キャシー・アッカーをご存じだろうか。もうそんなに有名ではない人だから、知らなくても不思議ではない。私も個人的な付き合いはない。いや、なかったというべきか。アッカーは既にガンで亡くなっているのだから。主に80年代に活躍し、他人の文章を次々と自分の作品の中に放り込み、何もかもが巨大で手に負えない様相を帯びている現代の姿を異様なリアルさで描いていた作家である。デビュー作は『血みどろ臓物ハイスクール』(白水社)で、他にも数冊が邦訳されている。おそらくはその手法からであろうが、女バロウズの異名を恣にして、革ジャンとスキンヘッドと入れ墨というスタイルでひたすら「愛してちょ~だい」と叫び散らすかしましい作品群を生み出してきた、大変ユニークな怪人物である。残された写 真で私たちが見ることが出来るのはメイプルソープなどの名のある写真家によるものばかりなので、その風貌からはシャープでストイックな人間であるという怪しげな印象を受けるが、どこまで当てになるのかは分からない。個人的には是非とも読んでもらいたい作家なのだが、ジェーン・オースティンに同性愛が描かれないのと同じように、キャシー・アッカーにはまともなストーリーすらないので、その辺りは好みが別 れると思う。皆さんがそれぞれ本屋で立ち読みするなりして試してもらいたい。アート気取りのスノッブには、あの味は出せないだろう。
さて、今回ここに訳出した『病がくれたもの(The Gift of Disease) 』は、亡くなる直前のアッカーが残した乳ガン闘病記である。従って、彼女の従来の作風とは一線を画す、というよりは似ても似つかないものとなっている。少なくともある意味では。それだけに、ひょっとしたらアッカーという作家のパブリックな側面 以外の部分がここに滲み出ているといえるかもしれない。原文はキャシー・アッカーの関連サイトを集めたリンク集で見つけて、このサイトから拾ってきた。
なぜこの文章を訳してみようかと思い立ったのかを説明したい。
私がアッカーのことを知ったのは、友人と出かけた図書館でアッカーのことを教えてもらったときだから、今から3年ほど前になるだろうか。何の予備知識もなかったが、デビュー作『血みどろ臓物ハイスクール』を手にとって読んでみて、すぐに気に入った。アイデア一発、勢いとノリと、それにあちこちからボコボコと顔を出す叙情性。そして笑い。当時バロウズを読んだことがなかったので、アッカーのこのテキストゴッタ煮本は、音楽におけるサンプリングという手法を文学にも活かす方法があるのではないかと漠然と考えていた私に、そんなアイデアはとうの昔に実現されていることを教えてくれた。自分のアイデアは決して新奇なものではなく、ちゃんと前人がいるのだということを知るのは気持ちのいいものである。従ってアッカーはそれ以来ずっと親近感を持てる作家として私の中で高い地位を占めている。
そのアッカーが死んだことを知ったのは、後にバロウズを読むようになり、その訳者である山形浩生氏が自身のウェブに掲載している文章に目を通していたら、そこで触れられていたのを読んだときだった。山形氏はアッカーに文字通り女版のバロウズとして期待していたようで、 バロウズが最後に寂しさと後悔とにみちみちた原稿を遺していったことと並べて、アッカーが自分のガンを知ってどこかのインチキ・カルトのコミューンで死んだのはなんとも期待はずれだったというようなことを書いていたように記憶している。ようするに無責任なパワー全開で活動していた人が、死を目の前にして急にあわてふためくとは何事だ、今まであんたが破壊してきたものって何?あーあやつらもやっぱり人の子か、ということのようだった。それはそれで、まあそういう見方もあるだろうが、それにしても死に様にまでケチをつけられるのだから、作家という仕事も因業なものだと思わないでもない。
死は、いくらそれを意識しようとしても、結局は一時的に自分の感情を制御できた気分を味わうことになるだけの、やっかいなイベントである。死に臨んで、人は突然、ずかずかと部屋に入り込んできた無礼者に、ほとんど身に覚えのない請求書を突きつけられるような目に遭わされる。
こういう言い方も出来るだろうか。何か決意するときや、普段思索をめぐらすときに思い浮かべるたぐいのメメント・モリ的な死と、実際に自身に迫る死は、恐怖の実感に質的な差がどうしても生じてしまうので、これらはほとんど別 の代物なのだ。この世という胡散臭いインチキ・カルトの中で、実際の死に直面したとして、そこであたふたしたところで他人にとやかく言われる筋合いもあるまい。たとえ彼女が自称ご立派なア~ティストであったとしても。
であるからして、弁護もかねて死に直面したキャシー・アッカーの声を拾ってみようという気になり、今回こうして拙いながらも訳出したわけである。誤解しないでほしい。別 に彼女がハマッた代替医療がインチキではないというつもりなどは毛頭ない。だから、これを読んで、ああやっぱりキャシー・アッカーって甘ったれのバカ女だったんだな、という思いを強くするのも、それはそれでもちろん構わない。私はただ彼女の言い分にも耳を傾けようと訴えたいだけで、他にこれといった意図はないのだ。ただ、私はこれを読んで、結局アッカーはいろいろな人に囲まれているようで、実のところはロクな人に巡り会えていなかったんだなと、なんとも悲しいものだと思った。保険制度はめちゃめちゃで、オルタナティブの治療師たちなどにしか希望を見いだせない(少なくともアッカーのあまり洗練されていない知的・精神的風土においては)状況にあって、常に死に付きまとわれる人間に、そうでないわれわれが何を期待するのも無理というものだろう。それに、作家としてのアッカー像なんて所詮はただのイメージだ。生き様のロールモデルにするにはあまりに危うく、脆すぎる。 それは、たぶんバロウズにオルタナティブのアーティストにとっての可能性が全て見いだせるというわけではないのと同じで、自分の願望の投影した像に過剰な思い入れをしてはいけないということなのだろう。
ちなみに、いまアッカーの受けていたセラピーの問題点を挙げた文章を探してきて読んでいるところだ。まあ、確かにこんなのはすぐにおかしいと勘づいて然るべきなのだが、それでもこの手のものから自分は安全な距離を置いていると思いこむのは危険なことなのだろう。