アーサー・ショーペンハウアー
Arthur Schopenhauer (1788-1860)
"俗世間、どたばた騒ぎ、上流社会へ至る道に誤りなど存在しないように、幸福へ至る道にも誤りなど存在しない。"
--ショーペンハウアー, Essays, "Our Relation to Ourselves," sec. 24
"人間の幸福の敵は2つある。苦痛と倦怠である。"
--ショーペンハウアー, Essays, "Personality; or, What a Man Is."
"結婚とは、権利を半分失って義務を倍にすることである。"
--ショーペンハウアー
アーサー・ショーペンハウアー (1788-1860) はドイツの哲学者で著述家。ペシミズムの哲学と意志を強調したことで知られている。彼は仏教徒が強調する色即是空と諸行無常を正しいと主張していたが、自身はカントの後継であり修正であると考えていた。カントは、私たちが知っている世界というのは知覚による入力に対して意識が`主観'をあてはめた結果であると述べた。知覚による入力、つまり`対象そのもの'がどのような影響を与えるのかは、けっしてわからないし経験することもできない。したがって、知はけっして常識的な哲学者が述べるような、`意識の中にあるものと現実が調和すること'ではない。知とは意識と、経験によって得られる`知覚による直観'を連結する作業だ。私たちは意識の中に現実を作りあげたりするのではなく、知覚によって得られた生データから現実を模造したり鋳型をつくるのだ。
ショーペンハウアーは、`対象そのもの'への扉を開くのは意志にほかならない、と信じていた。彼の見解では、現実とは意志を反映したものなのである。私たちは、カントが主張するような客観的かつ合理的な原理に基づいて世界を構築するわけではない。私たちは、意志の欲求によって世界を構築するのである。たとえば、私たちは世界を因果の体系と見なしているが、これは私たちの意識が現実の中にある合理的な秩序を把握しているからではなく、このような見方をするのが意志に適うからである。いわゆる真実はみなうそであって、意志の不合理な欲求を満たすために作り上げられた欺瞞である、という主張は、ショーペンハウアーの弟子であったニーチェにも残っているようだ。
ショーペンハウアーは意志を、究極的に無意味な生存競争へと駆り立てる不合理な力とした。たとえ意志の欲求をすべて満足させたとしても、私たちは依然として不幸なのである;なぜなら、すべては真実を知ったとき、つまり究極的には死によって終わりを迎えるからである。
ショーペンハウアーのアイデアの中で際だったものに、意志の欲求は無意識に生ずる、というものがある。意志の欲求には究極目的が存在しないだけでなく、私たちは自身の欲求によって生じた飢餓感を意識することさえできないのである。彼は性的欲求が人間の本性のうちもっとも強い欲求であるにもかかわらず、哲学者や思想家はほとんど全員、著作の中でこの問題を無視していると述べている。性的欲求について書いている者はほとんど全員、これを罰と考えている。人間を駆動する力のうち最も強く最も根源的なものが無視されたり、隠蔽されたり、あるいは糾弾されている。だがけっして理解されることがない。性をロマンチックに描いたり理想化したりする者がいる一方で、邪悪なことがらだと断定する者もいる。だが性についての考えが意志を反映したものにほかならないのだと真に理解した者は誰もいない。性についての真の知など、どこにもありはしない;意志を満足させるための幻想と妄想があるにすぎないのだ。ショーペンハウアー自身は性的欲求を、他の欲求と同じようなものだと考えていた:欲求を満足させても、永遠の幸福がもたらされることはないからだ。彼は、人格はその人の意志によって規定されるもので、自分がどのような意志を持っているかを知ることはできないと主張していたのだが、その一方で欲求の奴隷となっている状態から解放されるべきだと説いた。
彼は、科学の知は私たちが自身の欲求を満たす手助けとするために発明されたものであり、こうした審美的な経験は必要なものだと考えていた。なぜなら、科学には(意志から)切り離された熟考や、‘意志のない’知覚(これはカントから直接引用したもの)があるからだ。また、道徳的に善き人はエゴがなく、悪しき人はエゴイストだからである。[訳注]
[訳注]これはダブルミーニング。ショーペンハウアーが述べているエゴは自我のこと。キャロル先生がここで述べているエゴは利己心のこと。
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