病のくれたもの


キャシー・アッカー


訳者のコメント

 原文はこちら。版権については確認中。   プロジェクト杉田玄白・協賛テキスト yagi@love-morgue.8m.com


 自分なりに分かったことを話そう。今でも、なんだか奇妙な感じがする。自分でもどうしてこの話をするのか分からない。センチメンタルになったことは一度もない。たぶんそういうことが起きたと言うためなのだろう。

 今年、1996年の4月、わたしは乳ガンと診断された。胸部にしこりが出来たことはあったのだが、このときまでそれが悪性になったことはなかった。

 生体組織検査により、悪化した組織は5cm以下だということが判明した。

 ほとんどの病気の話と違って、これの恐ろしさの全ては始まりにある。徐々に恐怖の終わりがやってくるのだ。

 ほとんどの出来事はアメリカ国内で起きた。イギリスの通常のガン治療がこれと違っているのかどうかは知らない。

 ガン細胞が組織の隅に見つかったので、外科医は二つの選択肢があると教えてくれた。放射線照射治療か、放射線を使わない少々過激な乳房切除。組織の大きさと検査の結果 を聞かされ、その医者によれば統計ではガンが転移する可能性は30%しかないそうだ。もし転移していなければ、化学療法の必要はない。

 わたしはガンが怖かった。だが化学療法はもっと恐ろしかった。

 その頃わたしはアートカレッジで非常勤講師をしていたので、医療補助を受けられなかった。医療保険にも入っていなかったので、全額自分で負担しなければならない。放射線治療だけでも2万ドル、片方の乳房切除で4千ドルだ。もちろん、その他の出費もある。わたしは両乳房の切除を希望した。片方だけしか乳房がないのはいやだったから。その費用は7千ドル。それは払うことができた。乳房再生には、わたしは興味がなかったが、2万ドル以上かかる。さらに化学療法は2万ドル以上する。当時住んでいたカリフォルニアのベイエリアでは、これも統計によれば7人に1人の女性が乳ガンの陽性なのだそうだ。栄養士の友人が、専門家はこの数字が3人に1人まで上昇すると予測しており、ジョージア州アトランタの医療センターが調査に乗り出していると話してくれた。このことはメディアでは全く報じられていない。

 公式の発表でも、北アメリカの乳ガンの発生率は世界で最も高いとされている。しかも、なぜそんなに多くの女性が、そのほとんどが白人のキャリア・ウーマンなのだが、乳ガンに罹るのかは不明だ。

 西欧の製薬業界の世界では乳ガンは巨大な市場である。アメリカにおける2大産業は兵器と医薬品で、ガンの研究と治療は製薬業界の屋台骨を支えている。

 ガンと診断されてから、かかりつけの鍼灸師兼分析医と栄養士に相談した。彼らとは6年の付き合いになる。栄養士は抗酸化ダイエットを勧めてくれた。鍼灸師兼分析医は、自分にできることはなにもない、鍼はガンには効かないと通 達してきた。

 両乳房切除の手術は3週間後、4月の最終日に行われた。生体組織検査をしたのと同じところで、サンフランシスコでは一番の病院だ。料金を前払いしてから案内された待合室も暖かくて居心地がいい。こっそり設備をチェックしてみる。電話とテレビ、わたしのストリート風衣装の掛かったクローゼット、個室バスがある。予備段階のテストと準備のために主治医の代わりにきた看護婦たちも親切で気さくな感じだ。

 この看護婦の一人が、わたしの手術が1時間繰り上がったと教えてくれた。10分後、わたしは元気だから要らなかったのに彼女はわたしを車椅子に乗せて、ホールを抜け、エレベーターを降り、さらにホールを抜けて2番目のエレベーターの壁際まで連れて行ってくれた。周りの壁とその飾りが木目と落ち着いた赤で可愛い。

 今度は見覚えのない看護婦が、エレベーターの大きなドアを2つ通って暖房の効いていないホールにわたしを運んだ。いろんな緑の帽子や緑の服を着た人影がわたしについて来る。

 ここにいる間、その緑の人影の1つがわたしに静脈注射されている液体にプレ麻酔剤を注入した。彼女がその液体を挿入するとすぐに、頭の付け根のあたりが寒くて気持ち悪くなって、自分が食べられているみたいだった。脳が吐き気を催す。ここにいたくないのは分かっていた。それからもう自分の気持ちを決めたんだから逃げられないのも分かっていた。

 この間中、この人影がかぶっているのと同じシャワーキャップみたいなものが頭にかぶせられていた。それが目を覆うのでなにも見えない。取り外せない宝石類とその周辺の皮膚がセロテープでぐるぐる巻きにされる。なんだか自分でもよく分からなくなっていった。

 次の部屋は広くてホールより寒い。その真ん中に一部がテーブルで一部がベッドになっているなにかが置いてある。スース博士の動物たちみたいな機械がそれにつながれている。その上に乗って仰向けになるように言われた。

 通常のガン治療というものについてできるだけ正確に描写したい。しかし、空恐ろしい詳細については忘れかけてしまっている。

 細いストラップが手と足に装着され、きつく締め上げられた。「なんでこうしてるの?」と聞いたのを覚えている。「あなたに自分を痛めつけて欲しくないからですよ」鎮痛剤が効いているときにどうやって自分を傷つけられるのかいぶかしんでいると、スチールのコードに繋がれた赤い吸盤が胴に取り付けられた。周りにいる人影のひとつが、最後に食事したのはいつですかと尋ねた。言われた通 りに深夜にと答えた。飲み物はどうか聞かれた。起きたときに水をちびちび飲んだのを思い出した。わたしに質問して答えをノートに書き留めている人が、水を飲んでいると麻酔のせいで手術中に戻してしまい、それで窒息してしまうので危険だと言った。

 わたしは怖くなった。

 意識が戻って最初にしたのは、記憶では、できるだけ早くこの病院から出ていきたかったので立ち上がろうとしたことだ。医療保険が使える人だけしか入院して宿泊することができないので、たとえそうしたくても夜はここでは過ごせない。でも立ち上がれなかった。階段の下では彼氏がタクシーでわたしを待っている。吐き気と戦っている間に用務員がそこまで運んでくれた。

 次に起こったことはまるでお芝居だったみたいに覚えている。

 担当の外科医は手術の前に、退院した次の日からエクセサイズを始められると言った。でも2日経ってもまだ左腕が動かない。その日わたしは外科医のオフィスで病状報告を受けるよう連絡された。バイクの後ろに彼氏を乗せて出かけていった。

 外科医のオフィスにて。

外科医「ちょっと(ガンに罹ったリンパ節について)状況を説明したいんですが、われわれはみないつか死にます・・・」

わたし(途中で遮って)「リンパ腺にガンが広がる可能性はほんのちょっとしかないって言ったじゃない・・・」

外科医「手術の前にはそう言いました。でもいまは違うんです。説明しますからお分かりいただけるでしょう。われわれはいつか死にます。20歳で死ぬ 人もいれば、5歳で・・・」

わたし(途中で遮って)「わたしが死ぬっていうんですか?」

外科医「いいえ、あなたが死ぬと言っているわけではありません。この状況を理解していただきたいんです。ここから出て二度とガンなんかにならずに済むチャンスがあります」

わたし「どんなチャンスが?」

外科医「統計によれば、あなたのような段階のガンは再発しない可能性が60%もあるんです。化学療法を受ければ、最も信頼できる統計ではその可能性は70%にもなります」

わたしの彼氏「化学療法でも10%しか可能性は変わらないんですか?」

外科医(残念そうに)「この段階のガンには化学療法しか他に打つ手がないんですよ」

わたし「ガンとリンパ節について教えてください。もしわたしのガンがそんなに進行しているなら、どうして胸の組織に他のガンが見つからないんですか?リンパ節って体のフィルターの役目を果 たしているんでしょ?腫瘍が見つかる前からスーパー・ハイ・抗酸化ダイエットをしているんだから、リンパ節はちゃんと機能を果 たしていないなんておかしいじゃなんですか?病んだ細胞を取り除いているから、ガンに罹ることなんてあり得ないでしょ?」

外科医「残念ながら、研究や私の知る限りでは、ダイエットとガンにはなんの関係もないんです。同じく環境破壊とも関係がない。本当のところ、ガンの原因は分からないんです」

 物事をはっきりさせるために、できるだけ正確にこのときの会話を再現しておいた。大事なのは理解することだ。このオフィスを出るとき、このまま通 常の医療を受けていても、すぐに病気よりもたちの悪い、死んだ肉塊になってしまうと悟った。ふつうの治療というのはわたしをすぐさまモノでしかないただの肉体、意志とは関係なく希望もなにもありはしないひとつの身体にしようとしていた。恐怖で想像力やヴィジョンから切り離され、言われたことは何でもする操り人形に。

 別の言い方をしてみよう。外科医のオフィスから出てきたとき、わたしは死にかけているんだ、どうしてなのかもわからずに死ぬ んだと思った。わたしの死、そして生は、無意味なんだと。

 通常の西洋医学の実践においては、人がモノとなることも必要とされる。

 とにかくわたしはそう思われていた。わたしは生きたかった。生きることは活きることであってモノに成り下がることではない。化学療法を受ける理由などどこにもありはしない。

 料金を払う以外は、二度とこの医者のもとを訪れることはなかった。

 ガンに打ち勝つ方法を探し求めるのは、今や意義のある生と死を探すこととなった。普通 の医療で手にはいるような生、その人の生きる意味やその人自身が、たとえ医者であれ他人の言うことやすることにすっかり依存してしまっているような人生ではなく。

 そのときは知らなかったが、わたしはすでにあることを学んでいた。信じるままに生きること、信念は身体と等価であること。

 わたしのガンで一番辛いのは外科医や普通の医療と決別してしまうことだった。通 常の医療を信頼すること、医者が話してくれたことを信じることはわれわれの社会に深く浸透しているので、医療の拒否はノーマルな社会から決別 することだ。大勢の友達が電話してきて、化学療法を受けるなと泣いたり喚いたりした。

 友達の混乱は医療の世界の混乱を映し出している。今日ではアメリカは健康問題は深刻になっており、それは倍加している。通 常の医薬品を扱う開業医には特効薬が分からないガンやエイズ、その他の免疫疾患のような流行病が一般 大衆を殲滅している一方で、製薬業界は苦しんでいる人々をほとんど気に掛けもしない。普通 の治療法が分からないからではない。医療保険が適用されるのはほんの一握りであり、金持ち以外の全ての人々に医者や看護婦、医療施設が不足しているからだ。事の重大な過ちに直面 すると、わたしの担当医のようなほとんどの医者は「化学療法にしましょう、他の方法は分からないんですから」と言う。医者は自分が大いに混乱しているのだとは認めようとしないだろう。

 その外科医から立ち去ったものの、ではどこに行けばいいのかは見当が付かなかった。

 5年間わたしの栄養士をしていた男のところに行き、この街で一番の栄養士を教えてくれと頼んだ。

 その一番の栄養士はわたしの病歴を読んで「ガンをやっつける方法は一つだけですね」と言った。

 「それは何?」

 「何がガンを引き起こしたのか見つけるのです」

 それから彼はわたしにお祈りするようにと助言した。

 そのオフィスから出た時、わたしは怒り狂っていた。誰も何がガンを引き起こすかなど分かりはしない。この出来事は心に残るものになった。

 自分の内面を見つめるよりも、わたしは誰か頼れる人を捜していた。

 自分の時間は限られているという恐怖感に駆り立てられて、代替医療やガンの補助的な治療法を出来る限りたくさん学ぶことにした。当時の掛かり付けだった鍼灸師に無理を言うと、彼は最も広く受けいられれている代替医療のガン治療はガーソン・メソッドだと教えてくれた。マクロバイオニック・ダイエットの出現まで、ガーソン・メソッドはアメリカで最もよく知られたガンに対する栄養療法だった。

 1946年の11月、アメリカ医師会はおおっぴらにマックス・B・ガーソン医師を攻撃した。続いて彼のプロとしての評判を失墜させ、医療事故の保険加入を拒んだ。ガーソンはメキシコに移住せざるを得なくなった。今ではガーソン協会は彼の娘のシャーロット・ガーソンによって運営され、カリフォルニアのボニータとメキシコのチュワナで活動している。

 国内で著名になったオルタナティブなガン治療の研究員や開業医のほとんどは、アメリカ医師会になんらかのかたちで嫌がらせを受けたり、直接脅されたりしている。今のアメリカで最も著名なガンの研究者であるスタインスロー・ブルジンスキー医師はペプチドの示差のパターンを調べることで研究調査を始めた。彼の手によるガンの平癒は議会の聴聞会の後で「奇跡である」と大げさに言い立てられ、彼は自分が医師会の制度の外側にいて、もう資金の提供も受けられないと思い知らされた。アメリカでは通 常、巨大な犯罪は2度の大陪審による聴聞会にかけられる。ブルジンスキー医師はこのような研究に対する調査を5度も受けたので、『ガン産業』の著者ラルフ・W・モスも含めたこの分野の関係者の多くに感銘を与えた。

 ガンはビジネスなのだ。

 オルタナティブなガン治療の情報を集めるのが難しいならば、それぞれの治療法を評価検討するのはさらに難しく、実際に不可能なことだ。普通 のガン治療を捨て去るのは自分が合法と非合法の無人地帯にいると知ることだ。2週間に渡る懸命の調査の後で、わたしは始めたときよりも絶望に陥っていた。

 「どうしてガンになったのかを見つけださないといけない」という栄養士の言葉はわたしの脳に突き刺さった棘だった。

 この時点からわたしは自分の馴染みの社会から完全に歩き去った。わたしは信仰の世界に飛び込み、ここ1年ほど一緒に仕事をしていたフランク・マリアーノという霊媒にすがって彼に助けを求めた。

 彼はわたしをジョージナ・リッチーに引き合わせた。

 フランクと、それからジョージナにすがるようになり、そうなってからわたしは自分を自らの死と、その死の無意味さに直面 して、心霊の世界にすがる人と見なすようになり、それから笑った。

 自分のガンのことで相談する前に彼女を知ってから1年にもなるのに、わたしはジョージナ・リッチーのことをほとんど知らなかった。

 彼女自身が言うところでは、ジョージナはずっと「自分の家族と同じように、クラスのみんなが期待するように」振る舞ってきたのだという。コロンビア大学の姉妹校であるバーナード・カレッジの経済学部を卒業してすぐに、彼女は「まっとうな」夫と結婚した。有名なハリウッドの映画監督である。

 「いい娘はみんなそうだけど、わたしも夫に内助の功を尽くすようにって言われたわ。だからわたしは写 真の勉強をすることにしたの」

 彼女の知り合いだったサンフランシスコにある人間性の心理学の学校に勤務していた教授がインカ帝国のかつての姿を調査して、それと同時に他の場所で心霊療法師に会う遠征隊に彼女を招いたとき、スミソニアン博物館は彼女が自分の見るものを全て写 真に収める役割を依頼した。

 「メキシコ・シティーでは、錆び付いたナイフで腎臓移植が行われたのを見たわ。そのナイフは脊椎に刺さって切断したの。病気の腎臓が取り出されて、健康なのがはめ込まれたのを見た。手術の後、心霊術だったから、患者はただ歩き去って行ったわ。彼女は何も感じなかったの。わたしの知る限り、彼女はまだ生きてる。この写 真はみんな持ってるのよ。サンパウロに診療所を開いていて、他の場所でも心霊療法で脳外科手術をする治療師を見たことがあるわ。彼はハーブの混合薬を使っていて、わたしは彼が手で傷口を閉じるのを見たの。それから、ブラジルのジャングルに精神分裂病患者の複数のエゴを合体させる治療師がいた」

 「あなたはずっとシャーマニズムに興味があったんですか?」

 「この旅行に出る前は、誰かにあなたはこの手のことに関わり合いになるでしょうと言われたとしても、怯えてしまったでしょうね!わたしが今やっているようなことに覚悟を決めさせたのは、西洋医学の健康的な懐疑だけ。わたしの父は医者だったのよ」

 遠征隊一行がこの旅行からサンフランシスコに戻ると、ジョージナが「彼は変人だから」と名前を明かそうとしないこの教授は、彼女を自分の庇護下に置いた。彼はジョージナに、トランス状態になることも使って、どうやって患者の子供時代から前世の抑圧まで導くかを教えた。彼が患者とのセッションをしなくなり始めてから、事実上ジョージナが彼の患者の面 倒を見るようになった。その当時、彼女はアレルギーに悩まされていた。それを直せなかった医者が、彼女が自分で自分を治すことが出来るのを見て、自分の患者を彼女の元に送るようになった。

 ジョージナはわたしと一緒にワークをすると話してくれて、グレッグをわたしの元へ送った。

 グレッグ・シュルケンとの出会いはわたしがあるスクールへ入るきっかけになった。大人になってからずっとボディービルディングのようなことをしていたわたしが、自分の身体について学ぶスクールである。このスクールで出会った人々から二人を紹介したい。

 グレッグは大きくて、中西部の農夫のような外見の紳士だ。元々は彼はアーティスト志望だった。ダートマス大学で美術史を専攻した後、彼は日本に渡りアートを学ぶことにした。

 詳細不明の腹部の感染症を病んだグレッグの母親が、彼がカレッジを卒業した次の年に、フィリピンにいる治療師のところへ行くのに同行してくれないかと頼んできたとき、彼は後に自分の仕事となることを最初に経験することになった。治療師は母の感染症と息子の偏頭痛を治してしまったのだ。「自分の経験していることは否定できなかった」とグレッグはわたしに言った。

 一徹さと、まだアートを学びたかったこともあり、グレッグ・シュケルマンは日本に旅行した。そこでロドニー・クラッドウェルというイギリス人のアーティストが彼にヘンリー・ムーアと仕事をしたいのだということを教えてくれた。シュルケンはムーアに手紙を書き、それから1972年に彼の元を訪れた。「彼は僕の人生で最も重要な人の一人だ」とグレッグは言った。

 ムーアはこの元大学生に、自分の仕事を離れた方がいいだろうが、それでもムーアは彼を見習いとして受け入れようと話してくれた。順番を待っている人もいたので、一年から一年半の後に。

 「まだ治療師というのに引っかかっていて、僕は彼らのことをフィルムに収めたかったから、フィリピンに舞い戻ったんだ。もう帰ろうとした二日前、プラシードに出会った。彼は「ある使命を帯びて」丘に三日以内に出かけるところだった。僕は一緒に行けないかと頼んだ。なぜだかは分からない」

 シュルケンは自分は五日間山籠もりするのだと思っていた。実際は何年もそこにいることになったにも関わらず。その後に、患者に招かれて北カリフォルニアに向かったのだ。彼の技術は口コミですぐに患者を集めた。現在20年も北カリフォルニアで治療を実践していて、タイムを含む様々な雑誌に紹介されている。

 わたしはグレッグに、彼が正確には何をやっているのか尋ねた。

 「見て、聞いて、質問することで、僕はエネルギーを、患者がどんな風にせき止められているのかを感じ取る。僕はエネルギーを自由に流れさせたいんだ」

 「どうやってやるの?」

 「それはきみの身体次第だね・・・」グレッグは躊躇した。彼はわたしに理解できることだけを話しているというのは分かっていた。彼はいつも教える側なのだ。「これが何なのか何もかも教えてあげよう」わたしは「それ」で彼は病気のことを話しているのだと思いこんだ。ここでは人生と同等のものである病気とは、身体にとっては常に変化するもので、われわれが病気と呼ぶものを経験しているのである。「これは学ぶということなんだ。われわれは生きている、だから学ぶことができる。身体は憐れみについて学ぶことへの挑戦の一部分なんだ」

 「われわれが病から学ぶのは、病は贈り物だということ」

 わたしはグレッグに、健康とは何なのか聞いてみた。

 「健康は形のある存在だ。身体の調子が『いい』とか『悪い』とか言うけど、それはただ『いい』とか『悪い』とかいうことを仕立て上げているだけなんだ。僕らは身体に価値判断を当てはめている。だけど、実際は身体の言うことに耳を傾けてあげなきゃいけないんだ」

 「あなたはわたしの身体の言葉で教えている、そういうこと?」わたしはグレッグがわたしにこの数ヶ月間してくれたこと、あるいは共にしてきたこと?を理解しようとしていた。

 「それが最初のステップだよ」

 「次のステップは?」

 「意識を集中させること。そうやって症状を取り除くんだ」

 「その次のステップはあるの?」

 「きみは、良くなりたいと望まなければいけない。何が良くなることなのかを学ばなければならない。それには一生、あるいは五回分の人生ほどもかかるだろう」彼はその簡明な口調で答えた。

 わたしが最初にグレッグとジョージナと一緒にワークを始めた頃、わたしはなぜ自分がガンに罹ったのか分からず混乱していた。三週間後、わたしは因果 の連鎖をはっきりと目にして、なぜ自分がもっと病に犯されていないのか不思議に思った。ジョージナはわたしに、もし健康が許しの上に成り立っているものであれば、わたしは自分自身を許してあげないといけないということを思い出させてくれた。もう一度、わたしは健康とは何なのか尋ねた。

 「身体は特にトラウマをはっきりと覚えているものなのよ」ジョージナは考えていることを声に出して言った。「そして、そんな記憶をかさぶたみたいに、傷口みたいにして持ったままでいるの。病気っていうのは、身体の調和が取れていなかったり、身体に沈滞するエリアがあるときのこと。誰かを癒しへと導くために、なぜならわたしはグレッグがするよりもずっと口頭でのワークが多いからですけれど、わたしは過去を振り返って定位 させるのよ。子供時代や前世に抑圧を体験することで、人はそのトラウマの全病床などを定位 できるようになって、そんなことを気に病まなくなるの。簡単に言えば、お母さんやお父さんを責めるのを止めて、もっと二人を広い視点から眺めるようになる。あらゆる癒しは許しに関係があるのよ。健康な人というのは『今やらなきゃいけないことから自分を遠ざけるような過去の心の傷なんかもうないんだ』と言える人のこと」

 「健康って何?」わたしはもう一度尋ねた。

 「調和の取れた身体」

 「心はどうなの?」

 「心は身体のいたるところに存在する」

 サンフランシスコでグレッグとジョージナ、それからグレッグの前の生徒で、今はわたしに、目の前にない物体の影像を心に描くことを通 してどうやって自分のエネルギー・センターを調べるかを教えてくれていたエリー・ウッズとワークを行っている間、わたしはあるイギリス人と恋に落ちた。治療師たちがわたしが健康に向かっていると教えてくれた7月の終わりに、わたしはロンドンに移った。

 ここでわたしはケン・ロイドという中国人の漢方医とベヴァリー・カッツという脳神経のセラピスト、医療補助員のスティーヴン・ラッセルと一緒にワークを始めた。

 ラッセルは明らかにこのグループで一番多彩な人間だった。大学の最初の学期の後で、彼は自分は世界を股に掛けていたいと思ったので、スティーヴンはイタリアのファッションをロンドンに輸入する仕事を始めた。彼がR・D・レインに会ったとき、彼はレインに生徒になりたいと申し出た。

 「弟子は取らないんだ」とレインは答えた。

 「あなたはわたしの先生になるんです」スティーヴンは主張した。

 ロニー(レイン)は笑って承諾した。

 二人は週に二度、一度はレイン風のセラピーに、もう一度は議論のために顔を合わせた。

 当時1979年、ロシアはアフガニスタンに侵攻した。たぶん奇妙なことに、核攻撃で世界が終わると信じたので、ラッセルは家族をアメリカに移住させるためにイングランドとR・D・レインとの研究、自分の仕事を捨てた。彼はアメリカでフランク・ウォーターズがインディアンのホピ族についての自著で言及しているホピ族の預言者、トーマス・ベニヤカに会いに行くつもりだった。

 1万1千マイル以上も旅して、ラッセルは探していた男を見つけた。「私は彼に世界は終わるのかと尋ねた。するとトーマス・ベニヤカは『いいや、われわれの祈りはこの大難を去らせる』と答えた。それから彼は『お前は立ち去って、他人を癒す前にまず自分自身を癒さなければならない』と言った。当時、私は治療師という言葉を、自分がなるものとして考えたことはほとんどなかった。ただ解決の手段を求めていただけだったんだ。この男は私に自分が何になるのかを教え、それで立ち去らねばならないと話したんだよ」

 スティーヴンはメキシコのタオスに赴き、一心にワークに取り組んだ。彼はアメリカ・インディアンの治療師ジョー・サワッソとサンフランシスコの漢方医ハン・トウに学んだ。言うまでもなく、有名なライヒ派のセラピスト、モルガン・シャノンにも。

 それぞれが異なった訓練を受けていたにも関わらず、シュルケンもリッチーもラッセルも病気については同じ仕方でしゃべった。「病はエネルギーがせき止められることから起こるのだ」とラッセルは言った。「私はその障碍を取り除くことか、エネルギーがまた自由に流れることが出来るようなバイパスを見つけることで患者を癒す」

 「どうやってやるの?」スティーヴンは何度もわたしに施術して、あるいはわたしと一緒にワークに取り組んでいたのに、わたしは彼が何をしてくれているのかはっきりとは言えなかった。

 「人は誰にでも二つの自我がある。ひとつは限られた、もう一つは傑出したものと。傑出した自我の方はいつも見ている存在なんだ。私は人が、もし可能ならば、自分で自分を癒す方法を見たり探し出したり出来るようにするために、そこまで到達するのを手助けしている」

 グレッグが病気のことをまるで学校のように話してくれたのを覚えている。彼はわたしにどうやって自分自身を癒すのかを教えていると言っていた。

 「もう一つ言っておきたいことがある」スティーヴンは言った。「もし全体という観点から見るなら、全体というのは共同作用なんだ。宇宙全体は常に動いていて、自身を癒す。その全てが信仰に繋がる」

 そうなのだろうか。わたしは、たぶん自分がどんな風に癒しということを理解しているのかを自分自身に聞き忘れたままだったといっているのであろう治療師たちの言葉を一生懸命聞いていた。

 外科医のオフィスを去って、どこに行けばいいのか分からないでいたとき、わたしは自分が何を知ることが出来るのだろうかと自問していた。わたしには自分の中に、自分の生の中に何か自分が知ったり、またガンと折り合いをつけたりするのに役立つようなものを持っているのだろうか。

 わたしの答えは、知るためには強さが必要だということ。それでは、わたしの強さとはどこにある?答えは、わたしの仕事に、書くことに。

 わたしが書くのに用いるのは?想像力と意志。

 想像力は外科医の破滅的なトーン以外の何かを思い描かせてくれる。意志はわたしの想像を実現させる。わたしは信仰へと飛び込み、ジョージナの元を訪れ、それからグレッグとエリーの扉を叩くことが出来た。

 わたしは癒しについて話し合っている。グレッグは言った。「まず最初に、人は善くなりたいと望まなければならない」

 この「信仰に飛び込む」というのはどういうことなのだろうか。ジョージナにガンと闘うのを手助けしてくれないかと頼んだとき、彼女はそれを承諾して言った。「あなたはあなた自身の癒しを創造するのよ」ほとんどの人が医者は病気を取り除く方法を知っているのだと思うように、わたしは人が肉体の苦痛を治してもらうために医者に頼るということを軽く見てしまっていた。普通 の医者はもう信じていなかったのに、自分自身のことはさらに疑っていたのだ。ガンのように深刻な病気から自分を癒すにはどうすればいいというのだろうか。わたしはジョージナは狂っていると思った。

 わたしの「信仰に飛び込む」こととは、自分は癒されることが出来るのだと信じること、自分で自分を癒すことが出来ると信じることだ。外科医のところでそうしたように、他の誰かを信じる必要なしに、自分の人生でもって自分を癒せると。つまり、自分のことは自分で責任を持つのだ。ジョージナは正しかったということが分かった。わたしは癒されるために癒さなければならない人間なのだ。

 癒すために、わたしはいくつかの基本的な医学的パラダイムに疑問を持ち、そして諦めさえしなければならなかった。今のわたしにとって、医者は治す側ではなく、グレッグが言うように、誰も人生を治すことなど出来はしないのだ。医者は手助けしてくれる人であり、教師であり、医者と患者の関係は医学的であるのと同様にスピリチュアルなものなのだ。しかし、最もラディカルなパラダイムのシフトは身体に関することである。わたしが取り組んできて、今でも続けていて、わたしになされてきたヒーリングは、身体的であるのと同じくらい精神的、霊的なもので、わたしは自分の身体を複数の観点があるものとして、あるいは互いに関連した肉体として、魂として、エネルギッシュあるいはエモーショナルなもの、そして物的なものとして経験した。わたしは内臓や組織、細胞が物理的に身体の上に、それからその中で起きたことを記憶しているのを見た。肉体はただその物理的な観点からすれば、他の全ての実在物から自律した実在物であることを体験した。

 最後のパラダイムのシフトは「医者に掛かること」またはヒーリングに関することだ。かつて、なんとか打ち勝ってやろうとしてきた外科医のオフィスや通 常の医療の世界から歩き去り、誕生や子供の頃、それと同様、死について考えることから生まれた恐怖、最悪の恐怖を越えて、わたしはただ知的な興奮と喜びを感じた。

 グレッグに出会って身体のスクールに入ったとき、わたしは自身を学ぶスクールに入ったのた。わたしは自分が無理矢理ガンに向き合っているのだと思っていたが、実は自分自身に向き合っていたのだ。わたしにはもうガンはない。内面 を癒すことは常に壮健な自身を癒すようになることなのだ。

 過去9ヶ月間に起きたことを書き記した。わたしはまだほんの少ししか理解してはいないけれど。

キャシー・アッカー 1996


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