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Robert Todd Carroll

SkepDic 日本語版
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権威に訴える
appeal to authority

権威に訴えるとは、権威でも何でもない人を権威であるかのように引用するもので、不適切だし誤っている。たとえば、宗教に関することがらでアインシュタインを引用して主張をしたら、それは権威に訴えた不適切な主張となるだろう。アインシュタインの専門は物理学であって、宗教ではないからだ。しかし、もし仮に彼がラビだったとしても、神の存在を証明するのにラビのアインシュタインを使って主張をしたら、やはり権威を用いた不適切な主張だろう。なぜなら、宗教はその本質ゆえに問題の多い分野だからである。宗教の専門家のあいだでは、基本的なことがらについてさえ意見が分かれている。それだけでなく、多くの人は宗教そのものが間違っていると信じている。当該分野の素人を引合いに出して、さも専門家であるかのように訴えたり、あるいは問題の起きている分野で宗教家を引合いに出して信念の正しさを証明したかのように訴えるのは、どちらも信念の正当性を確立するのには、同じぐらい不適切である。

不適切な権威に訴えるのは、根本的な誤り の一種である。なぜなら、意見を真偽に関する議論ではなく、意見の出所から判断しようとするからである。意見の出所が権威のある人物であれば、その意見は正しいことになる。しかし、権威のある人物でも誤った意見を持つことはあるのだ。

権威に訴えるばあい、権威者一人を引用する代わりに、それを真実だと信じる専門家を何人か列挙して引用しても、適切なものとはならない。専門家が、自分の専門外のことがらや問題となっている論点について語る場合、支持者をずらずらと書き並べた一覧表など適切性の評価にはちっとも役に立たないのだ。どんな問題であっても、同じ程度の能力を備えた専門家が主張の双方にいるはずである。専門家が支持するから正しいと認知されるのなら、その反対意見も専門家によって支持されるのだから正しい、ということになってしまう。これではばかげている。ある意見が正しいか間違っているか、合理的か不合理かは、その意見を受け入れている、あるいは拒絶している人とは無関係なのだ。

おしまいに、能力的に判断するに余るような意見を裏付けるために、権威を引用するのは、べつに不適切なことではないだろう。しかし、こうした場合、引用する権威者はその人の専門分野について語っていなければならないし、その意見は当該分野の専門家のあいだで、おおむね受け入れられているものでなければならないだろう。物理学のような分野では、物理学者が立てて、さらに他の物理学者がおおむね正しいと判断した物理学に関する意見を信じるのは、合理的なことである。もちろん、こうして信じたことがらが誤りとなる場合もありうるが、言うまでもないことだが、どんなことでも信じたからといって、真実に化けたりはしない。

参考文献

Kahane, Howard. Logic and Contemporary Rhetoric: The Use of Reason in Everyday Life, 8th edition (Wadsworth, 1997). $35.16

Copyright 1998
Robert Todd Carroll
Last Updated 10/14/98
日本語化 09/11/99

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