ケンブリッジ・カレッジガイド 1999/2000
ケンブリッジ大学ステューデント・ユニオン(Cambridge
University Students' Union)著(1999.10)
稲葉祐之(Yushi
INABA) <yi205@cus.cam.ac.uk> 訳 (2000.2)
プロジェクト杉田玄白 協賛テキスト
訳者まえがき
ケンブリッジ(とオックスフォード)大学をユニークなものにしているのがそのカレッジ・システム。オクスブリッジのカレッジは、一般的な単 科大学としてのカレッジとは異なる意味あいを持っている(そのためか両大学のカレッジを指す名詞はCollegeと、頭が大文字から始まる固有名詞扱 い)。ではオクスブリッジのカレッジはどういうものかというと、学生とフェロー(fellow)と呼ばれるカレッジ所属の教官、そして彼らをサポートする 様々なスタッフからなる学園生活コミュニティといったところ。だから日本では昔は学寮なんて訳されていた。
オクスブリッジの学生は、所属学部のメンバーであると同時にどこかのカレッジのメンバーでもある。学生は、学部に受け入れられるとともに 所属カレッジが決まらないと入学できない。学部及びその上位に位置する大学当局は、学生のカリキュラムを決定し、講義を行い試験を課し、成績や学位の授与 を決める。カレッジは大学が受け入れを決めた各学部の学生を選抜してそのメンバーとし、彼らに各自の部屋やダイニングホール、礼拝堂にスポーツ施設などの ファシリティ、そして各種ソサエティやクラブなども含めた学生生活の場を提供する。ついでにアンダーグラデュエイトの学生には、主にフェローによってスー パーヴィジョン(supervision)と呼ばれる個人教授あるいは少数グループ指導が課される。
このようにカレッジは大学の構成要素ではあるんだけど、学部とは別の存在だ。オクスブリッジという国立大学の一部であるにもかかわらず、その実体は独自の財政基盤を持つ私立の独立法人だし(とはいっても、その大多数は国の補助を受けている)。
さてこのコミュニティ、ケンブリッジには30あまり存在する。それも13世紀から続いているものからつい最近設立されたものまで、大きなカ レッジから小さなものまで、政治的に右寄りのカレッジ、左寄りのカレッジ、大学院生だけとか女性だけから成るカレッジなど、とにかくさまざま。それぞれが とても個性的で面白い歴史を持っているし、有名人もたくさん輩出している。
ケンブリッジ・カレッジガイド1999/2000は、この個性溢れるカレッジ達の解説書だ。カレッジガイドは大学が募集要項として出しているオフィシャルなもの(学部生用)(大学院生用)
もあるけれど、これはケンブリッジ大学のステューデント・ユニオンが作った、学生の手になるもの。いろいろなカレッジの歴史や雰囲気が、彼らの若々しい
タッチで描写されていて面白い。ケンブリッジ大学を訪れる人、ケンブリッジ大学を受験する人、あるいは単に興味のある人などのお役に立てば、訳者もうれし
い。Enjoy!
2000年2月 Cambridge, U. K. 稲葉祐之
P.S. とろとろ翻訳してたら、なんと1999/2000年のアカデミック・イヤーももうおしまいという時期になってやっと完成した。というわけで、翻訳終了記念に「ケンブリッジ大学受験生のためのHow to Choose Your College」。このカレッジガイドを読んで是非ケンブリッジ大学を受験したくなった、という人はそんなにいないだろうけど、とりあえずケンブリッジ大学を受けることになった人にささげる、カレッジの選び方tips集だ。Enjoy!
2000年6月 Cambridge, U. K. 稲葉祐之
Copyright (C) 1999, Cambridge University Students' Union
Japanese Translation Copyright (C) 2000, Yushi INABA
以下は、'the cambridge guide `99-00' (Cambridge University Students' Union; CUSU, 1999)所収の'college compendium'の翻訳である。訳者は著作権者であるCUSUから、以下の条件で翻訳公開の許可を得た。
−ウェブ上での翻訳の公開は許可される。
−ただし、'The Cambridge Guide
`99-00'はケンブリッジ大学学外者にはCUSUが有償(4.99スターリング・ポンド)配布している著作物である(ケンブリッジ大学所属の人には無
償配布)ため、学外者が本翻訳を印刷したり、またはその複製物(hard
copy)を学外者に配布することは許可されない。
つまりこのページの閲覧(とウェブ上での複製)はおっけえだけど、学外の人は個人使用か否かに関わらずこれを印刷したり、その印刷物をケ ンブリッジ大学所属の人以外に渡したりちゃダメってこと。ちなみにということは学内の人は印刷も可能だし、学内の人に渡す限りは再配布もできる。蛇足なが ら。
凡例
カレッジ名(英文);ちなみにここにあるカレッジの名前は通称。正式名称はやたらと長いことが多い。たとえば僕が所属しているのはSt.
John's Collegeだけど、正式名称は'The Master, Fellows and Scholars of the
College of St. John the Evangelist in the University of Cambridge'となる。
Address: カレッジの住所。英国外から郵便を送る場合は、ポストコードのあとにU.K.をつける。
Enquiry: 問い合わせ先電話番号(内線)。外線からかける場合はあたまに3をつける。市外局番は01223-。
Founded: 設立年。
Master: カレッジの長の名前。カレッジのヘッドの称号はMasterの他にもいろいろある。
Undergrads: 所属学部生数
Postgrads: 所属大学院生数
クライスト・カレッジ(Christ's
College)
Address: St Sndrews St., CB2 3BU
Enquiry: 34900
Founded: 1505
Master: Dr A J Munro
Undergrads: 390
Postgrads: 100
始まりは1437年、ロンドンの教区司祭だったウィリアム・バインガム(William
Byngham)が、当時黒死病で亡くなった数多くの教師を補充するため新たな世代を送り出すべく設立した「ゴッズ・ハウス(God's
House)」。けれども仕上げをしたのは、国王ヘンリー7世(Henry VII)の母后として財力と権勢を誇ったレディ・マーガレット・ボウフォート(Lady
Margaret Beaufort)で、正式な設立は1505年。国王ジェームズ1世(James I)から贈られた桑の木の下でまどろみながらジョン・ミルトン(John
Milton)は詩作に耽り、後にはチャールズ・ダーウィン(Charles Darwin)がその庭で「狂ったようにかぶと虫を蒐集していた」ところ。
「私が入学した年にカレッジが受け入れたのはわずか3人だった。しかもそのうちの二人は学びに来たのではないなどと公言していた」とかいう
1748年当時とはうってかわって、現在はむっちゃ勉強させるところだという評判が定着している。なんてったって、シャワールームは図書館の中にあるほど
なんだから!でもとっても非公式なカレッジ成績ランキングでは、いつもトップに来てるのがうちなんだ。
チャーチル・カレッジ(Churchill
College)
Address: Storey's Way, CB3 0DS
Enquiry: 36000
Founded: 1958
Master: Sir John Boyd
Undergrads: 400
Postgrads: 200
カレッジの建物は、うちの名前の由来になった人*が好きだった葉巻の箱が積み上げられたところを彷彿とさせる。何かと話題を呼んだチャーチ
ル文書とか(これって「国家のために」とかいう理由で宝くじ(国営)の収益金で購入したんだよね)、マーガレット・サッチャー(Margaret
Thatcher)がもってたハンドバッグの一つ(!)とかが収められるようにとかいうことで元首相だった人達がさらに増築しているところとつながって
る。
うちは国が求める科学者や技術者の需要に応え、産業界との連携を創り出すために設立されたカレッジで、1972年には男だけからなるカレッジとしては初めて女性を受け入れた。
学生の間ではサイエンス系のカレッジだと思われているけど、理学と工学を学ぶ学生を多く確保すべしという規定があるし、ついでにここ数年でサイエンスとテクノロジーの分野(でもいまは畑)での拡大が予定されるケンブリッジ西部にうまいこと位置しているからでもある。
訳注:ご存知、Winston Churchill。
クレア・カレッジ(Clare
College)
Address: Trinity Lane, CB2 1TL
Enquiry: 33200
Founded: 1326
Master: Prof B A Hepple
Undergrads: 400
Postgrads: 200
1326年、ユニヴァーシティ・ホール*1の一つとして設立されたんだけど、おっそろしく貧乏で教官のポストは二つしかなかった。一つはマスター、もう一つは客員用。で、1338年にレディ・エリザベス・ドゥ・クレア(Lady
Elizabeth de Clare)の少なからぬ寄付によって再建された時点で、クレア・ホール(Clare
Hall)と相成った。つまり1856年までは、「クレア・カレッジ」じゃなかったんだ。
ケム川を跨ぐ現存最古の橋(おそらくフェロー達がペストの蔓延する町中を通らずにカレッジから出られるようにということで渡されたんだろう)がうちの自慢。トーマス・グラムボールド(Thomas
Grumbold)が1638年、満足するにはほど遠い3シリングの設計料で請け負った。値切られまくった彼のリベンジが、橋の上に置く14ストーン*2の石球のうちの一つの一部をどっかにやっちゃったままにするというもの。「橋が決して完成しないように」だって。
いまは程良いソーシャル・ミックスとすばらしいイベント(ents; entertainments)がある、とってもゆったりとしたカレッジ。
訳注1:カレッジとしての要件を満たしていない小規模な寄宿施設あるいはアカデミックのコミュニティのこと。
訳注2:約90キログラム。
クレア・ホール(Clare
Hall)
Address: Herschel Rd., CB3 9AL
Enquiry: 32360
Founded: 1966
President: Prof Beer
Undergrads: 大学院生のみ
Postgrads: 250
クレア・ホールは大学院生専用のカレッジの一つです。1966年2月にクレア・カレッジをその理事とする財団として設立されました。順調な
発展を経て、1984年に女王エリザベス2世(Elizabeth
II)からの勅許状*を受け、ケンブリッジ大学における確固たる独立のカレッジの一つとなったのです。クレア・カレッジがクレア・ホールを設立するに至っ
た経緯、そしてそれに続くクレア・ホールの発展の歴史は、クレア・カレッジの元フェローでクレア・ホールの設立時のフェローの一人でもあったリチャード・
イーデン(Richard
Eden)教授の近著によって描かれております。
クレア・ホールの特筆すべき点は、その大変温厚な雰囲気でして、伝えられるところでは独自にスイミング・プールを所有しているようです。
どうぞクレア・カレッジとお間違いにならぬよう。
訳注:形式的には、オクスブリッジのカレッジがカレッジとして認められるには王室からの勅許状が必要。
言い訳:以前書いた「グラデュエイト・カレッジなので記載なし(このガイドはアンダーグラデュエイトの学生が書いたものなのだ)」というのは大嘘で、実は後ろの方に別項としてちゃんと記述があったのでした。
コーパス・クリスティ・カレッジ(Corpus
Christi College)
Address: Trumpington St, CB2 1RH
Enquiry: 38000
Founded: 1352
Master: Prof Sir Tony Wrigley
Undergrads: 250
Postgrads: 150
1827年まではベネット・カレッジ(Bene't College)って名前だった。コーパスがユニークなのは、1352年に町衆によって設立されたってところ*。ついでに、ここんちがはじめて四角い内庭(court/quadrangle)を作ったカレッジなのだ。
1544年から1553年までマスターをやっていたマシュー・パーカー(Mathew
Parker)は、国王ヘンリー8世(Henry VIII)がやらかした修道院解体の最中に、自らが破壊から救ったとっても貴重でもんのすごい量の本やマニュスクリプトを寄付としてカレッジにもたらした。アルフレッド大王(King
Alfred)の書いた「アングロ・サクソン年代記」とか、トーマス・ベケット(Thomas
Becket)の持ち物だった詩編とか、聖アウグスティヌス(St. Augustine)から教皇グレゴリウス(Pope
Gregory)に贈られたということになっていて、いまでもカンタベリー大司教の着座式の際に使われる6世紀の福音書とかね。
そんな気前の良さにもかかわらず、マシューは人気がなかった。で、彼の死後その遺骸は掘り出され 堆肥の山に放り込まれちゃった。
まあ人数的にはちっちゃなカレッジだけど、あの有名なイーグル・パブ(Eagle
Pub)のオーナーなんだ。
訳注:当時のカレッジの多くは、ローマ・カトリック教会の影響下で設立・運営されていた。しかし15世紀の半ばから王権が伸長してオクスブ
リッジにおける彼らの影響力は縮小し、修道院解体と英国国教会の設立によりその弱体化は決定的となった(山川の『世界史』的記述)。近年のケンブリッジで
は、セント・エドモンズ・カレッジの設立はカトリック主導で行われたようです。
ダーウィン・カレッジ(Darwin
College)
Address: Silver St., CB3 9EU
Enquiry: 35660
Founded: 1964
Master: Prof Lloyd
Undergrads: 大学院生のみ
Postgrads: 489
ダーウィン・カレッジは1964年、トリニティ、セント・ジョンズ、ゴンヴィル・アンド・キーズの3カレッジの主導によって、ケンブリッジ
初の大学院生専用カレッジとして設立されました。カレッジは街の中心の程近くに位置し、ケム川でもその素敵な部分を背に控えています。川の中の小さいなが
らも趣に富んだ二つの小島も(これらもカレッジに属しています)、ここにしかない魅力的な雰囲気をもたらしています。
カレッジの名は、著名な生物学者、チャールズ・ダーウィンの家族から受け継ぎました。1885年にその次男であるジョージ・ダーウィン卿(Sir
George Darwin)が、現在カレッジでももっとも古い部分であるニューナム・グランジ(Newnham
Grange)を、その隣のオールド・グラナリー(Old Granary)とともに購入したのです。家はジョージ・ダーウィンにあわせて広範囲にわたって改修され、やがてジョージ卿の子息であるチャールズ・ダーウィン卿の家となりました。
そこで勉強している学生の眼前には、すばらしいミル・ポンド(Mill Pond)の風景が広がっています。
ダウニング・カレッジ(Downing
College)
Address: Regent St., CB2 1DQ
Enquiry: 34800
Founded: 1800
Master: David King
Undergrads: 380
Postgrads: 200
そもそも始まりがやっかいでろくでもなかったおかげで、ダウニング・カレッジにとって物事はよい方向にしか行きようがなかった。うちは貧弱さにつきまとわれて設立されたんだけど、これは、1764年にダウニング氏の従兄弟が後継者も決めずに亡くなってしまったから*1。
ダウニングは、アメリカン・スタイルのキャンパスを持つ最初のカレッジで...しかもアメリカで最初のアメリカン・スタイル・キャンパス・カレッ
ジよりも前にできたんだ。カレッジの規則もなかなか素敵で、フェローの半分は結婚しても良いことになっていたし、フェローシップの期間も限られていた
*2。
この頃じゃ、god@downing.cam.ac.ukなんていうメールアドレス*3を持っている礼拝堂の主席司祭(レズビアンとゲイの学生のいい相談相手だよ)がいるってことで、同じくおちゃめなカレッジだと思われているかもしれない。
ダウニングはもともとはケンブリッジ最大の内庭をもつはずだったんだけど、先立つものがなくてこのプランは取りやめになった。
訳注1:これだけだと何を言っているのかちょっとわかりませんね。これに
よると、つまりカレッジの創設者ジョージ・ダウニング(ダウニング街十番地すなわち現在の英国首相官邸を建てた貴族の孫)は、夫婦の仲がうまく行かず跡継
ぎに恵まれなかったため、1)3人の従兄弟とその跡継ぎの中から彼の相続者を出し、2)後継者が見つからない場合は、遺産をダウニングの家名を冠したカ
レッジの設立のために寄付するという遺言を残した。で、結局相続者は決まらないまま従兄弟たちが1764年までに全て亡くなったため、カレッジ設立かと
思ったら、亡くなった従兄弟の妻と彼女の再婚相手が財産の継承を主張してどろどろの裁判ざたになり、1800年にようやくジョージ・ダウニングの遺言が尊
重される形で、カレッジが設立されたということらしい。
訳注2:当時はフェローの結婚は認められておらず、結婚するとフェローの資格はなくなった(いまはそんなことはないです)。また、通常のフェロー職は在任期間限定ではなく、終身職だった(いまは定年あり)。
訳注3:おかげでこの司祭は一部(結構たくさんだったかも)の人たちから「神様?あんた何様のつもり?」という強烈な批判を受けたことがあった。
エマニュエル・カレッジ(Emmanuel
College);略称エマ(Emma)
Address: St. Andrew's St., CB2 3AP
Enquiry: 34200
Founded: 1584
Master: Prof Williams
Undergrads: 420
Postgrads: 150
1584年、大蔵大臣(Chancellor of the Exchecquer)としてエリザベス1世に仕えたウォルター・マイルドメイ卿(Sir
Walter Mildmay)が、新たなプロテスタント教会*1のための「学識ある男たちを育てる苗床」とするべく設立したのがこのカレッジ。
その野望は、旧ドミニコ修道院の敷地にカレッジを建設し、元の礼拝堂をカレッジのダイニング・ホールに、修道士の食堂をカレッジの礼拝堂に作り替えることで明確に示された。
王政復古当時の1660年、ここのマスターは極端なピューリタニズムを排除するという自らの意図を知らしめるために、クリストファー・レン(Christopher
Wren)にもっと明るい感じの礼拝堂の設計を依頼した。*2
現在のエマには、ほとんどの学生をはっきりと好きか嫌いかにさせるなかなか強烈なバーがあるけれど、それでもそこは大学の中ではもっとも人気の高い社交の場になっている。あと、うちのカレッジは現CUSUプレジデントをとっても誇りにしている。
訳注1:エリザベス1世によって設立された英国国教会。
訳注2:ピューリタニズムは、清廉・謹厳・実直(暗くて、頑固で、面白味がないとも言われる)を旨とする一派だったからでしょう。清教徒革命の起
こった頃がおそらくその勢力の頂点であったのだろうピューリタンは、王政復古の後はさんざん弾圧される。その意味で、このカレッジの行動は機をみるに敏。
フィッツウィリアム・カレッジ(Fitzwilliam
College);略称フィッツ(Fitz)*1
Address: Hutingdon Rd., CB3 0DG
Enquiry: 32000
Founded: 1945
Master: Prof Cuthbert
Undergrads: 440
Postgrads: 180
カレッジが街の中心部に生まれたのは1869年だったんだけど、現在の丘の上にある建物はその最も早いものでもせいぜい1963年に遡るくらい。
フィッツウィリアムはカレッジ費を賄うことの出来ないアンダーグラデュエイトの学生の世話をする学生寮(Non-Collegiate
Student Board)の一つとしてスタートした。そして、教育にかんしてはフィッツウィリアム博物館(the
Fitzwilliam Museum)と向かいあっている大きくて男性的なハウス*2に頼っていた。
1945年に学生奨学金制度が出来て、誰もがカレッジに所属できるようになると、このようなカレッジとは別の学生寮の必要性はなくなった。(でも、もともとフィッツが意図してたことをまた復活させる必要があるんじゃないかと思っている人、いるでしょ。*3)
そんなわけで、フィッツウィリアム・ハウス−その頃まではそう呼ばれていた−は、フィッツウィリアム・カレッジになったんだ。1966年には大学評議会で、女王によってフィッツウィリアムへの勅許状が授けられた。(いまじゃ学生にとってなかなかのイベント会場なのだ。)
訳注1:場合によってはフィッツビリー(Fitzbillie)とも。余談ながらthe
Fitzというとそれはここのカレッジではなくthe Fitzwilliam Museumのこと。
訳注2:Peterhouseのことでしょう。ケンブリッジ最小最古のカレッジで、「政治的に右寄りで、女性に敷居が高い」というステレオタイプでみられています。
訳注3:これは最近、政府のオクスブリッジへの予算が削減されて学生の払うカレッジ費が大幅に値上げされたことを指す。いま、学生のカレッジ費値上反対運動、盛り上がってます(そんなでもないか)。
ガートン・カレッジ(Girton
College)
Address: Huntingdon Rd., CB3 10JG
Enquiry: 38999
Founded: 1869
Mistress: Prof Strathern
Undergrads: 480
Postgrads: 180
ガートンよりもデリーに行ったことのあるケンブリッジの学生の数の方が多い、というのはよく聞く話ね。ここは、1869年に初めて女性のための、寄宿ができるカレッジとして設立されたの。
ヴィクトリア朝時代のたしなみということで、このカレッジはアンダーグラデュエイトの男子が押し掛けてくることのないように街の中心から2マイルも北に作られたのよ!
ガートンは1977年に最初の男性フェローを迎えた時点で共学になったの。男子学生が初めて入学したのは1979年。いまじゃ学部生は男女ほぼ
ちょうど半々のコミュニティになってるわ。フェロー、学生ともにここまできっちり男女の数が均衡しているというのは、ほんと、ほかのどのカレッジにもない
でしょうね。
ガートンには、多分町からの距離がありすぎるせいだと思うけど、ケンブリッジの中でも最大級のカレッジ・ライブラリー、そしておそらくケンブリッジのカレッジの中では最高の施設(なんとスイミング・プールまで)を備えています。
ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジ(Gonville
and Caius College);略称キーズ(Caius)
Address: Trinity St., CB2 1TA
Enquiry: 32400
Founded: 1348
Master: Mr McKendrick
Undergrads: 470
Postgrads: 250
カレッジが二度設立されたなんてことはとくに珍しいわけでもないけれど、うちのカレッジが他と違っているのは、設立した二人が共にカレッジの名前に残っているところ。最初の創立者は、ノーフォークの司祭だったエドモンド・ゴンヴィル(Edmund
Gonville)で、1348年「神学の研究のために」ゴンヴィル・ホール(Gonville
Hall)を設立した。
で、それを自らの出身カレッジ、つまりトリニティ・ホールの近くに移した彼の上司にあたる司教は、全ての学生に法学を学ぶよう強制した*1。
1529年自分自身もこのカレッジの学生だったことのある第二の設立者のジョン・キーズ(John
Kees)(Caiusが使われているのはラテン語のスペルのほうがいけてる!と思われてたから)は、イングランドに初めて実践的な解剖学の研究を紹介し
たんだ。彼はマスターとしての仕事に対する報酬は断って、新しい条件を要求した。新しく設けられる内庭を囲む建物は三方のみに限るべしと。「狭い場所に閉
じこめられた空気が腐るといけないから」だって。そして、学者の行く末、つまり謙譲・美徳そして名誉を象徴した三つの門が作られるはずだったんだ。*2
訳注1:トリニティ・ホールは法学の研究に力を入れていたから。
訳注2:これは実際にあります。謙譲の門(the Gate of Humility)はカレッジのエントランス、美徳の門(the
Gate of Virtue)はカレッジの中程にあり、名誉の門(the Gate of Honour)は学位授与式が行われるセネート・ハウス(the
Senate House)に向いています。つまり、メンバーは謙譲をもってカレッジに加わり、美徳と共に生活し、学位取得の名誉を得てカレッジを出るということを象徴しているわけです。
ホマートン・カレッジ(Homerton
College)
Address: Hills Rd., CB2 2PH
Enquiry: 507111(あたまに3はつけない)
Founded: ?
Principal: Dr Pretty
Undergrads: ?
Postgrads: ?
みんなホマートンをな、教員養成のためのカレッジや思っとるやろ。でもな、看護婦の訓練もやってるんやで。他の多くのカレッジに比べたらな、うちとこはそれ自体ひとつの学校みたいなもんや。たとえばうち独自のステューデント・ユニオンもあるしな。
ここ以外の大学の連中はみんな、うちのカレッジがどこからもばり離れたところに建っとると思いがちやな。せやけどな、ほんまは駅の向かいやし、
ジャンクション*1でギグとなりゃ、ホマートンの学生がいちばん近いっっ。しかもアデンブルックス(Addenbrookes)*2にも近いから、いっと
う安全や!
ここは「カレッジ・フィー*3」を取っていない唯一のカレッジやし、他からきた学生がケンブリッジ大学とは何ぞやということを考えている場合にはだいたい忘れられとる。
ホマートンの学生は、まあみんな職業訓練のためもあるから、ケンブリッジの学生のなかでも年のいった部類に入ることが多いな。あと、カレッジは大学付属のきれいな植物園にも近いで。
訳注1:ケンブリッジにあるライブハウス。
訳注2:ケンブリッジ大学付属病院のこと。
訳注3:大学にではなく、カレッジに納めるカレッジ所属費。つい最近までは、英国人アンダーグラデュエイトのカレッジ・フィーは学生ではなく政府が負担していた。
ヒューズ・ホール(Hughes
Hall)
Address: Mortimer Rd., CB1 2EW
Enquiry: 34898
Founded: 1885
President: Prof Rechards
Undergrads: Graduate Students Only
Postgrads: 250
19世紀の最後の四半世紀、当時のケンブリッジ大学は教育学上の各種実験に多大な関心を払っておりました。1878年に大学は、教員養成評議会を設立しますが、そこに関わっていたのは男性だけでした。そこでクロウ女史(Miss
Clough)とバス女史(Miss Buss)は、1885年の女性のためのケンブリッジ教員養成学校(Cambridge
Training College)開学を押し進めます。その設立は、ケンブリッジの他の女子カレッジの設立のパターンに沿うもので、クロウ女史より借り受けたニューナムのクロフトン・コテージ(Crofton
Cottage)と呼ばれる小さな家から、校長のエリザベス・フィリップス・ヒューズ女史(Miss
Elizabeth Phillips Hughes)と14人の学生と共に始まりました。しかしながら学生の数は急激に増し、1888年にはさらに多くの学生を住まわせるためにクイーン・アンズ・テラス(Queen
Anne's Terrace)とウォークワース・ストリート(Warkworth Street)が借り受けらることになりました。そして1897年までにはヒューズ女史は、副校長と専属の教員を得るまでになったのです。
ジーザス・カレッジ(Jesus
College)
Address: Jesus Lane, CB5 8BL
Enquiry: 39339
Founded: 1496
Master: Prof. D. G. Crighton
Undergrads: 450
Postgrads: 420
1496年、ベネディクト派のセント・ラドガンド(St.
Radegund)修道院には、二人の修道女しかいなかった。しかも一人は妊娠していて、もう一人はほんの子どもだった。イーリー(Ely)の司教ジョ
ン・オールコック(John
Alcock)はその「無節操、放縦、そして淫乱」ぶりを非難、修道院を閉鎖して国王ヘンリー7世(Henry
VII)から「処女マリアと使徒ヨハネ、そして光栄ある乙女聖ラドガンドの学寮(The
College of the Blessed Mary the Virgin, St. John the Evangelist, and
the
glorious Virgin St.
Radegund)」を設立する許可を得たことで、彼女たちの楽しみを奪ってしまった。で、この中の重要な人物の一人の名前も落とされることがないように
ということで、ここは常にジーザス・カレッジとして知られるようになったんだ。
とても沢山のモダン・アートがその庭にちりばめられた、魅力的なカレッジの一つ。ここはとてもスポーツの盛んなカレッジとして評判が高いけれ
ど、それは特になにかのスポーツに秀でているというよりも、むしろ敷地内に広大なスポーツ・グラウンドを持っているという事実に基づいている*。あいに
く、イベントに適したいい会場がないのが残念なところ。
訳注:ご謙遜。ラグビー、サッカー、ホッケーその他かなり強いところです。ボートでも一時無敵でしたね。現在は少々優勝から遠ざかってますが。
キングズ・カレッジ(King's
College)
Address: King's Parade, CB2 1ST
Enquiry: 31100
Founded: 1441
Provost: Prof Patrick Bateson
Undergrads: 360
Postgrads: 280
1440年にイートン(Eton)*1を設立した翌年、国王ヘンリー6世(Henry
VI)は、12人の学生のために「聖ニコラスの学寮(the College of Saint Nicholas)」をケンブリッジ大学に設立した。後に国王は、その夢を拡げて70人の学生のためのカレッジを建設し「聖母そして聖ニコラスに捧げられた王の学寮(the
King's College of our Lady and Saint Nicholas)*2」と名前を改めた。規則では、イートンの卒業生だけを学生として受け入れるよう求ていて、しかも彼らは特別の権利−試験を受けずに学位を取得できたりとか、学生監(the
Proctor)*3の権限に従わなくてよかったりとか−を持っていた。イートン以外の卒業生を受け入れたのはほんの1871年以降のこと。設立者ヘンリーのカレッジとチャペルが完成するまでにはさらに4世代−エドワード4世(Edward
IV)、リチャード3世(Richard III)、ヘンリー7世(Henry VII)とヘンリー8世(Henry
VIII)−を要した。
20世紀に入ると今度はものすごく左翼的なことで有名になるけど(いまでもカレッジ・バーの壁にはハンマーと鎌がライトアップされているし、毎日モーニング・スター(The
Morning Star)*4が配達されてる)、最近は少なからず日和ってきてる。
訳注1:パブリック・スクール(私立中・高等学校)名門中の名門。いまだに校内ではホワイト・タイ(夜会用正式礼服;いわゆる燕尾服)着用が義務づけられているという、ちょっと信じられないくらい保守的な学校。
訳注2:ourは原著者のタイプミス。正しくはOur Lady。おかげで誤訳しちまいました(訂正済み)。
訳注3:元々の意味は、卒業生の組織の代表者。転じて大学が独自に持っていた警察権の長。プロクターはアンダーグラデュエイトの学生の規律を監督
する責任者で、日没後にアカデミック・ガウンを着用せずに外出したり(1960年代までは日没後に外出する学生はガウンを着なければならなかった)、女の
子といちゃついてたり、授業をぶっちしてロンドンに遊びに行く学生を見つけてはとっちめていた。1950年代までは、ガウン姿に学則の本を下げ、ブルドッ
グ(Bulldog;正式には巡査(constable))と呼ばれる従者を引き連れて、学内を回っていたそうです。
訳注4:左翼系の新聞。
ルーシー・キャベンディッシュ・カレッジ(Lucy
Cavendish College)
Address: Lady Margaret Rd., CB2 1TQ
Enquiry: 32190
Founded: 1965
President: Lady Perry
Undergrads: 77
Postgrads: 110
21歳以上の女子のみ
うちとけた、フレンドリーな雰囲気によって特徴づけられるルーシー・キャベンディッシュ・カレッジは、特に女性の教育を進めるために1965年設立されました。
ルーシー・キャベンディッシュは学生数からいえばケンブリッジ最小で、いまだに女性のマチュア・ステューデント*1専用です。快適なカレッジで、チャーチル・カレッジのすぐ近くにあり、(まさしくノアの方舟の形をした)ダイニング・ルームで知られています。
当カレッジは、他のカレッジをして学生の親御さんたちのための宿泊施設の質の良さで圧倒していて、そしてまたそこそこ前向きであると思われている
ようです。また、特に私たちが気に入っているのは、このカレッジがミニバス*2を敷地内の駐車場に駐車させてくれるところでしょうか!
訳注1:21歳(順当に来た学生が卒業する年齢)以上で入学した学生のこと。
訳注2:深夜にシティ・センターをカレッジの間を送迎する女性用のミニバス。運行しているのはステューデント・ユニオン。
モードリン・カレッジ(Magdalene
College)
Address: Magdalene St., CB3 0AG
Enquiry: 32100
Founded: 1428
Master: Sir John Gurdon
Undergrads: 320
Postgrads: 110
1428年にクロウランドの大修道院長(the Abbot of
Crowland)によって、ケンブリッジ大学の若者を指導し寄宿させる目的で(「本学寮の学生たるもの、居酒屋に行く回数は他の学生よりも少なかるべ
し」なんていう規則とともに)建てられたのだけど、はじめの頃は、「モンクズ・ホステル(Monk's
Hostel)」と呼ばれていた。1542年、四人目の設立者ウォードンのオードリー男爵(Baron
Audley of Walden)が当時バッキンガム・カレッジ(Buckingham
College)と呼ばれていたのを、「聖マリア・マグダレーヌ(モードリン)*1の学寮(the
College of St. Mary
Magdalene)」と名を改めた。これは、おそらくモードリンという発音を彼の名前「オードリー」にひっかけたためだろう。
モードリンは1988年に女性を受け入れたケンブリッジで最後のカレッジだった。共学となった最初の学期には、学寮旗が半旗で翻るなか棺桶が担
がれ、男子学生は黒の喪章を腕に巻いて喪に服していた。このカレッジは、かなり堅苦しくて右寄りだという評判があるけれど、そのような評判も急速に消えつ
つある*2。
訳注1:マグダラのマリア。十字架にかかったのち復活したキリストに最初にまみえた女性。ちなみに、オクスフォードにほぼ同じなのに微妙にスペルの違うのカレッジがあります。で、ここのメンバーはなぜかこの違いに恐ろしくこだわっていて、Magdalenなどと書こうものなら速攻でチェックを入れてくれます。ためしにからかってみるといいかも。
訳注2:メイボール(May
Ball;学年末におこなわれる各カレッジ主宰の舞踏会、というかどんちゃん騒ぎ)のドレス・コードが、他のカレッジはみなブラック・タイ(タキシード)
なのに、いまだにしっかりホワイト・タイ(燕尾服)を求めているのは、やはりモードリンといったところか。ちなみにトリニティのメイボールもドレス・コー
ドはホワイト・タイ(しかしこちらはほとんど誰も着てませんでしたが)。
ニュー・ホール(New Hall)
Address: Huntingdon Rd., CB3 0DF
Enquiry: 762100(あたまに3はつけない)
Founded: 1954
President: Mrs. Lonsdale
Undergrads: 333
Postgrads: 70
女子のみ
ほんの1パラグラフ分しかない歴史をさらに手短かにいうと、ニュー・ホールはいまある女性専用カレッジの中でもいちばん新しいところなの。フィッツウィリアム・カレッジの方から少し下ったところ、テキサコのガソリンスタンドのお向かいにあるわ。
カレッジのバーはいつも閑古鳥が鳴いているけれど、これは私が思うにジューク・ボックスを置かないことなんかを誇りにしているせいね。でも、だからってニュー・ホール全体が静まり返ったところだってことにはならないわ。うちのカレッジには、学年の初めにある<Fresh>とか、もっと頻繁にやってる<Modulate>
とか、とっても人気のあるイベントがいくつかあるもの。ケンブリッジ・スノッブのいうことなんて信じちゃダメ。このカレッジはとても新しいかもしれないけ
ど、でもある部分はむしろ素敵よ。あと学生たちがニュー・ホールのことを「バージン・メガストア」なんて言っているのを聞くかもしれないけれど、それはた
ぶん、たくさんのエッチな男の子達が「恋」を求めて丘を登って来るほど、ある意味カレッジ・イベントが成功しているっていうことね。
ニューナム・カレッジ(Newnham
College)
Address: Sidgwick Avenue, CB3 9DF
Enquiry: 35700
Founded: 1871
Principal: Dr. O'Neil
Undergrads: 414
Postgrads: 115
女子のみ
1871年にわずか5人の学生たちとともに設立されて以来、ニューナム・カレッジはほぼ130年にわたって女子の指導をして参りました。
ニューナムはまた、ケンブリッジでは初の非宗教のカレッジであるという進歩的な栄に浴しております。旧き悪しき時代、女性は図書館その他大学の施設を使う
ことを許されず、それゆえニューナムはケンブリッジのカレッジの中でも最も蔵書の多い図書館を維持してきました。同様の理由で建てられた科学研究所は、現
在音楽と演劇、舞踊のための芸術劇場に改装されており、学期ごとにニューナム内外の劇団による作品が上演されております。
いまだに女子のみのカレッジであるという事実からか、ニューナムの評判はまた何やら異様なものであると見受けます。当カレッジをスポーツ*とレ
ズビアニズムにかんして評判にするあたり、むしろ陰の部分ではいまだに男性上位の機構であるというケンブリッジ大学の評判を立証しているのではないでしょ
うか。
訳注:一部の人たちは、スポーツの強いカレッジ(sporty College)というのをスポーツしかできない(=頭の悪い)カレッジというネガティブな意味に使う。
ペンブルック・カレッジ(Pembroke
College)略称;ペマー(Pemmer)
Address: Pembroke Street, CB2 1RF
Enquiry: 38100
Founded: 1347
Master: Sir Roger Tomkys
Undergrads: 382
Postgrads: 190
1347年、フランスとイングランドの学生が平和裡に共存する術を学ぶようにという願いのもと、ペンブルック伯爵夫人であったフランス人、レディ・マリー・サンポル・ドゥ・ヴァランス(Lady
Marie St. Pol de Valence, Countess of Pembroke)は「マリー・ヴァランス・ホール(The
Hall of Marie Valence)」を設立した。これは後にペンブルック・ホール(Pembroke
Hall)として知られ、1856年になってやっとペンブルック・カレッジになった。かの伯爵夫人はまた、ケンブリッジで最初の私設礼拝堂を建立したのだけれど、これは現在オールド・ライブラリーになっている。
17世紀に入って、一時はフェローだったこともあるマシュー・レン(Matthew
Wren)が、新しいチャペルを注文した。これは彼がたてた誓約、つまりもし彼がオリバー・クロンウェル(Oliver
Cromwell)によって投獄されたロンドン塔から生きて出ることが出来たら、もといたカレッジに大礼拝堂を建立するという誓いの結末なんだ。
第二次大戦後の20年間というもの、カレッジは毎年110から120人規模の学部生が入学するまでに再び拡大された。これは戦後大学教育の拡大の一端で、政府の財源に支援されていた。
ピーターハウス(Peterhouse)
Address: Trumpington St., CB2 1RD
Enquiry: 38200
Founded: 1284
Master: John Meuring Thomas
Undergrads: 225
Postgrads: 165
1284年にイーリーの司教だったヒュー・ドゥ・バルシャム(Hugh de Balsham,
Bishop of
Ely)は、マスターと14人の「貧しきを強いられているが尊敬に値するフェローたち」のためにケンブリッジ最古のカレッジを設立した。しかし1940年
代には電気を導入した最初のカレッジだったんだ。で、結果はというと、石炭発電機からでる燃え殻のことで、近くのローンドレス・グリーン
(Laundress
Green)の洗濯女からの苦情が殺到した。
ここは、いま必死にその政治的に右寄りのイメージを取り払おうとしているんだけど、まあマイケル・ポルティッロ(Michael
Portillo)*が卒業生の一人だなんてことでまったくうまくいってないね。大学の中ではいまだに守旧派としての評判を維持しているし。これはいまま
でピーターハウスに所属したこともないような多くの連中の持っている偏見とおおいに関係があるんだ。とはいえ、実際にピーターハウスを訪れた連中も、帰っ
てきたときにはよく、この偏見が正しかったことを確証した、なんて言ってるけど。
そういえば最近マイケル・ポルティッロがピーターハウスで講演したときにもドレス・コードがあったっけ!
訳注:「労働党所属の政治家。最近は、ゴードン・ブラウン蔵相(Chancellor
Gordon Brown)だか大蔵省だかのスポークスマンをやっていたはず。」→すみません、これ大嘘です。彼は若い頃(10代)にLabour支持者だったものの、いまはばりばりのToryです。ついでに彼がやっているのは、Shadow
Cabinetの方のChancellor(大蔵大臣)でしたぁ。
クイーンズ・カレッジ(Queens'
College*)
Address: Silver St., CB3 9ET
Enquiry: 35511
Founded: 1458
Master: Lord Eatwell
Undergrads: 490
Postgrads: 270
1446年に「セント・バーナーズ・カレッジ(Saint Bernard's College)」としてこのカレッジを設立したのは修道院長アンドリュー・ドケット(Rector
Andrew Dockett)だけど、それを「女性を讃え、栄誉づける」ため「聖マーガレットと聖バーナードに捧げられた女王の学寮(The
Queen's College of Saint Margaret and Saint Bernard)」として再設立したのが、国王ヘンリー6世(Henry
VI)の妻君だった。のちには、エドワード4世(Edward IV)の妻、王妃(ウッドヴィルの)エリザベス(Queen
Elizabeth of Woodville)がカレッジの後援者となった。
うちは、もともとは1749年に建てられ1904年に再建された、数学の橋(the
mathematical
bridge)を自慢にしている。その名前は、この橋が一本の釘やネジも使わずに建てられたと人々が信じていたことからつけられた。1912年に専用設計
の共用浴場がカレッジの中で、お披露目されると、あるフェローからは不必要な贅沢だと思われた。学生たちはカレッジには長くて8週間しかいないから*2と
いうのがその理由だって。
いまではクイーンズのレギュラー・イベントは大学中で一番有名で人気なんだ。
訳注1:最初はQueen's Collegeだったこのカレッジ、Queen Elizabeth of Woodvilleによって再建されてからは、Queens'
Collegeと微妙に名前が変わりました。そして、Queensi(ここのメンバー)はなぜかこの部分に恐ろしくこだわっていて、「Queen's」(これはオクスフォードのここのことでもある)などと書こうものなら速攻でチェックを入れてくれます。ためしにからかってみるといいかも。
訳注2:アンダーグラデュエイトの学生は、クリスマス、イースター、夏の休暇にはカレッジの部屋を明け渡(vacate)して家に帰るのが古来か
らのルール(だから休暇はvacationなのだ)。つまり、学生はカレッジには長くても学期中の8週間しかいないことになる(ケンブリッジの場合3学期
目は7週間)。以前の学生は風呂なしでいったいどうしてたんだろう。よく考えれば、オクスブリッジの学年の半分以上は休み。一説にはこのような学年歴が形
成された時期は、学問もまだ未発達で教えることもそんなになかったからということらしい。で、近年教えることがたくさん出来たのにいまだに学年歴は当時の
頃のままなので、現代の学部学生は学期中は狂ったように勉学に励むことになるのでは、などと邪推している。
ロビンソン・カレッジ(Robinson
College)
Address: Grange Rd., CB3 9AN
Enquiry: 39100
Founded: 1977
Master: Lord Lewis
Undergrads: 391
Postgrads: 120
ロビンソンは大学の中でも最も新しいカレッジで、特に学期外の間はカンファレンス・センターとして使えるようにデザインされた。おかげで、
カレッジの美的価値について激論が荒れ狂っているよ。ぼく自身としては、まあちょっとポスト60年代建築っぽいけど、むしろいいんじゃないかなと思ってる
けどね。
カレッジの周囲はとても静かで、多くの大学院生も敷地内に居住している。
ロビンソン・カレッジの設立に関しては、ロビンソン・レンタルズ(Robinson
Rentals)−テレビ・レンタル会社の草分けの一つだ−を創業したデイヴィッド・ロビンソン卿(Sir
David Robinson)に負うところが大きい。彼はまた、ニューマーケット(New Market)に名馬を多数輩出した厩舎を所有している。カレッジの建設は1977年に始まり、1981年5月に女王陛下によって正式に開寮した。
今日では、おおむね400人の学部学生と100人の大学院生の生活の場になっている。ロビンソンの雰囲気はカレッジの新しさを反映していて、ここほど「ケンブリッジ」らしからぬところはケンブリッジ中どこにもないだろうね。
セント・キャサリンズ・カレッジ(St.
Catharine's College)*1略称;セント・キャッズ(St. Catz)
Address: Trumpington St., CB2 1RL
Enquiry: 38300
Founded: 1473
Master: Sit Terrence English
Undergrads: 425
Postgrads: 150
1473年、キングズ・カレッジの三代目プロヴォスト*2、ロバート・ウッドラーク(Robert
Woodlark, the third Provost of King's
College)による設立。ここはマスターと、哲学と神聖神学を研究し、後援者たちの魂のためにとこしえに祈る3人のフェローのための場所で、1860
年にセント・キャサリンズ・カレッジとなった。
最初の百年間というものは、極度の貧困でまったく学生はいなかった。後にもとの学生がカレッジにブル・イン(the
Bull Inn)を残すことになり、1719年には(1697年に学生だった)ジョン・アデンブルック(John
Addenbrooke)が、アデンブルック・ホスピタル(the Addenbrooke
Hospital)*3設立のためにおよそ4500ポンドを寄付した。現在礼拝堂が建っているところは、昔厩舎があって、自分がつくった厳格なローテー
ションにしたがって馬を選んでくれるホブソン(Hobson)氏が詰めていた。で、そこから出来たのが「ホブソンの選択(Hobson's
choice)」*4。
こんにち、うちはいくつかの最新の建物をキングズと共有して二つのカレッジを物理的に一つにしていて、その下にケンブリッジで一番人気のない小路である、キングズ・レーン(King's
Lane)を稼ぎ出している。
訳注1:ちなみに、オクスフォードにほぼ同じなのに微妙にスペルの違うカレッジがあります。で、お約束ですが、ここのメンバーはなぜかこの違いに恐ろしくこだわっていて、St.
Catherine'sなどと書こうものなら速攻でチェックを入れてくれます。ためしにからかってみるといいかも。
訳注2:キングズ・カレッジのヘッドのこと。
訳注3:Trumpington
St.にある、旧アデンブルックス・ホスピタル。拡張を繰り返しながら1970年頃まで使用されていた。いまは正面はカラフルに化粧直しされ、裏側は最新
の建物に入れ替えられて、マネジメント・スタディーズが使っています。もと病院だったおかげで僕らの使っている研究室(明るい色合いだけど、いかにも19
世紀の病室っぽいつくり)のある建物は、正式にWard
Block(病棟区)と名付けられている。うーん、そんな名前つけるかなあ、普通。ま、いいけど。大学院に入るのも入院には違いない。
訳注4:選り好みの許されざる選択のこと。取るか取らないか。
セント・エドモンズ・カレッジ(St.
Edmund's College)
Address: Mount Pleasant, CB3 0BN
Enquiry: 36250
Founded: 1896
Master: Prof. Heap
Undergrads: 60
Postgrads: 170
マチュア・ステューデントと大学院生のみ
セント・エドモンズは1896年、第15代ノーフォーク公(the 15th Duke of
Norfolk)とアナトール・フォン・ヒューゲル男爵(Baron
Anatole von Hugel)によって設立されました。70年ほどの間寄宿舎(a hall of
residence)として存続したのち、1965年にいくつか新しく設立された大学院生専用カレッジの一つとなったのです。1975年に公認財団として
常設カレッジの地位を得、1985年にはケンブリッジ大学の正式なカレッジとなりました。1996年に百周年を記念するとともに、本年末までには王室の勅
許状を受けるものと思われます。*
1980年代終わりの大規模な工事を含め、多年にわたり当カレッジは拡張されてきました。1992年に英国帝京財団(Teikyo
Foundation (UK))からの寄付で完成したタワー部分は、増設された学生用の部屋とカンファレンス施設に、市内を見晴らすすばらしい景色をもたらしています。また現在もカレッジは更なる工事を計画しています。
訳注:この文章はおそらく1998年頃に書かれたもののようです。勅許状は1998年11月に無事下賜されています。
セント・ジョンズ・カレッジ(St.
John's College)
Address: St. John's St., CB2 1TP
Enquiry: 38600
Founded: 1511
Master: Prof Goddard
Undergrads: 543
Postgrads: 290
ジョン・フィッシャー司教(Bishop John
Fisher)によってレディ・マーガレット・ボウフォートは、聖ヨハネ修道院の修道士が営なんでいた13世紀設立の病院の敷地にカレッジを設立するよう
(またしても*1)説得された。カレッジの規則の第1条では、「年下の室友に助言し、よい手本を示し、そして規律に則った教育をおこなうよう」年上のメン
バーを促していたけれど、その慎重な試みに従って、フェローにそれぞれ自室で生徒を学習させ、寝起きするよう強制していた。しかも「生徒が14歳以下の場
合でない限り*2、一つのベッドに二人以上寝かさぬように」だって!
カレッジのレディ・マーガレット・ボートクラブ(The Lady Margaret Boat
Club)の歴史は1825年にまで遡る。クラブの名前は、セント・ジョンズとのバンプス*3の際に(冗談のつもりで)船の舳先にとりつけた剣で亡くなったトリニティ・カレッジ(Trinity
College)のコックス(cox)*4に弔意を表して改められた。クラブのオールズマンは緋色のジャケットを着用していたんだけど、それが「ブレザー*5」の起源になった。このクラブはまた、1829年に(訳注:オクスフォードとの)中間にあるテームズ河(River
Thames)で初めてオクスフォードに挑んだんだ。*6
訳注1:あはは。クライスト・カレッジの項参照。
訳注2:当時のカレッジ入学年齢は13歳だった。
訳注3:3月初旬と6月初旬におこなわれるエイトによるカレッジ対抗ボートレース。前者はレント学期(Lent
Term)におこなわれることからレント・バンプス(Lent Bumps or Lent Races;
Lents)、後者は6月におこなわれるのにメイ・バンプス(May Bumps or May Races;
Mays)と呼ばれる。各艇は一定の間隔を置いてスタートし、前の艇に自艇をぶつけたら(bump)勝ち、追いつかれたら負け。バンプスは、4日間おこな
われ4回バンプしたチームにはカレッジの紋章とクルーとコーチの名前の入ったブレード(blade;櫂)が贈られる。このブレードは一生ものの栄誉だ。ち
なみに1位のチームはヘッド・オヴ・ザ・リバー(The
Head of the River)と呼ばれる。
訳注4:漕ぎ手(oarsmen or women)に指示を出す司令塔。艇の最後尾に座をしめる。
訳注5:ブレザーはそもそも緋色だった。これはブレザー(blazer)がblaze(炎)に由来していることからわかる。そしてこの緋色は、セ
ント・ジョンズのカレッジ・カラーに由来している。今でもここのカレッジのスポーツ・チームを応援する際の「推奨ドレス・コード」はredだ。ちなみに
Red
Boysといえば、セント・ジョンズのラグビー・チームを意味している(もちろんせいぜいケンブリッジくらいでしか通用しない)。
訳注6:これが伝統のヴァーシティ・ボートレース(Varsity Boat
Race:ケンブリッジ対オクスフォードのボートの対抗レース)の起こりだろう。ヴァーシティ・ボートレースは、テームズ河の早春の風物詩である。今年
(2000年)で146回め。対戦成績はケンブリッジの76勝69敗1引き分け。
セルウィン・カレッジ(Selwyn
College)
Address: Grange Rd., CB3 9DQ
Enquiry: 35846
Founded: 1882
Master: Sir David Smith
Undergrads: 340
Postgrads: 90
セルウィン・カレッジは1882年、ニュージーランドの初代司教だったジョージ・オーガスタス・セルウィン(George
Augustus Selwyn, the first Bishop of New
Zealand)を記念して設立された。カレッジはチューダー・ゴシック様式で建てられていて、街の中心部からは少し離れたところにある。ちょうど大学図
書館とシドウィック・サイト(the
Sidgwick Site)*1のとなりに位置することから、現在にいたってはそのロケーションが非常に良いことがわかる。
セルウィンのメンバーではないケンブリッジ大の学生の多くは、ほとんどうちのカレッジを訪れることはないけれど、そんな地味さにも関わらず、セ
ルウィンはとてもリラックスした雰囲気を持ったケンブリッジでも最も素敵なカレッジの一つだ。うちのウィンター・ボール(winter
balls)は有名で、すばらしいコスト・パフォーマンス。
こんにちセルウィンのJCR*2はとても活動的で、学生政治のより幅広い文脈のなかでセルウィンを有名にしてきた歴代JCR会長を継承してきた。
それからJCRは、カレッジの礼拝堂のファサードに巨大な世界エイズ・デイのリボンをとりつけて賞を取った。このリボンの撤去には、なんと消防車が必要だったんだ!
訳注1:法学、経済学、文学など文科系学部の施設のある区画。
訳注2:Junior Combination Roomの略。学生の談話室・集会所のことだが、転じてカレッジ単位で活動する学生自治会のこと。大学院生は、JCRにも所属すると同時に大学院生の自治会Middle
Combination Room (MCR)を組織している。政治家を志す学生にとってJCR Presidentをはじめとする役員は、その登竜門になる。ここを足がかりに、Students'
Union(大学学生自治会)の役員やUnion Society(ケンブリッジ大学弁論部)の役員などを経て、政党の地方支部にはいるというのが典型的なパターン。
シドニー・サセックス・カレッジ(Sidney
Sussex College)
Address: Sidney St., CB3 9DQ
Enquiry: 38800
Founded: 1596
Master: Prof. Dawson
Undergrads: 319
Postgrads: 130
王室の勅許状を賜るようエリザベス1世(Elizabeth I)に賄賂を贈っていた遺言状執行者のおかげで、サセックス伯爵夫人レディ・フランシス・シドニー(Lady
Frances Sydney, Countess of Sussex)の学寮は、1589年、5000ポンドと彼女のもっていた全ての銀食器の寄付をもとに夫人の死後速やかに設立された。
カレッジで最も著名な学生といえば、それはおそらくオリヴァー・クロンウェル(Oliver
Cromwell)だろう。建物を盛大に壊した点からいえば、ヘンリー8世に匹敵する人物だ*1。いまでもあまり人気がなくって、ダイニング・ホールのクロンウェルの肖像画は王室メンバーの訪問の間はたいてい覆いを掛けられることになっている*2。
こんにち、シドニーの学生たちはケンブリッジの中でもいちばんの幸せ者だ。だってカレッジはセインズベリー(Sainsbury's)のすぐお向かい、そして本屋のギャロウェイ・アンド・ポーター(Galloway
and Porter)のすぐ隣りなんだから。*3
キャロル・ヴォーダマン(Carol Voderman)*4も通っていたけれど、彼女は数学をあんまりやらないことでよく知られていた。いまじゃ彼女の写真はカレッジのバーに飾られているよ!
訳注1:清教徒革命の際の議会側の首領として、のちには独裁権力を握った終身護国卿としてさんざん強権政治を行ったことから。
訳注2:国王チャールズ1世(Charles I)を処刑したことから。クロンウェルの肖像画は、ハイ・テーブルのすぐ横にあり、カーテンがとりつけられている(普段はカーテンは開いている)。ちなみにクロンウェルの頭蓋骨、いまでもここのカレッジに安置されています。
訳注3:セインズベリーはスーパー・マーケット。そのせいでこのカレッジ、ときどき他のカレッジの学生からは、Sidney
Sainsburyと呼ばれてしまう。ギャロウェイ・アンド・ポーターは返品本などを安く売る本屋さんで、暇つぶしに最適。
訳注4:クイズ番組「カウントダウン(Countdown)」(だったっけ)等で活躍するクイズマスター。数学系の問題が得意で、文学系とかは苦手みたい。
トリニティ・カレッジ(Trinity
College)
Address: Trinity St., CB2 1TQ
Enquiry: 38400
Founded: 1546
Master: Prof. Sen
Undergrads: 648
Postgrads: 340
無数の学びの場を破壊してしまったあと*1、国王ヘンリー8世(Henry
VIII)はその死に臨んで自らの名誉を回復するべく決心する。1546年、彼は「神聖にして不可分なる神、キリストそして聖霊の学寮(The
College of the Holy and Undivided
Trinity)」を設立し、その5週間後に崩御する。かくして彼はケンブリッジで最大かつ最も豊かなカレッジをつくることに成功し、そして今日に至るま
でこのカレッジのマスターは玉座によって任ぜられている。初期のマスターの一人であるトーマス・ネヴィル(Thomas
Nevile)が、2エーカーになんなんとするグレート・コート(Great
Court)を思いついたんだけど、大時計が12の鐘を打つ間にこの内庭の周りを走る伝統は、映画「炎のランナー(Chariots
of Fire)」に描かれているとおり。
こんにち、トリニティは便利なことにヘファーズ(Heffers)*2のお向かい、そしてもう一つの巨大なるカレッジ、セント・ジョンズの隣りに位置している。
最近ではバーが新しくなったことから、社交面でも盛り上がっているし、ケンブリッジでいちばんクールなマスター、アマルティア・セン(Amartya
Sen)*3が自慢。
でもなんといってもよく知られているのは、うちがとにかくお金持ちってことなんだ。
訳注1:王妃との離婚問題で、ローマ教皇から破門されたのを機会にヘンリー8世がやったのが国内の修道院解体。解体した修道院の所領は全て没収された。この修道院、当時は貴重な教育機関でもあった。
訳注2:大店の書店といえば、オクスフォードではブラックウェル(Blackwell)、そしてケンブリッジではヘファーズ。豊富な品揃えの本店
の他にも、アート系の本を扱う店、音楽系の本やCDを扱う店など支店多数。残念なことに創業者であるHeffer一族の中に事業の後継者が現れず、結局ブ
ラックウェルに売却されてしまった(Heffersのブランドは残っている)。200年以上続いた地元デパート、イーデン・リリー(Eden
Lilley)の閉店と共にケンブリッジっ子を悲しませた昨年(1999年)の出来事。
訳注3:1998年にノーベル経済学賞を受賞した。授業にも出てたけど、とってもきさくな人。
トリニティ・ホール(Trinity
Hall)略称;ティット・ホール(Tit Hall)
Address: Trumpington St., CB2 1RL
Address: Trinity Lane, CB2 1TJ
Enquiry: 32500
Founded: 1350
Master: Sir John Lyons
Undergrads: 344
Postgrads: 120
1350年、ノリッチ司教ウィリアム・ベイトマン(William Bateman, Bishop
of
Norwich)は、黒死病で亡くなった700人の教区司祭を補充するためにカレッジを設立した。これは学生たちに教会法と市民法の教育を施すためだっ
た。ケンブリッジで最初の印刷業者だったドイツ人ヨハン・シベルヒ(John
Siberch)は1521年、いまもカレッジの図書館にある本のうちの一冊−エラスムス(Erasmus)によって書かれたもの−を出版した。このとき
彼は大学の金庫から20ポンドを借りたのに、その負債を決して返済しなかった。彼の後継者である大学印刷局が1971年7月にその20ポンドの負債を返済
した時点では、もしもそれが年5%の利率だったらなんと690億ポンドになっていたところだった!
トリニティ・ホールはいまでもケンブリッジでも最小のカレッジの一つだけど、とってもフレンドリーだって評判だ。その大学規模のイベントはよく
知られているし、すばらしい新築の図書館もあるし、ついでにゴンヴィル・アンド・キーズにかくれて、ケム川に面した美しい中心部の敷地をキープしてる。
ウルフソン・カレッジ(Wolfson
College)
Address: Barton Rd., CB3 9BB
Enquiry: 35900
Founded: 1965
Master: Dr Johnson
Undergrads: 80
Postgrads: 420
マチュア・ステューデントと大学院生のみ
ウルフソンは、ケンブリッジ大学の中でも比較的最近設立されたカレッジの一つです。「大学内での教育、習得、研究を促進するため」そして
「大学のメンバーである男女に、大学での学位取得、大学院課程その他、ケンブリッジ大学での特別の責務を果たすことが出来るような場所であるカレッジを供
するため」女王エリザベス2世によって勅許状が出されたのです。
当カレッジは(そもそもはユニヴァーシティ・カレッジ(University College)として)1965年、男女に開かれた共学のカレッジとして設立されました。
まだ駆け出しだったユニヴァーシティ・カレッジは、いくつかの古参カレッジからの鷹揚な財政上の支援と共に、大学からの支持とほんのちょっぴりの基本財産、そして(いまはカレッジの建物の中に組み込まれている)ブレドン・ハウス(Bredon
House)を授かりました。しかし、その基金の多くは自らの手で集めたものでした。
そしてカレッジは、1972年にその名をウルフソンに変えるまでに成長したのです。
おしまい。
以下の方々に感謝します。
・渡辺浩平氏:懇切な誤訳の指摘と各種情報提供を賜る。小手先の技に走り勝ちな訳者、油断して平凡なところで誤訳を犯す癖を猛省。
・Masuda Keiko氏:ご自身のサイト('Life is but a dream', 'Cambridge Guide')にこのページをリンクしてくださった。
・大村真樹子氏:丁寧なproof readingでtypoをいくつかご指摘くださった。
Yushi INABA <yi205@cus.cam.ac.uk>