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単子論(モナドロジー)

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ著(Gottfried Wilhelm Leibniz)
翻訳:Robert Latta, 山形浩生<hiyori13@alum.mit.edu>



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© 2000-2007 山形浩生
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  1. ここでわれわれが論じる単子(モナド)は、ただの単純な存在にすぎず、それが複合物をつくる。「単純」というのは「(それ以下の)部品(パーツ)がない」という意味である。 (Theod. 10.)
  2. そして、複合物が存在している以上、単純な存在は必ず実在するはずだ。というのも、複合物というのは単純なものの集合または累積にほかならないから。
  3. さて、部品(パーツ)がないところには、延長も形態も分割可能性もありえない。こうした単子こそが自然の真の原子であり、ひとことで万物の要素なのである。
  4. こうした要素の分解を心配する必要はないし、こんな単純な存在が自然な形で破壊されるとは考えられない。 (Theod. 89.)
  5. 同じ理由から、自然な形で単純な存在が発生することがあるとも考えられない。なぜならこの単子は、部品(パーツ)の組み合わせによって形成することができないからだ。
  6. だから、単子はすべて一気に存在するようになるか、一気に消滅すると言っていいだろう。つまり、それは創造によってのみ始まり、消滅によってのみ終わりを迎える。一方、複合物であるものは、部品に応じて発生したり終わりを迎えたりする。
  7. さらに、単子が他のどんな創造物によっても、性質を変えられたり中身を変えられたりするようなことはありえない。その内部のなにかの位置を変えたり、その内部で生じたり、誘導したり、増減させたりできるような内部運動を考えることはまったく不可能である。複合物であれば、これはどれも可能だ。その場合には、部品(パーツ)の間で変化が生じるからだ。単子には、なにかが出入りできるような窓もない。偶有(Accidents)は実体(substances)とは不可分だし、スコラ学はの「sensible species」たちが昔やっていたように、実体(substances)から離れてうろうろすることもできない。したがって、偶有(Accidents)と実体(substances)のどちらも、外から単子に入り込むことはできない。
  8. それでも単子には何らかの性質がなくてはならない。性質がなければそもそも存在するモノとさえ呼べないからだ。そしてもし単純な実体(substances)がどれも性質的にまったくちがいがないならば、ものごとの変化を知覚する手段はまったく存在しなくなる。というのも、複合物の中にあるものは、それに含まれる単純な要素からくるしかないのであって、もし単子に性質がなければ、量的には何の差もないので、お互いにまったく区別がつかなくなる。結果として、空間は充満しているので、空間のそれぞれの場所はどんな運動にあっても、前にあったのとまったく同じものを受け取ることになって、するとものごとのある状態と別の状態とはまったく区別がつかなくなる。
  9. 単子は実のところ、それぞれお互いにちがっていなくてはならない。というのも自然には完全に同じものは2つとないからであり、内部にちがいを見つけることができないようなもの、あるいは少なくともその内在的な性質 [denomination] に基づいたちがいを見つけられないようなものは存在しないからだ。
  10. わたしはさらに、あらゆる被創造物、したがって結果的に創造された単子も含め、変化するものであり、さらにその変化はそれぞれ連続的なものだ、ということは認知されているものと想定する。
  11. いま述べたことから導かれるのは、単子の自然な変化は内部的な原理から生じるものだ、ということである。というのも、外的な要因は、単子の内部の存在に対して何の影響も持ち得ないからだ。(Theod. 396, 400.)
  12. でも、変化の原則以外にも、いわば単純な存在の個別の性質やバラエティを構成するような、個別の変化の連続があるはずだ。
  13. この個別の変化の連続には、そのユニット、あるいは単純なるものの中で何らかの増幅性が関与しているはずだ。つまり、あらゆる自然な変化はじょじょに起きるものだから、変わるものもあれば変わらないものもある。そして結果として、単純な存在は部品(パーツ)がなくても、いろいろな形で影響を受けて関係をつくっていくことになる。
  14. ユニットないし単純な存在の中の、増幅性に関わりそれを表現している、通過状態は、知覚と呼ばれるものに他ならない。これは後ほど説明するApperceptionや意識とは区別しなくてはならない。この意味で、デカルト的な見方は大きな欠陥を持っている。デカルト的な視点は、われわれがはっきりとは意識していない知覚を、存在しないものとして扱うからだ。このおかげでかれらは、精神だけが単子であり、動物の魂もエンテレケイア(Entelechies)もないと信じるようになってしまったからだ。こうしてかれらは、一般大衆と同じように、長く続く無意識状態と完全な死とを区別できなくなってしまった。そしてそのために、肉体とはまったく別個の魂というスコラ学派的な偏見に陥ってしまったのである。そして精神の不安定な者たちに対して、魂も死ぬという見解を吹き込んでしまいさえしたのである。
  15. ある知覚から別の知覚への変化あるいは経過を生みだす、内部原理の活動は Appetition と呼ばれる。欲望 [l'appetit] が必ずしも、それが狙いとする知覚すべてを獲得できるもののて限らないけれど、でも必ずその一部は取得し、新しい知覚を実現するのである。
  16. われわれは自分自身の中で、単純な存在の増幅性を経験している。それは、われわれが意識しているもののなかでいちばん考えることのないものが、その対象の中のバラエティに関係しているのに気がつくときだ。このように、魂が単純な存在だと認める人はすべて、単子の増幅性を認めなくてはならない。そして M. Bayle も、かれの辞書の「Rorarius」の項で述べていたほどむずかしものと感じなくてよいはずだ。
  17. さらに、知覚と、それに依存しているものは機械論だけでは説明できないということは、告白しておかなくてはならない。つまり形態とその運動だけでは説明できないのだ。そして考え、感じ、知覚するようにつくられた機械があったとしよう。その機械を各部分の比率はそのままにずっと大きくしてやって、たとえば製粉所に入るようにその機械の中に入れたとしよう。そのとき、その内部を調べてみても、いろんな部品(パーツ)が相互に作用しているのが見えるだけで、知覚そのものを説明するものはいっさい見つからないだろう。そたがって知覚というものを求めるのであれば、それは単純な存在に求めるべきであり、複合物や機械に求められるものではないのだ。さらに、単純な物質の中に見つかるのは、ひたすらこれだけ(つまり知覚とその変化だけ)なのだ。さらに単純な存在の内部活動すべてを構成できるのは、まさにその知覚とその変化の中だけである。 (Theod. Pref. [E. 474; G. vi. 37].)
  18. すべての単純な存在、あるいは創造された単子は、エンテレケイヤ(Entelechies)と呼んでもいい。というのもそれらは内部にある種の完成を宿しているからだ (echousito enteles) そこにはある種の自足性 (autarkeia)がありそれがその内部活動およびいわば無形の自律性の源泉となるのである。 (Theod. 87.)
  19. もしこれまでわたしが説明してきたような一般的な意味で、知覚や欲望(欲求)を持つものすべてに魂という名を与えるなら、あらゆる単純な物質あるいは創造された単子は魂と呼べるかもしれない。しかしながら感情 [le sentiment] というのはむきだしの知覚以上のものなので、知覚のみを持つ単純な物質には単子やエンテレケイヤという一般名でじゅうぶんであり、魂という名前は、知覚がもっと明確で、記憶が伴っているものだけに与えるのが適当だと思う。
  20. というのもわれわれは、なにも覚えておらず、はっきりした知覚も持たないような状態を、われわれ自身が経験したりするからだ。たとえば気絶したり、あるいは深い夢も見ないような眠りに落ちた場合などだ。この状態では、魂ははっきりした形ではむきだしの単子とちがわない。でもこの状態は永続的ではなく、魂はその状態を脱するので、魂はただの単子以上の存在である。(Theod. 64.)
  21. そして、この状態で単純な物質になんの知覚もないということは言えない。むしろそんなことはありえない。それはすでに挙げた理由による。なぜなら、それは消滅しないし、なんらかの影響を受けることなしに存在し続けたりもしないし、この影響は、まさにその単純な物質にとっての知覚でしかないからだ。でも小さな知覚が大量にあって、そのなかでぬきんでたものが何もないときに、それを受けた存在はとまどう。それは人が同じ方向に何回か続けてぐるぐるまわると、くらくらして卒倒し、何も識別できなくなるようなものだ。死は一時的に動物をこうした状態においてしまえる。
  22. そして、単純な物質の現状というのはすべて、当然ながらその前の状態の帰結なのだから、その現在というのは、その将来でふくれあがっているような状態になっているわけだ; (Theod. 350.)
  23. そして人事不省の状態から目覚めるときにわれわれが自分の知覚を意識しているように、われわれは目を覚ます直前に知覚を持っていたにちがいない。そのときにはそれをまるで意識していないにしても。というのもある知覚は、自然な形ではほかの知覚からしかこないからだ。運動が自然な形ではほかの運動からしかこないのと同じように。 (Theod. 401-403.)
  24. つまり、もしわれわれの知覚の中に、何か特筆すべきものがなく、いわばぬきんでて高い味わいのものがなければ、われわれはいつも麻痺状態におかれることになるだろう。そしてこれこそむきだしの単子がおかれている状態なのだ。
  25. また、自然が動物に高い知覚を与えたこともわかる。自然は動物たちに、多量の光を集めたり、空気の揺らぎを大量に集めたりして、それを集めることでその力を増すような器官を与えているではないか。これと似たようなことが、嗅覚、味覚、触覚、そしておそらくわれわれのまだ知らないその他の感覚でも起きているはずだ。そして肉体の器官で起きていることが、魂の中で起きていることに表彰されることをいまから説明しよう。
  26. 記憶は魂にある種の連続性を与える。それは理性と似てはいるけれど、でも理性とは区別すべきだ。つまり動物がなにか「ん?」と思うものを知覚して、それが以前に似たような知覚を受けたものの場合、その動物たちが記憶の中の表彰を通じて、この過去の知覚に組合わさっていたものを予期するようになり、そして前の機会に持ったのと似た感情を持つということは見て取れる。たとえば、イヌに棒を見せたら、イヌはそれがかつて引き起こした苦痛を思いだして、吠えて走り去る。 (Theod. Discours de la Conformite, &c., ss. 65.)
  27. そしてその動物たちに印象づけて動かす内的なイメージの強さは、以前の知覚の強さか回数によって決まる。というのも、強い印象は一回だけで、長期にわたって形成された習慣や、何度も繰り返し起きた普通の知覚と同じ効果をもたらすからだ。
  28. 知覚の組み合わせが記憶の原理だけによるものの場合、人々は低級な動物と同じようなふるまいをする。そのふるまいは、理論もなしに単に実践だけを手法とする経験主義的な物理学者たちにも似ている。確かに、われわれのふるまいの四分の三は、ただの経験則にすぎない。たとえば明日、日が昇ると予期するとき、それは経験的にそう予期している。これまでずっとそれが起きてきたからだ。合理的な根拠に基づいて考えるのは天文学者だけだ。
  29. でも、われわれをただの動物から区別して、理性や諸学問を与え、自分自身や神についての認識に高めてくれるのは、必然的で永遠の真理についての知識だ。そしてわれわれの中のこれこそが、合理的な魂や精神と呼ばれるものだ。
  30. さらに必然的な真実の知識と、その抽象表現を通じることで、われわれは内省というふるまいにまで高められ、これは私というものについて考えさせて、そしてわれわれの中にあるあれこれを観察させてくれる。そしてこのように、自分について考えることで、われわれは存在や本質、単純なものと複合物、霊的なもの、そして神ご自身について考えることができ、われわれの中では限定されているものが、神の中にあっては無限だということも知覚できるわけだ。そしてこの内省という行為が、われわれの理由づけの主たる対象を彩ることになる。 (Theod. Pref. [E. 469; G. vi. 27].)
  31. われわれの理由づけは、二つの大きな原理に基づいている。一つは矛盾の原理。この原理の美徳によって、われわれは矛盾を含むものは偽であるという判断をするし、偽とは反対のもの、または偽に矛盾するものは新であるという判断をする。 (Theod. 44, 169.)
  32. そしてもう一つは、十分な理由の原理。この原理の美徳によって、われわれはあるものがそうあるべきでそれ以外であってはならないという十分な理由がない限り、現実または既存のどんな事実もあり得ないしどんな主張も真実ではあり得ないということが言える。ただしこうした理由は普通は、われわれには知り得ないのではあるが。 (Theod. 44, 196.)
  33. また真実には二種類ある。一つは理由づけの真実であり、もう一つは事実としての真実だ。理由づけの真実は必要だし、その反対は不可能だ。事実としての真実は条件付きのもので、その反対は可能だ。真実が必要なら、その理由は分析によって見つかる。分析はそれをもっと単純なアイデアや真実に還元し、やがてわれわれは、primaryであるようなアイデアや真実に到達する。 (Theod. 170, 174, 189, 280-282, 367. Abrege, Object. 3.)
  34. このようにして数学に置いては予想される定理や実際的なカノンは、分析によって定義と公理と仮定に還元される。
  35. つまり、定義が不可能なほど単純なアイデアというものがある。また公理や仮定など、証明のできない、また証明の必要ない基本原理がある。そしてこれらはみな等価なpropositionsで、それらの反対物ははっきりとした矛盾を含む。 (Theod. 36, 37, 44, 45, 49, 52, 121-122, 337, 340-344.)
  36. でも条件つきの真実、つまり事実としての真実には、十分な理由がなくてはならない。つまり、被創造物の宇宙の中すべてに散在するモノのつながりや結びつきにはちゃんと理由があって、その個別の理由を分析すれば果てしない細部に入り込むだろう。というのも自然のモノはすさまじいバラエティを持ち、物体は果てしなく分割できるからだ。わたしが目下執筆しているこの文章の有効な原因を構成する、現在と過去の形態や運動は無数にある。そしてその最終的な原因を作り上げる、かすかなクセや傾向は無数にあるわけだ。
  37. そしてこうした詳細すべてが、これまたそれ以前の、あるいはもっと詳細な条件つきのモノが関わっており、そのそれぞれがやはり似たような分析を経てその理由に到達するのだから、われわれはちっとも前進していないことになる。そして十分または最終的な理由は、個別の条件つきモノのつながりの外にあるものでなくてはならない。そうしたつながりは果てしなく長いものになるのではあるが。
  38. だからモノの最終的な理由は、必然的実体の中になくてはならない。そこにおいては個別の変化のバラエティは突出したものとして、その根源として存在する。そしてその実体をわれわれは神と呼ぶ。(Theod. 7.)
  39. さてこの実体は、こうしたあらゆる個別性の十分な理由となり、そしてその個別性はすべてまた相互につながりあっている以上、神は一つしかなく、そしてその神は十分である。
  40. さらにまたこの至高の実体――それは独自性を持ち、普遍的で必要性を持ち、その外にあるものでその本質から独立して存在するものはない――この実体、つまり可能な存在の純粋なつながりだが、それは限りがあってはならないし、可能な限りの現実を含まなくてはならない。
  41. そこから導かれるのは、神は絶対的に完全だと言うことである。というのも完全性とは実在する現実の量でしかなく、厳密な意味で、制限されているモノの制限や限界を考慮からはずしたものだからである。そして限界がないところ、つまり神においては、完全性は絶対的に無限なのである。 (Theod. 22, Pref. [E. 469 a; G. vi. 27].)
  42. さらに導かれるのは、被創造物は己の完全性を神の影響から導き出すが、己の不完全性は己自身の性質からくるのであるということだ。被創造物は、限界なしでは存在できない。この点でかれらは神とは異なるのである。この被創造物の原型的な不完全性は、物体の自然の惰性に見られる。 (Theod. 20, 27-30, 153, 167, 377 sqq.)
  43. さらに真実として、神においては存在の源があるだけでなく、本質のうち現実であるものの源もある。つまり可能なもののなかで現実であるものの源が神の中にあるのだ。というのも神の理解とは、永遠の真実の領域、またはそれが依存する観念の領域であり、神なくしては物事の可能性の中で現実であるものは何もなくなってしまい、そうなったら存在するのは無であるばかりか、可能なものは何一つなくなってしまう。 (Theod. 20.)
  44. というのも本質や可能性(というよりむしろ永遠の真実)の中に現実性があるとするなら、その現実は何か存在して実際にあるものに基盤づけられていなければならず、結果として必然的存在の存在に基礎付けられているべきとなる。その必然的存在において本質は存在するのであり、その必然的存在の中において、可能なものが実際のものとなるからである。 (Theod. 184-189, 335.)
  45. したがって、神のみが(あるいは必然的存在のみが)、神が可能であるならば神が必然的に存在しなくてはならないという特権を有している。そして限界もなく、不可能もなく、結果として矛盾もないものの可能性に対して介入できるものはないので、これ(神の可能性)はそれ自体でアプリオリに神の存在を知らしめるに十分である。したがって、われわれは神の存在を、永遠の真実の現実性を通じて証明したことになる。だが少し前にわれわれはそれを事後的にも証明した。必然的存在のみに最終的あるいは十分な理由を依存している、依存性の存在が実在する以上、存在の必然性をそれ自体の中に含む必然的存在も実在する。
  46. しかしながら一部の人のように、永遠の真実が神に依存するからといってそれが恣意的なものであり神の気まぐれ次第だと思ってはいけない。どうもデカルトやその後はM.ポワレがそのように考えていたようである。これは条件つきの真実についてのみ成り立つ話であり、その場合の原理は適合性や最善のものを選ぶということだが、必然的真実は神の理解にのみ依存するものであり、神内部の存在なのである。 (Theod. 180-184, 185, 335, 351, 380.)
  47. だから神だけが原統一体 (primary unity) または原単純物質であり、すべての被創造または派生の単子(モナド)はその産物であって、いわば聖なる存在の瞬間ごとの連続的な閃きによって生み出されるのであり、それを制限するのは被創造物の受容能力であって、というのもそうした被創造物の本質とは制限を持つことだからなのである。 (Theod. 382-391, 398, 395.)
  48. 神の中には力があり、それがすべての源である。また知識もあり、その内容こそが観念の多様性である。そして最後に意志があり、それは最高のものの原則に基づいて変化や産物を生み出す。 (Theod. 7, 149, 150.) こうした特徴は、被創造単子(モナド)の中で地または基盤となるもの、知覚の能力、欲求能力に対応する。だが神においてはこうした偶有は絶対的に無限または完全である。そして被創造単子(モナド)またはエンテレケイヤ(あるいはヘルモラウス・バルバルスの訳語では完全存在物)には、そうした偶有のまがいものしかなく、その水準はその単子(モナド)の完成度に左右される。 (Theod. 87.)
  49. 49. A created thing is said to act outwardly in so far as it has perfection, and to suffer [or be passive, patir] in relation to another, in so far as it is imperfect. Thus activity [action] is attributed to a Monad, in so far as it has distinct perceptions, and passivity [passion] in so far as its perceptions are confused. (Theod. 32, 66, 386.)
  50. 50. And one created thing is more perfect than another, in this, that there is found in the more perfect that which serves to explain a priori what takes place in the less perfect, and it is on this account that the former is said to act upon the latter.
  51. 51. But in simple substances the influence of one Monad upon another is only ideal, and it can have its effect only through the mediation of God, in so far as in the ideas of God any Monad rightly claims that God, in regulating the others from the beginning of things, should have regard to it. For since one created Monad cannot have any physical influence upon the inner being of another, it is only by this means that the one can be dependent upon the other. (Theod. 9, 54, 65, 66, 201. Abrege, Object. 3.)
  52. 52. Accordingly, among created things, activities and passivities are mutual. For God, comparing two simple substances, finds in each reasons which oblige Him to adapt the other to it, and consequently what is active in certain respects is passive from another point of view; active in so far as what we distinctly know in it serves to explain [rendre raison de] what takes place in another, and passive in so far as the explanation [raison] of what takes place in it is to be found in that which is distinctly known in another. (Theod. 66.)
  53. 53. Now, as in the Ideas of God there is an infinite number of possible universes, and as only one of them can be actual, there must be a sufficient reason for the choice of God, which leads Him to decide upon one rather than another. (Theod. 8, 10, 44, 173, 196 sqq., 225, 414-416.)
  54. 54. And this reason can be found only in the fitness [convenance], or in the degrees of perfection, that these worlds possess, since each possible thing has the right to aspire to existence in proportion to the amount of perfection it contains in germ. (Theod. 74, 167, 350, 201, 130, 352, 345 sqq., 354.)
  55. 55. Thus the actual existence of the best that wisdom makes known to God is due to this, that His goodness makes Him choose it, and His power makes Him produce it. (Theod. 8, 78, 80, 84, 119, 204, 206, 208. Abrege, Object. 1 and 8.)
  56. 56. Now this connexion or adaptation of all created things to each and of each to all, means that each simple substance has relations which express all the others, and, consequently, that it is a perpetual living mirror of the universe. (Theod. 130, 360.)
  57. 57. And as the same town, looked at from various sides, appears quite different and becomes as it were numerous in aspects [perspectivement]; even so, as a result of the infinite number of simple substances, it is as if there were so many different universes, which, nevertheless are nothing but aspects [perspectives] of a single universe, according to the special point of view of each Monad. (Theod. 147.)
  58. 58. And by this means there is obtained as great variety as possible, along with the greatest possible order; that is to say, it is the way to get as much perfection as possible. (Theod. 120, 124, 241 sqq., 214, 243, 275.)
  59. 59. Besides, no hypothesis but this (which I venture to call proved) fittingly exalts the greatness of God; and this Monsieur Bayle recognized when, in his Dictionary (article Rorarius), he raised objections to it, in which indeed he was inclined to think that I was attributing too much to God- more than it is possible to attribute. But he was unable to give any reason which could show the impossibility of this universal harmony, according to which every substance exactly expresses all others through the relations it has with them.
  60. 60. Further, in what I have just said there may be seen the reasons a priori why things could not be otherwise than they are. For God in regulating the whole has had regard to each part, and in particular to each Monad, whose nature being to represent, nothing can confine it to the representing of only one part of things; though it is true that this representation is merely confused as regards the variety of particular things [le detail] in the whole universe, and can be distinct only as regards a small part of things, namely, those which are either nearest or greatest in relation to each of the Monads; otherwise each Monad would be a deity. It is not as regards their object, but as regards the different ways in which they have knowledge of their object, that the Monads are limited. In a confused way they all strive after [vont a] the infinite, the whole; but they are limited and differentiated through the degrees of their distinct perceptions.
  61. 61. And compounds are in this respect analogous with [symbolisent avec] simple substances. For all is a plenum (and thus all matter is connected together) and in the plenum every motion has an effect upon distant bodies in proportion to their distance, so that each body not only is affected by those which are in contact with it and in some way feels the effect of everything that happens to them, but also is mediately affected by bodies adjoining those with which it itself is in immediate contact. Wherefore it follows that this inter-communication of things extends to any distance, however great. And consequently every body feels the effect of all that takes place in the universe, so that he who sees all might read in each what is happening everywhere, and even what has happened or shall happen, observing in the present that which is far off as well in time as in place: sympnoia panta, as Hippocrates said. But a soul can read in itself only that which is there represented distinctly; it cannot all at once unroll everything that is enfolded in it, for its complexity is infinite.
  62. 62. Thus, although each created Monad represents the whole universe, it represents more distinctly the body which specially pertains to it, and of which it is the entelechy; and as this body expresses the whole universe through the connexion of all matter in the plenum, the soul also represents the whole universe in representing this body, which belongs to it in a special way. (Theod. 400.)
  63. 63. The body belonging to a Monad (which is its entelechy or its soul) constitutes along with the entelechy what may be called a living being, and along with the soul what is called an animal. Now this body of living being or of an animal is always organic; for, as every Monad is, in its own way, a mirror of the universe, and as the universe is ruled according to a perfect order, there must also be order in that which represents it, i.e. in the perceptions of the soul, and consequently there must be order in the body, through which the universe is represented in the soul. (Theod. 403.)
  64. 64. Thus the organic body of each living being is a kind of divine machine or natural automaton, which infinitely surpasses all artificial automata. For a machine made by the skill of man is not a machine in each of its parts. For instance, the tooth of a brass wheel has parts or fragments which for us are not artificial products, and which do not have the special characteristics of the machine, for they give no indication of the use for which the wheel was intended. But the machines of nature, namely, living bodies, are still machines in their smallest parts ad infinitum. It is this that constitutes the difference between nature and art, that is to say, between the divine art and ours. (Theod. 134, 146, 194, 403.)
  65. 65. And the Author of nature has been able to employ this divine and infinitely wonderful power of art, because each portion of matter is not only infinitely divisible, as the ancients observed, but is also actually subdivided without end, each part into further parts, of which each has some motion of its own; otherwise it would be impossible for each portion of matter to express the whole universe. (Theod. Prelim., Disc. de la Conform. 70, and 195.)
  66. 66. Whence it appears that in the smallest particle of matter there is a world of creatures, living beings, animals, entelechies, souls.
  67. 67. Each portion of matter may be conceived as like a garden full of plants and like a pond full of fishes. But each branch of every plant, each member of every animal, each drop of its liquid parts is also some such garden or pond.
  68. 68. And though the earth and the air which are between the plants of the garden, or the water which is between the fish of the pond, be neither plant nor fish; yet they also contain plants and fishes, but mostly so minute as to be imperceptible to us.
  69. 69. Thus there is nothing fallow, nothing sterile, nothing dead in the universe, no chaos, no confusion save in appearance, somewhat as it might appear to be in a pond at a distance, in which one would see a confused movement and, as it were, a swarming of fish in the pond, without separately distinguishing the fish themselves. (Theod. Pref. [E. 475 b; 477 b; G. vi. 40, 44].)
  70. 70. Hence it appears that each living body has a dominant entelechy, which in an animal is the soul; but the members of this living body are full of other living beings, plants, animals, each of which has also its dominant entelechy or soul.
  71. 71. But it must not be imagined, as has been done by some who have misunderstood my thought, that each soul has a quantity or portion of matter belonging exclusively to itself or attached to it for ever, and that it consequently owns other inferior living beings, which are devoted for ever to its service. For all bodies are in a perpetual flux like rivers, and parts are entering into them and passing out of them continually.
  72. 72. Thus the soul changes its body only by degrees, little by little, so that it is never all at once deprived of all its organs; and there is often metamorphosis in animals, but never metempsychosis or transmigration of souls; nor are there souls entirely separate [from bodies] nor unembodied spirits [genies sans corps]. God alone is completely without body. (Theod. 90, 124.)
  73. 73. It also follows from this that there never is absolute birth [generation] nor complete death, in the strict sense, consisting in the separation of the soul from the body. What we call births [generations] are developments and growths, while what we call deaths are envelopments and diminutions.
  74. 74. Philosophers have been much perplexed about the origin of forms, entelechies, or souls; but nowadays it has become known, through careful studies of plants, insects, and animals, that the organic bodies of nature are never products of chaos or putrefaction, but always come from seeds, in which there was undoubtedly some preformation; and it is held that not only the organic body was already there before conception, but also a soul in this body, and, in short, the animal itself; and that by means of conception this animal has merely been prepared for the great transformation involved in its becoming an animal of another kind. Something like this is indeed seen apart from birth [generation], as when worms become flies and caterpillars become butterflies. (Theod. 86, 89. Pref. [E. 475 b; G. vi. 40 sqq.]; 90, 187, 188, 403, 86, 397.)
  75. 75. The animals, of which some are raised by means of conception to the rank of larger animals, may be called spermatic, but those among them which are not so raised but remain in their own kind (that is, the majority) are born, multiply, and are destroyed like the large animals, and it is only a few chosen ones [elus] that pass to a greater theatre.
  76. 76. But this is only half of the truth, and accordingly I hold that if an animal never comes into being by natural means [naturellement], no more does it come to an end by natural means; and that not only will there be no birth [generation], but also no complete destruction or death in the strict sense. And these reasonings, made a posteriori and drawn from experience are in perfect agreement with my principles deduced a priori, as above. (Theod. 90.)
  77. 77. Thus it may be said that not only the soul (mirror of an indestructible universe) is indestructible, but also the animal itself, though its mechanism [machine] may often perish in part and take off or put on an organic slough [des depouilles organiques].
  78. 78. These principles have given me a way of explaining naturally the union or rather the mutual agreement [conformite] of the soul and the organic body. The soul follows its own laws, and the body likewise follows its own laws; and they agree with each other in virtue of the pre-established harmony between all substances, since they are all representations of one and the same universe. (Pref. [E. 475 a; G. vi. 39]; Theod. 340, 352, 353, 358.)
  79. 79. Souls act according to the laws of final causes through appetitions, ends, and means. Bodies act according to the laws of efficient causes or motions. And the two realms, that of efficient causes and that of final causes, are in harmony with one another.
  80. 80. Descartes recognized that souls cannot impart any force to bodies, because there is always the same quantity of force in matter. Nevertheless he was of opinion that the soul could change the direction of bodies. But that is because in his time it was not known that there is a law of nature which affirms also the conservation of the same total direction in matter. Had Descartes noticed this he would have come upon my system of pre-established harmony. (Pref. [E. 477 a; G. vi. 44]; Theod. 22, 59, 60, 61, 63, 66, 345, 346 sqq., 354, 355.)
  81. 81. According to this system bodies act as if (to suppose the impossible) there were no souls, and souls act as if there were no bodies, and both act as if each influenced the other.
  82. 82. As regards minds [esprits] or rational souls, though I find that what I have just been saying is true of all living beings and animals (namely that animals and souls come into being when the world begins and no more come to an end that the world does), yet there is this peculiarity in rational animals, that their spermatic animalcules, so long as they are only spermatic, have merely ordinary or sensuous [sensitive] souls; but when those which are chosen [elus], so to speak, attain to human nature through an actual conception, their sensuous souls are raised to the rank of reason and to the prerogative of minds [esprits]. (Theod. 91, 397.)
  83. 83. Among other differences which exist between ordinary souls and minds [esprits], some of which differences I have already noted, there is also this: that souls in general are living mirrors or images of the universe of created things, but that minds are also images of the Deity or Author of nature Himself, capable of knowing the system of the universe, and to some extent of imitating it through architectonic ensamples [echantillons], each mind being like a small divinity in its own sphere. (Theod. 147.)
  84. 84. It is this that enables spirits [or minds- esprits] to enter into a kind of fellowship with God, and brings it about that in relation to them He is not only what an inventor is to his machine (which is the relation of God to other created things), but also what a prince is to his subjects, and, indeed, what a father is to his children.
  85. 85. Whence it is easy to conclude that the totality [assemblage] of all spirits [esprits] must compose the City of God, that is to say, the most perfect State that is possible, under the most perfect of Monarchs. (Theod. 146; Abrege, Object. 2.)
  86. 86. This City of God, this truly universal monarchy, is a moral world in the natural world, and is the most exalted and most divine among the works of God; and it is in it that the glory of God really consists, for He would have no glory were not His greatness and His goodness known and admired by spirits [esprits]. It is also in relation to this divine City that God specially has goodness, while His wisdom and His power are manifested everywhere. (Theod. 146; Abrege, Object. 2.)
  87. 87. As we have shown above that there is a perfect harmony between the two realms in nature, one of efficient, and the other of final causes, we should here notice also another harmony between the physical realm of nature and the moral realm of grace, that is to say, between God, considered as Architect of the mechanism [machine] of the universe and God considered as Monarch of the divine City of spirits [esprits]. (Theod. 62, 74, 118, 248, 112, 130, 247.)
  88. 88. A result of this harmony is that things lead to grace by the very ways of nature, and that this globe, for instance, must be destroyed and renewed by natural means at the very time when the government of spirits requires it, for the punishment of some and the reward of others. (Theod. 18 sqq., 110, 244, 245, 340.)
  89. 89. It may also be said that God as Architect satisfies in all respects God as Lawgiver, and thus that sins must bear their penalty with them, through the order of nature, and even in virtue of the mechanical structure of things; and similarly that noble actions will attain their rewards by ways which, on the bodily side, are mechanical, although this cannot and ought not always to happen immediately.
  90. 90. Finally, under this perfect government no good action would be unrewarded and no bad one unpunished, and all should issue in the well-being of the good, that is to say, of those who are not malcontents in this great state, but who trust in Providence, after having done their duty, and who love and imitate, as is meet, the Author of all good, finding pleasure in the contemplation of His perfections, as is the way of genuine 'pure love,' which takes pleasure in the happiness of the beloved. This it is which leads wise and virtuous people to devote their energies to everything which appears in harmony with the presumptive or antecedent will of God, and yet makes them content with what God actually brings to pass by His secret, consequent and positive [decisive] will, recognizing that if we could sufficiently understand the order of the universe, we should find that it exceeds all the desires of the wisest men, and that it is impossible to make it better than it is, not only as a whole and in general but also for ourselves in particular, if we are attached, as we ought to be, to the Author of all, not only as to the architect and efficient cause of our being, but as to our master and to the final cause, which ought to be the whole aim of our will, and which can alone make our happiness. (Theod. 134, 278. Pref. [E. 469; G. vi. 27, 28].)



プロジェクト杉田玄白


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