タイムマシン The Time Machine ハーバート・ジョージ・ウェルズ 著 翻訳: 山形浩生 > pdf版はhttp://cruel.org/books/timemachine/timemachinej.pdf テキスト(sjis)版はhttp://cruel.org/books/timemachine/timemachinej.txt © 2003 山形浩生 本翻訳は、この版権表示を残す限りにおいて、訳者および著者にたいして許可を とったり使用料を支払ったりすることいっさいなしに、商業利用を含むあらゆる 形で自由に利用・複製が認められる。(「この版権表示を残す」んだから、「禁 無断複製」とかいうのはダメだぞ) プロジェクト杉田玄白 正式参加作品。詳細はhttp://www.genpaku.org/を参照 のこと。 ------------------------------------------------------------------------ 目次 第 1 章 <#ch1> 第 2 章 <#ch2> 第 3 章 <#ch3> 第 4 章 <#ch4> 第 5 章 <#ch5> 第 6 章 <#ch6> 第 7 章 <#ch7> 第 8 章 <#ch8> 第 9 章 <#ch9> 第 10 章 <#ch10> 第 11 章 <#ch11> 第 12 章 <#ch12> エピローグ <#ch13> ------------------------------------------------------------------------ 1.  時間旅行者(と便宜上呼んでおく)はわれわれにとっては難解な事柄を述べ立 てていた。その灰色の目は輝き、きらめいて、そしていつもは青白い顔も紅潮し て生き生きとしている。火が明るく燃え、銀の百合の中の白熱光からの柔らかい 放射が、われわれのグラスの中をきらめきながらたちのぼるあぶくをとらえてい る。われわれの椅子は、かれの発明品なので、単に漫然と座られるにとどまら ず、われわれを包み込み愛撫して、そこにはあの思考が厳密性の束縛を逃れて優 雅に奔走する、晩餐後の豪華な雰囲気があった。そしてかれは――論点を細い人差 し指で印しつつ――われわれが座ってこの新しいパラドックス(とわれわれが思っ たもの)についてのかれの真剣さと活力について、怠惰に感嘆するのを前に、こ のようにして説明してくれたのだった。 「わたしの話に慎重についてきてほしい。ほとんど全面的に受け容れられている 観念をいくつか覆さざるを得ないでしょう。たとえば学校で教わった幾何学は、 ある誤解に基づいているのです」 「われわれの手始めとするには、それはいささか話がでかくはありませんかね」 と赤毛の議論好きなフィルビーが述べた。 「合理的な根拠なしに何かを受け容れろと要求するつもりはありません。あなた たちはじきに、わたしが必要なだけのことを認めることになるのですし。みなさ んはもちろん、数学的な線、厚みなしの線は本当の意味では実在しないというこ とはご存じですよね。そこまでは教わりましたか? 数学的な面もそうです。こ うしたものはただの抽象概念です」 「それはそのとおり」と心理学者。 「同じく、長さと幅と厚さを持つだけの立方体も現実には存在し得ません」 「それには反対します」とフィルビー。「固体はもちろん存在できますよ。あら ゆる現実のモノは――」 「ほとんどの人はそう考えます。でもちょっと待ってくださいよ。瞬間的な立方 体は存在できるでしょうか?」 「よくわかりませんが」とフィルビー。 「ちょっとの時間すら保たない立方体は、本当に実在しているといえますか?」  フィルビーは考え込んでしまった。時間旅行者は続けた。「明らかに、すべて の実体は4つの方向に延長を持たなくてはなりません。長さ、幅、厚さ、そして ――期間です。でも肉体の自然な弱点(これについてはすぐに説明しますが)に よって、われわれはこの事実を見過ごしがちなのです。実際には次元は4つあっ て、そのうち3つはわれわれが空間の3方向と呼ぶもので、4つめが時間です。で も、最初の3つと最後の時間との間に、実在しない区別をする傾向があります。 なぜならわれわれの意識は絶え間なく時間にそって一方向に、人生の始まりから 終わりへと移動するからです」 「それは」とあるとても若い男が、ランプで葉巻に火をつけ直そうとしてスパス パと痙攣じみた努力をしつつ述べた。「それは……非常にはっきりしていますね」 「さて、これがかくも徹底して見過ごされているというのは、実に驚くべきこと です」と時間旅行者は、ちょっと陽気さを増して続けた。「実はこれこそが4次 元というものなのです。ただし4次元の話をする人の中には、自分が時間のこと を語っているとは気がついていない人もいますが。それは単に、別の見方をした 時間でしかないのです。*時間と、空間の3つの次元との間には、なんらちがいは ありません。唯一の差は単にわれわれの意識が時間に沿って動くというだけです *。でも一部の愚かな人々は、この考え方を変な捉え方をしていますよ。この4次 元について、そういう人が何を語っているかお聴きになっていますよね?」 「*わしは*聞いとらんぞ」と地区長官。 「単にこういうことです。空間は、われらが数学者諸君によれば、3つの次元を 持つかのように言われています。長さ、幅、厚さといってもいいでしょう。そし てそれは常に、お互いに直角に交わる3つの平面を参照することで定義できる、 と。でも一部の哲学的な人々は、なぜことさら*3つの*次元なのか、と考えまし た――ほかの3平面と直角に交わるもう一つの方向があったっていいじゃないか? ――そして4次元幾何学を構築しようとさえしたのです。サイモン・ニューコーム 教授は、これをニューヨーク数学会にほんの一月ほど前に提案していましたよ。 2次元しかない平面上に3次元固体の絵を表現できますね。だから同じようにし て、3次元の模型によってかれらは4次元の固体を表現できると考えているのです ――もしその透視法さえつかめれば、というわけです。ご理解いただけましたか?」 「まあなんとか」と地区長官はつぶやいた。そして眉根をよせて、長考状態に入 り込み、その唇を神秘的な呪文を唱える者のように動かしていた。「うん、わ かったと思う」しばらくしてかれは、突然うって変わったように明るく述べた。 「では言わせていただきますが、このわたしも4次元幾何学についてはかなり前 から研究していたのです。いくつかの結果は奇妙なものです。たとえば、ここに 8歳の男性の肖像があります。こちらは15歳、こちらは17、こちらは23、という 具合です。これらは明らかに、いわば断面図です。固定され改変不可能な4次元 の存在の、3次元表現というわけです」  これが適切に理解されるだけの間をおいて、時間旅行者は続けた。「科学的な 人々は、時間が空間の一種だということをよく知っています。ここによくある科 学的な図があります。気象記録ですな。いまわたしが指でなぞっている線は、気 圧計の動きを示しています。昨日はとても高く、昨晩は下がり、今朝は上がっ て、じわじわとここまで上昇しました。もちろん水銀は、一般に認識される空間 の次元のどれかに沿って、この線をたどったわけではありませんよね。でも、そ れはまちがいなくこの線をたどったわけです。したがってこの線は、時間次元に 沿ってのものだったと結論せざるを得ません」  医師は、暖炉の石炭を凝視しながら述べた。「しかし、もし時間が空間の4番 目の次元にすぎないのであれば、なぜそれは、いまも昔も、何かちがったものと して受け取られていたのでしょうか? そしてなぜわれわれは、空間の他の次元 のように時間の中を移動できないのでしょうか?」  時間旅行者はにっこりした。「空間の中を自由に移動できるというのは本当で すか? 左右にも行けます。前後も確かに自由自在ですし、人は常にそうしてき ました。だから二次元でわれわれが自由に動くことは認めます。でも上下はどう でしょう? 重力がわれわれをそこで制約します」 「そうとはいえない。気球があります」と医師。 「でも気球以前は、けいれんじみたジャンプや地表面の不均等以外では、人は垂 直方向を移動する自由がありませんでした」 「それでも、ちょっとは上下に移動できましたよ」と医師。 「下るほうが上がるより簡単ですね。遙かに簡単だ」 「でも時間の中ではまったく動けない。現在からは逃れられない」 「おことばではありますが、そこがまさにあなたのまちがっているところなので す。全世界がまちがっているのも、まさにそこなのです。われわれは常に、現在 の動きから遠ざかっているのです。われわれの意識存在は、非物質的で次元を持 ちませんが、ゆりかごから墓場まで一定速度で時間次元に沿って移動しているの で。ちょうど、われわれの存在が地表面から80キロのところで始まったとした ら、われわれが下へ向かって移動するのと同じようにね」 「でも大きな問題点がありますよ」と心理学者が割り込んだ。「空間ではすべて の方向に動けますが、時間の中では動き回れないじゃありませんか」 「それが我が偉大な発見の難点でした。でも、われわれが時間の中を動き回れな いというのはまちがっています。たとえば、わたしがある出来事をとても鮮明に 思い出していたら、わたしはそれが起きた瞬間に戻っているわけです:文字通 り、意識がお留守になるわけですね。一瞬、時間を飛んで戻っているわけです。 もちろん、長期にわたって戻ったままとなる手段は持っていません。野蛮人や動 物が、地上2メートルに居続けられないのと同じことです。でも文明人はこの点 で、野蛮人よりも成果を挙げています。文明人は気球に乗って重力に逆らえます し、だから最終的には、時間次元に沿って自分の流れを止めたり、それを加速し たり、あるいは向きを変えて逆行できると期待すべきでない法もないでしょうに」  フィルビーが口を開いた。「まったく、そこまでいくとまるっきり――」 「なぜダメなんです?」と時間旅行者。 「道理に反してる」とフィルビー。 「何の道理です?」と時間旅行者。 「議論で白を黒と言いくるめることはできるが、わたしは絶対に納得しないで しょう」とフィルビー。 「そうかもしれません」と時間旅行者は述べた。「でも、わたしが四次元の幾何 学について調べだした狙いはわかってきたでしょう。昔、わたしはばくぜんとあ る機械の着想を――」 「時間の中を旅行する機械ですか!」と非常に若い男が叫んだ。 「運転手の決めたとおり、時間でも空間でも構わずにどんな方向へも旅行する機 械の着想を得たのです」  フィルビーはそれを笑い飛ばした。 「でも実験による証明があるんですよ」と時間旅行者。 「歴史学者には実に便利でしょうなあ」と心理学者が指摘した。「過去に戻っ て、たとえばヘイスティングスの戦いについての定説を確認できますぞ!」  医師が述べた。「目立ちすぎると思いませんか? われわれの先祖は、時代錯 誤をあまり大目には見てくれませんでしたから」 「ギリシャ語を、ホメロスやプラトン自身の口から習えるかも」と非常に若い男 性が考えた。 「そうなったら、学位予備試験についてさぞかし根ほり葉ほり聞かれることで しょう。ドイツの学者たちがギリシャ語を大幅に改良しましたからな」 「そして未来のこともある。考えてもごらんなさい! 全財産を投資して、複利 で増えるようにしてから、未来へとひとっ飛び!」と非常に若い男性。 「厳格な共産主義を基盤に構築された社会が見つかるだろうね」とわたし。 「まったく、現実離れしたとんでもない理論だ!」と心理学者が口を開いた。 「はい、わたしにもそう思えました。だからこの話はしなかったのです。それが――」 「実験による証明ですと!」とわたしは叫んだ。「それが実証できるとでも?」 「実験だ!」と、頭が混乱しはじめていたフィルビーも叫んだ。 「何はともあれ、あなたの実験を拝見しようじゃありませんか」と心理学者「と はいえ、どうせみんなでたらめでしょうが」  時間旅行者は一同を見回してにっこりした。そして、その微笑をかすかに残し つつ、両手をズボンのポケットに深くつっこんだまま、かれはゆっくりと部屋を 出て、そしてかれの研究室までの長い廊下を下るかれのスリッパの音が聞こえる だけとなった。  心理学者がみんなを見回した。「何が出てきますかね」 「なにやら手品かなんかでしょう」と医師。そしてフィルビーは、バースレムで 見かけたいかさま師の話をしようとした。でも導入部が終わるより先に、時間旅 行者が戻ってきたので、フィルビーの小話もそれっきりとなった。  時間旅行者が手に持っていたのは、輝く金属の枠組みで小型の時計よりちょっ と大きいだけで、実に入念に作られていた。象牙と、透明な水晶状の物質も使わ れていた。そしてここでわたしは厳密な物言いをする必要がある。というのも続 いて起こったことは――かれの説明を認めるのでない限り――まったく説明のつかな いことだったからだ。かれは部屋のあちこちにおかれていた小さな八角形のテー ブルを一つ持ってくると、暖炉の火の前に置いて、テーブルの脚の二本がじゅう たんのにかかるようにした。そのテーブルにかれはこの機械をおいた。そして椅 子を寄せると座った。テーブルの上にある物体は、他には小さな笠つきのランプ だけで、その明るい光が模型を照らしている。あとはまわりにろうそくが1ダー スもあっただろうか。マントルピースの上の真鍮製ろうそく立てに2本、ほかに 壁に取り付けた燭台に何本かあって、部屋全体が明るく照らされていた。わたし は暖炉にいちばん近い、低いソファにすわっていたので、それを前に引き寄せ て、ほとんど時間旅行者と暖炉の間に割り込みそうになった。時間旅行者の背後 にはフィルビーがすわり、その肩越しにのぞきこんでいる。医師と地区長官は、 右から時間旅行者の横顔を見ていた。心理学者は左からだ。非常に若い男は心理 学者のうしろに立っていた。みんな緊張していた。こんな状況のもとでなにかト リックが行われるということは、それがどんなに入念に仕組まれてどんなに上手 に実施されたものだろうと、ほとんどあり得ないように思う。  時間旅行者はわれわれを見て、そして機構に目をやった。「それで?」と心理 学者。  時間旅行者は、テーブルにひじをついて、装置の上に両手を押しつけた。「こ のちょっとしたしろものは、ただの模型です。これは時間の中を旅行するマシン の設計図なんです。これが一つだけ傾いていて、この棒のまわりに奇妙なちらつ く感じがして、なにやら非現実的に見えるのがおわかりでしょう」とかれは、そ の部分を指さした。「それとここに白いレバーが一本、もう一本がこちらに」  医師はたちあがってその物体をのぞきこんだ。「見事な作りだ」 「作るのは二年がかりでしたよ」と時間旅行者が答えた。そしてみんなが医師の 行動に続いたとき、かれは述べた。「さて、みなさんにはっきり理解してほしい ことですが、このレバーを前に倒すと、マシンは未来に滑り出し、こちらのレ バーはその動きを逆転させます。このサドルは、時間旅行者の座席となります。 いま、このレバーを押して、するとマシンが動き出します。よく見ていてくださ いよ。テーブルもしっかり見てください。種も仕掛けもないことを納得してくだ さい。この模型を失ったあとで、インチキ呼ばわりされるのはいやですからね」  一瞬ほど間があいただろうか。心理学者はわたしに話しかけようとしたよう だったが、中断した。すると時間旅行者はレバーめがけて指を差しだした。「い や」と突然言った。「手を貸してください」そして心理学者のほうに向き直る と、かれの手をとって、人差し指を出すように言った。だから模型タイムマシン をその終わりのない旅行に送り出したのは、心理学者自身なのだった。みんなレ バーが回るのを見た。そこになんの細工もなかったと確信している。風が一閃、 ランプの炎がゆらめいた。マントルピースのろうそくが一本吹き消え、小さなマ シンはいきなり回転して、不明瞭になると、一瞬ばかり幽霊じみたものとなり、 かすかに輝く真鍮と象牙の幻影のようになった。そしてそれは行ってしまった―― 消滅したのだ! ランプをのぞけば、テーブルの上には何もなかった。  みんなが一分ほど何も言わなかった。その後、フィルビーが「なんてこった」 と言った。  心理学者は茫然自失状態から回復して、いきなりテーブルの下を見た。それを 見て時間旅行者はうれしそうに笑った。「いかがですな?」そして心理学者に一 瞥をくれると、立ち上がり、マントルピースの上のタバコのびんのところにでか けて、こちらに背を向けてパイプにタバコを詰め始めた。  一同は顔を見合わせた。そして医師が口を開いた。「ねえあなた。これは本気 ですか? 本当にあのマシンが時間の中へ旅立ったと信じているのですか?」 「もちろん」と時間旅行者は言って、点火用こよりに火をつけようと身をかがめ た。それから向きなおってパイプに火をつけ、心理学者の顔を見た(心理学者 は、動揺していないことを見せようとして、葉巻を取り出すと、それをカットせ ずに火をつけようとした)。 「さらに、大型のマシンをあそこでほとんど完成 させてあるんです」――とかれは研究室を示した――「そしてそれが組み立て終わっ たら、自分自身で旅行をするつもりです」 「すると、あのマシンが未来へ旅立ったとおっしゃるんですか?」とフィルビー。 「未来へか過去へか――わたしにもどっちか確実にはわかりません」  しばらく間をおいて、心理学者が思いついた。「もしどこかへ行ったのなら、 過去のはずでしょう」 「なぜです?」と時間旅行者。 「空間的には動いていないと思いますし、もし未来に旅立ったのなら、それはこ の時間も通ったはずだから、まだずっとここにあるはずだからです」 「でも過去に旅立ったなら、この部屋に最初にきたときにも見えていたはずで しょう。それに、ここにみんながきた木曜日にも。その前の木曜も、そのさらに 前にも!」とわたし。 「深刻な反論ですなあ」と地区長官は、公正さを漂わせつつ、時間旅行者に向き 直った。 「いえちっとも」と時間旅行者は答え、心理学者に向かって述べた。「あなたが 考えてください。あなたには説明できるはずだ。識閾以下の表示ですよ、おわか りでしょう。薄まった提示というわけです」 「ああそうか」と心理学者は、みんなに断言してみせた。「これは心理学上の単 純なできごとです。思いつくべきでした。明快な話で、パラドックスも見事に説 明できます。マシンを見ることも感じることもできないのは、回転する車輪のス ポークが見えなかったり、空中を飛ぶ弾丸が見えないのと同じことです。もしあ れが時間の中を、われわれよりも50倍、100倍の速度で旅しているなら、われわ れにとっての1秒をかけて1分を通過するなら、それが生み出す印象ももちろん、 時間の中を旅していないものに比べて、五〇分の一か百分の一になるわけです。 簡単なことです」とかれは、マシンのあった空中に手を走らせて見せた。「ごら んなさい」とかれは笑った。  われわれはすわったまま、空っぽのテーブルを一分かそこら見つめていた。す ると時間旅行者が、どう思うかみんなに尋ねた。  医師が答えた。「今夜のところは、いかにももっともらしく聞こえますな。で も明日まで待ってごらんなさい。朝の常識を待ってご覧なさい」 「本当のタイムマシンをごらんになりたいでしょうか?」と時間旅行者。そう述 べたと同時に、ランプを手にとって、かれは長い風通しのよい廊下を通ってわれ われを研究室に先導した。ちらつく明かりと、かれの奇妙な幅広いシルエットに なったかれの頭、陰の踊り、みんながふしぎに思って疑いつつも後に従ったこ と、そして研究室の中に、先ほどわれわれの目の前から消え失せた小さな機構の 拡大版を目にしたことを、はっきりと覚えている。一部はニッケル、一部は象 牙、一部は明らかに、岩結晶から削りだしたか切り出したものだった。ほとんど 完成していたが、結晶でできた棒が、図面何枚かの横に未完成のまま転がってい た。その一本をよく見ようと手に取った。どうやら水晶のようだ。  医師が述べた。「ねえあなた、本当に本気ですか? それともこれは手品です かな――こないだのクリスマスに見せてくれた幽霊のように?」  時間旅行者はランプを掲げた。「あのマシンに乗って、わたしは時間を探検す るつもりです。わかりますか? 生まれてこの方、これほど真剣だったことはあ りません」  一人残らず、どう受け取るべきかとまどっていた。  医師の肩越しにフィルビーの視線をつかまえた。かれはまじめくさってウィン クしてみせた。 ------------------------------------------------------------------------ 2.   そのときは、誰一人としてタイムマシンを完全に信じていたわけではないと 思う。実のところ、時間旅行者は賢すぎて信用ならない種類の人物だったから だ。かれのすべてが見えたと思えることはなかった。かれの明るい開けっぴろげ さの背後には、いつもちょっとした秘密、なにか待ち伏せしている小細工がある ように思えるのだった。フィルビーがあの模型を示して、時間旅行者と同じせり ふで状況を説明したのだったら、かれのことはこんなに疑ってかからなかっただ ろう。というのも、かれの動機が理解できたはずだからだ。ブタ肉屋でもフィル ビーは理解できる。でも時間旅行者の性格は、気まぐれぶりが少々などというも のではなかったので、みんなかれを信用しなかった。もっと賢さの劣る人物なら 動かぬ証拠に思えることですら、かれの手にかかると小細工に見えた。何かを簡 単にやってしまうのはまちがいだ。かれの言うことを本気にしたまじめな人々 は、かれの振る舞いについて決して確信が持てなかった。みんな、かれについて の評価に自分の評判をかけるのは、育児所に卵の殻のような瀬戸物を置くも同然 だということをなぜか知っていた。だから、その木曜日と次の木曜日との間で時 間旅行についてさほど口にした人間は、ほとんどいなかったと思う。とはいえ、 その奇妙な可能性はまちがいなく、ほとんどみんなの頭の中を駆けめぐっていた だろう。その実現可能性、その現実的な信じがたさ、それが示唆するアナクロニ ズムの奇妙な可能性と、完全な混乱。わたしはと言えば、あの模型のトリックが ことさら頭を離れなかった。これについては、リンネ協会で金曜日に出会った医 師と議論したのを覚えている。かれは似たようなものをチュービンゲンで見たと 語り、ろうそくが吹き消されたことを特に強調していた。が、そのトリックの実 際の仕掛けはかれも説明できなかった。  次の木曜日、わたしはまたリッチモンドに出かけた――たぶんわたしは時間旅行 者をもっとも頻繁に訪れる客だっただろう――そしてちょっと遅れてついてみる と、すでに客間に四、五人が集まっていた。医師は片手にかみ切れを、もう片手 に時計を握っていた。わたしは時間旅行者を捜して見回した。そして――「もう七 時半です。食事をしたほうがいいと思いますが?」と医師。 「――はどこです?」と家の主人の名前をわたしは挙げた。 「いまきたところですか? ちょっと変なのですよ。かれは何か避けがたいこと で捕まっているそうです。このメモを残していて、7時にかれが戻っていなけれ ば、わたしが主導して夕食を始めてくれというんです。戻ったら説明するから、と」 「夕食を無駄にするのももったいないですからな」と有名な日刊紙の編集者が 言った。そしてそこで医師が鐘を鳴らした。  前のディナーに出席していたのは、医師とわたしをのぞけば心理学者だけだっ た。他の人々はブランク、すでに述べた編集者、あるジャーナリスト、そしても う一人――物静かで物言わぬヒゲをはやした人物だ――わたしの知らない人で、かれ はわたしが観察していた限り、その晩一度も口を開かなかった。時間旅行者の不 在について、多少の憶測がディナーのテーブル上を飛び交った。わたしは冗談半 分に時間旅行だろうと述べた。編集者は何のことか説明してくれと言い、心理学 者が進み出て、その前の週の同じ日にわれわれが目撃した「正真正銘のパラドッ クスとトリック」について木で鼻をくくったような説明を始めた。その説明の 真っ最中に、廊下側のドアがゆっくり無音で開いた。ドアの正面にいたわたしが 真っ先に気がついた。「やあこんばんわ。やっとおいでですか!」そしてドアが もっと大きく開いて、一同の前に時間旅行者が立っていた。わたしは驚いて叫び 声をあげた。次にかれを見た医師も叫んだ。「これはまた一体! どうしたんで すか?」そしてテーブルの全員がドアの方を見た。  かれは驚くべき惨状だった。上着はほこりまみれで汚れ、袖は緑で汚れてい る。髪はぼさぼさで、ずっと灰色を増したように見えた――ほこりと土のせいか、 それともその色が本当にあせたのだろうか。顔は恐ろしいほど真っ青だ。あごに は茶色い切り傷がある――治りかけた傷だ。表情は激しい苦闘のせいかやつれて引 きつっていた。一瞬、光で目がくらんだかのように戸口でためらった。それから 部屋に入ってきた。足の悪い乞食のようにびっこをひいて歩いている。みんな 黙ってかれを見つめ、何か言うのを待ち受けた。  かれは一言も言わず、痛々しい様子でテーブルのところまでくると、身振りで ワインを示した。編集者はシャンペンをグラスに満たし、それをかれに押しやっ た。それを飲み干すとかなり落ち着いたようだ。テーブルを見回すと、かつての 微笑の名残がその顔に浮かんだのだ。「いやあ、いったい何をやっておったので すか」と医師。時間旅行者はそれが耳に入らなかったようだ。「どうぞお構いな く」と言い、空のグラスを差しだして催促し、それをまた一気に飲み干した。 「うまい」。目が輝きを増し、頬に少し血の気が戻った。その視線がわれわれの 顔の上を走り、鈍くうなずくと、さらに暖かく快適な部屋を見回した。それから また口を開いたが、一言一言探るような話し方だった。「ちょっと洗って着替え てきます。そうしたら戻ってきて説明しましょう……そのマトンをちょっと残して おいてください。ちょっと肉に飢えているもので」  かれは部屋の向こうの編集者をながめた。かれはここでは珍しい客だった。そ してかれの具合を尋ねた。編集者は質問を始めた。時間旅行者は答えた。「すぐ に話します。わたしは――変なので! すぐにちゃんとしますから」  かれはグラスを下ろし、階段のドアに向かって歩き出した。再びわたしはかれ がびっこをひいていることと、一歩ごとに柔らかいぴたぴたという音に気がつい て、立ち上がってみると、部屋を出がけの足が目に入った。足は、千切れて血の しみた靴下しかはいていなかった。するとドアがかれの背後で閉まった。うわの 空で後を追いかけようとしたが、かれが自分自身のことで騒がれるのをいかに嫌 うか思い出した。一分ほどだろうか、わたしは内心で心を決めかねていた。その とき「高名なる科学者の驚くべき振る舞い」と編集者が、(職業柄)見出しで考 えて口に出すのが聞こえた。そしてこれが、明るいディナーテーブルに注意を引 き戻した。  ジャーナリストが述べた。「何のゲームです? アマチュアCadgarでもやって いたんですか? なにやらさっぱりわかりませんよ」わたしは心理学者と目が あったが、かれの目にもわたしと同じ考えが浮かんでいた。痛々しく上階に向か う時間旅行者のことを考えた。他にだれも、かれがびっこをひいていたのには気 がつかなかったと思う。  この驚きから真っ先に完全に回復したのは医師で、かれは鐘を鳴らし――時間旅 行者は、ディナーで召使いたちを待たせるのが大嫌いだった――熱い料理を持って こさせた。同時に編集者がうなり声とともにナイフとフォークを手にとって、無 言の男がそれに続いた。ディナーが再開された。会話はしばらくは声高で、驚愕 のための間がときどきあった。すぐに編集者は好奇心を抑えきれなくなったよう だった。「われらが友人は、その慎ましい所得をcrossingで補填なさっているの ですか? それともネブカドネザル王的な狂乱の時期を定期的に迎えるわけです か?」とかれはたずねた。「まちがいなくこれは、かれのタイムマシンがらみの 出来事でしょう」とわたしは、前回の会合について心理学者の話の続きをすませ た。新しい客たちは、率直に不信を表明した。編集者は反論した。「その時間旅 行とやらはいったいなんです? パラドックスの中をころげまわったところで、 ほこりまみれにはならんでしょう」そして話が腑に落ちるにつれて、揶揄を始め た。未来には服のブラシがないのでしょうか? ジャーナリストも、絶対に信じ ようとはせず、その話全体に山ほど嘲笑を投げつけるという簡単な作業に、編集 者とともにとりかかった。二人とも、あの新種のジャーナリストだったのだ――陽 気で何も恐れない若者たちだ。「あさってのニュース特別取材班よりお伝えいた します」とジャーナリストが話しているところだった――むしろ叫んでいたという べきか――そこへ時間旅行者が戻ってきた。かれはふつうのイブニング用衣服を身 につけ、わたしを驚かせたあの変化を思い出させるものは、かれのやつれた外見 をのぞけば何もなかった。  編集者は冗談めかして言った。「なんですか、ここにいらっしゃる方々によれ ば、なにやら来週半ばあたりまで旅をしてらしたとか。ローズベリーのことを教 えてくださいよ。くじなら何を買いなさるね?」  時間旅行者は、何もいわず自分の席についた。昔ながらのやり方でさっと微笑 した。「わたしのマトンはどこだ? 肉に再びフォークを突き刺せるとは、なん とすばらしいことだろう!」 「話を!」と編集者が叫んだ。 「話なんかどうでもいい!」と時間旅行者。「食べ物をくれ。血管にペプトンを 入れるまでは一言もしゃべらんぞ。ありがとう。それと塩をくれ」 「一言だけ。時間旅行をしてきたのですか?」とわたし。 「はい」と時間旅行者はほおばりながらうなずいた。 「そのままの様子を書いてくれたら一行あたり一シリング払いますよ」と編集 者。時間旅行者はグラスを物静かな男のほうに押しやり、爪ではじいた。すると かれの顔を見つめていた静かな男は、身震いとともに飛び上がって、ワインを注 いだ。ディナーのその後は居心地が悪かった。わたしはといえば、いきなり質問 が口をついて出そうになり、それはほかのみんなも同様だったと断言しよう。 ジャーナリストは緊張を和らげようとして、へティ・ポッターの小話をした。時 間旅行者は食事にだけ関心を向け、乞食まがいのガツガツぶりを示した。医師は タバコを吸って、まつげ越しに時間旅行者をながめた。物静かな男はいつもより さらに動転しているようで、不安のあまりシャンペンを繰り返し決然と飲み干し ていた。とうとう時間旅行者は皿を押しやり、一同を見回した。「謝らねばなり ません。ただとにかく空腹だったもので。とんでもない時間を過ごしていたので す」かれは葉巻に手を伸ばして、その一端を切った。「だが喫煙室にきてくださ い。脂まみれの皿越しに語るには、長すぎる話ですから」そして通りすがりに鐘 をならしつつ、かれは隣室へと一同を先導した。 「ブランクとダッシュとチョーズに、マシンの話をなさったんですか?」とかれ は安楽椅子に身を沈め、新参の客を名指しつつわたしに尋ねた。 「だがあんなのはただのパラドックスだ」と編集者。 「今晩は議論できません。お話はできますが議論はできません。もしお望みな ら、何が起きたかはお話しますが、でも割り込むのはご遠慮を。わたしも話した いのです。それもひどく。ほとんどはウソに聞こえるでしょう。ならそれでもい い! そう思われようと、全部本当なのです――一つ残らず。四時に研究室にい て、それ以来……わたしは八日間を過ごしたのです……どんな人間もこれまで過ごし たことのないような日々を! もう疲れ果てていますが、この話をみなさんにす るまでは眠りますまい。話したらベッドに行きます。でも中断しないでくださ い! ご了解いただけますか?」 「了解」と編集者が述べ、残りのみんなも「了解」と反響した。そしてそれとと もに時間旅行者は、以下に記したようにその物語を語りはじめた。最初は椅子に 深くもたれて、疲れ切った人物のように話をした。その後、だんだん生き生きと してきた。それを書き記すにあたって、わたしはその語り口を表現するペンとイ ンクの至らなさを――そして何よりもわたし自身の至らなさを――実に切実に感じて いる。みなさんはおそらく、十分に慎重に呼んでくださるだろう。でも小さなラ ンプの明るい輪の中に浮かぶ、話者の白い率直な顔も見られなければ、かれの声 の抑揚も聞こえない。物語の展開につれてのかれの表情の推移もわからない!  われら聞き手のほとんどは影の中にいた。というのも喫煙室のロウソクには火が ともされず、照らされているのはジャーナリストの顔と、物静かな男のひざから 下の脚だけだったのだ。最初のうちは、みんなお互いに何度も顔を見合わせた。 しばらくするうちにそれもやめ、みんな時間旅行者の顔だけを見つめていた。 ------------------------------------------------------------------------ 3. 「先週の木曜日に、みなさんの一部にはタイムマシンの原理をおはなしして、実 物を未完成の状態で工作室でお目にかけました。いまここにありものです。 ちょっと旅でくたびれていますが。そして象牙のバーの一つはひびが入り、真鍮 のレールが曲がっています。でも残りはちゃんとしっかりしています。金曜日に 完成させるつもりでしたが、金曜に組み立てが終わり欠けたところで、ニッケル のバーの一つがちょうど1インチ短いことに気がついて、これを作り直させなけ ればなりませんでした。ですからマシンは、今朝まで完成しなかったのです。初 のタイムマシンがその第一歩を記したのは、今朝の十時でした。わたしは最後の 一たたきを加え、ねじを全部締め直して、水晶ロッドにもう一滴油をさして、サ ドルにすわりました。次に何がくるのだろうかというわたしのその時の気分は、 自分の頭に拳銃をあてた自殺者さながらだったでしょう。片手に軌道レバーを握 り、停止レバーをもう片方で握って、最初のを押して、そのほぼ一瞬後に二番目 のを押しました。くらっときたようです。落ちていくような、悪夢のような感覚 がしました。そして見回すと、研究室はまったく前のままです。何か起きたので しょうか? 一瞬、頭が混乱したのかと思いました。それから時計に気がつきま した。一瞬前と思えた時点では、時計は十時一分過ぎかそこらでした。いまそれ は、ほぼ三時半になっていました!  わたしは深呼吸して歯を食いしばり、両手でスタートレバーを握ると、ズンッ という音をたてて出発しました。研究室は霞がかったようで暗くなりました。 ワッチェットさんが入ってきて、どうやらわたしが見えないようで、そのまま庭 のドアに向かいました。たぶんここを横切るのに一分もかかったでしょうか。で もわたしには、ロケットのように部屋を突進して横切るように見えました。レ バーを目一杯先へ進めました。ランプを消したようによるがやってきて、一瞬で 明日がやってきました。研究室は幽かで霞がかったように見栄、それからだんだ ん薄れてきました。明日の夜が真っ暗になってやってきて、それから昼、また 夜、また昼、それがどんどん速度を増しました。渦巻くつぶやきが耳を満たし、 奇妙なめくらめっぽうの混乱が意識にふりかかってきました。  時間旅行の奇妙な感覚は、どうもお伝えしようがありません。とんでもなく不 快なものです。スイッチバックの鉄道にのった時とまさに同じ感覚があります―― どうしようもない真っ逆さまな移動の感覚です! やがて衝突するという、同じ 恐ろしい予想も感じました。勢いを増すにつれて、昼と夜が黒い翼の羽ばたきの ように入れ替わります。研究室を示唆するおぼろな様子は、すぐに崩れ去り、そ して天を高速に太陽が横切るのが見えました。一分ごとに空をよぎり、一分ごと に一日が記されるわけです。たぶん研究室は破壊されて、空き地になったので しょう。なにか建築の足場のような印象が漠然とありましたが、動くものを識別 するにはすでにあまりに高速に動いているところでした。這いずるきわめて低速 なカタツムリですら、わたしには速すぎた。闇と明かりのきらめく連続は、目に はあまりに苦痛でした。それから間欠的な闇の中で、月が新月から満月までの月 齢で急速に回転するのが見え、そして回転する星もかすかにうかがえました。速 度を増しつつ進むにつれて、やがて昼と夜の点滅は、一つの連続的な灰色へと融 合しました。空はすばらしく深見のある青となりました。夕暮れすぐに、あのす ばらしく明るい色です。とびまわる太陽は、炎の帯となり、輝くアーチとなって 宙に浮かびます。月はもっとかすかに点滅する帯です。そして星は、空の青の中 でちょっと明るい円がときどき一瞬ともるのを除けば、まったく見えませんでした。  風景は霧がかってぼんやりとしていました。わたしは相変わらず、この家が今 も建っている斜面におりまして、斜面の肩が頭上に灰色くぼやけてそびえていま した。木々が蒸気の固まりのように、成長して変化するのが見えました。茶色に なったと思えば緑になり。育ち、広がり、ふるえ、そして枯れます。巨大な建物 が幽かに美しく立ち上がり、夢のように消えるのを見ました。地表面のすべてが 変わったようです――目の前で溶けて流れるかのよう。わたしの速度を記録するダ イヤルの針は、ますます速く回転しています。すぐに太陽の軌道が、一分以下で 夏至から夏至へと上下するのに気がつきました。つまりわたしの速度が、一分一 年に相当すると言うことです。そして一分ごとに白い雪が世界にちらついては消 え、そしてまばゆく短い春の緑に取って代わられました。  出発したときの不快な感覚は、もうさっきより収まっていました。最後にそれ は、一種のヒステリックな陽気さへと煮詰まっていったのです。マシンの説明の つかない奇妙な揺れについては申し上げました。でも意識が混乱しすぎて、それ に対処することもできず、一種の狂気にとらわれて、わたしは未来に飛び込んで いったのです。当初は、止まろうとはほとんど思わず、こうした新しい感覚以外 のことはほとんど考えませんでした。でもすぐに、新しい一連の印象が心中にふ くれあがり始めました――一種の好奇心と、それにともなうある種の恐怖です――そ してそれがついには完全にわたしを圧倒しました。目の前を駆け抜けては変動す る、おぼろでぼやけた世界を間近で見れば、いかに奇妙な人類の進歩、われわれ の未発達な文明からいかにすばらしい進歩が実現したかを見られるかもしれな い! 巨大ですばらしい建築、われわれの時代のどんな建物よりもはるかに壮大 なものがまわりに建ちましたが、それは輝きと霧でできているかのようでした。 もっと豊かな緑が斜面を流れるように登り、冬らしき中断なしにそこにとどまり ました。わたしの混乱のヴェールを通してでさえ、地球はとても平穏に見えまし た。そしてわたしの頭はやっと、止まるにはどうしようかという問題にたどりつ いたのです。  ここで固有の危険性は、わたしまたはマシンが占有する空間に別の物質が存在 するという可能性でした。時間の中を高速で移動する限りにおいては、これはほ とんど問題になりませんでした。わたしは、いわば薄まっていました――間に入る 物質のすき間を蒸気のようにすりぬけていたわけです! でも停止するには、わ たし自身を分子ごとに、なんであれわたしの行く手のあるモノの中に押し込むこ とになるわけです。つまり、わたしの原子を障害物の原子と非常に密接な接触状 態に持ち込むわけで、すさまじい化学反応――ヘタをすると大規模な爆発――が生 じ、わたしと我が装置をあらゆる次元から未知の世界へと吹き飛ばす可能性があ ります。この可能性は、マシンを作っている時に何度も何度も頭に浮かんだので すが、そのときは仕方がないリスクだと思って喜んでそれを受け入れたのです―― 男として引き受けるべきリスクだと! いまやリスクが回避不能となって、わた しはかつてほど嬉しげにはそれを考えられなくなりました。実際問題として、す べてのものの異様な奇妙さ、マシンの気分が悪くなりそうな振動と揺れ、何より も果てしなく落ち続けているような感覚のおかがで、知らぬ間に神経が完全にお かしくなってしまったのです。このまま絶対止まれないんだと自分に言い聞かせ ると、かんしゃくを爆発させたようにわたしはすぐに止まろうと決意しました。 あわてた愚か者のように、わたしはレバーの上にlugして、するとマシンはだら しなく横転して、そしてわたしは宙を投げ出されました。  耳の中で雷のような音がしました。一瞬気絶していたかもしれません。まわり には無情にもヒョウがうなって降り、わたしは横転したマシンの前の柔らかい土 盛りにすわっていました。すべてはまだ灰色に見えましたが、すぐに耳の混乱が 消えたことに気がつきました。見回すと、どうも庭園の小さな芝生らしきところ にいて、それがシャクナゲの茂みに囲まれています。そしてその深紫と薄紫の花 が、降り注ぐヒョウに打たれて次々に落ちてゆくのに気がつきました。地面には ねて踊るヒョウは、マシンの上空にクモ状にかかって煙のように地面にたたきつ けます。一瞬後にはびしょぬれになっていました。「おまえたちを見に数え切れ ない年月を旅してきたのに、大した歓迎だよ」とわたしはつぶやきました。  すぐに、そもそもびしょぬれになったこと自体が愚かだと気がつきました。立 ち上がってあたりを見回しました。すると巨大な像が、明らかに何か白い石から 刻まれて、霧がかった降水を通じてシャクナゲの向こうにぼんやりとそびえてい ます。でも世界のその他のものは何も見えませんでした。  そのときの感覚を説明するのはむずかしい。降り注ぐヒョウの柱が細くなるに つれて、白い像はもっとはっきり見えるようになりますた。銀の樺の木がその肩 に触れていたから、かなり大きなものです。白い大理石でできていて、何か羽の 生えたスフィンクスのような形ですが、その羽は脇に垂直についているのではな く、広げられていたので、滑空しているように見えました。台座は見たところ、 ブロンズ製で、緑青に覆われていました。たまたまその顔がこちらに向いていま した。何も見ていないその目は、わたしを見ているかのようです。その唇にはか すかに微笑が浮かんでいました。かなり風化していて、それが病気のような不快 な印象を与えていました。しばらくは立ちつくしてそれを眺めていました――三〇 秒ほどでしょうか、それとも三〇分だったか。降り注ぐヒョウが強まったり弱 まったりするたびに、こちらに向かってきたり下がったりするように見えまし た。やっとわたしは一瞬そこから視線を引きはがし、そしてヒョウのカーテンが かなりか細くなり、空が明るんできて太陽の約束が見えてきていることに気がつ きました。  うずくまる白い像を再び見上げると、自分の旅の無鉄砲さが一気に認識されて きました。この霧のようなカーテンが完全に消え去ったら、何が現れることだろ う。人類には、ありとあらゆることが起こった可能性がある。人類共通の情熱と して残虐さが発達していたらどうしよう? この期間に人類がその人間らしさを 失って、何か非人間的で、共感しがたい、圧倒的に強力なものに発達していたら どうしよう? わたしなんか、旧世界の野蛮な獣にしか見えず、共通の類似点の ためになおさら恐ろしく嫌悪すべき存在にすら見えるかもしれない――即座に殺し てしまうべき醜悪な生き物と思われるかもしれない。  すでに他の大きな形が目に入っていました――嵐がやむにつれて、入念なパラ ペットや高い柱を持った巨大な建物に、森の茂った斜面がぼんやりと迫ってきま す。わたしはパニック状の恐怖に襲われました。タイムマシンのほうにあわてて 向き直り、調整し直そうと苦闘したのです。そうするうちに、雷雨の中に日光の 筋が差し込んできました。灰色の降水は脇へ押しやられ、幽霊のひきずる衣装の ように消え失せました。頭上には、濃い青の夏空が広がり、かすかな茶色い雲の 切れ端が、やがて渦巻いては消え失せました。周辺の大きな建物は、はっきりと 目立つように浮かび上がり、雷雨にぬれて輝き、その途中でくっついた溶けてい ないヒョウのために、白い模様がついています。見知らぬ世界で裸になった気分 でした。澄んだ空気の中で、頭上に鷹が羽ばたいていて急降下してくるのを知っ ている鳥のような気分だったかもしれません。恐怖は狂乱にまでふくらみまし た。わたしは深く息を吸い込んで、歯をくいしばると、またもやひじと膝を使っ て、マシンと必死で格闘しました。わたしの必死の努力にあって、マシンは根負 けしてひっくり返りました。それが派手にアゴにあたりました。サドルに片手を かけ、片手をレバーにのせて、はあはあと荒い息をついてそこに立ったわたし は、再びマシンに乗り込もうとしました。  でもマシンを起こしてちょっと安堵がもどってきたので、勇気も回復しまし た。この遙かな未来世界を、もっと好奇心をもっておびえずに眺めてみました。 手近な家の壁高くにある丸い空き地に、豊かで柔らかいローブに身を包んだ一団 が見えました。向こうもわたしを見て、その顔がまっすぐこちらを見ています。  そのとき、近づいてくる声がしました。白いスフィンクスの隣のしげみをやっ てくるのは、走ってくる人々の頭と肩でした。その一人が、わたしがマシンの横 に立っている小さな芝生にまっすぐつながる小道にあらわれました。かれは小さ な人物でした――身長一メートル20センチくらいでしょうか――紫のチュニックをき て、それをウェストで革ベルトにより締めています。サンダルかバスキン――どっ ちかははっきりわかりませんでした――を履いています。脚はひざまでむきだし で、頭も毛がありません。それを見たとき、わたしは空気が実に暖かいことに初 めて気がつきました。  かれは見るからに美しく優雅な生き物でしたが、何とも言いようがなく脆弱な 感じでした。紅潮した顔は、肺病患者の美しいほうを思わせました――かつてわれ われがよく耳にした、あの消耗病の美です。かれを見て、わたしは急に安心感が 戻ってくるのを感じました。そしてマシンから手を離しました」 ------------------------------------------------------------------------ 4. 「次の瞬間、われわれは向かい合って立っていました。わたしと、この未来から きた繊細そうな生き物です。かれはまっすぐにこちらに歩み寄って、目を見て笑 いかけてきました。かれの振る舞いに恐怖の徴がまるでないことがすぐにわかっ て驚きました。それからかれは、後に続いていた二人のほうを振り返り、奇妙な とても甘く液状のことばで語りかけたのです。  他の人々もやってくるところで、すぐにこうしたexquisiteな生き物たち8人か ら10人ほどに囲まれました。一人がこちらに話しかけます。奇妙なのですが、自 分の声がかれらにはきつくて深すぎるのではないか、という考えが浮かびまし た。そこでわたしは頭をふって、耳を指さすとまた首を振りました。かれは一歩 進み出て、ためらうと、わたしの手に触れました。すると、他にも柔らかく小さ な手が背中や肩に触れるのが感じられました。わたしが本物かどうか確かめてい るのです。これにはまったく怖いことはありませんでした。このきれいな小さい 人々には、何か安心させるようなものがありました――優雅な穏やかさ、なにか子 供じみた警戒心のなさ。さらにみんな実にか弱く見えて、九柱儀のように一ダー スくらいまとめて放り投げられそうでした。でもかれらの小さなピンクの手がタ イムマシンをいじっているのを見たとき、急に動いて警告しました。ありがたい ことに、手遅れに成る前に、わたしはこれまで忘れていた危険に思い当たり、マ シンのバーの上にかがむと、マシンを動かす小さなレバーをねじってはずし、ポ ケットにおさめました。それからなんとか意思疎通ができないかと思いつつ振り 返りました。  それからかれらの姿形をもっとしっかり見てやると、かれらのドレスデン磁器 じみたきれいさに、さらに奇妙なところをいくつか見つけました。髪はみんな カールしていましたが、首とほおのところで急になくなっていました。顔には毛 がまったく見あたらず、耳は不思議なくらい小さいものでした。口も小さく、唇 は明るい赤でいささか細く、小さなほおがとがっていました。目は大きくて優し く、そして――これはこちらのエゴのように思えるかもしれません――期待したほど の興味を示してくれていないようにさえ思えたのです。  かれらはわたしと意思疎通をしようという努力をまったく見せず、単にまわり に立ったまま柔らかいクークー言う音で話し合っているだけだったので、こちら から会話を切り出しました。タイムマシンと自分を指さしました。それから時間 をどう表現したものかちょっと躊躇してから、太陽を指さしました。すぐに紫と 白のチェックを着たふうがわりにきれいな小人物がわたしの仕草を真似て、雷の 音を真似てこちらを驚かせてくれました。  一瞬ひるみましたが、かれの身振りの含意は単純きわまりないものでした。い きなり、ある疑問が頭に浮かびました。この生き物どもはバカなのではないか?  これがどんなにショックだったか、なかなかおわかりいただけないと思いま す。二八〇〇年かそこらの人々は、知識の面でも技芸の面でも、あらゆる点です さまじく進歩しているだろうと昔から思っていたのです。ところがその一人がい きなり、現在の五歳児並の知的水準しかないことをうかがわせる質問をするので すから――要するに、わたしが雷雨にのって太陽からやってきたのか、ときいたの です! かれらの服装や、か細い軽い手足、細い姿を見ても保留していた判断 が、本格的によみがえってきました。失望の流れが心を横切りました。一瞬、タ イムマシンを作ったのは無駄だったのかと感じました。  わたしはうなずくと太陽を指さして、雷鳴を実に真に迫って真似て見せたの で、みんな怯えたようでした。みんな一歩かそこら下がると頭を下げます。それ から、一人がこちらに笑いながらやってきて、まるで見たことのない花の輪を 持ってきて首にかけてくれました。このアイデアは、楽しげな拍手で迎えられま した。そしてすぐに、みんなあちこと走り回って花を探し、笑いながらそれをわ たしに投げかけて、花びらで窒息死そうなほどでした。ご覧になったことのない 皆さんは、数え切れない年月にわたる育成が作り出した花の繊細さやすばらしさ が想像もつかないでしょう。そしてだれかが、おもちゃを手近な建物で展示しよ うと思いついたようで、わたしは白い大理石のスフィンクス(それはずっとこち らを観察し、驚きぶりに微笑するようでした)の横を通って、腐食した石造の広 大な灰色の建築物につれてこられました。連れだって歩くうちに、圧倒的に深遠 で知的な子孫への確信をもった期待がふと思い出され、我ながらおかしくてたま りませんでした。  建物は巨大な入り口をしていて、全体はとてつもない大きさでした。もちろん 一番興味をひいたのは、増える一方の小さな人々の群衆で、また目の前で影をつ くりなぞめいた様子で口を開ける、大きな開いた入り口も興味をおぼえました。 かれらの頭上ごしに見た世界の全般的な印象は、美しい茂みや花のごちゃごちゃ した荒れ地、長く放置されていたのに雑草のない庭園、というものでした。背の 高い奇妙な白い花が突出しているのをたくさん見かけました。たぶんすべすべの 花びらは、差し渡しで30センチはあったでしょうか。それは色とりどりの茂みの 中、あちこちに散らばって生え、野生のようでしたが、でも申し上げたように、 そのときにはじっくり観察はしませんでした。タイムマシンはシャクナゲの中の 土盛りの上に、無人で残されました。  入り口のアーチは豊かに彫られていましたが、もちろんその彫刻をあまり細か く見はしませんでした。ただし通過するときに、古いフェニキア装飾のなごりを 見たような気はして、さらにそれがひどく壊れていて風化しているのに驚かされ ました。明るいふくを着た人々がもう何人か戸口でわたしを迎え、みんなで中に 入りました。わたしはむさくるしい一九世紀の衣服をまとって、それだけでもグ ロテスクなのに、花で飾り立てられて、明るく柔らかな色合いのローブと輝く白 い手足のうねる集団に囲まれ、メロディアスな笑いと楽しげな会話の渦中にいた のです。  巨大な入り口は、それに比例して巨大な広間に出ました。そこは薄暗くなって いました。屋根は影になっていて、窓は部分的には色つきガラスで覆われ、部分 的にはガラスなしでしたが、抑えた光を通していました。床は何かとても堅い白 い金属の大きなブロックでできていました。プレートでもスラブでもありません ――ブロックで、しかもかなりすり減っていました。たぶん過去の世代が言ったり 来たりしたせいで、通り道の部分は深くえぐれています。その広間の長手方向に 沿って、磨いた石のスラブでできたテーブルが無数にあって、それが床から30セ ンチほど持ち上がっており、そのてっぺんには果物の山がありました。一部は、 一種の肥大したラズベリーとオレンジだと見受けられましたが、ほとんどは見た ことのないものです。  テーブルの間にはものすごい数のクッションが散乱しています。そのクッショ ンの上に、わたしの先導者たちはすわり、わたしにもすわれと身振りで示しま す。見事なまでに何の儀式もなく、かれらは手づかみで果物を食べはじめ、皮や 芯などはテーブルのまわりの丸い空地に投げ捨てています。わたしもかれらの顰 みに習うのはやぶさかではありませんでした。のどが乾いて腹も減っていたから です。そしてそうしながら、暇を見てはその広間を観察していました。  そして何よりも驚いたのは、その荒れ果てた様子だったかもしれません。ステ ンドガラスの窓は、幾何学模様しか示していませんでしたが、あちこちで割れて いて、その低い部分にかかっているカーテンにはほこりが厚くこびりついていま す。そして手近な大理石のテーブルのかどが砕けているのも目につきました。そ れでも、全般的な雰囲気はきわめて豊かで壮麗でした。その広間で食事をしてい るひとは、数百人ほどだったでしょうか。そのほとんどが、できるだけわたしの 近くにすわり、興味津々でわたしをながめ、食べている果物の上で小さな目を輝 かせています。みんな同じ、柔らかいのに強い絹状の材質を身にまとっていました。  ちなみに、かれらの食事は果物だけでした。遙か未来のこの人々は厳格な菜食 主義者で、かれらといっしょにいる間は、ある程度の肉体的な渇望にもかかわら ず、わたしもまた果物だけ食べるしかありませんでした。実はあとでわかったの ですが、馬も、牛も、羊も、イヌも、すべてイクシオザウルスの後を追って絶滅 してしまったのでした。でもその果物はすばらしくおいしいものでした。特にわ たしがいた間ずっとシーズンだったらしき果物――三面のさやに入った小麦粉状の ものです――は特においしくて、それがわたしの主食でした。最初はこうした各種 の奇妙な果物や、目にした奇妙な花にとまどいましたが、やがてその重要性が理 解できるようになってきました。  でも、いまは遙か未来の果物の夕食の話をしていたんでしたっけ。やがて食欲 が少しおさまり、わが新しい人々のことばを断固として学ぼうという決意をした のです。明らかにそれが次にやるべきことでした。手始めにその果物を使うのが お手軽そうでしたので、それを持ち上げて、一連の問いただすような音や身振り を開始しました。いわんとするところを伝えるのはずいぶん苦労しました。最初 のうち、その努力はオドロキの凝視か、とめどない笑いをもって迎えられたので す。でもやがて、金髪の小さな生き物がこちらの意図を理解して、名前を何度も 繰り返しました。連中はぺちゃくちゃしゃべって、何が行われているかを延々と お互いに説明しあわなければすまないようで、その言語の見事なかわいい音をた てようという最初の試みは、すさまじくおもしろがられたのでした。でも、自分 が子供たちの中の校長先生のような気分になって、辛抱強く続けるうちに、やが ていくつかの名詞句を使いこなせるようになりました。それから指示代名詞、そ して「食べる」という動詞もものにしました。でもそれは遅々としてはかどら ず、小さな人々はやがて退屈して、こちらの質問から逃げようとしはじめます。 そこでわたしは、むしろ必要にかられて、向こうの気が向いたときにすこしずつ 教えてもらおうと決めたのです。そしてすぐに、それがいかに少しずつかを思い 知ることになりました。というのも、これほど怠惰ですぐに疲れる人は見たこと がなかったくらいだったのです。  この小さなご主人たちについてすぐに気がついた奇妙な点は、かれらが関心を 持っていないということです。かれらは子供のように、驚きの叫びをあげつつ やってきますが、子供のようにやがてこちらを調べるのをやめて、ほかのおも ちゃをおいかけてふらふらと向こうにいってしまいます。夕食と会話の発端がお わって気がつくと、こちらを囲んでいた人々はほとんど全員いなくなっていま す。またわたし自身、すぐにこの小さな人々を無視するようになったのも奇妙な ことです。飢えがおさまると同時に、入り口を通って日に照らされた外に出まし た。これら未来の人々にはさらに続々と会いましたが、みんなしばらくついてき て、ぺちゃくちゃしゃべっては笑い、親しげに微笑して身振りをしてみせると、 またわたしを放ってどこかへ行ってしまいます。  大ホールから出ると、夕暮れの穏やかさが世界を覆いつつあり、あたりは夕日 の暖かい光に照らされていました。最初、ものごとは実に困惑させるものでし た。何もかも、自分の知っている世界とはまるでちがっています――花でさえも。 後にしてきた大建築は、広い川による峡谷の斜面に立っていましたが、テームズ 川は現在の位置から一マイルほどもずれていたでしょう。二キロかそこら離れた ところにある丘のてっぺんに上ってやろうと思いました。そこからなら、紀元 802千2701年の地球をもっと広く見渡せるでしょう。ちなみに、タイムマシンの 小さなダイヤルが記録していたのはそういう日付けでした。  歩きながら、世界のおかれた豪華な廃墟状態をなんとか説明するのに役立つど んな印象でもいいから探し回ったものです――というのも、廃墟状態にはちがいな かったからです。たとえばちょっと丘をあげると、巨大な大理石の山が大量のア ルミのかたまりでまとめられていて、急な壁の広大な迷路やくしゃくしゃの山が あって、その中に非常に美しいパゴダのような植物――イラクサかもしれません―― があったのですが、それが葉のまわりがすばらしい茶色に染まっていて、トゲも ないのです。なにやら巨大な構造物の倒壊した残骸なのは明らかでしたが、何の ために建てられたものかは見極められませんでした。後になって、非常に奇妙な 体験を運命付けられていたのはここでした――もっと奇妙な発見に初めて出くわす ことになるのです――が、その件についてはまた折りを見て話すことにしましょう。  突然思いついて、しばらく休んでいたテラスからあたりを見回すと、小さな家 がどこにも見あたらないのに気がつきました。明らかに戸建て住宅や、それどこ ろか世帯そのものが消えたようです。緑の中のあちこちに、宮殿のような建物が ありましたが、わがイギリスの風景で実に特徴的な性質を形成している家屋や小 屋は、消えていました。 「共産主義か」とつぶやきが口をついて出ました。  そしてそこからの連想で別の思いつきが浮かびました。わたしは、後について きた半ダースほどの小さな姿を見ました。そして一瞬で、その全員が同じ形の服 装をし、同じ柔らかい毛のない顔立ちと、同じ女の子じみた丸みを帯びた手足を していることに気がつきました。今までこれに気がつかなかった奇妙に思えるか もしれません。でも何もかもがあまりに奇妙だったのです。いまや、事態がはっ きりと見えてきました。服装でも、その他現在では両性のちがいを示す各種の特 徴や装束の差においても、この未来の人々はまったく同じだったのです。そして 子どもたちは、わたしの目には親のミニチュア版にしか見えませんでした。その 時点で、この時代の子どもたちは少なくとも肉体的には実に早熟だと判断しまし たが。後にこの見解の裏付けは山ほど得られました。  この人々が暮らしている安楽さと安全性を見ると、男女がそっくりなのも考え てみれば予想がつくなと感じました。男の強さと女の柔和さは家族のための制度 であり、職業の区分は物理的な力の時代において圧倒的だった必要性にすぎない のです。人口がおちついて豊富になれば、多産は国にとっては喜びではなく悪と なります。暴力がほとんど生じず、子どもたちが安全なところでは、効率のいい 家族の必要性は下がり――いやまったく不要となり――子供のニーズに応えるために 性の役割特化も消えます。われわれの時代ですらその萌芽は見られますし、この 未来の時代にはそれが完成されたのです。申し上げておきますが、これはその時 点でのわたしの推測です、後に、これがいかに現実に及ばないものだったかを思 い知らされることになるのですが。  こうしたものをおもしろがって眺めているうちに、きれいな小構造物に目が向 きました。キューポラの下の井戸のようなものです。いまだに井戸があるという のは不思議だな、とふと思いましたが、また思索を続けました。丘のてっぺんに は大きな建造物はなく、そしてわたしの歩行力はどうやらすさまじいものだった ようで、じきに初めて一人にしておいてもらえました。自由と冒険の奇妙な感覚 を持って、わたしは頂上まで登りました。  そこにはなにやら見たこともない黄色い金属の座席があって、それがあちこち ピンクがかったさびで腐食し、柔らかいコケで半分覆われています。腕置きは、 グリフィンの頭を模して鋳造・彫刻されています。そこにすわり、その長い一日 の日暮れの下に広がる、われらが古き世界の広い眺めを見渡しました。それはこ れまで見たこともないほど甘く美しい眺めでした。太陽はすでに地平線の下にも ぐり、西の空は燃えるような黄金で、そこにいくつか紫と深紅の水平の雲がたな びいています。眼下にはテームズ川の峡谷で、そこに川が磨かれた鉄のように横 たわっています。すでに濃淡様々な緑のあちこちに点在するすごい場所について はお話しました。一部は廃墟、一部はまだ居住されています。あちこちに、地球 の荒れた庭の中に白や銀色の人影が浮かび、あちこちに何かキューポラやオベリ スクの鋭い垂直線が見かけられます。生け垣もなければ財産権のしるしもなく、 農業の存在もうかがえませんでした。全地球が庭園になってしまったのです。  そうやって眺めつつ、わたしは見てきたものについて、自分なりの解釈をあて はめ出しました。そしてその晩にわたしの頭の中で形成された解釈は、こんなも のでした(後に、自分の理解が半分しか正しくなかったこと――というか、真実の ごく一面をほんのかいま見たにすぎなかったことを知るのですが)。  自分がたまたま人類衰退期にやってきたのだと思えました。赤い日没が、人類 の没落を連想させたのです。初めてわたしは、現在われわれが取り組んでいる社 会的な努力の奇妙な帰結を認識しはじめました。でも、考えてみれば、それは確 かに論理的な帰結ではあります。強さは必要性の結果として生じます。安全性 は、弱さを有利にします。人生の条件を改善しようと言う作業――人生をますます 安全にする、真の文明化プロセス――はゆっくりとクライマックスに到達したので す。人類連合は自然に対し、一つ、また一つと勝利をおさめました。現在ではた だの夢でしかないことが、意図的に取り組まれ、勧められるプロジェクトとなり ました。そしてその成果がわたしの見ていたものだったのです!  なんと言っても、今日の衛生状態と農業はまだ未熟な段階でしかありません。 現在の科学は、人間の病気のごく一部を克服しただけですが、それでもその活動 範囲を着実にたゆまず進めています。われわれの農業や園芸は、ほんのちょっと した雑草を破壊して、ごく少数の豊かな植物を耕作しますが、その他多くは勝手 にバランスを実現するに任せています。ごく少数の――考えてみれば、何とも少な い数です――お気に入りの植物や動物をゆっくりと選択交配によって改善します。 こんどは新しい向上した桃、こっちではもっと便利な牛の種類。ゆっくりとしか 改善できないのは、われわれの理想が漠然としてうつろいやすく、また知識がと ても限られているからです。というのも自然も、われわれも不器用な手の中では 引っ込み思案でのろいからです。いつの日か、このすべてはもっとうまく案配さ れて、それがますます改善されるでしょう。よどみや逆流はあっても、それが流 れの方向性です。全世界が知的で教育を得て、協力するようになります。物事は 自然を支配すべくますます速度を増して動くでしょう。最後には、賢く慎重にわ れわれは、人類のニーズにあわせて動植物のバランスを調整しなおすことになる でしょう。  この調整が、思うに実施され、そして成功したにちがいありません。それもわ たしのマシンが跳び終えたあらゆる時間すべて、時間の幅のどこかで。空気には ブヨはいないし、地表には雑草もキノコもありません。いたるところに果物と、 甘く美しい花があります。美しいチョウがひらひら飛んでいます。理想的な予防 薬が実現されました。滞在中ずっと、伝染病がある様子はまったく見受けられま せんでした。そして腐敗と分解のプロセスでさえ、こうした変化によって根本的 な影響を被っていたようだ、と後で言わざるをえません。  社会的な勝利も影響を受けていました。わたしが見たのはすばらしい家屋に住 んで、華々しく着飾った人類でしたが、いまのところかれらが何ら労働にいそし んでいるところは見あたりませんでした。苦労のかけらもなありませんし、社会 的・経済的な闘争もないようです。店舗、広告、交通など、われわれの世界を構 成するあらゆる商業は消え失せていました。そしてその黄金の午後に、ここが社 会的パラダイスだという発想にとびついたのも当然でしょう。人口増からくる困 難も解決されたようで、人口は増加をやめたようでした。  でもこうした条件の変化には、必ずその変化への適応が伴います。生物科学が 何もかも間違っていれば話は別ですが、人類の知性や強さの原因はなんでしょう か? 苦労と自由です。活発で強く賢いものが生き延び、弱い者が押しやられる ための条件です。有能な人々の忠実な連合、自己抑制、辛抱、意志決定に報いる 条件です。そして家族制度とそこから生じる感情、強い嫉妬、子供への優しさ、 親の自己献身は、すべて幼き者たちにさしせまった危険があればこそ、正当化も 支持もされるのです。さて今や、その差し迫った危険はどこにあるでしょうか?  すでに夫婦間の嫉妬、強すぎる母性、あらゆる強い情熱をよくないものとする 感情が生じていて、それは今後さらに成長するでしょう。いまやこれは必要ない し、われわれを不快にするだけだし、野蛮な残存物で、洗練された快適な生活に おける不協和音なのです。  ここの人々の肉体的な脆弱さ、知性の欠如、そしてあの巨大で豊富な廃墟群の ことを考えました。そして、自然が完全に征服されたのだという信念は強化され ました。というのも戦いの後には静寂が訪れます。人類は強く、エネルギッシュ で、知性的であり、その豊富な活力を総動員して、自分の暮らす環境を変えよう としてきました。そしていまや、その変化した条件に対する反応がやってきたの です。  この完全な快適さと安全という新しい条件の下では、われわれにとっては強み であるあの落ち着かないエネルギーは、弱点になるのです。われわれのこの時代 ですら、かつては生存に必要だったある種の傾向や欲望は、絶え間ない失敗の原 因となっています。たとえば肉体的な勇気や戦闘への愛は、文明人には大して役 に立ちません――むしろ足を引っ張るかもしれない。そして肉体的なバランスと安 全の状態にあっては、力は、肉体的なものも知的なものも、場違いです。数え切 れないほどの年月にわたり、戦争や個別暴力による危険はなかったのだろう、と わたしは判断しました。野獣からの危険もなく、体質の強みを必要とする無益な 疫病もなく、苦役の必要もない。そんな人生にとって、われわれが弱者と呼ぶ者 たちは、実はもはや弱くはない。かれらのほうが適応しているのです。強者はは け口のないエネルギーに悩まされることになりますから。わたしの見た建物のす ばらしい美は、いまや無意味となった人類のエネルギーの最後の盛り上がりによ るものだったのでしょう。でもその後人類は、生存条件との完璧な調和に落ち着 いたのです――その勝利の反映が、最後の偉大なる平和を始めたのでした。これは 昔から安全のもとでのエネルギーの運命ではありました。それはアートとエロ ティシズムに向かい、やがて怠惰と退廃に向かうのです。  この芸術的な勢いすらやがては死に絶えます――わたしの見た時代ではほぼ死に 絶えていました。日光の下で自らを花で飾り、踊り、歌う――芸術精神で残ったの はそれだけ、他には何もありません。それさえも、いずれは満足しきった無活動 の中に消え去るでしょう。われわれは苦痛と必要性という砥石のおかげで鋭敏で いるのであり、その憎むべき砥石はここではついに壊されたのです!  深まりゆく闇の中に立ちつくしながら、わたしはこの単純な説明で世界の問題 を見切ったと思ったのです――こうした興味深い人々の秘密すべてを理解したと。 おそらくかれらが人口増を防ぐために考案した仕組みがあまりに成功しすぎて、 人口は一定に保たれるどころか減少傾向となったのでしょう。それで遺棄された 廃墟も説明がつく。きわめて単純な説明だし、実にもっともらしい――まちがった 理論の常として!」 ------------------------------------------------------------------------ 5. 「この人類の完璧すぎる勝利について考えながら立っていると、北東の空に満月 が黄色く立体感をもって上がってきて、銀色の光をあふれさせていました。下で は明るい小さな姿がうろつくのをやめ、無音のフクロウが横を飛びすぎ、そして 夜の冷気でわたしは身震いしました。下りて寝場所を探すことにしました。  見覚えのある建物を探しました。そしてブロンズの台座に乗った白いスフィン クスの姿に目が映りました。スフィンクスは、昇った月の光が強くなるにつれて はっきりしてきます。それに触れた銀のカバノキも見えます。シャクナゲのもつ れた茂みが、淡い光の中で黒く見え、そして小さな芝生がありました。その芝生 を見ました。奇妙な疑念がわたしの安心感に冷や水を浴びせました。「いやちが う」とわたしは強く自分に言い聞かせました。「あの芝生じゃない」  でもまさにその芝生だったのです。なぜならあばたのできたスフィンクスの白 い顔がそちらに向いていたのです。この確信が腑に落ちたときのわたしの気分が 想像つくでしょうか? 無理でしょう。タイムマシンは消えていたのです!  いきなり、顔をひっぱたかれたかのように、自分自身の時代を失うのではない か、この奇妙な新世界に寄る辺なく残されてしまうのでは、という可能性が頭に 浮かびました。それを考えるだけで、本当に肉体的な反応が生じました。それが わたしののどを締め上げ、息を止めるのが感じられました。次の瞬間、わたしは 恐怖の発作におそわれ、斜面を大股に駆け下りていました。一度、前のめりに転 んで顔を切ってしまいました。でも血をぬぐう暇もなく、とびおきて走り続け、 ほおとあごになま暖かい液体が流れるままにしました。走りながらずっと、 「ちょっと動かしただけだろう、茂みの中のじゃまのならないところに押しやっ ただけだ」と自分に言い聞かせ続けていました。それでも、必死で走り続けまし た。その間ずっと、過剰な恐怖に時々伴う確信をもって、わたしは自分の考えが 気休めにすぎず、マシンがわたしの手の届かないところに移動されたことを直感 的に悟っていました。呼吸するのも苦しかった。丘のてっぺんから小さな芝生ま での、おそらく3キロほどを10分もかからずにカバーしたでしょう。そしてわた しは若くはないのです。走りながら、マシンを置いて去った自分の自信たっぷり の愚行を声高にののしり、おかげで息がきれる始末。おおごえで叫んでも、だれ も答えてくれません。月に照らされた世界では、生き物一匹たりとも動いていな いようです。  芝生にたどりつくと、最悪のおそれが現実のものとなっていました。タイムマ シンはあとかたもありません。黒く生い茂ったやぶの中の、空っぽの空間に直面 したときには、気が遠くなって身震いがしました。それがすぐそこに隠してある かもしれないというようにあわててその周りを駆け回り、 急に立ち止まって、 手で髪をかきむしりました。頭上にはスフィンクスが、ブロンズの台座の上にそ びえ、白く、穴だらけで、上ってきた月の光に照らされています。わたしの絶望 をばかにしてほほえんでいるかのようです。  あの小さな人々が、わたしのために機械をどこかにしまってくれたのだと想像 することで慰めを得られたかもしれません。でも、わたしはかれらが肉体的にも 知的にもそんなことはできないのを感じ取っていました。だからこそわたしは がっかりしたのです。これまではうかがいしれなかった力があって、それが介入 してわたしの発明品は消えてしまいました。でも、一つだけ確信できたことがあ りました。別の時代にあの完全な複製品が生まれない限り、あのマシンは時間内 を動いたはずはありません。レバーの取り付け方――後で仕組みはごらんに入れま す――のおかげで、それを取り外したら、何人たりともそれを操作することは不可 能なのです。あれが移動して隠されたのは、空間内だけのこと。でもそれなら、 いったいどこにあるのでしょう?  たぶん何か狂乱状態に陥ったのでしょう。スフィンクスをずっと取り巻く、月 に照らされた茂みすべてに、あらっぽく駆け込んでは飛び出していたのを覚えて います。そしてそれにより、何か白い動物をびっくりさせたことも。薄明かりの 中で、それは小さな鹿に思えました。またその晩遅く、げんこつを握りしめて茂 みを殴りつけ、こぶしが折れた小枝のために傷ついて血が出ていたのも覚えてい ます。そして心が千々に乱れる中で泣いては怒鳴りつつ、わたしは巨大な石造建 築のほうに下っていきました。巨大な広間は暗く、静かで、無人でした。でこぼ この床ですべり、クジャク石のテーブルの一つの上に倒れこんで、ほとんど脛を 折りそうになりました。マッチをともして、すでにお話したほこりまみれのカー テンを通りすぎました。  そこには二番目の大ホールがあって、そこもクッションに覆われ、おそらく二 〇人ほどの小さな人々が眠っていました。かれらがわたしの二度目の登場をずい ぶん奇妙に思ったのはまちがいありません。いきなり静かな暗闇からあらわれ て、わけのわからない騒音をたて、マッチの音と炎を手にしているのです。とい うのも、かれらはマッチも忘れ去っていました。『わたしのタイムマシンはどこ だ?』とわたしは腹をたてた子供のように叫び、かれらを捕まえるとまとめて揺 さぶりました。かれらにしてみれば、ずいぶん奇妙に思えたでしょう。何人かは 笑いましたが、ほとんどは心底おびえた様子でした。まわりに立っているかれら を見たとき、恐怖の感覚を呼び覚まそうとするなんて、自分がいまの状況で最高 に愚かしいことをやっていると自覚しました。というのもかれらの日中の振る舞 いから判断して、わたしはかれらが恐怖を忘れたにちがいないと思ったのです。  あわててわたしはマッチをおろし、一人を突き倒しつつも、また巨大な食堂を よろよろと抜けて、外の月光の下に出ました。恐怖の声と、かれらの小さな足が あちこちで走っては転んでいる音が聞こえました。月が空に上るにつれて自分の やったことをすべて覚えているわけではありません。たぶん、狂乱してしまった のは、まったく予想もしない形でマシンを失ってしまったからなのでしょう。わ たしは自分の同類たちから絶望的に切り離された気がしました――未知の世界での 奇妙な動物になってしまったのです。あちらへこちらへとさまよい、神と運命に 向かって泣き叫びました。絶望の長い夜が過ぎるにつれて、ひどい疲労におそわ れた記憶があります。絶対にあり得ないような場所をあちこちのぞいたことも。 月に照らされた廃墟の中を闇雲につかみ回り、黒い影の中の奇妙な生き物に触れ たことも。最後に、スフィンクスの近くの地面に横たわって、圧倒的な悲嘆にく れて泣いたことも。それからわたしは眠りに落ちました。目をさますと、真っ昼 間で、土盛りの上ではツバメが二羽、手の届くところで飛び跳ねていました。  わたしは朝の新鮮さの中で身を起こし、自分がどうやってここにたどりついた か、なぜ自分がこんなにも深い孤独と絶望を感じているのか、思い出そうとしま した。すると頭の中がはっきりしてきました。ふつうのまともな日光の元で、わ たしは自分の状況を真正面から公平に見ることができたのです。夜間の狂乱ぶり がとんでもなく愚かしかったことも悟りましたし、自分で自分に合理的な説明も できました。『最悪の場合を想定してみようか。仮にマシンが丸ごと失われ――あ るいは破壊されていたら? 当然ながらわたしはおちついて辛抱強くなり、ここ の人々の風習を学んで、マシンがどのように失われたかはっきり理解しようとし て、材料や道具を手に入れる手段を身につけねばならない。そうすればいずれ、 もう一台マシンを作れるかもしれない』それが唯一の希望かもしれませんが、で も絶望よりはましです。それになんと言っても、ここは美しくおもしろい世界で はあったのです。  でもおそらく、マシンは単にどこかへ運び去られただけでしょう。それでも落 ち着いて辛抱強くその隠し場所を見つけ、力づくか籠絡かによってそれを取り戻 さなくてはなりません。そう思ってわたしはさっと立ち上がってあたりを見回 し、水浴びできる場所がないかと思いました。朝の新鮮さのおかげで、自分も同 じくらい新鮮な気分になりたいと思ったのです。興奮するのには疲れてしまいま した。作業を始めるにつれて、前日のすさまじい興奮ぶりを我ながら不思議に 思っているほどでした。小さな芝生のまわりの地面を慎重に調べてみました。通 りがかった小さな人々の一部に、そうしたことを精一杯伝えようとして、無駄な 質問時間をとられてしまいました。だれもわたしの身振りを理解してくれません でした。一部はぽかーんとその場に突っ立って、一部はそれが冗談だと思って笑 いました。その笑うかわいい顔につかみかかりたいのを抑えるのは、実に至難の 業ではありました。ばかげた衝動ではありましたが、恐怖と目もくらむ怒りに憑 かれた悪魔は抑えがきかず、いまだに我が困惑につけ込もうとしていたのです。 地面のほうが優れた情報を与えてくれました。スフィンクスの台座と、到着時に ひっくり返ったマシンと格闘したわたしの足跡との間の半ばくらいに、溝が引き 裂くように刻まれていたのです。それ以外にも移動のしるしがありました。ナマ ケモノがつけたと思えるような、奇妙な狭い足跡などです。これで関心がこの台 座にしぼられました。それは、すでに申し上げたと思いますが、ブロンズ製でし た。ただの箱ではなく、どの面も深いふちどりつきのパネルで入念に装飾されて いました。叩いてみると、台座は空洞になっていました。パネルを慎重に調べる と、それが枠とは分離しているのがわかりました。取っ手も鍵穴もありませんで したが、もしこのパネルが思ったように扉であるなら、中から開くのでしょう。 一つだけまちがいないことがありました。わがタイムマシンが台座の中にあると 推測するのは、大してむずかしくありませんでした。でもなぜそれがそこに入っ たのかは、別の問題です。  オレンジの服をまとった人の頭が二つ、茂みの中を通って、花に覆われたリン ゴの木の下をこちらにやってくるのが見えました。かれらにほほえみかけると、 こちらに差し招きました。かれらがくると、わたしはブロンズの台座を指さし て、これを開けたいのだという願いを伝えようとしました。でもこれを初めて身 振りでつたえたとき、かれらの振る舞いは実に奇妙なものでした。その表情をど うお伝えしたらいいものやら。繊細な心を持った女性に、とんでもなく不適切な 身振りをしてみせたとしましょう――そのときの女性の表情です。二人は、これ以 上の侮辱はあり得ないとでもいうようにその場を去りました。白い服の優しそう な人物も試してみたが、結果は全く同じでした。なぜか、かれの様子を見てわた しは自分が恥ずかしくなりました。でも、ご承知のとおりタイムマシンを取り戻 したかったので、もう一度その人物に働きかけてみました。かれが他のみんなと 同じように背を向けると、ついカッとなってしまいました。たった三歩で追いつ くと、そのローブのゆるい首周りをつかんで、スフィンクスのほうに引きずって いきかけたのです。でも、その表情に浮かんだ恐怖と嫌悪を見て、突然放してや りました。  でもわたしはまだ負けてはいませんでした。ブロンズのパネルをげんこつで殴 りつけました。何かが中で動くのが聞こえたような気がしました――正確には、何 かくすくす笑いのような音が聞こえたような気がしたのです――でもこれは気のせ いでしょう。それから、川で大きな石を拾ってくると、それを持って殴りつけ、 おかげで装飾の渦巻きが一つつぶれ、緑青が粉状のかけらになって落ちてきまし た。繊細で小さな人々は、遠くからでもわたしが荒っぽい激情に駆られて殴りつ けているのが聞こえたにちがいありませんが、何も起こりませんでした。斜面に 集団がいて、こっそりこちらを見ているのがうかがえました。とうとう暑くて疲 れてしまったので、わたしは座ってその場を眺めました。でも、長く見物してい るほどの落ち着きはありません。わたしは長い夜警をするにはあまりに西洋人す ぎるのです。ある問題に何年も取り組むことはできますが、二四時間何もせずに 待つとなると――それは話が別です。  しばらくして起きあがると、あてもなく茂みをの中を、丘に向かって歩き出し ました。そして自分に言い聞かせました。『あわてるな。マシンに再会したけれ ば、あのスフィンクスには手を出さないことだ。もし連中がマシンをどこかへ持 ち去る気なら、ブロンズのパネルを壊しても何の役にもたたないし、持ち去らな いなら、いつか頼めばすぐに返してもらえるだろう。あんなわけのわからないも のの中で、あんなふうにパズルの前ですわりこんでいるのは絶望的だ。その先に は偏執狂があるだけだ。この世界に直面しろ。その方法を学んで、観察し、その 意味についての性急な憶測には気をつけろ』。すると、状況のおかしさが頭に浮 かびました。何年もかけて研究と苦労を重ねて未来に到達しようとしてきたの に、いまや必死でそこから脱出しようとしている。わたしは人類がこれまで考案 したこともないほど複雑で、最も絶望的なわなを自分に仕掛けてしまったので す。対象は自分自身でしたが、どうにも抑え切れませんでした。わたしはげらげ ら笑い出してしまいました。  巨大な宮殿の中を通るうちに、どうも小さな人々がわたしを避けているように 思えました。ただの思いこみかもしれないし、ブロンズの門を叩いていたのと何 か関係があるのかもしれません。でも避けられているのは、まちがいないと感じ ました。でもわたしは、注意して何の懸念も見せないようにして、かれらを追い かけようとは絶対にしないことにしました。そして一日の終わりには、一人か二 人が昔通りにやってくるようになりました。わたしは言語でも多少なりとも進歩 をとげ、さらにあちこちで探求を深めました。細かい点が理解できなかっただけ かもしれませんが、かれらの言語はとてつもなく単純でした――ほとんど具体名詞 と動詞だけしかありません。抽象用語はほとんど、あるいはまったくなく、描写 的な言語はほとんど使われません。文はふつうは単純で単語二つしかなく、主張 や提案はきわめて単純なものしか伝えることも理解することもできませんでし た。タイムマシンとスフィンクスの下のブロンズの戸に関する謎は、なるべく記 憶の片隅におしやろうと決意しました。知識が増えれば、自然とそこにまた導か れるだろうと思ったのです。でもわたしの到着地点から半径数キロに範囲内にい ると、ある種の感情にさいなまれたことはご理解いただけるでしょうか。  わたしの見た限り、世界はすべて、テームズ峡谷と同じすばらしい豊かさを示 していました。上ったすべての丘からは、同じように壮大な建物がたくさん見 え、そのどれも材質や様式が果てしなく異なり、同じく緑が生い茂り、どこも花 咲く木や樹木だらけです。あちこちで水面が銀のように輝き、彼方では土地は青 い波打つ丘陵となり、やがて空の美しさにのみこまれていきました。すぐに目を 引いた奇妙な特徴として、ある丸い井戸がいくつかあって、かなり深いもののよ うでした。一つはわたしが初めて歩いた丘の上の小道の横にありました。 他の と同じく、これもブロンズでふちどられ、妙にすり減っていて、小さなキューポ ラで雨から守られています。こうした井戸の横にすわり、竪穴の暗闇を見下ろし ても、水の反射はまったく見られませんし、マッチで明かりをつけても、反射が 見えるわけでもありません。でもそのすべてで、ある音が聞こえました。ズンズ ンズン、というような巨大な動力機関の鼓動のようです。そしてマッチの炎のた なびきかたから、この竪穴にはずっと空気が流入し続けていることがわかりまし た。さらに紙切れを一つに投げ込んでみると、ひらひらとゆっくり落ちていくか わりに、さっと急速に引き込まれて見えなくなってしまいました。  またしばらくして、わたしはこれらの井戸を、斜面のあちこちに立っている高 い塔と結びつけて考えるようになりました。というのもそのてっぺんには、しば しば強い日差しにさらされた砂浜で見られるようなかげろうが見られたからで す。いろいろ総合して考えると、複雑な地下換気システムがあるという強い示唆 が得られました。その本当の重要性は想像が困難だった。まずはそれを、この人 々の衛生装置と関連づけようと思いました。すぐ思いつく結論ですが、圧倒的に まちがっていました。  そしてここで、排水や電話や輸送手段などの利便施設については、この真の未 来での期間中にほとんど学べなかったということは白状せねばなりますまい。 ユートピアのビジョンや来るべき世界の描写は読んだことがありますが、そこに は建物や社会的な仕組みなどについて、莫大な細部が書き込まれています。でも こうした細部は、全世界が想像の中に収まっているときにはすぐにわかるもので すが、ここで見いだしたような現実のさなかにいる本物の旅行者には、まるで手 の届かないものです。中央アフリカから出てきたばかりの黒人が、ロンドンにつ いて自分の部族にどんな話を持って帰るか想像してみてください! 鉄道会社だ の、社会運動だの、電信電話線だの、小包配達会社だの、為替だの等々について かれに何がわかるでしょうか? でもわれわれは、少なくともそうしたことをか れに喜んで説明してやるべきでしょう! そしてわれわれの知っていることのう ちで、この旅慣れぬ友人に理解させる、あるいは信じさせられるのはどの程度で しょうか? そして、いまの時代において黒人と白人の差がいかに小さいかを考 えてみてください。そしてわたしとこの黄金時代の間隙がいかに大きいかも!  わたしはほとんど目には見えないけれど、わたしの快適さに貢献していた多くの ものがあることを感じていました。でも自動化された仕組みがあるという漠然と した印象以外には、その差についてほとんどお伝えできないのではないかと思い ます。  たとえば葬儀の面では、火葬場や墓を思わせるものはいっさい見つけられませ んでした。でも、ひょっとしたら自分が探検した範囲外に墓(または火葬場)が あるのかもしれない、と思いつきました。これもまた、意図的に自分に投げかけ た疑問で、わたしの好奇心はこの点で完全に敗北したかのようでした。この物体 はわたしを不思議がらせ、そこからわたしはさらにある発見を行い、それでさら に不思議さはましました。この人々の中には、高齢者や体の不自由な人々がまっ たくいなかったのです。  白状しますと、自動化された文明と退廃した人類に関する最初の理論について の自己満足は、長続きしませんでした。でも、それ以外には思いつきませんでし た。何が難しかったかご説明しましょう。探検した巨大な宮殿のいくつかはただ の生活場所で、大きな食堂と就寝用アパートでした。機械も、装置も、まったく 見つかりません。それなのにこれらの人々は快適な布を身にまとっています。こ れも時には更新が必要でしょう。そしてかれらのサンダルは、装飾こそありませ んが、かなり複雑な金属細工の成果でした。こうしたものがどうにかして作られ なければならないはずです。でもこの小さな人々は、創造性のかけらも見せませ ん。店もなく、工房もなく、お互いの交易の様子すらうかがえません。みんなひ たすら穏やかに遊んで時間を過ごすばかり。川で水浴びしたり、遊び半分に愛を 交わしたり、果物を食べて眠ったり。どうやって物事が運営されているのか、 さっぱりわかりませんでした。  そして再び、タイムマシンのことがあります。正体はわかりませんが、何かが それを白いスフィンクスの空洞の台座に運び込みました。なぜでしょう。どう考 えても想像つきません。あの水のない井戸も、あのかげろうを発する円筒も。ヒ ントが欠けているように思いました。感じたのは――どう言ったらいいでしょう か。たとえば何か書き付けを発見して、ここそこでごく普通の立派な英語で文章 が書かれているのに、その間に単語や、ひょっとして文字すら、まったく見たこ ともないようなものが混じっている、という感じでしょうか。とにかく訪問の三 日目には、80万2千701年の世界はわたしにはそう見えたのです!  またその日は、一種の――友だちもできました。たまたま、浅瀬で水浴びをして いるこうした小さな人々を見ていると、一人が足をつらせて、下流に漂いはじめ たのです。本流はかなり急でしたが、そこそこの泳ぎ手でもそんなに強いとは感 じなかったでしょう。ですから、目の前で溺れている弱々しく泣き叫ぶ者をだれ もまるで助けようとしなかったというのは、これらの生き物に見られる奇妙な欠 陥について何事かを物語るものでしょう。これに気がついて、急いで服を脱ぎ捨 て、もっと下流の地点で水に入ると、可哀想なやつをつかまえて、彼女を安全な 陸地へと引き戻しました。手足をちょっとさすってやると、すぐに息をふきかえ し、彼女をあとにしたときにはもう大丈夫だというのがわかって、わたしは満足 でした。彼女の種族について実に低い評価しかしていなかったので、感謝はまっ たく期待していませんでした。でもこの点でわたしはまちがっていました。  これが起きたのは朝でした。午後に探検から自分のセンターに戻りかけていた とき、あの小さな女性だと思われる女性にでくわし、そして彼女は喜びの声をあ げてわたしを迎え、大きな花束を差し出しました――明らかにわたし一人だけのた めに作られたものです。それはわたしの想像力に訴えかけるものでした。たぶん 寂しい気持ちがあったせいものあるのでしょう。いずれにしても、その贈り物が うれしいことを精一杯伝えました。やがてわれわれは小さな石のあずまやに並ん で腰掛け、もっぱら微笑みあいから成る会話に没頭しました。この生き物の人な つっこさは、まさに子供と同じような形でわたしに影響しました。お互いに花を やりとりして、彼女がわたしの手にキスをしました。わたしも同じことを彼女の 手にしました。それから話そうとして、彼女の名前がウィーナということを知り ました。これは、意味はわかりませんでしたが、なぜか彼女にふさわしいように 思いました。これが奇妙な友情の発端でした。一週間続いて、そして終わりは―― これからお話しします!  彼女はまさに子供のようでした。いつもわたしと一緒にいたがります。どこに でもついてこようとして、次に出かけてうろつく探索行にでかけたときには、彼 女を疲れ果てさせ、ついには疲れ切っていささか悲しげにわたしの後から叫ぶま ま後に残していくのは、胸が痛みました。でも世界の問題は理解しなくてはなり ません。未来にやってきたのは、些末な恋愛ごっこのためじゃないんだ、とわた しは自分に言い聞かせました。でも後に残していったときの彼女の悲嘆はすさま じく、別れるときの説得ぶりは時に狂乱の息に達していて、彼女の献身ぶりから は、喜びと同じくらいの困惑を得たものです。それでも彼女は、なぜか実に大き な喜びをもたらしてくれたのです。彼女がわたしにくっついてきたのは、単なる 子供じみた愛情のせいだと思っていました。手遅れになるまで、彼女を後にした ときにわたしが彼女にどんな危険をもたらしていたのか、はっきりとは理解でき ませんでした。手遅れになるまで、自分にとって彼女が何なのかはっきりとは理 解できていませんでした。というのも、単にわたしのことを気に入った様子を見 せ、弱々しく無意味な形でわたしを気にかけてくれているのを示すうちに、この かわいらしい生き物はまもなく、白いスフィンクスのあたりに戻ってくるのが帰 宅に等しいような気分を作り出してくれたのです。そして丘を越えると同時に、 わたしは彼女の白と金色の小さな姿を探すようになりました。  世界から恐怖が消えたわけではないというのを学んだのも、彼女からでした。 彼女は昼間は恐れ知らずでしたし、実に不思議なことに、わたしをえらく信用し ていました。一度、ちょっとふざけて彼女に脅かすようなそぶりをしてみせたの ですが、笑い飛ばされただけでした。でも彼女は闇を恐れ、影を恐れ、黒いもの を恐れていました。唯一彼女にとって恐ろしいものは、暗闇でした。それはずば ぬけて情熱的な感情であり、わたしはそれでずいぶん考え込み、さらに観察を重 ねました。そして、いろいろ発見したことの一つとして、こうした人々が日暮れ 以降は大きな家に集まっていて、群れて眠るということがありました。明かりを 持たずにこうした家に入ると、かれらは不安がって大騒ぎします。一人として日 が暮れてからは外に出ず、屋外で一人で眠る者もいません。でも、わたしは頭が かたすぎて、その恐怖が教えてくれるものに気がつかず、そしてウィーナのおび えにもかかわらず、わたしはこの大群の眠りから離れて眠ることにこだわったの でした。  彼女は大いに困惑しましたが、最終的にはわたしに対する奇妙な好意が勝利を おさめ、われわれが知己を得た五晩、最後の夜も含め、彼女はわたしの腕を枕に して眠りました。が、彼女の話をするとつい話がそれます。彼女の救出の前の晩 だったはずですが、夜明け頃に目が覚めました。溺れて、イソギンチャクがその 柔らかい触手で顔をなでまわしているという実に不快な夢を見ていてうなされて いました。びくっとして目を覚ましましたが、なにやら灰色がかった動物がたっ た今部屋から飛び出していったという奇妙な印象が残ったのです。もう一度眠ろ うとしましたが、落ち着かず不愉快な感じでした。物事がちょうど闇からゆっく り抜け出そうとする、薄暗い灰色の時間で、何もかも色彩を欠いて明瞭で、それ なのに非現実的に見えるのです。起きあがり、大広間に入り、さらにそこを出て 宮殿の前の旗台に出たのです。そこで用を足すとともに、日の出を見ようと思い ました。  月が沈もうとしていて、消えゆく月光と夜明けの最初の明かりが混じって、不 気味な薄明かりとなっていました。茂みはインキのように真っ黒で、地面は重々 しい灰色、空は無色で陰気です。そして斜面の上のほうに、幽霊が見えたような 気がしました。斜面を見渡すたびに、そこに何度か白い姿が見えたのです。二度 は白いサルのような生き物がいささか素早く丘を駆け上っているのが見えたよう な気がしたし、一度は廃墟の近くで、それが三人一組でなにやら黒っぽい物体を 運んでいるのが見えました。動きは素早く、それがどこへ向かったのかはわかり ませんでした。茂みの間に消え失せたようです。夜明けはまだ明瞭ではなかった ことをご理解ください。ちょうどみなさんもご承知かもしれない、あの寒い自信 のない早朝の雰囲気を感じていたのです。自分の目が信用できませんでした。  東の空が白むにつれ、昼の光が強まって、その鮮やかな彩色が再び世界の上に 戻ってくるにつれて、わたしは風景の中を熱心に探し回りました。でも、あの白 い人影は影も形もありません。あれは単に、おぼろな光の生き物だったのかもし れません。「幽霊だったんだろう。いつ死んだんだろうか」とわたしは口に出し ました。というのも、グラント・アレンの奇妙な発想がふと思い浮かび、おもし ろいなと思ったのです。各世代が死んで幽霊を残すなら、世界はやがて幽霊過密 になってしまうだろう、とかれは論じました。その理論にしたがえば、80万年ほ ど後では幽霊は文字通り無数になっていたでしょうし、だから4匹一度に見たと ころで何の不思議もありません。でもその冗談は満足のいかないもので、わたし は朝の間ずっとあの姿のことを考えていたのですが、そこでウィーナが救いにあ らわれて、それを頭から追い払ってくれました。わたしはそれを、初めて熱心に タイムマシンを探したときに脅かした、あの白い動物となぜかしら結びつけてい たのです。でも、ウィーナの方が考えるには気分がよかった。とはいえ、それら はやがて、わたしの意識に遥かに恐ろしい形で取り憑くことになるのです。  この黄金時代の天候が、われわれの時代よりずっと暑かったことは申し上げた かと思います。理由はわかりません。太陽が暑くなったのか、地球が太陽に近づ いたのか。将来は太陽がどんどん冷却化すると考えるのが通例のようです。でも 若きダーウィンのような考察に慣れていない人々は、惑星はいずれ一つずつ母星 に落下して戻らなくてはならないのだ、ということを忘れてしまいます。こうし た転変地異が起こるにつれて、太陽はエネルギーを更新してまた燃えさかるで しょう。そして、いくつか内側の惑星がこうした運命を迎えたのかもしれませ ん。理由は何であれ、太陽はいまよりもずっと暑かったというのは事実です。  とにかく、とても暑いある朝――たしか四日目だったと思います――眠って食事を する大きな家に近い、巨大な廃墟の中で、熱と陽光から逃れようとしていると き、奇妙なことが起こりました。煉瓦の山を登っているうちに、狭いギャラリー に出たのですが、その端とスライド式の窓が倒れてきた石の山でブロックされて います。屋外の明るさに比べて、最初はそこは入るのもはばかられるほど真っ暗 に思えました。明るいところから暗いところに変わって、目の前に色のついた点 がちらちらしているほどだったので、手探りでその中に入りました。急にわたし は、呪文にかかったように凍り付きました。外の日光を反射して輝く目が二つ、 暗闇の中からこちらを見ているのです。  昔ながらの本能的な野獣に対する嫌悪がわき起こりました。手を握りしめる と、ぎらつく目玉をしっかりとにらみつけました。背を向けるのはこわかった。 そのとき、人類が絶対的な安全の中に暮らしているように思えたことが頭に浮か びました。そして暗闇に対する奇妙な怯えも。多少は自分の恐れを克服して、わ たしは一歩進み出て話しかけてみました。その声がきつくて、抑えが効いていな かったことは認めざるを得ません。手をのばすと、何か柔らかいものに触れまし た。すぐに目は横に飛び退いて、何か白いものが脇をすりぬけていきました。わ たしは死ぬほど驚いて振り返り、そして奇妙な小さいサルのような姿が、独特の 形で頭を下げ、背後の陽に照らされた空間を駆け抜けるのを目にしたのです。そ れは花崗岩のかたまりにぶつかって、よろめき、そして一瞬で別の壊れた煉瓦壁 の山の下にある、黒い影の中にかき消えてしまいました。  それについてのわたしの印象は、もちろん不完全なものです。でもそれが鈍い 白で、奇妙に大きな灰色がかった赤の目をしているのはわかりました。さらに頭 と背中にかけて亜麻色の毛もありました。でも申し上げたように、はっきり見て 取るにはあまりに素早かった。それが四つ足で走ったのか、前の腕をとても低く 下げていただけなのかもわかりませんでした。一瞬止まってから。わたしはそい つの後を追って二つ目の廃墟の山に入っていきました。最初はそいつを見つけら れませんでした。でもその広大な茫漠の中でしばらくするうちに、すでにお話し したあの丸い井戸のような開口部の一つに出くわしました。これが倒れた柱に よって半分閉じています。いきなりひらめきました。あの生き物は、この竪穴の 中に消えたんじゃないか? わたしはマッチをともし、見下ろすと、小さな白い 動く生き物が見え、そいつが大きな明るい目で、退却しつつもこっちをじっとに らんでいました。実に人間グモのようでした! そいつはかべをはい降りつつ あって、いまや初めてその竪穴に金属の足場がたくさんついていて、そこを降り るはしご代わりとなっているのがわかりました。そのときマッチの火が指を焼 き、手から落ちて、落下するうちに消えてしまい。そしてもう一本マッチを擦る 頃には、小さな怪物は消えていました。  その井戸の中を、どれほどのぞきこんでいたのかはわかりません。自分が見た ものが人間だったと言うことを自分に納得させるのに成功するまで、かなりの時 間がかかりました。でもやがて、真実が見えてきました。人類は一つの種のまま ではなく、二種類のちがった動物へと差別化していったのです。地上世界の我が 優雅な子どもたちは、われわれの世代の唯一の子孫ではなく、わたしの目の前を 駆け抜けた、あの漂白されて醜悪な夜行性の代物も、この時代を通じてずっと子 孫だったのだ、と悟ったのです。  わたしはちらつく小塔と、自分の地下換気理論のことを考えました。かれらの 真の意義がわかってきたのです。そしてこのレムールは、完全にバランスのとれ た組織という我が図式の中で何をしていたのでしょうか? 美しい地上世界人た ちの怠惰な静穏とどう関係しているのだろう? そしてあの縦穴の底、地下には 何が隠されているのだろう? わたしは井戸のふちにすわって自分に言い聞かせ ました。とにかく何も恐れることはないのだ、と。そして我が困難の解決のため には、あそこに下って行かなくてはならないのだ、と。 そしてそれにもかかわ らず、わたしはそこに行くのが心底怖かった! ためらううちに、美しい地上世 界の人々が二人走ってきて、日光の中を影から影へと走る、かれらの優雅なス ポーツをやっていました。男が女を追いかけ、走りながら花を投げつけています。  かれらは、ひっくり返った塔に腕をかけて井戸をのぞいているわたしを見つけ て、おびえたようでした。どうやらこうした装置について言及するのはよくない ことと思われていたようです。というのも、これを指さして、かれらの言語でそ れについての質問をしようとすると、かれらはいっそうおびえて、背中を向けて しまいました。でもマッチには興味を持ったようで、かれらを楽しませるために 何本か擦ってやりました。井戸についてもう一度きいてみましたが、また失敗で す。そこで、じきにかれらを後にして、ウィーナのところに帰ろうと思いまし た。彼女なら何か教えてくれるかもしれません。でも頭の中はすでに大混乱して いました。憶測や印象が揺れ動いては変動し、新しいところにおさまろうとして いたのです。いまやこうした井戸や換気塔、そして幽霊たちの謎についてヒント が得られました。そしてもちろん、ブロンズの門の意義やタイムマシンの行方に ついても! そして非常に漠然とですが、悩んできた経済上の問題の答えに向け て、示唆が思い浮かんだのです。  新しい見方というのはこうです。明らかに、この人類二番目の種は地下にすん でいます。かれらがたまにしか地上に登場しないのは、長く続いた地下の習慣の 結果だと思わせる状況証拠が三つありました。まず、暗闇の中でもっぱら過ごす 動物たち――たとえばケンタッキーの洞窟に住む魚など――に共通の、あの漂白され たような外見があります。そしてあの光を反射できる大きな目は、夜行性動物の 共通の特徴です――フクロウやネコをごろうじろ。そして最後に、日光の下で明ら かに混乱していて、あわててしかもよたよた不器用に暗い影に逃げ出すやるか た、そして光の下にいるときには奇妙な形で頭を覆っていること――このすべて は、瞳孔がきわめて敏感だという仮説を強化するものです。  すると足下では、地下にすさまじいトンネルがほられ、そのトンネルは新しい 人種の居住地になっているにちがいありません。丘の斜面沿いの換気シャフトや 井戸の存在――いや、川の峡谷沿いを除けば実はあらゆる場所にありました――はそ の広がりがいかに広大かを告げています。でしたら、昼間の種族の安楽のために 必要な仕事が、この人工の地下世界で行われていると想定すること以上に自然な ことがあるでしょうか。この考えはあまりに納得がいったので、わたしはすぐに それを受け入れ、この人類の分裂がどうやって起きたかを考え始めました。たぶ んあなたたちも、わたしの理論の方向性は予想がつくはずだ、と申し上げておき ましょう。でもわたし自身はといえば、やがてそれが真実に遙かに及ばないもの であると感じることになったのですが。  最初、われわれの時代の問題から考えを進めると、資本家と労働者の間の、現 在では単に一時的で社会的な相違が徐々に拡大してきたのが、この状況すべてへ の鍵だと言うことは真昼のように明らかに思えました。もちろんあなたたちには グロテスクに思えるでしょう――そしてまるで信じられないと!――でも現在です ら、その方向を示すような状況が存在しているのです。文明の中であまり見栄え のしない目的のためには地下空間を使う傾向があります。たとえばロンドンでは 都市地下鉄道がありますし、新しい電気鉄道も、地下通路も、地下の作業室やレ ストランもありますし、それが増えては増殖しています。明らかに、この傾向が 拡大して、やがて産業は徐々に空に対する生得権を失ってしまったのだ、とわた しは思いました。つまりそれがますます深く、ますます大きな地下工場へと移行 し、その中でますます多くの時間をすごすようになって、そしてついに――! 今 ですら、イーストエンドの労働者たちは実に人工的な環境に住んでいて、実質的 に地球の自然な表面からは切り離されているのではありませんか?  またも、裕福な人々特有の性向――まちがいなく教育がますます洗練され、かれ らと貧困者の粗野な暴力との間の溝が拡大してきたせいですが――のおかげで、地 表面のかなりの部分は、かれらの利益になるような形で囲い込まれています。た とえばロンドン周辺では、見目麗しい方のいなかのうち、半分は侵入できないよ うに囲われているでしょうか。そしてこの広がる溝――それは高等教育の長さと費 用と、金持ちの洗練された習慣のための設備向上と魅力の高まりのせいなのです が――は、階級間の交流、現在では人類が社会的な階層化によって分断されるのを 抑えている、あの階級間の婚姻による階級移動は、ますます起こりにくくなりま す。したがって最後には、地上には持てる者がいて、快楽と安楽と美を追究し、 地下には持たざる者、自分の労働条件にますます適応する労働者たちがいるよう になります。いったん地下に入ったら、まちがいなく賃料を支払うことになるで しょう。しかも、かなりの額のはずです。あの洞窟の換気設備がありますから。 そしてそれを拒否すれば、未払い金のせいで飢え死にするか絞め殺されるでしょ う。惨めさや反逆心を感じるように作られた者たちは死にます。そしてついに は、バランスが永続的なものとなり、生き残った者たちは地下生活の条件に立派 に適応し、地上世界の人がこちらで感じているのと同じような幸せを、地下の暮 らしで感じるようになります。わたしの目には、洗練された美としおれたような 蒼白さはそこから十分自然に続いてくるものでした。  わたしが夢見た人類の偉大な勝利は、心の中でまったく別の形をとって現れま した。それはわたしが想像したような、道徳教育と全般的な協力の勝利ではあり ませんでした。かわりに、本物の貴族階級が完全な科学で武装して、今日の産業 システムの論理的帰結にまで突き詰めたのが見いだされました。その勝利は単に 自然に対する勝利ではなく、自然と仲間の人間に対する勝利でした。警告してお きますが、これは当時のわたしの理論でした。ユートピア関連書のパターンに関 する手軽な案内はありませんでした。だからわたしの説明はまるっきりまちがっ ているかもしれない。それでも、いちばんもっともらしい説明だと思います。で もそう想定したとしても、ついに実現したバランスのとれた文明は、たぶんその 最盛期を遙か昔に過ぎ、いまや衰退に落ち込んで久しいようでした。地上世界人 たちのあまりに完璧すぎる安全保障は、かれらをゆっくりと退行させて、体の大 きさも、強さも、知性も、全般に縮んでいったのです。この点はすでに十分に はっきりと見て取れました。地下世界人たちに何が起きたか、そのときはまだ見 当がつきませんでした。でもそれまでに見たモーロックたちから判断して――ちな みにモーロックというのは、この生き物たちの呼び名でした――わたしがすでに 知っていた美しい種族「エロイ」たちに見られるよりもっと激しい人間の変形が 生じたものと思われます。  そして困った疑念がわき起こりました。なぜモーロックたちはわたしのタイム マシンを持ち去ったのか? というのも、それを取ったのはまちがいなくかれら だと思ったのです。また、もしエロイが主人であるなら、なぜかれらはマシンを わたしのところに戻してくれないのか? そしてなぜかれらは暗闇をひどく恐れ るのか? すでに述べたように、地下世界についてウィーナに問いただし始めま したが、ここでもがっかりさせられました。最初、彼女はわたしの質問を理解せ ず、理解した後はそれに答えることを拒否したのです。そして追求すると、詰問 がきつすぎたのか、いきなり泣き出しました。この黄金時代に見た涙は、自分自 身のものをのぞけば、それが唯一のものでした。それを見て、わたしはあわてて モーロックたちのことで悩むのをやめて、こうした人間の遺産の徴をウィーナの 目から消滅させることに専念しました。そしてまもなく、わたしが荘厳にマッチ をともすのを見て、彼女は笑っては手をたたいていました。 ------------------------------------------------------------------------ 6. 「奇妙に思えるかもしれませんが、新しく見つけた証拠を、どう見ても適切だと 思える形でフォローアップできるまでに二日かかりました。あの青白い体に、ど うも独特の身がすくむ思いを感じたのです。かれらは、ミミズや、動物学博物館 でアルコール漬けにして保存されているようなものに見られる、漂白しかけたよ うな色をしています。そしてさわると、気持ち悪いほどに冷たいのです。たぶん わたしが身をすくませたのは、エロイからの好意的な影響も大きかったのでしょ う。かれらのモーロックたちに対する嫌悪を、わたしも理解するようになりました。  翌晩は、あまり眠れませんでした。健康状態もちょっと不調だったのでしょ う。困惑と疑念に圧倒されていました。一度か二度、理由のはっきりしない強い 恐怖に襲われました。小さな人々が月光に照らされて眠っている大ホールに、音 をたてずに忍び込んだのを覚えています――その晩、ウィーナがそこにいました―― そしてかれらがそこにいることで安心したのを覚えています。そのとき、この数 日の間に、月が最後の月齢を経て、夜が暗くなるにつれて、この地下からの不快 な静物たち、この漂白したレムールたち、かつての害獣に置き換わった新たな害 獣たちの登場ももっと頻繁になるだろうと思い当たりました。そしてこの両日、 わたしは避けがたい責務から逃避する人物の落ち着かない気分を味わってきまし た。タイムマシンを取り戻すには、この地下の謎に果敢に乗り込むしかないと確 信していました。でもその謎に直面できませんでした。連れがいれば、話はち がったでしょう。でもわたしはとてつもなく孤独で、あの井戸の闇に下りるだけ でも、とんでもないという気分でした。この気持ちがご理解いただけるかはわか りませんが、背中にいつも危険を感じていたのです。  この落ち着かなさ、この不安さのせいで、さらに探検旅行を進めようと思った のかもしれません。南西部の、現在はコームウッドと呼ばれている高くなった地 域に向かうと、十九世紀のバンステッドの方角に巨大な緑の構造物が遙かかなた に見えました。これまで見たほかのどんな建物とも性格がちがっています。これ まで見ただ委細の宮殿や廃墟のどれよりも大きく、そのファサードは東洋風でし た。その表面は、ある種のシナの磁器のような光沢と淡い緑の色調、一種の青看 取りがかった感じがありました。この外見のちがいは、使途もちがうことを思わ せました。だから前進して探求しようという気になりました。でもその日は遅く なっていましたし、その場所を見つけるまでにかなり長く疲れる旅をしてきまし た。そこで探検は翌日にまわそうと決めて、小さなウィーナの歓迎と愛撫のもと に戻ったのです。でも翌朝、緑の磁器の宮殿に対する好奇心は一種の自己欺瞞 で、自分が心底やりたくない体験をもう一日先送りしようとしているだけだ、と いうのが自分ではっきりわかりました。どこでこれ以上時間を無駄にせずに、地 下に下りようと決め、翌朝早朝に、花崗岩とアルミの廃墟の知覚にある井戸のほ うに出発しました。  小さなウィーナがいっしょに走ってきました。井戸の横までわたしの隣で踊り ましたが、その縁に乗り出してのぞき込んでいるのを見ると、彼女は不思議と当 惑したようでした。『さよなら、小さなウィーナ』とわたしは彼女にキスしまし た。そして彼女を下に下ろすと、パラペットの向こう側を探ってのぼるための フックを探しました。かなり急いでいたと告白しましょう。なぜなら、勇気が漏 れ出てしまうのがこわかったからです! 最初、彼女は不思議そうにわたしを見 ていました。それから実に悲しげな悲鳴をあげると、こちらに駆けだして、小さ な手でわたしをひっぱり始めました。彼女の反対ぶりは、むしろ先に進むようわ たしをうながしたと思います。彼女を、ひょっとするとちょっとあらっぽく振り 払い、そして次の瞬間わたしは井戸の口に入っていました。パラペットの上に彼 女の苦悶する顔が見えたので、にっこりして安心させてやりました。それから、 見下ろして、自分がつかまっている不安定なフックを見なければなりませんでした。  二百メートルほども縦穴をくだらなくてはならなかったでしょうか。下りるの は井戸の横からつきだした金属の棒につかまって行いましたが、これはわたしよ りずっと小さくて軽い生き物のニーズに適応したものだったので、すぐに手足が しびれて疲れてきました。それもただの疲れではありません! 棒の一つが重み で急に曲がり、下の暗闇にわたしをお年駆けたのです。一瞬、片手だけでぶら下 がり、その体験の後は二度と休む気はしませんでした。腕や背中がすぐに多いに 痛み始めましたが、ひたすら降下をなるべくはやい動作で続けたのです。上を見 ると、開口部が小さな青い円盤となって見え、そこに星が見え、そして小さな ウィーナの頭が丸い黒い影として見えています。下にある機械の鼓動はますます 大きく抑圧的になってきました。頭上の小さな円盤を除くすべてが実に暗く、も う一度目を上げるとウィーナも消えていました。  不快感がつのってつらい状態でした。縦穴を戻って登り、地下世界は放ってお こうかとも思いました。でもこれを頭の中で半数しつつも、降下を続けました。 とうとう、心底ほっとしたことに、右手30センチのところに、細い抜け穴が壁に あるのがぼんやり見えました。そこに飛び込んでみると、横になって休める狭い 横穴の開口部だったのです。腕が痛み、背中が凝っていて、落ちるのではとずっ と怯えていたのでふるえていました。これ以外に、とぎれない闇が目には不愉快 な影響をもたらしていました。空気は縦穴に空気を取り込んでいる機械の脈動と 騒音でいっぱいでした。  どれだけ横たわっていたのかはわかりません。柔らかい手が顔を触っているの で気がつきました。闇の中でガバッと身を起こし、マッチをつかんであわてて一 本擦りました。すると地上の廃墟の中で見たのと似た、よたよたした白い生き物 が三匹、光の前にあわてて退却するところが見えました。かれらのように、わた しには何も見えない暗闇としか思えないものの中で暮らしているかれらの目は、 以上に大きくて敏感でした。まるで闇の中の魚の瞳孔と同じで、そして同じよう に光を反射するのです。あの光なき闇の中でも、やつらにはわたしが見えるのは まちがいありません。そして光を除けば、かれらはまるでわたしを恐れていない ようです。でも、連中を見ようとマッチを擦ったとたん、みんなあわてて逃げだ し、暗い溝やトンネルに消えて、そこから目だけが実に不思議な形でこちらをじ ろりと見ています。  呼びかけようとしましたが、かれらの言語はどうやら地上世界の人々のものと はちがっていました。だからわたしは当然、わが助けのない試みの中に取り残さ れ、探検の前に逃げようという考えが早速頭に浮かびました。でも自分に言い聞 かせたのです。『おまえはもう足を突っ込んでいるのだ』と。そしてトンネルの 中を手探りで進むにつれて、機械の音が大きくなってくるのがわかりました。す ぐに壁が開けて、大きな広場にやってきました。マッチをもう一本擦ると、巨大 なアーチ上の洞窟に出たのがわかりました。それはわたしの光の届かない暗闇の 彼方にまで広がっていたのです。わたしが見たのは、マッチの火で見えるだけの ものでしかありませんでした。  当然、記憶もはっきりしません。大きな機械状の巨大な形が闇の中からそび え、グロテスクで黒い影を投げかけ、その影の中にぼんやりと、幽霊のような モーロックたちが輝きから身を隠しています。ちなみにそこは、非常に息苦しく て圧迫感があり、空中には流れたばかりの血の臭気がかすかに感じられました。 中央通路を少し下ったところに、白い金属の小さなテーブルがあって、そこに食 事らしきものが置かれていました。モーロックたちは、何はともあれ肉食でし た! その時ですら、目にした赤いジョイントに載るだけの大型動物で何が生き 残ったのだろうか、と不思議に思ったのを覚えています。どれもはっきりしませ んでした。きついにおい、巨大な意味不明の形、影の中でうごめく醜悪な姿、そ してそれが単に、闇がわたしを襲うのをひたすら待ちかまえている! そのとき マッチが燃え尽きて指を焦がし、地面に落ちました。暗黒の中でもがく赤い斑点 として。  それまでにも、自分がこんな体験にはいかに装備不足だったかと考えたもので す。タイムマシンで出発したときには、未来の人類はあらゆる道具において、わ れわれより途轍もなく先を行っているにちがいないというばかげた想定を持って いたのです。武器も、医薬品も、喫煙具も――時にタバコが死ぬほど恋しかったも のです――マッチすら十分に持たずにやってきしてまいました。コダック(カメ ラ)を持ってくることを思いついていれば! この地下世界の様子を一瞬で写し 取ることができたでしょうに。でも現実には、そこで立っているわたしは自然が 与えてくれた武器しか持っていませんでした――手、足、歯。そしてそれに加え て、まだ手元に残った安全マッチが四本。  わたしは闇の中でこんな各種の機械の中を前進するのが怖かった。そして光が やっと見えたところで、マッチの蓄えが底を尽きかけているのに気がつきまし た。その瞬間まで、マッチを節約する必要があるなどとは思わず、火を物珍しが る地上世界の住民を驚かせるのに箱の半分を使ってしまっていました。いまやす でに述べたように、マッチは四本しか残って折らず、闇の中で立っていると手が わたしのに触れ、ひょろ長いな指が顔をなで回し、そして独特の不快なにおいが しました。その怖気をふるうような小動物どもの群れの呼吸が、まわりで聞こえ たような気がしました。手に握ったマッチ箱がそっと引きはがされ、そして他の 手がわたしの服を引っ張っているのが感じられます。この目に見えぬ生き物たち がわたしを調べている感覚は、表現しようがないくらい不快でした。そして急 に、かれらの考え方や行動様式を知らないという認識が、暗がりの中で鮮明に 襲ってきました。思いっきり怒鳴りつけてやりましたよ。連中は驚いて離れまし たが、でもまた接近してきたのが感じられました。もっと大胆にわたしにつかみ かかり、お互いに変な声で囁きあっています。わたしは激しく身震いすると、い ささかおびえたようにまた怒鳴りました。今回は向こうも本気では怖がらず、ま た戻ってきながら変な笑い声らしきものをたてています。白状しますと、わたし はすさまじく怯えていました。マッチをもう一本擦って、その輝きの保護のもと で逃げようと思いました。そしてそれを実行し、さらに炎をポケットから引っ張 り出した紙切れを燃やして補いつつ、狭いトンネルへ一目散に逃げ出しました。 でもそこに入ったか入らないかのうちに、光は吹き消され、闇の中でモーロック たちが風にそよぐ木の葉のようにかさかさと音をたて、パタパタと雨のような足 音で、後を追ってきます。  すぐにいくつかの手につかまれ、それがわたしを引き戻そうとしているのはま ちがいありませんでした。もう一本マッチを擦って、火をあわてふためくやつら の顔の前で振りました。かれらがいかに吐き気のするほど非人間的だったか、ご 想像いただけないと思います――あの青白い、アゴなしの顔と巨大でまぶたのない ピンクがかった灰色の目!――その目が盲目と驚愕の中で見つめているのです。で も断言しますが、それを眺めるためにとどまったりしませんでした。再び退却 し、そして二本目のマッチが消えたら、三本目を擦りました。縦穴に続く開けた 場所に出たときには、それがほとんど燃え尽きていました。わたしは縁に横たわ りました。下にある大きなポンプの脈動でめまいがしていたからです。それから 横の方の、突き出したフックを手探りで探しましたが、そのとき両足が後ろから つかまれ、あらっぽく後ろに引っ張られました。わたしは最後のマッチを擦りま した……が、それはすぐに消えました。でもすでに昇降用の手すりに手が掛かって いたので、激しくけ飛ばして、モーロックたちの手から自らをふりほどき、急い で縦穴をよじ登りました。かれらは後に残って、こちらのほうをのぞいては見上 げています。ただし一人だけはしばらくついてきて、その勲章として正当にも一 蹴りお見舞いされるハメになったのでした。  その登りは果てしないように思えました。最後の十メートル近く、死にそうな 吐き気に襲われて、手すりにつかまっているのが実にむずかしくなりました。最 後の数ヤードは、この気雑しそうな感覚との恐ろしい戦いでした。何度か頭がく らくらして、落下するような感覚を味わいましたよ。でもついに、わたしはなん とか井戸の口を乗り越え、廃墟からヨロヨロとまぶしい陽光の中に出たのです。 土ですら、あまく清潔な香りがしました。そしてウィーナがわたしの手や耳をキ スし、ほかのエロイたちの声がしたのを覚えています。それから、しばらくは気 を失ってしまいました」 ------------------------------------------------------------------------ 7. 「さて、いまやわたしはかつてよりひどい状況にはまったようでした。これまで は、夜の苦悶とタイムマシンの喪失を除けば、最終的には逃げられるという望み をつないでいたのです。が、この新しい発見によってこの希望が揺らぎました。 これまでは、この小さな人々の子供じみた単純さと、何か理解さえすれば乗り越 えられる未知の力によって妨げられているだけだと思っていました。でもモー ロックたちの胸が悪くなるような性質には、まったく新しい要素がありました―― なにか非人間的で邪悪なものです。本能的にわたしは彼らを嫌悪しました。それ までは、自分が穴に落ちた人物のように感じていました。いまや罠にはまった獣 で、じきに敵がやってくるような感じがしたのです。  わたしの恐れていた敵というのには、驚かれるかもしれません。それは新月の 闇だったのです。ウィーナは暗い夜に関する、当初はわけのわからない発言に よって、これをわたしの頭に植え付けました。いまでは、来る暗い夜が何を意味 するか当てるのはそんなに難しくありません。月は細る一方でした。夜ごとに、 闇の時間は長くなりました。そしていまや、小さな地上世界の人々が闇を恐れる 理由について、ほんの少しばかり理解できるようになりました。モーロックたち は、新月のもとでどんな野蛮な行為を行うのでしょうかと、ぼんやり思いめぐら したものです。自分の二番目の仮説がまったくまちがっていたことには、すでに かなり確信がありました。地上世界の人々は、かつては生え抜きの貴族だったか もしれず、モーロックたちはその機械的な召使いだったかもしれません。でもそ れはとっくの昔に消え去っていました。人類の進化の結果として生じた二つの種 は、まったく新しい関係に向かっていた、あるいはすでにそこに到達していたの です。エロイは、カロリング朝の王たちのように、ただの美しい無意味な存在に 堕落していたのです。まだ 地上をお情けで所有はしていました。無数の世代に わたり地下で暮らしていたモーロックたちは、ついには太陽に照らされた地表面 を耐え難く感じるようになったのです。そしてモーロックたちは、エロイたちの 衣服を作り、その習慣上のニーズにも対応してやっているにちがいないと思いま した。おそらくは、奉仕という古い習慣によって。それは立っている馬が足を踏 みならしたり、人がスポーツで動物を殺すのを楽しむとの同じことです。古く、 すでに不要となった生活上の必要性は、その肉体組織に刻まれているのです。で も、明らかにその古い秩序は部分的には逆転していました。繊細な人々の敵は、 着実に迫ってきています。遙か昔、何千世代も前、人は兄弟の人々を安楽な生活 と陽光から押し出してしまいました。そしていまや、その兄弟が変わり果てて 戻ってきたのです! すでにエロイは、昔ながらの教訓を改めて学習することに なっていました。かれらは恐怖を再び身近に感じるようになっていました。そし て突然、地下世界で見た肉の記憶が戻ってきました。それをふと思いついたのは 奇妙に思えました。いま思案していたことから連想されたわけではなく、むしろ 外からの質問のように振ってきたのです。その形を思い出そうとしました。なに か見慣れたものだという気が何となくしましたが、その時は何だかわかりません でした。  でも、小さな人々がなぞめいた恐怖にとらわれるといかに無力になるとはい え、わたしは作りがちがっていました。わたしは今のわれわれの時代、人類の成 熟した最高潮の時代からきたのであり、これは恐怖で麻痺したりせず、謎がその 恐怖を失った時代です。わたしは少なくとも自衛します。躊躇せずに、わたしは 武器を作り、また中で眠れる要塞を作ろうと決意しました。そういう拠点があれ ば、夜ごとに自分がどんな生き物たちに晒されていたか気がついて失った自信を 持って、この不思議な世界と対決できるでしょう。連中がすでにわたしをどうい うふうに調べたか考えて、恐怖に身震いしました。  午後には、テームズ峡谷に沿ってさまよいましたが、だれにも手が出せないと 思えるような場所はまったく見つかりませんでした。あらゆる建物や木々は、あ の井戸から判断して巧みな登り手だと判断されるモーロックたちにはすぐにたど りつけそうでした。そのとき、緑の磁器の宮殿の高い尖塔と、その壁の磨き上げ られた輝きが思い出されました。そして晩には、ウィーナを子供のように肩にの せて、わたしは丘を登って南西に向かいました。距離は12--13キロくらいと見積 もったのですが、実際は三十キロ近かったでしょう。最初は湿気の多い午後にそ の宮殿を見たのですが、これは距離感がかなり短く見える時間なのです。さらに 靴の片方の踵がゆるんでいて、靴底に釘がささっていました――屋内でわたしの履 いていた、古い快適な靴だったのです――おかげでびっこをひくようになりまし た。だから宮殿が見えるようになったのは、とっくに日が暮れたあとでした。宮 殿は、空の淡い黄色を背景に黒いシルエットとなっています。  ウィーナは、抱き上げて運び始めた頃には大喜びでしたが、しばらくすると、 下ろしてくれと要求し、わたしの隣を端って、ときどき左右にかけだしては、花 をつんでわたしのポケットにつっこむのでした。ポケットはずっとウィーナを不 思議がらせていましたが、最終的に彼女は、それが花を飾るための風変わりな花 瓶の一種だと結論したのです。少なくとも、彼女はポケットをその用途で使って いました。それで思い出した! 上着を着替えるときにこんなものを見つけたの です……」  時間旅行者はそこで間を置き、ポケットに手をつっこんで、だまってしおれた 花を二本小さなテーブルに置いた。花は、とても大きなシロゼニアオイにちょっ と似ていた。そしてかれは、話を再開した。 「夜の静けさが世界に忍び寄り、丘の頂を越えてウィンブルドンに向かうにつれ て、ウィーナは疲れてきて、灰色の石の家に戻りたがりました。でもわたしは彼 方にある緑の磁器の宮殿の尖塔を指さし、彼女のおびえに対してあそこで難を逃 れるのだというのをわからせようと苦闘しました。夕暮れの前に物事に忍び寄る あの大いなる間をご存じでしょうか? そよ風すら木々の間で止まります。あの 晩の静止には、常に何か期待の雰囲気があるように思えるのです。空は澄んで高 く、日没方向に水平に幾筋かたなびく雲以外は何もありません。しかしその晩、 我が期待は我が恐怖の色を帯びていました。その暮れゆく静けさの中で、わたし の感覚は超自然的に鋭くなっているかのようでした。足下の地面の下の空洞すら 感じられるように思ったほどです。それどころか、その中を見通して蟻塚の中の モーロックたちがあちこちうろつき、闇を待っているのが見えそうな気がしまし た。興奮のあまり、わたしが彼らの穴に侵入したら、連中はそれを宣戦布告と受 け取るのではないかと思いました。それに、やつらはどうしてわたしのタイムマ シンを盗んだのでしょう?  そこでわたしたちは静けさの中を進み、夕暮れが深まって夜になりました。彼 方の澄んだ青が消え、星が一つ、また一つと現れました。地面が薄暗く、木々が 黒くなってきます。ウィーナの怯えと疲労がつのってきました。わたしは彼女を 抱きかかえて、話しかけ、なでてやりました。すると、闇が深くなるにつれて、 彼女はわたしの首に腕をまわし、目を閉じて、顔をしっかりと肩に押しつけてき ました。そうやって、長い斜面を下りて谷に入り、暗がりの中で小川に踏み込み そうになりました。それを横切って、谷の反対側を登り、眠れる家をたくさん通 り過ぎて、彫像の横をすぎました――フォーンかそれに近い姿ですが、頭がありま せんでした。ここにもアカシアがありました。今のところモーロックたちの姿は まったく見えませんでしたが、まだ夜も早く、古い月が昇るまでのもっと暗い時 間はまだこれからでした。  次の丘のふちから、目の前に鬱そうとした森が果てしなく暗く広がっているの が見えました。これを見て、わたしは躊躇しました。森は右も左も途切れる様子 がありません。疲れていたので――特に足がくたくたでした――わたしは止まるとと もに、ウィーナを慎重に肩から下ろすと、土盛りの上に座りました。緑の磁器の 宮殿はもう見えなくなっていましたし、自分が正しい方向に向かっているかも自 信がなかった。濃い森を見て、そこに何が隠れているだろうと考えました。あの 密にもつれあった枝の下では、星も見えないでしょう。何か危険がそこに潜んで いないにしても――そんな危険についてあれこれ想像をめぐらせることは敢えてし ませんでした――つまづく根っこやぶつかる木の幹がいくらもあるでしょう。  今日一日の興奮のあとで、わたしもかなり疲れていました。そこで、いまは森 の踏破はやめて、今夜はこの開けた丘で過ごそうと決めたのです。  ありがたいことに、ウィーナはぐっすり眠っていました。彼女を慎重に上着で くるんでやると、隣にすわって月の出を待ちました。斜面は静かで何もいません でしたが、森の闇からは時々、生き物の気配が感じられました。頭上には星が輝 いていました。夜空はとても澄んでいたのです。星の輝きには、なんだか親しげ な安心感を感じました。でも昔の星座はすべて空から消えていました。人間の一 生を百回繰り返してもわからないほどのゆっくりした動きが、はるか昔に懐かし い星の構成を並べ替えていたのです。でも天の川は、見たところ、昔ながらのま だらの星くずの帯でした。南(とわたしは判断しました)には、とても明るい赤 い星があって、いまの緑のシリウスよりもさらに輝いていました。そしてこれら すべてのまたたく点の中に一つの明るい惑星が、親切そうにしっかりと、旧友の 顔のように輝いていたのです。  これらの星を眺めると、突然自分自身の苦労やこうした地上生活の桎梏がつま らないものに思えてきました。星までの想像もつかない距離を考え、そしてそれ らが未知の過去から未知の未来へとゆっくり不可避に漂いゆくのを考えました。 地軸が描く、大きな歳差周期のことを考えました。わたしの横断してきたあらゆ る年月で、その静かな回転はたった四十回しか起きていません。そしてその数回 転の中で、あらゆる活動、あらゆる伝統、複雑な組織、国、言語、文学、野心、 そしてかつて知っていた人類の単なる記憶でさえ、存在からかき消されてしまっ たのです。かわりにいたのは、立派な出自を忘れたか弱い生き物たちと、そして わたしが恐れたあの白い代物たちです。それから、この両種の間にある大きな恐 怖のことを考え、そして初めて、とつぜんの身振り委とともに、自分が見たあの 肉が何だったかについて、はっきりとわかった気がしました。でも、それはあま りに恐ろしいことでした! 隣で眠る小さなウィーナを見て、星の下で白く星の ような顔を長め、そのまま自分の思いつきを棄却したのです。  その長い夜を通じて、できるだけモーロックたちのことを考えないようにしま した。そして、かつての古い正座の痕跡をいまの新しい混乱の中に見いだせるよ うなふりをすることで時間をつぶしました。空は、たまのぼやけた雲の一つ二つ を除けばとても澄んでいました。もちろん、時にうとうとしたはずです。そして 不寝番がなんとか続くにつれて、東方の空に、無色の火からの反射のような、か すかな光が見られ、古い月が細くとがって白くのぼってきました。そしてその直 後に、月を圧倒してかき消すように、夜明けがやってきました。最初は薄暗く、 それからピンク色に暖かくなってきます。モーロックたちは一人も近づいてきま せんでした。それどころか、その夜は丘の上にも一人も見かけませんでした。そ して新しい日の安心感のおかげで、それまでの恐れがほとんど根拠のないもの だったような気さえしてきました。立ち上がってみると、かかとのゆるんだ靴の 足が、足首のところで腫れていて、かかとのところが痛むことに気がつきまし た。そこですわりなおして靴を脱ぐと、それを投げ捨てました。  ウィーナを起こして、いまや黒く人を寄せ付けないどころか緑で快適な森に 入っていきました。果実を見つけて、朝食とします。やがて優美な連中の他の人 々に会いました。太陽の中で笑って踊っている様子は、自然に夜などというもの がないかのようです。そのとき、見かけた肉についてもう一度考えてみました。 今や、それが何かについて確信が持てました。そして、人間という大きな流れか らの、この最後のか弱い細流たる人々に対し、心底から哀れみを感じたのです。 明らかに、人間の衰退の遙か昔のどこかで、モーロックたちの食料が不足したの です。たぶん、ネズミなどの害獣で生き延びたのでしょう。いまの時代ですら、 人間は昔に比べて、その食料の点ではるかに節操がなくえり好みがありません―― どんなサルと比べても。人肉に対する偏見も、別に根深い本能というわけではな い。というわけで、この非人間的なる人類の息子たちは――! わたしは自体を科 学的な精神で見ようとしました。結局のところ、かれらはわれわれの三、四千年 前の人肉食の先祖たちと比べても、人間性は少ないし時間的にも隔たっているの です。そしてこの種のことを苦痛な責め苦にしたであろう知性もなくなっていま した。なぜそれを気にしてやる必要があるだろう? このエロイたちは、単に肥 え太ったウシで、アリのようなモーロックたちはそれを保存し、食べていたので す――たぶん繁殖もするように管理されているのでしょう。そしてそこでわたしの 隣では、ウィーナが踊っていました!  そして迫ってきた恐怖に対して、それが人間の身勝手さに対する強硬な懲罰な のだと考えることで耐えようとしました。人々は、仲間の人類の労働のもとに、 安楽で楽しげに暮らすことに満足して、必要性を金科玉条の口実としてきたため に、時が満ちるにつれてその必要性が人類のもとにもどってきたのです。カーラ イル式に、このろくでもない退廃した貴族階級を非難もしてみました。でもこの 意識的な態度をとるのは不可能でした。知的衰退がいかに大きなものだろうと も、エロイはあまりに人間の形態を保ちすぎているためにどうしても同類意識を 引きおこし、かれらの衰退とその恐怖について否応なく同情してしまうのでした。  そのときは、どんな方向をたどるべきか、ごく漠然とした考えしかありません でした。まず考えたのは、安全な避難場所を見つけて、金属か石の武器を工夫し て作ることでした。これはすぐにも必要でした。次に、何か火をつける手段を確 保したいと思いました。そうすれば、手元にたいまつという武器が手に入りま す。というのも、あのモーロックたちにこれ以上有効な武器はないのを知ってい たからです。それから白いスフィンクスの下のブロンズのドアを破って開けられ るような装置を作りたいと思いました。念頭においていたのはくい打ち用の槌の ようなものです。もしあのドアを入って、手に光の閃光を掲げれば、タイムマシ ンを見つけて逃げ出せるという確信がありました。モーロックたちが、あれをそ んなに遠くまで運べるほど強いとは思えませんでした。ウィーナは、この時代に つれて帰ることにしていました。そしてこうした計画を頭の中で練るにつれて、 わたしは想像の中で住まいと決めた建物目指して道を進んだのです。」 ------------------------------------------------------------------------ 8. 「昼も近くなって、緑の磁器の宮殿を発見しましたが、無人で、廃墟と化してい ました。その窓にはガラスのギザギザの痕跡だけが残り、そして腐食した金属の 枠組みから、緑の外装材の大きなシートがはずれて落ちていました。土盛り状の 丘陵のかなり高いところにあって、そこに入る前に北東方向を眺めると、巨大な 河口や、小川さえも目に入ったのには驚きました。たぶんかつてワーズワースや バターシーがあったところだと思いました。そのとき思ったのは――もっともその 後、その考えを進めることはありませんでしたが――海の生き物たちはどうなった のか、またはどうなりつつあるのか、ということでした。  宮殿の材質は、調べてみると本当に磁器で、その表面に沿ってなにやら知らな い文字でかかれているのが見えました。わたしは、いささか愚かなことですが、 ウィーナがこれを解読する役に立ってくれるのでは、と思いましたが、わかった のはそもそも字を書くという発想すら彼女の頭には浮かんだことがない、という ことでした。彼女はわたしにとって、いつも実際より人間的に思えたのです。た ぶんその愛情が実に人間的だったからでしょう。  ドアの大きなバルブ――それは開いて壊れていました――の中には、いつもの大広 間のかわりに、多くの側窓で照らされた長い展示室が見つかりました。一見して それは博物館を思わせました。タイル張りの床は厚くほこりがつもり、驚くほど 多様な各種の物体が、同じ灰色の覆いに覆われていました。それから、明らかに 巨大な骸骨の下半分が広間の真ん中に、奇妙な形でがっしりと立っているのに気 がつきました。奇妙な足から、それがメガテリウムと似た絶滅した生き物だとい うことがわかりました。頭蓋骨と上半身の骨は、その脇のほこりの中に転がって いて、一カ所は屋根の水漏れから雨水がしたたって、すりへってなくなっていま した。展示室の置くに入ると、ブロントサウルスの巨大な骨格模型がありまし た。博物館だろうというわたしの仮説は確認されました。脇のほうに行くと、傾 いた棚らしきものを見つけました。厚いほこりをはらうと、昔懐かしい、われわ れの時代のガラスケースが見つかりました。でも内容物の一部の保存状態がよ かったことから見て、気密ケースだったにちがいありません。  明らかにその時立っていたのは、未来の南ケンジントンの廃墟の中でした!  ここは明らかに古生物学室で、実にすばらしい化石の集合だったことでしょう。 ただししばらくはくい止められ、バクテリアとカビの排除によって九割九分の力 を失った腐食のプロセスは、そのきわめてゆるやかながらも絶対的な確実性を 持って、再びその宝物すべてに作用していました。あちこちで、珍しい化石をこ なごなに砕いたり、それを葦に通してビーズ状にしてみたりしている小さな人々 の痕跡が見受けられました。そしてケースはときには、丸ごと消え去っていまし た――たぶんモーロックたちによってでしょう。この場所はまったく無音でした。 厚いほこりが足音を消していました。ウニをケースの傾いたガラスで転がしてい たウィーナは、見回すわたしのもとにすぐやってきて、とても静かに手をとると 横に立ちました。  わたしも最初は、この知的な時代の古代記念碑に実に驚かされ、それが提供す る可能性についてはまったく頭に浮かびませんでした。タイムマシンに関する執 着すら、ちょっと頭を離れたくらいです。  規模から判断して、この緑の磁器の宮殿は、古生物学の展示室以外にもかなり いろいろあったようです。歴史展示室もあったでしょう。図書室すら! わたし にとって、少なくともいまの状況では、これはかつての地質学が腐敗しているの を見るよりもずっとおもしろかったでしょう。探検してみると、最初のものと交 差して走る短い展示室を見つけました。これは鉱物の展示室らしく、硫黄のかた まりがあったので、頭は火薬に向かいました。でも硝石は見つかりませんでし た。それどころか硫化物は何一つとして。まちがいなく、はるか昔に溶解したの でしょう。でも硫黄のことは頭にこびりつき、次々に思考を導きました。その展 示室の他の内容は、全体としては見た中で一番保存状態がよかったのですが、あ まり興味のないものでした。鉱物学はあまり専門ではありませんし。さらに入っ てきたところにあったのと平行に走る、腐食の激しい棚がありました。明らかに この部分は自然史の展示ですが、何もかも認識できないほどになってました。か つては動物の剥製だったものの縮んで黒くなった痕跡がいくつか、かつては生き 生きとしていた標本のひからびたミイラ、枯れた植物の茶色いほこり:それだけ です! これは残念でした。動物界の征服が実現された目新しい調整をたどれた らうれしかったでしょう。それから、ひたすら巨大な展示室にやってきました が、ここだけ照明が暗く、その床はわたしの入った入り口からちょっと斜面に なって下がっていました。間隔をおいててんじょうから白い球体がぶら下がって います――その多くはひびが入り、割れていました――どうやらもともとはこの場所 は人工的に照明されていたようです。ここではわたしはもっと本領を発揮できま した。両側には大きな機械の巨大な固まりがあって、どれも非常に腐食して多く は壊れていましたが、一部はかなり完全な形で残っていたからです。わたしが機 械には目がないのはご存じでしょう。もうちょっとここでぐずぐずしていたい気 持ちになりました。それらの多くがパズルのおもしろさを持っていたのでなおさ らですし、いまではわたしは、その使途について実におおざっぱな推測しかでき ません。もしそのパズルを解いたら、モーロックに対抗するのに役に立つ力を手 に入れられるのではと考えたのです。  突然ウィーナが脇にぴったりと寄り添ってきました。それがあまりに急で、 びっくりしたほどです。彼女のおかげがなければ、展示室の床が傾いていること にはまったく気がつかなかったでしょう(編注:もちろん、傾いていたのは床で はなく、博物館が丘の斜面に建っていたとも考えられる)。わたしが入ってきた 端は、かなり地上高くて、間隔のあいたスリット状の窓で照らされていた。建物 を下るにつれて、地上が窓に迫ってきて、やがてそれぞれの窓の前に、ロンドン の家屋の地下勝手口じみた穴蔵ができており、日光はてっぺんの細い線から入っ てくるだけになっていたました。ゆっくりとすすみ、機械のまわりで首を傾げ、 明かりがだんだん少なくなるのに気がつかないほど意識を集中していましたが、 ウィーナがますます不安がるので気がついたのです。そしてその展示室の端が、 濃い闇の中へと続いているのが見えました。ためらいましたが、あたりを見回す と、ほこりが前ほどは多くなくて、その表面が他より不均一なのに気がつきまし た。さらに闇のほうに向かったあたりでは、どうも小さく狭い足跡でほこりが途 切れているようです。モーロックがすぐ近くにいるという感覚が復活しました。 機械の学術的な検討で時間を無駄にしていると思いました。すでに午後もかなり まわって、未だに武器もなく、隠れ家もなく、火をおこす手段もないことを思い 出しました。そしてその展示室の置くの闇の中で、あの奇妙なピタピタという足 音と、さらにあの井戸の奥で聞いた同じ変な音が聞こえたのです。  わたしはウィーナの手を取りました。そのとき、いきなり思いついて、彼女を 残して信号切り替え機に見られるようなレバーが突き出した機械のほうに向き直 りました。台座の上によじ登り、そのレバーを手にとって、全体重を横方向にか けました。いきなり、中央の廊下に放り出されたウィーナがめそめそ泣き始めま した。レバーの強さをかなり正確に見積もったようで、それは一分ほどの抵抗の 後に折れ、わたしはウィーナのもとに、鉄棒を手に戻ったのです。この鉄棒は、 出くわすどんなモーロックの頭蓋骨にも十分以上でしょう。そしてモーロックを 一匹かそこら、殺してやりたくてたまりませんでした。自分の子孫を殺したがる とはなんと非人間的な、とお考えかもしれませんね! でもこいつらにいささか でも人間らしさを感じるのは、なぜか不可能でした。ウィーナを残していきたく なかったのと、殺人欲を満たし始めたらタイムマシンに害が及ぶかもしれないと いう信念があればこそ、展示室をまっすぐに出て、声の聞こえた蛮人を殺すのを 控えたのです。  片手に金てこ、片手にウィーナで、わたしはその展示室を出て、別のもっと大 きな展示室に入りました。そこはぼろぼろの旗が下がった軍の礼拝堂を思わせま した。壁の両側からぶら下がっている茶色い焦げたボロは、やがて腐食した無数 の本だとわかりました。ずっと昔にこなごなになり、あらゆる印刷物らしさがす でに消え失せていました。でも、あちこちには曲がった板や日々の入った金属の クリップがあって、それで十分にわかりました。もし文筆家であれば、ここであ らゆる野心の無力さについて道徳論を一節ぶったところでしょう。でもそのとき 実に強く感じられたのは、この腐食する紙の陰鬱な荒野が証言している、壮大な 労働の無駄でした。正直申し上げて、そのときわたしがもっぱら考えていたのは PHILOSOPHICAL TRANSACTIONS と、わたし自身の物理光学に関する論文十七編の ことだったのです。  それから広い階段をのぼって、かつては化学技術の展示室だったとおぼしきと ころに出ました。ここで役に立つ発見があろうとはまるで期待していませんでし た。でも屋根が陥没した一端を除けば、この展示室はよく残っていました。壊れ ていないケースを一つ残らず、熱心に見て回りました。そして最後に、実に機密 性の高いケースの一つで、マッチの箱を見つけたのです。期待に胸を躍らせてそ れを試してみました。完全に使えます。湿気てさえいませんでした。わたしは ウィーナの方に向き直りました。そして彼女のことばで「踊り」といいました。 というのもいまやわたしは、恐れていた恐ろしい生き物に対する武器を手に入れ たからです。そしてその荒廃した博物館で、厚く柔らかいほこりのカーペットの 上で、ウィーナが大喜びしたことに、わたしは荘厳に一種の組み合わせダンスを 上演しました。The Land of the Leal をできるだけ陽気に口笛で吹きながら、 部分的にはお粗末なカンカンダンス、部分的にはステップダンス、部分的にはス カートダンス(わたしの燕尾服が許す限り)、そして一部は即興です。というの も、わたしはご存じの通り生まれつき発明の才がありますので。  さて、いまでもこのマッチ箱が果てしない時の腐食を逃れたというのは実に奇 妙なことだと思いますが、わたしにとっては実に幸運なことでした。でも、奇妙 なことに、マッチよりずっと意外な物質も見つけたのです。それは樟脳でした。 封をしたびんの中にあって、たぶんそれが偶然にも、実に魔法のように気密に封 印されていたんだと思います。最初はパラフィンワックスかと思って、ガラスを 叩き割りました。でも樟脳のにおいは間違いがたいものです。何もかもが腐敗す る中で、この不安定な物質は偶然にも、何千世紀を通じて生き残っていたので す。何百万年もの昔に絶滅して化石化した、化石のイカ墨で描かれた、セピア色 の絵のことを思い出しましたよ。捨てかけたところで、樟脳が可燃性で、しかも 実に明るい炎をあげることを思い出しました――樟脳は優れたロウソクにもなるの です――だからポケットにしまいました。でも爆発物は見つからず、ブロンズのド アを破る手段も見つかりませんでした。いまだに金てこが手に入ったいちばん有 用なものでした。とはいえ、そのギャラリーをわたしは意気揚々と立ち去ったの です。  この長い午後の話をすべてお話しするわけにはいきません。あの探検をすべて 正しい順序で思い出すには、かなり記憶をふりしぼらなくてはならないでしょ う。錆びゆく武器の並んだ展示室があって、自分の金てこを捨ててなたか剣を取 ろうかと、しばらくためらったものです。でも両方とも運ぶわけにはいきません でしたし、ブロンズの門に対してはこの鉄の棒がいちばんいいと思えました。多 くの銃、拳銃、ライフルがありました。ほとんどは錆の固まりになっていました が、新しい金属でできたものも多く、かなりしっかりしていました。でもかつて あったであろう薬莢や火薬は、腐食してほこりになっていました。一角を見る と、焦げて砕け散っています。展示物の中で爆発があったのかな、と思いまし た。別のところには、たくさんの偶像がありました――ポリネシア、メキシコ、ギ リシャ、フェニキア、世界の思いつく限りありとあらゆる国から。そしてここで は、どうしようもない衝動に負けて、わたしは自分の名前を特に気に入った南米 からのステアタイト製化け物の鼻に書いてしまいました。  晩が近づくにつれて、興味が薄れてきました。展示室から展示室へとめぐりま したが、どこもほこりまみれで、無音で、しばしば荒廃し、展示物はときにはた だのサビと褐炭の山と化し、時にはもっと新鮮な状態でした。一カ所では、突然 スズ鉱山の模型の近くにいるのに気がついて、そしてほんの偶然から、気密ケー スの中に、ダイナマイトのカートリッジが二つあるのを発見しました! 「ユリ イカ!」と叫んで、そのケースを喜々として壊しましたよ。それから疑念が生じ ました。ためらいました。それから、ちょっとした脇の展示室を使って、試験を 行いました。五分、十分、十五分と間って、爆発が決して起きなかったときほど の失望を感じたことはありませんでした。もちろんそれは、ただの模型だったの です。その在処からして当然わかるべきでした。本当にそれがほんものだと信じ ていて、だから考えもせずにでかけてスフィンクスも、ブロンズのドアも、そし て(後からわかったように)タイムマシンを発見する機会も、まるごと消滅させ ていたところでした。  宮殿内のちょっと開けた場所にやってきたのは、その後だったと思います。土 が盛ってあり、果樹が三本ありました。そこで休んで飲食をしました。日が暮れ かけるにつれて、自分の立場を考え始めました。夜が迫ってきていて、わが誰に も手の届かない隠れ場所は未だに見つかりません。でもそれはいまや心配の種に はなりませんでした。わたしはモーロックたちに対する防御として、おそらくは 最高のものを所有していました――マッチがあったのです! さらに閃光が必要な 場合には、樟脳もあります。できる最高のことは、開けた場所でたき火に守られ て夜を過ごすことだと思えました。朝には、タイムマシンをどうやって手に入れ るかという問題があります。でもいまや、知識がマスにつれて、あのブロンズの ドアについてかなり印象も変わってきました。いままでは、それをこじ開けよう とはしませんでしたが、それは向こう側に何があるかわからなかったせいが大き いのです。前から大して頑丈なものとは思えませんでしたし、それをこじあける のに十分使えるだけの鉄棒を探そうと思っていました」 ------------------------------------------------------------------------ 9. 「わたしたちは、太陽がまだ少し地平線上にあるときに宮殿から出てきました。 翌朝早くに白いスフィンクスまでたどりつこうと思っていました。そして日没前 にわたしは前の旅でわたしを止めた森の中を強行しようと提案しました。計画 は、夜のうちになるべく遠くまででかけ、たき火をして、その輝きの保護下で眠 ろうということでした。そのために、道々見かけた枝や乾いた草を片端から拾 い、すぐに両腕はこうしたがらくたでいっぱいになりました。こんな荷物を持っ たために、われわれの歩みは予想よりも遅く、それにウィーナも疲れていまし た。そしてわたしも睡眠不足に苦しむようになりました。だから森にたどりつく までに真っ暗になっていました。森の縁の茂み状の丘で、ウィーナは目の前の闇 を恐れて止まったことでしょう。でも来るべき争乱の突出した感覚が、本来わた しにも警告として働くべきだったのに、わたしを先に押しやりました。わたしは 二日と一晩にわたり寝ておらず、熱っぽくて怒りっぽくなっていました。眠りが 襲ってくるのを感じました。そして同時にモーロックたちも。  ためらううちに、背後の黒い茂みの中で、黒を背景におぼろとはいえ、三つの 姿がしゃがんでいるのが目に入りました。まわりはずっと茂みや背の高い草で、 かれらの狡猾な接近から安全だとは思えませんでした。見積もりでは、森は幅 1.6キロもありません。もしむきだしの丘陵地まで出られたら、そこのほうが ずっと休息地としては安全だと思えました。マッチと樟脳があれば、なんとか森 林の中で道を照らし続けられると思ったのです。でも、手でマッチをつけるな ら、薪は捨てなくてはなりません。そこで、いささかがっかりしつつ、わたしは それを下に置きました。そのとき、これに火をつければ後続の友人たちを驚かせ られるな、と思いつきました。後でこの行為のどうしようもない愚かさを思い知 るのですが、そのときは退路を隠すための賢明な動きだと思えたのです。  人類のいない温帯気候において、炎がどんなに珍しい物かをお考えになったこ とがあるでしょうか。太陽の熱は、熱帯の一部で時々ある場合とはちがって、露 で集中したときにも燃えるほど強烈にはほとんどなりません。雷が炸裂して黒こ げにすることはあっても、拾い火事を起こすことはめったにありません。腐った 植生は、たまに腐敗熱でくすぶることはありますが、炎をあげることはまずあり ません。退廃の中で、火をおこす技術も地上から忘れ去られたのです。わが木の 山をなめる赤い舌は、ウィーナにとってまるで新しく不思議なものでした。  彼女は駆け寄って、火と遊ぼうとしました。抑えてやらなかったら、火に飛び 込んだんじゃないかと思います。でもわたしは彼女を捕まえると、いやがるのも かまわずに、まっすぐ目の前の森に飛び込みました。しばらくは、火の輝きが行 く手を照らしてくれました。振り返ってみると、密生した枝の隙間から、炎が隣 接する茂みに広がったのが見え、そして火の曲がった線が丘の草を焼いていまし た。わたしはそれを見て笑い、そしてまた正面の暗い木に向かいました。真っ暗 で、ウィーナはガタガタふるえながらしがみついて来ましたが、目が闇に慣れる につれて、まだ枝を避けるのに十分な光はありました。頭上はひたすら真っ暗 で、ただ遠くの青い空があちこちで降り注いでいました。両手がふさがっていた ので、マッチは擦りませんでした。左腕には小さなウィーナを抱え、右手には鉄 棒を持っていたのです。  しばらくは、足の下で折れる小枝の音、頭上でざわめくかすかな微風、自分の 呼吸音と耳の血管の脈動以外は何も聞こえませんでした。やがて、まわりにパタ パタという音が聞こえたようです。わたしはむっつりと先へ進みました。パタパ タという音はもっとはっきりしてきて、それから地下世界で聞いたのと同じ奇妙 な音や声が耳をとらえました。明らかにモーロックたち何人かで、それが迫って きているのです。そしてもう一分もすると、上着が引っ張られるのを感じ、それ から何かが腕をつかみました。ウィーナはガタガタと身震いすると、まったく動 かなくなりました。  マッチをつける潮時でした。でもつけるには、ウィーナを下ろさなくてはなり ません。下ろして、ポケットを探るうちに、ひざのあたりの闇でなにやら争いが 始まりました。ウィーナはまったくの無音で、モーロックたちからは相変わらず のクークーいう音です。また柔らかい小さな手がわたしの上着と背中にしのびよ り、首筋さえ触っていました。そのとき、マッチが擦れて火を放ちました。その 炎が燃えるままに掲げ、そしてモーロックたちの白い背中が、木々の間を逃げ去 るのが見えました。急いでポケットから樟脳の固まりを出すと、マッチの火が衰 えたらすぐに点火できるように準備しました。そしてウィーナを見ました。彼女 はわたしの足をつかんで横たわり、まったく身動きせず、地面に顔を向けていま す。急に怖くなって、ウィーナのほうへ身をかがめました。ほとんど息もしてい ないようです。樟脳のかたまりに火をつけてそれを地面に投げると、割れて燃え 上がり、モーロックと影を押し戻しました。そして跪くと、彼女を抱き上げまし た。背後の森は、盛大なお仲間たちの気配と物音だらけのようでした!  彼女は気絶したようでした。わたしは慎重に彼女を肩に抱え上げ、立ち上がっ てさらに進もうとしましたが、そこで恐ろしいことに気がつきました。マッチと ウィーナとを扱おうとして何回か向きを変えたために、いまやどちらが進むべき 道なのか、皆目見当がつかなくなっていたのです。ヘタをすると、あの緑の磁器 の宮殿に戻って向かっているのかもしれない。冷や汗が出てきました。急いで手 を考えなくては。火をたいて、この場でキャンプすることに決めました。まだ身 動きしないウィーナを盛り上がった木の幹におろすと、最初の樟脳のかたまりが 消えかけてきたので、あわてて枝や葉を集めはじめました。周辺の闇の中のあち こちで、モーロックたちの目が石榴石のように輝いていました。  樟脳がゆらいで消えました。マッチをともし、それと同時にウィーナに接近し ていた白い姿2つがあわてて離れました。一人は光であまりに目がくらみ、まっ すぐこちらに飛びかかってきました。そしてげんこつで殴ると、骨がきしむのが 感じられました。やつは絶望のほえ声をあげると、ちょっとよたよた歩いてから 倒れました。わたしはもう一つ樟脳に火をつけて、たき火の燃料集めを続けまし た。やがて、頭上の葉の一部がかなり乾燥しているのに気がつきました。タイム マシンで到達して以来、一瞬間ほどにわたり、雨がまったく降らなかったからで す。だから落ちた小枝を探して木々の間をうろつくより、飛び上がって枝を引っ 張り下ろしはじめました。すぐにせき込むほどの煙を出す、緑の木と乾燥した枝 のたき火ができて、樟脳を節約できました。それから、鉄棒の隣に横たわる ウィーナのところに戻りました。なんとか息をふきかえさせようとして手をつく しましたが、死んだように横たわり続けています。息をしているかどうかもはっ きりわかりかねました。  いまや、炎の煙がこちらに吹き付けて、おかげで急に体が重くなったようで す。さらに樟脳の蒸気がたちこめていました。炎はあと一時間は燃料補給が不要 でしょう。奮闘の後でとても疲れて、すわりこんでしまいました。森も、理解で きない眠たげなつぶやきでいっぱいでした。一瞬うとうとして、また目を開けた だけだと思いました。でもあたりは暗くなっていて、モーロックたちがこちらに つかみかかってきています。しつこい指をふりはらい、あわててポケットの中を 探り、マッチ箱を探しましたが――なくなっています! するとかれらはつかみか かり、間合いを詰めてきます。眠り込んでしまい、火が消え、死の恐怖の苦い味 が魂に降りかかっていたのです。森林は燃える木のにおいで充満しているようで した。くびを捕まれ、髪を捕まれ、腕を捕まれ、引きずり倒されました。こんな 柔らかい生き物たちが自分の上に積み重なっているのを感じるのは、闇の中でど う表現していいかわからないほど恐ろしいことでした。自分が化け物じみたクモ の巣につかまったような気分です。圧倒され、地に伏してしまいました。小さな 歯が首をかじっているのがわかります。仰向けになり、そのとき手が鉄レバーに 当たりました。それが力を与えてくれたのです。なんとか立ち上がり、人間ネズ ミどもを振り払って、棒を短く持つと、連中の顔があると思ったあたりを突きま した。打撃により、柔らかな肉と骨が崩れるのが感じられ、しばらくは自由にな りました。  真剣な戦いにしばしばつきものの、奇妙な高揚感が訪れました。自分とウィー ナがともに道に迷ったのはわかっていましたが、でもモーロックたちが肉を得る ならそれなりの代償は支払わせるつもりでした。木にせなかをつけて、前方で鉄 棒を振り回しました。森は連中の気配と叫びでいっぱいでした。一分が過ぎまし た。彼らの声は、もっと高い興奮の声に上がったようで、その動きも早くなりま した。でも、だれも手の届くところにはきません。わたしは立ったまま闇をにら みつけていました。そのとき、急に希望がわいてきました。モーロックたちはお びえているのでは? そしてその考えを終えたそのとき、奇妙なものがやってき ました。闇が光を増してきたようです。ごくぼんやりと、まわりのモーロックた ちが見えるようになってきました――三人がわたしの足を殴りつけています――そし てわたしは、すさまじい驚愕とともに、ほかの連中が憑かれたような流れのよう にわたしの背後から欠けだしてきて、正面の森に逃げ込んでいるのに気がつきま した。そして彼らの背はもはや白くはなく、むしろ赤みがかっています。あんぐ りと驚いて立っているうちに、枝の間の星の間に、小さな赤い火花が漂って横 切って消えるのが目に入りました。そしてそのとき、燃える木のにおいも、いま や力強い轟音と化したあの眠たいつぶやきも、モーロックの闘争も、すべて理解 できたのでした。  木の背後から踏み出して振り返ると、手近な木の黒い柱を通して、燃える森林 の炎が目に入りました。最初につけた火が、いまやわたしを追いかけてきたので す。それに気がついてウィーナを探しましたが、消えていました。背後のシュウ シュウパチパチいう音、新しい木が炎上するときの爆発音から判断して、考えて いる余裕はありませんでした。鉄棒を握ったまま、わたしもモーロックたちに続 きました。危ないところでした。一時は、右手の火があまりに早く広がり、追い 越されそうだったために左へ曲がるしかありませんでした。でもやっと、小さな 開けた場所に出て、それと同時にモーロックがわたしめがけて突進してくると、 前を通りすぎて、まっすぐ火に飛び込んだのです!  そしていまや、未来の時代が擁する最高に不気味で恐ろしい代物を目にするこ とになったのです。あたり一面が、炎の反射で真昼のように明るくなりました。 真ん中には小さな丘か塚が、焼けこげたサンザシに覆われていました。その向こ うにはまた一軍の燃える森林で、そこからすでに黄色い舌がくねっていて、その 空間を火の柵で完全に囲っていました。斜面にはモーロックが三十人か四十人、 明かりと熱にあわてて、驚きの中であちこちおたがいにぶつかりあっていまし た。最初、かれらの目が見えないことに気がつかず、おびえに浮かされて、近く にやってきたものを鉄棒で思いっきり殴り、一人を殺して数人は手足をへし折り ました。でも赤い空を背景にサンザシの中でうごめく一人の動きを見るにつけ、 この輝きの中でかれらが完全に無力で惨めな状態なのを確信し、もうそれ以上は 殴りつけませんでした。  でもときどき、一人がまっすぐこちらに向かってきて、ふるえるような咆哮を あげるので、即座にそいつをかわしました。あるとき、炎がちょっとしずまっ て、醜い生き物たちがすぐにわたしを見られるようになるのが怖かった。これが 起きる前に、何人か殺して戦いを始めようかと考えていました。でも炎がまたま ばゆく息をふきかえし、わたしは手を押さえました。かれらの中、丘を歩き回っ てそれを避けつつ、ウィーナの痕跡を探しました。でもウィーナは消えていました。  とうとうわたしは、丘のてっぺんに座り、炎の明かりが照らす中で、この奇妙 で不可解なめくらの生き物たちがあちこちよたつき、お互いに得体の知れない音 をたてるのを眺めていました。渦巻く煙が空を横切って立ち上り、その赤いキャ ノピーがまれにとぎれたところでは、まるで別の宇宙に属しているかのように遠 く、小さな星々が輝いていました。モーロックたちが二、三人ぶつかってきまし たが、げんこつでなぐって追い払いました。ふるえながら。  その晩のほとんど、わたしはそれが悪夢だったと確信していました。わたしは 自分にかみつき、何とか目覚めようとして絶叫しました。両手で地面をたたき、 立ち上がってはすわり、そこら中をうろつき、またすわりました。それから倒れ て目をこすり、起こしてくれと神に呼びかけました。三度、わたしはモーロック たちが一種の苦悶に頭を下げて炎に飛び込むのを見ました。でも、やっと、消え ゆく炎の赤の上に、流れる黒い煙の固まりの上に、白黒に焦げた木の切り株の上 に、そしてかなり減った愚鈍な生き物の上に、昼の白い光が訪れたのです。  もう一度ウィーナの痕跡を探しましたが見つかりません。連中が彼女の可哀想 な体を森の中に残してきたのは明らかでした。彼女が、運命づけられていると思 えたひどい末路を逃れたことを知って、どんなにか安心したことでしょう。それ を考えるにつけ、まわりにいる寄る辺ない蛮族どもの虐殺を始めてやりたい気に なりかけましたが、何とか自分を抑えました。丘陵地は、すでに述べたように、 森の中の一種の島でした。その頂からは、いまでは煙による霞を通して緑の磁器 の宮殿を見分けることができました。そしてそこから白いスフィンクスへの方向 もつかめました。そこで、日が明るくなるにつれて、こうした呪われた生き物た ちがあちこちへうめきながらうろつくのを後にして、足に草をまきつけて、煙を 上げる灰や、まだ内側がくすぶる黒焦げた枝の中を通って、びっこをひきながら タイムマシンの隠し場所へと進みました。疲れ切っていたし、足をやられていた ので歩みは遅く、小さなウィーナのひどい死について、実に強い悲嘆を感じてい たのです。とてつもない悲劇に思えました。いま、この昔懐かしい部屋にいる と、それは実際の損失と言うよりも、夢の悲しみのように思えます。でもその 朝、それはわたしを再び絶対的な孤独の中に残したのです――まったくの孤独に。 わたしはこの自分の家、この炉端、あなたたちの何人かのことを考え、そしてそ うした考えとともに、痛いほどの渇望をおぼえました。  でも明るい朝の空の下で、煙を上げる灰の上を歩きつつ、ちょっとした発見を しました。ズボンのポケットにまだ何本かマッチが残っていたのです。マッチ箱 がなくなる前にこぼれたにちがいありません。」 ------------------------------------------------------------------------ 10. 「朝の8時か9時、わたしは到着した晩に世界を眺めた黄色い金属の座席にやっ てきました。到着した晩に出した拙速な結論を思い出して、当時の己の自信に対 して苦々しい笑いをおさえことができませんでした。風景は相変わらず美しく、 植生も相変わらず豊かで、すばらしい宮殿や壮大な廃墟も相変わらず、豊かな岸 辺の間に銀の川が走るのも相変わらずです。美しい人々の陽気なローブが、木々 の間をあちこち動いています。中には、わたしがまさにウィーナを助けたその場 所で水浴びをしている者もいて、それがいきなり、差すような心の痛みをもたら しました。そしてその風景の染みのおうに、キューポラが地下世界への入り口の 上に立っていました。いまや、この地上世界の人々の美しさすべてが何を隠して いるのかがわかりました。かれらの日々は非常に快適で、草原のウシの一日のよ うに快適なのです。ウシのように、敵も知らず、どんなニーズにも応える努力は いりません。そしてかれらの末路も、ウシたちと同じなのです。  人類の知性の夢がいかにはかないものかを思って悲嘆にくれました。知性は自 殺したのです。それは着実に快適さと安楽さを目指して進み、安全と永続性を合 い言葉にしたバランスのとれた社会を目指し、そして望みを実現し――挙げ句の果 てがこれです。かつて、生命と財産はたぶんほとんど絶対的な安全に到達しまし た。金持ちは、富と快適さを保証され、労働者は生命と仕事を保証されました。 この完璧な世界では、失業問題もなく、社会問題で解決されないものはなかった ことでしょう。そして大いなる静けさが続きました。  人類が見落としたのは自然の法則です。知性の柔軟性は、変化と危険とトラブ ルを補うためのものだということです。環境と完璧に調和した動物は、完璧なメ カニズムです。自然は、習慣と本能が役にたたなくなるまで知性に訴えたりはし ません。変化も、変化の必要性もないところに知性はありません。実に様々な ニーズや危険に直面しなくてはならない動物だけが、知性を持つのです。  つまりわたしの見立てでは、地上界の人間は繊細なきれいさの方へ向かい、地 下世界はただの機械的産業に向かったわけです。でもこの完璧な状態は、機械的 な完成の点から見ても、一つ欠けているものがありました――絶対的な永続性で す。明らかに時がたつにつれて、地下世界の食糧事情は、どんな形になっている にせよ、断絶してしまったのです。数千年にわたってお呼びがかからなかった必 要の母が、復活して、彼女は地下世界から活動を始めました。地下世界の存在は 機械を扱っていて、それはいかに完璧なものとはいえ、まだ習慣以外にちょっと 思考が必要です。そして地下は、上の世界の人々に比べて、その他あらゆる人間 の特性はいざしらず、おそらく必要にかられた行動を指向として維持したはずで す。そして他の肉が手に入らなくなったとき、かれらは古い習慣がそれまで禁じ てきたものに目を向けたのです。ですからわたしが、802701年の世界で見たのは そういうことだったと思います。もちろん一介の人間の頭が生み出した説明とし てこれ以上はないほどまちがっている説明かもしれません。これはわたしなりの 事態のまとめで、そういうものとしてお示ししています。  過去数日の疲労と興奮と恐怖、および悲しみにもかかわらず、この座席と静謐 な眺めと暖かい日光はとても気持ちのよいものでした。疲れて眠くて、やがて理 論を組み立てるうちにうとうとしてしまいました。そういう自分に気がついて、 土盛りの上に横になると、長く快適な眠りに落ちたのです。  日没のちょっと前に目をさましました。いまや、昼寝中にモーロックたちに捕 まる危険はないと感じ、のびをすると、丘をおりて白いスフィンクスに向かいま した。片手には金てこを握り、もう片手はポケットのマッチをもてあそんでいま した。  そしてこんどは、実に意外なものに出くわしたのです。スフィンクスの基壇に 近づくと、ブロンズのバルブが開いているのを見つけました。溝のなかにすべり 下りていたのです。  そのちょっと手前で止まり、入ろうか思案しました。  中には小さな区画があり、そしてその隅の一段上がった場所にはタイムマシン がありました。小さなレバーはポケットに入っていました。つまり、白いスフィ ンクスの戦いに備えて入念な準備をしてきたのに、向こうはあっさり降伏してき たのです。わたしは鉄棒を投げ捨てましたが、それを使わなかったことがほとん ど残念に思えたほどです。  突然思いついて、わたしは開口部のほうに身を乗り出しました。少なくともこ の時ばかりは、モーロックの頭の働きが理解できたのです。笑い出したいのをこ らえつつ、わたしはブロンズの枠を乗り越えてタイムマシンに歩み寄りました。 驚いたことに、入念に油を差してきれいにしてあります。わたしはそれまで、 モーロックたちがマシンの目的を理解しようという愚かな試みの中で、部分的に せよそれを分解してしまったのではないかと思っていたのでした。  立って調べて、その装置の感触だけでも喜びを感じているうちに期待通りのこ とが起きました。ブロンズのパネルが突然すべるように閉じて、ガチンと音を立 てて枠に当たりました。わたしは闇の中です――しかも閉じこめられて。モーロッ クたちはそう思ったことでしょう。そう思ってわたしは喜々として笑いました。  こちらに向かってくるかれらの、くぐもったような笑いがすでに聞こえていま した。わたしは落ち着いてマッチを擦ろうとしました。あとはレバーを固定し て、それから幽霊のように出発すればいい。でも一つだけ見落としていたことが ありました。このマッチは、箱で擦らないと火がつかない、あのろくでもない種 類のものだったのです。  わたしが平静さをまるっきり失ったのは想像がつくでしょう。小さな野蛮人ど もが近づいていたのです、一人がわたしに触れました。わたしはレバーを、闇の 中で思いっきり振り回し、マシンのサドルにあわててよじのぼり出しました。す ると手が一本わたしをつかまえ、さらにもう一本がのびてきました。そしてわた しは、とにかくそのしつこい指がレバーを奪おうとするのを払いのけつつ、その レバーがはまる穴を手探りで探さなくてはなりませんでした。一本は、実はほと んどなくしそうになったほどです。手から滑り落ちたので、取り戻すのに頭で探 し回るはめになりました――モーロックのどくろの指輪が聞こえたので。たぶんこ の最後の奮闘は、森の中の戦いよりもきわどいものだったと思います。  でもついにレバーがはまって、引き倒せたのです。しがみつく手がわたしから 滑り落ちました。すぐに闇が目の前から消えました。気がつくと、すでに説明し た灰色の光と大騒乱の中にいたのです」 ------------------------------------------------------------------------ 11. 「時間旅行に伴う気分の悪さと混乱についてはすでにお話しました。それに今回 は、サドルにきちんとすわっておらず、不安定な形で横座りになっていたんで す。どれほどでしょうか、わたしはマシンが揺れて振動する中しがみつき、そし てやっと再びダイヤルを見られるようになったとき、自分のたどりついたところ には驚いてしまいました。一つのダイヤルは日を、一つは千日、一つは百万日、 一つは十億日をあらわします。わたしはレバーを逆転させるかわりに、押しやっ て前に進むようにしたのですが、この目盛りを見ると、千の位の針が時計の秒針 並の速度で回転しているのが見えました――未来に向かって。  進むにつれて、物事の外見に奇妙な変化が忍び寄りました。脈打つ灰色がどん どん濃くなりました――わたしは相変わらず恐ろしい速度で進んでいたのに――昼と 夜の点滅は、ふつうは速度が遅くなったことを示すのですが、それが復活して、 しかもだんだん明瞭になってきました。これははじめのうち、かなり困惑させら れました。昼と夜の交代がますます遅くなり、同時に空を横切る太陽の動きも遅 くなって、何世紀もかかるようになりました。最後に地上はずっと夕暮れが続く ようになり、それが破られるのは、たまに暮れゆく空に彗星が輝きつつ横切ると きだけでした。太陽を示していた光の帯は、とっくの昔に消えていました。とい うのも、太陽はもう沈まなくなっていたのです――単純にのぼっては西に下り、そ してますます大きく、赤くなっていきました。月は影も形もなくなりました。星 の巡りも、どんどん遅くなって、やがて光の点がにじむだけとなりました。とう とう、止まるしばらく前に、赤く巨大になっていた太陽は地平線の上で動かずに 止まってしまい、鈍い熱を放ちつつ輝く広大なドームとなって、ときどき瞬間的 に消えたりするのでした。一度、しばらくの間輝きを増したのですが、すぐにも との鈍い赤い熱に戻ってしまいました。この太陽の昇り下りの停止から、潮汐の 抵抗力の仕事が終わったことを理解しました。地球はもはや、太陽に片面だけを 向けてじっとしているようになったのです。ちょうどわれわれの時代に月が一面 だけをこちらに向けているように。とても慎重に(というのも、以前に頭から 落っこちたのを覚えていたからですが)わたしは動きを元に戻しはじめました。 だんだん回転する針がゆっくりとなり、やがて千の針が動きを止めたように見え て、一日の針が以前のように、目盛り上の霞には見えなくなってきました。さら に速度を落とすと、無人の浜辺のぼんやりした輪郭線が見えてきました。  とてもゆっくりと止めるてからタイムマシンにすわり、あたりを見回しまし た。空はもう青くはありませんでした。北東部は墨のような黒で、その黒さの中 に、まばゆく動かずに青白い星が輝いていました。頭上は深いインディアンレッ ドで星はなく、南東部はだんだん明るくなって、まばゆい深紅となり、そこで地 平線に分断される形で、太陽の巨大な輪郭がじっとしていました。赤く、不動で す。あたりの岩は、きつい赤褐色で、最初目に入る唯一の生命の痕跡は、その岩 の南東面に突き出すあらゆる点を覆っている、密生した緑の植生でした。森林の コケや、洞窟の地衣類でお目にかかるのと同じ深い緑です。こうした植物が、永 遠の夜明けには育つのです。  マシンは傾く浜辺に立っていました。南西に向かって海が広がり、青ざめた空 を背景にくっきりと明るい水平線へと続いていました。波頭も波もありません。 風が一吹きたりともそよいでいなかったからです。ただかすかな油っぽいうねり が、静かな呼吸のように上がっては消え、永遠の海がまだ動いて生きていること を示していました。そして水がときどき割れる水辺には、分厚い塩が結晶化して いました――毒々しい空の下でピンク色をしています。頭の中が圧迫されるような 感じがして、呼吸がとても速くなっているのに気がつきました。その気持ちは、 前に一度だけ山登りをしたときのことを思い出させるものでした。そしてそこか らわたしは、空気がいまよりも稀少になっているのだと判断したのです。  荒涼とした斜面をずっと上がったところで、きつい悲鳴が聞こえました。そし て巨大な白いチョウのようなものが、空をめがけて傾きつつ羽ばたいて、旋回し ては向こうの低い丘陵の上に消えました。その声の音はあまりに陰気で、わたし は身震いするとマシン上にしっかりとすわりなおしました。見回すと、ごく近く の赤褐色の岩の固まりだとおもったものが、ゆっくりとこちらに動いているのに 気がつきました。あそこのテーブルほども大きなカニを想像できますか。その多 数の脚がゆっくりとあぶなっかしげに動いて、その巨大なツメが揺れ、その長い 触覚が、荷馬車屋の鞭のように揺れては触れ、そしてその突き出した目が、その 金属じみた正面の両側からこちらを見てるんです。その背中は波状で、醜い突起 で飾られ、緑がかった付着物があちこちでそれに染みを作っています。その複雑 な口の多くのひだが、動きながら揺らめいて感じているのを見ることができました。  この忌まわしい幻影がこちらに這いずってくるのを見ていると、頬にハエがと まったかのようなくすぐったさを感じました。それを手で払いのけようとしまし たが、一瞬で戻ってきて、ほとんど即座に別のが耳元にやってきました。それを はたくと、何かひも状のものがつかまりました。そしてそれがすぐに手から引き 抜かれました。びくっとした不安とともに振り向くと、真後ろにいた巨大カニの 触覚をつかまえたのだということがわかりました。その邪悪な目は茎の上でうご めき、口は食欲をむき出しにして息づき、その広大な醜いツメは、海藻の粘液ま みれで、わたしに向かってのばされてくるところでした。一瞬でわたしの手はレ バーにかかり、自分とこの怪物たちとの間に一ヶ月の時間をおいたのでした。で も相変わらず同じ浜辺にいて、停止すると同時にまたかれらがはっきり見えまし た。くすんだ光の中で、濃い緑の植生の覆いの中を何十匹もがあちこちにうごめ いていました。  世界にたれこめている、恐ろしい荒涼の感覚は、表現のしようがありません。 赤い東の空、北の暗黒、塩の死海、これらの醜悪でのろい怪物たちの這いずる岩 浜、こけ状の植物の、均一で有毒そうな緑色、肺を痛める薄い空気:そのすべて がぞっとするような効果に貢献していました。わたしは百年先に進みましたが、 相変わらず同じ赤い太陽です――ちょっと大きさと鈍さが増していましたが――同じ 死にゆく海、そして同じ地上の甲殻類の群が、緑の雑草と赤い岩の間をうろつい ています。そして西の空には、広大な新月のようなカーブした薄い線が目に付き ました。  そしてわたしは旅を続け、地球の運命の謎に惹かれて、千年以上の大幅な感覚 を置いて何度も繰り返し止まってみました。奇妙な感動をもって、西の空で太陽 がますます大きく鈍くなり、古い地球の生命が衰退するのを眺めていましたよ。 最後に、3千万年後、太陽の巨大な灼熱のドームは、暗い空のほとんど1割も占め るようになりました。そしてわたしはもう一度止まりました。というのも這いず る無数のカニが消え、そして赤い浜辺は、生き生きとした緑の苔類や地衣類をの ぞけば、生命が消えたようだったからです。そしていまやそこは白いものが散っ ていました。刺すような冷気がわたしを襲います。白い雪片が絶えず繰り返し舞 い降りてきました。北東部では、雪の照り返しが陰気な空の星明かりの下に横た わり、波状の丘の頂がピンクがかった白となっているのが見えます。海の水辺に は氷のふちができて、沖には大きな流氷も見られます。でも塩水の海のほとんど の部分は、永遠の日没の下で血のように真っ赤でしたが、まだ凍っていませんで した。  あたりを見回して、動物の痕跡があるかどうかを調べました。なにか説明しが たい感覚のために、マシンのサドルにすわったままでいました。でも、動く物は 何も見えませんでした。地上にも空にも海にも。岩についた緑の粘液は、生命が 消えたわけではないことを証拠立てていました。海の中には浅い砂州ができてい て、水は浜辺から後退していました。この岸辺に、何か黒い物体がはねているの を見たような気がしましたが、それに目をやると、錯覚だったようで、その黒い 物体はただの岩のようでした。空の星は強烈にまぶしく、ほとんどまたたかない ようでした。  突然、太陽の西側の丸い輪郭線が変わったのに気がつきました。曲線に湾がで きているのです。これがさらに大きくなるのが見えました。一分ほど、太陽の上 に忍び寄るこの黒さを驚いて見つめていましたが、そのときこれは蝕が起きてい るのだと気がつきました。月か水星が、太陽の円盤状を横切っているのです。も ちろん、最初は月だと思いましたが、でもそれが内側の惑星が地球のごく近くを 通った姿だと思えてなりませんでした。  闇が速度を増してきました。冷たい風が、新鮮な突風となって東から吹き寄 せ、大気中を降り注ぐ白いかけらが増えてきました。海のふちでは、さざ波とさ さやきが見えます。こうした生命なき音をのぞくと、世界は無音でした。無音?  その静止ぶりをお伝えするのはむずかしい。人の音のすべて、羊のいななき、 鳥の声、虫の羽音、われわれの生の背景をなす揺らぎ――そのすべてが終わってい ました。闇が深まるにつれて、渦巻くかけらがますます増え、目の前で踊るよう になりました。そして空気の冷たさも高まってきました。最後に、一つ一つ、急 速に、順番に、遠くの丘の白い山頂が闇の中に消えていきました。そよ風が、う めく突風と化します。蝕の黒い中心的な影がこちらに向かっているのが見えまし た。一瞬後には、淡い星しか見えなくなりました。その他すべては、光もなく見 えません。空は漆黒でした。  この壮大な闇に対する恐怖が芽生えました。骨の髄までしみこむような冷気 と、呼吸のときに感じる痛みにはかないませんでした。みぶるいすると、死にそ うな吐き気に襲われました。すると空の赤く熱い弓のように、太陽のふちが現れ ました。わたしはマシンを下りて気を取り直そうとしました。ふるえがきて、帰 途に直面できそうになかったのです。気分が悪く混乱したまま立っていると、海 の赤い水を背景に、浅瀬上に何か動くものが見えました――いまやそれが動くもの だというのは間違いありませんでした。丸くて、サッカーボールくらいの大きさ だったかもしれません。あるいはもっと大きかったか。そしてそこから触手がた れていました。血のように赤い逆巻く水を背景に、黒く見えました。それがけい れんするように、ぴょんぴょんはねています。そのとき、卒倒しそうな気がしま した。でもこの遙か遠くのひどい夕暮れに、無力なまま横たわることに対するひ どい恐れのために、サドルによじのぼるまでなんとか意識が保たれたのです」 ------------------------------------------------------------------------ 12. 「こうしてわたしは戻ってきました。長いことマシンの上で意識を失っていたに ちがいありません。昼と夜の点滅するような連続が回復し、太陽はまた黄金とな り、空は青くなりました。呼吸もずっとたやすくなりました。大地の波打つ高低 が、盛り上がっては平らになります。ダイヤルの針は逆回転していました。とう とうわたしは、再び家屋の暗い影を目にするようになりました。衰退した人類の 存在の証です。これらも変化しては消え、新しい家屋が出現しました。やがて、 百万の桁のダイヤルがゼロになると同時に、わたしは速度を落としました。われ われ自身のチンケでお馴染みの建築が見分けられるようになってきて、千の位の 針が出発点に戻り、昼と夜の明滅がますます遅くなります。やがて研究室の古い 壁がわたしのまわりを囲みましたとても慎重に、わたしはマシンの速度を下げま した。  一つ、奇妙に思えた小さなことがありました。出発するとき、速度を大幅に上 げる前にワッチェット夫人が部屋を横切るのを見た、ということをお話したと思 います。わたしにはそれが、ロケットのように高速で動いているように見えまし た。戻るときにも、彼女が研究室を横切ったその時間を再び通過したのです。で もこんどは、彼女のあらゆる動きは前の動きの正反対に見えました。奥のドアが 開いて、彼女は静かに研究室を、背中を先にして横切り、前に入ってきたドアの 背後に消えたのでした。その直前に、ヒリヤーをちらりと見かけたように思いま した。が、かれは稲妻のように通り過ぎてしまいました。  そしてマシンを止めると、身のまわりは再び古いお馴染みの研究室、わたしの 道具、わたしの各種装置が、出発したときのままに残されているのがわかりまし た。がくがくしつつ、マシンから降りて、椅子にすわりました。しばらくは、激 しいみぶるいが止まりませんでした。それから落ち着いてきました。身の回りに は昔ながらの工作室が、以前とまったく同じ形で存在していました。そこで眠っ てしまっただけで、あのすべては夢だったのかもしれません。  でも、完全には同じではありませんでした! マシンは研究室の南東隅から出 発しました。それが再び落ち着いたのは北東部、ご覧になった壁にもたれかかっ た状態です。これはわが小さな芝生から、モーロックたちがわたしのマシンを運 んでいった先の白いスフィンクスの基壇の距離と性格に対応しています。 「しばし、脳が働きませんでした。やがて立ち上がると、この廊下に出てきたの です。かかとがまだ痛かったので足をひきずり、ひどく薄汚れた気分でした。ド アの脇のテーブルに、ポール・モール・ガゼットが見つかりました。日付がまさ に今日のもので時間を見ると、それがほとんど八時近いのがわかりました。あな たたちの声と、カチャカチャいう皿の音が聞こえました。ためらいましたよ――実 に気分が悪くて力が入らない感じでしたから。すると、おいしい立派な肉の香り がしたので、あなたたちのいる方のドアを開けました。あとはご存じの通りで す。手を洗い、食事をして、そしてこうしてお話をしているわけです。  しばらく間をおいてかれは言った。「確かに、これはすべてまったく信じがた く思えるでしょう。わたしにとっても唯一信じがたいのは、自分が今夜、このな じみ深い部屋にいて、あなたたちの親しい顔を長め、こうした奇妙な冒険の話を しているということなのです。  かれは医師を見やった。「いいえ、あなたに信じていただけるとは期待してい ません。作り話だと思ってください――あるいは予言だとでも。作業室で夢を見た のだとでも。人類の運命について考察するうちに、このフィクションを思いつい たのだと思ってください。わたしがこれを真実だと主張するのは、興味深さを増 すための技の一つだと思ってください。さて、これがお話だったとして、いかが でしたか?」  かれはパイプを取ると、あの手慣れた手つきで火床の格子に神経質に軽くたた きつけた。一瞬の静寂があった。そして椅子がきしみだし、靴がカーペットの上 でこすれだした。わたしは時間旅行者の顔から目をそらし、観衆のほうを見回し た。みんな暗がりの中で、それぞれの前に、小さな色つきの点が泳いでいる。医 師はわがホストについての考察に没頭しているようだ。編集者は自分の葉巻の先 端をじっと見ている――もう六本目だ。ジャーナリストは時計をせわしなく探して いる他の人々は、わたしが覚えている限りでは、身動きしなかった。  編集者はため息をついて立ち上がった。「あなたが物語作者でないとは残念至 極ですよ!」とかれは、時間旅行者の肩に手を置いた。 「信じてはいただけませんか?」 「うーん――」 「そうだと思いました」  時間旅行者はこちらに向き直った。「マッチはどこです?」かれはマッチを一 本擦ると、パイプをくわえてふかしながら語った。「正直言って……わたし自身、 ほとんど信じられないのです……が……」  かれの目は、小さなテーブルに乗ったしおれた小さな花を、だまって探るよう に見つめた。そしてパイプを持つ手を裏返した。こぶしの治りかけた傷を眺めて いるようだった。  医師はたちあがってランプのところにくると、花を調べた。「めしべが奇妙で すね」とかれ。心理学者は身を乗り出してもっとよく見ようとして、一つを手に 取ろうとして手を伸ばした。 「おやまあなんと、もう1時15分前だ。どうやって家に帰ろう?」とジャーナリ スト。 「駅にタクシーがいくらもいますよ」と心理学者。 「実に不思議なものですが、この花の性質がよくわかりません。いただいてよろ しいでしょうか?」と医師。  時間旅行者はためらった。そしておもむろに「もちろんだめです」 「本当にどこで手に入れたのですか」と医師。  時間旅行者は片手で頭を抑えた。逃れようとするアイデアをつかみ取ろうとす る人物のようにかれはこう言った。「花は時間の中を旅したときに、ウィーナが わたしのポケットに入れたのです」そして部屋の中を見回した。「こんな一切合 切は、すべてなくなってしまうのに。この部屋も、あなたたちも、日々の空気 も、わたしの記憶にはあまりに強烈だ。わたしは本当にタイムマシンを作ったの か、タイムマシンの模型を?それともすべてはただの夢? 人生は夢だと言う。 時には貴重ながらもあわれな夢だと――でも他のおさまりきらない夢があるなんて 耐え難い。狂ってる。そしてその夢はどこからきたのか?……マシンを見てみなけ れば。それが実在していればだが!」  かれはサッとランプをつかむと、それを持って、赤い光をばらまきつつ、ドア を出て廊下を下った。みんな後に続いた。ランプのちらつく明かりの中で、確か にマシンはそこにあった。それにしたがった。ずんぐりと、醜く、傾いている。 真鍮、黒檀、象牙、半透明に輝く水晶でできている。さわればがっちりしている ――手を出して、そのレールをさわってみたのだ――そして象牙には茶色の斑点やし みがついていて、低い部分には草やコケのかけら、さらにレールの一つがゆがん で曲がっている。  時間旅行者は作業台にランプを置くと、壊れかけたレールに手を走らせた。 「大丈夫です。わたしが語ったお話は本当です。こんな寒いところに連れ出して 申し訳ない」そしてかれはランプをまた手にして、われわれはいっさい無言のま ま、喫煙室に戻った。  かれは玄関までいっしょにきて、編集者がコートを着るのを手伝った。医師は かれの顔を見つめて、ためらいがちに、働き過ぎですよと告げ、すると時間旅行 者は大笑いした。かれが開いた戸口にたって、おやすみなさいと叫んでいたのを 覚えている。  わたしは編集者といっしょにタクシーに乗った。かれはあの話を「見事なウ ソ」だと思っていた。わたしはというと、結論が出せなかった。かれの話は実に すばらしく信じがたく、語り口は実にもっともらしくて筋が通っていた。ほとん ど一晩中そのことを考えて眠れなかった。そこで翌日、また時間旅行者に会いに 出かけようと決めた。かれが研究室にいると言われ、勝手知ったる家だったか ら、研究室にあがりこんだ。が、そこは無人だった。わたしはしばしタイムマシ ンを眺めると、手を伸ばしてレバーに触れた。すると、その短くてがっちりして 見えた固まりが、風に揺れる大枝のようにしなった。その不安定さにひどくあわ てて、わたしはなぜかさわってはいけないと追われた子供の日々を思い出してし まった。廊下を戻ると、時間旅行者とは喫煙室で出くわした。かれは家から出て きたところだった。片脇には小さなカメラを抱え、もう片脇にはナップサックを 抱えている。わたしを見ると笑って、握手用にひじを差し出してよこした。「あ れがあそこにあるおかげで、えらく忙しくてね」とかれは言った。 「でも、これは何かインチキではないのですか? 本当に時間旅行ができるので すか?」 「本当ですし、本当に時間旅行ができます」そしてかれは、まっすぐにわたしの 目を見つめた。ためらった。目を部屋の中にさまよわせる。「30分ください。あ なたが来た理由はわかっているし、それは心底感謝しています。雑誌が少しあり ますから。もし昼食に立ち寄ってくれれば、今回こそこの時間旅行を、疑問の余 地なく証明して見せましょう。ですからいまはちょっとお相手できないのをお許 しいただけますか」  わたしはかれのせりふの持つ意味のすべてをほとんど理解しないままに同意 し、かれはうなずくと廊下をそのまま下っていった。研究室の扉がばたんと閉ま るのが聞こえ、わたしは椅子にすわると、新聞を手に取った。昼食前に何をする つもりだろう? そのとき、ある広告を見て、出版者のリチャードソンと2時に 会うことになっていたのを思い出した。時計を見ると、ぎりぎりその約束に間に 合うかどうかだ。わたしはたちあがって、時間旅行者にそのことを告げようと通 路を下った。  ドアの取っ手にを握ると、爆発音が聞こえたが、それは妙に尻切れトンボで、 そのあとカチッ、ドサッという音がした。ドアを開けると、一陣の風がまわりに 生じて、部屋のなかから割れたガラスが床に落ちるのが聞こえた。時間旅行者は いなかった。黒と真鍮の回転する固まりの中に、おぼろげなはっきりしない姿が 一瞬だけ見えたような気がした――その姿は透けていて、その向こうにある図面を 何枚も重ねた作業台が実にはっきりと見えたほどだ。でも、目をこすったらこの 幻影は消えた。タイムマシンはなくなってしまった。おさまりつつある一陣のほ こり以外には、実験室の奥には何もなかった。どうやら天窓が一枚、室内に吸い 込まれたようだった。  曰く言い難い驚きを覚えた。何か変なことが起きたのはわかった。そしてその 瞬間には、その変なことの中身がわからなかった。立って眺めていると、庭への 扉が開き、召使いが現れた。  われわれはかおを見合わせた。そしていろいろ考えが浮かんだ。「――さんは そっちから出ていったかね?」とわたしは尋ねた。 「いいえ。こちらからはどなたも。――様はこちらにいらっしゃるのかと思ってお りました」  そのときわたしにはわかった。リチャードソンの不興を覚悟で、わたしはその ままそこにとどまり、時間旅行者を待った。二番目の、ひょっとしてもっと不思 議な話を待ち望み、かれが持ってくる標本や写真を期待して。でもいまや、残念 ながらそれには一生待ち続けなくてはならないのではと恐れるようになってい る。時間旅行者が消えたのは 3 年前。そしていまやだれもが知っている通り、 かれは二度と戻ってきていない。 ------------------------------------------------------------------------ エピローグ  考えずにはいられない。かれはいつか戻ってくるのだろうか? ひょっとする とかれは、過去へとさかのぼって、旧石器時代の血をすする毛むくじゃらの野蛮 人たちの手に落ちてしまったのかもしれない。あるいは白亜紀の海の深みにのま れたか。あるいはジュラ紀の巨大な暴虐爬虫類、グロテスクなサウルス類に囲ま れたか。今でも――と呼んでよければ――プレシオザウルスのうろつく オーリス珊 瑚礁をさまよったり、三畳紀の無人の塩水湖沼のほとりにいるのかもしれない。 それともかれは未来へ向かったのだろうか。もっと近い時代、人間がまだ人間で はあるけれど、われわれの時代の謎が解け、その悩ましい問題が解決した時代 に? それは人類の成年期だ。というのもこのわたしは、近年のはかない実験や 断片的な理論、相互の不協和が人間の最盛期だとはとても思えないからだ! わ たしは、自分としてはこう述べる。かれは、人類の進歩についてきわめて暗い考 えを持っていたことをわたしは知っている――この問題については、タイムマシン が作られるずっと前にかれと議論したのだ。そしてかれは、山積する文明の中 に、いずれ結局はその創造者たちの上に崩れ落ち、破壊することになってしま う、愚かしい山しか見ていなかった。もしそうであるなら、われわれとしては自 分がそうした存在ではないかのごとくに生き続けることができるだけだ。 だが わたしにとって、未来は未だに暗く白紙のままだ――広大な無知の領域であり、か れの物語の記憶によって、ほんの数カ所あちこちが照らされているだけだ。そし てわたしは、気休めに、奇妙な白い花を二つ――いまやしおれ、茶色くつぶれても ろくなっているが――手元に持っている。精神と強さがなくなってしまったときで も、感謝とお互いの優しさは、まだ人の心に生き続けていたという証拠として。