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Philosophers' Web Magazineのジュリアン・バギーニ博士とのインタビュー (1997年9月)

Philosophers' Web Magazine (以下PW):自分のことを懐疑論者だと自覚したのはいつですか?

ボブ・キャロル自覚したのはだいたい7歳ぐらいの頃だったろうと思います。サンタクロースについて疑問を抱いてたんです。私たちはイリノイ州のジョリーに住んでいたのですが、10歳の頃に引っ越したサンディエゴに比べると、冬はたいへん厳しかったものです。クリスマスイブの晩、私は冷蔵庫にオレンジがあるのを見つけて、その数を数えました。翌朝、3人の姉妹と私はクリスマスの靴下の中にオレンジが入ってるのを見つけました。私は冷蔵庫のところへ行って、オレンジが1つもないのを知りました。私は、靴下にオレンジを入れたのは両親だと推論しました。今思うと、短絡的な結論を出したものですが、でもまあ当時はまだ経験が浅かったものですから。

PW:この辞書を作ることになったきっかけを教えてください。

ボブ・キャロル1993年、私はインターネットを使うようになってすぐに、HTMLを使ってハイパーテキストで本を書くということの潜在的な可能性に気づきました。私はそれまでにも、ハイパーテキストで文章を書いた経験がありました(ハイパーパッドという名のプログラムでした)。私は一連の記事の入力を始めました。これらのほとんどは、私が担当している批判的思考や哲学入門の授業教材からとったものです。“辞典”というアイデアが生まれたのは、ピエール・バイルの歴史と批判精神辞典(Historical and Critical Dictionary)に馴染みがあったからだと思います。べつにバイルの業績に匹敵するものをつくろうと目論んだからではありません。

当初から、私はたんに定義と懐疑論的エッセイだけを提供して済ませるつもりはありませんでした。読者には懐疑論に関する最良の参考文献を提供したかったのです。したがって、私は各項目につき少なくとも1つは、有益な懐疑論の参考文献を挙げておこうとしました。これに加えて、懐疑論文献を各トピック別にビブリオグラフィとしてまとめました。Amazon.comのおかげで、読者はビブリオグラフィから直接本を注文することができます。

PW:この辞典の書籍版はありますか?出版の予定は?

ボブ・キャロルできればそうしたいと願っています。いくつかの出版社に、出版の可否を打診してるところです。

PW:哲学者たちは‘一般的’懐疑論と‘哲学的’懐疑論のあいだに明確な線引きをしたがるものです。前者は特定の事実に関する主張だし、後者は真実と知識が存在するかどうかという可能性の問題にほかならないからです。あなたがここで扱っているのは、後者ではなく前者のようです。これについて3つばかり質問があります。(i)まずはじめに、懐疑論に関するこうした定義が有効だということに賛同しますか?

ボブ・キャロル‘一般的’懐疑論と‘哲学的’懐疑論の間の線引きは、哲学的懐疑論について文章を書いたり教育をおこなったりする場合には、必要だと思います。ピュロニストであれアカデミアであれ、懐疑論者とは教条主義を掘り崩すものであって、その目的には絶対的真実なるものが存在し得るという主張を否定するものですし、読者や学生はこのことを知っておくべきだからです。また、教条主義者の多くは特定の主張にたいして懐疑的であるということも知っておく必要があるでしょう。私は‘知っている’という語を使っていますが、それは絶対的な真実であるという意味で使っているわけではないということも、知っておくべきです。

PW:(ii)哲学的懐疑論と一般的懐疑論には、なんらかのつながりはありますか?

ボブ・キャロル必ずしもありません。私は一方が他方の素地になっているとは思っていません。哲学的懐疑論は、どんなことがらであれ絶対的な真実であるなどとはわからないし、その意味ではいかなる主張も疑わしい、という概念を素地としています。哲学的懐疑論は、反証となることがらが検証することがらより多い場合、その主張は疑わしい、という概念を素地としているわけではありません。

PW:(iii)もし哲学的懐疑論に線引きをするとしたら、あなたはどちらに入りますか?

ボブ・キャロル私は自分自身では哲学的懐疑論者だと思っています。私は経験論的事象においても形而上学的事象においても、絶対的真実とか絶対的確かさとかいったものを信じたりはしませんし。私は、アプリオリな真実は発見によって生じた真実ではなく、定義と同意によって生まれた真実にほかならないと信じています。私は、教条的哲学の土台はすべて懐疑論的議論によって突き崩すことができると信じています。

PW:あなたはご自分を実証主義者だと述べていますし、あなたが辞書の中でおこなっている論駁は、さまざまな実証主義者や反証主義者が唱えている有益性の価値基準にもとづいているように思われます。このような実証主義の見解は広く批判されています。あなたは実証主義に対する攻撃に抗して、ご自身のアプローチをどのように擁護しますか?

ボブ・キャロルSkeptic’s Dictionaryの中では、私は実証主義をたった2つのセンテンスで説明するだけにとどめています。‘実証主義’に関する記述は、他の関連する語とともに、自然主義の中で述べています。私の実証主義に関する記述が決定的なものだとか、あるいは完璧なものだというふうには受け取らないよう願っています。(実証主義とは、形而上学は多かれ少なかれごまかしである、とする哲学的態度である。実証主義者は超自然的な現象の存在を否定してはいない;彼らは、こうしたことがらについて学び語るのは時間の無駄だ、としているのである。)

このDictionaryの中で、私は“記しておくなら、私は自分自身を自然主義者、無神論者、唯物論者、形而上学的自由主義者、それに実証主義者と見なしている”と書いています。人が超自然現象を理解するのが時間の無駄にすぎないのと同様に、こうした現象について学び語ろうとするのは時間の無駄だと思います。私は実証主義者を自称するのは、そういう意味にすぎません。

実証主義と反証主義の有益性の価値基準にもとづいている私の“攻撃”について言えば、私は無知を弁護することになるのを危惧しています。あなたが念頭に置いてらっしゃる“攻撃”について、もっと説明していただけるとありがたいのですが。

PW:人々は一般に懐疑的な見解を哲学と関係づけて捉えがちですが、哲学者にとってこうした関係づけは腹立たしい奇行に見えることが多いものです。あなたはこうした意見について、どういった感想をお持ちですか、あなたはこのような現象に関与していると思うのですが?

ボブ・キャロル人々が一般に懐疑的な見解を哲学と関係づけて捉えがちだとは知りませんでしたし、哲学者がこうしたことに腹をたてていることも知りませんでした。そのような意見は不当なものです。インターネットを自身の見解を公表する道具として使っている懐疑論的な哲学者であれば、誰でもこうした意見に影響を与えているだろうと思うのですが。私はこういった感情を強く抱いているわけではありません。学界にいて一生哲学を研究するような人なら、哲学者のほとんどが懐疑的でなく、教条的であったということを知っているでしょう。

PW:ウェンディー・グロスマン(Skeptic誌の設立者でPhilosopher's Magazineのコラムニスト)は、懐疑論とシニニズム(冷笑的態度)を区別できない人が多いと腹を立てています。両者は別物ですが、両者の間に引かれた境界線はか細いものです。あなたはどうやってこの境界線を踏み越えないようにしていますか?

ボブ・キャロル懐疑論者として調査した結果、あるできごとが不適切だったりウソだったり、インチキや詐欺、誤りだったとわかったとき、なぜシニカルになってはいけないのでしょうか?懐疑的なのとシニカルなのは違うのというのはもちろんですが、互いに排反するものでもありません。両者の中間を選ぶ必要はないのです。懐疑論者すべてがシニカルなわけではないからというだけで、懐疑論者はすべからくシニカルにあらざるべしということにはなりません。もし懐疑論とシニニズムの違いに腹を立てたり両者の違いを区別できないとしたら、それはその人の問題です。シニカルな懐疑論者だからといって、そのシニカルな主張ひとつひとつにアスタリスクで注釈をつけて、自分のシニニズムが懐疑論にとって必ずしも必須要素ではないと知っています、などと公言する必要はないと思いますが。

PW: 占星術やミステリーサークルといった明らかな攻撃対象は別として、マイヤーズ-ビッグス性格テストのようにむしろ主流にあるような実践やアイデアも、あなたのディクショナリでは攻撃対象にされています。こうしたアイデアは音響学を土台としていますし、その分野の専門家による科学的方法論にもとづいています。自分の専門外の分野の専門性を侵害することについて、あなたは懐疑的に考えたことはないのでしょうか?

ボブ・キャロルありませんね。懐疑論者として、私は侵すべからざる専門分野があるなどとは思っていません。もっともSkeptic's Dictionaryの中では、私はオカルトや超常現象、超自然現象、いんちき、それに疑似科学に、興味を限定しています。アムウェイやマイヤーズ-ビッグス性格診断といった項目で専門性の境界線を踏み越えたからといっても、私にとってはどうということはありません。もし詐欺やいんちきや疑似科学による理由づけがおこなわれていると私が考えたら、私はたとえ他人から気違いだとか不穏当な奴だとか思われても、あえて自分が誤る危険を侵します。

PW: 私は最近、イギリスの高級紙に掲載されたホメオパシーに関する記事を読みました。その記事は“ホメオパシーの科学的裏づけ”と題してホメオパシーを支持する事例を紹介し、おしまいに反論を短く付け加えたものでした。これはあなたの経験において典型的なものでしょうか、こうした記事に対するあなたのご意見とご感想は、どういったものでしょうか?

ボブ・キャロルこうした記事は、どちらかといえば典型的なものだと思います。フランチーヌ・シャピロの眼球運動脱感作回復療法でも同じことが起きています。これは、心的外傷後疾患(PTSD)にたいする“新しい”非常に成功している療法だと彼女が主張しているものです。サイ研究ではこれが何度も繰り返し起きています。これに関連したことは、Physics World誌(1997年9月)に最近掲載された書簡でも起きています。この書簡は、対照実験によって得られたテレパシーに肯定的な結果は一般に懐疑論者によって黙殺されていると主張しています。

回答として私は、ただ1つの肯定的結果で強い印象を与えられると考えている人たちは、科学界がフライシュマンとポンズの常温核融合の主張をどう扱ったか、よく考えるべきだ、とアドバイスします。彼らは懐疑論者と彼らの実験をできる限り再現しようとした人たちの双方に歓迎されました。たとえこうした人たちが彼らの実験を再現できたとしても、再現した人たちですら、多くが懐疑的な立場に残りました。もし、さらなる調査によって、結果が確かに実験設計のミスではなく常温核融合によって生じたのだということがわかっていれば、科学界はフライシュマンとポンズを非難したりせず、むしろ彼らを歓呼して迎えたことでしょう。

PW:人が懐疑精神をほとんどまったく発揮しないもののうち、最も重大なものは何だと思いますか?

ボブ・キャロル宗教です。もし神と死後の世界に対する信仰がなければ人生に何の意味も見い出せない、そう言う方々から次々と手紙をいただく度に、私は頭を抱えています。手紙の多くは、人は神か科学どちらか一方を選ばねばならないという信念をも示しています。多くは科学の本質を誤解していますし、科学はすべての疑問に答えてはくれないし満足のいく説明も与えてはくれない、それゆえ神を選んだ、と述べています。こうした方々は、確実なるものと希望を望んでいるのです。たとえそれが自己欺瞞やないものねだりと、たいしてかわらないものにもとづくものだとしても。


The Skeptic's Dictionary
by
Robert Todd Carroll