プロジェクト杉田玄白正式参加テキスト
エドガー・アラン・ポー
訳:李 三宝 <ICG01127@nifty.com>
© 2002 李 三宝
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本当なのです。私は神経質に、それもかなり酷い神経質になっていたのでございます。それは今も続いております。それなのに、どういうわけ理由であなた様は私の気がふれているなどとおっしゃるのでしょうか? 病気のせいで神経が過敏になっていただけのことでございます。私の精神は鈍りも壊れもしてはおりません。何よりも聴覚が人一倍鋭くなっていたのです。私には天上と地上のどんな音でも聞き取ることができました。地獄の音もたくさん耳にしました。それなのに、どうして私の気がふれているのでしょうか? それなら、どうぞよくお聴きになって下さいませ。私がいかにまともに、いかに落ち着いて事の一部始終をお話できるかお聴きになるとよろしいでしょう。
どうしてこういう考えが最初に頭に浮かんだのか自分でもわかりません。でも、いったん思いついてしまうと朝から晩までその考えが頭について離れなくなってしまったのでございます。目的などあろうはずもございません。怒りで恨みが募っていたいうわけでもないのです。私はあの老人を愛しておりました。老人から不当な扱いを受けたことはついぞございません。私を侮辱するようなことは決してございませんでした。あの老人の財産がほしいと望んだこともありません。ああ、そうです、あの老人の目だったのです! そうですとも。まちがいございません。あの禿鷹のような眼、膜の張ったどんよりとしたあの眼なのでございます。あの眼で見られると決まって体中の血が凍り付いてしまったようになるのです。そういうわけで私は徐々に、次第次第に、あの老人の命をうばってやろうと心に決めたのでございます。そうすれば永久にあの眼から逃れられるのですから。
さて、ここが肝心なところでございます。あなた様は私が狂人だと思っていらっしゃる。、狂った人間なら何もわかりはしないでしょう。そうお思いなら、私を見ていただけばよかったのです。私がどれほど賢く立ち回ったか、用心には用心を重ね、先の先まで考えて、老人に気づかれぬようどんなにさりげない風を装って行動したか、見てくださればよかったのです。あの老人を殺すまでの一週間ときたら、私はこれ以上ないくらい老人に優しく接しました。そうして毎晩、真夜中頃になると、老人のいる部屋の扉の掛け金をはずして開けたのです。そおーっとゆっくり静かに、私の頭が差し込めるくらい開けて、一筋の光も漏れないようにすっぽりと全体に覆いを掛けた真っ暗なカンテラを差し入れて、それから自分の頭を中に入れました。きっとこれをご覧になったら、なんて上手い具合に頭をいれたんだ!とお笑いになるはずですよ。私は自分の頭をゆっくりと、それはそれはゆっくりと動かしました。ですから間違っても老人の眠りを妨げるようなことはなかったと思います。扉の隙間から寝台で眠っている老人の姿が見えるくらいまで自分の頭をいれるのに、一時間もかけました。どうです! 狂人にこんな賢いまねはできないでしょう。そうして、首から上だけ部屋の中に入れてから、ランタンの覆いをそろそろと外しました。本当にゆっくりと慎重に外しました。(ランタンの要が軋むものですから)。細い一条の光の筋が禿鷲のような目の上にかかるまでランタンの覆いを開けました。私はこんな事を七晩も続けて、それも毎晩、きっかり深夜の12時に、でも自分の目はいつもしっかり閉じておりました。ですからそんなにすんなりとは事が運ばなかったのです。私を苦しめたのは老人ではなく、あの身の毛のよだつ目なのでございますから。というわけで、毎朝、夜が明けますと、思いきって老人の寝所へ入っていき、優しい声で老人の名を呼び、昨晩はよくお休みになれましたかとあえて聞いてみたのです。私が深夜の12時に、老人の寝姿をのぞいていたのではないかなどと疑っているようなら、かなり感の鋭い老人ということになりましょうが。
8日目の晩、いつにも増して慎重に寝所の扉を開けました。私の動きに比べたら、時計の長針のほうがもっと速く動いたはずです。この晩ほど、自分の能力のすごさ、自分は何て賢いのだと思ったことはございません。勝ち誇った気持ちを抑えきることができないくらいでした。私が老人の寝所にいて扉を少しずつ少しずつ開けているということ、私の密かな行いも考えも老人は夢にも思っていないのでございます。こういうことを思って一人でほくそ笑んでおりました。でも、笑い声が聞こえたのでしょうか。老人がびっくりしたように急に寝返りをうったのです。私が後じさりしたのだろうとお思いでしょうか。いいえ、とんでもございません。老人の寝所は漆黒の闇、真っ暗なのでございます。(窓は盗人に入られることを心配して、よろい戸でしっかりと塞いであります)。ですから扉が開いているのを老人に気づかれるわけはないと思い、あわてないようじわじわと扉を押し続けました。
頭だけ中に入れてランタンの覆いを外そうとしたとき、ブリキの留め金の上で手がすべってしまい、と、その時、老人が起きあがって「誰だ」と怒鳴ったのです。
私は物音をたてないようにじっとして声も出しませんでした。ゆうに一時間もの間、筋肉ひとつ動かさずにおりましたが、老人が寝床に身を横たえる音も聞こえてきませんでした。耳をすまして、ずっと身体を起こしていたのです。ちょうど私のしていることと同じように、夜ごと夜ごと、壁の中の死番虫の立てる音に耳を傾けていたのでございます。
そのうちに、微かなうめき声が聞こえてきました。その声は死に対する恐怖からでたうめき声だということがわかりました。苦痛や苦悩でうめく声ではございません。恐れが限界を超えたとき、魂の奥底からわき上がってくる息を押し殺したような低いうめき声です。私はこの声をよく耳にします。それは私の胸の内から沸き上がってきて、恐怖が恐怖を生み、半狂乱になりそうな恐ろしさを募らせていくのです。私がよく聞く声なのです。そして、老人が何を思っているかもわかっておりました。私は内心では面白がっていたものの、老人に憐れみを感じていました。最初に微かな物音を耳にして、床の中で寝返りをうってからというもの、ずっと眠れずにいたようでございます。それ以来、恐怖心がどんどん大きくなってきたのでしょう。偶然のいたずらだと考えようとしたのでしょうが、できないのです。それで自分にこう言い聞かせているのです。「今の音は暖炉の煙突に風が吹き込んだだけだ。床の上をネズミが通っただけだろう。」とか、「コオロギがちょっと鳴いただけのことだ」と。こういうふうに考えて自分で自分を慰めていたのです。でも、こんな事をしてみたところで、何にもなりはしないのです。何をしても無駄なのです。というのも老人に忍び寄ってきた死に神が黒い影であたりを覆い、老人を影の中に封じ込めてしまっていたのですから。老人の目に見えずとも、耳に聞こえずとも、私が寝所に頭を入れているということが老人に感じられるのは、この姿の見えない影が発する力のせいなのでございます。
老人が床に横になる音も聞こえぬまま、ずいぶん長い時間じっと辛抱して待っていたのですが、私は、少しだけ、本当にほんの少しだけランタンの覆いを開けてやろうと決心しました。そして覆いを外しました。どれくらいそろそろと、密やかに外したかとてもおわかりにはなりますまい。そしてやっと蜘蛛の糸かと見紛うほどの一筋のぼうっとした光が外した覆いの隙間から漏れて、禿鷲のような目の上一杯に射したのです。
目は開いておりました。大きくぱっちりと見開かれていたのでございます。その目を見つめていると、腹の底から激しい怒りが沸々と沸き上がってくるのです。私には老人の目がはっきりと見えたのです。骨の髄まで凍り付くような眼、気味の悪い膜のはったどんよりとして生気のない碧い眼。私には老人の顔も身体も見えません。上手く理屈で説明できないのですが、本能といいましょうか、私は真っ先にあの忌まわしい眼に光りを向けてしまっていたのです。
あなた様は私のことを狂人だと勘違いされておいでのようですが、それはただ私の神経がひどく過敏になっていただけのことなのだと先ほどお話ししたと思いますが。今度は低く、鈍い、気ぜわしい音が聞こえてきたのです。時計を綿でくるんだような音です。この音も私がよく耳にする音でした。その音は老人の心臓の鼓動なのです。太鼓の音で兵隊達が奮い立つように、その音は私の怒りを煽るのです。
それでも私は気持ちを抑えてじっとしておりました。息も止めていたくらいです。ランタンも揺らさないように持っていました。光線を眼に当てたまま、どうやったらこの状態でじっとこらえていられるか必死だったのです。その間にも、心臓の気味の悪い脈動は大きくなっていきました。脈動の間隔は次第に短く小刻みになり、いよいよ大音響になってきたのです。間違いなく老人は極度の恐怖感で怯えていたのです! 私は神経質な性分だとお話ししたことを気に留めていただいてますでしょうか? 全くその通りでございます。夜中の全てが寝静まった時刻に、あの古びた屋敷の恐ろしい静けさのただ中で、あの異様な音がいても立ってもいられないほどの恐怖心を煽るのです。それでも数分間は自分の気持ちを抑えてじっと立っておりました。ところが鼓動はどんどん大きく高くなっていくではありませんか! 心臓が破れてしまうと思いました。と、今度は今までとは違う不安に襲われたのです。この音はきっと隣家の住人にも聞こえてしまう! もう来るべき時が来たのだ! 私は大声をあげてランタンの覆いをさっと外し投げ捨て、部屋の中へ飛び込みました。老人はうわっと一声悲鳴を上げました。悲鳴はそれきりです。私はすぐさま老人を床に引きずり下ろすと重い寝台を動かして老人をその下敷きにしました。事がここまで済んでしまうと、私は快適な気分になって顔がほころんできました。心臓の鼓動はしばらくの間、綿でくるんだときのような音をたてて鳴り続けていました。でももうその音で不安に駆られることはありませんでした。よもや、壁越しに隣人に聞こえることはないでしょう。やがて音は止まりました。老人は死んだのです。私は寝台をどけて老人の死体を確かめました。やはり思った通り、老人は死んで石のように固くなっていました。私は老人の胸に手をおいて何分間もじっとしていました。心臓の拍動はありません。完全に老人は死んだのです。もうあの眼に苦しめられることもありません。
あなた様がまだ私のことを狂人だと思っておいでなら、私が知恵を働かせ、念には念を入れてどれほど巧妙に老人の遺体を隠したかをお話すれば、あなた様も思い直してくださるでしょう。夜も更けてきましたので私は物音ひとつ立てず急いで仕事に取りかかりました。先ずは、死体をバラバラにしました。頭と腕と脚を切断したのです。
それから寝所の床板を3枚外し、床板を支えている横木の間に全部投げ入れたのです。それから床板を元通りに、それもかなり上手くはめ込みました。誰が見ても、たとえ神が見たところでどこにも不審な所は見あたらないはずです。洗い流す所はどこもありませんでした。しみも血のあともついてはいませんでした。用心には用心を重ねて事を行ったのです。風呂桶が血も何もかもみな受けてくれたのですから。ははは!
全ての作業が終わった時にはもう午前4時になっていました。外は真夜中のように真っ暗です。4時の鐘が鳴ったとき、表の戸を叩く音がしました。私はすっきりした気分で下へ降りていき戸を開けました。何を恐れることがありましょう? 3人の男性が入ってきて、柔らかな態度で、自分たちは警官だと告げました。夜中に隣家の人が悲鳴を聞いて、何か悪いことでも起こったのではないかと警察に通報してきて、そこで自分たち警官が屋敷を捜査するために来たのだと言いました。
私はにっこり笑いました。何を怖じ気づくというのですか? 3人の警官を喜んで中に招き入れましたよ。悲鳴は私が寝言で叫んだのでしょう。老人は田舎に出かけて此処にはおりません。私は警官にそう伝えました。そして屋敷中を案内したのです。屋敷中、くまなくお調べになって下さい。どうぞ念入りに、と言いました。そうして、老人の寝所まで案内しました。私は警官達に老人の財宝を見せました。荒らされた形跡など全くございません。自分は疑われていないということで嬉しくなっていたものですから、椅子まで持ち出してきて此処で疲れを癒して休んでいって下さいと申しました。私は絶対に大丈夫という思いから大胆不敵にも老人の遺体をばらまいたちょうど真上に椅子を置いて腰掛けたのです。
警官達は納得したようです。私の態度を見て、心配したことはないと思ったのでしょう。私は不思議なくらいくつろいだ気分でいました。警官達は腰をおろして、私が元気良く応対すると、彼らも気楽に話してくるのです。ですが、そのうちに、自分の顔が蒼ざめてくるのがわかって、早く立ち去ってくれと思うようになってきました。頭がずきずき痛んで耳鳴りがしているような気がするのです。警官達は腰掛けてまだ話し込んでいます。耳鳴りはますますはっきりしてきました。途切れることなく、どんどんはっきりと聞こえてくるのです。この感じから逃れたくて沢山喋りました。それなのに、耳鳴りは止まず、もっと明確に聞き取れるようになって、それからやっと、此の音は自分の耳の中で鳴っているのではないということがわかったのです。
顔から血の気が引いてまっ蒼になっていたはずです。でも、私は話題が途切れないようにますますお喋りになり、声まで高くなっていきました。それでも音はどんどん大きくなってきます。私は一体どうすればいいのでしょう? 低くて鈍い小刻みに鳴る音、綿でくるんだ時計から漏れてくるような音。私は息をするのも苦しくなってきました。でも、警官達にはこの音が聞こえてはいないのです。私はさらに早口に、もっと熱っぽく喋りました。それでもやはり音はじわじわと大きくなっていきます。私は立ち上がって、どんなつまらない話にでもそうだそうだと、それも高い声でかなり大げさな身振りを交えてうなずきました。そうしても、あの音は着実に大きくなってきているのです。どうしてこの連中は帰ろうとしないのだ? お前たちの顔を見てると腹が立ってくるのだとでも言わんばかりに、私は床を一歩ずつドスンドスンと踏みならしながら行ったり来たりしたのです。でも、音は、じわじわと大きくなってきます。ああ、神よ! どうすればいいのです? 私は口から泡を飛ばし、戯言を口走り、さんざん毒づいてやったのです。自分が座っていた椅子をガタガタ揺すってみたり、床板に椅子をこすりつけてキーキーと嫌な音を立ててみたり、それでも音は、かき消されも途切れもせず、さらに大きくなってくるじゃありませんか。音が大きくなっているんです! 今よりも大きく! 今よりももっと高く! それなのにこの連中と来たら相変わらずおもしろそうに喋って笑っているんですよ。この音が聞こえてないのか? ああ、全能の神よ! ちがう、ちがう! 聞こえているんだ! 疑っているんだ! わかっているんだ! 私が怯えているのを面白がっているんだ! あの時はこう思ったのです。今もそうだと思ってます。どんな目にあったってこんな苦しみよりはましだ! こんな風に嘲笑の的にされるくらいならどんなことだって我慢してやる! 偽善者め、こんな作り笑いにはもう我慢できない! わめき散らすか死ぬか、そのどちらかしかないじゃないか! ああ、まただ! よく聞こえるぞ! 大きく! もっと大きく! もっともっと高く、大きく響いてる!
「このゲスどもめ!」私は怒鳴りつけました。「もうとぼけるんじゃないよ! そうさ、この私がやったのさ! 板をめくってみろよ! ほれ、ここだ! これだ!これがそうだ! これこそあのじじいの恐ろしい心臓の音だよ!」