.ly/prEO7C

セクションI

 個人が貯蓄をするというのは――いわば――今日は晩飯を抜くぞ、という決断です。でもそういう決断をしたからといって、別に来週は晩ご飯を食べるぞとか、一週間後だか一年後だかにブーツを買うぞとか、特定の時点で特定のものを消費するぞといった決断があわせて必要になるわけではありません。ですからその決断は、今日の晩ご飯を用意するという商売を圧迫しますが、でもその商売は、何か将来の消費行動をあてに今から準備をしようという刺激を受けるわけではありません。今日の消費需要の代わりに将来の消費需要をもってくるわけではないのです――そうした需要が純減するだけです。さらに将来の消費期待は、いま消費するという現在の経験にとても強く根ざしているので、結果としていまの消費を減らせば、将来の消費も減らされる見込みが高いのです。そして貯蓄行動は単に消費財価格を引き下げるだけで既存資本の限界効率はそのまま、というわけにはいきません。実際には、後者も引き下げる傾向が強いのです。そうなると、現在の消費需要のみならず、現在の投資需要すら引き下げてしまうかもしれません。

 貯蓄というのが、単に現時点で消費をやめる、というだけでなく、将来消費のために具体的な発注をする、ということも含むなら、その影響はたぶんちがってきたでしょう。なぜならその場合には、投資からの将来収益期待が向上するので、今日の消費を用意するのに使わずにすんだリソースが、将来の消費の用意をするのにまわせるからです。むろん、この場合ですら、準備にまわされるリソースと解放されたリソースとで、同じ規模になるとは限りません。先送りしたい期間というのは、あまりに不都合で「回り道」な生産手法を必要とし、現在の金利よりはるかに低い効率性しか持てないかも知れません。そうなると、貯蓄がいますぐ引き起こす効果というのは、やはり雇用を減らすというものになります。でもいずれにしても、個人の貯蓄決断は、実際問題として、消費の将来予約などまったく関係せず、単に現在の注文をキャンセルするだけです。ですから、雇用の唯一の存在理由は消費の期待である以上、消費性向が下がれば、他の条件が同一なら、雇用を減らす働きがあるというのは、何もパラドックスめいたところなどありますまい。

 ですから問題は貯蓄行為というのが、現在の消費と何か特定の追加消費との交換を意味するのではないために起こる、ということです。その特定の追加消費のための準備が、現在の消費で必要とされたのとまったく同じ、貯蓄されたのと同額の経済活動を現在必要とするのであれば、問題はないのです。そうではなく、それ自体としての「富」、指定されない時間に指定されない品目を消費する潜在力が欲望されるのです。個人の貯蓄が個人の消費に負けず劣らず、有効需要にとってよいものだという発想は、馬鹿げているのにほとんど普遍的になっています。これはそこから導かれる結論よりずっともっともらしい誤謬によって育まれたものですが、それは富を持ちたいという欲望の高まりは、投資を持ちたいという欲望の高まりとほぼ同じことだから、それは投資需要を増やし、その生産に刺激を与えるのだ、という誤謬です。だから当期投資は、当期の消費が減ったのと同額だけ増えた個人の貯蓄によって促進されるのだ、というわけです。

 人心の迷いを解くのが最も難しいのは、この誤謬なのです。富の所有者は資本財それ自体を持ちたがると信じてしまうのですが、実はその人が本当に欲しているのは、その見込み収益です。さて見込み収益は、将来の供給条件との関連で将来の有効需要に完全に左右されます。ですからもし貯蓄行為が見込み収益の改善にまったく貢献しないなら、投資も一切刺激しません。さらに個人貯蓄者が富の所有という望みをかなえたにしても、その人物を満足させる新しい資本的資産がどこかに作られる必要はありません。単にある個人が貯蓄という行為をするだけで、貯蓄は上に見た通り双方向的な活動なので、他の個人がその人物に、新旧問わず何らかの品物を移転しなくてはならないのです。あらゆる貯蓄行為は、貯蓄をする人への「強制された」不可避な富の移転が伴います。むろん、その人物は別の人が貯蓄するときに苦しめられるかもしれませんが。こうした移転は、新しい富の創造を必要としません——それどころか、むしろ積極的にそれを邪魔するものかもしれません。新しい富の創造は、その新しい富の見込み収益が、現在の金利による基準を上回っているかどうかにかかっています。限界的な新しい投資の見込み収益は、誰かが自分の富を増やしたがっているという事実によって増えたりしません。限界的な新しい投資の見込み収益は、特定の品物が特定の日に需要されているという期待に依存しているからです。

 また、富の所有者は見込み収益なら何でも良いわけじゃなくて、手に入る最高の見込み収益を求めるんだから、富を保有する欲望が増えると、新規投資の生産者たちが満足しなければならない見込み収益は下がるんだ、という議論をしても、この結論は避けられません。というのもこれは、実物の資本的資産を所有しなくても、常に代わりの手口があるのだということを無視しているからです。それはお金や負債の所有です。ですから、新規投資の生産者たちが満足すべき見込み収益は、現在の金利が定める基準以下にはなれないのです。そして現在の金利は、これまで見た通り、富を持ちたいという欲望の強さによるものではなく、それを流動的な形で持ちたいか、非流動的な形で持ちたいかという欲望の強さによるのであり、さらにそれに対応して、流動的な富の供給と非流動的な富の供給との相対的な量で決まるのです。もしここで混乱するようでしたら、次のことを考えてみてください。なぜお金の量が変わらないのに、新しくだれかが貯金をしようと思っただけで、なぜいまの金利で流動的に保ちたいとされる金額が減ることになるのでしょうか?

 なぜ、どこから、といった問題をさらに詳しく探るといくつかもっと深い困惑が生じてきます。これは次の章で検討します。

セクションII

 資本が生産的だ、などというよりは、資本が寿命の間の総計で、原価を上回る収益を持つと言った方がずっとマシです。資産が耐用寿命の間に、その初期供給価格よりも大きな総価値を生み出す見込みがある唯一の理由は、それが希少だからです。そしてそれは、お金につく利子との競争によって希少に保たれているのです。もし資本がもっと希少でなくなれば、その生産性は物理的には下がらなくても、追加収益はだんだん減ります。

 ですから、私は古典派以前の教義に親近感を感じるのです。そこではすべてが労働で作られ、それをかつては技と呼ばれ、いまは技術と呼ばれるものが支援し、材料は天然資源で無料か、希少性・豊富性に応じた賃料が課せられ、それに加えて過去の労働の成果も使われ、それ自体もまた希少性や豊富性に基づいた価格がついているのです。唯一の生産要素としては、ある決まった技術、天然資源、資本設備、有効需要のもとで働く労働だけを考えるほうがいいのです(もちろん労働には事業者自身のサービスとその部下たちのサービスも含まれます)。なぜ私たちが、本書の経済システムにおいては労働をお金と時間以外の唯一の物理単位にできたのか、これで部分的に説明がつきます。

 確かに、長いまわりくどいプロセスの中には物理的に効率がよいものもあります。でも短いプロセスだってそういうものはあります。長ったらしいプロセスが物理的に高効率だとしても、それはそれが長いせいではありません。一部、いやおそらくはほとんどの長ったらしいプロセスは、物理的にとても非効率でしょう。というのも時間がたつにつれて、劣化や消耗などが起こるからです1。労働力一定なら、長ったらしいプロセスに使える有益な労働の量には絶対的な上限があります。他にも考慮すべき点はありますが、機械を作るのに使われる労働量と、その機械を使うのに雇われる労働の量とには、適切な比率があるはずです。使われているプロセスがますますまわりくどいものになってきたら、その物理的効率性がまだ高まり続けていても、雇用労働量との見合いで見た最終的な価値の量は、無限に高まり続けるはずはないでしょう。消費を先送りしたい欲望が強くて、完全雇用がマイナスの資本限界効率をもたらすほど巨大な投資を必要とする場合に限り、長ったらしいだけのプロセスもメリットのあるものとなります。その場合には、物理的に非効率なプロセスを採用すべきでしょう。ただしそれは、先送りにしたことによるメリットがその非効率性を打ち消すくらいの長ったらしさでなくてはいけません。それどころか、物理効率性が製品の早期納品からくるデメリットを上回るように、短いプロセスを十分希少にしておかなくてはなりません。したがいまして正しい理論は、金利がプラスの場合でもマイナスのばあいでも、それに対応した資本の限界効率を扱える、どちら向きでも当てはまるものでなくてはいけません。そしてそれができるのは、上でざっと述べた希少性理論だけだと思います。

 さらに、各種の財や設備が希少で、したがって使う労働量に比べて相対的に高価なのは、いろいろ理由あってのことです。たとえば、臭いプロセスは報酬が高いものです。それはそうでないと、やる人がいないからです。危険なプロセスだって同じです。でも臭さの生産性理論だの、危険プロセスの生産性理論だのを考案したりはしません。一言でいえば、労働がすべて、同じように良好な職場環境で実施されるわけではないのです。そして均衡条件により、良好でない周辺環境(臭い、危険、時間がかかるなどの特徴を持つ)で生産された物品は、高い価格がつくように、十分希少にしなければならないのです。でも時間がかかるというのが職場環境として良好とされるようになれば(これは十分あり得ることだし、すでに多くの個人はそう考えているようです)、上で述べたように、十分に希少にしておくべきなのは、短いプロセスだということになります。

 最適なまわりくどさが与えられれば、人はもちろん最も効率の高いまわりくどいプロセスを見つけて、上から順に必要な総量を満たすまで選んでいきます。でも最適な量自体は、消費者たちの需要のうちで遅らせるのが望まれている部分を、適切な時点で満足させるようなものであるべきです。つまり最適な条件では、消費者の需要が実現するはずの日に納品できるように、最も効率の高い形で生産するよう組織すべきだ、ということです。納品日を変えれば物理的な生産高が増やせる場合でも、需要が実現しそうな日以外に納品するよう生産するのは無意味です——ただし、たとえばもっとたっぷりしたご飯という見通しにより、消費者が食事時間を早めたり遅らせたりするよう促せるのであれば別ですが。もし、食事時間を変えることで得られる食事の詳細を聞いて、消費者が8時にしたいと言いそうなら、コックは8時に出せる最高の晩ご飯を作るのが仕事です。時間がどうでもよく、そして何でもいいから最高の晩ご飯を作れという場合にコック自身に都合がいいのが、七時半だろうと八時だろうと八時半だろうと、それは関係ありません。社会のある段階では、私たちより遅めに食事をすることで、物理的にはもっとよい食事ができるかもしれません。でも社会の他の段階では、早めのほうがよい夕食になることだって同じくらい考えられます。私たちの理論は、上で述べた通り、どちらの条件にも適用できなくてはいけないのです。

 もし金利がゼロだったなら、すべての品物について、投入の日から消費の日までの平均日数の最適期間があります。労働コストが最小になる期間です——それより短い生産プロセスなら、生産は技術的に不効率になり、それより長いプロセスは、保管費用や劣化のために効率が落ちます。で、金利がゼロを上回ると、プロセスの長さを増す新しいコスト費目が導入され、最適期間は短くなります。後に納品に使われるはずの当期投入は、見込み価格が十分に上がってコスト増分をカバーできるようになるまで、削るしかありません——その費用は利払い費用と、短期間の生産方式による効率低下からくるものです。金利がゼロ以下に下がれば(それが技術的に可能ならばですが)その反対が成り立ちます。潜在的な消費者需要があれば、今日の当期投入は言わば、後日に投入を始めるという選択肢との間で競争しなくてはなりません。そして結果として当期投入が儲かるようになるには、技術効率が上がったり、見込み価格が変動したりして、今より後日生産するほうがずっと安くなっても、それがマイナス金利からの少ない収益率を相殺できない場合だけです。大半の品目については、消費が見込まれる時期よりあまり先だって生産投入を開始すると、かなりの技術的な非効率をもたらすはずです。したがって金利がゼロでも、潜在消費者たちの需要を満たすために事前に生産開始すれば儲かるような需要比率には、はっきりした制限があります。そして金利が高まれば、今日生産すると儲かる見込み消費者需要の比率は、その分だけ下がるのです。

セクションIII

 金利は心理的、制度的な要因で決まりますが、少なくとも資本の寿命に等しい期間にわたり、その資本をなるべく長期的に希少にしておいて、限界効率が金利に少なくとも等しいくらいに保つ必要があることを見てきました。資本が調いすぎてその限界効率がゼロになり、これ以上の追加投資をしたら限界効率がマイナスになってしまうような社会にとって、これはどんな意味を持つでしょうか。その社会でも金融システムがあって、お金は「保存」できてその保管費用や安全な預託費用はほとんどゼロ、結果として実際の金利がマイナスにはなれず、完全雇用でみんな貯金はしたがるものとします。

 もしそんな状況で完全雇用の条件から始めたら、事業者たちは既存の資本ストックすべてを使うほど人を雇い続けた場合には必然的に赤字を出します。ですから資本ストックと雇用水準は、社会が貧しくなって総貯蓄がゼロになるまで収縮します。その場合、だれかのプラスの貯蓄は、他の人のマイナス貯蓄で相殺されることとなります。したがってここで想定したような社会では、自由放任主義の下での均衡は、雇用がずいぶん低くて生活水準がかなり悲惨で、貯蓄がゼロになったような状態です。たぶんこの均衡位置のまわりで周期的な動きが起こるほうが可能性が高いでしょう。もし将来についてまだ不確実性の余地があるなら、資本の限界効率はときどきゼロより高くなって、「好況」につながります。そしてその後の「不況」では、資本ストックは一時的に、長期的には限界効率ゼロをもたらす水準を下回ります。人々の先を読む能力が正しければ、 ぴったりゼロの限界効率を持つ資本の均衡ストックは、存在する労働力の完全雇用に対応するストックよりも、もちろん小さなものとないります。というのも、それは貯蓄がゼロになるような失業率に対応する設備の量となるからです。

 唯一あり得る別の均衡位置は、限界効率がゼロとなるくらい巨大な資本ストックがあって、それが完全雇用下ですら、将来に備えようという人々の欲望総量を満たすくらいの富となっていて、金利という形で得られるボーナスもなくてかまわないと人々が思うような場合です。ですが、完全雇用下での貯蓄性向が、ちょうど資本ストックの限界効率がゼロになったところで満たされる、というのは、あり得ない偶然でしょう。ですから、このもっと望ましい可能性が救いにきたとしても、それが効果を発揮するのは金利が消え失せようとするところではなく、それ以前に金利が徐々に低下する間のどこかでしょう。

 ここまでは、お金の保有コストがほぼゼロだという制度的な要因のため、金利はマイナスになれないと想定してきました。でも実は、金利の現実的な低下に対し、ゼロよりずっと高い下限を設けてしまうような、制度的、心理的な要因があります。特に、借り手と貸し手をひきあわせる費用や、上で見たような将来の金利水準に対する不確実性により下限ができて、それは現在の状況だと、長期で2パーセントか2.5パーセントくらいにもなりそうです。もしこれが正しいなら、自由放任の下ではこれ以上金利が下がれず、富のストックが増え続けてしまうという、まごつくような可能性がやがて現実に実現しかねません。さらに、現実的に金利を引き下げられる下限がゼロパーセントよりかなり上ならば、金利がその下限に達する前に蓄財の総欲望が満たされる見込みは下がります。

 戦後のイギリスとアメリカは、まさに富の蓄積が大きくなりすぎて、時の制度や心理的な環境下で金利が下がる速度よりも、限界効率のほうが急速に下落した実例です。それが主に自由放任の条件下では、適切な雇用水準を阻害し、生産の技術的な条件が提供できたはずの生活水準実現を阻害することになってしまったのです。

 するとここから、まったく同じ社会で、技術水準が同じでも、資本ストックが違えば、資本ストックが少ない社会の用が、しばらくは資本ストックの大きい国よりも高い生活水準を享受できる、ということになります。でも貧しい社会が豊かな社会に追いつけば——おそらくいずれ追いつくはずです——どちらもミダス王の運命に苦しむことになるのです。この不穏な結論はもちろん、消費性向と投資の率が、社会の利益のために意図的にコントロールされたりはせず、主に自由放任のままに任されているという想定にかかっています。

 完全雇用の条件下での資本の限界効率に等しい金利で、社会はある貯蓄高を持とうとし、その貯蓄高に対応した資本蓄積の速度があります。もし——理由はどうあれ——金利がその資本蓄積に伴う資本の限界効率低下ほどは下がれなければ、富を持ちたいという欲望を資産のほうに振り向けたとしても、その資産が何ら経済的な果実を生み出さない場合ですら経済的な厚生は高まります。億万長者が存命中の肉体を保管するのに巨大邸宅を建て、死後の肉体を保護するのにピラミッドを建てることで満足感を得るのであれば、あるいは己の罪を悔いて大聖堂を建てたり修道院に寄進したり海外宣教団に出資したりして満足できるなら、資本の過剰が産出の豊穣を阻害するような日は先送りにできます。貯金をはたいて「地面に穴を掘れば」、雇用ばかりでなく、有用な財やサービスの国民への実物配当も増えるのです。でも賢明な社会がひとたび有効需要に影響するものを理解さえすれば、そんな偶発的でしばしば無駄だらけの手段に頼って事たれりとすろのは、適切なことではありません。

セクションIV

 仮に、金利が完全雇用に対応した投資量と整合するよう、何か方策が講じられたとしましょう。さらに、資本設備の成長が頭打ちになる地点に近づく速度が、現在の世代の生活水準に分相応以上の負担を与えない速度となるよう、国が手を打つものとしましょう。

 この想定があれば、現代的な技術リソースを備えた、適切に運営された社会においては、人口が急増していなければ、資本の限界効率を一世代のうちに、ゼロにかなり近い均衡点にまで引き下げられるはずだと思います。そうなると、そこは準静的な社会となって、変化と進歩は技術や嗜好、人口や制度の変化だけが引き起こし、資本設備の産物は、労働その他に比例した価格で売られ、その価格には消費財の価格を律するのと同じ原理で、資本の料金がごくわずかばかり入ってくることになります。

 資本財を極度にあふれさせ、資本の限界効率をほぼゼロにするのが簡単だという私の想定が正しければ、これは資本主義の感心しない特徴の多くをだんだん始末する、最も賢いやり方かもしれません。ちょっと考えてみれば、蓄積された富に対する収益率がだんだんなくなることで、すさまじい社会変化が生じることはわかるからです。後で使うために、稼いだ所得を貯めておくのはその人の勝手です。でも貯めたお金が増えたりはしません。その人は、アレクサンダー・ポープの父親と同じ立場になります。この人物は事業から引退したときに、トウィッケンハムの別荘にギニー硬貨の入った箱を抱えていき、家計の支出は必要に応じてそこからまかなったそうです。

 金利生活者は消えますが、それでも事業能力と、見込み収益の推計技能の余地はあります。これらは意見が分かれるものだからです。いまの説明はリスクなどを全く考慮しない、純粋金利を主に考えてきました。リスクまで考慮した、資産の総収益ではありません。ですから純粋金利がマイナスの値にならない限り、見込み収益の疑わしい個々の資産に対する、技能豊かな投資はまだプラスの収益が得られるはずです。リスクを負担するのが目に見えて避けられるならば、そうした資産を一定期間にわたり総計することで、プラスの純収益が得られることもあります。でもそうした状況では、疑わしい投資から収益を得ようという熱意が高すぎて、総計してもマイナスの純収益になってしまうことも十分考えられます。


  1. マーシャルによるベーム=バヴェルクについての記述を参照。『経済学原理』 p. 593.

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2011.12.26 YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)


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