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ジョージ・オーウェル『1984年』第 II 部

第1章  第2章  第3章  第4章  第5章  第6章  第7章   第8章  第9章


第1章

 

 

 午前中の最中で、ウィンストンは自分の区画を離れて便所に向かった。

 長い、照明の明るい廊下の向こう端から一人こちらに向かってきた。黒髪の女子だ。あの古物商の外で出くわした晩からすでに四日経つ。近づいてきたのを見ると、右腕が吊り包帯で釣られているのがわかった。オーバーオールと同じ色だったので、遠目にはわからなかったのだ。おそらく小説の筋書きが「押し込まれる」ときにあのでかい万華鏡をふりまわして、手をつぶしてしまったのだろう。創作部ではよくある事故だった。

 二人が四メートルほどまで近づいたときに、女子はつまずいて、ほとんど顔から転びそうになった。鋭い痛みの叫びが彼女から絞り出された。怪我をした腕の上にまっすぐ転んだのだろう。ウィンストンは足を止めた。女子は身を起こして膝立ちになった。その顔は白濁した黄色い色になり、それを背景に口がいつになく赤く浮かび上がった。目はこちらの目とあわせられ、そこに浮かんだ訴えるような表情は、痛みより恐怖のように思えた。

 ウィンストンの頭に奇妙な感情が湧いた。目の前にいるのは自分を殺そうとしている敵だ。同時に目の前にいるのは人間という生き物で、苦しんでおりおそらく骨折している。すでにかれは本能的に、助けようと前に出つつあった。転んで包帯を巻いた腕が下敷きになったのを見た途端、まるで自分の身体に痛みを感じたように思えた。

「怪我は?」とかれ。

「なんでもありません。腕が。すぐによくなります」

 まるで動悸がしているような話しぶりだった。蒼白になったのはまちがいない。

「何か折れてませんか?」

「いえ、だいじょうぶです。しばらく痛みますが、それだけ」

 彼女は自由な手を差し伸べ、かれは彼女が立ち上がるのを手伝った。顔色が少し戻り、ずっと快方に向かったようだった。

 彼女はきっぱり繰り返した。「なんでもありません。手首を少しぶつけただけです。同志、ありがとう!」

 そしてその一言と共に、彼女はこれまで進んでいた方向に歩き続け、本当に何事もなかったような足早ぶりだった。この一見すべては、三十秒もかからなかったはずだ。気持を顔に出さないようにするのは、すでに本能の域に達した習慣ではあり、そもそも二人はそれが起きたとき、テレスクリーンの真ん前に立っていたのではある。それでも、一瞬の驚きを示さないようにするのはとてもむずかしかった。というのも立ち上がるのを助けているほんの二、三秒ほどの間に、女子は何かをこちらの手にすべりこませたのだ。彼女がそれを意図的にやったのは疑問の余地がなかった。何か小さく平らなものだった。トイレのドアを通り抜けたところで、かれはそれをポケットに移して指先で触れてみた。四角く畳んだ紙切れだ。小便器に向かって立っている間に、もう少し指先でいじって、それを開けた。明らかにそこには、何やらメッセージが書かれているにちがいない。一瞬、それを大便室に持ち込んですぐに読みたい衝動にかられた。だがそれが驚くほどの愚行だというのは十分承知していた。テレスクリーンが常に見張られているのが、そこ以上に確実な場所などないのだ。

 かれは自分の小区画に戻り、紙切れをさりげなく机の上の他の紙切れにまぜて投げだし、メガネを掛けて話筆機を引き寄せた。「五分、最低でも五分だ!」とかれは自分に言い聞かせた。胸の中で心臓は恐ろしいほどの音量で鼓動した。ありがたいことに、やっていた仕事はただの定型作業で、長い数字の一覧を修正するだけだったからそんなに集中する必要はなかった。

 紙に書かれたものがなんであれ、何かしら政治的な意味を持つにちがいない。考えられる可能性は二つあった。可能性がずっと高いのは、あの女子は恐れたとおり思考警察のエージェントだというものだ。なぜ思考警察がこんな形でメッセージを配信しようとするのかはわからなかったが、何か理由があるのだろう。紙切れに書かれているのは、脅し、召喚、自殺命令、何らかの罠かもしれない。だが別の、もっと壮絶な可能性があり、押さえつけようとする努力の甲斐もなく、絶えずそれが頭をもたげ続けるのだった。そのメッセージは思考警察からきたものではまったくなく、何か地下組織からきたものだ、という可能性だ。友愛団は本当に実在したのかもしれない! あの女子はその一員なのかも! まちがいなくバカげた考えではあったが、紙切れを手に感じたその瞬間に、それが頭に湧き上がってきたのだ。もっとあり得そうな他の考えに思い当たったのは、やっと数分過ぎてからのことだった。そしていまだに、頭はこのメッセージがおそらく死を意味すると告げているのに、かれはそうは信じて折らず、法外な希望はしつこく続き、心は高鳴り、数字を話筆機につぶやくときの声が震えないようにするのも苦労したほどだった。

 仕上がった作業の束を丸めて気送管にすべりこませた。八分たっていた。鼻のメガネを調整しなおし、ため息をついて、次の仕事の束を引き寄せたが、そのてっぺんにあの紙切れが載っている。彼はそれを平らにのばした。そこには、大きな雑然とした手書きでこう書かれていた。

あなたを愛しています。

 数秒にわたり、あまりに愕然として、この罪に問われる代物を記憶穴に投げ込むことさえできなかった。そして投げ込んだときも、あまりに興味を示しすぎるのは危険だと十分にわかっていたのに、どうしても読み返して、その言葉が本当にそこにあるのを確認せずにはいられなかった。

 その午前中の残りは、仕事がほとんど手に着かなかった。一連のつまらない作業に頭を集中させるよりなおさらひどいのは、自分の興奮をテレスクリーンから隠す必要があることだった。腹の中で炎が燃えさかっているような感じがした。暑く混雑した騒音だらけの食堂での昼食は苦悶だった。昼食時には少しでも一人きりになりたいと期待していたが、ツイていないことに、あの愚鈍なパーソンズが隣にどっかり腰を据え、シチューの安っぽい匂いをほとんど圧倒するほどのすえた汗のにおいを放ちつつ、憎悪週間の準備についてしゃべり続けたのだった。彼は特に、ビッグ・ブラザーの頭部の紙粘土模型に熱をあげていた。幅二メートルで、スパイ団のかれの娘の部隊がこのために作っているのだという。苛立たしいのは、まわりでみんな大声を張り上げているので、ウィンストンはパーソンズの言うことがほとんど聞き取れず、絶えずまぬけな発言を繰り返すよう頼まねばならないということだった。一度だけ、あの女子の姿をちらりと見かけた。部屋の向こう端で、他に二人の女子とテーブルについている。こちらに気づいていない様子だったし、かれもその方向を二度と見ないようにした。

 午後は多少はしのぎやすかった。昼食後すぐに、微妙でむずかしい作業がやってきて、数時間かかるし他のすべては脇に置いておかねばならなかった。二年前の一連の生産報告を偽造する作業で、いまや疑惑のかけられている党中心の有力者の信用を落とすような形でそれを行うのだ。この手の作業はウィンストンが得意とするもので、二時間以上にわたりあの女子を頭から完全に閉め出すのに成功した。だがそれが終わると彼女の顔の記憶が戻ってきて、それとともに一人きりになりたいという燃えさかる耐えがたい欲望がやってきた。一人きりになるまでこの新しい展開を考え抜くのは不可能だ。今夜はコミュニティセンターで過ごす夜の一つなのだった。彼は食堂でまた味のしない食事をかきこみ、センターに急いで、「討論グループ」の荘厳なばかばかしさに参加し、卓球を二試合やって、ジンを何杯か飲み干し、「チェスで学ぶ英社主義(イングソック)」という講義を半時間すわって聞いた。精神は退屈のあまりもがき苦しんだが、このときばかりはセンターでの一晩をサボろうという衝動は起きなかった。「あなたを愛しています」の言葉を見て、生き延びたいという欲望が湧き起こり、ちょっとした危険を犯すのも急にバカげたことに思えた。連続して考え続けられるようになったのは、やっと23時になって、帰宅してベッドに入ってからだった——暗闇の中、だまってさえいればテレスクリーンからも安全な場所だ。

 解決が必要な物理的問題だった。どうやってあの女子と接触して会合を手配しようか? もはや彼女が何か自分に罠をしかけているのではという可能性は考えなかった。そんなことがないのはわかっていた。あのメモを渡したときの彼女はまちがいなく焦っていたからだ。明らかに彼女は怯えきっていた。無理もない。またその申し出を拒絶するという考えは、思い浮かびさえしなかった。たった五夜前には、敷石で彼女の頭蓋骨を叩き潰そうかと考えていたのに、もはやそれはどうでもよかった。夢の中で見た、彼女の若々しい裸身を考えた。他のみんなと同じバカで、頭はウソと憎悪に満ち、腹は氷が詰まっているものと想像していた。彼女を失うかもしれない、白い若々しい肉体が自分の手から滑り落ちてしまうかもしれない、と考えるとある種の熱にとらわれた! 他の何よりもこわかったのは、すばやく接触しないと彼女があっさり気を変えるかも知れないということだった。だが会うための物理的困難はすさまじかった。すでにチェスで詰んでいるのに駒を動かそうとするようなものだ。どっちを見てもテレスクリーンが見ている。実のところ、彼女と連絡を取る方法として考えられるものはすべて、あのメモを読んで五分以内に思いついた。だがいまや、考える時間ができたので、それをテーブルに道具を一列に並べるうように、一つずつ検討していった。

 当然ながら今朝起きたような遭遇を繰り返すわけにはいかなかった。記録部で彼女が働いていたなら、比較的単純だっただろうが、創作部が建物の中のどこにあるかなど、漠然としたイメージしかなかったし、そこへでかける口実もなかった。どこに住んでいるかわかって、出勤時間がわかれば、なんとか無理をして帰宅途中に彼女とどこかで会う算段もできる。だが彼女を家まで尾行するのは危険だ。省の外でうろうろしなくてはならず、必ず気づかれてしまう。郵便で手紙を送るとなると、これは問題外だった。あらゆる手紙は配達中に開封されるというのは、あまりにお定まりでもはや秘密ですらなかった。それを言うなら、手紙を書く人などいないも同然だった。たまにメッセージを送らねばならないときには、長いフレーズの一覧が書かれた印刷済のはがきがあり、あてはまらないものを線で消すのだ。いずれにしても、彼女の住所どころか、名前すら知らないのだ、最後にかれは、最も安全な場所は食堂だと判断した。テレスクリーンにあまり近くない、部屋の真ん中にあるテーブルに一人ですわってもらえれば 、そしてそこら中に十分な騒々しい会話があれば——そうした条件が、そうだな、三十秒も続けば、何語かやりとりができるかもしれない。

 その後まる一週間の人生は、落ち着かない夢のようだった。翌日、彼女は、すでに笛が吹かれてこちらが立ち去る間際まで食堂にあらわれなかった。おそらく遅いシフトに変更されたのだろう。二人は目も合わせずにすれちがった。その翌日に彼女はいつもの時間に食堂にいたが、他に三人の女子といっしょで、しかもテレスクリーンの真下だった。そして恐ろしい三日にわたり、彼女はまったく姿を見せなかった。かれの心身はすべて、耐えがたい敏感さ、ある種の透明性にやられてしまったようで、あらゆる動き、あらゆる音、あらゆる接触、話したり聞いたりしなければならないあらゆる単語が苦悶に変わるようだった。眠りの中でも彼女の姿から完全に逃れることはできなかった。この日々には日記には触れなかった。救いがあるとすればそれは仕事であり、仕事中は十分ほど続けて我を忘れることができた。彼女に何が起きたかはまったく見当もつかなかった。調べる方法も皆無だった。蒸発させられたか、自殺したか、オセアニアの向こう端に異動になったかもしれない。最悪で最もありえそうなのは、単に気が変わって自分を避けることにしたのかもしれない。

 翌日彼女は再び姿をあらわした。腕の吊り包帯ははずれ、手首には石膏の帯が巻かれていた。彼女の姿を見た安心感はあまりに大きかったので、数秒にわたり彼女をまじまじと見つめるのを我慢できなかった。翌日には、ほとんど彼女に話しかけるのに成功しかけた。食堂に入ってきたとき、壁から十分離れたテーブルにすわっており、一人きりだった。時間がはやくて、満員というほどではなかった。列がゆっくりすすんで、ウィンストンはほぼカウンターまでやってきたが、そこで前にいるだれかが、サッカリン錠をもらっていないと苦情を申し立てたので、二分ほど足止めをくらった。だがウィンストンがトレーを確保して、彼女のテーブルのほうに向かったときも、彼女はまだ一人きりだった。さりげなくそちらに歩き、目は彼女の向こうにあるテーブルに空きがないか探した。彼女は三メートルほども離れていただろうか。あと二秒で行ける。そのとき、背後から声がよびかけた。「スミス!」かれは聞こえなかったふりをした。「スミス!」とその声は、さらに大きく繰り返した。仕方ない。彼はふりむいた。ブロンドでバカそうな顔をしたウィルシャーという若者が、ほとんど知り合いでもないのに、自分のテーブルの空席にニッコリと招いていた。断るのは安全ではなかった。気がつかれてしまった今となっては、だれもいない女性のテーブルにでかけてすわるわけにはいかない。あまりに目立つ。かれは親しげな微笑を浮かべてすわった。バカそうなブロンドの顔が正面から迫ってきた。ウィンストンは、そのど真ん中にピッケルをたたきつける幻影を見た。女子のテーブルは数分後に埋まった。

 だが彼女も自分が向かってくるのを見たはずで、それで気づく点もあったかもしれない。翌日彼は、早めに着くように配慮した。すると案の定、彼女はほぼ同じあたりのテーブルにいて、今度も一人きりだった。行列のすぐ前にいる人物は、小柄ですばやく動く、カナブンのような人物で、平らな顔と、小さな疑い深そうな目をしていた。ウィンストンがトレーを持ってカウンターから離れようとすると、この小男がまっすぐ彼女のテーブルに向かっているのがわかった。また希望が沈んだ。もっと向こうのテーブルには空席があったが、小男の外観の何かが、最も人の少ないないテーブルを選ぶほど自分の快適性を重視する人物だろうと示唆していた。心臓が凍り付くような主で、ウィンストンは小男のあとにしたがった。彼女と二人きりになれないと意味がない。この瞬間、すさまじいガシャンという音がした。小男は腹ばいになり、トレーは吹っ飛び、スープとコーヒーの後が二つ床一面に飛び散っていた。彼は恨みがましい目をウィンストンに向けつつ立ち上がりはじめた。かれをつまずかせたのではと疑っているのは明らかだった。だがどうでもいい。五秒後に爆音のような鼓動を響かせつつ、ウィンストンは彼女のテーブルにすわっていた。

 彼女を見たりはしなかった。トレーを置いて、すぐに食べ始めた。一気に話すのがなにより重要だ。他のだれかがくる前に。だがいまや恐ろしい恐怖に囚われてしまった。最初に接触されてから一週間がすぎた。心変わりしたかもしれない。まちがいなく心変わりしたはずだ! こんな情事が成功裏に終わるわけがない。こんなことは現実の人生では起きないのだ。尻込みしてまったく口をきけなかったかもしれないが、その瞬間にアンプルフォースが目に入った。耳が毛だらけの詩人で、トレーを持って部屋の中をヨタヨタとさまよい、すわる場所を探しているのだ。アンプルフォースは何かばくぜんとウィンストンに惹かれていて、見つかればまちがいなくこのテーブルにすわる。行動時間は一分ほどしかない。ウィンストンも女子もたゆまず食べ続けた。食べているのはうすいシチュー、というかハリコット豆のスープだった。低いつぶやきでウィンストンは話しはじめた。どちらも顔をあげなかった。水っぽい代物をスプーンで着実に口に運び、スプーンの合間に必要なことばを、低い感情のない声でやりとりした。

「仕事あがりは?」

「18時30」

「どこで会える?」

「勝利広場、記念碑近く」

「テレスクリーンだらけだ」

「群集があれば関係ないから」

「合図は?」

「なし。あたしが大勢に混じっているのを見るまではこないで。それをこっちを見ないで。ただどこか近くにいて」

「時間は?」

「19時」

「わかった」

 アンプルフォースはウィンストンを見つけそこない、別のテーブルにすわった、二人はそれ以上口をきかず、同じテーブルの対角線上にすわった二人に可能な限り、お互いを見なかった。女子は昼食をさっさと食べ終えて立ち去り、ウィンストンはそこにとどまってタバコを吸った。

 ウィンストンは指定時間前に勝利広場に着いた。溝の刻まれた巨大な柱の根本のまわりをうろついた。そのてっぺんではビッグ・ブラザーの彫像が、エアストリップ・ワンの戦いで、かれがユーラシアの飛行機 (数年前にはイースタシアの飛行機だったが) を殲滅させた、あの南方の空を見つめていた。目の前の街路には、馬にまたがった人物の彫像があり、それがオリヴァー・クロムウェルなのだとされていた。予定時間を五分すぎても彼女はまだ姿を見せていなかった。またもやひどい恐怖にとらわれた。来ないんだ、気が変わったんだ! かれはゆっくりと広場の北側に歩いて、セントマーチン教会が見分けられたので、何か色あせた歓びのようなものを感じた。その鐘は、鐘があったときには「お代は三ファージング」と鳴ったのだ。そのとき彼女が、彫像の根本に建っている野を見た。その柱にらせん状にはられたポスターを読むか、読むふりをしている。もっと人が集まるまで、近づくのは危険だった。ペディメントのまわり中にテレスクリーンがあった。だがその瞬間に、叫び声が轟いて、どこか左のほうから重車両の轟音が響いてきた。いきなり、みんなが広場を走って横切っているようだった。彼女は身軽に記念碑の根本にあるライオンのまわりを跳び越えて、その群集に加わった。ウィンストンも続いた。走りながら、まわりの叫び声を元に、ユーラシアの囚人たちを乗せた車団が通過するのだと知った。

 すでに高密の群集が広場の南側をふさいでいた。ウィンストンは、ふつうならどんな集団でも外周部にひかれる人物ではあったが、押して、突き飛ばし、前に進んで群集の中心にもぐりこんだ。やがて女子に腕をのばせば届くところまできたが、間に巨大なプロレと、同じくらい巨大な女性、おそらくはかれの妻が立ちはだかり、貫通不能の肉体の壁を形成しているようだった。ウィンストンは横のほうに身をもがいて、思いっきり押し込んで、何とか二人の間に肩を押し込んだ。一瞬、その筋肉質の尻二つの間で、内臓がぐちゃぐちゃに潰されるような気がしたが、少し汗をかきつつなんとか突破した。彼女の隣だった。肩を並べ、二人ともじっと前だけを見ている。

 軽機関銃で武装したこわばった表情の衛兵たちが四隅に立つ、長いトラックの行列が、ゆっくりと通りを下っていた。そのトラックには、チビの黄色人種たちが、貧相な緑がかった制服を着てしゃがみこみ、密集して詰め込まれていた。その悲しい蒙古系の顔立ちが、何の興味も示さずにトラックの横から外を眺めていた。たまにトラックがゆれると、金属のぶつかる音がした。囚人たちはみんな足枷をされているのだ。その悲しい顔が次々にトラックいっぱいに積み込まれて通り過ぎる。ウィンストンは彼らがそこにいると知っていたが、たまに目に入るだけだった。彼女の肩と、その腕がひじまでずっとこちらに押しつけられていたからだ。その頬があまりに近くて温かみが感じられそうだった。彼女はすぐに状況を制した。食堂でやったのと同じだ。以前と同じ無感情な声で話し始め、唇はほとんど動かさず、声の喧噪とトラックの轟音ですぐにかき消される、ただのつぶやきで語り出した。

「聞こえる?」

「うん」

「日曜午後は休める?」

「うん」

「ならしっかり聞いて。全部覚えて。パディントン駅に行って——」

 驚くほどの軍事的な精度をもって、彼女はとるべき道筋を説明した。鉄道で半時間移動。駅の外で左折。道沿いに二キロ。てっぺんのバーがはずれた門。草原を横切る小径。草の生えた小径。茂みの間の通路。コケの生えた枯れ木。頭の中に地図があるかのようだった。「全部覚えた?」最後に彼女はそうつぶやいた。

「うん」

「左折、右折、また左折。門はてっぺんのバーがない」

「うん。時間は?」

「15あたり。待たせるかも。あたしは別の道で行く。本当に全部覚えた?」

「うん」

「なら急いで離れて」

 それは言われるまでもなかった。だがその瞬間には、二人は群集から抜け出せなかった。トラックはまだ列をなして通過中で、人々はまだ飽き足りないかのように見とれていた。当初は罵声や冷やかし声もいくつかあったが、それを発しているのは群集の中の党員だけで、それも間もなくとまった。あたりに満ちた感情は単なる好奇心だった。外国人はユーラシアからだろうとイースタシアからだろうと、一種の珍獣なのだ。囚人以外の形でそいつらを目にすることは、文字通り決してなかったし、囚人としてですら、ほんの一瞬かいま見られるだけだ。また戦争犯罪者として絞首刑になる数名を除けば、そいつらがどうなるのかは、だれも知らなかった。丸い蒙古系の顔に続いて、もっとヨーロッパ型の顔がやってきた。汚く、ひげ面で疲れ切っている。汚い頬骨の上にある目がウィンストンと目をあわせ、ときには不思議なほど強烈に見つめてから、またすぐ目をそらした。車団はそろそろ終わりかけていた。最後のトラックには老いた男がいるのが見えた。その顔はもじゃもじゃの毛の固まりで、まっすぐ建って手首を前で交差させ、まるでそれを縛られるのは慣れているとでもいうようだった。今にもウィンストンと彼女が別れる時がくる。だが最後の瞬間、群集にまだ封じ込められているときに、彼女の手がこちらの手を探して、かすかに握りしめた。

 十秒もたったはずはなかったが、二人の手が握られていたのはずいぶん長い時間に思えた。彼女の手のあらゆる細部を学ぶ時間があった。長い指、形のいい爪、仕事で固くなった、豆のならぶ手のひら、手首の下のなめらかな肉をかれは探索した。触れただけで、もう見ればわかる。その瞬間に、彼女の目の色を知らないのに思い当たった。たぶん茶色だろうが、黒髪の人が青い目をしているときもある。頭をめぐらせて彼女の方を見るのは、考えられないほどの愚行だ。手を握りあいつつ、肉体の圧力の中でだれにも見られず、二人はしっかり前をみつめ、すると女子の目ではなく高齢の囚人の目が、髪のかたまりの中からウィンストンを悲痛に見つめるのだった。

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第2章

 

 

 光と影のまだらの中、小径を通り抜けると、大枝が別れているところでは必ず黄金の陽だまりに出た。左側の木々の下では、地面はブルーベルで湿っていた。空気が肌に口づけするようだった。五月二日だ。森のもっと深い深奥からはモリバトの鳴き声が響いてきた。

 少し早すぎた。道筋については何の苦労もなく、彼女は明らかに実に経験豊富だったから、かれも通常ほどは怯えていなかった。おそらく彼女なら安全な場所を見つけられると信じてよかろう。一般には、ロンドンより田舎のほうが特に安全と想定はできなかった。もちろんテレスクリーンはなかったが、いつも隠しマイクの危険があり、声が拾われて認識されかねない。さらに一人きりで出かければどうしても注意を引いてしまう。百キロ以下の距離ならパスポートに承認印をもらう必要はなかったが、ときには鉄道駅にパトロールがうろついていて、党員をみつけたら全員の書類を検分し、面倒な質問をするのだ。だがパトロールは登場せず、駅からの歩きでは、慎重にちらちら振り返って、尾行されていないのを確かめた。列車はプロレだらけで、夏めいた天気のおかげでみんな休日気分だった。乗ってきた木製シートの客車は、ある巨大な一家であふれかえるほどの満員ぶりで、歯なしの曾祖母から生後一ヶ月の赤ん坊までいて、それが田舎の「義理の家族」と午後を過ごすためにでかけるという。そして尋ねもしないのに、ちょっとばかり闇市のバターも手に入れるのだと説明してくれた。

 小径は広がり、一分もしないうちに彼女の言った通路にやってきた。ただの獣道でしかないものが、茂みの間をぬけている。腕時計はなかったが、まだ15時ではないはずだ。足下のブルーベルが実に密生していたので、踏みつけずにはいられなかった。ひざまずいて、いくつかを摘んだ。暇つぶしもあったが、会うときに女子に花束を渡したいと漠然と思ったからでもある。でかい束を作り、そのかすかで弱々しい香りを嗅いでいたとき、背後で物音がして凍り付いた。まちがいなく踏まれて折れた小枝の音だ。かれはブルーベル摘みを続けた。それがいちばんいいやり方だ。彼女かもしれないし、結局後をつけられていたのかもしれない。振り向けば罪悪感を示すことになる。次々に積み続けた。すると肩に軽く手が置かれた。

 目をあげた。彼女だった。首を振ってみせたのは、明らかに静かにしていろという警告で、それから茂みをかきわけて、急いで狭い通路を先導して森の中に入った。明らかに前も来たことがあるのだ。というのも地面のぬかるんだ部分をほとんど習慣のように避けたからだ。ウィンストンは、まだ花束を握りしめて後にしたがった。まずはホッとしたものの、力強い装い肉体が自分の前を動いていくのを眺め、深紅の腰帯がヒップの曲線をちょうど引き出すように巻かれているのを見ると、自分がいかに見劣りするかひしひしと感じられた。この瞬間ですら、彼女がふりむいて自分を見たら、やっぱりやめておこうと思うことも十分にあり得た。空気の甘さと葉っぱの緑がかれをひるませた。すでに駅から歩いてくる間に、五月の日差しで自分が汚く蒼白く感じられ、屋内の生き物で、肌の毛穴にすすまみれのロンドンのほこりが詰まっているように感じた。彼女はこれまで、開けた場所で明るい日差しの下で自分を見たことがないだろうと思い当たった。彼女が話していた、倒木のところにやってきた。彼女はそれを跳び越えて、力任せに茂みをかきわけた。そこに開けた場所があるようには見えなかった。ウィンストンが従うと、自然の空き地にやってきたのがわかった。小さな開けた草地で、それが背の高い若木に囲まれて完全に閉ざされている。女子は立ち止まって振り返った。

「着いたよ」と彼女。

 数歩離れて向き合った。まだとても近づく気にはならなかった。

「小径で何も言いたくなかったのは、隠しマイクがあるかもしんないから。たぶんないとは思うけど、あるかも。いつもあのブタどものだれかが、こっちの声を認識する可能性はあるし。ここなら大丈夫」

 まだ近づくだけの勇気が出なかった。「ここなら大丈夫?」かれはまぬけに繰り返した。

「ええ、木を見てよ」小さなトネリコで、しばらく前に切り倒されてから、また生えてきて小枝の森林となり、その枝のどれも手首ほどの太さもない。「マイクを隠せるほどの大きさのものはないよな。それにここには前にもきたし」

 間を持たせるための会話でしかなかった。かれはもう彼女に近づけるようになった。彼女はまっすぐ背をのばして横にたち、顔に浮かんだ微笑はかすかに皮肉っぽく、まるでなぜ彼がそんなにためらっているのか不思議に思っているかのようだった。ブルーベルは地面にこぼれ落ちて積み上がっていた。ひとりでに落ちたかのようだった。彼女の手を取った。

「信じられないだろうが、この瞬間まで君の目が何色か知らなかった」 茶色か、とかれは認識した。茶色でもうすい茶色で、まつげが濃い。「こうして私の実際の姿を見て、私を見ても我慢できるのか?」

「うん、全然」

「私は三十九歳。妻がいて始末できない。静脈瘤もある。入れ歯が五本」

「全然どうでもいい」と彼女。

 次の瞬間、どちらが動いたかはわからないが、彼女が腕の中にいた。当初は、まったく信じられないという思いしかなかった。若々しい肉体が自分の身体に押しつけられ、黒髪の固まりが顔に当たり、そして、すごい! 本当に彼女は顔を上げて、ウィンストンはその広い赤い口にキスしていたのだった。その腕をこちらの首に巻きつけて、愛しい人、大切な人、大好きと呼んでいた。地面に押し倒しても、まったく抵抗せず、好きにしていいのだった。だが本当のことを言えば、単なる接触以上の肉体感覚はなかった。感じたのは信じられなさと誇りだった。これが起きているのは嬉しかったが、肉体的な欲望はない。あまりにはやすぎる。彼女の若さときれいさにかれは怯えた。女なしで暮らすのに慣れすぎていたのだ——理由がわからなかった。女子は身体を起こし、ブルーベルを髪から引っ張り出した。そして寄り添ってすわり、腕をこちらの腰に回した。

「あわてなくても大丈夫。午後ずっとあるんでしょ。すばらしい隠れ家だと思わない? コミュニティハイキングで前に迷子になったときに見つけたんだ。だれかが近づいてきても、百メートル先から聞こえる」

「君の名は?」とウィンストン。

「ジュリア。あなたのは知ってる。ウィンストン——ウィンストン・スミス」

「どうしてわかった?」

「そっちよりも調べごとはうまいつもりなんだけどね、愛しい人。ねえ、あのメモを渡す日より前には、あたしのこと、どう思ってた?」

 ウソを告げようという誘惑は一切感じなかった。最悪のことをまっ先に語るのは、一種の愛の告白ですらあった。

「見るだけでいやだった。強姦してから殺したいと思ったよ。二週間前には、その頭を敷石でかち割ってやろうかと本気で考えた。本当のことを言えば、君が思考警察の関係者だろうと思っていたよ」

 彼女は大喜びで笑った。明らかにこれを、自分の変装の優秀さに対する讃辞と受け取ったのだ。

「やめてよ、思考警察だなんて! 本気でそんなこと思ったの?」

「まあ、ずばり思考警察とは言わないがね。だが君の全般的な外見——とにかく君が若くて新鮮で健康だというだけでだよ、おわかりだろうが——君がおそらくは——」

「立派な党員だと思ったんだろ。発言も行いも純粋。横断幕、行進、スローガン、ゲーム、コミュニティハイキングとかその手のいろいろ。そしてちょっとでもチャンスがあったら、あなたを思考犯罪者として告発して殺させるとでも思った?」

「うん、そんなところだ。若い女子の大半はそんな具合だからね、ご存じの通り」

「このろくでもない代物のせいだよ」と彼女は青年反セックス連盟の深紅の腰帯を引きちぎり、それを枝に投げかけた。そして、まるで自分のウェストに触れて何かを思いだしたかのように、オーバーオールのポケットを探って、小さなチョコレートの固まりを取り出した。それを半分に割り、片方をウィンストンにくれた。食べないうちから、それがきわめて珍しいチョコレートなのはわかった。暗く光り、銀紙に包まれているのだ。チョコレートは通常、鈍い茶色のボロボロした代物で、その味は、何と表現したものか強いて言うなら、ゴミを焼いたときの煙のようだった。だがいつだったか、彼女がくれたようなチョコレートを味わったことがあった。その香りを一嗅ぎしただけで、何かはっきり特定できない記憶が甦ってきたが、強力で心乱れるものなのはまちがいなかった。

「これ、どこで手に入れた?」

「闇市」と彼女は平然と言った。「実はあたし、まさにそんな具合の女子だから。外見はね。スパイ団では班のリーダー。青年反セックス連盟のボランティアを週に三夜やるし。何時間も何時間も、あのろくでもないクズをロンドン中に貼って回んの。行進ではいつも横断幕の端を持つようにして。いつも快活で、絶対何もサボらない。いつも群集と怒鳴れ、というのがモットー。それしか安全でいられないからさ」

 チョコレートの最初のかけらがウィンストンの舌の上で溶けた。すばらしい味だった。だが意識のふちのほうで動き回っている記憶がまだあった。何か強くかんじられつつも、明確な形をとっておらず、横目でとらえた物体のような記憶が。彼はそれを脇に押しやった。それが、取り消したいのにもはや取り消せない、何か行動の記憶だということしかわからなかった。

「君はずいぶん若い。私より十歳か十五歳は年下だ。私のような男のどこに魅力を見出したんだ?」

「顔の何かかな。運試しをする気になったから。おさまりの悪い人を見つけるのはうまいからね。初めて見たときから、あいつらに逆らっているのは確信したんだ」

 あいつら、というのは党のこと、とくに党中央のことらしい。そいつらについて、彼女は公然と嘲るような憎悪をもって語ったのでウィンストンは落ち着かない気分になったが、どこか安全でいられる場所があるとすれば、ここはまちがいなく安全だというのもわかっていた。彼女について驚愕させられたのは、粗野な口ぶりだった。党員は罵倒語など使わないはずで、ウィンストン自身もほとんど罵倒語は使わなかった。少なくとも声に出しては。だがジュリアは、党、特に党中心について語るときには、小便まみれの路地にチョークで書かれているような言葉を使わずにはいられないようなのだった。決していやではなかった。単に党やそのやり口に対する反逆の一症状でしかなく、なぜだかそれが自然で健全に思えたのだ。まるで腐った藁をかいだときの、馬のくしゃみのようなものだ。二人は空き地を離れ、木漏れ日があちこちに見える木陰を歩き、道が並んで歩くほど広くなったときには、お互いの腰に手を回すのだった。腰帯がなくなると、そのウェストがずっと柔らかく感じられるのに気がついた。二人とも声はささやきにとどめた。空き地をぬけると、静かにしたほうがいい、とジュリアは言った。やがて二人は小さな森の端まで来た。ジュリアはかれを止めた。

「開けたところには出ないで。見ている人がいるかもしれないから。大枝の後ろにいれば大丈夫」

 ハシバミの茂みの影に二人は立っていた。日差しは、無数の葉の間をぬけても、まだ顔に当たると暑かった。ウィンストンは向こうの草原を見渡し、奇妙な、ゆっくりした認識でショックを受けた。見てすぐわかった。古い、草が食べられた放牧地で、それを横切る歩道があり、あちこちにモグラ塚がある。反対側の荒れた茂みには、楡の木の大枝がそよ風のなかでごくかすかに揺れており、その葉が女の髪のように密なかたまりとなって、ささやかにそよいでいる。まちがいなくどこか近くに、視界からははずれているけれど、小川があって、緑の淀みにはデースが泳いでいるはずでは?

「近くに小川がないか?」かれはささやいた。

「あるよ、小川が。実は次の野原の端にあんの。魚もいて、すっごい大きいの。それが柳の下の淀みに寝て、尻尾をゆらしているのを見られるんだ」

「黄金の国——まさに」とかれはつぶやいた。

「黄金の国?」

「なんでもないんだ、本当に。ときどき夢で見る風景なんだ」

「見て!」ジュリアがささやいた。

 ほんの五メートルも離れていない、ほとんど二人の顔の高さにある枝に、ツグミが舞い降りた。二人が見えなかったのかもしれない。鳥はひなたで、二人は日陰にいたのだ。それは翼を一度ひろげてから、また慎重に畳んで、ちょっと頭を下げて、まるで太陽に何かお辞儀をするかのようで、そして流れるような歌をさえずりはじめた。午後の静けさの中で、その音量は驚異的だった。ウィンストンとジュリアは身を寄せ合い、魅了された。音楽はひたすら続き、一分ごとに驚くほどの変奏を示し、一度も同じものを繰り返すことなく、まるでその巧みさを意図的にひけらかしているかのようだった。ときどき数秒止まり、翼を開いてはまた畳み、それから斑点模様のついた胸をふくらませて、再び爆発するように歌い出した。ウィンストンはそれを、一種の漠然とした畏敬をこめて眺めた。あの鳥は、だれのために、何のために歌っているのだろうか? 伴侶もライバルも見てはいないのだ。それがだれもいない森林の端にとまり、何もないところに音楽を注ぐよう仕向けたのは何なのだろう? やはりどこか近くにマイクが隠されているのではと思った。かれとジュリアは低いささやき声でしかしゃべっておらず、二人の会話は拾われないだろうが、ツグミは聞かれたことだろう。その装置の向こう端では、チビのカナブンめいた男が熱心に聞いているかもしれない——あの鳥の歌を聴いているのだ。だが次第に、音楽の洪水があらゆる憶測を頭から追い出した。まるでそれが、全身に浴びせられた一種の液体で、それが木漏れ日と混ざり合ったかのようだった。かれは考えるのをやめ、ひたすら感じた。腕の曲がったところにおさまった彼女のウェストは柔らかくて温かかった。それを引き寄せ、胸を寄せ合った。彼女の身体がこちらに溶け込むかのようだった。手をどこに動かしても、水のように受け入れてくれる。二人の口が出会った。さっき交わしたハードなキスとはまったくちがう。二人が再び顔を離すと、どちらも深くため息をついた。鳥が怯えて、翼をはためかせて飛び去った。

 ウィンストンは彼女の耳に唇をよせた。「今だ」とささやいた。

 彼女はささやき返した。「ここじゃダメ。隠れ家に戻って。そのほうが安全」

 すばやく、ときどき小枝をピシピシと折りながら、二人は空き地へと戻っていった。いったん若木の輪の中に入ると、彼女は向きを変えて対面した。どちらもせわしい息づかいだったが、彼女の口の端に微笑が再びあらわれていた。立ってこちらを一瞬見てから、自分のオーバーオールのジッパーを探った。そして、そうだ! ほとんど夢の中と同じだ。想像したのと同じくらいすばやく、彼女は服をむしり取り、それを横に投げ捨てた動作は、文明を丸ごと殲滅させるかのごとき、あの壮大なる動きなのだった。彼女の身体は太陽の中で白く輝いた。だが一瞬、かれはその身体を見ていなかった。その目は、かすかで大胆な微笑をうかべた、そばかす顔に釘付けになっていた。かれは、彼女の前にひざまづき、相手の手を取った。

「これは前にもやったのか?」

「もちろん。何百回も——まあ、何十回ってところかな」

「党員と?」

「うん、いつも党員と」

「党中心の連中と?」

「あのブタどもとはやらないでしょ、絶対。向こうは、ちょっとでも機会があればやりたがる連中がいくらでもいるけど。表向きほどの聖人君子じゃないから、あいつら」

 心が踊った。何十回となくやったのか。それが何百回だったらよかったのに——何千回でも。腐敗を匂わせるものはすべて、荒々しい希望でかれを満たすのだ。わかるものか、党は一皮剥けば腐りきっていて、その奮闘努力と自己否定のカルトは、単に不正を隠すための隠れ蓑なのかもしれないぞ。その連中丸ごと、ライ病か梅毒に感染させられたら、もう喜んでそうするのだが! 腐敗させ、弱め、衰えさせるものなら何でも! 彼女を引き下ろして、二人が向き合ってひざまずくようにした。

「聞いてくれ。君が寝た男が多ければ多いほど、君が愛おしくなる。わかるか?」

「うん、完璧に」

「純潔が大嫌いなんだ。善良さなんか嫌いだ! どこにも美徳なんか一切ほしくない。みんなが骨の髄まで腐敗していてほしいんだ」

「おやおや、それならあたしでぴったりなはずね、愛しい人。骨の髄まで腐りきってるから」

「これをやるのは好きなのか? 私だけのことじゃない。やること自体が?」

「大好き」

 何よりも聞きたかったのはそれだった。単にある人間の愛だけでなく動物的本能、単純な無差別の欲望。それが党を粉々に引き裂く力なのだ。彼女を草の上に、こぼれ落ちたブルーベルの上に押さえつけた。今回は何の困難もなかった。すぐに二人の胸の上下動が通常速度にまで減速し、一種の喜ばしい脱力感の中で、二人は離れて転がった。日差しは暑くなったようだった。二人とも眠くなった。彼は脱ぎ捨てたオーバーオールに手を伸ばして、彼女の上に部分的に引っ張り上げた。ほぼすぐに二人とも眠りに落ち、半時間ほど眠った。

 先に目をさましたのはウィンストンだった。起き上がりそばかす顔を眺めた。まだ自分の手のひらを枕に静かに眠っている。口を除けば、彼女を美人とは言えない。目のまわりには、よく見ればシワが一、二本ある。短い黒髪はきわめて濃く柔らかかった。彼女の名字も住所も知らないことにふと思い当たった。

 若く力強い肉体、いまや寄る辺なく眠る肉体は、かれの中に哀れむような、護りたいという気持を目覚めさせた。だがあのハシバミの木の下で、ツグミが歌っているときに感じた無上の優しさは、完全には戻らなかった。彼はオーバーオールを脇にやって、彼女の白い横腹を眺めた。昔なら、男が女子の肉体を見てそれが望ましいと思ったら、それで話はおしまいだった。だが現在では純愛だの純粋な性欲だのは持てない。どんな感情も純粋ではあり得ない。すべては恐怖や憎悪と交じりあっているからだ。二人の抱擁は戦いであり、絶頂は勝利だった。党に対する一撃なのだ。それは政治的行為なのだった。

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第3章

 

 

「ここにはもう一度こられるけど。どんな隠れ家でも、二回は安全に使えるの。でもあと一、二ヶ月は無理」とジュリア。

 目を覚ましたとたん、彼女の態度が変わった。警戒したビジネスライクな様子になって、服を着ると、深紅の腰帯を巻き、帰宅の旅の細部を手配し始めた。これは彼女に任せるのが当然に思えた。明らかにウィンストンにはない実務的な感覚が備わっているし、またロンドン周辺の田舎部について、無数のコミュニティハイキングから蓄積した網羅的な知識を持っているらしい。与えられた帰路は、来た道とはまったくちがっていて、別の鉄道駅に送られた。

「絶対に行きと同じ道では帰らないで」と、まるで重要な一般原則を言明するかのように述べた。先に帰るのは彼女で、ウィンストンは半時間待ってからそれを追うように言われた。

 四晩後に、仕事の後で会える場所を指示した。貧困区画の一つにある街路で、青空市場があり一般に混雑して騒々しかった。彼女は屋台の間をうろつき、靴紐か縫い糸でも探しているふりをする。まわりが大丈夫だと判断したら、彼が近づいたときに鼻をかむ。そうでなければ、彼女を素通りすること。だが運がよければ、群集の真ん中で、四分の一時間は安全に話ができて、次の逢瀬を手配できる。

「じゃあ、いかなきゃ」かれが指示を飲み込むと同時に彼女は言った。「19時30に戻ることになってるから。青年反セックス連盟に二時間参加しないと。ビラまきかなんかすんの。ひどいじゃない? 身体を払ってくれない? 髪に小枝とかない? 本当? ならさよなら、愛しい人、さよなら!」

 彼女はこちらの腕に飛び込み、ほとんど暴力的にキスをすると、一瞬後には若木の間を押し分け、ほとんど音もなく森の中に姿を消した。いまだに彼女の姓も住所もわからなかった。だがそれで何か変わるわけでもない。二人が屋内で会えるとか、文書でやりとりできるとかいうのは、考えられないことだったからだ。

 結局のところ、二人は二度とあの森の空き地には戻らなかった。五月の間に二人が実際に性交できた機会は、あと一回しかなかった。それはまたジュリアの知っている隠れ家でのことで、三十年前に原子爆弾が落ちた田舎の、ほとんど無人の地域にある、廃墟となった教会の鐘楼だった。たどりついてしまえば、そこはいい隠れ家だったが、そこに行くまでがとても危険だった。それ以外は街頭でしか会えず、晩ごとに場所が変わり、しかも一度に半時間以上は決して過ごせなかった。街頭ではふつう、話はできた、とは言える。混雑した歩道をふらふら歩き、完全に肩を並べるわけでもなく、決してお互いを見ることもなく、二人は奇妙な間歇的な会話を行い、まるで灯台の明かりのようについたり消えたりするのだが、いきなりそれが党の制服の接近やテレスクリーン間近となって沈黙に陥り、それから何分か後に、文章の途中から再開して、そして事前に決めた場所で別れるためいきなり中断し、そして翌日ほぼ前置きなしに続けられる。ジュリアはこうした会話にずいぶん慣れているようで、それを「分割払いの会話」と呼んでいた。また彼女は、唇を動かさずに話すのが驚くほど上手だった。夜毎の会合が一ヶ月近く続いて、やっと一回だけキスを交わせた。だまって横丁を通っているとき (ジュリアは大通りから離れているときには決して口をきかない)、耳をつんざく轟音がして地面が揺れ、空気が暗くなり、気がつくとウィンストンは横倒しになっていて、アザができて縮み上がっていた。ロケット爆弾がかなり近いところに落ちたにちがいない。いきなり、ジュリアの顔が自分の顔からほんの数センチのところにあるのに気がついたが、それがチョークのように蒼白だ。唇まで白かった。死んだのか! 抱きしめると、自分がキスしている顔が生きた温かい顔なのがわかった。だが何やら粉っぽいものが唇を遮った。二人とも顔がぶあつい漆喰で覆われていたのだ。

 ランデブー場所にやってきても、合図もなしにすれちがわねばならないときもあった。ちょうどパトロールが角を曲がってきたり、頭上をヘリコプターが飛んでいたりしたからだ。それほど危険でないときでも、出会う時間を見つけるのはむずかしかっただろう。ウィンストンは週60時間労働、ジュリアはさらに長時間勤務で、休日は仕事の圧力に応じて変わり、なかなか一致しなかった。どのみちジュリアは完全に空いた晩がめったにない。講義やデモに出席し、青年反セックス連盟のビラまきをしたり、憎悪週間用に横断幕の用意、貯蓄キャンペーンの集金、その手の活動ですさまじい時間を費やしていた。その甲斐はある、カモフラージュなんだ、というのが彼女の言い分だった。細かいルールを守れば、でかいルールを破れる。彼女は果てはウィンストンまでせっついて、一晩を追加で差し出し、熱心な党員が自発的にやっているパートタイムの弾薬作業に登録させたのだった。だから毎週一晩、ウィンストンは麻痺しそうな退屈の中で四時間過ごし、小さな金属のかけらをネジで留めるのに費やした。おそらく爆弾の信管の部品なのだろう。場所はすき間風まみれの、薄暗い工房で、ハンマーで叩く音がテレスクリーンの音楽と陰惨に混じり合っているのだった。

 教会の鐘楼であったときには、断片的な会話のすき間が埋められた。日が照りつける午後だった。鐘の上の小さな四角小部屋の空気は暑く淀んでいて、ハトの糞の匂いがプンプンしていた。そのほこりっぽい小枝まみれの床にすわって二人は何時間もしゃべり続け、ときどき片方が立ち上がって、矢狭間から外をのぞき、だれも近づいてこないのを確かめるのだった。

 ジュリアは二十六歳だった。他の女子三十名 (「いっつも女臭いの! 女なんか大嫌い!」と彼女はついでのように言った) と共に寄宿舎暮らしで、仕事は、推測通り、創作部の小説執筆機だった。仕事は楽しく、主に強力ながらもクセのある電気モータの駆動と保守作業だった。「頭は悪い」けれど、手を使うのは好きで、機械作業には自信があった。長編執筆のプロセスをすべて説明できた。計画委員会が発行する一般指令からはじまり、書き直し部隊による最後の修正で終わるのだ。だが、最終製品には興味が無いという。「読むなんてどうでもいい」とのこと。本はジャムやブーツの靴紐のように、とにかく作らなければいけない商品なのだ。

 60年代初頭以前の記憶はまったくなく、革命前の日々についてよく語った唯一の人物は、八歳のときに姿を消した祖父だった。学校ではホッケーチーム主将で、二年連続で体育トロフィーを勝ち取っていた。スパイ団では班長で、青年連盟では支部書記を務めてから青年反セックス連盟に加わったのだった。いつも見事な人柄を表向きにはまとっていた。ポルノ(セック)——創作部の中で、プロレの間に流通させる安手のポルノを量産する下位部門——での仕事にさえ選ばれたほどだ (これは文句なしによい評判を示すものなのだ)。そこで働く人びとにはクソ屋と呼ばれている、と彼女は述べた。そこに一年ほどとどまり、『おしおき物語』『女子校での一夜』といった題名のブックレットを袋に密封したものをつくり出す支援をした。これらはプロレの若者たちがこっそり買うよう意図されたもので、自分たちが何か違法のものを買っているという印象を与えようというわけだ。

「どういう本なんだい?」とウィンストンは好奇心にかられて尋ねた。

「ああ、ろくでもないクズ。ホントに退屈。プロットは6種類しかないんだけど、それを多少入れ替えるわけ。もちろんあたしは万華鏡の仕事しかしなかったけど。書き直し部隊には一度も入らなかった。文芸屋じゃないですからね——その仕事ですらこなせないほど」

 ポルノ(セック)で働く人びとはすべて、部長たちを除けば女子だと知って彼は驚愕した。その理屈は、男は性本能が女性よりも抑えにくいので、扱う汚物により堕落する危険性が高い、というものだった。

「既婚女性がそこで働くのさえいい顔をしないんだ、あいつら」とジュリアは付け加えた。女子はいつも実に純粋ということになっていた。ここにそうでない女子が一人いるわけだが。

 初の情事は十六歳のとき、六十歳の党員とのものだが、この相手は後に逮捕を逃れるために自殺した。「ありがたい話だったな、そうでないと自白のときにあたしの名前も吐かせただろうから」。その後はいろいろ相手がいた。彼女の考える人生というのは単純きわまるものだった。こっちは楽しくすごしたい。「あいつら」というのは党のことだが、こっちの楽しみを邪魔したい。だから精一杯ルールを破る。「あいつら」がこちらの歓びを奪うのと同じくらい、自分がつかまるのを回避したいというのが自然なのだと思っているらしい。党が大嫌いで、それを極度に粗野な言葉で述べたが、党の全般的な批判はしなかった。自分自身の生活に関係しない限り、党のドクトリンなどに関心はなかったのだ。すでに日常用語と化したものを除けば、彼女がニュースピーク用語を使わないのに気がついた。友愛団のことなど聞いたことがなく、そんなものが存在することさえ信じるのを拒んだ。党に対する組織的な反逆など、どのみち失敗するに決まっているから、彼女から見ればバカげたものだった。ルールを破りつつ同時に生き延びるのが賢明なのだ。若い世代には彼女のような者がどれだけいるのだろうか、とかれは漠然と思った。革命後の世界で育ち、それ以外は何も知らず、党を何か、空と同じように変えられないものとして受け入れ、その権威に対して反逆することなく、ウサギが犬をよけるように、単にそれを回避するだけ。

 結婚の可能性についてはお互い話さなかった。あまりに突拍子もなくて考える価値もない。ウィンストンの妻キャサリンがどうにか始末できたとしても、そんな結婚を認める委員会など想像もつかない。白昼夢としてさえ絶望的だった。

「どんな人だった、奥さんって?」とジュリア。

「言うなら——ニュースピークの、『好考的』って知ってるか? 天然の正統、悪い思考を持てないという意味」

「知らない。でもその手の人は知ってる、まったくろくでもない」

 結婚生活の話を語り始めたが、奇妙なことに、その要点についてはすでに知っている様子だった。キャサリンに触れたとたんにその身体が硬直すること、腕をしっかりこちらに巻きつけているときですら、全力でこちらを押しのけているように思えるやり方について、ジュリアは自分自身で見たか感じたかしたように説明してくれたのだった。ジュリアが相手だと、そういう話も苦労せずにできた。どのみちキャサリンは、とっくの昔に痛々しい記憶ではなくなり、単なる嫌な思い出になっていたのだった。

「それでも、たった一つのことさえなければ我慢したんだが」。かれは、キャサリンが毎週同じ夜に無理矢理実施させた、冷感症のちょっとした儀式について語った。「向こうも嫌でたまらなかったのに、絶対にそれをやめようとしないんだ。それを彼女はこう呼んでいた——絶対に見当つかないだろうね」

「私たちの党への義務」ジュリアは即答した。

「なぜわかった?」

「あたしだって学校くらい行ってんの。十六歳以上は月一度のセックス対話。それと青年運動でも。何年もかけて叩き込むから。たぶんかなりの場合にはうまくいくんじゃないかな。でももちろん、確実にはわかんないよね。人間なんてみんな偽善者ばっかだから」

 ジュリアはこの話題を広げはじめた。なんでも彼女自身の性に戻ってくるのだ。どんな形であれそれに触れられると、彼女はすさまじい鋭さを発揮する。ウンストンとはちがって、彼女は党の性的純潔主義の内的な意味を把握していた。単に性本能が、党の支配の及ばない独自の世界をつくり出すから、可能なら破壊すべきだというにとどまらない。もっと重要なのは、性的剥奪がヒステリーをつくり出すということだ。これは望ましい。戦争熱と指導者崇拝に変換できるものだからだ。彼女の言い方は次の通り。

「性交ではエネルギーを使うよね。そして終わったら幸せで、他のことなんかどうでもいい。あいつらは、みんながそんなふうに感じるのが我慢できないんでしょ。いつも活力で満ち満ちていてほしいわけ。行ったり来たりの行進だの声援だの旗振りだのは、単にセックスが歪んだだけ。自分の中で幸せなら、ビッグ・ブラザーだの三カ年計画だの二分憎悪だの、その他あいつらのくだらないクズなんかで興奮する必要なんかないもん」

 まったくその通りだ。純潔性と政治的正統性の間には直接の親密なつながりがある、とかれは思った。

 というのも、党が党員たちに求める恐怖、憎悪、きちがいじみた騙されやすさをに適切な水準で維持させるためには、何位か強力な本能を封じ込めて、それを原動力として使うしかないではないか? 性衝動は党にとって危険であり、党はそれを逆手に取って利用した。あいつらは親の本能にも似たような細工をしている。家族を本当に廃止はできないし、実際、人々はほとんど古くさいやりかたで子どもを大切にするよう奨励されている。その一方で、子供たちは系統的に親に刃向かうように仕向けられ、親をスパイして、その逸脱を報告せよと教わる。家族は実質的に、思考警察の延長となるのだ。それは、あらゆる人が昼夜を問わず、自分を親密に知っている密告者に取り囲まれるようにするための装置なのだった。

 いきなり、キャサリンに思いを馳せた。キャサリンならまちがいなく、思考警察に自分をつきだしたことだろう。とはいえ、バカすぎてこちらの意見の非正統性に気づかなかったかもしれないが。だがこの瞬間に本当に彼女のことを思い出させたのは、午後のうだるような暑さで、それが額に汗をもたらした。十一年前の、別のあるうだるような夏の午後に起こったこと、いや起こらなかったことについて、かれはジュリアに話し始めた。

 結婚して三、四ヶ月の頃だった。ケントのどこかで、コミュニティハイキングの途中で迷子になったのだ。他のみんなから数分遅れただけだったが、曲がるところをまちがえて、すぐに古いチョーク採石場の縁で行き止まりになってしまった。十、二十メートルほどの急激に落ち込む崖で、底には大きな石が転がっている。道を尋ねられる相手もいなかった。迷子になったと気づいた瞬間、キャサリンはおろおろし始めた。騒々しいハイキングの群集から一瞬でも離れると、彼女は何かまちがったことをしたような気分になるのだ。すぐに来た道を急いで戻り、他の方向を探したがった。だがその瞬間、ウィンストンはミソハギの固まりが、眼下の崖の割れ目に生えているのに気がついた。その一つの固まりは二色、マゼンタとレンガの赤で、どうやら同じ根っこから映えているようだった。そんなものはこれまで見たこともなかったので、キャサリンに来て見るよう呼びかけた。

「ご覧、キャサリン! あの花をご覧よ。あの谷底近くの固まり。二つのちがった色が混じってるのが見える?」

 すでにキャサリンはそこを去ろうと向きを変えていたが、いささか不承不承とはいえ、一瞬そこに戻ってきた。かれが指さしているところを見ようと、崖っぷちから身を乗り出しさえした。かれはそのちょっと後ろに立って、支えようと妻のウェストに手を置いていた。

 この瞬間、まったく二人きりだということに思い当たった。どこにも人っ子一人おらず、そよぐ葉もなく、鳥すらいない。こんな場所なら隠しマイクがある危険はないも同然だし、マイクがあっても音しか拾えない。午後の最も暑く眠たい時間だ。太陽が照りつけ、顔に汗がつたっていた。そこでふと思いついたのだ……

「そこで一発、ドンとどついてやらないと。あたしならそうしたな」とジュリア。

「そうだな、君ならやっただろうよ。私だって、いまの私ならばそうしたかもしれない。あるいはむしろ——いやわからん」

「やらなくて後悔してる?」

「うん、全体としては、やらなくて後悔してる」

 二人はほこりっぽい床に並んですわっていた。彼女を近くに引き寄せる。その頭がこちらの肩にのせられ、その髪の快い香りがハトの糞を隠した。彼女はとても若いのだ。まだ人生から何かを期待しており、不都合な人物を崖から突き落としたところで、何も解決しないのを理解していないのだ、とかれは思った。

「実のところ、何も変わらなかっただろうな」とかれ。

「だったらなんで、やらなくて後悔すんの?」

「単に、やらないよりやるほうが好みだからというだけだ。私たちのやってるこのゲームでは、私たちの価値はない。ただ、他よりマシな失敗があるってだけなんだ」

 ジュリアの肩が、異論でうごめくのを感じた。いつも自分がこの手のことを言うと反論するのだ。個人が常に敗北するとは認めなかった。ある意味で彼女は、自分がすでに破滅していて、遅かれ早かれ思考警察につかまって殺されると気がついてはいた。だが彼女の精神の別の一部では、自分が好きに生きられるような秘密世界の構築が可能だと信じていたのだ。必要なのは、ツキと狡猾さと大胆さだけ。幸福などないというのを彼女は理解しなかった。唯一の勝利ははるか未来、自分が死んだずっと先にしかないことも、党に対して宣戦布告をした瞬間から、自分を死骸として考えたほうがいいというのも理解しなかっった。

「私たちは死者」とかれ。

「まだ死んでない」とジュリアは平板に述べた。

「肉体的にはね。六ヶ月、一年——五年かもしれない。私は死ぬのが恐いんだ。君は若いから、おそらく私よりもっと怖がっているかもしれない。もちろん、できるだけ先送りはしたい。だがそれでほとんど何もちがいは生じない。人間が人間である限り、死と生は同じことなんだ」

「まったく、デタラメもいいとこ! 寝るならどっちがいいの、あたしか骸骨か? 生きていて楽しくない? 感じるのが好きじゃないの? これがあたし、これがあたしの手。これがあたしの脚。あたしは本物。確固たる存在、生きてる! コレ、好きじゃないの?」

 ジュリアは身をひねり、下腹部を押しつけてきた。オーバーオール越しに、熟しているのにシッコリした胸が感じられた。その肉体が、若さと活力の一部をこちらに注ぎ込むようだった。

「うん、大好きだ」

「なら死ぬ話はやめてよ。さて、そろそろ次に会う話を固めておかないと。あの森の場所に戻ってもいいかな。かなりほとぼりも冷めたと思うし。でも今回は別のやり方で行かないと。全部計画ずみ。まず列車にのって——でもホラ、図示してあげるから」

 そしてその実務的なやり方で、彼女はほこりを集めて小さな四角を作り、ハトの巣からの枝を使って床に地図を描き始めた。

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第4章

 

 

 ウィンストンは、チャリントンさんの店の二階にある、貧相な小部屋を見回した。窓の脇では巨大なベッドが、ボロボロの毛布とカバーのない長枕でしつらえられていた。十二時間表示の古くさい時計は、マントルピースの上でカチカチと時を刻んでいた。隅の折りたたみ式テーブルの上には、最後の訪問時に買ったガラスの文鎮が、半ば暗闇の中で柔らかく輝いていた。

 炉格子の中には、チャリントンさんが提供してくれたおんぼろのブリキ製オイルストーブ、シチュー鍋、コップ二つがあった。ウィンストンはバーナーに点火して、鍋に水をいれて沸かした。封筒に入れた勝利コーヒーとサッカリン錠をいくつか持ってきた。時計の腕は、17-20を指している (訳注:これは7-20のまちがいのはず)。実際には19-20なのだ。彼女は19-30にやってくる。

 愚行だ、愚行だ、と精神は言い続けていた。意識した甘い考えの自殺行為的愚行。党員が犯せる犯罪の中で、これは最も隠しようがない。実はこのアイデアが頭に漂ってきたのは、ある幻影としてなのだった。ガラスの文鎮が、折りたたみ式テーブルの表面に写っているという幻影だ。見込んだとおり、チャリントンさんは喜んで部屋を貸してくれた。明らかにそれで手に入る数ドルをありがたがっていた。また、ウィンストンがその部屋を求めているのは、情事のためなのだと知っても、ショックを受けたり機嫌を損ねたりはしなかった。むしろ遠い目をしつつ、いかにも一般論めいた話を始めて、ウィンストンはまるで自分が半ば目に見えなくなったかのような印象を受けた。プライバシーというのは、きわめて貴いものですなあ。だれしもたまには、一人きりになれる場所がほしいものですからなあ。そしてそんな場所があるなら、それを知った他の人々はだれであれ、それを他言しないのが普通の思いやりというものでしょうなあ。そして、言いながらほとんど姿を消すかのような雰囲気で、この家には入り口が二つあって、片方は路地に続く裏庭から入れるのだ、と付け加えた。

 窓の下ではだれかが歌っていた。ウィンストンは、モスリン地のカーテンの保護に護られつつ、のぞいてみた。六月の太陽はまだ空高く、眼下の日差しでいっぱいの裏庭では、ノルマン建築の柱のようにがっしりした巨体の女性が、屈強な赤い上腕とズック地のエプロンを腰に巻いて、洗濯おけと物干しづなの間をドスドスと往き来し、一連の四角い白いものを洗濯ばさみで止めていた。赤ん坊のおむつか、とウィンストンは気がついた。口に洗濯ばさみをくわえていないときには、ずっと力強いコントラルトで歌い続けている。

しょせん夢とはわかっていたの
行きずりに消える四月の日
でも一目、一言、夢がそそられ!
それが
心を奪い去る!

 この曲はロンドンを過去何週間も席巻していた。それは音楽部の下部局がプロレのために発表し続けている、無数の似たり寄ったりの曲の一つなのだった。

 こうした歌詞は、人間の手を一切加えずに、歌詞機と呼ばれる道具で作られていた。だがこの女性はそれを実にリリカルに歌ったので、そのろくでもないゴミクズが、ほとんど心地よい音に変わりそうなほどだった。女性の歌声と、その靴が敷石に引きずる音が聞こえ、街頭の子供たちの叫びと、どこかはるか彼方ではかすかに車両の轟音が聞こえたが、それでもこの部屋はテレスクリーンがないおかげで、不思議なほど静かに思えた。

 愚行だ、愚行だ、愚行!! と再び考えた。この場所に数週間以上通ったら絶対につかまってしまう。だが本当に自分たちだけのものと言える隠れ家を、屋内で手近に持てるという誘惑は、二人にとって強すぎるものだった。教会の鐘楼を訪れてからしばらくは、逢瀬を手配するのは不可能だった。憎悪週間を控えて、勤務時間がすさまじく増やされた。まだ一ヶ月も先なのだが、それに伴う莫大で複雑な準備が、あらゆる人に追加の仕事をもたらしていたのだ。やっと二人とも、同じ日の午後に自由時間を確保できた。あの森の空き地に行くことで合意した。その前の晩に、二人は道端で手短に顔をあわせた。いつもながら、群集の中でお互いにふらふら接近する間。ウィンストンはほとんどジュリアのほうに目をやらなかったが、チラリと見たところ、どうもいつもより青ざめているように見えた。

 話しても安全と判断してすぐに彼女はつぶやいた。「全部取り消し。明日ってこと」

「なんだって?」

「明日の午後。無理」

「どうして?」

「ありがちな理由よ。今月は早くきちゃったの」

 一瞬かれは激怒した。知り合って一ヶ月の間に、彼女に対する欲望の性質が変わったのだ。当初は、真の官能性などないも同然だった。最初の性交は単なる意志による行為だった。だが二回目以降はそれが変わった。彼女の髪の匂い、口の味わい、肌の感触がウィンストンの中に、あるいはまわりの空気すべての染みこんだようなのだ。彼女は肉体的な必要性となり、求めるだけにとどまらず、手に入れる権利があると感じる存在となった。来られないと言われたとき、彼女にごまかされたような気がした。だがまさにその瞬間、群集が二人を押しつけあい、手が偶然触れあった。彼女はこちらの指先をすばやく握りしめ、それは欲望ではなく愛情をもたらすものだった。女性と暮らしているなら、こういう理由の失望は、当たり前の何度も起こるできごとなのだと思い当たった。そして、これまでジュリアに感じたことのない、深い優しさにいきなり包まれた。自分たちが結婚十年の夫婦だったらと願った。いまと同じように二人で街路を歩けたらと願った。それを公然とやり、恐れることなく、小話をして家のためにあれこれちょっとした買い物をするのだ。何よりも、二人きりでいられて、しかも毎回会うたびに性交しなければと義務感にとらわれる必要のない場所があればと願った。チャリントンさんの部屋を借りるという考えを思いついたのは、まさにその瞬間というわけではなく、その翌日のどこかだった。それをジュリアに提案すると、驚くほどためらいなしに承知してくれた。二人とも、それがキチガイじみているのは知っていた。まるで二人とも意図的に墓場に近づこうとしているかのようだ。ベッドのふちにすわって待ちながら、再び愛情省の地下室のことを考えた。その宿命づけられた恐怖が意識を出入りする様子は不思議なものだった。その地下室は、将来のどこかに固定されて横たわり、100の前に99がくるのと同じくらい確実に死に先立ってやってくるのだ。それを避けることはできないが、先送りにはできるかもしれない。だがそれなのに、ときどき意識的で意図的な行動により、人はそれが起こるまでの間隔を短縮する道を選んでしまうのだ。

 この瞬間に階段を足早に上がってくる音がした。ジュリアが部屋に飛び込んできた。粗い茶色のカンバス地のツールバッグを抱えていた。これはときどき省で彼女がうろうろ抱えているのを見かけたようなものだ。かれは進み出て彼女を抱きしめたが、向こうはいささか拙速に身をふりほどいた。相変わらずツールバッグを持っていたせいもある。

「ちょっと待った。持ってきたものを見せてあげるから。あのクソ勝利コーヒー持ってきた? やっぱりね。元のところにしまっといてよ、そんなのいらないから。これ見て」

 ジュリアはひざをついて、バッグを大きく開くと、そのてっぺんに詰めたスパナ数本とネジ回し一本を放り出した。その下にはきちんとした紙袋がたくさんあった。最初に手渡してきた袋は、不思議ながらおぼろげに馴染みのある感触がした。なんだか重たい、砂のようなものが詰まっていて、どこに触れても袋がへこむ。

「これって、砂糖?」

「本物の砂糖。サッカリンじゃない砂糖。それとパンが一斤——まともな白パン、あたしらのろくでもないパンじゃないよ——それとちっちゃい瓶入りのジャム。それと缶入り牛乳——でもこれ見て! こいつは本当に胸張っちゃうわよ。ちょっとズックでかなり包まないといけなかったんだけど、それは——」

 だが梱包の理由は説明するまでもなかった。その香りはすでに部屋を満たしていたのだ。豊かな熱い香りで、幼い子供時代からの放たれるように思えたが、確かに最近でもたまに出くわす、ドアがバタンと閉じられる前に通路から吹き流れてきたり、混雑した街路で不思議と広がったりする香りで、一瞬だけ香ってすぐに消えてしまう香りなのだ。

「コーヒーだ。本物のコーヒー」とかれはつぶやいた。

「党中心のコーヒー。丸一キロあんのよ」

「どうやってこんなにあれこれ手に入れられた?」

「みんな党中心の代物よ、あのブタども、あらゆるものを持ってんの、何でも。でももちろん給仕や召使いはいろんな人がそれをくすねて——ほら、紅茶の小さな包みもある」

 ウィンストンは彼女の隣にしゃがんだ。そして袋の片隅を破って開いた。

「本物の紅茶だ。ブラックベリーの葉っぱじゃない」

「最近、紅茶はやたらに出回ってんの。インドを占領したとかなんとか」と彼女はあいまいに行った。「でも聞いてよ。三分だけ向こうを向いてて。ベッドの反対側に行ってすわってて。窓には近寄らないで。それと言うまでこっち向かないで」

 ウィンストンは、モスリンのカーテン越しにぼんやりとながめた。下の裏庭では、赤い腕の女性が相変わらず洗濯おけと物干し綱の間をドシドシと往き来していた。口から洗濯ばさみをさらに二つ取って、感情たっぷりと歌った。

いずれ楽になると言うけれど
いつか忘れると言われるけれど
何年たってもあの微笑や涙
いまでも心を
締め付けるの!

 彼女はそのたわごとめいた歌すべてを暗唱しているようだった。その声は甘い夏の空気とともに舞い上がり、きわめてリリカルで、何か幸福そうな憂鬱に満ちていた。六月の晩が果てしなく続き、洗濯物が無限にあって、そこに千年とどまりおむつを乾して、ゴミクズを歌い続けていても、彼女はまったく不満を抱かなかっただろうという気がした。そういえば、党員がだれ一人、自分だけで自発的に歌うのを聞いたことがないのは不思議だった。一人で歌うなどというのは、いささか非正統で、危険なほどエキセントリックで、まるで独り言のように思われた可能性さえある。人が何かについて歌いたいと思うのは、人々が多少なりとも飢餓水準に近いときだけなのかもしれない。

「もうこっち見ても大丈夫」とジュリア。

 ふりむくと、一瞬彼女がだれだかわからなかった。実際に予想していたのは、彼女が全裸になっているところだった。だが全裸ではなかった。起きた変身はそれよりずっと驚くものだった。化粧していたのだ。

 プロレタリア地区のどこかの店に忍び込んで、メーク材料を一揃い買ったにちがいない。唇は深い赤に塗られていた。頬には紅が差され、鼻には白粉が塗られていた。目の下にも何やら一筆加えられて、それが輝くように見せていた。あまりうまい化粧ではなかったが、そうした面でのウィンストンの基準はあまり高いものではなかった。それまで顔に化粧品をつけた党の女性など、見たことはおろか想像したことさえなかった。外観の改善は驚異的だった。適切な場所に少しばかり色を塗っただけで、ずっときれいになっただけでなく、何よりも、はるかに女性的になっていたのだ。そのショートヘアとボーイッシュなオーバーオールは、それを際立たせるばかりだった。彼女を腕に抱くと、その鼻孔に合成スミレの波があふれた。あの地下室の台所の薄暗さと、女性の洞窟のような口が想いだされた。あの女が使っていたのと同じ香りだ。だがこの瞬間は、それも気にならなかった。

「香水もか!」

「ええそう、香水も、なの。そして次はどうするかわかる? どっかから、本物の女性用ドレスを手に入れて、こんなろくでもないズボンの代わりにそれを着るの。シルクのストッキングとハイヒールも履く! この部屋では、女になるんだ、党の同志じゃなくて」

 二人は服を脱ぎ捨てると、巨大なマホガニーのベッドに飛び込んだ。彼女の前で全裸になったのは、これが始めてだった。これまでは自分の蒼白く貧相な身体があまりに恥ずかしく、さらにふくらはぎから突き出す静脈瘤と、足首の変色したアザも見せたくなかったのだ。シーツはなかったが、二人が横たわる毛布はすり切れてすべすべしており、ベッドの大きさとスプリングの効き具合には二人とも驚いた。「南京虫だらけなのはまちがいないけど、気にしないよね」とジュリア。最近ではプロレの住宅以外では、ダブルベッドにお目にかかることなどなかった。ウィンストンは少年時代にはたまに寝たことがあった。ジュリアは、思い出せる限り一度も経験がなかった。

 やがて二人はしばらく眠り込んでしまった。ウィンストンが目覚めると、時計の針は九近くに迫っていた。身じろぎはしなかった。ジュリアがこちらの肘に頭を埋めて眠っていたからだ。そのメークのほとんどは、ウィンストンの顔か長枕に移っていたが、軽い頬紅の染みが、彼女の頬骨の美しさをまだ引き立てていた。沈みゆく太陽からの黄色い日差しが、ベッドの足下に落ちかかり、暖炉を照らした。そこではシチュー鍋の水が激しく沸騰していた。裏庭の女性の歌は止まっていたが、遠い子供たちの叫びが街頭から漂ってきた。廃止された過去には、こんなふうにベッドに横たわるのが普通の体験だったのだろうか、と彼はぼんやり思った。夏の晩の涼しさの中、男と女が一糸まとわず、好きな時に愛を交わし、好きな話題の話をして、起き上がる必要などまるで感じることなく、単に横たわって外の平和な物音を聞いているのだ。そんなことがあたりまえに思えた時代など、もちろんあったはずもない、のだろうか? ジュリアは起きて目をこすると、肘で状態を起こしてオイルストーブを眺めた。

「あの水の半分は湯気で蒸発しちゃってるね。すぐに起きてコーヒー淹れるから。あと一時間ある。そっちのアパートでの消灯時間は?」

「23=30」

「寄宿舎では23。でもその前に戻らないと。だって——おい、出てけこの薄汚い獣が!」

 彼女はいきなりベッドで身をひねると、床から靴をつかんで、少年じみた腕の一閃でそれを部屋の隅に投げつけた。あの二分憎悪の朝に見た、ゴールドスタインに辞書を投げつけた動作とまったく同じだった。

「どうしたんだ?」とかれはびっくりして尋ねた。

「ネズミ。忌まわしい鼻を腰板から突き出してるのが見えた。あそこに穴があるな。でもしっかり脅かしてやったから」

「ネズミだと! この部屋に!」とウィンストンはつぶやいた。

 再び身体を横たえつつ、ジュリアは平然としていた。「そこら中にいんのよ。寄宿舎の台所にまでいるんだから。ロンドンの一部なんかネズミだらけ。子どもを襲うんだって知ってた? ホント。そういう通りでは、お母さんは赤ん坊を二分とほっとけないんだって。でっかい茶色のネズミの仕業。それで最悪なのが、その獣どもがいつも——」

やめてくれ!」とウィンストンは、目をしっかり閉ざした。

「ちょっと大丈夫? 真っ青だけど。どうしたの、ネズミで気分が悪くなったの?」

「よりにもよって——ネズミかよ!」

 彼女は身体を押しつけて手足をからめ、自分の身体のぬくもりでウィンストンを安心させようとでもいうようだった。かれはすぐには目を開かなかった。数瞬にわたり、生涯にわたってときどき繰り返された悪夢に戻ったような気分になった。いつもおおむね同じ夢だ。暗い壁の前に立っていると、その向こう側に何か耐えがたいもの、恐ろしすぎて正視できないものがいるのだ。夢の中で最も深い気分はいつも自己欺瞞なのだった。というのも実は、その暗闇の壁の向こうに何がいるか知っていたのだ。死ぬほど頑張れば、自分の脳みそのカケラを引きちぎるほど頑張れば、その存在を明るみに引きずり出すことさえできた。いつも、それが何かを突き止める前に目が覚めた。だがなぜかそれは、かれが黙らせたときにジュリアが言いかけていたことと関係しているのだった。

「すまん。なんでもない。ネズミが嫌いなんだ。それだけ」

「心配しないでね、愛しい人。あの薄汚い獣どもなんか、ここには入れないから。出かける前に、穴に少しズックを詰めとくね。そして今度くるときには、少ししっくいを持ってきて、きっちり穴埋めするから」

 すでにあのパニックの黒い瞬間は半ば忘れられていた。ちょっと恥ずかしくなって、ウィンストンは身を起こしてベッドの頭部にもたれた。ジュリアはベッドを出てオーバーオールを着ると、コーヒーを淹れた。シチュー鍋から立ち上る香りはあまりに強力でわくわくするものだったから、二人は窓を閉めた。そうでないと外のだれかが気がついて、詮索したがるかもしれない。コーヒーの味よりさらにすばらしかったのは、そこに砂糖が加えたなめらかな味わいだった。長年のサッカリンの後で、ウィンストンがほとんど忘れかけていた味わいだ。片手をポケットに突っ込み、もう片方の手にはジャムつきパンを持って、ジュリアは部屋の中をうろつき、本棚を興味なさそうに眺め、折りたたみテーブルを修理する最善の方法を指摘し、ぼろぼろの安楽椅子に身を沈めて快適かどうかを調べ、バカげた十二時間式の時計を、一種の辛抱強い興味をもって観察した。ガラスの文鎮をベッドのほうに持ってきて、もっと明るい光の中で見てみようとした。ウィンストンはそれを彼女の手から取り、いつもながら、そのガラスの柔らかく雨水のような見かけに魅了された。

「何なのそれ、何だと思う?」とジュリア。

「何でもないと思う——というか、何か使われていたわけじゃないと思う。だからこそ気に入ってるんだ。あいつらが変えるのを忘れた、ちょっとした歴史のかたまりだ。百年前からのメッセージなんだ、読み方さえわかっていればね」

「それとあそこの絵」——と彼女は向かいの壁にかかった鉄版画に会釈した——「あれも百年前のもの?」

「もっとだ。二百かもしれないくらい。わからないよ。最近では、なんであれ年代なんか絶対わからないから」

 彼女は近寄ってそれを眺めた「あの獣が鼻を突き出したのはここだな」と彼女は絵のすぐ下にある腰板を蹴飛ばした。「この絵に描いてあるのって何? どっかで前に見たような気がするんだけど」

「教会だよ、少なくとも昔はそうだった。セント=クレメント・デーンズ、という名前だった」。チャリントンさんに教わった詩の断片が頭に浮かび、半ばノスタルジックに彼は付け加えた。「オレンジにレモン、とセントクレメントの鐘!」

 仰天したことに、彼女がその先を続けた。

 お代は三ファージング、とセント=マーチンズの鐘
お支払いはいつ、とオールドベイリーの鐘——

 その先は思い出せないや。でも最後のところは覚えてる。『これがロウソク、ベッドに導く灯り、これが鎌で頭を切り落とす!』」

 合い言葉の半分ずつのようだった。だが「オールドベイリーの鐘」の後にもう一行あるはずだ。うまくつっつけば、チャリントンさんの記憶から掘り起こせるかもしれない。

「だれに教わった?」

「おじいちゃん。小さかった頃に暗唱してくれたものよ。八歳のときに蒸発させられたけど——というか、消滅したけど。レモンってどんなものだったのかな」と彼女は脈絡なしに付け加えた。「オレンジは見たことある。丸い黄色い果物で、皮が分厚いの」

「レモンなら覚えている。50年代にはかなり普通だったんだ。ものすごく酸っぱくて、匂いを嗅いだだけで歯がむき出しになる」

「あの絵の裏にはムシがいると思うんだな。いつか外して、よく掃除しようっと。たぶんそろそろ出なきゃいけない時間だよね。この塗り物を洗い落としはじめないと。まったくうんざり。後であなたの顔の口紅も落としてあげるから」

 ウィンストンは、その後数分にわたり起き上がらなかった。部屋は暗くなりつつあった。転がって明かりにほうに向かい、横たわったままガラスの文鎮をのぞきこんだ。いつまでも見飽きないほどおもしろいのは、サンゴのかけらではなく、そのガラス自体の内部なのだった。何とも言えぬ深みがあり、同時に空気のように透明だ。まるでガラスの表面が空の弧であり、空気まで含めて小さな世界を封じ込めたかのようだった。自分がその中に入れるような気がした。いや、本当にその中にいて、マホガニーのベッドと折りたたみテーブルも、時計も鉄版画も、文鎮そのものもいっしょにいるような気がした。文鎮は自分がいる部屋で、サンゴはジュリアと自分の命であり、それがクリスタルの真ん中で、一種の永遠の中に固定されているのだ。

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第5章

 

 

 サイムが消滅した。ある朝がくると、サイムは職場にいなかった。考えの浅い人々数名が欠勤を話題にした。翌日は、だれもサイムの話をしなかった。三日目にウィンストンは、記録部の入り口ホールに出かけて掲示板を見た。その掲示の一つは、チェス委員会の委員が印刷されており、サイムもその一人だった。それはほとんど前と同じに見えた——何も打ち消されたりはしていない——だが名前一つ分だけ一覧が短くなっていた。それで十分。サイムは存在しなくなった。もともと存在しなかった。

 天気は焼け付くように暑かった。迷路のような省では、窓のない空調の入った部屋は平常気温を維持していたが、屋外では歩道が足を焼き、ラッシュアワーの地下鉄の臭気は恐ろしいほどだった。憎悪週間の準備がいまや全開で、全省庁の職員は残業していた。行進、会合、軍事パレード、講義、蝋人形、展示物、映画ショー、テレスクリーン番組すべてをまとめねばならない。観客席を作り、人形を作り、スローガンを決め、歌を書き、噂を流し、写真を偽造しなくてはならない。創作部のジュリアの課は、小説生産から外されて、一連の残虐パンフレットを急ごしらえしていた。ウィンストンは、いつもの勤務に加え、『タイムズ』の過去記事ファイルをひっくり返して、演説で引用されるニュース記事を改変したり粉飾したりするのに、毎日長い時間をかけていた。夜遅く、騒々しいプロレたちの群集が街頭をうろつく頃には、町は奇妙に熱っぽい雰囲気となった。ロケット爆弾がいつになく頻繁に落とされ、ときにははるか彼方で大爆発が起きて、だれにも説明がつかず、とんでもない噂ばかりが飛び交った。

 憎悪週間のテーマ曲となるはずの新曲(「憎悪の歌」と呼ばれていた)はすでに作曲され、テレスクリーンで果てしなく宣伝されていた。荒っぽい吠えるようなリズムを持ち、音楽と呼べるかどうかも怪しく、むしろドラムのビートに似ていた。行進する足音にあわせて何百人もの声がそれを歌うと、恐ろしかった。プロレたちはそれが気に入ったようで、深夜の街頭ではこの曲が、いまだに人気のある「しょせん夢とはわかっていたの」と競り合っていた。パーソンズ一家の子供たちは昼夜問わず一日中、クシとトイレットペーパーで作った楽器でそれを耐えがたいほど演奏し続けていた。ウィンストンの晩は空前の忙しさだった。パーソンズが率いるボランティア団が、憎悪週間に向けて街頭の準備をしており、バナーを縫い、ポスターを描き、屋根に旗竿を立て、吹き流しをかけるためのワイヤーを危なっかしげに通りに渡していた。パーソンズは、勝利マンション単独で旗やバナーを四百メートルにわたり掲げるのだと豪語していた。これぞ本領発揮ということで、かれは嬉々としていた。暑さと肉体労働のため、かれは晩に半ズボンと開襟シャツに戻る口実ができていた。そしてどこへでも顔を出し、押したり引いたり、ノコギリで切ったり釘を打ったり、即興をしたり、みんなを同志じみた励ましでみんなの士気を高め、肉体のあらゆるシワから、はてしないほどのすえた匂いの汗を放っていた。

 新しいポスターがいきなりロンドンの到るところにあらわれた。キャプションはなく、単にユーラシア兵士の化け物じみた姿が描かれている。身長三、四メートルで、無表情な蒙古系の顔と巨大なブーツで前進し、腰だめにした軽機関銃を構えている。そのポスターをどの角度から見ても、その銃口は短縮法により拡大されていて、まっすぐこちらに向けられているように見えるのだ。この代物が、あらゆる壁の空いた場所に貼られ、ビッグ・ブラザーの肖像よりも多いほどだった。プロレたちは、通常は戦争には無関心だが、定期的な愛国心の熱狂へと追いやられていた。一般的な気運と調和するように、ロケット爆弾はいつもより大量の人々を殺していた。ステップニーの混雑した映画館に一発が落ちて、何百人もの犠牲者を瓦礫の中に埋めた。そのご近所の全住民が、長いいつまでも続く葬式に顔を出したが、それは何時間も続き、実質的には糾弾集会だった。別の爆弾が、遊び場に使われていた空き地に落下し、数十人の子供たちが粉々にされた。さらに怒りのデモが生じ、ゴールドスタインの人形が焼かれ、ユーラシア兵のポスター何百枚もが破り捨てられて炎にくべられ、その混乱の中で多くの店が強奪された。すると、スパイたちが無線波でロケット爆弾を誘導しているという噂が流れ、外国生まれの嫌疑をかけられた高齢夫婦の家が放火され、二人は窒息死した。

 チャリントンさんの店の上の部屋では、そこに行けるときには、ジュリアとウィンストンは開いた窓の下のむきだしのベッドに並んで横たわり、涼しさを求めて素っ裸になっていた。ネズミは二度と戻ってこなかったが、暑さで南京虫がゾッとするほど増えていた。気にならないようだった。汚くてもきれいでも、この部屋は天国だった。到着したらすぐに、闇市場で買ったコショウをすべてにふりかけて、服をはぎ取り、汗だくの身体で愛を交わして眠りに落ち、目をさますと南京虫たちが集結し、反撃すべく群がっているのだ。

 四回、五回、六回——六月の間に二人は七回も密会した。ウィンストンは、始終ジンを飲む習慣を捨てた。飲みたいとも思わなくなっていた。以前より太り、静脈瘤はおさまって足首上の皮膚上の茶色い染みが残るだけとなった。早朝の激しい咳の発作も止まった。人生のプロセスはもはや耐えがたいものではなくなり、テレスクリーンにしかめっ面をしたり、呪詛を絶叫したりする衝動もまったくなくなった。いまや安全な隠れ家、ほとんど家のようなものがあるので、めったに会えず、しかも数時間ずつしか会えないのも大してつらくは思えなかった。大事なのは、古物店の上の部屋があるということだ。それがそこにあり、不可侵だと知っているだけで、その中にいるも同然なのだ。その部屋は一つの世界であり、絶滅した動物が歩ける過去のたまり場なのだ。いつも上階に向かうついでに足を止め、チャリントンさんと数分にわたりおしゃべりをした。老人はどうも、ほとんど、いやまったく外に出ないようだし、またほとんどお客もないようだった。小さい暗い店と、食事を調理するさらに小さな裏の台所とのあいだで、ほとんど幽霊のような暮らしをしていた。その台所にはいろいろあったが、中でも信じられないくらい古い蓄音機があり、巨大な拡声ホーンがついていた。かれはおしゃべりできて喜んでいるようだった。無価値な在庫の中を歩き回りつつ、その長い鼻と分厚いメガネと、ビロードの上着に包まれた曲がった肩を持つかれは、いつも商売人というよりは収集家の雰囲気を漂わせていた。ある種の色あせた熱意をもって、かれはこっちのガラクタの山やあっちの山を指でいじる——瀬戸物の瓶の栓、壊れた嗅ぎ煙草入れの塗られたふた、とっくの昔に死んだ赤ん坊の髪の毛が入った金色銅のペンダント——そして決してウィンストンに買うかとは尋ねず、単にそれを味わうよう求めるのだ。かれとの話は、すり切れたオルゴールの奏でる音を聞くようなものだった。記憶の片隅から、忘れられた詩の断片をさらにひきずりだしてきた。四と二十の黒鳥についての詩があり、曲がった角の牛の詩があり、哀れなクックロビンの死についての詩があった。「ご興味があるかと思い当たったのですがね」と新しい断片を語るたびに、かれは遠慮するような笑いを浮かべるのだった。だがどの詩でも、数行以上は思い出せないのだった。

 いま起きていることが長続きしないのは二人とも知っていた——ある意味で、それが脳裏を離れたことはなかった。来るべき死の事実が、横たわるベッドなみに確固たるものに思えることもあり、二人は一種の絶望的な官能性でお互いを求め合った。まるで時計があと五分で鳴ろうというときに、呪われた魂が快楽の最後の固まりにしがみつくようなものだ。だが、安全の幻想のみならず、それが永遠に続くという幻想に囚われるときもあった。実際にこの部屋にいる限り、どんな害も及ばないような飢餓したのだ。ここまでくるのは困難で危険だったが、部屋自体は保護区なのだ。まるでウィンストンがあの文鎮の中をのぞきこみ、このガラスの世界の中に入り込めるような気がして、いったん入ればそこで時が止まると感じたときのようだった。しばしば二人は、逃避の白昼夢に浸った。この幸運が無限に続き、この密通をいまと同じように、自然に死ぬまでずっと続けられるという妄想だ。あるいはキャサリンが死んで、巧妙な手管によりウィンストンとジュリアはうまいこと結婚できる。あるいは二人とも姿を消して、どちらも見分けがつかないほど姿を変え、プロレタリア訛りで喋れるようにして、工場で仕事を見つけ、裏通りでだれにも知られずに生涯を送る。まったくのナンセンスで、二人ともそれは承知していた。現実には、逃げ出せるはずもない。唯一実行可能な計画は自殺だが、彼らはそれも実施するつもりなどなかった。日々、週ごとに、未来のない現在を紡ぐというのは止めようのない本能らしかった。ちょうど肺が、空気がある限り次の呼吸をしようとするようなものだ。

 またときどき、二人は党に対する積極的な反逆活動をしようかとも話したが、そのための第一歩をどう踏み出すべきか見当もつかなかった。あの伝説の友愛団が現実だったとしても、そこに参加する方法を見つけるという困難があった。彼は自分とオブライエンとの間に存在する、というか存在するように思える、不思議な親密性についてジュリアに話した。ときどき、オブライエンの目の前にあっさり進み出て、自分が党の敵だと宣言して、支援を要求しようという衝動を感じるのだとも告げた。なかなかおもしろいこととして、これはあり得ないほど性急な行動だとはジュリアは考えなかった。彼女は人々を顔で判断するのに慣れていたから、ウィンストンが目つきの一閃だけでオブライエンを信頼できる人物と考えるのは自然なことだと思ったのだ。さらに彼女は、あらゆる人、またはほとんどあらゆる人が実はこっそり党を嫌っており、安全だと思えば当然ルールを破ると思っていた。だが、広範な組織化された反対勢力が存在するとも、存在できるとも信じようとはしなかった。ジュリアによれば、ゴールドスタインとその地下勢力のおとぎ話は、党が自らの狙いをもって発明したゴミクズの束でしかなく、人々は単にそれを信じるふりをするしかないのだと彼女は言う。彼女は党の集会や自発的なデモで、名前を聞いたこともなく、その犯罪と称するものなどこれっぽっちも信じていない人々の処刑を求めて、数え切れないほど絶叫してきた。公開裁判が起きているときには、法廷を朝から晩まで取り囲む青年連盟の連隊に参加し、ときどき「裏切り者に死を!」と叫んだ。二分憎悪の間は、ゴールドスタイン罵倒で彼女はだれにも負けなかった。だが、ゴールドスタインというのがだれで、どんな教義を代表しているのやら、彼女は本当に漠然としか知らないのだった。彼女は革命後に育ち、五〇年代や六〇年代のイデオロギー闘争のことなど若すぎて記憶になかった。独立した政治運動などという代物は、彼女の想像力の範疇にはなかった。そしていずれにしても党は無敵だった。常に存在し、いつも変わらないのだ。それに反逆しようと思ったら、秘密の不服従か、せいぜいが誰かを殺したり何かを爆破したりといった、孤立した暴力行動しかないのだ。

 ある面で彼女はウィンストンよりはるかに鋭く、党のプロパガンダにはるかにだまされにくかった。何かのついでにユーラシアに対する戦争に言及したら、彼女は戦争なんか起きていないと思っていると平然と言ってのけて、ウィンストンを驚愕させた。ロンドンに毎日のように墜ちているロケット爆弾は、おそらくオセアニア政府が「単にみんなをこわがらせておくために」自ら発射しているのだろうと言う。これはまさに、ウィンストンがまったく思いもよらなかった発想だった。彼女はまた、二分憎悪でいちばん苦労するのは、何とか爆笑しないようにすることだ、と述べたので、ウィンストンはいささかうらやましく思った。だが党の教えを疑問視するのは、それが何らかの形で自分自身の生活に関係してきたときだけだった。しばしばあっさり公式のおとぎ話を平然と受け入れたが、それは真実と嘘との差が彼女には重要に思えないからなのだった。たとえば彼女は、学校で教わったからということで、飛行機を発明したのは党だと信じていた (50年代のウィンストン自身の学校時代には、確か党が発明したと主張していたのは、ヘリコプターだけだったはずだ。一ダースほどの年がたち、ジュリアが学校にいるときには、すでに飛行機も自分の発明に仕立てていたのか。もう一世代たてば蒸気機関も党の発明にされていることだろう)。そして飛行機なんか自分が生まれる前から、革命のはるか以前から存在したとウィンストンが告げても、その事実は彼女にとって、まったくどうでもいいことなのだった。結局のところ、飛行機なんかだれが発明したってどうでもいいじゃない、というわけだ。それ以上にいささか衝撃だったのは、何かちょっとした一言から、オセアニアが四年前にはイースタシアと戦争していて、ユーラシアとは講和状態だったというのを覚えていないことがわかったときだった。確かに彼女は、戦争そのものがインチキだとは思っていたが、明らかに敵の名前がかわったことすら気がついていないのだった。「ずっとユーラシアと戦争してたんじゃなかったっけ」とジュリアは漠然と言った。ウィンストンは少し恐くなった。飛行機の発明は彼女が生まれるはるか前のできごとだが、戦争の敵の切り替えはたった四年前、彼女が成人したずっと後に起きている。それについて、ジュリアと四分の一時間ほども議論しただろうか。最終的には彼女の記憶をむりやり取り戻させるのに成功し、確かにかつてはユーラシアではなくイースタシアが敵だったと、彼女もぼんやり思い出した。だがこの問題は相変わらず彼女にとってはどうでもいいことだった。「それがどうしたっての? いつだって、次から次へくだらない戦争じゃない。どのみちニュースなんて全部ウソなのはわかってんだし」

 ときどき、記録部のことと、自分がそこでやっている恥知らずな偽造について話した。彼女はそれで別に震え上がるようでもなかった。ウソが真実になると思っても、足下に開く奈落を感じたりはしないのだ。ジョーンズ、アーロンソン、ラザフォードの話をして、一瞬だけ指の間でつまんだ重大な紙切れの話をした。彼女はちっとも感銘を受けなかった。それどころか、そもそもこの話の意味すら最初は理解できなかったのだ。

「お友だちだったの?」

「いや、まったく知らない。党中心の人々なんだ。それに私よりはるかに高齢だ。革命前の古き時代の人々だ。ほとんど見たこともないくらい」

「だったら何心配してんのよ。みんなしょっちゅう殺されてるでしょうに」

 かれは何とかわからせようとした。「これは突出した話なんだ。単にだれかが殺されたとかいうだけのことじゃない。過去が、昨日以前の過去が本当に消し去れたというのがわからないか? それがどこかに生き残っているとしても、それは何か数少ない具体的なものについていて、そこには何の言葉もついていない。あそこのガラスのかたまりみたいなもんだ。すでに私たちは、革命と革命以前の日々のことなんか、文字通り何も知らない。あらゆる記録は破壊されるか偽造され、あらゆる本は書き直され、あらゆる絵は描き直され、あらゆる彫像や街路や建物の名前が変えられる、あらゆる日付が改変されている。そしてそのプロセスが、一日ごと、一分ごとに続いているんだ。歴史は止まった。存在するのは果てしない現在だけで、そこでは党が常に正しい。もちろん私は、過去が偽造されているのは知っている。でもそれを証明するのは絶対に不可能なんだ。その偽造をやったのが私であっても。偽造が終われば証拠は何もない。唯一の証拠はこっちの頭の中だけで、他に私の記憶を共有する人間がいるかどうか、絶対に確信できない。生涯で、そのたった一度の瞬間だけ、事後の確固たる証拠を手にしていたんだ——事件の何年も後に」

「で、それが何の役にたったの?」

「何も、だって数分後に捨ててしまったから。でも同じことが今日起きたら取っておいただろう」

「ふん、あたしならそんなことはしない。リスクを冒す気は十分あるけど、でも何かそれなりの見返りがいるじゃん。古新聞の切れ端なんかのためじゃない。それを取っておいたとしても、何ができるっての?」

「大したことはできないだろう。でも証拠なんだ。あちこちに疑念を植えつけることはできただろう、あえてだれかにそれを見せたらの話だが。私たちの生きている間には何も変えられるとは思わない。だがあちこちで小さな抵抗のかけらが湧き起こるのは想像できる——小さな集団が結束して、次第に成長し、ヘタをすれば多少は記録も残して、次世代がその後を引き継げるようにするんだ」

「次の世代なんかに興味はないの。興味あるのはあたしたちのことだけ」

「君ってのは、下半身だけの反逆者だな」そう言うと、彼女はこれが見事なほど気が利いていると思って、喜んで抱きついてきた。

 党の教義が持つ意味合いについて、彼女はこれっぽっちも興味がなかった。こちらが英社主義(イングソック)の原理や二重思考、過去の可変性、客観的現実の否定について話始め、ニュースピーク用語の使用を始めるたびに、彼女は退屈して混乱し、そんなものは全然気にしたことがないと述べるのだった。そんなのみんなゴミクズだと知ってるんだから、心配しなくていいじゃない? 歓声をあげるべきときと、罵声を浴びせるべきときはわかっていたし、それだけで十分。それでもこの手の話を続けようとすれば、彼女は寝てしまうという心折れる習慣を持っていた。いつ、どんな体勢でも眠れる人間の一人なのだ。彼女と話をするうちに、正統性の外見を保ちつつ、その正統性がどんなものかまるで理解せずにいるのが実に簡単だということに気がついた。ある意味で、党の世界観というのは、それを理解できない人々にこそ、もっともうまく押しつけられるのだ。そういう連中には、現実の最もとんでもない侵害ですら受け入れさせられる。どれほど壮絶なことを要求されているか決して完全には理解できず、何が起きているかに気がつくほど、世間のできごとに関心がないのだ。理解しないことで彼らは正気でいられる。単にあらゆることを鵜呑みにするが、鵜呑みにしても何も害はない。それは何も残滓を残さず、まるで鳥の身体を消化されずに通り抜ける穀物のようなものだからだ。

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第6章

 

 

 ついに起こった。待っていたメッセージが届いたのだ。生涯にわたり、これが起こるのを待っていたように思えた。

 省の長い廊下を歩いていて、ジュリアがメモを手にすべりこませた地点の寸前まできたところで、自分より大柄なだれかが背後を歩いているのに気がついた。その人物は、だれだか知らないが軽く咳払いして、どうやら何かを話す前触れらしかった。ウィンストンは急停止して振り返った。オブライエンだった。

 ついに二人は対面したが、ウィンストンの唯一の衝動は逃げ出すことに思えた。鼓動が暴力的に高まった。何も口をきけなかった。だがオブライエンは同じ動きで前進を続け、ウィンストンの腕に一瞬親しげな手を置いたので、二人は並んで歩いていた。彼は党内部のメンバーの大半と一線を画す、特有の深い親しみをこめて話し始めた。

「君と話す機会があればと思っていた。先日『タイムズ』で君のニュースピーク記事を読んでね。君はニュースピークに学術的な興味を持っているとお見受けするが?」

 ウィンストンは、少し自制心を取り戻した。「学術的なんてとても。ただの素人です。私の仕事の対象でもない。言語の実際の構築にはまったく関わっておりませんし」

「だが君は非常にエレガントな書きぶりだよ。これは私だけの意見じゃない。最近、まちがいなく専門家と言うべき君の友人と話をしていたんだがね。その名前はちょっと失念してしまったが」

 またもやウィンストンの心が痛み揺れた。これはサイムについての言及以外の何物でもあり得なかった。だがサイムは死んだばかりか、廃止されており非人間になっていた。サイムのことだとはっきりわかる言及は、命に関わるほど危険だった。オブライエンの言及は明らかに合図、暗号として意図されていたにちがいない。ちょっとした思考犯罪を示すことで、彼は二人を共犯者に仕立てたのだ。二人はゆっくりと廊下を下ったが、こんどはオブライエンが足を止めた。あの身ぶりにいつもこめられている、奇妙な、警戒を解くような親しみやすさで、彼は鼻の上のメガネを調整した。そして先を続けた。

「本当に言いたかったのはだね、君の論説では古くなった単語が二つ使われていたのに気がついたということなんだ。だがそれが古くなったのは、ごく最近のことだ。『ニュースピーク辞典』第十版は見たかね?」

 ウィンストンは答えた。「いいえ。まだ十版は出ていないと思います。記録部ではまだ九版を使っています」

「十版はあと数ヶ月は登場しないはずだ。だが見本版が出回っている。私も一冊持っているが、興味があれば見てみるかね?」

「はい、是非とも」ウィンストンは、即座に、これがどこへ向かおうとしているかを理解した。

「新しい展開の中にはきわめて巧妙なものもある。動詞の数の削減——この部分は君にはさぞおもしろかろう。そうだな、伝令に辞典を持たせて届けようか? だがどうも私は必ずその手のものを忘れるたちなんだ。君の都合にあわせて、私のアパートまで取りに来てもらうというのはどうかな。待った。これが住所だ」

 二人はテレスクリーンの前に立っていた。いささかうわの空で、オブライエンはポケットを二つ探って、小さな革装のノートと金色のインキ鉛筆を取り出した。テレスクリーンの真ん前で、その道具の向こうはして見ているものならだれでも書いた内容を読めるような一で、オブライエンは住所を殴り書き、そのページを破ってウィンストンに渡した。

「晩にはおおむね家にいる。いなくても、召使いが辞典を渡してくれる」

 そしてかれは立ち去り、紙切れを手にしたウィンストンを後に残した。今回はそれを隠す必要はなかった。それでも彼は、書かれたことを慎重に暗記して、数時間後に大量の他の紙といっしょに記憶穴に落とし込んだ。

 二人がしゃべっていたのは、最大でもほんの数分だっただろう。この一件が持ち得る意味合いはたった一つしかない。これはウィンストンに、オブライエンの住所を報せる方法として仕組まれたものなのだ。これは不可欠だった。直接尋ねない限り、だれかの住所は決してわからないからだ。住所録のようなものはまったくなかった。「私に会いたければ、ここにいるぞ」というのがオブライエンの言いたいことなのだった。辞典のどこかにメッセージが隠されていることさえあり得る。だがいずれにしても、確実なことが一つあった。夢見た陰謀は本当に実在しており、自分はその外周部に到達したのだ。

 自分が遅かれ早かれオブライエンの呼び出しに応えるのはわかっていた。明日か、それともずっと後になってか——確信は持てなかった。いま起きているのは、何年も前に始まったプロセスの展開でしかなかった。その第一歩は秘密のどうしようもない考えで、二歩目は日記を開くことだった。考えを言葉にして、いまや言葉を行動に移すのだ。最後の一歩は、愛情省で起こる何かだ。彼はそれを受け入れていた。終わりは始まりに含まれていた。だが恐ろしいものだった。あるいはもっと厳密には、死の前触れのようなもので、前より少し命が減るようなものなのだ。オブライエンと話をしている間にもすでに、その言葉の意味が腹に落ちると、身体が寒気で震えるような気分に囚われた。墓場の湿り気に踏み出したような感覚だった。そしてそれが大してマシというわけではなかった。墓がそこにあり、自分を待ちうけているのはずっと知っていたからだ。

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第7章

 

 

 ウィンストンは目にいっぱい涙を浮かべて目を覚ました。ジュリアが眠そうに転がって身を寄せ、「どうしたの」のようなことをもごもご言った。

「夢で——」と始めたが、そこで止まった。複雑すぎて言葉にできない。夢自体もあるが、それにつながった記憶があり、それが目を覚ましてから数秒後に頭に泳いで入ってきたのだった。

 かれは目を閉じたまま横たわり、まだ夢の雰囲気に動揺していた。莫大で輝かしい夢で、全人生が雨後の夏の晩の風景のように目の前に広がるのだ。そのすべてがガラスの文鎮内で起きたが、ガラスの表面は天蓋であり、その天蓋の中のすべては、明るく柔らかい光であふれ、その中では果てしなく見通せるのだった。またその夢は、母親が行った腕の身ぶりを通じて理解されたものだった——ある意味ではその腕の動きで構成されていたのだ。その動きは、三十年後にニュース映画で観たユダヤ人女性が繰り返した動きでもあり、小さな少年を銃弾から守ろうとした動きだが、その直後にヘリコプターが二人とも粉々に吹き飛ばしてしまったのだった。

「なあ知ってたか? この瞬間まで私は、自分が母親を殺したと思い込んできたんだ」

「なんで殺したの?」とジュリアはほとんど眠りかけて言った。

「殺していないよ。物理的にはね」

 夢の中で、かれは最後に見た母親の姿を思い出し、そして数秒ほど目覚めるうちに、それを取り巻く小さなできごとの群れがすべて戻ってきた。長年にわたり自分が意図的に意識から押し出してきたらしき記憶だった。日付は確信がなかったが、それが起きたときには十歳未満ではなかったはずで、十二歳だったかもしれない。

 父親はしばらく前に消失していたが、どれほど前かは思い出せない。当時の不確実で落ち着かない状況のほうがよく怯えている。空襲と地下鉄駅への避難をめぐる定期的なパニック、そこらじゅうに瓦礫の山、街頭に張られたわけのわからない宣言、全員同じ色のシャツを来た若者の群れ、パン屋にできるすさまじい行列、遠くで聞こえる間歇的な機関銃——何よりも、常に食べ物が十分にないという事実。他の少年たちと午後に長い時間をかけて、ゴミ箱やくず入れを漁り、キャベツの葉の芯やジャガイモの皮、ときには酸っぱくなったパン屑を引っ張り出して、そこから慎重に灰を取りのぞいたりした。さらに一部のルートで移動するトラックの通過を待ったりもした。そのトラックは牛のエサを積んでいるのがわかっていて、道の穴でゆれると、ときには油かすを少しこぼしたりするのだ。

 父親が消失したとき、母親は一切驚いたり、激しい悲しみを示したりしなかったが、突然の変化を見せた。完全に魂が抜けたようになったのだ。必ず起こるとわかっている何かを母が待っているのは、ウィンストンにさえわかった。やるべきことは全部こなした——料理、洗濯、繕い、ベッドの整え、床掃除、マントルピースのほこり払い——いつもきわめてゆっくりと、奇妙なほど余計な動作がなく、絵描きの使うマネキン人形がひとりでに動いているかのようだった。その大きく豊満な身体は、放っておけば自然に静止に戻るかのようだった。ときには何時間にもわたり、母はほとんど身動きせずにベッドにすわり、妹をあやし続けた。妹は小さく病気でほとんど音を立てない、二歳か三歳の子どもで、顔はやせこけてサルめいている。ごくたまに、母はウィンストンを抱いて、何もいわずにずっと身体に押しつけるのだった。幼く自分勝手なウィンストンであっても、これが今後起こるはずの、決して口に出されぬできごとと何か関係しているのはわかった。

 家族が暮らしていた部屋を思い出した。暗く、すえた匂いの部屋で、その半分が白い掛け布団を持つベッドに占領されていた。炉格子にガスこんろがあり、食べ物を入れる棚があり、外の踊り場には数部屋で共用している茶色い陶器の流しがあった。母親の彫像のような身体がガスコンロの上にかがめられ、シチュー鍋の何かをかき混ぜているところを覚えている。何よりも絶え間ない空腹と、食事どきのあさましい激闘を覚えていた。母親を責め立てるように、何度も何度も、なぜもっと食べ物がなにか尋ね、母親に怒鳴って激怒し (自分の声色さえおぼえていた。その声はすでに声変わりし始めていて、ときには変などら声になった)、あるいは自分の分け前以上をもらおうとして、泣き言じみた哀れっぽい調子を試してみたりするのだ。母はいつも、取り分以上を与えてはくれた。かれが「男の子だから」最大の分け前をもらうのが当然だと思っていたのだ。だが母親がいくらくれても、必ずもっとよこせとウィンストンは要求した。食事ごとに母は、自分勝手を言ってはダメで、妹は病気で食べ物がいるんだというのを忘れないでと諫めたが、無駄だった。母がよそうのをやめると、怒りで叫び出し、シチュー鍋とスプーンを母の手からむしり取ろうとして、妹の皿からかけらをひっつかんだりする。自分が他の二人を飢えさせているのはわかっていたが、自分が抑えられなかった。自分にはその権利があるとさえ思った。お腹の壮絶な飢えがそれを正当化するように思えたのだ。食事の間には、母親が見張っていないと、絶えず棚の乏しい食事の蓄えをくすね続けていた。

 ある日、チョコレートの配給があった。過去何週間も何ヵ月も、そんな配給はなかった。その貴重なチョコのかたまりは、かなりはっきり覚えている。一家三人で、二オンスの板チョコだった (当時はまだオンスが使われていた)。三等分すべきなのは明らかだった。いきなり、他人の声を聞くように、自分が大音量で全部自分によこせと要求しているのが聞こえた。母は、欲張るなと告げた。長くしつこい口論になり、それが堂々巡りで、怒鳴り声と哀れに求める声、涙、抗弁、取引が行われた。小さな妹は両手で母親にしがみつき、まさに子ザルのようで、母の肩越しに大きく悲しげな目でこちらを見つめていた。最後に、母はチョコの四分の三を割ってウィンストンに与え、残りの四分の一を妹に渡した。女の子はそれを手に持って、ぼんやりと見つめた。なんだか知らなかったのかもしれない。ウィンストンは、一瞬突っ立って妹を見ていた。そしていきなり素早く飛び上がって、チョコのかけらを妹の手からもぎ取り、ドアめがけて駆けだした。

 母親が後から呼びかけた。「ウィンストン、ウィンストン! 戻りなさい! 妹にチョコを返して!」

 かれは立ち止まったが、戻らなかった。母親の心配そうな目がこちらの顔をじっと見ていた。いまだにかれはそのことを考えても、そのときに起ころうとしていたのがなんだかわからなかった。妹は、何か取られたのはわかっていて、弱々しい泣き声をあげはじめた。母は妹を抱きしめて、その顔を乳房におしつけた。その身ぶりの何かで、妹が死にかけているとわかった。かれは背を向けて階段を駆け下りた。手の中ではチョコレートがベトベトになり始めていた。

 二度と母親を見ることはなかった。チョコレートを貪り喰ってから、少し後ろめたくなり、数時間街路をうろついたが、お腹が空いたので家に帰ったのだ。帰ると、母親は消えていた。これはその頃にはあたりまえのことになりつつあった。部屋からは母親と妹以外何もなくなっていなかった。服も持って行かず、母親のコートさえそのままだった。いまだに彼は、母親が本当に死んだのかまったく確実なことはわからない。単に強制労働キャンプに送られただけということも十分あり得る。妹はといえば、ウィンストン自信と同様に、内戦の結果として生まれた、家なき子たちのためのコロニー(教化センターと呼ばれていた)に除去されたのかもしれず、あるいは母親といっしょに労働キャンプに送られたかもしれず、あっさりどこかに置き去りにされて見殺しにされたのかもしれなかった。

 その夢はまだ脳裏に鮮明で、特に母の腕の、保護するような動きには、そのあらゆる意味がこめられているようだった。思いは二ヵ月前の別の夢に移った。ちょうど子どもをしがみつかせたまま、貧相な白い掛け布団のベッドにすわっていたのとまったく同じように、その夢の母も自分のはるか下の沈んだ船にすわっていて、一分ごとにますます深く溺れゆくが、それなのに暗くなる水を通してこちらを見上げていたのだ。

 ジュリアに、母親の喪失の話をした。彼女は目も開けずに転がって、もっと快適な姿勢に落ち着いた。

「その頃のあんた、ケダモノじみたブタ小僧だったんでしょうね。子どもはみんなブタだから」と彼女はもごもごと言った。

「うん。だがいまの話の本当のポイントというのは——」

 その息づかいから、彼女がまた眠りに落ちようとしているのは明らかだった。母の話を続けたいとは思った。記憶から判断する限り、母親は決して変わった女性ではなく、まして知的な女性などではなかった。それでありながら、彼女はある種の気高さ、ある種の純粋さを持っていた。それは単に、彼女が従っていた基準が個人的なものだったせいだ。彼女の気持ちは彼女自身のもので、外部からは変えられなかった。何の効果もない行動が、それ故に無意味だなどとは、彼女は思いもよらなかった。だれかを愛したなら、愛したのであり、他に何も与えるものがなくても、それでも愛は与えるのだ。最後のチョコレートがなくなったとき、母は子どもを腕に抱きしめた。それは無駄で、何も変えはしなかったし、チョコレートを増やしもしなかったし、子どもの死も自分自身の死も回避はできなかった。だが彼女はそうすることが自然だと思ったのだ。船の難民女性がやはり男の子を腕で覆ったのは、銃弾に対して紙切れほどの役にもたたなかった。党がやった恐ろしいことは、物質世界に対する力をすべて奪っておきながら、単なる衝動、単なる気持など何の意味もないと思い込ませてしまったことなのだ。いったん党に掌握されてしまえば、自分の感じること、感じないこと、やることややらなかったことは、文字通り何のちがいも生み出さない。何が起ころうとこちらは消滅し、自分もその行動も、二度とだれにも伝わらない。歴史の流れからきれいさっぱり取りのぞかれてしまう。だがほんの二世代前の人々にとっては、これはまるで重要なことには思えなかっただろう。かれらは歴史を改変しようとしていなかったからだ。かれらは個人としての忠誠心に動かされており、その忠誠心を疑問視することはなかった。重要なのは個人の関係であり、まったく無防備な身ぶり、抱擁、涙、臨終の男にかける言葉は、それ自体として価値を持つ。いきなり思い当たったが、プロレたちはこの状態にとどまっていたのだ。党や国や思想に忠実ではなく、お互いに対して忠実なのだ。生涯で初めて、ウィンストンはプロレを軽蔑もせず、またいつの日か目覚めて世界を再生してくれるはずの、単なる不活性の力として見るのも止めた。プロレたちは人間のままでいたのだ。内面を硬直させなかった。自分ですら意識的な努力により学び直さねばならない原初的な感情にしがみついていた。そしてこれを考える中で思い出したのは、一見すると特に関係もないのだが、数週間前にちぎれた手が歩道に転がっているのを見て、それを自分がキャベツの茎であるかのように、ドブに蹴り込んだことだった。

「プロレたちは人間だ。私たちは人間じゃない」とかれは声に出した。

「なんで?」再び目を覚ましたジュリアが言った。

 かれは少し考えた。「私たちにできる最善の策は、手遅れになる前にあっさりここから出ていって、お互い二度と会わないことだと思い当たったことはないか?」

「ええ、それは何度か頭に浮かんだけど。でもやっぱりそれはいや」

「私たちはこれまでツイていたが、長続きはするまい。君は若い。普通で罪のない人間に見える。私のような人間に近づかないようにすれば、あと五十年は生き続けられるかもしれないんだ」

「いいえ。一通り考えぬいたの。あなたのやることは、あたしもやる。そう悪い方に考えなさんなって。あたし、生き続けるのは結構うまいんだから」

「私たちが一緒にいられるのは、あと六ヵ月——一年——わかるはずもない。最後にはまちがいなく引き離される。二人とも、どれほど徹底的に孤独になるかわかっているのか? いったん捕まったら、どっちも相手のためにできることは何もなくなる。文字通り何も。私が自白したら、君が射殺され、自白を拒否したら、やっぱり君は射殺される。私のやることも言うことも、あるいは言わないことすら、何一つとして君の死を五分も先送りできないんだ。二人とも相手の生死すらわからない。どちらのまったく何の力も持てなくなる。唯一だいじなのは、どちらもお互いを裏切らないということだが、それですら、いささかのちがいも生み出さない」

「裏切るって、自白のことなら、もちろん二人ともやるでしょうよ。みんな必ず自白はするんだから。どうしようもないでしょう。あいつら拷問すんのよ」

「自白じゃない。自白は裏切りじゃない。言うことややることはどうでもいい。大事なのは気持だけだ。あいつらが、君を愛するのを止めさせられたら——それが本当の裏切りだ」

 彼女はそれを思案した。そして最後に行った。「あいつらにも、それはできない。どんなことでも、言わせることはできる——どんなことでも——でも、それを信じさせることはできないよ。こっちの内面には入ってこれない」

「そうだな」と彼は、少しばかり希望をこめて言った。「そうだな。確かにその通り。内面には入ってこれない。何も結果にちがいはなくても、人間のままでいるのが大切だと感じるなら、あいつらを打ち負かしたことになる」

 決して眠らない耳を持つテレスクリーンのことを考えた。昼夜こちらをスパイはできるが、頭をしっかり使えば、それでもあいつらを出し抜ける。あいつらが身につけた小知恵がいくらあっても、他の人間が何を考えているかつきとめるための秘密は決して身につけてはいない。本当にあいつらの手に落ちてしまえば、そうでもないのかもしれない。愛情省の中で何が起きるかはだれも知らないが、見当はつく。拷問、薬、神経反応を記録する繊細な機械、眠らせず一人きりにして、絶えず質問攻めにすることで次第にこちらを弱める。どのみち事実は隠しとおせない。調べれば追跡され、拷問で絞り出せる。だが生き延びることではなく、人間のままでいることが狙いなら、それが最終的にどうだというのか? 気持を変えさせることはできない。それを言うなら、自分でも、やりたくても自分の気持ちは変えられない。発言や行動や思考のすべてを極度に細かく暴くことはできる。だが心の奥底、その仕組みが自分にとってすら謎の心は、不可侵のままなのだ。

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第8章

 

 

 やった、ついにやったんだ!

 二人が立つ部屋は、細長くて柔らかく照らされていた。テレスクリーンは低いつぶやきにまで音量がしぼってあった。濃い青のじゅうたんの豊かさはビロードを歩いているような印象を与えた。部屋の向こう端にオブライエンが、緑の覆いをつけたランプの下にすわり、両側に大量の書類を積み上げていた。召使いがジュリアとウィンストンに入るよう示したときも、あえて顔を上げようとはしなかった。

 ウィンストンの胸はあまりに高鳴りすぎて、自分がまともに話せるかも自信がなかった。やったんだ、ついにやったんだ、としか考えられなかった。ここにくること自体が軽率だったし、ふたりいっしょにくるなど、愚行のきわみだった。とはいえ二人とも別々の道筋でやってきて、オブライエンの戸口にくるまで会わなかったのだが。だがこうした場所に足を踏み入れるだけでも、かなり神経をすり減らした。党中心の住まいの中を見るなどめったにないことで、かれらの暮らす町の一角に足を入り込むことさえ珍しかった。このアパートの巨大な街区、あらゆるものの豊かさと広々とした様子、よい食べ物とよいタバコの馴染みのない香り、静かでおそろしいほど素早いエレベーターの上下動、あちことへと急ぐ白いお仕着せの召使いたち——すべてが尻込みさせるものだった。ここにくるよい口実はあったが、いきなり角から黒制服の警備兵が登場し、書類を見せろと言い、出ていけと命じるのではないかという恐れに一歩ごとに襲われるのだった。だがオブライエンの召使いは、二人をためらわずに入れた。白い上着の小柄で黒髪の男で、ダイヤ型の完全に無表情な顔、まるで中国人のような顔だった。案内された通路は柔らかい絨毯がしかれ、クリーム紙の壁紙と白い腰板で、すべてがほこり一つ無いほど清潔だ。これもまたひるませるものだった。ウィンストンは、人間の身体が接触して薄汚れていない壁を持つ通路など、見た記憶がまったくなかった。

 オブライエンは、指で紙切れをつまんで、それを熱心に調べているようだった。その重たい顔は、うつむいていて鼻筋が見えたが、侮れない様子で知的に見えた。二十秒ほども、身じろぎ一つせずにすわっていただろうか。それから話筆機を引き寄せて、省庁のハイブリッド専門用語でメッセージを一気に口走った。

「第一テン五テン七は全面承認マル六の中の提案は愚劣二プラス思想犯罪寸前削除せよマル機械類総経費の総プラス見積出る未建設作業は非進行マル通信終わり」

 彼はもったいをつけて椅子から立ち上がると、無音の絨毯を横切ってこちらにやってきた。ニュースピーク語とともに、お役人じみた雰囲気が少し薄れたようだったが、その表情はいつもよりも陰気で、まるで邪魔されて不愉快だとでも言うようだった。ウィンストンがすでに感じていた恐怖を、ごく普通の恥ずかしさの一閃が貫いた。自分がばかげたまちがいをしでかしたことも十分あり得そうに思えたのだ。というのも、オブライエンが何やら政治的な陰謀家だなどという証拠など、現実に何があっただろうか? 目の輝きと、たった一言のそれらしき発言だけだ。それ以外は自分の秘密の想像で、それが夢の上に乗っているだけだ。辞典を借りに来たという口実に立ち戻ることもできなかった。というのもそれならばジュリアの存在が説明つかないからだ。テレスクリーンの前を通り過ぎるとき、オブライエンが何か思いついたようだった。かれは立ち止まり、横を向いて壁のスイッチを押した。パチッという鋭い音がした。声が止まった。

 ジュリアが小声をたてた。一種の驚きの叫びだ。自分のパニックの最中だというのに、ウィンストンもあっけにとられて、つい口走ってしまった。

「消せるんですか!」

 オブライエンは言った。「そう、消せるんだ。我々にはその特権がある」。いまやかれは二人と向き合っていた。そのがっしりした身体が二人を見下ろし、その表情はいまだに解読不能だった。かれはウィンストンがしゃべるのを、いささかいかめしい様子で待っていたが、何をしゃべればいい? この辞典ですら、かれが単なる忙しい人物で、なんで邪魔されたのかと苛立っているだけという可能性はあった。だれも口を開かなかった。テレスクリーンが切られてから、部屋は死んだように静まりかえった気がした。刻々と過ぎる秒がずいぶん長く感じられた。苦労しつつもウィンストンは、オブライエンの目を見続けた。するといきなり、その陰気な顔が、何か微笑の発端のようにも見えるものへと崩れた。そのトレードマークのような身ぶりで、彼は鼻の上のメガネを直した。

「私が言おうか、それとも君が言うか?」

「私が言います」とウィンストンは即座に言った。「あれは本当に切られてるんですね?」

「ああ、すべては切られている。我々しかおらん」

「私たちがここにきたのは——」

 ウィンストンは間をおいた。始めて、自分の動機がいかに漠然としたものかに気がついたのだ。オブライエンからどんな支援を期待しているのか、実は自分でもわかっていなかったので、なぜ自分がここにきたかを言うのも容易ではなかった。先を続けたが、言っていることが頼りない、思い上がったものだというのは自覚していた。

「何か陰謀団があると考えています。何か秘密組織で、党への反対活動をしていて、あなたがその関係者だと思っています。私たちも参加して働きたいのです。私たちは党の敵です。英社主義(イングソック)の原理を信じていません。思考犯罪者です。また不倫者です。これをお話するのは、自分たちをあなたに委ねたいと思うからです。他の形で私たちを告発なさりたいなら、その覚悟はあります」

 かれは立ち止まり、ドアが開いたのを感じて肩越しにのぞいた。すると確かに、あの小柄な黄色い顔の召使いがノックもなしに入ってきたところだった。それがデキャンターとグラスをのせたお盆を持っているのをウィンストンは見た。

 オブライエンは平然と言った。「マーティンも一味なのだよ。飲み物をこっちに持ってきてくれ、マーティン。丸テーブルにのせてくれ。椅子は足りているか? ならみんなすわって、落ち着いて話をしよう。マーティン、自分の椅子も持ってきてくれ。これから十分は召使いをやめていいぞ」

 小男はすわり、すっかりくつろぎつつ、それでもまだ召使いめいた雰囲気を漂わせていた。従者が特権を楽しんでいるという雰囲気だ。ウィンストンは視界の端でかれを眺めた。この人物は全人生がある役割を演じることなのだという気がした。だからかれは、その仮装の人格を一瞬たりとも捨てるのが危険だと感じてしまうのだ。オブライエンはデキャンターの首をつかんで、グラスを濃い赤の液体で満たした。それを見てウィンストンは、何か壁か掲示板で見た何かのおぼろな記憶が引き出された——電球で構築された巨大なびんで、それが上がったり下がったりして、中身をグラスに注いでいるように見えるのだ。てっぺんから見るとその代物はほとんど黒く見えたが、デキャンターの中ではルビーのように輝いていた。甘酸っぱい匂いを放っていた。ジュリアが自分のグラスを取って、露骨な好奇心をこめてそれを嗅いでいるのが見えた。

 オブライエンはかすかな微笑を浮かべた。「ワインと呼ばれている。本で読んだことはあるはずだろう。残念ながら党外縁にはあまり出回らないようだがな」そして再び真面目な顔になり、グラスを掲げた。「まずは健康に乾杯するところからはじめるのがふさわしいと思うがね。そして我々の指導者に乾杯。エマヌエル・ゴールドスタインに」

 ウィンストンは何かせき立てられるようにそのグラスを手に取った。これは呼んだこともあり、夢見てきたものだった。ガラスの文鎮やチャリントンさんの忘れかけた韻文のように、それは消えたロマンチックな過去に属したのだ。秘密の考えの中では古の時代と呼ぶのが好きな時代だ。どういうわけか、ずっとワインはきわめて甘いもので、ブラックベリーのジャムのような味で、すぐに酔ってしまうものだと思っていた。実際には、飲み込んでみると、この代物は実にがっかりするものだった。本当のことを言えば、長年ジンを飲んできた後では、ほとんどワインの味など感じられなかった。かれは空のグラスを置いた。

「ではゴールドスタインは実在するんですね?」

「ああ、実在するし、健在だ。どこにいるかは知らん」

「そして陰謀は——組織は? 本当なんですか? 思考警察の単なるでっちあげではない?」

「いや、本当だ。友愛団と我々は呼んでいる。それが実在して君も一員だという以上は、友愛団のことはあまり知ることはないだろう。その話はすぐにするが」とかれは腕時計を見た。「党中心のメンバーですら、テレスクリーンを半時間以上切っておくのは賢明ではない。君たちはいっしょにくるべきではなかったし、帰りは別々に帰らなければいけない。同志、君が」——とジュリアに会釈し——「先に帰りなさい。二十分ほど余裕がある。わかると思うが、まずいくつか質問をさせてもらう。一般的に言って、何をする覚悟がある?」

「できることなら何でも」とウィンストン。

 オブライエンは椅子にすわったまま身体を回転させてウィンストンと対面した。ジュリアのことはほとんど無視しており、ウィンストンが彼女を代弁するのが当然と思っているようだった。一瞬、まぶたがはためいた。そして低い、感情のない声で質問をはじめた。まるで決まり切った、一種の教義問答でもあるかのようで、その答のほとんどはすでにわかっているとでも言うようだった。

「命を捧げる覚悟は?」

「あります」

「人を殺す覚悟は?」

「あります」

「何百人もの無実の人々の死につながりかねない妨害工作を行う覚悟は?」

「あります」

「自国を裏切って外国に売り渡す覚悟は?」

「あります」

「インチキをして、偽造し、脅迫し、子供たちの精神を汚し、習慣性ある薬物を配布し、売春を奨励し、性病をばらまく覚悟はあるか——道徳の頽廃を引き起こして党の力を弱めそうなことはなんでもするか?」

「します」

「たとえば、子どもの顔に硫酸をかけるのが我々の利益にかなうようなことがあれば——それもやる覚悟はあるか?」

「あります」

「己の正体を捨てて、残り一生を、給仕や港湾労働者として送る覚悟はあるな?」

「あります」

「我々が命令すれば自殺する覚悟もあるな?」

「あります」

「二人とも、離ればなれになって二度とお互いに会えなくなる覚悟はあるか?」

「いや!」とジュリアが割り込んだ。

 自分が答えるまでに、長い時間がかかったような気がした。一瞬ウィンストンは、口をきく能力が奪われたような気さえした。下は無言で動き、一つの単語の最初の音節を形成してから、もう一つのほうに移り、それが何度も何度も繰り返された。実際に言うまで、自分がどちらの単語を言うのかわからなかった。「いいえ」とついにかれは言った。

「正直に答えてくれてありがたい。我々としてはすべて知っておく必要があるのでね」とオブライエン。

 そしてジュリアに向き直り、いささか気持のこもった声で付け加えた。

「この人が生き延びても、まったく別人になっているかもしれないのはわかるかね? 新しい身元を与えねばならなくなるかもしれん。顔、動き、手の形、髪の色——声すら変わってしまう。そして君自身もちがった人物になっているかもしれない。我々の世界は、人々をまったく見分けがつかないほど変えてしまえるのだ。ときにはそれが必要となる。ときには脚や腕を切断することさえある」

 ウィンストンは、マーチンの蒙古風の顔をもう一度脇目で見ずにはいられなかった。目に見える傷はなかった。ジュリアは少し青ざめ、そばかすが見えていた。だが大胆にオブライエンと向き合った。何かをつぶやいたが、了承のようだった。

「よろしい。この話は片付いた」

 テーブルの上には、紙巻きタバコの銀の箱があった。いささかうわの空で、オブライエンはそれを他のみんなのほうに押しやり、自分でも一本取って、立ち上がるとゆっくり行ったり来たりし始めて、まるで立っているほうがよく考えられるとでもいうようだった。それはとても上質の紙巻きタバコで、高密でしっかり中身も詰まっており、紙も馴染みがないほどすべすべしていた。オブライエンなまた腕時計を見た。

「マーティン、配膳室に戻ったほうがいい。十五分でスイッチを入れる。戻る前にこの同志たちの顔をよく見ておいてくれ。再び会うことになるだろう。私はわからん」

 玄関でやったのとまったく同じように、小男の黒い目は一同の顔を見つつまたたいた。その態度には親しみのかけらもなかった。かれはみんなの外見を記憶していたが、それに何の興味も抱かず、特に興味も感じなかいかのようだ。ウィンストンは、合成の顔はその表情を変えられないのかも知れないと思い当たった。口もきかず、一切の会釈もなく、マーティンは部屋を出て、背後で静かにドアを閉めた。オブライエンは、黒いオーバーオールのポケットに片手を突っ込み、もう片方の手で紙巻きタバコを持ちつつ、部屋を行ったり来たりした。

「まったく何もわからない状態で戦うことになるのはわかるな? いつも何もわからない。命令を受けてそれに従うが、その理由はわからない。後で我々の住む社会の本当の性質と、我々がそれを破壊するための戦略を学べる本を送ろう。その本を読んだら、友愛団の正式メンバーになれる。だが我々の戦いが奉じる全般的な目標と、この辞典での目先の作業以外、君は何も知ることがない。友愛団が存在するとは告げたが、そのメンバーが百人なのか、一千万なのかは教えられない。君の個人的な知識からだと、メンバーが一ダースもいるのかさえ断言はできない。接触相手は三人か四人で、それも消滅するにつれて時々更新される。これが君たちの最初の接触相手だったから、それは温存される。命令を受け取るときには私からくる。我々が君とやりとりを必要とするなら、それはマーティンを通じて行われる。最終的に君たちがつかまったら、自白する。それは避けられない。だが君たち自身の行動以外には、自白することはほとんどない。どうでもいい人間を一握り以上は裏切ることができないのだ。おそらくは私さえも裏切ることはないだろう。その頃には、私は死んでいるか、ちがった顔のちがった人物になっているだろう」

 かれは柔らかいじゅうたん上で、行ったり来たりを続けた。その身体のボリューム感にもかかわらず、その動きには驚くほどの優雅さがあった。それは片手をポケットに突っ込んだり、紙巻きタバコを扱ったりする身ぶりにさえも現れた。彼が与える印象は、強さにも増して、自信と理解に皮肉がかすかに混じったものだった。どれほど一途であっていても、かれは狂信者が持つ、他のすべてを度外視するような態度はまったくなった。殺人、自殺、性病、四肢の切断、顔の改変の話をするときには、かすかにからかうような調子があった。その声はこう言うようだった。「これは避けられないことなのだよ。これは我々が、目をそむけることなくやらねばならないことなのだが、人生が再び生きる価値のあるものとなったら、我々はこんなことをしたりはしない」。尊敬の波、ほとんど崇拝の波が、ウィンストンからオブライエンに向けて発せられた。その瞬間に、彼はゴールドスタインの影のような姿を忘れていた。オブライエンの強力な肩と、そのぶっきらぼうな顔つき、実に醜いのに実に文明的なその顔つきを見ると、かれを倒せるなどと信じるのは不可能だった。かれを出し抜けるような策略は存在せず、予見できない危険も存在しないのだ。ジュリアですら感銘を受けたようだった。タバコの火が消えたのも忘れて、一心に聞き入っていたのだ。オブライエンは続けた。

「友愛団の存在について、噂は聞いただろう。自分なりにそれについての考えを形成したはずだね。たぶんそれが、巨大な陰謀家の地下世界で、それが地下室でこっそり集まり、壁にメッセージを書き殴り、合い言葉や特別な手振りでお互いを見分けるといったものを想像しただろう。そのようなものは存在しない。友愛団のメンバーたちは、お互いを見分ける手段をもたず、どのメンバーも、他にほんの数人以上の正体を知ることはできない。ゴールドスタイン当人ですら、思考警察につかまったとしても、メンバー全員の一覧や、完全な一覧につながるようなどんな状況も提供できない。そんな一覧は存在しないのだよ。友愛団は一層できない。というのもそれは通常の意味での組織ではないからなんだ。それをまとめているのは思想だけで、それは破壊できない。その思想以外には何も己を支えるものはない。仲間意識も奨励も得られることはない。ついにつかまったときにも、何の助けも得られない。メンバーたちを決して助けたりはしないのだ。せいぜい、だれかを黙らせることが絶対的に必要な場合には、ときどき囚人の独房にカミソリの刃をこっそり持ち込むことはできる。結果も無く希望もなしに生きるのに慣れねばならない。しばらく働き、やがてつかまり、自白し、死ぬ。君が見る結果はこれだけだ。自分の生涯に何か目に見える変化が起こる可能性はない。我々は死者なのだ。我々の真の命は未来にある。我々はそこに、一握りの塵と骨のかけらとしてそこに参加する。だがその未来がどんなに遠いものかは、知りようがない。千年先かもしれない。現在では、正気の領域を少しずつ広げる以外には何もできることはない。我々は集団としては行動できない。個人から個人へと知識を外に広げられるだけで、それが世代毎に続くのだ。思考警察がいる以上、それ以外の方法はない」

 かれは足を止め、三度目の腕時計確認をした。そしてジュリアに言った。

「同志、そろそろ帰ってもらう時間だ。待った。デキャンターがまだ半分残っている」

 彼はグラスをそれぞれ見たし、その足を持って自分のグラスを掲げた。

「こんどは何に乾杯しようか?」と彼は、相変わらずかすかな皮肉を匂わせつつ言った。「思考警察の混乱に? ビッグ・ブラザーの死に? 人類に? 未来に?」

「過去に」とウィンストン。

「過去のほうが重要だ」と重々しくオブライエンも同意した。グラスを空け、ジュリアは即座に立ち上がって帰ろうとした。オブライエンは戸棚のてっぺんから小さな箱を取り出し、そこから彼女に平らな白い錠剤を渡して、舌の上に載せておくように行った。ワインの匂いをさせたまま外へ出ないのが肝心だという。エレベーターの操作員たちはきわめて観察力が鋭いのだ。彼女の背後でドアが閉まった瞬間、オブライエンは彼女の存在など忘れたかのようだった。そしてまたちょっと行ったり来たりしてから、足を止めた。

「細かい話を詰めておこう。どこかに何かの隠れ家を持っているかと思うが?」

 ウィンストンは、チャリントンさんの店の上にある部屋について話した。

「とりあえずはそれでいい。後で別のものを手配しよう。隠れ家はひんぱんに変えねばならない。それまでに、できるだけ早めにあの本を君に送ろう」——オブライエンですら、その一語が強調されているかのように発音したのにウィンストンは気がついた——「むろんゴールドスタインの本のことだ。一冊手に入れるまでにしばらくかかるだろう。あまり数がないものでね、ご想像のとおり。思考警察が、こっちの作るのに負けない速さでそれを追いかけて破壊するんだ。それで何が変わるわけでもないんだがね。あの本は破壊不可能なんだよ。最後の一冊が消えても、ほとんど一言一句を頭から再現できる。仕事にはブリーフケースを持っていくね?」とかれは付け加えた。

「はい、いつも」

「どんなヤツだ?」

「黒、ものすごくおんぼろで、ベルトが二本あります」

「黒、ベルト二本、ものすごくおんぼろ——よろしい。遠からぬ将来のある日——正確な日付はわからん——午前中の仕事の一つに、何か印刷ミスの単語があるので、反復を要求することになる。その翌日、ブリーフケースを持たずに仕事に行け。その日のどこかで、街頭で男が君の腕に触れて『ブリーフケースを落とされましたよ』と言う。その男が渡すブリーフケースに、ゴールドスタインの本が入っている。十四日以内に返却すること」

 二人ともしばし無言だった。

「あと数分で君にも帰ってもらう。再び会うだろう——そして会うときには——」

 ウィンストンは顔を上げた。「暗闇のない場所で、ですか?」

 オブライエンは驚いた様子もなくうなずいた。「暗闇のない場所で」とまるでそのほのめかしに気がついたかのように言う。「さてそれでは、立ち去る前に何か言いたいことは? 何かメッセージでも? 何か質問でも?」

 ウィンストンは思案した。それ以上尋ねたい質問はないようだった。まして、何やら大仰な一般論をここで口走りたい気もしなかった。オブライエンや友愛団と直接関係したことを何か尋ねるかわりに、かれの頭に浮かんだのは、母が最期の日々を過ごした薄暗いベッドルームと、チャリントンさんの店の上にある小部屋とが言わばいりまじったものと、あのガラスの文鎮と、ローズウッドの額に入った鉄版画だった。ほとんど思いつきのようにかれは口を開いた。

「オレンジにレモン、とセントクレメントの鐘、で始まる古い詩を聞いたことはあったりしますか?」

 またもオブライエンはうなずいた。一種の深い慇懃さで、かれはその一連を完成させた。

オレンジにレモン、とセントクレメントの鐘
お代は三ファージング、とセントマーチンズの鐘
お支払いはいつ、とオールドベイリーの鐘
お金持ちになったら、とショーディッチの鐘

「最後の行をご存じなんですね!」とウィンストン。

「そうだ。最後の行を知っている。さて残念だが君はもう行ってくれ。いや待て。あの錠剤を一つ提供させてくれ」

 ウィンストンが立ち上がると、オブライエンは手を差し出した。その強力な握手はこちらの手のひらの骨を潰しそうだった。戸口で振り返ったが、オブライエンはすでに、こちらのことを眼中から締めだそうとしているようだった。テレスクリーンを制御するスイッチに手を置いて待っている。その向こうにウィンストンは、緑の傘を持つランプと、話筆機と、書類がいっぱいに詰まった針金のバスケット群が見えた。この一件はおしまいだ。三十秒もしないうちに、オブライエンは中断された重要な党の仕事に戻るのだ、とウィンストンは思い当たった 1


  1.  訳注:オーウェル自身の最後の草稿では、ここに次の一節があったとのこと:

     二百メートルほども進んだだろうか、二つの街灯の中間にある暗がりにたどりついたところで、何か柔らかいものがぶつかってきたのでびっくりした。次の瞬間、ジュリアの腕がしっかりこちらの腕に巻きついていた。
     「ほら、最初の命令を破ったのがわかるよね」と彼女は唇をこちらの耳に寄せて囁いた。「でも我慢できなくて。明日の予定を決めなかったでしょ。聞いて」と彼女はいつものやり方で、次の逢瀬について指示を与えた。「じゃあね。おやすみ、愛しい人。おやすみなさい!」
     彼女はこちらの頬を、ほとんど荒っぽく何度もキスしてから、壁の影にすべりこんで、すぐに姿を消した。その唇は冷たく、暗闇の中でその顔は蒼白だったように思えた。彼女が待っていたのは、次の逢瀬を手配するためだったとはいえ、彼女からの抱擁は、何かお別れとして意図されていたのだという奇妙な印象があった。↩︎

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第9章

 

 

 ウィンストンはくたくたで、身体がゼリー状になっていた。ゼリー状というのが適切な用語だ。それは唐突に頭に浮かんだのだった。身体は、ゼリーの弱さだけでなく、その半透明性も持っているように思えた。手のひらを掲げたら、透かして光が見えるような気がした。血液もリンパ液も、すさまじい仕事の山で干上がってしまい、弱々しい神経や骨や皮膚の構造だけが残っていた。あらゆる感覚が増幅されるようだった。オーバーオールが肩に食い込み、歩道が足をくすぐり、手の開閉すら一苦労で関節がきしむ。

 五日で九十時間以上も働いた。省の他のみんなも同様だった。いまやそれがすべて終わり、彼は文字通り手持ち無沙汰だった。どんな性質の党の仕事も、翌朝まではなかったのだ。六時間を隠れ家で過ごし、さらに九時間を自分のベッドで過ごすこともできた。ゆっくりと、穏やかな午後の日差しの中で、かれは貧相な通りをチャリントンさんの店のほうに歩きつつ、常にパトロールを警戒し続けたが、この午後にはだれもじゃまするやつはいないと、不合理にも確信していた。抱えている重いブリーフケースが一歩ごとにひざにぶつかり、脚の皮膚にピリピリするような感覚を走らせていた。その中にはあの本がある。すでに六日にわたり保有していたのだが、まだ開いてもおらず、見てもいなかった。

 憎悪週間の六日目、行進や演説、叫び、歌、横断幕、ポスター、映画、蝋人形、響く太鼓とキイキイとしたトランペット、行進する足の踏みならす音、戦車のキャタピラ音、大量に集まった飛行機の轟音、轟く銃声——それが六日も続き、巨大なオルガズムが身もだえしつつ絶頂へと近づき、ユーラシアの全般的な憎悪が極度に沸騰して譫妄状態となり、もし行事の最終日に公開絞首刑となる予定のユーラシア戦争犯罪者二千人をこの連中が捕まえたら、全員引きちぎられたのは疑問の余地がない——ちょうどこの瞬間に、オセアニアは実はユーラシアとはまったく戦争していないと発表された。オセアニアは、イースタシアと戦争をしている。ユーラシアは同盟相手なのだ。

 もちろん、何か変化が生じたなどと認める発言は一切なかった。単にそれが発表され、それもあまりに突然で、あらゆるところで一気に、ユーラシアではなくイースタシアが敵だと報されたのだ。ウィンストンはそれが起きたとき、ロンドン中心部の広場でデモに参加していた。夜で、白い顔と深紅の横断幕がたっぷりと投光器で照らされていた。広場は何千人ほどでいっぱいで、スパイ団制服を着た学童千人ほどのかたまりもいた。深紅の垂れ幕をかけた演台では、党中心からの弁舌家、小柄でやせていて、異様に長い腕と巨大なはげ頭にバラバラの巻き毛がくっついた人物が、群集を煽っていた。このランプルスティルツキンのような小男が、憎悪で顔を歪め、片手でマイクの首を握りつつ、もう片方の手 (骨張った腕の先端ですさまじい大きさだ) が頭上の空気を恐ろしげに握りしめた。その声は、アンプのせいで金属っぽく、果てしない残虐行為、虐殺、強制移住、収奪、強姦、囚人拷問、民間人爆撃、嘘まみれのプロパガンダ、不当な攻撃、条約違反などの果てしないカタログをがなり立てていた。それに耳を傾ければ、まず説得され、その後頭がおかしくならずにはいられない。数瞬ごとに、群集の怒りが沸騰して、話者の声は何千もののどから抑えようもなく発せられる、野生の獣じみた罵声にかき消されてしまう。最も壮絶な叫びはすべて学童たちからやってきた。その演説が、二十分も続いただろうか、そこへ伝令が急いで演壇に駆け上がり、話者の手に巻いた紙切れが押し込まれた。かれは演説を中断することなく、その紙を開いて読んだ。声も態度もまったく変わらず、また発言の内容も一切変化しなかったが、いきなり名前が変わった。何も言われずに、群集の間に理解の波が走った。オセアニアはイースタシアと戦争しているのだ! 次の瞬間、すさまじい動揺が起きた。広場を彩る横断幕やポスターはすべてまちがっているのだ! そのほぼ半数は、まちがった顔が描かれている。妨害工作だ! ゴールドスタインの手先が暗躍していたんだ! 暴動じみた幕間が生じ、ポスターが壁から破り取られ、横断幕がビリビリに破かれて踏みにじられた。スパイ団たちは屋根の上によじ登り、煙突からはためく吹き流しを切断するという暴挙に出た。だが二、三分もするとすべては終わった。演説家はまだマイクの首を握り、肩を前に丸めたまま、空いた手で空をつかみ、そのまま演説を続けた。さらに一分で、群集からは再び動物めいた怒号が噴出していた。憎悪は前とまったく同じように続き、ただその標的だけが変わっていた。

 振り返って見てウィンストンが感心したのは、話者がある行から次へと切り替えたのが文章の途中であり、しかも間を空けることもなく、構文さえも乱さなかったということだった。だがそのときのウィンストンには他に専念すべきことがあった。ポスターが引きちぎられている混乱の瞬間に、顔を見る余裕の無かった男が肩を叩いたのだ。「失礼、ブリーフケースを落とされましたよ」。ウィンストンはうわの空で、ブリーフケースを無言で受け取った。その中身を見る機会ができるまでに何日もかかるのはわかっていた。デモが終わった瞬間、すでに23時になっていたのに、かれは真実省に直行した。真実省の全職員もそうしていた。すでにテレスクリーンから発せられる命令は、全員を職場に呼び戻るものだったが、ほとんど必要ないものだった。

 オセアニアはイースタシアと戦争していた。オセアニアは昔からずっとイースタシアと戦争していたのだ。過去五年の政治文献の相当部分は、いまや完全に廃れた。各種の報告や記録、新聞、書籍、パンフレット、映画、録音、写真——すべて電光石火で修正が必要だった。何の指令も発行されていなかったが、各部長が一週間以内に、ユーラシアとの戦争やイースタシアとの同盟について、一切の言及がどこにも残らないように意図しているのは周知のこととなった。圧倒的な作業量であり、しかも必要とされるプロセスは本当の名前では呼べないため、苦労はさらに増した。記録部の全員が二十四時間のうち十八時間働き、睡眠時間はギリギリ三時間とれるだけだった。物置からマットレスが運び込まれ、廊下中に並べられた。食事は、食堂の服務員たちが手押し車で運んで来る、サンドイッチと勝利コーヒーだ。仮眠のため中断するときには、毎回ウィンストンは机の上から作業を一掃するようにしたが、眠たく痛む目をして仕事に這い戻る頃には、気送管の紙筒の洪水が、またもや吹雪のように机を覆っていて、話筆機を半ば覆い隠し、床にまでこぼれ落ちていたから、最初の作業はいつも、それを多少なりともきちんとした山に積み上げて、作業場所を空けることなのだった。何よりもひどいのは、その作業がまったくもって純粋に機械的なものではないということだった。名前を入れ替えるだけで十分なことも多かったが、できごとの少しでも詳細な報告だと、配慮と想像力が求められた。戦争を世界のこちらからあちらへと移転させるために必要な地理的知識ですら、かなりのものなのだ。

 三日目になると目が耐えがたいほど痛み、メガネを数分ごとに拭かねばならなかった。背骨の折れそうな肉体的作業で苦闘しているようなものだ。それは拒否する権利はあるのだが、それでも神経症的なほどやりとげたくてたまらない作業なのだ。記憶する余裕がある限り、話筆機につぶやいたあらゆる言葉、インク鉛筆のあらゆる執筆が、意図的なウソだったという事実はまったく気にもならなかった。部の全員と同じく、その偽造が完璧となるように注意を払っていた。六日目のある朝、気送管を流れてくる筒の流れが減速した。最大半時間にわたり、気送管から何も出てこない。そして一つ筒がやってきて、その後は何もなし。どこでもほぼ同じ頃に、仕事が落ち着き始めていた。部の中を、深いながらも秘密のため息が走った。決して口に出せぬ偉業が実現したのだ。いまやどんな人間だろうと、ユーラシアとの戦争が起こったのを文書記録で証明することはできないのだ。1200時には、省の全職員は明日の朝まで自由だという予想外の発表があった。ウィンストンは、作業中にずっと足の間に置かれており、寝るときには身体の下にあったスーツケースを相変わらず抱えたまま、家に帰り、ヒゲを剃り、風呂の中で水温がぬるま湯程度でしかなかったのに眠りこんでしまいそうになった。

 何やら官能的に関節をきしませながら、かれはチャリントンさんの店の上にある階段を上った。疲れていたが、もう眠くはなかった。窓を開け、汚いちいさな石油コンロに点火すると、コーヒー用に水を入れた鍋をかけた。間もなくジュリアもくるだろう。一方で、本があった。彼はその自堕落な安楽椅子にすわり、ブリーフケースのベルトを解いた。

 素人じみた製本の、重たい黒い本で、表紙には題名も著者も書かれていない。印刷もいささか不揃いだ。ページのふちはボロボロで、すぐにちぎれてしまう。まるでその本が多くの人々の手を経てきたかのようだ。題扉にはこう書かれていた。

 

寡頭制集産主義の理論と実践

エマヌエル・ゴールドスタイン著

 

 ウィンストンは読み始めた。

 

第I章 無知は力

 有史以来、おそらくは新石器時代末以来、この世には三種類の人々がいた。上級、中級、 下層である。これらはいろいろさらに細かく分けられ、無数のちがった名前で呼ばれ、そ の相対的な数は、それぞれのお互いに対する態度と同様に、時代によって変わってきた。 だが社会の基本構造は決して変わらなかった。すさまじい社会蜂起や、一見すると回復不 能の変化の後でも、同じパターンが常にまたも確立してきた。ちょうどジャイロスコープ が常に、どれほど遠くあちらこちらに押しやられても常に均衡に戻るのと同じである。

 こうした集団の狙いはまったく相容れないものであり……

 

 ウィンストンは読むのを止めた。主に、自分が快適かつ安全に読んでいるという事実を改めて噛みしめるためだ。一人きりだ。テレスクリーンもなく、鍵穴で聞き耳をたてる者もなく、肩越しにだれかいないかうかがったり、手でページを覆ったりする不安な衝動もない。甘い夏の空気が頬を撫でた。どこか遠くから、子どもの叫び声がかすかに漂ってきた。部屋そのものの中では、時計の虫の音のような音以外何も聞こえない。彼は安楽椅子にさらに深く腰を落ち着け、炉格子に足を投げ出した。至福であり、永遠だった。いきなり、いずれは一語残らず読み通し、再読するとわかっている本でときどきやるように、彼はいい加減なページを開くと、第III章にやってきた。そのまま読み進めた。

 

第III章 戦争は平和

 世界を三つの大きな超国家に分割するというのは、実のところ20世紀半ば以前の時点で予想できたし、実際予想されていた。ヨーロッパがロシアに吸収され、大英帝国がアメリカ合衆国に吸収されることで、既存の三大列強のうち二つ、ユーラシアとオセアニアが、すでに実質的に誕生していた。第三のイースタシアが明確なまとまりとしてやっと登場したのは、さらに十年にわたる混乱した戦いの後でのことであった。超国家三つの間の国境は、場所によっては恣意的であり、また場所によっては戦況に応じて変動するが、全般的には地理的な境界に従う。ユーラシアはポルトガルからベーリング海峡に到る、ヨーロッパとアジアの陸塊のうち北部で構成される。オセアニアは南北アメリカ大陸、イギリス諸島を含む大西洋の島々、オーストラリア・アジア、アフリカ南部で構成される。イースタシアは他の二つよりは小さく、西側国境もあまりはっきりしないが、中国とその南の国々、日本列島、さらに大規模ながらはっきりしない、満州、モンゴル、チベットの一部で構成されている。

 この三つの超国家は、組み合わせはいろいろながら、継続的に戦争を続けており、過去二十五年にわたりそれが続いてきた。だが戦争は、もはや、20世紀初頭の必死の殲滅闘争ではなくなった。それは目的の限られた、お互いを破壊できない戦闘員たちの間の戦いであり、戦いの物質的な原因はなく、またまともなイデオロギー的相違により敵味方が別れているわけでもない。だからといって、戦争という行いや、それに対する一般的な態度が、昔ほど流血を求めないとか、気高いものになったとかいうわけではない。それどころか、戦争ヒステリーがあらゆる国で、継続的かつ普遍的なものとなり、強姦、収奪、子どもの虐殺、住民まるごとの奴隷化、釜ゆでや生き埋めにまで到る、捕虜に対する意趣返しといった行為は、通常のものとみなされ、それを行うのが自国側で敵ではない場合には、むしろ有益なこととされるのである。だが物理的な意味では、戦争はきわめて少数の人々しか関与せず、そのほとんどはきわめて高い訓練を受けた専門家であり、死傷者もそれほど多くはない。戦闘は、それが起こるときですら、どこかはっきりしない国境地帯で起こるのであり、一般の人はそれがどこにあるか憶測しかできない。あるいはシーレーンにおける戦略的な場所を守る浮遊要塞の周辺で起こるにとどまる。文明の中心においては、戦争とは絶え間ない消費財不足以上の意味は持たず、またたまにロケット爆弾が炸裂し、数十人ほどの死者が生じるだけなのである。戦争は実のところ、その性質を変えた。より厳密に言うなれば、戦争が遂行される理由の重要性の順序が変わったのである。20世紀初頭の世界大戦で、すでに多少は存在していた動機が、いまや支配的なものとなり、意識的に認知され、それに基づいて行動が行われるのである。

 現在の戦争の性質を理解するためには——というのも数年ごとに敵味方の再編は行われても、いつも同じ戦争ではあるのだ——そもそも決定的な勝利などあり得ないことを認識する必要がある。三つの超国家のどれ一つとして、他の二つが手を組んだとしても、完全な征服は不可能である。あまりに勢力が均衡しており、自然の防御があまりにしっかりしすぎているためである。ユーラシアはその広大な陸で保護され、オセアニアは大西洋と太平洋に守られ、イースタシアはその住民の多産性と勤勉さにより保護されている。第二に、物質的な意味では、もはや戦うべき理由などない。自給自足の経済が確立し、生産と消費がお互いにあわせて調整されるようになると、それまでの戦争の主要な原因だった市場獲得争いは終わりを告げ、さらに原材料をめぐる競争はもはや死活問題ではなくなった。いずれにしても、三つの超国家すべてはあまりに広大であり、必要な原材料はほぼすべて自国内で調達できるのである。戦争に直接的な経済目的があるとすれば、それは労働力をめぐる戦争である。超国家の国境の間には、その三大勢力のどれもが継続的には保有していない、大ざっぱな四辺形が存在する。その頂点はタンジール、ブラザヴィル、ダーウィン、香港であり、その中に世界人口の5分の1ほどがいる。この人口高密地帯と北極の氷冠地帯の支配をめぐり、三大列強は絶えず戦っている。実際には、どの超国家もこの紛争地帯の全体を支配することはない。その様々な部分は絶えず所有者が変わり、突然の裏切りによりあちこちの断片を掌握する可能性が生まれることで、果てしない同盟関係の変化が生じるというわけなのだ。

 紛争領土のすべては価値の高い鉱物資源があり、その一部はゴムなどの重要な植物製品を生み出す。ゴムは寒冷気候では比較的高価な手法で合成しなければならないのである。だが何よりも、その地域は底知れぬほどの安い労働力の備蓄を有している。アフリカの赤道地域や中東諸国や南インド、インドネシア群島を支配する列強は、低賃金で頑張って働くクーリーども数十億人の肉体を手に入れられる。こうした地域の住民は、大なり小なり公然と奴隷の地位に貶められ、征服者から征服者へと絶え間なく手を換え、ますます多くの武器を生み出す競争において、石炭や石油のように消費される。そしてそれによりますます多くの領土を捕獲し、ますます多くの労働力を手に入れ、武器をもっと作り、さらに領土を捕獲し、それがいつまでも続く。戦いは決して紛争地帯の縁からまともには動かないことは指摘しておこう。ユーラシアの国境は、コンゴ河床と北の地中海岸との間を行ったり来たりしている。インド洋と太平洋の島々は、絶えずオセアニアかイースタシアにより、取ったり取られたりしている。モンゴルでは、ユーラシアとイースタシアの分割線は決して安定していない。極地では、三大勢力はどれも莫大な領土を主張しているが、実際のところそこはほとんど人が住まず、探索もされていない。だがパワーバランスは常にほぼ均等であり、それぞれの超国家の中心地は常に不可侵のままである。さらに赤道周辺の収奪された人々の労働は、実は世界経済に必須ではない。世界の富には何も貢献することがない。というのも彼らが生産するものはすべて戦争のために使われ、そして戦争を仕掛ける目的は常に、次の戦争を仕掛ける立場を改善することだからである。奴隷人口はその労働により、戦争のテンポの絶え間ない加速を可能にする。だが彼らがいなかったとしても、世界社会の構造と、それが己を維持するプロセスに、本質的なちがいは生じない。

 現代戦争の主要な狙いは (二重思考の原理に沿って、この狙いは党中心の指導者の脳内では、同時に認識されつつ認識されていない)、この機械の産物を使い果たしつつ、全体的な生活水準を抑えておくことである。19世紀末以来、消費財の余剰分をどうするかという問題は、工業社会に潜伏していた。現在では、食べものが充分にある人間がほとんどいないので、この問題は明らかに喫急のものではなく、人工的な破壊プロセスが作用していなくても、緊急性を持たないかもしれない。今日の世界は、1914年以前に存在した世界と比べて、むき出しで、飢えた、荒廃した場所となっており、その当時の人々が未来に待望していた仮想の未来と比べれば、その度合いはなおさらひどい。20世紀初頭に、信じられないほど豊かで、娯楽が豊富で、秩序だち、効率的な未来社会のビジョン——ガラスと鋼鉄と雪のように白いコンクリートの、きらめく消毒された世界——は、ほとんどあらゆる教養人の意識の一部であった。科学と技術はとんでもない速度で進歩しており、それが今後も続くと考えるのが自然に思えた。だがこれは実現しなかった。一部は長期にわたる戦争や革命が引き起こした貧窮のせいであり、一部は科学技術の進歩は思考の実証的な習慣に依存するもので、それは厳格に型にはめられた社会では生き残れないせいでもある。全体としての世界は、五十年前よりも原始的になっている。一部の後進地域は進歩したし、各種の装置も、戦争や警察監視と何らかの形で関連したものに限られるが、開発はされた。だが実験と発明はおおむね止まり、1950年代の核戦争の災禍は完全に修復されることはなかった。それでも、この仕組みに内在する危険はまだ残っている。この仕組みが初めて登場したときから、ものを考えるあらゆる人には、人間の単純労働の必要性、ひいては人間の不平等の相当部分の必要性が消えたのは明らかであった。この仕組みが意図的にその目的のために使われたなら、飢餓、過重労働、不潔さ、文盲、病気は数世代で消し去れる。そして実のところ、そうした目的にまったく向けられなかったのに、一種の自動的なプロセスによって——分配しないわけにはいかない富を生産することで——この仕組みは平均的な人間の生活水準を、19世紀末から20世紀初めの五十年ほどの期間に、大幅に引き上げたのである。

 だが、富の全面的な増大は、階級社会の破壊しかねないものだった——それどころかまさに富の全般的な増大こそがその破壊なのだった。みんながあまり働かず、飽食し、洗面所と冷蔵庫のある家に住み、自動車や飛行機さえ持っている世界では、最も露骨で最も重要かもしれない不平等形態はすでに消えている。それが普通になれば、富はもはや差をもたらさない。もちろん、個人的な所有物や豪華品という意味での富が均等に分配されつつ、権力が少数の特権カーストの手にとどまるような社会を想像することはできた。だが実際には、そんな社会は長期にわたり安定ではいられない。というのも、もし娯楽と安全が万人に享受されるようになれば、通常は貧困で何も考えられない人間の大衆が、読み書きできるようになり、自分の頭で考えられるようになってしまうからだ。そしていったんそれを始めたら、彼らは遅かれ早かれ、特権を持つ少数派は何の役割も果たしていないことに気がつき、それを一掃してしまうだろう。長期的には、階級社会は貧困と無知の基盤の上でのみ可能だったのである。20世紀初頭の一部の思想家が夢見たような、農業的な過去に戻るのは、実行可能な解決策ではなかった。これはほとんど全世界で本能同然となった機械化の傾向と衝突するものだし、さらに工業的に後進状態にとどまる国はすべて、軍事的な意味で無力であり、直接的にせよ間接的にせよ、もっと先進的な競合国により支配されることになってしまうからだ。

 また財の産出を制約することで、大衆を貧困状態にとどめておくのも、満足のいく解決策ではなかった。これは資本主義の最終フェーズ、おおむね1920年から1940年にかけてかなりの水準まで行われた。多くの国の経済が停滞するに任され、土地が耕作放棄され、資本設備は追加されず、人口の相当部分が労働を阻止されて、国の事前でぎりぎり生き延びさせられたのである。だがこれは同時に軍事的な弱さを引き起こし、さらにそれが課した窮乏は明らかに不必要なものだったので、どうしても反対が生じてしまった。問題は、産業の車輪をまわし続けながら、世界の実質的な富を増やさずにおくにはどうすべきかということだった。財は生産されねばならないが、それを流通させてはいけない。そして実際には、これを実現する唯一の方法は絶え間ない戦争状態なのである。

 戦争の本質的な活動は破壊だが、それは必ずしも人命の破壊ではなく、人間労働の産物の破壊である。戦争は、大衆をあまりに快適にして、長期的にはあまりに知的にするのに使われかねないモノを、粉々に粉砕し、成層圏に吹き飛ばし、海底に沈めてしまう手法なのである。戦争の兵器が実際には破壊されないときですら、その製造は労働力を使用しつつも、消費できるものをまったくつくり出さない簡便な手法である。たとえば浮遊要塞は、貨物船を何百隻も作れる労働を囲い込んでしまった。最終的にはそれは古くなったとしてスクラップにされてしまい、だれにも何ら物質的な便益をもたらすことはなく、そしてさらに莫大な労働力をかけて、別の浮遊要塞が建造されるのである。原理的に、戦争活動は常に、人々のギリギリのニーズを満たした後で存在する、あらゆる余剰を食い尽くすように計画される。実際には、人々のニーズは常に過少に推計され、結果として生活必需品の半分は慢性的に不足する。だがこれは利点と見なされる。優遇されている集団ですら、多少は困窮間際の状態に保つのが意図的な政策なのである。全般的な希少性は、ちょっとした特権の重要性を高め、したがって、ある集団と別の集団との区別を拡大するのだから。20世紀初頭の基準からすると、党中心のメンバーですら、倹約した苦労の多い生活を送っている。それでも、彼が享受する数少ないぜいたく——大きくて設備の整ったアパート、よい生地の衣服、高品質な食事や飲料やタバコ、召使い二、三人、私用の自動車やヘリコプター——により、彼の世界は党外周のメンバーとは隔絶されたものとなる。そして党外周のメンバーは、我々が「プロレ」と呼ぶ埋もれた大衆たちに比べれば、同様の優位性を持っているのである。社会的な雰囲気は、包囲された都市のようであり、そこでは馬肉の塊を持っているかどうかが、豊かさと貧困の差をもたらすのである。そして同時に、戦争下にある、すなわち危険に曝されているという意識のために、あらゆる権力を少数カーストに渡すのも、生き残るための自然で避けがたい条件に思えるのである。

 これから見るように、戦争は必要な破壊を実現し、しかもそれを心理的に受け入れられる形で行う。世界の余剰労働を無駄遣いするのに、神殿やピラミッドを建造したり、穴を掘ってそれを埋め直したり、果ては大量の財を生産してからそれに火を放ったりするのは、原理的には実に容易である。しかしこれは、階級社会の経済的基盤しか提供せず、情動的な基盤はもたらさない。ここで問題となっているのは、大衆の士気などではない。彼らの態度など、着実に働かせておける限りはどうでもよい。むしろ党そのものの士気が問題なのである。最も慎ましい党員ですら、有能で働き者で、狭い制約範囲内では知的であることさえ求められるが、一方ではだまされやすい無知な狂信者であってくれることも必要である。そうした人物の一般的な気分は、恐怖、憎悪、追従、オージーじみた勝利の気分でなければならない。言い換えれば、戦争状態に適切な精神を持っていることが必要なのである。その戦争が本当に起きているかはどうでもいいし。決定的な勝利が不可能である以上、その戦争の首尾不首尾もどうでもよい。必要なのは単に、戦争状態が存在することだけである。党が党員に求める知性の分裂は、戦争の雰囲気でのほうが容易に達成できるものであり、いまやそれがほぼ普遍的になっているが、党の階級を上がるほど、それはますます顕著になる。まさに党中心においてこそ、戦争ヒステリーと敵への憎悪は最強となる。統治者としての役職においては、党中心メンバーはしばしば、戦争ニュースのあれやこれやの項目が不正直であると知っておく必要があるし、また戦争全体が怪しげで、実際には起きていないか、あるいは宣言されているものとはまったくちがった目的のために遂行されているのを知っていることもある。だがそうした知識は二重思考の技法により、容易に中和化される。一方、党中心メンバーのだれも、一瞬たりとも戦争が本物だという神秘的な信念が揺らぐことはなく、それが自分たちの勝利に終わり、オセアニアが全世界の文句なしの盟主となることもまったく疑わない。

 党中心のあらゆるメンバーは、このきたるべき征服を信仰のように確信している。これは、次第にますます多くの領土を獲得し、それにより圧倒的な力の優位性を積み上げることで達成されるか、あるいは何か新しく無敵の兵器を発見することで実現される。新兵器探索はたゆみなく続き、発明的、思索的な精神の持ち主がいささかでもはけ口を見いだせる、残り少ない分野の一つとなっている。今日のオセアニアでは、古い意味での科学はほぼ消滅している。ニュースピークには「科学」を指す言葉はない。過去のあらゆる科学的な業績の基盤となる実証的な思考手法は、英社主義(イングソック)の最も根本的な原理に逆らうものである。そして技術進歩ですら、その産物が人間の自由を減らすような形で使われない限りは起こらないのである。有益な技芸の分野すべてで、世界は足踏みしているか後退している。畑は馬が引く鋤で耕されているのに、本は機械で書かれている。だがきわめて重要な事柄——つまり要するに戦争と警察の偵察——においては、実証的なアプローチがいまだに奨励されるか、少なくともお目こぼしされている。党の二つの目標は、地表面すべてを征服することと、独立思考の可能性を一気にまとめて消し去ることである。したがって、党が解決したいと思っている大きな問題は二つある。一つは、他の人間が考えていることを、当人の意志に逆らってでも発見する方法であり、もう一つは事前の警告をあたえることなしに、数秒で数億人を殺す方法である。科学研究がまだ続く限りにおいては、その研究対象はこの二つとなる。今日の科学者は、心理学者と審問官の合いの子であり、異常なほど精密に表情や身ぶり、声色の意味を研究し、薬物やショック療法、催眠術、拷問が真実をどれだけ引き出せるかを試験している。そうでなければ、その科学者は化学者、物理学者、生物学者であり、その専門領域において、人命を奪うのと関係ある部分だけに取り組んでいる。平和省の莫大な研究所や、ブラジルの森林やオーストラリアの砂漠に隠された実験所や、南極のだれも知らない島などで、専門家チームが疲れ知らずに作業を続けているのである。一部は、ひたすら将来の戦争の物流兵站面だけを考えている。また一部は、ますます大きなロケット爆弾や、ますます強力な爆薬、ますます貫通不可能な装甲を考案している。また、新しく致死性の高いガスを探したり、大陸まるごとの植生を破壊できるほど大量に生産できる、水溶性の毒を開発したり、考えられるあらゆる抗生物質に耐性のある病原菌を見つけたりしている。また水中の潜水艦のように地中をもぐって進む乗物を生み出そうと頑張る者もあり、飛行船として基地と独立して動ける飛行機などを作る者もいる。また太陽光を、何千キロも離れた宇宙空間に固定したレンズで集中させたり、地球の中心にある熱を利用して人工地震や津波を生み出したりするといった、さらに実現性の低い可能性さえ探究する者もいる。

 だがこうしたプロジェクトのどれ一つとして、決して実現に多少なりとも近づくことはないし、三つの超国家のうち、他に対して大幅なリードを獲得することはない。さらに驚くべきなのは、三列強がどれもすでに、原子爆弾という形で、現在の研究者たちが発見しそうなどんな兵器よりも強力なものを保有しているということである。党は、自らの習慣にしたがって、原爆を発明したのは自分だと主張するが、それが最初に登場したのはずっと昔の1940年代であり、大規模に使用されたのは、そのおよそ十年後である。当時は、何百もの原爆が工業中心地に落とされた。主にヨーロッパのロシア、西欧、北アメリカである。その影響として、万国の支配集団は、あと数個原爆が使われたら、組織化された社会の終焉、ひいては自分たちの権力の終焉を意味すると確信するに到った。その後は、公式の合意は決して交わされることも直されることもなかったが、それ以上の原爆は投下されなくなった。三列強はいずれも、単に原爆を生産し続け、遅かれ早かれやってくるとみんな信じている決定的な瞬間のためにそれを貯め込んでいるのである。そしてその間に、戦争の手法は三十年か四十年にわたりほとんど停滞したままとなっている。ヘリコプターは以前よりも多く使われるようになり、爆撃機はおおむね自力推進型の発射体に置きかえられ、脆弱な可動戦艦は、ほとんど不沈の浮遊要塞に取って代わられた。だがそれ以外の発展はまったくない。戦車、潜水艦、魚雷、機関銃、ライフルや手榴弾すらいまだに使われている。そしてマスコミやテレスクリーンで報道される果てしない虐殺にもかかわらず、数週間で数十万、果ては数百万の兵員が殺されることも多かった、以前の戦争の悲痛な戦闘は、二度と繰り返されていない。

 3つの超国家のいずれも、深刻な敗北の危険をともなう作戦行動は決して試みない。大規模作戦が実施されるときには、通常は同盟国に対する予告なしの攻撃である。三列強すべてが従っている戦略、あるいは従っているのだと自らをごまかしている戦略は同じなのだ。戦闘、交渉、タイミングのよい裏切りの攻撃により、どちらかの競合国を完全に包囲する基地の輪を獲得し、そしてその競合国と友好条約を締結し、ある程度の年月の間は平和的に共存して、疑念が眠りに落ちるようそそのかすというのが計画である。その間に、原爆を搭載したロケットが、あらゆる戦略地点で組み立てられる。最終的にそのすべてが同時に発射され、その影響はあまりに壮絶となるため、反撃は不可能となる。そうなれば、残った世界列強と友好条約を調印する頃合いだが、これまた次の攻撃の準備にすぎない。ほとんど言うまでもないことだが、この企みはただの白昼夢であり、実現不可能である。さらに、赤道と極地周辺の紛争地帯を除けば、戦闘などまったく起こりはしない。敵領土の侵略など決して実行されないのである。これにより、一部の地域では超国家同士の国境が恣意的だという事実が説明できる。たとえばユーラシアは、地理的にはヨーロッパの一部であるイギリス諸島を簡単に征服できるし、一方でオセアニアは、その国境をライン川や、果てはかつてのポーランドを流れるヴィスワ川まで押し広げることもできる。だがこれは、文化的統一性という、定式化されたことはないが全勢力が遵守している原則を侵犯することになる。オセアニアが、かつてフランスやドイツとして知られていた地域を占領したら、その住民を殲滅するか (これは物理的にきわめて困難である)、技術水準からするとオセアニアとほぼ同水準の、一億人ほどの住民を同化する必要がある。問題は、三超国家すべてで同じである。彼らの構造にとっては、外国人との接触は一切認められない。ただし限定的に、戦争捕虜や有色人種の奴隷との接触だけは容認される。その時点での公式同盟相手ですら、常にきわめて根深い疑念をもって見られている。戦争捕虜を除けば、オセアニアの平均的な市民は、ユーラシアやイースタシアの市民を決して見ることもないし、外国語の知識も禁止されている。外国人との接触が許されれば、相手も自分と似た生き物であり、それまで彼らについて告げられてきたことのほとんどがウソだと気がついてしまうからだ。彼が暮らす封印された世界が破られ、士気の根拠となっている恐怖、憎悪、自分が正しいという感覚が蒸散してしまいかねない。したがって、すべての勢力は、ペルシャやエジプトやジャワやセイロンがいくら手を替えようとも、主要な国境線は、爆弾以外の何物も越えてはならないのである。

 この下には、決して明言はされないが暗黙に理解されて遵守される事実が存在する。つまり、三つの超国家における生活条件はほぼまったく同じだということである。オセアニアで主流の哲学は英社主義(イングソック)と呼ばれ、ユーラシアでは新ボリシェヴィズムと呼ばれ、イースタシアでは通常、死滅崇拝と訳されるが、おそらく滅私奉公と解釈したほうがよいものとなっている。オセアニア市民は、他の二つの哲学の教義については一切知ってはならないとされているが、それでもそれが、道徳性と常識に対する野蛮な蹂躙だと非難するよう教わっている。実のところ、この三つの哲学はほとんど区別がつかず、それらが支える社会制度はまったく見分けがつかない。あらゆる場所に同じピラミッド構造があり、同じ半分神のような指導者の崇拝があり、果てしない戦争のため、戦争により存在する同じ経済がある。ここから、この三つの超国家はお互いを征服することはできないばかりか、征服しても何ら利益を得られないということになる。それどころか、お互いに紛争を続けることで、各勢力の維持を助けているのである。トウモロコシを三本立てかけあうようなものだ。そしていつもながら、三勢力の支配グループは、自分たちのやっていることを、認識しつつ、同時に認識していない。彼らは世界征服に命がけだが、一方で戦争が果てしなく、勝利なしで続かねばならないのを知っている。一方で、征服される危険などまったくないという事実は、英社主義(イングソック)やその競合思想体系の顕著な特徴である、現実の否定を可能にしてくれる。ここで、以前に述べたことを繰り返さねばならない。継続的になることで、戦争の性質が根本的に変わった、ということである。

 過去の時代には、戦争はほとんどその定義からして、遅かれ早かれ終わりを迎えるもので、通常はまちがいない勝利か敗北で終わった。また過去には、戦争は人間社会が物理的現実との接触を維持するための主要な装置の一つでもあった。あらゆる時代のあらゆる支配者は、追従者たちにまちがった世界観を押しつけようとしてきたが、軍事的な効果を毀損するような幻影を奨励することはできなかった。敗北は独立の喪失や、その他一般に望ましくないとされた結果を意味するので、敗北に対する予防措置は真剣なものでなければならなかった。物理的な事実は無視できなかった。哲学や宗教、倫理、政治では、二足す二は五になるかもしれないが、中や飛行機を設計しているときには、それは絶対に四でなければならない。非効率な民族は常に遅かれ早かれ征服されてしまうので、効率性を目指す闘争は妄想とは相容れないものであった。さらに効率的になるには、過去から学べる必要があり、つまりは過去に何が起きたかについて、それなりに正確な考えを持っている必要があった。新聞や歴史書はもちろん、いつも色がついていて偏向していたが、今日実践されているような偽装は不可能だっただろう。戦争は正気の確実な安全弁であり、支配階級にから見れば、それこそが安全弁として最も重要だったであろう。戦争が勝ったり負けたりするものである限り、どんな支配階級も完全に無責任にはなれなかった。

 だが戦争が文字通り継続的になると、危険でもなくなる。戦争が継続するなら軍事的必要性などというものはない。技術進歩は止まって良いし、最もあからさまな事実でも否定し無視できる。すでに見た通り、科学的と呼べる研究はまだ戦争目的で実施されてはいるが、それは基本的には一種の白昼夢であり、結果が出せなくても別に重要ではない。効率性は、軍事的効率性でさえもはや必要とされない。オセアニアでは思考警察以外の何も効率的ではない。三つの超国家がいずれも征服不能なので、それぞれは別々の宇宙であり、その中ではどんな倒錯した思考でも安全に実践できる。現実は、日常生活のニーズ——衣食住のニーズ、毒を飲み込むのを避け、最上階の窓から外に踏み出したりしないといったニーズ——を通じて圧力をかけてくるだけだ。生と死の、肉体的な快楽と肉体的な苦痛との間には、相変わらず区別があるが、それだけだ。外部世界や、過去との接触と切り離されているオセアニア市民は、外宇宙にいる人間のようなもので、どっちが上でどっちがしたか、知りようがない。そうした国家の支配者は、ファラオやカエサルたちには不可能なほど絶対的である。彼らは、被支配者たちが不都合なほど大量に餓死するのを防ぐ義務はあり、競合勢力と同じくらいの低い軍事技術水準にとどまる義務もある。だがその最低水準さえクリアすれば、現実を好き勝手な形に歪めてかまわないのである。

 従ってこの戦争は、以前の戦争の基準に基づくなら、ただのままごとでしかない。一部の反芻動物同士の戦いのようなものだ。そうした動物の角はある一定の角度に固定されているため、お互いを傷つけられないのである。だが本物でなくても、意味が無いわけではない。消費財の余剰を食い尽くし、階級社会が必要とする特殊な精神的気運を温存するのに役立つ。戦争は、これから見る通り、いまや純粋な国内事件なのである。過去には、あらゆる国の支配集団は、共通の利害を認識して戦争の破壊力を制限しようとしたこともあったとはいえ、本当にお互いに戦い、勝者は常に敗者を収奪した。我々の時代においては、彼らはお互いに戦っているのではまったくない。戦争は、それぞれの支配集団が、自国の被支配者たちに仕掛けているものである。そしてその戦争の目的は、領土の征服を行ったり防いだりすることではなく、社会の構造を安泰にしておくことである。従って「戦争」という言葉そのものが、誤解を招くものとなったわけだ。継続的なものとなることで、戦争は存在しなくなったと言うのがおそらく正確であろう。新石器時代から20世紀初頭までそれが人類に行使してきた特異な圧力は消滅し、何かまったくちがったもので置き換わったのである。 三つの超国家が、戦うのをやめて永続的な平和の下で暮らそうと合意し、それぞれが独自の国境の中で不可侵な存在として生きることにしても、その影響はほとんど変わらない。というのもその場合にも相変わらず自己完結した宇宙があり、外部の危険という正気をもたらす影響からは永遠に解放されるからである。真に永続的な平和は、永続的な戦争と同じである。これが——とはいえ党員の大半はこれを皮相的な意味でしか理解していないが——党のスローガン、「戦争は平和」の奧の意味なのである。

 

 ウィンストンはしばし読むのを止めた。はるか彼方でロケット爆弾の轟音がした。禁断の書を持って、テレスクリーンのない部屋で一人きりだという至福の感情は、まだ薄れてはいなかった。孤独と安全は物理的な感覚であり、それが何やら疲労感と椅子の柔らかさ、頬をなでる窓からのそよ風の感覚と混ざり合っていた。この本には魅了された、というより、もっと厳密には、裏付けられた気がした。ある意味で、何も目新しいことは語ってくれなかったが、それが魅力の一部ではあった。自分のとっちらかった考えをまとめられたなら、まさにこういうことを述べただろう。自分と似たような精神の産物ではあったが、その精神はすさまじく強力で、体系的で、恐れ知らずだった。最高の本は、すでに知っていることを教えてくれるものなのだ、とかれは感じた。ちょうど第I章に立ち戻ったところで、階段にジュリアの足音が聞こえたので、迎えに立ち上がった。彼女は茶色いツールバッグを床に放り出して、こちらの腕に飛び込んできた。最後に会ってから一週間以上もたっていた。

あの本が手に入ったぞ」と二人が身を離すとウィンストンは言った。

「あっそう。よかったね」とい彼女は大した興味も示さず、ほぼすぐに石油コンロの脇にしゃがんでコーヒーを淹れた。

 半時間ほどベッドで過ごしてから、二人はこの話に戻った。そこそこ涼しい晩だったので、かけぶとんを引き上げた。下からはお馴染みの歌声と、敷石にひきずるブーツの音ががした。ウィンストンが最初の訪問時にそこで見かけた、粗野な赤い腕の女性は、ほとんど裏庭の付属品のような存在だった。昼間は、彼女が洗濯おけと物干しづなの間を行進し、洗濯ばさみで自分の口を封じるのと、淫らな歌を歌い出すのを交互に繰り返さない時間などまったくないかのようだった。ジュリアはわき腹で横になり、すでに眠りに落ちる寸前のようだった。ウィンストンは床に転がっていた本に手を伸ばし、ベッドの頭の部分にもたれて身を起こした。

「これを読まないと。君もだ。友愛団の全メンバーはこれを読むことになっている」

 彼女は目を閉じた。「あんたが読んで。音読してよ。それがいちばんいいやり方。そうしたら途中でいろいろ説明もしてもらえるし」

 時計の針は六を指しており、つまりは18時ということだ。あと三、四時間ほど二人の時間がある。かれは本を膝にのせて、読み始めた。

第I章 無知は力

 有史以来、おそらくは新石器時代終わり以来、この世には三種類の人々がいた。上級、中級、下層である。これらは多くの形でさらに細かく分けられ、無数のちがった名前で呼ばれ、その相対的な数は、それぞれのお互いに対する態度と同様に、時代によって変わってきた。だが社会の基本構造は決して変わらなかった。すさまじい社会蜂起や、一見すると回復不能の変化の後でも、同じパターンが常にまたも確立してきた。ちょうどジャイロスコープが常に、どれほど遠くまであちらこちらに押しやられても常に均衡に戻るのと同じである。

 

「ジュリア、起きてるか?」とウィンストン。

「起きてる。ちゃんと聞いてるから。続けて。すばらしいじゃん」

 彼は読み続けた。

 

 こうした集団の狙いはまったく相容れないものである。上級集団のねらいは、その地位に留まることである。中級集団の狙いは、上級集団に取って代わることである。下層階級の狙いは、狙いがあるとすれば——というのも下層階級の変わらぬ特徴は、重労働にあまりに押し潰されているので、日常生活を超えることについてなど、ごくたまにしか意識にのぼらないということなのだから——あらゆる区別を廃止して、万人が平等となる社会をつくり出すことである。したがって、歴史を通じて、基本的な輪郭のまったく同じ闘争が、何度も何度も繰り返し生じる。上級集団は長期にわたり、安全に権力を握っているように見えるが、遅かれ早かれ、彼らが自信か、あるいはうまく統治する能力か、はたまたその両方を失う瞬間がやってくる。そして中級集団に打倒される。中級集団は、自分たちが自由と正義のために戦っているというふりをすることで、下層階級を味方につけるのである。だが自分たちの目的を達成した途端、中級集団は下層階級をもとの隷属状態へと追い戻し、自分たちが上級集団となる。すぐに他の集団のどれかか両方から、あたらしい中級集団が分離して、闘争が再開する。この三集団のうち、自分たちの狙いを一時的にでも達成するのに成功しない唯一の集団は、下層集団だけとなる。歴史を通じて物質的な進歩がなかったと言うと、言い過ぎになってしまう。今日の衰退期ですら、平均的な人間は数世紀前に比べ、物理的によい暮らしをしている。だが富が増えても、態度が和らいでも、改革や革命が起きても、人間の平等が一ミリたりとも実現に近づいたことはない。下層集団の観点からすれば、あらゆる歴史的変化は、ご主人たちの名前が変わる以上の大した意味を持ってはいないのである。

 19世紀末になると、このパターンの繰り返しは多くの観察者には明らかとなった。するとそこで、歴史を周期的なプロセスとして解釈する思想学派が登場し、不平等は人間生活の変えられない法則なのだということを示すのだと称するようになった。このドクトリンはもちろん、常に支持者を擁してはいたが、それがいまや提示されるやり方には重要な変化が生じていた。かつては、階層的な社会形態の必要性は、上層集団だけのドクトリンだった。王や貴族や神官たちがそれを訴え、彼らに寄生していた連中もそれを唱えた。そしてそれは、墓場の彼方にあるおとぎの国で見返りがあるのだ、という約束により和らげられていた。中層集団は、権力を求めて闘争しているときには、常に自由、正義、友愛といった用語を活用してきた。だがいまや、人類の友愛という概念は、まだ指揮を行う立場におらず、間もなくそういう立場になると願っていた人々からも攻撃を受けるようになった。かつては、中層集団は平等という旗印を掲げて革命を行い、そして古い支配階級が打倒されたとたんに、新たな圧政を確立するのだった。だが新しい中層集団は、実質的に自分たちの圧政を事前に宣言していた。19世紀初頭に登場した理論で、古代の奴隷反乱にまでさかのぼる連鎖における最後の輪となった社会主義は、まだ過去のユートピア主義に深く感染していた。だが1900年以降に登場したそれぞれの社会主義の変種においては、自由と平等を確立するという目標は、ますます公然と放棄されるようになった。20世紀半ばに登場した新たな運動、オセアニアの英社主義(イングソック)、ユーラシアの新ボリシェヴィズム、イースタシアの通称死滅崇拝は、非自由と不平等を永続化させようという意識的な狙いを持っていたのである。こうした新しい運動は、もちろん、古いものから育ってきたため、その名前は温存され、そのイデオロギーにも口先だけの賞賛は向けられた。だがそれらすべての目標は、進歩を阻止して歴史をその瞬間で凍結させることである。お馴染みの振り子の逆転がまたもや起ころうとしたところで止まった。いつもながら、上層は中層に追い出され、中層が新たな上層になるはずだった。だが今回は意識的な戦略により、上層はその地位を永続的に維持できるようになった。

 新しいドクトリンが台頭したのは、一部は歴史的知識の蓄積と、歴史感覚の成長のおかげである。そうしたものは19世紀以前はほとんど存在しなかった。歴史の循環的な動きがいまやわかるようになった、というかそう思えた。そしてそれがわかるのであれば、変えることもできる。だが主要な根底にある原因は、早ければ20世紀初頭には、人間の平等が技術的に可能になったということだった。相変わらず、人は生まれつきの才能の点では平等でなく、機能を専門特化させることで、ある個人が他の個人よりも優遇されるようにしなければならなかった。しかし、もはや階級区分も、富の大幅な差も必要がなくなってしまったのである。かつての時代には、階級区分は不可避なばかりか、望ましいものであった。不平等は文明の代償なのだ。だが機械生産の発展とともに、この主張は変わった。まだ人間はそれぞれちがう種類の仕事をする必要性はあったが、もはやちがった社会経済水準で生きる必要はもはやなくなったのである。従って、権力奪取寸前の新集団の観点からすると、人間の平等はもはや求めるべき理想ではなく、回避すべき危険となった。もっと原始的な時代には、公正で平和な社会は現実問題として不可能だったので、それを信じるのはかなり容易だった。人類が友愛状態で、法律もつらい労働もなく共存するこの世の天国という思想は、何千年も人間の想像力に取り憑いてきた。そしてこのビジョンは、それぞれの歴史的変化から実際に利益を得たグループに対してすら、ある程度の影響力を持った。フランス革命、イギリス革命、アメリカ革命の後継者たちは、人権、言論の自由、法の前の平等といった自分のご託を部分的には信じており、ある程度までは自分の行動がそうしたものの影響を受けるのを許してきた。だが20世紀の1930年代になると、政治思想の主流はすべて専制主義的になっていた。地上の天国は、まさにそれが実現可能となった瞬間に否定された。あらゆる新しい政治理論は、どんな名前を名乗ろうとも、階級と組織厳格化へと立ち戻った。そして1930年頃に確立した、全般的な先行きの困難の中で、とっくの昔に廃止され、場合によっては百年も消えていた手法——裁判なしの収監、戦争捕虜の奴隷利用、公開処刑、自白を引き出すための拷問、人質の利用、人口丸ごとの追放——は再び一般的になったばかりか、啓蒙的で先進的だと自認する人々ですら、黙認するどころか積極的に擁護するものとなったのである。

 十年にわたる国同士の戦争、内戦、革命、反革命が世界のあらゆる場所で続いた後で、ようやく英社主義(イングソック)とそのライバルたちが、完全に詰められた政治理論として台頭してきた。だがそれらは、すでに各種の一般には全体主義と呼ばれる仕組みが先駆けとなっていた。そうしたものは、20世紀初頭にすでに登場し、蔓延する混沌から台頭する世界の主要な概略は、とっくの昔に明らかだったのである。この世界をどの手の人々が統制するかも、同じく明らかであった。新たな貴族階級はもっぱら官僚、科学者、技術者、労働組合首脳、広報宣伝の専門家、社会学者、教師、ジャーナリスト、専門政治家で構成されていた。こうした人々の起源は、中産階級サラリーマンと、労働者階級の上層部にあるが、独占工業と中央集権政府による荒廃した世界によって形成され、まとめられた。過去の時代で彼らに相当する存在と比べれば、こちらはあまり貪欲ではなく、ぜいたくな暮らしにもさほど動かされず、純粋権力にも飢えてはおらず、何よりも自分たちの行動に意識的で、敵を潰すのに熱心であった。この最後の相違点が決定的である。今日存在するものと比べると、過去の圧政はすべて、中途半端で非効率であった。支配集団は常に、ある程度はリベラル思想に感染しており、そこら中でやり残しの不始末を放置しても平気で、明示的な行動だけを扱い、その被支配者たちが何を考えているかには興味を持たなかった。中世のカトリック教会ですら、現代の基準からすれば寛容であった。この理由の一部は、過去にはどんな政府も、その市民を絶えず監視下におく力を持っていなかったことである。だが印刷術の発明は、世論の操作をずっと簡単にしたし、映画とラジオはそのプロセスをさらに推し進めた。テレビの開発と、同じ道具で送受信を同時に行えるようにした技術進歩により、私生活は終わった。あらゆる市民、少なくとも監視する価値があるほど重要なあらゆる市民は、一日24時間にわたり、警察の監視下に置かれ、公式プロパガンダの音を浴びせられ、それ以外の通信チャンネルを閉ざしてしまえる。国会の意思への完全な服従のみならず、非統治者に完全な意見の均等性を強制する可能性が、いまや初めて存在するようになったのである。

 50年代と60年代の革命期の後で、社会はいつもながら、上級、中級、下層へと自らを再編した。だが新しい上級集団は、その先人たちすべてとは異なり、直感に基づいて行動はせず、自分の地位を安全に保つために何が必要かを知っていた。寡頭政治の唯一の安全な基盤が集産主義だというのは昔から認識されていた。富と特権は、共同で所有するときわめて守りやすくなる。20世紀半ばに起こった「私有財産の廃止」は、つまるところ以前よりもはるかに少数の者の手に財産を集中させるという意味なのだ。だが次のようなちがいがある。その新所有者たちは、個人の寄せ集めではなく、集団になっているのである。個人としては、党員は誰ひとり、つまらない身の回りの私物を除けば何も所有していない。集合的には、党はオセアニアのすべてを所有している。なぜならそれはすべてを統制し、その産物を党が適切と思うかたちで処分するからである。革命に続く数年においては、この支配的な地位にほとんど何の反対もなく踏み込むことができた。というのもこのプロセス全体が、集産化の動きと表現されていたからである。昔から、資本家階級が排斥されれば、社会主義が必然的に続くと想定されてきた。そして資本家たちは文句なしに排除された。工場、鉱山、土地、家屋、輸送——すべて資本家から奪われた。そしてこうしたものはもはや民間所有物ではなかったので、それは公共財産であるはずだとされた。英社主義(イングソック)は、こうした職の社会主義運動から発したもので、こうした用語法を受けつぎ、社会主義運動の主要項目をまさに実施したのである。その結果、事前に予想され意図された通り、経済不平等は永続的なものにされた。

 だが階級社会を永続化させるにあたっての問題はこれより根深い。支配集団が権力の座から転落する道は四つしかない。外から征服されるか、統治があまりに非効率で大衆が反乱したくなるか、不満を抱く強力な中間層を生み出すか、あるいは自ら統治する自信と意欲を失うか。こうした原因は単独で作用するものではなく、一般的にはその四つともある程度は存在している。このすべてに対して自衛できる支配階層は、永続的に権力の座にとどまれる。究極の決定要因は、支配階層自身の精神的な態度なのである。

 今世紀の半ば以降、最初の危険は現実的には消えた。いまや世界を分割している三列強のそれぞれは、現実には征服不能であり、ゆっくりした人口変化でのみ征服可能となるが、そうした変化は広範な力を持つ政府なら簡単に回避できる。二つ目の危険は、やはり理論的なものでしかない。大衆は決してひとりでに反逆したりはせず、しかも単に抑圧されているというだけで反逆したりはしない。実際、比較基準を持つことが許されない限り、自分たちが抑圧されていることにさえ彼らは決して気がつかない。過去の繰り返される経済危機は、まったく無用のものであり、いまや起こさせないものとなっているが、他の同じくらい大きな混乱は可能だし実際に起こる。それでも政治的な影響はない。なぜなら、不満が明確化される方法がないからである。過剰生産の問題はといえば、これは機械技術の開発以来、我々の社会に潜在していたものだが、継続的戦争という装置により解決された (第III章参照)。この戦争はまた、公共の士気を必要な水準に高めておくのにも有用なのである。したがって我々の現在の支配者の観点からすると、残されたまともな危険はといえば、有能で雇用されていない、権力に飢えた人々の新集団が分離することと、支配集団内部におけるリベラリズムと懐疑主義の広がりである。つまり問題は教育的なものなのである。指導集団と、その直下にあるもっと大きな行政集団の意識を絶えず型にはめ続けるというのがその問題となる。大衆の意識は、否定的なやり方で影響を与えさえすればすむ。

 この背景に基づけば、オセアニア社会の全般的な構造を、すでに知らなくても推測できるだろう。ピラミッドの頂点にはビッグ・ブラザーがいる。ビッグ・ブラザーは無謬であり全能である。あらゆる成功、あらゆる成果、あらゆる勝利、あらゆる科学的発見、あらゆる知識、あらゆる叡智、あらゆる幸福、あらゆる美徳、は、そのリーダーシップとインスピレーションから直接生じたものとされる。だれもビッグ・ブラザーを見たことはない。それは掲示板の顔であり、テレスクリーンの声なのだ。彼が決して死ぬ事はないと、かなり自信を持って確信できそうだし、いつ彼がうまれたかについても、すでにかなりの不確実性がある。ビッグ・ブラザーは、党が世界に自分を提示する仮装なのである。その機能は、愛、恐怖、畏敬といった感情の焦点として機能することである。こうした感情は、組織よりも個人に対するほうが感じやすいからだ。ビッグ・ブラザーの下には党中心がくる。その人数は600万人に限られる。つまりオセアニア人口の二パーセント未満である。党中心の下には党外周がくる。党中心を国家の頭脳と呼ぶなら、党外周は同様にその手になぞらえられる。その下には、我々が習慣的に「プロレ」と呼ぶバカな大衆がいて、人口の85パーセントくらいを占めるだろうか。以前の分類からすれば、プロレが下層である。というのも、赤道地域にいて、征服者から征服者へと常にその帰属が変わる奴隷人口は、この構造の一部として永続的でも必須でもないからである。

 原理的には、こうした三つの集団への帰属は世襲ではない。党中心の親を持つ子供たちであっても、理屈の上では自動的に党中心に入れるわけではない。党のどの部門への参加承認も、十六歳で受ける試験に基づいている。また人種差別はまったくないし、ある地域が別の地域を明確に支配するようなこともない。ユダヤ人、黒人、純粋インディアンの血を引く南米人も、党の最高位にはいるし、各地域の統治官たちは、常にその地域の住民から選ばれている。オセアニアのどこへ行っても、住民たちは自分が遠い首都から支配される植民地住人だという印象は持っていない。オセアニアには首都はないし、その有名無実の首長は、そこにいるかだれも知らない人物である。英語が主要な共通語であり、ニュースピークがその公式言語であるということ以外、まったく中央集権化されてはいない。その支配者たちは血縁で結びついてはおらず、共通のドクトリンへの服従で結びついている。確かに我々の社会は階層化され、しかもその階層はきわめて硬直しており、一見するとそれが世襲に基づくものに見える。各種集団の間での往き来は、資本主義はおろか、工業化以前の時代に見られたものよりもはるかに少ないのである。党の二つの部門間では、ある程度の入れ替わりはあるが、それは弱い者が党中心から排除され、党外周の野心的なメンバーが、出生を許されることで無害化されるようにする、最低限の入れ替わりでしかない。プロレタリアたちは、実際には卒業して党に入ることは許されていない。彼らの中で最も才能ある者たち、不満の核となりかねない者たちは、あっさり思想警察に目をつけられて排除されるだけである。だがこの状態は必ずしも永続的ではないし、原理原則としてそれが決まっているわけでもない。党は、言葉の古い意味での階級ではない。それは自分の文字通りの子どもに権力を伝えようとはしない。そして最も有能な人間をトップに保つ方法が他になければ、プロレタリアートの階級からまったく新しい世代をリクルートしてくるのも、まったく辞さない。重要な年月においては、党が世襲機関ではないという事実が、反対勢力を黙らせるのに大きな役割を果たした。古くさい社会主義者は、「階級特権」とかいうものに対して戦うよう訓練されていたので、世襲でないものは永続的ではあり得ないと思い込んでいた。寡頭制の継続は物理的なものでなくてもよいということがわからず、世襲貴族制は常に短命だったのに、カトリック教会といった養子制による組織は、ときに何百年、何千年も続いたという事実を考えてみたりしなかったのである。寡頭制支配の本質は、父から息子への相続ではなく、ある種の世界観と生き様の持続であり、それを死者が生者に対して強制するということなのである。支配集団は、自分が後継者を指名できれば支配集団であり続けられる。党は、自分の血筋を永続化したいなどと思ってはいない。自分自身を永続化したいと思っているのである。誰が権力を握るかは重要ではない。階級構造さえ常に同じであればよいのである。

 我々の時代を特徴づける、我々の信念、習慣、嗜好、感情、精神的な態度は、実は党の神秘性を維持し、今日の社会が持つ本当の性質がばれるのを阻止するために設計されているのである。物理的な反乱や、反乱に向けたあらゆる事前の動きは、現在では不可能である。プロレタリアンからは何も恐れるものはない。放っておけば、彼らは世代から世代、世紀から世紀へと、働き、繁殖し、死に、反逆の衝動など一切持たないばかりか、世界が現状以外のものに成り得ると理解する力さえないまま続くだけなのである。彼らが危険に成り得るのは、工業技術の進歩により、彼らをもっと高度に教育する必要が出てきたときだけである。しかし軍事および商業的な競争がもはや重要ではなくなったため、一般教育の水準は、実は低下している。大衆が持つ、あるいは持たない意見は、どうでもいいことと見なされている。彼らには知的自由を与えてもかまわない。そもそも知性がないからである。これに対して、党員の間では、最も些末な主題についての、最も細かい意見の逸脱ですら容認できない。

 党員は、誕生から死まで、思考警察の監視下で生きる。一人きりのときですら、自分が一人きりだとは確信できない。どこにいても、寝ても覚めても、仕事でも休みでも、風呂でもベッドでも、警告なしに査察され、しかも査察されていることさえわからない。彼のやることで、どうでもいいことは何もない。その交友関係、気晴らし、妻や子どもに対する行動、一人きりのときの表情、寝言、身体の特徴的な動きですら、細かくチェックされるのである。実際の犯罪行為だけでなく、どんなに小さくてもあらゆる変わった行動、あらゆる習慣変化、内面の苦闘の症状かもしれない、あらゆる神経的なクセなどもまちがいなく検出される。彼はどんな方面でもまったく選択の自由はない。その一方で、その行動は法や明確に定式化された行動規範に統制されているのでもない。オセアニアには法律はない。検出されればまちがいなく死を招く思考や行動も、正式に禁止されてはおらず、果てしない粛清、逮捕、拷問、収監、蒸発は、実際に犯された犯罪に対する処罰として課されるのではなく、単に将来のどこかで犯罪を犯すかもしれない人物を一掃するためのものでしかないのである。党員は、正しい意見を持つだけでなく、正しい直感を持つことも求められる。彼に求められる多くの信念や態度は決して明確に述べられることはない。もし述べられたら、それは英社主義(イングソック)に内在する矛盾をあらわにしてしまう。彼が自然に正統な人物であるなら (ニュースピークで言う好考者なら)、あらゆる状況で考えるまでもなく、何が本当の信念で望ましい感情かを知っているのだ。だがいずれにしても、子ども時代に行われるCRIMESTOP/罪阻止、BLACKWHITE/黒白、DOUBLETHINK/二重思考というニュースピーク語を中心とした入念な精神的訓練のおかげで、彼はどんな主題についても、あまり深く考えたいとは思わず、また考えることもできないのである。

 党員は、私的な感情を持たず、熱意の休止もまったくないものと期待されている。外国の敵や国内の裏切り者に対する絶え間ない憎悪の熱狂、勝利についての歓喜、党の力と英知に対する自己否定の中で生きるものとされる。味気ない満たされぬな生活が生み出す不満は外に向けられ、二分憎悪といった装置により発散されるし、懐疑的あるいは反逆的な態度を引き起こしかねない憶測は、以前に獲得した内面の規律により事前に潰される。この規律の最初にして最も単純な段階は、幼い子どもでも習得できるもので、ニュースピークではCRIMESTOP/罪阻止と呼ばれる。罪阻止は、あらゆる危険な思考の寸前で、まるで本能的に踏みとどまる能力を指す。それはアナロジーを理解せず、論理的なまちがいを認識せず、英社主義(イングソック)に反するものであればきわめて単純な議論でも誤解する能力と、逸脱的な方向につながりかねない思考の方向性については、退屈したり反発したりする能力を含む。罪阻止は要するに、予防的な愚かさを意味するのである。だが愚かさだけでは不十分である。それどころか、全面的な意味での正統性は、曲芸師が自分の身体に対して持つのと同じくらい完全な、精神プロセスに対する統制を求めるのである。オセアニア社会は究極的には、ビッグ・ブラザーが全能であり党が無謬だという信念に基づいている。だが現実にはビッグ・ブラザーは全能ではなく、党は無謬ではないので、事実の扱いについて、たゆみない一瞬ごとの柔軟性が必要とされるのである。ここでのキーワードは「黒白」である。多くのニュースピーク語と同様に、この単語も二つの相互に矛盾する意味を持つ。敵に対して使われるときには、これは目の前の事実を平然と無視して、黒を白だと厚かましく主張する習慣を指す。党員に対して使われるときには、党の規律が求めるなら黒が白だと断言する忠実な意志を表す。だがこれはまた、黒が白だと信じ、それ以上に黒が白だと心から考え、自分が以前はそうでないと信じていたことを忘れ去ることを指す。これには絶え間ない過去の改変が求められる。それを可能にするのは、本当に他のすべてを内包する思考体系、ニュースピークで二重思考と呼ばれるものなのである。

 過去の改変は二つの理由で必要となるが、その片方の理由は補助的であり、言わば予防的なものである。補助的な理由というのは、党員はプロレタリアと同様に、現在の状況に我慢している理由の一部はそれを比較する基準がかないからだ、ということである。党員は過去から遮断されねばならない。外国から遮断されねばならないのと同じことである。彼は自分が先祖よりもよい暮らしをしており、物質的な快適性の平均的な水準が絶えず上がっていると信じてくれねばならないのだ。だが、過去の再調整のもっと圧倒的に重要な理由は、党の無謬性を安全に守るためである。演説、統計、各種記録が絶えず更新され、党の予想があらゆる場合に正しかったと示すだけの話ではない。ドクトリンは同盟関係の変化も一切認めるわけにはいかないということもある。というのも気が変わるのも、方針を変えることすら、弱さの告白だからである。たとえばユーラシアやイースタシア (どちらでもいい) が今日の敵であるなら、その国は常に敵であったはずなのだ。そして事実がそうではないと言うのであれば、事実のほうを変えねばならない。だから歴史は絶え間なく書き換えられる。この日々行われる過去の偽造は、真実賞によって実施されており、愛情省が実施する弾圧とスパイ活動と同じくらい、政権の安定性に不可欠なのである。

 過去の改変可能性は、英社主義(イングソック)の中心教義である。過去のできごとには、客観的な実在性はなく、文書記録や人間の記憶だけに生き残っている。過去は、なんであれその記録や記憶が一致して述べていることなのだ。そして党があらゆる記録を統制し、同じくその党員たちの精神も完全に統制しているなら、そこから過去というのは党が言う通りのものになんでもなれる、という話が導かれる。さらにまた、過去が改変可能ではあっても、ある具体的な瞬間に改変されたことはまったくない、という話も導かれる。というのも、その瞬間に必要とされる形に何であれ改変されたら、その新しいバージョンこそが本物の過去なのであり、それ以外のちがう過去などいまだかつて存在したはずがないからである。これは、しばしば現実に起こるように、同じできごとが一年のうちに元型をとどめぬほど幾度となく改変された場合にすら成立する。あらゆる時点で党が絶対的な真実を握っており、絶対であるなら当然、現状とちがうはずはないのである。これから見るように、過去のコントロールは記憶の訓練に何よりも依存している。あらゆる文書記録をその瞬間の正統教義と確実に一致させるのは、単なる機械的な行動である。だが、できごとが望んだ形で起きたと、記憶するのが必要となる。そして文書記録を改変したり記憶を改めたりすることが必要でも、その改変を忘れるのも必要になる。これをやるコツは、他の各種精神技法と同じように学習できる。党員の大半はそれを学習しており、正統でありながら知的である者はまちがいなく全員が習得している。オールドスピークではこれは、きわめて率直に「現実統制」と呼ばれる。ニュースピークではそれは二重思考と呼ばれるが、二重思考はそれ以外のものもいろいろ含むのである。

 二重思考は、二つの矛盾する信念を同時に脳内に抱き、それを両方とも受け入れる能力を指す。党の知識人は、自分の記憶をどの方向に改変しなくてはならないか知っている。したがって、自分が現実に詐術を働いているのも知っている。だが二重思考の行使により、現実が侵犯されていないと思って満足できる。このプロセスは意識的なものでなくてはならない。そうでないと、充分な精度をもって実行できない。だが同時に無意識でなくてはならない。そうでないと不正のような気分が生じ、つまり罪悪感が生じるからである。二重思考は、英社主義(イングソック)のまさに核心である。というのも党の本質的な行動は、意識的な詐術を使いつつも、完全な正直さに伴う確固たる目的意識を維持することなのだから。意図的なウソをつきつつ、心からそれを信じ込み、不都合になった事実をすべて忘れ、そしてそれが必要になったら、忘却の彼方から、必要なだけの期間にわたりそれを引き出し、客観的現実の存在を否定して、その一方でずっと自分が否定する現実を考慮する——これはすべて、不可欠であり必須なのである。二重思考という言葉を使うときにすら、二重思考の行使が必要となる。この言葉を使うことで、人は自分が現実をいじっているのを認めることになるからだ。二重思考をうまく使うことで、人はその知識を消し去る。そしてそれが無限に続き、ウソが常に真実の一歩先を行くことになる。党がこれまで——そしてヘタをすると、今後数千年も続くかもしれない——歴史の道筋を阻止できたのは、最終的には二重思考という手段を通じてなのであった。

 過去の寡頭政治が権力の座から転落したのは、どれも形骸化したか、軟弱になったからである。愚かで傲慢になり、状況の変化に対して適応し損ねたこともあるし、自由で臆病になり、武力を使うべきときに譲歩し、これまた打倒された。つまり、意識を通じてか、無意識を通じて倒れたのである。どちらの状況も同時に存在できる思考体系を作り出したのが、党の業績である。そして、党の支配が永続化できるような知的基盤は他には存在しないのである。支配し、支配し続けたいのであれば、現実という感覚を混乱させることができなくてはならないのである。というのも支配の秘訣は、自分自身の無謬性と、過去のまちがいから学ぶ力を組み合わせることなのだから。

 ほとんど言うまでもないことだが、二重思考のもっとも精妙な実践者は、二重思考を発明し、それが精神的なインチキの巨大な仕組みだと知っている人々である。我々の社会では、何が起きているかを最もよく知っている人々は、同時に世界をありのままに見ることから最も遠ざかっている人々でもある。一般に、理解が深ければ、妄想もそれだけ深まる。知性が高まれば、正気はそれだけ薄れる。これをはっきり示すのは、戦争ヒステリーが社会階層を登るにつれて高まるという事実である。戦争に対する態度がほとんど理性的に近いのは、紛争地域の被支配民たちである。そうした人々にとって、戦争は単に絶え間ない災厄でしかなく、自分たちの身体を津波のようにあちらことらへと押しやるものにすぎない。どちらが勝っているかは、彼らにとっては完全にどうでもいいことである。彼らは、その支配者の変化というのが単に、前と同じ作業を新しいご主人のためにやるというだけで、そのご主人たちも自分たちを前の主人と同じやり方で扱うのがわかっているのである。わずかばかり待遇のよい、我々が「プロレ」と呼ぶ労働者たちは、戦争などたまにしか意識しない。必要なときには、つつけば恐怖と憎悪の熱狂に陥るが、放っておけば、戦争が起きていることすらずっと忘れていられるのである。戦争に対する真の情熱が見られるのは、党内部、それもどこよりも党中心である。世界征服を最も強く信じているのは、それが不可能だと知っている人々なのである。この正反対のもの——知識と無知、シニズムと熱狂——の奇妙な連結は、オセアニア社会の主要な特徴の一つである。その公式イデオロギーは矛盾だらけであり、別に矛盾がそこにあるべき現実的な理由がないときですら矛盾がある。このように党は社会主義運動が元々掲げていたあらゆる原理を拒否し、邪悪なものとしている。そしてそれを、社会主義という名前のもとにやるのである。数世紀にわたり例がないほどの労働階級蔑視を説き、かつては肉体労働者特有のものであり、そのために採用された制服を党員たちに着せている。系統的に家族の連帯を潰し、指導者を、家族の忠誠感情に直接訴えるような名前で呼ぶ。我々を統治する四省庁の名前ですら、その意図的な事実の逆転により、一種の鉄面皮ぶりを示している。平和省は戦争を遂行し、真実省はウソをつき、愛情省は拷問し、豊富省は飢餓をもたらす。こうした矛盾は偶然ではなく、ありがちな偽善の結果でもない。二重思考の意図的な実行なのである。というのも権力をいつまでも保持するには、矛盾を一致させるしかないからである。古代からの周期を破るにはこれ以外の方法はない。人間の平等を永遠に回避するには——我々の呼ぶ上流がその地位を永久に保つには——一般的な精神状態は、制御された狂気でなくてはならないのである。

 だが、この瞬間まで我々がほとんど無視していた問題が一つある。なぜ人間の平等が回避されねばならないのか? このプロセスの仕組みが正しく記述されてきたとすれば、歴史をある特定時点で凍結させようという、この巨大で正確に計画された活動の動機は何なのであろうか?

 ここで我々は中心的な秘密にたどりつく。これまで見た通り、党の神秘性、特に党中心の神秘性は二重思考に依存している。だがそれよりさらに深くあるのは、もともとの動機、決して疑問視されない直感なのである。その直感が事後的に、まず権力の掌握につながり、二重思考、思考警察、継続的な戦争といった必要な周辺事項を存在させるようになった。この動機を構成するのは実は……

 

 ウィンストンは静けさに気がついた。まるで何か新しい音に気がつくようなものだった。ジュリアがここしばらく、まったく身動きしないように思えた。脇を下にして横たわり、腰から上は裸で、頬は手の上に載せられ、黒い巻き毛が一筋目にかかっている。その乳房が、ゆっくり定期的に上がっては下がった。

「ジュリア」

 答はない。

「ジュリア、起きてるか?」

 答はない。寝ている。彼は本を閉ざし、慎重に床に置くと横たわり、ベッドカバーを二人の上に引きあげた。

 まだ究極の秘密を学んでいないな、とかれは考えた。方法はわかる。理由がわからない。第I章は、第III章と同じで、自分の知らないことは実は何も教えてくれなかった。単にすでに持っていた知識を体系化しただけだ。だがそれを読んで、自分が狂っているのではないということが、以前よりよくわかった。少数派だからといって、それがたった一人の少数派だろうと、狂っているということにはならないのだ。真実と非真実があり、全世界を敵にまわしても真実にしがみつくなら、それは狂ってはいない。沈みゆく太陽からの黄色い光線が、窓から斜めに入って枕に落ちかかった。彼は目を閉じた。顔にあたる太陽と、自分の身体に触れる彼女のなめらかなからだが、強く眠たい安心感をもたらした。自分は安全だ。すべて大丈夫。彼は「正気は統計的ではない」とつぶやき、この一言が深遠な叡智を含んでいるという感覚と共に眠りに落ちた。

*****

 

 目を覚ますと、ずいぶん長いこと眠っていたような感じがしたが、旧式の時計を見てみると、まだ20=30でしかなかった。しばらくうつらうつらしつつ横たわっていると、いつもの朗々とした歌声が下の裏庭から立ち上ってきた。

しょせん夢とはわかっていたの
行きずりに消える四月の日
でも一目、一言、夢がそそられ!
それが
心を奪い去る!

 そのダラダラとした歌の人気は衰えなかったらしい。いまだにそこら中で聞かれた。憎悪の歌よりも人気が続いている。その音でジュリアが目を覚まし、豪勢に身を伸ばして、ベッドから出た。

「お腹空いた。コーヒーをもう少し淹れようかな。

 畜生! コンロが消えてるしお湯も冷めてる」と彼女はコンロを手に取って振った。「油もなくなってる」

「チャリントン爺さんから少しもらえるんじゃないかな」

「変だなあ、満杯にしたのを確かめておいたのに。服を着るね」そして彼女は付け加えた。「なんか寒くなってきた」

 ウィンストンも立ち上がって服を着た。疲れ知らずの声が歌い続けた。

いずれ楽になると言うけれど
いつか忘れると言われるけれど
いつまでたってもあの微笑や涙
いまでも心を締め付ける!

 オーバーオールのベルトを締めながら、部屋を横切って窓に向かった。太陽は家屋の間にすでに沈んだらしい。もう裏庭を照らしてはいない。石畳は洗ったばかりのように濡れ、空も現れたような印象があった。煙突パイプ群の間に見える空の青さが、実に新鮮で淡かったからだ。女性は疲れ知らずに行ったり来たりして、口に洗濯ばさみをくわえては、またそれを取り、歌ってはまた黙りこくり、さらにおむつを物干しに止め、それが次々に続く。洗濯は請負仕事なのか、それとも孫が二、三十人いるために奴隷作業を余儀なくされているのだろうか、と彼は思った。ジュリアが隣にやってきた。二人で、眼下のがっしりした姿を、一種魅了されたように見下ろした。そのいつもの態度の女性、物干し綱のほうに伸ばされた太い腕、突き出した力強いラバのような尻を見ながら、初めて彼女が美しいことに思い当たった。それまでは、五十歳の女性の身体、それも出産によりすさまじくふくれあがり、その後仕事により硬化して粗野になり、熟しすぎた蕪のように芯まで粗くなった身体が、美しくなれるなどとは思ったこともなかった。だが実際に美しかったし、考えて見れば、美しくないはずがあるだろうか? がっしりした凹凸の無い、大理石のかたまりのような肉体と、そのざらざらの赤い肌は、少女の身体に比べるなら、バラの実とバラの花との関係と同じだ。果実が花より劣る必要もないではないか?

「美しい人だね」とかれはつぶやいた。

「ヒップの幅が、どう見ても一メートルはあるじゃん」とジュリア。

「それが彼女式の美しさなんだ」とウィンストン。

 ジュリアの豊満なウェストを、楽々と腕に抱えた。ヒップからひざまで、その脇身がこちらに押しつけられていた。二人の身体から子どもが生まれることはない。それは二人が決してできないことの一つだった。二人が秘密を伝えられるのは、口伝え、精神から精神へだけなのだ。下にいる女性は精神などなく、強い腕と温かい心と多産な腹しかない。何人子どもを産んだのだろうか。優に十五人にはなるかもしれない。一瞬だけ野生のバラのような美しさを花開かせ、それが一年も続くだろうか、そしていきなり肥料をやった果実のように太り、固く赤く粗野になり、その後の一生は洗濯、こすり掃除、繕い物、料理、掃き掃除、磨き掃除、修繕、こすり掃除、洗濯だけとなり、まずは子供たちのため、次いで孫たちのためで、それが途切れることなく三十年続くのだ。その果てに、彼女はまだ歌っている。彼女から感じた神秘的な啓示は、なぜか淡い雲のない空の光景と混じり合っていた。その空は煙突パイプ群の彼方、はるか遠くまで広がっていた。空があらゆる人にとって同じだと思うと不思議だった。ユーラシアでもイースタシアでも、ここと同じなのだ。そしてその空の下の人々も、ほとんど同じなのだった——どこでも、世界中で、ちょうどこれと同じような人々が何億人、何十億人も、お互いの存在など知らない人々、憎悪とウソの壁に隔てられつつ、それなのにほとんどまったく同じ人々——彼らは考えることなど決して学んだことはないが、その心と臓腑と筋肉に、いつの日か世界を転覆する力を貯め込みつつある。希望があるとすれば、それはプロレにある! 「あの本」の結末を読むまでもなく、彼はそれがゴールドスタインの最後のメッセージだと確信した。未来はプロレのものだ。そしてかれらの時代がきたとき、プロレたちが構築する世界が、この党の世界と同じくらい自分、ウィンストン・スミスにとって異質なものにならないと確信できるだろうか? できる。というのも最低でもそれは正気の世界になるだろうからだ。平等性のあるところ、正気がある。遅かれ早かれそれは起きる。強さが意識に変わる。プロレは不滅だ。あの裏庭の雄々しい姿を見ると、それは疑問の余地がない。いつの日か、かれらの目覚めが起きる。そしてそれが起きるまで、それが千年先のことでも、かれらはどんな逆境にも負けず生き延び、肉体から肉体へと、党が共有せず殺せない活力を伝えてゆくのだ。

「あの初めての日、森の端で、私たちに歌ってくれたツグミを覚えているか?」

「あたしたちになんか歌ってなかった。歌うのは自分の楽しみのためでしょう。それですらないな。ただ歌ってたの」

 鳥は歌う、プロレも歌う。党は歌わない。世界中、ロンドンでもニューヨークでも、アフリカでもブラジルでも、国境地域彼方の謎めいた禁断の土地でも、パリとベルリンの街頭でも、果てしないロシア平原の村でも、中国と日本の市場でも——どこにでも、同じしっかりした征服不能の人々が立っている。労働と子育てで怪物のようになり、生まれてから死ぬまでつらい労働に従事しつつ、それでも歌っているのだ。こうした強力な下腹部から、意識を持つ存在の人種がいつの日か生まれるはずだ。こちらは死者だが、向こうのは未来。だがかれらが肉体を生かし続けるように、こちらが精神を活かし続け、二足す二は四だという秘密の教義を伝え続けるならば、こちらもその未来に参加できるのだ。

「私たちは死者」とかれ。

「あたしたちは死者」ジュリアは諾々と繰り返した。

「おまえたちは死者」と鉄の声が背後で言った。

 二人は即座に離れた。ウィンストンの内蔵は氷になったようだった。ジュリアの瞳孔のまわりすべてが白くなっているのが見えた。その顔は濁った土気色だった。左右の頬骨にまだついている頬紅の跡が際立っており、まるでその下の皮膚とつながっていないかのようだった。

「おまえたちは死者」と鉄の声が繰り返した。

「絵の裏にあったのか」息の下でジュリアは言った。

「絵の裏にあったのだ」と声が言った。「その場にじっととどまれ。命令されるまで一切動かないこと」

 始まった、ついに始まったんだ! お互いの目を見つめて立ち尽くす以外、何もできなかった。命からがら逃げ出す、手遅れになる前に家から出る——そんな考えはまったく浮かばなかった。壁からの鉄の声に逆らうなど考えられなかった。留め金が外れたようなカチリという音がして、ガラスが割れるガシャンという音がした。絵が床に落ちてその裏のテレスクリーンがあらわになった。

「これでもう見られてしまう」とジュリア。

「これでもう見えてしまう」と声。「部屋の真ん中に立て。背中合わせに立て。手を組んで頭の背後に。お互いに触れるな」

 触れていなかったが、ジュリアの身体が震えているのが感じられるようだった。あるいは単に自分が震えているだけか。歯がガチガチ言うのはなんとか抑えられたが、ヒザがガクガクするのは抑えられなかった。階下で、家の中でも外でも、踏みならされるブーツの音がした。裏庭は人でいっぱいのようだった。何かが石の上をひきずられていた。女性の歌声は急に止まった。長い、転がるような金属音がして、まるで洗濯おけが裏庭の向こうに放り投げられたようだった。そして混乱した怒りの叫び声が、痛みの叫びで終わった。

「家は包囲されている」とウィンストン。

「家は包囲されている」と声。

 ジュリアが歯を食いしばる音がした。「あたしたち、どうやらお別れを言った方がいいみたい」

「どうやらお別れを言ったほうがいい」と声。そしてそこにまったくちがう声が割り込んだ。細い洗練された声で、何か聞き覚えのある声だった。「ちなみに、その話のついでに言うと『これがロウソク、 ベッドに導く灯り、これが鎌で頭を切り落とす』!」

 ウィンストンの背後で何かがベッドの上にガシャンと転がった。窓からはしごの端が突っ込まれ、それが窓枠を内側に叩き込んだのだ。だれかが登ってきて窓から入ってくる。階段を上ってくる大量のブーツ音も聞こえる。部屋は黒制服の屈強な男たちでいっぱいになり、みんな足には鉄打ちのブーツと手には警棒を持っている。

 ウィンストンはもはや震えてはいなかった。目すらほとんど動かなかった。意味があるのは一つだけ。じっとして、じっとして殴る口実を与えないこと! なめらかな、懸賞ボクサーの滑らかなあごをもち、口はほとんど裂け目でしかない人物が、親指と人差し指の間で物思いにふけるように警棒をバランスさせながら、正面で立ち止まった。ウィンストンはその目を見た。両手を頭の後ろに組んで、顔と身体がすべてむきだしになっているという裸体感覚は、ほとんど耐えがたいものだった。男は白い舌先をつきだし、唇があるはずの場所をなめてから、そのまま通り過ぎた。またガシャンという音がした。だれかがテーブルからガラスの文鎮を手に取り、それを炉端の石に叩きつけて粉々に砕いたのだ。

 サンゴのかけら、ケーキの砂糖製のバラの花のような、小さなピンクのかたまりが、マットの上を転がった。なんと小さい、ずっとこんなに小さかったのか! 背後では息を吐く音と叩く鈍い音がして、かれも足首に強烈な蹴りをくらい、ほとんどバランスを崩して倒れそうになった。男の一人がジュリアのみぞおちに拳を叩き込んだのだ。彼女はなんとか息をしようと苦闘し、床の上でもがいていた。一ミリたりとも頭をまわそうとは思わなかったが、ときどき鉛色にあえぐ彼女の顔が視界の角度に入ってきた。これほど怯えきっているのに、彼女の苦痛が我が身のことのように感じられた。その死ぬほどの苦痛は、それでも息を取り戻そうとする彼女の苦闘よりは緊急性が低かったのだが。それがどんなものかは知っていた。ひどい苦悶に満ちた痛みはずっとそこにあっても、そちらを苦しむわけにはいかないのだ。何よりも先にまず息ができなければならないからだ。そして男たちが二人、彼女の膝と肩を持って抱え上げ、袋のように部屋から運び出した。彼女の顔がちらりと見た。逆さまで、土気色で歪み、目は閉じられ、相変わらずどちらの頬にも頬紅の染みがついたままだ。そして、彼女を見たのはそれっきりとなった。彼は死んだように硬直して立ち続けた。だれにもまだ殴られていない。勝手に頭に浮かぶが、まったくおもしろくもない考えが脳内を駆け巡り始めた。チャリントンさんも捕まっただろうか? 裏庭の女性はどんな目にあわされただろうか? ひどく小便がしたいのに気がついて、ちょっと驚きをおぼえた。というのもほんの二、三時間前に用を足したばかりだったからだ。マントルピースの時計は九時をさしていて、つまり21時ということだ。だが外が明かるすぎるようだった。八月の晩なら21時には暗くなっているはずでは? 結局のところ自分とジュリアは時間をまちがえたのかも、と思った——時計が一周するほど眠りこけ、20時30だと思ったのが、じつはゼロ8時30だったのだろうか。だがそんなことをそれ以上考えるのはやめた。おもしろくもないからだ。

 通路にもっと軽い別の足音がした。チャリントンさんが部屋に入ってきた。黒制服の男たちの態度がいきなりかしこまったものになった。チャリントンさんの外観も何か変わっていた。その目がガラス文鎮の破片をとらえた。「このかけらを拾いたまえ」かれは鋭く言った。

 男がそれに従おうと身をかがめた。コックニー訛りは消えた。ウィンストンはいきなり、テレスクリーンで数瞬前に聞いた声がだれのものだったか気がついた。チャリントンさんはまだ古いビロードの上着を着ていたが、かつてはほとんど真っ白だったその髪が、黒くなっていた。またメガネはかけていなかった。彼はウィンストンに鋭い一瞥をくれて、だれだか確認したようだったが、その後はまったくかれに注意を払わなかった。面影こそあれ、もうかつてと同じ人物ではなかった。背筋はのび、大きくなったかのように思えた。顔は細かい変化をしただけだが、それでまったくの別人となっていた。黒い眉毛はかつてほどボサボサではなく、シワは消え、顔の輪郭そのものが変わったようだった。鼻さえも短くなったようだった。三十五歳ほどの男の冷徹な顔だ。人生で初めて、思考警察の一員を、それとわかって見ているのだ、とウィンストンは思い当たった。

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 原著著作権は消失済。翻訳著作権 (c) Hiroo Yamagata, Creative Commons 表示 - 継承 4.0 国際, CC BY-SA 4.0で公開。

一九八四年 第2部 by ジョージ・オーウェル, 山形浩生 is licensed under CC BY 4.0Creative Commons iconCC-BY icon