ファラデー『ロウソクの科学』
やあみんな、わたしがマイケル・ファラデーだ。娑婆で話をするのは久しぶりだなあ。わたしは実際にはずいぶん昔の人なんだ。1791年に生まれて、1867 年に死んでる。だからもう 200 年近く前の人ってことになる(この訳が最初に出た時点ではね)。でも、最近は通信技術が発達してきたので、死んでからもこうやってみんなと話ができる。インターネットは本当にすごいものだねえ。だがこういうのがいま可能になっているのも、むかしのわたしのいろんな発見や努力あってのことだ、というのは忘れてもらっちゃ困るな。ときどきはおそなえをして感謝するよーに。
わたしのいろんな発見にもいろいろある。もともと化学屋だったんだ。でも、その中で電気分解とかを見つけるうちにだんだん電気の話に深入りしていって、いまじゃいちばん有名なのは電気方面の話だろう。こう、電線をぐるぐる巻いて輪っかをつくって、棒磁石をつっこむ。それで入れたり出したりしてスコスコすると、コイルに電気が発生するんだ。いまのを読んでヤラシイことを考えた子は、すみにいって立ってなさい! これはそーゆーアダルトな話ではなくて、電磁誘導、という現象の話だ。だからわたしの名前がついた単位もあるぞ。
そしてこれをひっくり返して、電磁石をつくってそれで磁石を動かせることも思いついた。これをもとに、わたしはたぶん世界初の電気モーターをつくった。というか、モーターができることを思いついた。実際にモーターを作って見せたかどうか、いまはもうよく覚えていないけど。でもその考え方は明らかにしたわけね。
そしてそこから、電磁場、という考え方の糸口もつくった。それまでの物理学だと、力ってのは、棒で玉をつつくとか、具体的な物体を通じないと存在しないものだった。空間全体になんか力が、いろんな密度で広がっているという考え方を思いついたのがわたしだ。それがいまみたいに、なんでも場で説明するみたいなことになるとは、まさか思わなかったけれど。
ただ謙遜ではないけれど、わたしは基本は実験おやじだった。もともと鍛冶屋の息子だったんだけれど、あるときデーヴィー卿のやったこういう講演をききにいって感動して、それで助手にしてくれ、ということで弟子入りしたんだけど、デーヴィー卿も実験物理学者だったし、まあ実験よりになるのは当然のなりゆきだった。それにわたしは数学ができなかったのと、やっぱあと実験が好きだったんだよ。ラザフォードくんなんかは、その意味でわたしに近い部分もあるかな(かれは数学もちゃんとできたけど)。
数学ができなくても、大科学者としてやってけたということで、数学嫌いの人はずいぶんわたしを気に入ってくれているみたいだ。科学は数式つつきまわすだけが能じゃない、ひらめきと執念さえあれば、数学なしでもやれるんだ、とね。まあ持ち上げてもらえるのはうれしいし、そういう面が否定できないのはまちがいない。ただ、そこからすぐに「だから数学は無駄だ!」とか極論に走りたがる人が出てくるのは困りものだな。
確かにわたしは場という考え方を思いついた。そしてそれを数学的に表現する力はなかったから、式のかわりに文章でうじゃうじゃ書いていたんだ。さっきちょっと触れた、電磁誘導を考える中で出てきた電磁場という考え方だって、「なんかこういう、磁石から出てくる力みたいなのがあって、それの密度の高いところが……」という感じでわたしは論文を書いて発表していたんだよ。でもそれをたとえばマックスウェルくんがきちんと評価して、厳密な形で数学的に定式化してくれたから、初めてそれが大きな意義を持っていることが理解してもらえた。マックスウェルくんと、かれの数学定式能力がなければ、わたしはいまほど評価はされなかっただろうね。とはいえ逆にわたしがいなければマックスウェルくんのマックスウェル方程式もありえたかどうか。
だから、やはり数学的なところを引き受けてくれる人がいたから、わたしは運良く数学なしでもそれなりの成果を挙げられたと考えるべきだろう。今から思うと、自分ではわけがわからずに、「こんなんできちゃいましたけど」という感じで発表していたような実験もある。もちろんそれは大事なことなんだ。科学をやる一つの流れとしては、まず現象をみて、そこからなんか理屈をつくって、それを数式的にきちんと整理して、というのがある。逆にまず理論をつくって、それを検証するために実験をやって、という流れもあるけれど、ふつうの人が科学に興味を持つのは、まず変な現象をいろいろ見て、というところからじゃないだろうか。でも、やっぱそれを数学的に定式化する、というのが、理論をきちんとつめる上ではどうしても必要だ。数式なしではやっぱりつとまらない。特にわたしの時代から200年もたって、これだけ科学のいろんな分野が厳密になってくると、きちんとしたものをやるには、どうしても数式は必要だよ。わたしの時代だったから、式を使わなくても許された、という部分はある。だから、あまりわたしを引き合いに出して、数式邪悪論をぶってみたりはしないでおくれ。
ただしわたしを見れば、数式がなくても、ある意味で科学の考え方はそこそこわかるようにはなれるかもしれない、というくらいのことは言えるだろう。そしてそれが必ずしも、レベルの低いたとえ話にはならず、やり方しだいでは本質をとらえたものになれる見込みはある、くらいのことも言っていいかもしれない。そして算数ができなくてすべてをことばで説明するというのは、逆に数学ぎらいの人にもわかるように説明できる、ということにもなる。わたしはマックスウェルくんに、いろんな理屈を数式使わないで説明したりできないかなぁ、という相談もしているんだ。そしてもちろん、この講義みたいな形で、わたしはそれを実際にやってみたりもしているわけ。
というわけで、このロウソクの科学だ。なつかしいなあ。
この本は、The Chemical History of a Candleというのがもとの題名だ。だから「ロウソクの化学的な記述」くらいの訳が正しいのかな(これはちょっと古めの英語だから、「history」は歴史ではないんだ。フランス語を知っている人ならわかるだろうけれど、これはもともと「お話」とか「記述」という意味を持つことばで、ここでもそういう意味で使っている)。でも訳者の話だと、昔っからこの本は「ロウソクの科学」という日本語の題名で訳されていたそうな。そのほうが通りがいいってんだから、まあ別にわたしとしては文句はないな。それにしても、この本が出た頃には、日本なんか本書でも述べられているように、われわれが無理矢理開国させてやった、僻地の変な国だったのに、それがずいぶんと成長したもんだ。
もともとこれは、本として出たわけじゃない。これはわたしが 1847-1848 年と1860--61 年にロンドン王立学院でやった子供向けのクリスマス連続講義だ。47--48 年とかいう書き方をしてあるのは、クリスマスからはじめて 6 回終わる頃には年があけているからだ。それぞれ 60 歳、70 歳近い、ずいぶんジジイになってからやった講演だ。特にこの 1860-61 年のやつは、わたしがロンドン王立学院から引退する直前にやった最後の講義だったので、特に思い出深い。それを、きいていた人が 1861 年に筆記して注までつけて出版してくれたのがこれだ。ちなみに出版の途中でいろんな人がちょっと手を入れたり、端折ったりしてるところがある。たとえば毎回最後に「じゃ今日はここまで、また明日」てなあいさつが入るのを削ったりとか。このバージョンでは訳者の山形くんにおねがいして、いろんなバージョンを参照してできるだけそういうのを戻してもらっている。
ちなみにこのクリスマス連続講義は、わたしが1826年にはじめたもので、わたしのあともチンダルくんとか、いろんなすぐれた科学者が引き継いで、いまでもロンドン王立学院では続いている。テーマもいろいろだ。わたしもこのロウソク以外に、電磁気とか、化学とか、いろいろなテーマでやっている。でもこのロウソクのやつは、われながら気に入っているのだ。ロウソクとかいいつつ、途中の水の電気分解とかになると、もうロウソクからはかなり離れてはいるんだけれど、でもまあなんとかこじつけでもロウソクとの関係は忘れずにいる。かなり広いテーマをカバーできたよね。化学っぽい話と言いつつも電気をいろいろ使ってみたりして、火花を散らしたり爆発させたりして、パフォーマンスとしても結構よかったんじゃないか。
このときネタとしてロウソクを選んだのは、ここには書いていない大きな理由がある。昔は家に電気なんかなくて、みんな灯りにはロウソクやランプを使っていた。だから、だれでもロウソクを持っていたし使っていたわけ。ロウソクを使ったことのない人はいなかったし。
いまの子は、幸か不幸かそうじゃない。ロウソクなんか見たことないって子も多いし、自分でロウソクに火をつけたり吹き消したりしたことのない子も多いだろう。かろうじて、誕生日のケーキくらいでお目にかかった程度だろうか。あるいはSMマニアとか。ロウソクにいろんな種類があるという最初の話も、よくわかんないかもしれない。昔は動物の脂からそのままロウソクをつくっていたけど、いまではそんなものは探したって見あたらない。だからいまの家庭では、わたしが数百年前にやったこの講義は、当時ほどピンとはこないかもしれないね。
いま同じことをやるとしたら、「テレビの科学」でもやるかもしれない。古いテレビを持ってきて、コンデンサーをばらしてみたり、ブラウン管を割ってみたり、コイルを取り出してみたりして、いろんな実験をするかもしれない。オイルコンデンサー(訳注:最近は劣化しやすいのであまり使われないけど)に 100V かけて臭い煙をたくさん出す、というのはこの本の訳者の山形くんに教わって、天国でやってみてずいぶんまわりの不興を買ったっけ。楽しいね(訳注:はた迷惑なので、頼むから人のいないところでやってね)。ちなみにかれはガキの頃、捨ててあるテレビを拾ってきて、いじってるうちにブラウン管が割れて手を切ってしまい、たーいへんだったんだそうだ。ついでに、こいつがゴキブリのたまごを初めて見たのも、そのテレビのなかでだったけれど、それはまた別の話だ。そのゴキブリのたまごがかえったときにはもうホーントに大変なことになって……いやいや、よそうね。ただまあ、そうやってテレビ(特に古いヤツ)を使うと、生物学まで含めたいろいろな実験ができただろう。
ただ、だからといってこれがいまや古くさい、歴史的な意義しかない講演録だとは思わないでほしい。この本のいちばん最初のところでわたしが言っていることをちょっとみてほしいな。ロウソクなんていうつまらないものを選んだ、ということについて話をしているだろう。この当時すでに、ロウソクってのは別にファッショナブルでもなんでもなかった。科学の話をするんなら、もっと最先端っぽいものはたくさんあった。でも、わたしはあえて、古くさい、どこにでもある、つまらないロウソクを選んでいるわけ。逆にそれが古くさいからこそ、今もそんなに古びずにすんでいるんじゃないかな、とも思う。これが「これぞ現代科学の最先端!」とかいうのを紹介するような代物だったら、たぶん今日では見る影もなかったんじゃないかな。
そしてそのつまらないロウソクから出発して、まあ当時はかなりはやりっぽかった電池なんかもバチバチ使って、見てるほうとしても結構おもしろがってくれたはずなんだ。まあ当時は娯楽があんまりなかった。だからわたしの実験なんかでも、うけはとれたのかもしれないけどね。それに、ロウソクを発端にして、かなり手を広げて燃焼から電気分解から空気圧から、最後は呼吸でちょっと生物学っぽい話までして、かなり話を広げているでしょう。われながら、なかなか大風呂敷を広げたな、という感じではあるけれど、科学の大枠みたいなこととか、分野としての広がりみたいな話、そしてその中のいろんなものの関連性と、それらすべてに共通する科学的な方法論の片鱗みたいなことはなんとなく感じ取ってもらえたんじゃないかな。
あと、やっぱみんながあとから同じ実験を再現できる、というのが重要。まああんまり塩酸や硫酸を使った実験を家でやるわけにもいかないだろうけれど、それでもできることはたくさんある。なるべく講義の中でも、自分で家に帰って実験してみてくれるように言っているけれど、どのくらいの子が実際にやってくれたかな。でも、ロウソクをタネにしたことで、それはかなりやりやすくはなっているはずだ、と思うのだ。
ここでの実験は一般の観客向けにおもしろくするのを重視しているから、必ずしも厳密な実験とは言えないものもある。水素と酸素のシャボン玉をつくって、火をつけて爆発させるのは、両者が空気なしで反応して水ができたという実験として十分かな? 批判をするならどこだろうか。もっときちんとやるためには、どういうふうにしたらいいだろうか。そういうことを考えながら読んでみてほしい。あるいは説明なんかでも、勢いで流してるけど、実はあまりいい説明とはいえない部分もある。山形くんもちょっとコメントしたりしてるけど。そういうのを見つけようとしておくれ。どこがおかしいか、もっとうまくやるにはどういう説明をするのがいいかも考えてね。あとできれば実際にここにあげてあるような実験を自分でできるといいね。そして自分で考えたことをもとに、自分なりの実験をやって見られるといいな。学校の理科や物理・化学の先生に相談してみると、なんとかなるかもしれない。
この講演に対する批判、というのはあんまりきかないけれど、うーん、かろうじてあるとすれば、最近この天国にファインマン君がやってきて、かれがちょっと文句をつけているところがある。かれはなかなかおもしろいやつで、天国にきてまで下ネタを連発していて楽しいんだけれど、かれは『科学は不確かだ』(岩波書店)の中におさめられた講演で、この『ロウソクの科学』の一部に文句をつけている。各種の物質(たとえば炭酸ガス)がどういうやりかたで作っても同じだ、という話について、わたしはそれが産業的に有意義だ、という話につなげる。でもファインマンくんはそれが宇宙的に共通した原理を示していることに感銘していて、それをわたしが単なる産業にとっての意義にひきつけて話をしていることに(まあ冗談半分ながら)不満を述べている。うははは。まあそうだねぇ。ただ、当時はそろそろ産業革命が始まろうって頃で、産業に対する期待がものすごかったんだ(いまのインターネットなんかの比じゃないよ)、ということは理解してほしい。あと、やはり説明として身近なものにどう関係しているかを考えるのは、とっても大事なことだと思う。その意味で、わたしはファインマンくんの揚げ足取りは不当だと思うな。そういう宇宙的原理のほうが、産業でのモノの作り方よりえらいと思うのは、科学者の思い上がりだとは思う。
さてここでわたしは「原子」とか「分子」というのをはっきり持ち出してはいない。もちろんそういう概念は知っていたし、ふつうの科学者は原子とか分子が実在すると思っていたんだけれど、「見たことあんの?」といわれると困っちゃうし、ホントにそんな原子とか分子とかいうツブツブがあることをみんなに簡単に見せるのはむずかしかったからだ。わたしはここで、とりあえず見てすぐわかる実験がしたかった。そしてそこから何が言えるかを導きたかった。「実は原子というモノがありまして」という話になっちゃうと、手軽な実験で導けることを超えた話になってしまうんだ。その意味で江沢洋くんが「だれが原子を見たか」(岩波書店)でいろんな実験をやって、納得いく形で原子があるんだ、ということを見せようとしているのはおもしろいし、勇ましいなぁ。かれはたぶん、わたしのこの『ろうそくの科学』を継いでくれていると言ってもいいかもしれない。
一方で、最近はやりの変なパラダイムとかいうヨタばなしはなんとかならないものか。わたしがやっていたような科学というのは、社会的に構築された妄想だとかなんとか。わたしはここに挙げたような、いろんな検証手続きをやって、自分の考えを証明しようと努力した。その一部には、社会的な状況の影響というのはあるだろう。でも、だからといってわたしが検証したことがまちがっているとか、無根拠だということにはならない。わたしはこれを英語でやった。山形くんはそれを日本語という形式に置き換えている。社会的な構築がもたらす影響はそういうところには差が出る。でもそれ以上のものじゃない。別の考え方やとらえ方があるなら、そりゃ結構だ。だったらその別の見方を明確に示すことこそが本当に重要だろう。そしたら比べてあれこれ言えるじゃないか。天国から見る限り、多くの人は単に、別の見方があるかもしれないというだけで何か言えたような気になってる。でも、そんなことに意味はないんじゃないかな、とわたしは思うのだ。
が、話題がそれた。こういう実験やその楽しさを教える機会というのが、たくさんあちこちにあるとよいな、とわたしは思う。そしてそれを実現するにあたって、ここに記録したわたしの実験がちょっと参考になれば、とも思うのだ。これをそのままやるもよし、または現代的なものと組み合わせて新しい実験をやるもよし。そうした工夫が今後どんどんでてきてくれると、わたしも天国でとても嬉しいのであるよ。では。
えー、著者さんがいろいろ説明してくれたので、ぼくもう言うことないっす。訳はなるべく、講演調を尊重しました。あと、ここにある実験を追試してみようと思ったら、火の扱いには十分に気をつけてね。
翻訳にあたっての原文は、インターネット上に出回っているやつを使ったけれど、著者も言うとおりどれも脱落部分とかが結構あったので、出版されたものを参照して適当に補っている。あと、一部の実験は、図でどんなものか見せないとわけわかんないので、それも適当におぎなっている。では、Enjoy!