Trotsky on England (1926) 著作権消失
ジョン・メイナード・ケインズ (John Maynard Keynes)
山形浩生 訳
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要約: トロツキー『イギリスはどこに向かうのか?』書評。前半はイギリス労働党に対する騒々しい罵倒で、イギリス労働党は平和的な手段での権力奪取や社会主義移行を目指しており、暴力革命をまったく使おうとしていないのでダメだというだけ。後半はトロツキーの思想がもう少し出ているが、基本的に社会問題とその解決策がマルクス主義で明らかになっているというのが前提なので、ちっとも説得力がない。そしてそのために絶対に武力を使えという主張は変だし歴史的に見てもちがうのではないか。(要約訳者)
この本 (L. Trotsky, Where is Britain Going? (1925), トロツキー『イギリスはどこに向かうのか?』) の同時代の書評はこう語る。「かれは傷のついたレコードをかけた蓄音機のような声で、陳腐な内容をどもりつつ語る」。おそらくそのレコードを口述したのはトロツキーなのだろう。英語という衣装をまとうと、この本はこけおどしの濁音をともないどんよりした湯気をたてつつ現れてきて、いかにもロシア語から翻訳された現代の革命文献らしい。イギリスの状況に関するドグマチックな論調は、たまに見られる洞察のひらめきですら、自分が語っているものについての予想される無知により曇らされており、イギリス読者に説得力を持つものではない。だがそれでも、トロツキーにはある種のスタイルがある。そしてそのすべてが陳腐というわけでもない。
この本は、まず何よりも、イギリス労働党の指導部に対してその「教条主義」と、そしてかれらが革命の用意をせずに社会主義の準備をするほうがいいと信じていることについての攻撃となっている。トロツキーは、イギリスの労働党が過激な非従属者たちと慈善的なブルジョワから直接発した存在であり、無神論や流血や革命に染まっていないのだと指摘する。たぶんその通りだろう。したがってトロツキーは、感情的にも知的にも、かれらがまったく共感できない存在だと考える。ちょっと引用をまとめると、どういう見方になっているかが露わとなる:
労働党指導部のドクトリンは、保守主義とリベラリズムの一種のごった煮で、部分的に労働組合のニーズにあうように変えてある。(中略)労働党のリベラル指導者やセミリベラル指導者たちは、いまだに社会革命というのがヨーロッパ大陸の嘆かわしい特権だと考えているのだ。
マクドナルドはこう語り始める。「気持ちと良心の領域においては、精神の領域においては、社会主義は人民への奉仕という宗教を構成する」。このことばの中で、人民に「奉仕する」という愛他的なブルジョワや左派リベラルは、片側から人民に寄り添う、いやもっと正しくは上からやってくるという点で裏切られているのである。こうしたアプローチはすべて暗い過去にその根を持つものであり、過激インテリゲンツィアがロンドンの労働者階級地区に暮らしにいって文化的教育的作業をしようとしたのが根底となっているのだ。
ファビアン主義こそは、神学文献と並んで最も役立たずであり、いずれにしても言語的な創造物として最も退屈きわまるものだ。(中略)安手の楽観主義的なビクトリア時代、明日が今日よりちょっとだけよくなると思え、その翌日は明日よりもっとよくなると思えた時代が最も完成された表現を見たのは、ウェッブ夫妻、スノウデン、マクドナルドといったファビアン主義者たちにおいてだった。(中略)こうした大言壮語の権威ヅラ、知ったかぶり、傲慢で口だけ達者な腰抜けどもが、労働運動を系統的に汚染し、プロレタリアの意識を曇らせ、その意志を麻痺させる。(中略)ファビアン主義者ども、独立労働党ども、労働組合の保守的官僚どもは、現在ではイギリスにおける最も反革命的な勢力となっており、世界の発展においても最も反革命的存在かもしれない。(中略)ファビアン主義、マクドナルド主義、平和主義というのは、イギリス帝国主義や、ヨーロッパ、いや世界のブルジョワの主要な結束点なのだ。こうした自己満足の知ったかぶりども、こうした姦しい折衷主義者ども、こうした感傷的な出世主義者ども、ブルジョワジーにお仕着せを着せられた新進の走狗どもの真の姿を、労働者たちに露わにしてやらねばならない。こいつらのありのままの姿を曝露することは、この連中を絶望的なまでに権威失墜させることとなるのだ。
いやはや、ウィンストン・チャーチル氏をあれほどに恐れさせる人物の心情吐露とはこういうものだ。そしてこれをはき出したことで、胸のつかえが取れたことを祈りたいものだ。読者は、いまの引用集をちょっと変えるだけで右翼の思想的殴り合いとなってしまうことにお気づきだろう。そしてこの類似性の原因は明らかだ。トロツキーはこうした下りで公共問題に対する態度を問題にしているのであり、その最終的な目標を扱っているのではないのだ。単に、行動といえば戦争だと思っている泥棒政治家たちのかんしゃくと同じものを示しているだけで、そうした政治家と同じく、易しい理詰めや慈愛、寛容、慈悲の空気に触れると頭に血がのぼってしまうのだ。だが風が東に吹こうと南に吹こうと、ボールドウィン氏やオックスフォード卿やマクドナルド氏たちは、そうした空気の中で平和のパイプをくゆらせる。ファシストはボリシェヴィキ主義者たちと合唱する。「やつらは平和などあってはならないところで平和のパイプを吹かせる。もったいぶった愚鈍な頽廃、痴呆、死の象徴め、無慈悲な闘争の精神にしか存在しない、生命と生命力のアンチテーゼどもめ!」話がここまで簡単だったらいいんだが! ライオンのようにだろうと、そこらのか弱いハトのようにだろうと、吠え立てるだけで何か実現できるなら実にありがたいのだが!
トロツキーの本の前半は、吠え立てるばかりだ。後半はその政治哲学を完結に述べているので、もっと注意して読む価値がある。
第一の主張。文明を維持させるなら、歴史的な過程から見て社会主義への転換は必然である。「社会主義への移行なくしては、人類の文化はすべて衰退と解体に脅かされる。」
第二の主張。この移行が、平和的な議論と自発的降伏で実現されるとはまったく考えら得ない。所有階級は、武力への反応以外で降伏するわけがない。ストライキはすでに武力の利用である。「階級闘争は、あからさまな、あるいは隠れた武力の継続的な連続であり、これは大なり小なり国家が仕切っており、その国家は敵の中でも強力な存在、つまり支配階級の組織的な道具なのである」。仮説としては、労働党が憲法的(合法的)手段により権力を握り、それから「実に慎重に、巧妙に、賢明に駒を進めることで、ブルジョワジーが活発な反対を必要とはまるで感じないようにする」という発想は「笑止である」――が、これこそ「まさにマクドナルドたちの心底にある願望なのだ」。
第三の主張。もし遅かれ早かれ労働党が合法手段で権力を握ったとしても、反動政党たちはすぐに武力を使おうとする。所有階級は、自分が議会装置を仕切っている限りは議会手続きに口先だけ従うふりをするが、もし権力が奪われたら、向こうが武力の利用をためらうなどと思うのは馬鹿げている、とトロツキーは主張する。仮に、議会で多数派の労働党がきわめて合法的に、代償なしで土地を召し上げると決めたり、資本に重課税を決めたり、王室廃止や貴族院廃止を決めたりしたら、「所有階級が闘わずして従ったりしないのはまったく疑問の余地がないことである。警察、司法、軍といった装置が完全に連中の手中にあることを考えればなおさらだ」。さらに、そいつらは銀行や社会的信用の仕組みすべてに、運輸交通の機械も握っているから、ロンドンの日々の食料は、労働党政府自体のものも含め、巨大な資本主義複合体に依存しているのである。こうした恐ろしい圧力手段が「労働党政府の活動を抑え、その実施を麻痺させ、それを脅かし、その議会多数派を分裂させ、そして最後に金融パニックや物資不足やロックアウトを引き起こすために、狂ったような暴力を持って活用されるのは」明らかであるとトロツキーは論じる。それどころか、社会の命運が労働党の多数派獲得で決まるのであり、その瞬間における物理的武力のバランスで決まるのではないなどと考えるのは「議会算数のフェティッシュへの隷属なのである」。
第四の主張。以上すべてを考慮すると、憲法上の(合法的な)権力奪取を狙うのはよい戦略かもしれないが、それでも最終的には物理的な力こそが決定要因になるという想定で組織化を図らないのは馬鹿げている。
革命的闘争においては、反動勢力の手から武器をたたき落とし、内戦の期間を短くして被害者を減らすに役立つものは、最大限の決意のみである。もしこの手段を執る気がないなら、そもそも武器など手に取らないほうがましだ。もし武力を使わないのであれば、ゼネストを組織するのは不可能だ。もしゼネストを放棄するなら、まじめな闘争など考えることもできない。
その前提を認めるにしても、トロツキーの議論の大半は応えようがないものだと思う。革命ごっこをするほど馬鹿げたことはない――トロツキーがいいたいのはそういうことだろうか。だがその前提はなんだろうか? トロツキーは、社会変革の道徳的、知的な問題はすでに解決されたと想定している――すでに計画があり、それを実際に稼動させる以外にやることは残っていないのだ、と。またかれはさらに、社会が二つの部分に分かれていると想定する――すでにその計画に転向したプロレタリアたちと、まったく利己的な理由だけからそれに反対しようとする残りの人々と。まずは多くの人々を納得させない限り、どんな計画だろうと勝てないということをトロツキーは理解していない。そしてそれが本当にまともな計画なら、多くの分野から各種ちがった賛同が得られるはずだということも。あまりに手段のことにばかりこだわるあまり、それがそもそも何のためのものかを語ろうともしない。その点を追求したら、たぶんトロツキーはマルクスを持ち出すことだろう。そうなったら、われわれはご当人のことばをそこで繰り返して置き去りにするまでだ――「神学文献と並んで最も役立たずであり、いずれにしても言語的な創造物として最も退屈きわまるものだ」と言って。
トロツキーの著書は、人類の現段階における武力の役立たずぶりや、その考えなさ加減についての確信をさらに裏付けるものとなっている。武力では何も解決しない――それが階級戦争でのものであっても、国家の戦争や宗教戦争の場合と同じだ。トロツキーは歴史的な過程をもちだすのが実にお好きだが、その歴史的な過程を理解すれば、いまの世界の状況においては、武力は支持するより否定されるはずだ。われわれは、進歩のための一貫した仕組みといういつもの代物を欠いているだけではなく、しっかりした理念をも欠いている。あらゆる政党はすべて、その起源が過去の思想となっており、新しい思想に根ざしていない――そしてそれが最も露骨なのがマルクス主義者たちなのだ。人が己の福音を武力によって広めるのがどのような場合に正当化されるかという細かい論争にふける必要はない。次の動きは頭によるものだから、げんこつには待っていただこう。
1926年3月.