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土地をめぐる公正 / Agrarian Justice (1797)

トマス・ペイン (訳:山形浩生)

土地配分法および土地独占に反対するものとしての
土地をめぐる公正
人間の条件を改善するため、あらゆる国に国民基金を構築し、あらゆる人物が21歳の年齢になったときに15ポンドを支払い、彼または彼女が世界を始められるようにして、さらに50歳のあらゆる人に、その後生涯にわたり年10ポンドを支払い、今後その年齢に到達した人にも同様にして、高齢でも貧窮することなく、尊厳を持ってこの世から去れるようにする計画
土地をめぐる公正の山形版表紙

要約

 土地自体は本来は万人のものであり、所有できない。だが、それを耕作したことにより土地改良はその耕作者の権利だ。でもこの両者は不可分なので、土地改良部分だけを所有することはできない。このため地主でない人は、万人のものであったはずの、本来の改良されない土地に対する所有権を奪われる結果となった。それを補償し、持たざる貧困者を救済するため、21歳になった時点で15ポンド、50歳を超えたら年に10ポンドずつを支払うベーシックインカム制度の基金を創ろう。その基金の原資は、土地相続の際に、本来の土地の価値分として一割を相続税にして、その税金を使おう。(要約:訳者)

目次

著者のはしがき

フランス共和国の立法府および行政府へ

 この作品に含まれた計画は、何か特定の国に適合させたものではありません。それが基づく原理は一般的なものです。しかし人間の権利はこの世界において新しい研究であり、聖職者による詐欺や、あまりに長く確立された抑圧の傲慢からの保護が必要であるため、この佳品をあなた方の安全な庇護下に置くのが適切だと考えた次第です。フランスと全ヨーロッパが、その政府と司祭たちにより叩き込まれていた、長く深い夜を思い起こすと、その暗闇を一掃する最初の光の爆発が引き起こした困惑について、驚くよりはむしろ悲しみを感じずにはいられません。暗闇に慣れた目は、最初は真昼の光にはほとんど耐えられないのです。目は使う内に見方を覚えます。ある状況からその正反対に移行したときも同じなのです。

 私たちは自分たちのまちがいをすべて一気に否定したわけではないので、自分たちの正しさについての知識を一気に獲得することもできません。フランスは、自由という言葉に平等という言葉を加えたという栄誉を持っています。そしてこの単語は基本的には、それが適用される事柄について、何ら中途半端であることを許容しないものです。しかし平等はしばしば誤解され、しばしばまちがった適用をされ、しばしば侵害されているのです。

 自由と財産は、知的な性格ではない私たちの所有物すべてを表現する用語です。財産には2種類あります。まずは自然財産、あるいは宇宙の創造者からやってくるもの——たとえば地、空気、水などです。第二に、人工的または獲得された財産があります——人間の発明したものです。後者での平等は不可能です。というのもそれを平等に分配するなら、万人が同じ割合で貢献せねばならず、これは絶対にあり得ないからです。そしてそうである以上、あらゆる人は自分の財産に、それが正しい自分の取り分だとしてしがみつくことになります。世界のあらゆる個人は、このようにある種の財産やその相当物について、正統な権利主張を持って生まれてくるのです。

 社会を司る方の執行を任された人物に投票するという権利は、自由という言葉に内在するもので、個人の権利の平等性を構成するものです。しかし (投票の) 権利が財産に内在するとしても (私はこれを否定します)、普通選挙の権利はやはり万人に平等にあるものです。というのも、すでに述べたように、あらゆる個人は財産の一部の種類については、正統な生まれながらの権利を持っているからです。

 私は常に、フランス共和国の現在の憲法が、人類の精神がこれまで生み出した中で最高のまとまった仕組みだと考えてきました。しかし、我がかつての仲間たちは、その原理にすべりこんだまちがいについて私が警告しても、気を悪くしないでくれると期待します。普通選挙の権利の平等が維持されていないのです。この権利はその中では、それが依存すべきではない条件と結びついています。つまり、ある「直接」と呼ばれる税金の割合です。普通選挙の尊厳がこのために低下しています。そして、劣ったものと同じ尺度の中に入れることで、その権利が引き起こせるはずの熱意が低下しています。普通選挙の権利と釣り合いを取るべき等価物を見つけるのは不可能です。というのもそれは唯一、それ自身の基盤で立つべき価値を持つもので、とってつけたり、おまけにしたりして栄えるものではないからです。

 憲法が確立されてから、二つの陰謀が挫折してきました。一つはバブーフのもので、もう一つは「王党派」なる軽蔑すべき名前で自らを飾り立てる、得たいの知れない連中どもの陰謀です。バブーフの陰謀は、憲法の原理に存在した欠点が起源となっています。彼はこの欠点が引き起こした恨みを活用し、正統で憲法的な手法によりそれを正そうとしたり、社会にとって有益な手法を提案したりするかわりに、陰謀家たちは無秩序と混乱を刷新させようと手を尽くし、自分たちを個人的に革命政府の総裁五人の一人に入り込ませたのです。これは選挙と代議制を公式に破壊するものです。彼らは要するに、国内問題に謀殺された社会は、暴力で奪取された総裁権力に盲目的に従うと想定するほど破廉恥だったわけです。

 バブーフの陰謀の数ヶ月後には、王党派の陰謀がやってきました。こいつらは愚かにも、自分たちがそのひ弱で邪悪な手法により偉大な事をやっていると自画自賛していたのでした。彼らは、不満を抱く連中がみんな、その不満の原因がなんであれ支持してくれると思い、他の人々に従っていた階級の人々をあおり立てようとしたのです。しかしこの新しい首領どもは、社会が宮廷屋、年金生活者、そして王党という愚かしい肩書きの下の手下共みんなを維持する以外のことを考えていないとでも思ったかのようなふるまいをしました。わが小論は、社会がまったくちがったこと——自分自身を維持すること——を目指しているのだと示すことで、その濫用を解くものなのです。

 私たちはみんな、革命が進行している期間は、その結果として生じる利点が享受できる時期ではないというのを知っている、あるいは知っているべきです。しかしバブーフとその一味が、この憲法の下にあるフランスの状況を考慮し、悲劇的な革命政府の下の条件と、テロルの恐ろしい支配下にあったときの条件と比べれば、変化の速度は彼らにとって、きわめて衝撃的で驚くべきものに思えたはずです。飢餓は豊穣にとってかわられ、繁栄が間近でますます高まるという、十分に根拠のある希望が見られるのです。

 憲法の欠陥について言うと、私はそれが憲法にしたがって訂正されるものと確信しておりますし、その一歩が不可欠とも思っています。というのも、それが続く限り、それは陰謀家たちの希望をたきつけ、その手段を提供するからです。そしてそれ以外の人々にとって、これほど賢くまとめられた憲法が、その原理においてこれほどの大まちがいをするというのは、残念なことです。この欠点は、実感されるようになる他の危険にこの憲法をさらすことになります。直接税を支払うだけの収入がない人々を、怪しげな候補者がまわって代わりに支払いを行い、かわりに自分に投票を行わせるようにするでしょう。普通選挙という神聖な権利において、不可侵な平等性を維持しましょう。社会の安全は、これほど確固たる基盤は持ち得ないのです。

 

さらば、そして友愛

かつての仲間

トマス・ペイン.

著者の英語版への序文

 以下の小篇は、1795年と1796年の冬に書かれたものだ。そしてそれをこの戦争中に発表すべきか、それとも平和の到来まで待つべきか決めかねていたので、書かれたときから変更も加筆もなく、私の手元に転がっていた。

 いまこれを公表しようと決意したのは、ランダフ司教のワトソンが説いた説教だった。読者の中には、この司教が『聖書の擁護』という本を書いたのをご記憶の向きもおられるだろう。これは私の『理性の時代第二部』への答えとして書かれたものだった。私はこの本を一部手に入れて、彼はこの問題について必ずや私から連絡を受けるはずだ。

 司教の本の最後には、彼が書いた本の一覧があった。その中にはここで言及した説教がある。その題名は「金持ちと貧乏人をっどちらもお造りになった神の叡智と善良さ、および補遺でイギリスとフランスの現状について考察」という。

 この説教に含まれた誤りのために、私はこの『土地をめぐる公正』を公開しようと決意した。神が金持ちと貧乏人を創ったというのはまちがっている。神は男性と女性を創っただけだ。そして神は彼らに地球を与えて後代に伝えられるようにしたのだ。

 人類の一部を傲慢にも誉めそやす説教をするよりは……聖職者たちが時間を使って、人間の一般的な条件を現状よりも悲惨でなくなるようにしたほうがいい。実務的な宗教は、よいことをするということだ。そして神に奉仕する唯一の方法は、神の被創造物を幸せにしようとすることだ。これを目的としない説教はすべてナンセンスであり偽善だ。

 

トマス・ペイン

土地をめぐる公正

 文明生活と呼ばれるものの便益を保全し、同時にそれが生み出した邪悪を矯正することが、改革された立法府の第一目標の一つであるべきだ。

 その状態が胸を張って、あるいはまちがって、文明と呼べるものかどうか、それが人間全般の幸福を促進したのか大いに破壊したのかについては、強い対立がある問題だ。一方では、見る者はそのすばらしい外見に魅了されてしまう。その一方では、とんでもない悲惨に衝撃を受ける。どちらも文明がもたらしたものだ。人類の最も豊かな者と最も悲惨な者とが、どちらも文明国と呼ばれる国にいるのだ。

 あるべき社会の状態を理解するためには、人間の自然で原始的な状態についてある程度の理解が必要だ。今日では北米のインディアンたちがそうした状態にある。その状態では、ヨーロッパのあらゆる町や街路で目の前に登場する、貧困と欠乏がもたらす悲惨のスペクタクルは、まったく見あたらない。したがって貧困は、文明生活と呼ばれるものが作り出したものなのだ。それは自然状態には存在しない。その一方で、自然状態には農業、工芸、科学、製造業からもたらされる利益もない。

 インディアンの生活は、ヨーロッパの貧乏人に比べれば休日三昧だ。一方でそれは、ヨーロッパの金持ちに比べると、赤貧状態に見える。したがって文明、あるいは文明と呼ばれているものは、その双方の運命を自然状態のままにしておくのに比べて、社会の一部をもっと豊かにして、別の一部をもっと悲惨にするという二つのやり方で作用したのだ。

 自然状態から文明状態に進むのは常に可能だが、文明状態から自然状態に進むのは絶対に無理だ。その理由は、自然状態の人間は、狩猟により整形をたてているので、生き延びるための物資を探し回って得るために、文明状態の人が生計をたてるための耕作地に比べて十倍の土地が必要となるからだ。したがって、耕作、工芸、科学という追加の補助手段により国の人口が増えると、その文明状態に物事を保つ必要性が出てくる。それがなければ、その住民のおそらくは十分の一以上の人数を支えることはできないからだ。従っていま行うべきことは、自然状態から文明状態と呼ばれるものに以降したことで社会に生じた邪悪を矯正し、便益を温存することだ。

 議論をこの俎上にあげるにあたり、文明の最初の原理は、世界に生まれた万人の条件が、文明状態が生じた後で、それ以前に生まれた場合よりもひどくならないようにするということであるべきだったし、それは今も変わらない。だが実際には、ヨーロッパのあらゆる国で、何百万人もの条件は、文明開始以前に生まれた場合や、現在の北米インディアンたちの間に生まれた場合に比べ、はるかにひどい。この事実がどのように生じたかを示そう。

 自然の未耕作な状態において、土地は人類全体の共通の財産だったし、その状態が続いたはずだというのは、議論の余地がないことだ。その状態では万人が財産を持って生まれてきた。他の人々と同じく、土の財産と動植物を問わずその自然の産物の生涯にわたる共同所有者となっただろう。

 だがすでに述べた通り、自然状態の土地は、耕作状態で可能なものと比べると、ごく少数の住民しか養えない。そして耕作による土地改良と、その改良が行われた土地そのものを分けるのは不可能なので、その不可分なつながりから土地財産という発想が生まれた。だがそれでも、個人の財産なのはその土地改良部分の価値だけであって、土地そのものの価値ではないのは真実だ。したがってあらゆる耕作地の所有者は、社会に対して所有する土地の地代 (他にこの概念をあらわすよい表現が思いつかない) を支払う義務を負っている。そしてその地代から、この計画で提案されている資金が出てくる。

 物事の天性や、今に伝わるあらゆる歴史からも、土地財産の発想は耕作で始まり、それ以前には土地財産などというものはなかったということが演繹される。人間の最初の状態、つまり狩猟民だったときには存在し得ない。第二の状態、つまり遊牧民のときにも存在し得ない。聖書に書かれた歴史がどこまで真実かにもよるが、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨブも地主ではなかった。彼らの財産は常に、いつも数字で挙げられているように、家畜の群れで構成され、彼らはそれをあちらこちらへと連れ歩いたのだった。当時頻発した紛争は、そうした人々が暮らすアラビアの乾燥地における井戸の利用をめぐるものであり、これまた土地財産がなかったことを示している。土地を財産だと主張するのは認められていなかったのだ。

 当初は土地財産などというものはあり得ない。人は土地を創らなかったし、そこを占拠する自然の権利はあったが、そのいかなる部分であれ永遠に自分の財産と見なす権利はなかった。また土地の創造者は土地登記所を創って、そこから初の登記簿が発行されるなどということもなかった。では土地財産という発想はいつ生まれたのだろうか? 以前と同じように答えよう。それは耕作が始まったとき、土地財産という発想も生じたのであって、それは耕作によって行われた改良を、その改良が行われた土地自体と分離できないために生じたのだ。土地改良の価値は当時、自然の土地の価値をはるかに上回り、土地の価値を吸収してしまった。そしてやがて、万人の共通の権利は、個人の耕作した権利にすべて組み込まれてしまった。だがそれでも、ちがった種類の権利がそこにあるのだし、土地が続く限りそのちがう権利も続く。

 物事を起源までさかのぼらないと、それについての正しい発想は得られないし、そうした発想を得ることで、正しいこととまちがったことを分ける境界線も見つかるし、あらゆる人に自分の持ち分を教える一線もわかる。私はこの論考を『土地の公正』と呼んだが、それはこれを土地分配法と区別するためだ。耕作により改良された国での土地分配法ほど公正でないものはない。というのもあらゆる人物は、地球の住民として、土地の自然状態の共同所有者ではあるが、そこからその人物が耕作地の共同所有者だということにはならないからだ。耕作が作り出した追加の価値は、その仕組みが認められた後は、耕作を行った人物の財産か、それを相続した人の財産か、それを購入した人の財産となる。もともとそこに所有者はいなかった。だから私は、土地財産という仕組みの導入によって自然な相続から追い出されてしまったあらゆる人々の権利を支持して、そうした人々の難しい例に関心を抱くものではあるが、同じようにその人のものである部分の保有者の権利も擁護するのだ。

 耕作は少なくとも、人間の発明がこれまで行った中で最高の自然改良の一つだ。それは作り出された土地に十倍の価値を与えた。だがそれにより始まった土地独占は、最大級の邪悪を生み出した。それはあらゆる国の住民半分以上からその自然な相続財産を奪い、本来与えるべき代償もそれに対して提供することがない。その損失分につついての補償がないのだ。それにより、以前は存在しなかった貧困と悲惨の種族が作り出されてしまった。

 このようにして奪われた人々の利益を支持するにあたり、私が懇願しているのは権利であり、事前ではない。だがそれは、当初は無視されていたので、その後は天が統治の仕組みの革命により道を開くまでは、提起することができなかったような権利なのだ。ならば革命に栄誉を与えるべく正義を実施し、革命の原理に恵みを通じて重みを与えようではないか。

 こうして手短に、この主張の利点を述べたので、いまや私が提案したい計画に進もう。それはすなわち、

この基金の創設手段

 すでに原理については述べた。それは、土地がその自然な耕作されない状態においては、元来、そして今後もずっと人類全体の共有財産であり、その状態においては、万人が生まれながらに財産を持っている。そして土地財産の仕組みは、耕作との不可分のつながりと、文明生活と呼ばれるものとのつながりのため、人々のそうした財産を収奪し、本来なら行うべきその損失に対する補償を提供していないのだ。

 だが、これは現在の地主の責任ではない。彼らに対して文句を言う気はないし、またそれを持ち出してもいけない。ただし正義に反対して犯罪を仕向けるのでない限り。責任は仕組みのほうにあるのであり、それは世界からこっそりとぬ染み、その後は剣による土地分配の掟がそれを支援した。だがその過ちは、それに続く世代により改革が可能だ。そして現在の土地所有者の財産を減らしたり歪めたりすることなしに、この基金の運用は、その創設の初年度かその後まもなく、全面的に開始できるのだ。それをこれから示そう。

 支払いは、すでに述べられたように、貧乏金持ち問わず万人に行われるというのがこの提案だ。妬みそねみを引き起こすような区別を避けるためには、分け隔てがないのが一番いい。またそうなるのが正しいことでもある。というのもそれは自然の相続物にかわるものなのであり、それは権利として、その人物が作り出したり、作った人から相続したりした財産を超えるものとして、万人に帰属するからだ。それを受けとらないことを選ぶ人は、それを共通基金に投げ込めばいい。

 文明状態と呼ばれるものに生まれ落ちた人物は、自然状態に生まれた場合に比べて悪い状況になってはならないというのは当然のことと考え、そして文明はその目的のための方策を講じるべきだったし、いまでもそれを講じるべきだというのを当然とする立場からすると、それは財産から、それが吸収した自然の相続物の価値に等しい割合を差し引くことによってのみ実現できる。

 このためには各種の手法が提案できるが、最もよいと思われるもの (それが現在の所有者を混乱させることもなく、統治や革命の目的のために必要な徴税や借り入れを阻害することもないからというだけでなく、最も手間がかからず最も有効で、さらに価値の差し引きが行われるタイミングが最も便利なものとなるから) は、その財産がある人物の死により、別の人の手に移る時点でそれを行うことだ。この場合、遺産を遺す方は何も渡す必要がない。受けとる人物も、何も支払わない。彼にとって問題となる唯一の点は、そもそも正しいものではなかった自然相続の独占が、自分の代で終わるということだ。鷹揚な人物はそんなものが続いてほしいとは思わないし、公正な人物はそれが廃止されて大喜びとなる。

 健康状態のため、本来可能なはずの確実性を持った計算の基盤となるような、確率の分野における十分な検討ができない。したがってこの見出しの下で私が提供するのは、受けとった情報に基づくものよりは、観察と思索の結果である。だが、それが十分に事実と合致するはずだと私は信じている。

 まず、成人までの期間を21年として、ある国の財産は、本当の個人的なものも含め、常にその年齢以上の人物が所有している。すると計算のデータとして、その年齢以上の人物が生きる平均年数を知る必要が出てくる。この平均を、私は30年程度とする。というのも多くの人は21歳から40年、50年、60年たっても生きているが、それよりずっと早く死ぬ人もいるし、その期間の毎年にわたり何人かが死ぬからだ。

 すると、その平均の期間を30年として、その期間で何ら物質的な変化なしに、その期間である国のあらゆる財産や資本またはそれに等しい金額が、氏——により完全に一巡する。つまり死亡によって新しい所有者の手に渡る。というのも多くの場合、この資本の一部はある一人の人物が所有したまま40年、50年、60年たつかもしれないが、他の部分はその30年が経つまでに二巡、三巡して、平均すれば30年になる。というのもある国の資本の半分が30年間で二巡したとしても、全体が一巡したのと同じ基金をもたらすからだ。

 つまり、ある国の資本すべて、またはそれに相当する総額が一巡するとすれば、毎年手を変える金額、つまり死亡により新しい所有者に移る金額はその三十分の一になる。そしてこの金額がわかり、さらにそこから差し引かれるべきパーセント比率が決まれば、それが提案された基金の年額あるいは収入額となり、それを以前に説明した使徒に使えばいい。

 イギリスのピット大臣が、イギリスで予算と呼ばれているもの (1796年の財務の予定)の議論開始における言説を見返すと、かの国の国民資本の推計が見られる。この国民資本推計は、私の手元に用意された形で存在するため、これを元にするデータとして使おう。ある国の基地の資本に対し、人口と組み合わせた形で計算が行われたら、それは他のすべての国に仕える尺度となる。それに対して資本と人口の比率を考慮すればいいのだ。私はこのピット氏の推計を使い、ブルボン王家を後押しするなどという無駄金が、どんなに優れた形で使えたかを、この大臣に対して彼自身の計算に基づき示してやりたいとは思う。いったいぜんたい、ブルボン王家などイギリスの人々にとって何の意味があるというのか? 人々にパンを与えるほうがいい。

ピット氏はイギリスの国民資本を、実物の個人のものが13億ポンドだとしている。これはフランス(ベルギアを含む)の国民資本の四分の一ほどだ。各国の前回の収穫を見ると、フランスの土壌はイギリスよりも生産的であり、イギリスが750万人を養えるよりも、フランスは2,400-2,500万人を豊かに養えることがわかる。

 この13億ポンドの資本の30分の1は、43,333,333£であり、これがかの国において、毎年死亡により新しい所有者へと回転する部分となる。そして、フランスでは、毎年巡回するこの金額は四倍の比率となるので、1.73億ポンドほどとなる。この毎年回転する43,333,333£の金額から、そこに吸収されている自然相続の価値を差し引くことになる。これはおそらく、公平に考えて、10分の1より少ないはずはないし、それ以上でもないだろう。

 このように死亡によって回転する財産の一部は、直系の息子や娘に相続され、一部は傍系に相続されるのが常となる。そしてこの比率は三対一くらいだ。つまり上記の金額のうち、3千万ポンドほどは直系の子孫に渡り、残り13,333,333£はもっと遠戚や、一部は知らない人に相続される。

 さて人が常に社会と関係しており、直近の親族が遠くなれば、それだけ社会との関係が相対的に強まることを考えれば、直系の相続人がいない場合には、その社会に対して支払われるべき十分の一を上回る割合について社会が相続人となっても文明と整合する。この追加の部分が、その次の親族がどれだけ近いか遠いかに応じて5%から10-12%で変動するなら、その分の没収割合は常に政府ではなく社会に行くべきものとして考えると(追加で10%以上となる)、年額43,333,333£から得られる金額は次の通りとなる。

30,000,000£の10% 3,000,000£
13,333,333£の10%に追加の10% 2,666,666£
43,333,333£ から 5,666,666£

 こうして提案した基金の年額が得られたので、次に、この基金が割り当てられる人口について語り、この基金が適用されるべき用途と比較する番となる。

 人口 (つまりイギリスの) は750万人は超えず、50歳以上の人数はこの場合、40万人ほどとなる。だが、提案された年10ポンドを受けとる権利があるのに、それを受けとらない人数は、この人数を超えることはない。年収2-300ポンドの人間がそれを受けとるとはまったく思えない。だが、金持ちが60歳という高齢になってからでもいきなり貧乏に陥る例はよく見負けるので、彼らは常に、自分が受けとれるだけの受給金額を引き出せる権利は保持する。したがって、高齢者40万人について、一人10ポンドだと、上の年額 5,666,666£のうち400万ポンドが必要となる。

 今度は、毎年21歳になる人数について話す番となった。死亡した人間がすべて21歳以上なら、毎年21歳に達する人数は、人口を一定に保つためには、その死亡者数と等しくなければならない。だが過半の人が21歳を待たずに死ぬので、毎年21歳になる人数は、死亡者総数の半分未満のはずだ。人口750万人の死者総数は、毎年22万人ほどだ。21歳に到達する人数は10万人ほどになる。この全員が提案された15ポンドを受けとるわけではない。その理由はすでに述べた通りだ。だがさっきの場合と同じように、受けとる権利は残る。すると、一割の人が受けとりを辞退すると考えれば、金額は次の通りとなる。

年間にまかなうべき金額 5,666,666£
高齢者40万人に10£ずつ 4,000,000£
21歳になる9万人に15£ずつ 1,350,000£
残額 316,666£

 あらゆる国には、多くのめくらや足萎えがいて、まったく生計を立てられない。だがめくらの過半は50歳以上となるので、その分類の中でまかなわれる。残金316,666£は、その年齢に満たない足萎えやめくらのために使われ、各人に年額10ポンドという同じ額が支給される。

 必要な計算がこれですべて終わり、計画の細部まで述べたので、最後にいくつか考察で終えよう。

 私が主張しているのは、慈善ではなく権利——お恵みなどではなく正義だ。現在の文明の状態は、いやなものだし不公正だ。本来あるべきものの正反対だし、そこで革命が起こるのは必然だ。絶えず目につき嫌悪を催す、豊かさと貧窮との対比は、死体と生きた身体とが鎖でつながれているようだ。私は金持ちのことなど、他のあらゆる人と同じくらいしか気にしないが、金持ちはよいこともできるから金持ちの友人もいる。誰がどれほど豊かだろうと、その結果として誰かが悲惨な目にあっていなければ気にしない。だが、豊かさがもたらせる幸福は、これほどの悲惨が同じ場面に混じっているようでは享受できない。悲惨の光景と、それが示唆する不快な感覚は、我慢はできても消すことはできず、それは財産の価値の10%というここで提案されたものよりも、豊かさの幸福への減退は大きい。片方をなくすためにもう片方を与えようとしない人物は、自分自身に対しても何ら同情の余地はないのだ。

 あらゆる国には、個人が設立した壮大な慈善団体がある。だが、解消されるべき悲惨すべての規模を考えたとき、どんな個人であれできることはきわめてわずかだ。自分の良心を満足させることはできても、心は満足させられない。持てるものをすべて与えても、それだけで救われる人はあまりに少ない。こうした原理に基づいて文明を組織して、一連の滑車のように機能させないと、悲惨の重みすべてを取りのぞくことはできない。

 ここで提案された計画は全体に行き渡る。3種類の悲惨を即座に救済して目に入らなくする——めくら、足萎え、高齢貧困者だ。そしてそれは、台頭する世代に貧困を避ける手段を与える。そしてそれを、国としての手法を歪めたり邪魔したりすることなしに行う。これがそうなることを示すには、計画の運用と影響があらゆる場合において、各個人が自発的に遺言を残して自分の財産をここで提案したのと同じ形で処分するのと同じことになるというのを理解するだけですむ。

 だがこの計画の原理は正義であり、事前ではない。あらゆる偉大な事例においては、事前よりはもっと普遍的に活発な原理が必要だし、正義についていえば、正義を実施するかどうかを、無私の個人の選択に任せておくべきではない。すると正義に基づいてこの計画を考えると、それは革命の原理から自発的に生じる全体の行動であるべきで、その評価は全国的なものになるべきであり、個人的なものであってはいけない。

 この原理に基づく計画は、正義の意識から発するエネルギーにより革命にも恩恵をもたらす。それは国のリソースを何倍にもする。というのも財産は植生と同じで複利で増えるからだ。若い夫婦が社会に出たら、無一文から始まる場合と、一人15ポンドから始める場合とでは、その差はすさまじく大きい。この支援があればウシが買えるし、数エーカーの土地を耕す設備も買える。そして喰わせられないほど急速に子供が増える場合にありがちな社会の重荷になるとなる代わりに、有用で有益な市民となる道へと進めるのだ。国有地も、小規模な敷地として耕作するための金銭支援が提供されれば売れ行きはよくなる。

 文明という名前を不当にも獲得したものの慣行 (そしてこの慣行は、慈善や政策とは呼ばないほうがいい) は、貧困で悲惨になる人物に対して、彼らがそうなってからでないと支援を与えないというものだ。単に経済性の問題から見ても、そもそも貧乏になるのを防ぐような手段を採用したほうがずっといいのではないだろうか? これをやる最善の方法は、万人が21歳になったときに、出発点で何かを相続するようにすることだ。社会のでこぼこの表層は、豊かさと欠乏の極端な例でまだらになっており、そこに何か極度の暴力がふるわれたことを証明しているし、それを救済するための正義が求められている。あらゆる国で大量の貧困者は代々続くものとなっており、彼らがその状態から自力で抜けだすのは不可能に近い。またこの大量の貧困者は、文明化されたと言われるあらゆる国で増えていることが観察される。毎年、そこから脱出する人よりそこに陥る人のほうが多いのだ。

 正義と人道が基盤原理となっている計画では、利益は計算に入れるべきではないが、どんな計画でもその確率のために、それが利益の面からも有益だということを示すほうが有利だ。公共の検討に供されるべく提出された計画の成功は、最終って気にはそれを支持ことで得られる利益の数字と、その原理の厚生差との結びつきに左右されるのだ。

 ここで提案された計画は、万人の利益となり、誰の損にもならない。共和国の利益を、個人の利益と一致させる。土地財産の仕組みにより自然相続を奪われた無数の階級にとって、これは国民的正義の行動となる。そこそこの財産を持って死亡する人物にとって、これは子供たちへの年金のような形で機能し、基金に支払われた金額よりも大きな便益をもたらす。そしてそれは、いまや土台の上で揺らぎつつある、古いヨーロッパ政府のどれも与えられないほどの安全を、財産の蓄積に対して与えることになる。

 家長が死んだとき、明確な遺産が500ポンドある世帯は、ヨーロッパのどの国だろうと、十世帯に一つもないと思う。そうしたあらゆる世帯にとって、この計画は有利なものだ。その遺産は基金の50ポンドを払う、そしてその世帯に未成年の子供が二人いるだけなら、その子たちは成年したら、それぞれ15ポンド (合計30ポンド) を受けとるし、50歳以降は毎年10ポンドずつもらえる。この基金が自らを支えるのは、あまりに拡大しすぎた財産獲得からだ。そしてイギリスでのそうした財産の保有者たちは、いずれその九割の保護を得られることで恩恵を受けるのだが、この計画に反対の声をあげるのはわかっている。だがその人々がそうした財産をそもそもどうやって手に入れたかを詮索せずとも、彼らがこの戦争の支持者であり、ピット氏はすでにイギリスの人々から毎年、この計画で提案されている総額を毎年上回るの金額を巻き上げる税金をたくさんかけていて、しかもそのお金はオーストリアの専制や、フランスの自由に対するブルボン一族の攻撃に使われているのだということを思い出していただこう。

 この計画で述べた計算は、土地財産だけでなく私有財産と呼ばれるものも含む形で行った。土地にそれをかける理由はすでに説明した。そして私有財産を計算に含める理由は、同じくらいしっかりした基盤に基づいているが、別の原理に基づいている。土地は、以前述べたように、造物主が人類全体の共有物として無料で与えてくれたものだ。私有財産は、社会の結果だ。そして個人が社会の支援なしに私有財産を獲得するのは、そもそも土地を創れないのと同じで、まったく不可能だ。個人を社会から分離し、島や大陸を所有させたら、個人財産を獲得はできない。豊かになれない。あらゆる場合に手段と目的があまりに不可分なので、前者がないところでは後者も獲得できない。したがって、あらゆる私有財産の蓄積は、その人物が自分の手で作り出すもの以外は、社会の中で暮らすことによりもたらされている。そしてその人物はあらゆる正義の原理に基づいて、そして感謝と文明のあらゆる原理に基づいて、その蓄積の一部を、それが元々やってきた社会へと返す義務があるのだ。これは物事を原理に立ち戻って考えるということであり、それが一番いいことなのだろう。というのも、細かくこの問題を見ると、多くの場合に私有財産の蓄積というのは、それを創った労働に対して過少な支払いしかしなかった結果だからだ。その結果として、働いた手は高齢で潰え去り、雇用者はガッポリ大儲けということになる。労働の価格を、それが生み出す利潤との厳密な比率として出すのは不可能かもしれない。さらに、この不正に対する弁明として、労働者が受けとる日給を増やしても、労働者はそれを高齢のために貯金したりしないし、それまでの間も大して豊かにはなれないのだ、と言う議論も出るだろう。だったら、社会がそれを共通基金として保護する財宝庫にしよう。というのも、その人がそれをうまく使えないからといって、他人の人がそれを奪っていいなどという道理はまったくないからだ。

 ヨーロッパ全土で栄えた文明の状態は、その原理においても非公正だし、その結果も怖気をふるうものだ。そして財産所有者が革命という発想そのものを嫌悪するのは、彼らがこれを理解していて、またどの国でもいったん検討が始まってしまえばこんな状態が続くはずはないと承知しているからなのだ。革命の進歩の足を引っ張っているのは、その危険性であって革命の原理ではない。そうである以上、社会のある部分を悲惨から救い、もう片方を打倒から守る仕組みを形成するのは、正義と人道のためばかりか、財産の保護のためにも必要だ。

 かつては豊かさを取り巻いていた、あの迷信じみた畏怖、奴隷化する崇拝は、あらゆる国で薄れつつあり、財産所有者を偶発時の痙攣に委ねつつある。富と華美が大衆を魅了するかわりに、嫌悪の感情を引き起こすとき、崇拝を引き起こすかわりに悲惨に対する侮辱とみなされるようになるとき、それが示す、尊大な外見がその権利を疑問視させるようになるとき、財産の立場は危機的なものになり、その保有者が安全を求めるためには、公正な仕組みに頼るしかなくなる。

 その危険を取りのぞくには反発を除去することが必要だ。そしてこれは、財産を国民が喜び、あらゆる個人へと拡張される産物にすることでしか実現できない。ある人物の財産が他の人物より多くても、それが同じ割合で国民基金を増やすようにしなければならない。その基金の繁栄が、個人の繁栄に依存するのだと理解されねばならない。人が富を獲得するほど、それが一般大衆にとっても有益なのだと理解されねばならない。そうなってやっと、反感は消え、財産は国民的な利益と保護の永続的な基盤にのることになる。

 私はフランスには自分が提案した計画の対象となるような財産を保有していない。私が保有するわずかな財産は、アメリカ合衆国にある。だがフランスでこの基金が設立されたら、即座に百ポンドを支払おう。そしてイギリスでも似たような制度が実現したらすぐに、イギリスでも同額を支払おう。

 文明の状態における革命は、統治システムにおける革命の必然的な同伴物だ。もしある国の革命が、よい状態から悪い状態へ、あるいは悪い状態からよい状態へと変わるものなら、その革命に実態を与えるためには、その国において文明と呼ばれるものの状態もまたそれに対応したものにされねばならない。専制政府は、悲惨な文明により己を支え、そこでは人間の心の劣化と、人民大衆における悲惨が主要な基準となる。こうした政府は人間を単なるケダモノとしか思っていない。知的能力の行使は人間の特権ではないと思っている。そして法律はひたすら従う以外に彼らと何の関わりもないのだ、と1。そして彼らは政治的には、人々の心を絶望により怒らせるのを恐れるより、貧困によって人々の士気を潰すほうに依存しているのだ。

 フランスにおける革命を完成させるのは、文明の状態における革命だ。すでに代表による統治こそが真の統治システムなのだという主張が世界に急速に広がっている。その主張のまっとうさは誰にでもわかる。その公正さは反対者たちですら感じられる。だがその統治システムから生まれる文明システムが、共和国に生まれ落ちた男も女も一人残らず、世界を始める何らかの手段を相続するようにまとめられ、他の統治下で高齢とともにやってくる悲惨を確実に逃れられるというのがはっきり見えたら、フランス革命は、あらゆる国民の心に支持者と仲間を持つことになる。

 原理の軍団は、兵士の軍団が打ち破れないものも打ち破る。外交管理が失敗するところでも成功する。その進歩を止められるのは、ライン川でも、英仏海峡でも、大洋でもない。それは世界の地平性へと行軍し、そして征服するのだ。

この提案計画を実施に導き、同時に公共の利益にかなうものにする手段

  1. 各州はその主要議会で三人をその州の長官として選び、その人物たちはこの計画を実施するために設立される憲章に関連するその州でのあらゆる出来事を検分して記録する。
  2. 法律で死亡者の財産を確定するための方法を決める。
  3. 各死亡者の財産の量が同定されたら、その財産の主要相続人または共同相続人の最年長者 (成人年齢に達していた場合) または未成年の場合には死亡者の遺言によりその者またはその者たちを代表するよう指定された人物が、州の長官たちに対して、その財産の十分の一を、四半期毎に四回の均等払いで支払うという債券を提出する。相続財産すべての半額は、この債券が達成されるまでの担保となる。
  4. この債券は州の長官たちの事務所に登録され、原本はパリの国立銀行に預けられる。銀行は毎年四半期ごとに、保有する債券の量を公表し、また前四半期以来、どれだけの債券が支払いを終えたか、あるいはそのどれだけの部分が達成されたかを公表する。
  5.  国立銀行は、保有する債券を担保とした銀行券を発行する。ここで発行された銀行券は、高齢者の年金支払いに使われ、また21歳に達した人物への補償の支払いにも使われる。即座にその資金を必要としない人物は、この基金がもっと高い能力を持つ金額に達するまでは、そこから引き出す権利を停止すると想定するのが適切であり、また鷹揚なこととなる。この場合、その権利を停止した人物の名前を州ごとに、少なくとも現在の戦争期間中は名誉登記簿に記録しておくことが提案される。
  6. 財産の相続人は常にその債券を四半期ごとの四回払いか、あるいはそうしたければもっとはやく支払わねばならないため、常に銀行には四半期の終わりごとに、現金が入ってくることになり、これが持ち込まれる銀行券と交換で支払われる。
  7. このように流通する銀行券は、考えられる最高の担保である、実際の財産を元にしており、しかもその銀行券の根拠となる債券の四倍以上の財産となっているし、また現金が絶えず銀行に入ってきて、要求と共に提示されたときには常に換金されるので、それは共和国のあらゆる部分で永続的な価値を獲得する。したがってそれは納税や、現金と等価の債券として受けとることができる。というのも政府は常に銀行で、それと引き換えに現金を受け取れるからだ。
  8. この計画の設立初年度は、この10%の支払いは現金で行うことが必要となる。だが初年度が満期となれば、財産の相続人たちは10%を、この基金を担保とする銀行券で支払ってもいいし、現金で支払ってもいい。支払いが現金なら、それは銀行預金として保管され、同額の銀行券と引き換えに払い出される。そして基金を担保とする銀行券で支払われた場合には、それは基金に対する同額の需要を引き起こす。このようにして計画の運用が、それ自身を実施させるための手段を作り出すようになるのだ。

トマス・ペイン


脚注
  1. 著者注:イギリス議会における、イギリスの司祭ホースレーの表現。↩︎

YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)
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