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ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936) 第 V 巻 :賃金と価格

第 19 章 おまけ ピグー『失業の理論』について

(山形浩生
原文:http://bit.ly/nshV67

 ピグー教授は著書『失業の理論』で、雇用の量は二つの根本要因に依存するものとしています。 (1) 労働者たちが要求する実質賃金率 (2) 労働の実質需要関数。彼の本の中心部分は、後者の関数の形を決めることに専念しています。人々が実は賃金の実質値ではなく、名目値を求めるという事実は、無視はされていません。でも実質的には、実際の名目賃金を賃金財価格で割った者が、要求される実質の率だと想定されています。

 労働の実質需要関数について「探究の出発点を成す」等式は、『失業の理論』p.90にあります。彼の分析の応用を支配する暗黙の想定は、冒頭近くにすべりこませてあるので、重要な点にくるまでピグー教授の処理をまとめてしまいましょう。

 ピグー教授は産業を「自国で賃金財生産に従事している産業と、輸出品を作ってその売り上げが外国の賃金財に対する購買力を生み出すような産業」と、「その他」に分類します。便宜上これを、賃金財産業と非賃金財産業と呼びましょう。前者は $x$ 人を雇い、後者は $y$ 人を雇うとしています。 $x$ 人による賃金財の産出は $F(x)$ とされ、賃金の一般率は $F'(x)$ です。これは、ピグー教授はいちいち指摘しませんが、限界賃金費用が、限界原価に等しいと想定するに等しいことです1。さらに $x + y = \phi(x)$ 、つまり賃金財産業での雇用者数は、総雇用者数の関数だと想定されます。そして総労働の実質需要弾性が以下のように書けることを示します(これで求めるもの、つまり労働の実質需要関数の形が得られます)。

  $$E_r =\frac{\phi'(x)}{\phi(x)}\frac{F'(x)}{F''(x)}$$

 記号の使い方で見る限り、これと私の書き方との間に、大きなちがいはありません。ピグー教授の賃金財を私の消費財と同じだとみて、「その他財」を私の投資財とおなじだと考えれば、 $(F(x)/F'(x))$ は賃金財産業の産出を賃金単位で測ったもので、私の $C_w$ と同じです。さらに、関数 $\phi$ は(賃金財と消費財を同じだとすれば)私が雇用乗数 $k'$ と呼んだものの関数となります。なぜなら

  $$\Delta x = k'\Delta y$$

 よって

  $$\phi'(x) = 1 + (1/k')$$

 ですからピグー教授の「総労働の実質需要弾性」は、私の考案したものの一部と似ています。一部は産業の物理技術条件に依存し(これは関数 $F$ で与えられています)、一部は賃金財の消費性向(これは関数 $\phi$ で与えられています)に依存しているのです。ただし、限界労働費用が限界原価に等しいという特殊な場合に限った話だ、というのが条件です。

 雇用量を決めるのに、ピグー教授はこんどは「労働の実需」と労働の供給関数を組み合わせます。彼はこれが、実質賃金以外の何にも依存しないと想定します。でも実質賃金は賃金財産業でやとわれた人数 $x$ の関数だとすでに想定しているので、現状の実質賃金での総労働供給は、 $x$ だけの関数なのだと想定するのと同じです。つまり $n=\chi(x)$ 、ただし $n$ は実質賃金 $F'(x)$ で提供される労働供給です。

 こうしてややこしいところが一切消えたピグー教授の分析はつまり、以下の二つの等式から実際の雇用量をつきとめようとするものとなります。

  $$x + y = \phi(x)$$

 および

  $$n=\chi(x)$$

 でも未知数は三つあるのに、等式は2本しかありません。明らかに彼は、この問題を解決するため $n = x + y$ と置いたのです。これはつまり、厳密な意味での非自発ジス超がないと想定したに等しいのです。つまり、既存の実質賃金で提供される労働はすべて、実際に雇用されているということです。すると $x$ は以下の方程式を満たします。

  $$\phi(x) = \chi(x)$$

 そして、 $x$ の値がたとえば $n_1$ に等しいとわかれば、 $y$$\chi(n_1)-n_1$ に等しく、総雇用 $n$$\chi(n_1)$ に等しくなります。

 ここで一瞬立ち止まって、これがどういうことか考えてみましょう。これはつまり、労働の供給関数が変われば、実質賃金で提供される労働は増え(ですからいまや $\phi(x) = \chi(x)$ を満たす $x$ の値は $n_1+\mathrm{d}n_1$ です)、非賃金財の産出に対する需要は、この産業の雇用が $\phi(n_1+\mathrm{d}n_1)$$\chi(n_1+\mathrm{d}n_1)$ を等しく保つような量だけ増えます。他に総雇用が変わるとすれば、賃金財の購買性向と、非賃金財の購買性向がそれぞれ変わり、 $y$ の増加に伴って、それより大きく $x$ が減る場合だけです。

  $n = x + y$ という想定はつまり、労働は常に自分の実質金利を決められる立場にあるということです。ですから労働が自分の実質賃金を決められるという想定は、非賃金財産業の産出が上の法則を満たすということです。つまり、金利が常に資本の限界効率{関係} {スケジュール}に連動して、完全雇用を維持するということです。この想定がないとピグー教授の分析は崩れ、雇用量が何になるかを決める手段はまったくなくなります。ピグー教授が失業の理論を考えるにあたり、労働の供給関数変化によらない、(たとえば)金利や自信の状態の変化から生じる投資率の変化(つまり非賃金財産業における雇用の変化)をまったく考えなくていいと思ったのは、実に不思議なことです。

 ですから『失業の理論』という題名はいささか不当です。この本は実は失業を扱っていません。これは、労働供給関数が与えられたとき、完全雇用の条件が満たされたらどのくらいの雇用が発生するかという議論です。総労働実需弾性という概念の目的は、供給関数のシフトに対応して完全雇用がどのくらい上がり下がりするか、ということです。あるいは——それに代わるもっといいものかもしれませんが——この本はある雇用水準に対応する実質賃金の水準を決める関数関係についての、因果関係なしの検討だと思えばいいのかもしれません。でも、雇用の実際の水準を決めるのが何かは教えてくれません。そして非自発失業には、直接の関係はまったくないのです。

 上で定義したような意味での非自発失業の可能性をピグー教授が否定するにしても(むろん、彼はそうするかもしれません)、この分析がどう適用できるのかは、相変わらず理解できません。というのも $x$$y$ の関係、つまり賃金財産業の雇用と非賃金財産業の雇用との結びつきを決めるのが何かを議論していないのは、やはり致命的だからです。

 さらにピグー教授は、一定の制限内で労働は確かに、ある実質賃金を要求するのではなく、ある名目賃金を要求するのだということに同意しています。でもこの場合には労働の供給関数は $F'(x)$ だけの関数にはならず、賃金財の名目価格にも左右されます――結果として、今までの分析は崩れ、追加の要因を持ち込まなくてはいけなくなりますが、この追加の未知数を扱う追加の等式はありません。数学もどき手法の落とし穴は、あらゆるものを単一変数の関数に仕立てて、あらゆる偏微分(部分的な相違)が消滅すると想定しなくてはまったく先に進めないというものですが、それをこれ以上見事に例示しているものはないでしょう。というのも、後になってから実は別の変数があると認めつつ、これまで書いてきたものすべてを書き直さずに進むのはまずいからです。ですからもし労働が求めるのが(ある範囲内でなら)名目賃金であるなら、やはり賃金財の名目価格を決めるのが何かわかるまでは、 $n=x+y$ と想定したところで相変わらずデータは不十分なのです。というのも賃金財の名目価格は、雇用の総量によります。だから賃金財の名目価格が何かわからなければ、総雇用は求められません。でも賃金財の名目価格を求めるには、総雇用量が必要なのです。すでに述べましたとおり、等式が一つ足りないのです。でも、私たちの理論を事実に最も近づけるのは、実質賃金の硬直性よりは、名目賃金の硬直性という仮の想定かもしれません。たとえば、1924-34年の間の騒乱と不確実性と大幅な物価変動は、六パーセント以内の変動でおさまっていました。でも実質賃金は20%以上の変動を示しています。ある理論が一般理論を名乗るには、名目賃金が固定されている(あるいは一定範囲内にある)場合も、それ以外の場合にも同じく適用できなくてはなりません。政治家たちは、名目賃金がもっと柔軟であるべきだとグチを言ってもかまわないでしょう。でも理論家は、どんな事態であろうとも無差別に対応すべきです。科学的な理論は、自分の想定に事実がしたがうよう要求することはできないのです。

 ピグー教授が明示的に名目賃金削減の影響を扱うときには、またもや露骨に(と私には見えます)はっきりした答がまったく出せないほどわずかなデータしか提供しません。まず、限界原価が限界賃金費用に等しければ賃金費用が減らされたら非賃金労働者の所得が非賃金所得者の所得と同じ比率で変わる、という議論を否定します (前掲書 p. 101)。その理由は、これが雇用量が変わらない場合にしかあてはまらない、ということです——これはまさに議論の俎上に上がっている点です。でもそこから次のページに進むと (前掲書 p. 102) 自分でそれと同じまちがいをして、「当初は非賃金所得者の名目所得には何の変化もない」という想定を採用するのです。これはご当人がいま示したように、雇用量が変わらない場合にしかあてはまりません——これはまさに議論の俎上に上がっている点です。他の要因がデータに含まれない限り、どんな結論を出すことも不可能なのです。

 労働が実はある実質賃金ではなく、ある名目賃金を要求する(ただし実質賃金がある最低ラインを割らないことが条件)ということを認めると、分析がどう変わるかを示すには、他の指摘もできます。それを認めてしまうと、実質賃金を上げない限りこれ以上の労働が出てこないという想定(これは議論のほとんどの根底にあります)は崩れてしまうのです。たとえばピグー教授は実質賃金が所与だと想定、つまりすでに完全雇用が実現していて、実質賃金を下げたら労働は増えないという想定に基づいて乗数理論を否定します(前掲書 p.75)。この想定に基づく限り、この議論はもちろん正しい。でもこの一節でピグー教授は、実務的な政策に関わる提案を批判しています。そして統計上でイギリスの失業が2百万人を超えている(つまりいまの名目賃金で喜んで働く人が2百万人いる)ときに、生活費用が名目賃金に比べてちょっとでも上がれば、この2百万人相当以上の人数が労働市場から撤退すると想定するのは、おめでたいほど事実からかけはなれています。

 ピグー教授の本のすべてが、名目賃金との比較で生活費の上昇はどんなわずかなものでも、労働市場から既存の失業者全員を上回る数の人々が撤退するという想定に基づいていることは、改めて強調しておきます。

 さらにピグー教授はこの一節 (前掲書 p. 75) で挙げている、公共事業の結果として生じる「二次的」雇用に対する批判論が同じ想定に基づいていて、同じ政策からくる「一次」雇用の増大にとっても同じく致命的だということを見落としています。というのも、賃金財産業での実質賃金が所与ならば、雇用はどうやっても増えようがないのです。例外は、非賃金所得者が賃金財の消費を減らす場合だけです。一次雇用に新たに従事した人々は、たぶん賃金財の消費を増やし、それが実質賃金を引き下げて、つまりは(想定に基づくなら)どこか他で雇われていた労働の撤退を引き起こします。でもピグー教授はどうやら、一次雇用の増加の可能性を認めているようです。一次雇用と二次雇用を分ける一線というのは、教授のまともな常識が、教授のダメな理論を圧倒できなくなる決定的な心理上のポイントのようです。

 上で挙げた前提と分析上のちがいが、結論のどんなちがいに結びつくかについては、ピグー教授が自分の観点をまとめた以下の重要な一節を見るとわかります。「勤労者の間に完全な自由競争と、労働に完全な可動性があれば、関係(人々が求める実質賃金と労働需要関数との)の性質はきわめて簡単である。賃金は常に需要に相関して全員が雇用されるようにしようとする強い傾向を持つ。であるからして、安定な条件では全員が実際に雇用される。これが意味するのは、実際に存在する失業はすべて完全に、需要条件が絶えず変化して、適切な調整が即座に行われない摩擦的な抵抗が存在するという事実のみから来るのである」2

 そして彼は、失業というのは主に労働の実需関数変化に対して調整できない賃金政策が原因なのだと結論します (前掲書 p. 253)。

 ですからピグー教授は、長期的な失業は賃金調整によって治療できると信じています3。これに対して私は、実質賃金(これは雇用の限界的な負の効用で決まる最低基準だけが条件です)は主に「賃金調節」で決まるものではないと主張しています(ただし「賃金調節」には波及効果はあるかもしれません)。それを決めるのは主にシステムの他の力で、その一部(特に資本の限界効率{関係} {スケジュール}と金利の関係)についてピグー教授は、私が正しければ、定式化した図式の中に含めおおせていません。

 最後に、ピグー教授が「失業の原因」の部分にやってくると、確かに需要状態の変化について私と同じくらい語ります。でも彼は需要状態というのが労働実需関数だと述べ、自分の定義だとその関数がどんなに狭いものかを忘れてしまいます。というのも労働実需関数は、定義からして(上で見たように)たった二つの要因だけで決まるからです。 (1) ある環境下で、雇用された総人数と、その人たちの消費分を提供するために賃金財産業で雇用されるべき人数の関係、そして (2) 賃金財産業の限界生産性の状態。でも『失業の理論』第五部では、「労働の実需」の限界生産状態が重要視されています。「労働の実需」は、幅の広い短期間の変動を起こす要因とされ (前掲書第五部 vi.-xii章.)、「労働の実需」の変動が、そうした変動に敏感に反応できない賃金政策と組み合わさって、事業サイクルの主要原因となるのだ、と述べられています。読者からすれば、これはすべて、もっともらしくおなじみの話に思えます。というのも定義に戻らない限り「労働実需の変動」というのは私が「総需要状態の変動」で伝えたいのと同じ{類} {たぐい}のイメージを与えるからです。でも定義に戻ってみると、これはすべてもっともらしさを失うのです。なぜかというと、この要因は世界の何よりも、鋭い短期的な変動を起こしそうにないものだからです。

 ピグー教授の「労働の実需」はその定義から、 $F(x)$$\phi(x)$ だけに依存します。 $F(x)$ は賃金財産業の物理的生産条件をあらわし、 $\phi(x)$ は賃金財産業での雇用と総雇用の任意の水準との関数関係を示すものです。これらの関数のどちらも、なぜ長期的にじわじわと変わる以外の形で変わるべきなのかを理解するのは困難です。どう見ても、これらが事業サイクルの中で変動すると想定する理由はなさそうです。というのも $F(x)$ はゆっくりとしか変わらないし、しかも技術的に進歩する社会では、前進するしかありえません。これに対し $\phi(x)$ は労働者階級にいきなり倹約病が広まったり、もっと一般的には消費性向が突然変わらない限り、安定したままのはずです。ですから、労働の実需は事業サイクルの間中、ずっとほぼ一定になるだろうと予想されます。繰り返しますが、ピグー教授は分析から不安定な要因、つまり投資規模の変動を丸ごと排除しています。でもこれこそ、雇用変動現象の根底にいちばんよく見られるものなのです。

 長々とピグー教授の失業の理論を批判してきたのは、古典派の他の経済学者にくらべ、ピグー教授のほうが批判すべき隙が多いように見えたからではありません。むしろ、古典派の失業理論を厳密に記述しようとした唯一の試みがこれだからなのです。ですから、この理論に対する反対論を提起するにあたり、これまで提出された最も見事な表現に対して反論するのが、私の責務ではあったのです。


  1. 限界賃金費用を限界原価と同じだと見なす、まちがった慣行の源は、限界賃金費用という意味のあいまいさにあるのかもしれません。これは1ユニット追加する費用のうち追加の賃金費用分を差し引いたものを意味するのかもしれません。あるいは追加の産出1ユニットを、既存設備と他の未雇用要素を使いつつ、最も経済的に作ったときにかかる賃金費用のことかもしれません。前者の場合、追加の労働に、追加の事業者精神や運転資金やその他追加費用のうち労働以外のものは一切組み合わせられません。そして追加の労働が、少ない労働よりも設備をはやく摩耗させるのを含めることもできません。前者の場合、労働費用以外に何も限界原価に入れないことにしてしまったので、もちろん確かに、限界賃金費用と限界原価は同じものになります。でもこの想定で行われた分析の結果は、ほとんどまったく使い物になりません。というのも、その根底にある想定は、実際には滅多に実現されないからです。というのも私たちは、追加の労働に他の要素の適切な追加(あれば)を組み合わせないほどバカではないからでい、したがってこの前提は、労働以外のあらゆる要素がすでに最大限雇用されていると想定した場合にしか当てはまらないのです。

  2. 前掲書p.252.

  3. これが金利の反応を通じて生じるというほのめかしも示唆もありません。

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2011.12.27 YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)


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