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Robert Todd Carroll

SkepDic 日本語版
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カルマ(業) karma

``. . . . 幸運も悪運も、みなすべて信 心と不信心に帰する . . . .'' ---スピノザ

カルマはヒンドゥー教の法則で、為すことすべては、いかにとるに足らな いことであろうと、ついにはわが身に還ってくる(因果応報)というもので ある。善きことは善きこととなって、悪しきことは悪しきこととなって、還っ てくるのである。ヒンドゥーは輪廻転生を信奉しているので、カルマはたん に生まれてから死ぬまでだけのものではない。善きことや悪しきことが身の 上に起きたなら、それはこの世か、あるいは前世の行ないが原因なのである。

カルマは``因果の法則''ともいわれることがある。カルマは善き行ないを 推奨し、悪しき行ないを避けさせるのと同時に、人に降りかかる幸運や悪運 すべての説明となっているのである。

理論的に見ると、カルマはなぜ悪人に善きことが起こるのか、また善人に 悪しきことが起こるのかも、うまく説明してくれる。おそらく幸運も悪運も 無作為に分布するせいなのだろうが、この世の不公正は明らかだからである。 現実には、誰もが各人に値するものを手に入れていることになる。薬物中毒 の親に暴力を受けた子どもでさえ、恐怖を受けるに値することになるのであ る。精神を病んだり、成長遅延していたりする人々や、ホモセクシュアルや ナチスに殺された何百万人ものユダヤ人は、過去に行なった悪しきことゆえ に、そうした苦難に値することになるのである。殴られて息も絶え絶えになっ た奴隷は、この世のおこないか、さもなくば前世のおこないゆえに、そうし た仕打を受けるのが当然だということになる。レイプの被害者でも同じこと である。そうされても仕方がないということになる。カルマの法則によれば、 すべての苦難は受けるのが当然だということになるのである。

形而上学的なカルマ信仰の根拠は存在しないものの、ヒンドゥー的な根か ら切り離された西洋の文化でも、カルマの概念はポピュラーである。たとえ ば神知論者はカルマと輪廻転生を信奉してい る。ジェームズ・ヴァン・プラーグも同様で、 過去数世紀に死んだ数十億の人々を霊能力で導いていると主張している。

たとえば、誰かが誰かを殺したとしましょう...現金支払器の前で...。 これには二つの可能性が考えられます。まず、犯罪を犯したものが、自由意 志を行使して殺したという可能性。もう一つは、不思議に思われるかもしれ ませんが、殺されたものがカルマ的状況にあって、前世で誰かを殺した償い として殺されたのだという可能性です。 [Amazon.com interview with James Van Praagh]

ヴァン・プラーグは、人が互いに殺し合うのをカルマとして捉えているこ とを明らかにしている。もしヴァンプラーグが正しいなら、私たちは倫理的 かつ刑事的な法治システムまで葬り去らねばならないだろう。何しろ、誰も が自分のカルマによって行動しているだけなのだから。誰も本当は、善いこ とも悪いこともしていないことになる。行為に責任など存在しなくなるので ある。カルマのもとでは運命に弄ばれる将棋の駒にすぎないのである。では なぜ、なぜにカルマのごとき善悪観念とかけ離れた原理が、あたかも平凡な る宇宙の究極の正義の説明として人間を支配するのだろうか?ヴァン・プラー グによれば、それは``我々が教訓を学び取るために存在するためです。この 地球は我々の教室なのです。...我々は成長するために、ここで学ばねばなら ないのです。''ヴァン・プラーグによれば、地球上の生命は煉獄における苦 行の人生なのである。私たちがここにいるのは私たちの罪を償い、魂を進化 させ、カルマを滅却するためなのである。ここには、至高かつ最上の善なる 神によって創られたはずの世界に悪魔が存在する、その理由を説明するのに セオドシストが使うのと同じものが、微かだが見てとれる。ヴァン・プラー グ版のカルマは、ヒンドゥー教徒や仏教徒には受け入れられないだろう。彼 らは、人は悪事を当人の自由意志によって為すと考えるのである。そして悪 しきことが身に降りかかったときに、その原因を自分が過去に行なった悪事 のせいにするのである。

さらにいえば、神知論者と西洋のセオドシスト(神の行いを正当化しよう とする人々)は、究極的にはその``神秘性''を主張しているのにすぎない。 しかし、もし人生に目的がないとしたら、そこに悪は存在しないし、死後の 生まれ変わりもないだろう。それに天国や地獄で賞罰を受けることもないだ ろうし、涅槃(ニルヴァーナ)もないだろう。人生には目的などないかもし れないが、意義ある人生なら存在するのである。しかし、カルマ信仰は意義 ある人生には必要ないのである。実際に、ヴァンプラーグが理解するカルマ は、人生をとるに足らない、つまらないものにしてしまう。というのは、人 間すべてを非人間的存在に貶めて、モラルと責任感に欠けた原因と結果だけ の無意味なシステムのなかで、人生を形而上学的``法則''を学ぶためだけの 場とするからである。カルマのもとでは、わが身に降りかかる悪しきことを 避けるのは、許されないだろう。

カルマのような概念が主要宗教の基本的信条となったのは、いったいなぜ だろうか?カルマが、インドの外で、これほど大多数の注目を集めたのは、 いったいなぜだろうか?それは羊の法則が原因である。シェパードが唱道す ることを、疑ってはならないのである。現状を破壊したくない者や、悪事を ``自然''あるいは不可避なものと捉える者にとっ ては、これは受動性の法則として働くのである。カルマは奴隷の法であり、 被征服者の法である。宗教の教理を発明するのは、奴隷ではないのである。 導師は、自分が何をしているか理解しているのである。身に降りかかる悪し きことを受け入れよ、善きことを求めよ、というのは、つまり、導師の命令 を受け入れ、命令のとおり行動せよ、ということなのである。

前世のない最初の人生があったとしたら、小作農民はどう思うだろうか? その者には、カルマはどう働いたのだろうか?もし最初の人生にカルマが働 かないか、あるいは必要ないなら、なぜその後の人生にはカルマが必要なの だろうか?導師はこの質問にも答えてくれるだろう。いつもそうする。彼ら は言葉の達人なのである。言葉の力だけを使って、冷酷な法と自由のつじつ ま合わせを行うのである。彼らにかかれば、反証さえも、繰返しなされた質 問の一つに見せかけてしまう。そして導師が答を持っていない場合は、そん な質問を敢えて行った人物を非難して、その品位を貶めるのである!これは 神秘であり、誰もが神秘を愛しているのだ!もしそれでも効かなければ、そ こには死あるのみ。死によって反対者や厄介者の口は、死によって封じるの である、おそらく。しかし、たいていは無常の至福を約束することで、おお むねうまくいくのである。善くあれ、規則に従え、嫌なことにも耐えろ、役 割を受容せよ、などなど、そうすれば永遠の至福が得られるのである、背け ば苦難が待ち受けるのだ。こうした動機づけは、天国を約束し、地獄で恐喝 するのとたいして違わない。



参考文献

読者のコメント

Edwards, Paul. "Karma," in The Encyclopedia of the Paranormal edited by Gordon Stein (Buffalo, N.Y.: Prometheus Books, 1996). $104.95

Copyright 1998
Robert Todd Carroll
Last Updated 11/02/98
日本語化 10/18/99

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