科学 science *
科学とは、経験的事象を理解するためのシステマティックな観察を提供する、主要で第一の論理的・経験論的方法である。私たちがある経験的事象を理解したと考えるのは、その事象がどのように、どのようなパターンにしたがって、なぜそのように生じるのか、これらを説明するに足る理論を持っている場合である。科学そのものは超自然現象を受け入れることもないし棄却することもないが、科学的は現象を、超自然的なものではなく自然現象という見地から説明する。
また、科学は上に述べた論理的・経験論的方法のセットを用いることによってつむぎ出される、経験的世界に関する知識の構造体でもある。
科学は、生物学や物理学、化学、地質学、天文学など、調査する経験的事象の種類や範囲によって定義されるいくつもの固有の科学から構成されている。
おしまいに、科学はスイセンやバクテリアの遺伝子を使ってイネを改変してコメのビタミンA含量を増加させるといった、科学的知識を応用することでもある。
科学の論理的・経験論的方法
科学的方法は、一つではない。科学の手法には、たとえば演繹によって推定したり仮説から演繹したり、必用条件や十分条件という見地から因果関係について論理的に考察したりするといった、論理が含まれる。手法の中には、観察したり対照実験を計画したり、データ取りのために機器を設計したりするといったような、経験論的なものもある。
科学的方法は非個人的なものだ。したがって、科学者が科学者として出来ることは、他のどの科学者でも再現できなければならない。ある人が真に客観的な方法で何かを測定あるいは観察したと主張しても、他の人がそれを再現できなければ、その人は科学をやっていることにはならない。複数の科学者がある科学者の仕事を再現できなければ、それはその科学者が計画や方法論、観察、計算、あるいは補正において誤りを侵したということの明白な証拠となる。
科学的事実と理論
科学は、経験論的世界の真実はアプリオリに知られている(訳注:論理や認識に先立って絶対的かつ自明なものとして知られている)とは仮定していない。科学は、科学的な知識は科学によって発見されると仮定している。経験論的な真実をアプリオリに知っていると主張する人たち(いわゆる科学的創造論者など)は、科学的な知識について語ることはできない。科学は自然界の一般法則を前提にしており、自然現象を機能させている基本原理があると仮定している。こうした原理や法則は比較的安定したものである。だがこうした原理がいったい何物であるのかや、経験的事象の法則が実際にどうなっているのかがアプリオリにわかるなどとは仮定していない。
科学理論とは、ある特定の範囲での経験的事象のふるまいを説明する原理と知識と方法を統一したものである。科学理論は、観察され知覚された経験の世界を理解するのを目的としている。科学理論は自然界がどのように機能するのか説明するのを目的としている。
科学理論は、私たちが理論にもとづいて予測を立てることによって経験的事実を反証できるように、何らかの論理的結論を備えていなければならない。もっとも、予測をなす科学理論と検証のあいだの正しい関係のありかたについては、哲学者たちは広く反対している(クラニー)。
科学理論の中には、初めて作られて提示されたときには、限られた情報に基づくあてずっぽうとほとんど変わりないものも少なくない。一方、成熟してよく練られた科学理論では知識がシステマティックに構成されており、幅広い経験的事象について説明と予測を与えてくれる。だがいずれの場合でも、理論が科学的であるためには、ある特徴がなければならない。科学理論の明確な特徴とは、理論は“経験によって検証可能でなければならない”ということである(ポパー,p.40)
経験によって理論が検証可能であるということは、理論によって観察可能あるいは測定可能な特定の結論を予測できるということである。たとえば、物理的な物体が互いにどのように動くかという理論から、振り子が特定のパターンで振る舞うということが予測されるはずである。そこで振り子を設置して、振り子が理論によって予測されたとおり振る舞うかどうか、仮説を検証する。もし振り子の振る舞いが予測のとおりなら、その理論は確証される。もし振り子が予測されたとおりに振る舞わなければ、理論は反証される。(振り子の振る舞いにかんする予測が理論から正しく導き出され、しかも実験は正しく行われていることが前提条件となる。)
もっとも、理論が経験的な検証に合格したということは、理論が証明されたということにはならない。厳密な検証に合格する数が多ければ多いほど、確証の度合いは高まるし、理論は合理的に受け入れられるものとなる。だが、確証するということは論理的あるいは数学的に証明するというのとは異なる。絶対的確実だと証明されうる科学理論など、存在しないのだ。
さらに、理論にたいする検証が数多くおこなわれればおこなわれるほど、理論の経験的内容も増加する(Popper, 112, 267)。経験的な予測がほとんどできない理論を検証するのは困難だし、一般にそれほど有益な理論ではないだろう。有益な理論は豊かである。つまり多くの経験的予測をそこから導き出すことができ、その各々が理論の検証として働くのである。しかし、たとえ理論が豊かで、数多くの検証に合格したとしても、次の検証に落第する可能性は常にあるのだ。過去に何度も合格したのと同じ検証であっても、次回は落第する可能性だってある。カール・ポパーは科学理論のこうした特徴を、“反証可能性(falsifiability)”と呼んだ。
科学的主張は反証可能でなければならないということは必然的に、科学的主張は誤ることもある、ということにもなる。たとえばアインシュタインの特殊相対性理論が“正しい”として受け入れられているということは、“実験に関する計算の必然的結果として、こうなるという合意が得られている”ということである(Friedlander, 1972, 41)。これは理論が絶対的に正しいという意味ではない。科学理論と同様に、科学的事実もまた絶対的に正しいということはないのだ。事実には容易に検証できる知覚要素だけが含まれているわけではない;事実にはその解釈もまた含まれているのだ。
著名な化石人類学者でサイエンスライターでもあるスティーブン・ジェイ・グールドは、科学では‘事実である’とは“暫定的な同意を与えずにはおかない程度には確証されている”ということを意味するのにすぎない、と指摘している(グールド,1983,p.254)。だが事実と理論は別物であり、“増え続ける確からしさのヒエラルキーにはしごをかけたりするようなものではない。事実とはこの世界についてのデータである。理論とは事実を説明したり解釈したりするアイデアの構造なのである”とグールドは述べている。ポパーの言ではこのようになる:“理論は私たちが‘世界’と呼ぶものを捉えて自らのものとするために投げる網である。私たちは網目をいっそう緻密なものにしようと努力しているのだ。”
無学な大衆にとっては、事実は理論と相反するものだ。科学者でない者は‘理論’という語を、限られた情報や知識にもとづく推測や憶測という意味で用いている。だが科学理論と言った場合は、私たちは理論を推測や憶測という意味ではなく、ある範囲の経験的事象についてのシステマチックな説明という意味で引用する。それにもかかわらず、科学理論には確実性の度合いに大きなばらつきがあり、きわめて怪しいものからきわめて確らしいものまである。つまり、理論が違えば根拠やその裏づけには大きなばらつきがあるのだ。要するに、ある理論は別の理論よりも合理的だということになるのだ。
もちろん事実は理論よりもはるかに多く存在するし、あることがらがひとたび科学的事実として確立されたら(たとえば地球は太陽の周りを回っているとか)、その理論が将来“より良い”事実によって別の理論に置き換えられるといったことは起こり難い。一方、科学の歴史は、科学理論が永遠不変のまま残るわけではないことを明白に示している。科学の歴史は他の何よりも、理論化、検証、議論、洗練、棄却、置き換え、いっそうの洗練、いっそうの検証、といったことの歴史なのである。科学の歴史とは、理論はしばらくの間はうまく働き、異常現象が起き(つまり既成理論に当てはまらない新たな事実が発見され)、新理論が提示され、ついには古い理論と部分的あるいは全面的に置き換えられる、そういった歴史なのである。
私たちは、科学とはジャコブ・ブラナウスキーが述べたように“非常に人間的なかたちの知識である。...科学ではどんな判断も誤りの淵に立っている。... 科学とは、自身の誤りやすさにもかかわらず、私たちが何を知ることができるかにたいして貢献することである”(ブラナウスキー,p. 374)ということを忘れてはならない。“自然科学の目標の1つは”、彼が言うには、“物質世界に関する正確な描写を与えることである。20世紀物理学の業績の1つは、この目標が到達不可能だということを証明したことである”(353)。
科学的知識
科学的知識はヒトの知識であり、科学者はヒトである。ヒトは神ではないし、科学者も無謬ではない。だが一般大衆は、科学的主張は絶対的に正しい真実だと考えてしまうことが多い。もしあることがらが不確かならそれは科学的ではないし、もし科学的でないなら、それは他のどんな非科学的意見とも同等の立場でしかない、彼らはそう考えるのだ。このような考え違いが起きるのは、少なくとも部分的には、科学理論の実体をまったく理解していないためだと思われる。
よくある考え違いにはもう1つ、科学理論はヒトの知覚にもとづいているから必然的に相対的なものであり、したがって本当の世界については何一つ伝えていないのだ、というのもある。特定の“ポストモダン学派”によると、科学は経験的世界が実際にはどういうものかという事実の描写を、私たちに与えているとは主張できない;科学は経験的世界が科学者には一体どう見えるのかを伝えているのにすぎないというわけだ。科学理論はすべて、単なるフィクションにすぎない。だがしかし、事実を見るための、たった1つの、本物の、究極の、神のような方法が存在しないからといって、科学的事実など存在しないということにはならない。最初の原子爆弾が一部の科学者らの予測したとおり爆発したとき、経験的世界に関する新たな事実がほんの少し明らかになった。私たちは、何が事実で何が誤りかを、科学理論を経験的に検証することによって、少しずつ見い出しているのだ。宇宙探索を可能にした理論が“相対的なものにすぎず”、事実の“一面的な見解を示しているにすぎない”などと主張するのは、科学と科学的知識の実態を完全に誤解しているということである。
暗闇で灯すロウソクとしての科学
科学とは、カール・セーガンが述べたように、暗闇で灯すロウソクである。私たちの先祖はオカルトや超自然的力を畏れ、これらを捉えようと試みて苦闘したが、それは生き抜くために当然のことだった。だが、科学は私たちの周りの世界に光を当てて、私たちが迷信や恐れを乗り越えて、無知や妄想を乗り越えて、そして私たちの祖先の魔術的思考を乗り越えて周囲を見渡すことができるようにしてくれるのだ。
ジャコブ・ブラナウスキーは彼の著書ヒトの進歩(Ascent of Man)のテレビ版のワンシーンで、この見解を余すところなく述べている。“知識と確かさ”の回を私は引用しよう。この回の物語で彼はアウシュビッツへ行き、犠牲者の遺灰が捨てられた池に入り、身をかがめて汚泥を手ですくった。
科学は人々の人間性を奪い、たんなる統計数字にしてしまうと言われています。それは間違いです。ひどい間違いです。よく考えてみてください。ここはアウシュビッツにある強制収容所と火葬場です。ここは人々が統計数字にされてしまった場所です。この池にはおよそ400万人もの遺灰が捨てられました。そしてこうしたことが起きたのは、ガスのせいではありません。無知のせいなのです。これこそが、人々が実際の検証もなしに絶対的な知識を持つと信じたときに、おこなわれることなのです。これこそが、人が神の知識を熱望したときになすことなのです(374)。
科学的に考えるコツは、確証バイアスやないものねだり、自己欺瞞、選択的思考、主観的な評価、組織的強化、その場しのぎ仮説、そしてあとづけの合理化を避けるために、実際に検証する方法を知ることである。健全な懐疑精神と、必要に応じてオッカムの剃刀を使う能力を身につけるのも必要である。
関連する項目:オルタナティブ科学 (alternative science)、自然主義 (naturalism)、疑似科学 (pseudoscience)。それに論理・科学とクズ科学・疑似科学の各項目。
*この項目は私の Becoming a Critical Thinker 第9章“科学と疑似科学”から採ったものである。‘科学’が何らかの研究対象に関するあらゆる知識のシステマチックな総体とも見なされていることや、それに数学や、神学さえも、ときとして科学と見なされることも私は知っている。この項目は明らかに、‘科学’という語の考えられうるあらゆる用法を定義しようとしたものではない。私がここで取り上げている科学は、ふつう自然科学と呼ばれるものだ。私はこの項目で、何が‘本物の’科学で何がそうでないか、なとといったことで論陣を張ろうとしているわけではないし、ある方法論に沿った学問や活動がはたして科学たりうるかどうかという“境界”問題について深入りするつもりもない。
訳者コメント:本文中の knowledge という語を、ぼくは知識と訳しているけど、これには異論がある人もいるかもしれません。日本語で知識というと、「知識偏重教育」といったように「丸暗記すべきデータ」という意味合いだけで捉えられてしまう場合が多いからです。ここで述べられている knowledge は考える力という意味なので、本当は「知」と訳すべきなのかもしれませんが、知という語は一般にあまりなじみがないし、やみくもに難解にしてしまうのもマズいと思ったので、あえてよく知られている知識という語を用いました。
参考文献
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Carl Sagan, The Demon-Haunted World: Science as a Candle in the Dark (New York:Random House, 1995). $11.20 カール・セーガン, カール・セーガン 科学と悪霊を語る.青木 薫 訳.新潮社.
Alan Sokal, and Jean Bricmont. Fashionable Nonsense: Postmodern Intellectuals' Abuse of Science (St. Martin's Press, 1998). $16.10 アラン・ソーカル,ジャン・ブリグモン,「知」の欺瞞─ポストモダン思想における科学の濫用.田崎晴明,大野克嗣,堀 茂樹 訳.岩波書店.
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