本書はGeorge Orwell Nineteen Eighty-Four (1948) の全訳である。翻訳にあたっては、書籍版、オンラインのフリー文書、その他そのとき手元にあった様々な版を適当に使っている。実際にこの本には、特に版ごとに顕著な異同があるわけではなく、イギリス版とアメリカ版とで、英語と米語の差に基づく細かい差がある程度らしい (オーウェル自身は、その差がえらくカンに障ったらしいが)。そうしたものは、翻訳ではどのみち表に出ないので、訳にことさら影響することはないはずだ。もちろん、何かゴソッとぬけている部分や、絶対ちがうという点に気がつかれたら、是非ご一報いただきたい。
本書の意義については、今さら言うべきにも非ず。全体主義監視社会の暗黒未来を描いた、傑作ディストピア小説だ。一応、著者のなんたるかと本書の位置づけについては、2003年版にトマス・ピンチョンが書いた序文の冒頭部分をそのまま丸写ししておこう。
ジョージ・オーウェルは、1903年6月25日にエリック・アーサー・ブレアとして、ネパール国境近くのベンガルにあり、きわめて生産的なアヘン地帯の真ん中の小さな町モティハリで生まれた。父親はそこで、イギリス阿片局の官吏として働いており、その育成者を逮捕するのではなく、その製品の品質管理を監督していた。この製品をイギリスは長きにわたり独占してきたのだ。一年後に若きエリックは、母親と妹と共にイギリスに戻り、1922年まで生まれた地域には戻らなかった。そのときにはインド帝国警察の下士官としてビルマに赴いたのだった。この仕事は高報酬だったが、1927年に休暇で故国に戻ると、父親が大いにがっかりしたことだが、その仕事を投げ打つことにした。というのも彼が人生でやりたいのは作家になることだったからだ。そして、彼はそれを実現させた。1933年に処女作『パリ・ロンドン放浪記』で、彼はジョージ・オーウェルという筆名を採用し、その後はこの名前で知られるようになる。オーウェルは、イギリスを放浪するときに彼が使った名前の一つで、サッフォークにある同名の川からとったのかもしれない。
『1984年』はオーウェルの最後の本だった——それが刊行された1949年までに、彼はすでに12冊を刊行しており、そこにはきわめて評価が高く人気のあった『動物農場』も含まれていた。1946年の夏に書かれた「なぜ私は書くのか」というエッセイで彼はこう回想している。「『動物農場』は私が、完全に自分のやっていることを自覚しつつ、政治的な狙いと芸術的な狙いを一つの全体にまとめようとした最初の本だった。7年にわたり私は長編小説を書いていないが、かなり近いうちに書くつもりだ。これは失敗作になるはずだ。あらゆる本は失敗作なのだが、自分が書きたいのがどんな本か、私はかなり明瞭にわかっているのだ」。その後間もなく、彼は『1984年』に取りかかっていた。
オーウェルはもちろん、この作家デビュー頃からずっと、社会下層の苦しみに注目してきた人物であり、社会主義に深く傾倒した。そしてスペイン内戦にも参加したのだが、そこでスターリン配下の「正統」社会主義者たちが、トロツキー系の社会主義者たちを弾圧する様子をまのあたりにし、その後もスターリン社会主義の蛮行が次々にあらわになっても見て見ぬふりをするどころか、あれこれ擁護論の詭弁まで弄しつつ、一方で自国政府に対しては勇ましくふるまってみせる、西側の「社会主義者」(特にイギリス労働党) に対して激しい批判を続けている。有名な『動物農場』も、そして本書も、そうした反ソ・反スターリン的な意図は充分に持つ。同時に、もっと普遍的に、社会主義そのもの、ひいては当時/現代の全世界のあり方と将来に対する強い批判と懸念の書でもある。
いつか、これを商業出版したいという奇特な出版社が登場すれば、本書が持つ現代的な意義についてはあれこれ書いてはみるけれど、ここではまあいいか。
さて本書は当然ながら既訳がある。古いものの中で、もっとも広く普及していたのは、早川書房から出ていた新庄哲夫訳だろう。ぼくが最初に読んだのもこれだった。ちょっと古くさいところがあるのは仕方ないし、ビッグ・ブラザーが「偉大なる兄弟」になっているのはまあ仕方ない。でも特に不満もなかったし、大きな問題があるとは思わない。
その後、ネットの普及とともにフリー版を出そうと思って手をつけていたが、やがて早川書房から、高橋和久の新訳版が出た。これは特に読まなかったが、新訳版なんだから、いろいろ改善されたんだろうと思っていたんだが……
高橋和久の翻訳の常として、漢字の多い (そしてルビの多い)、固い訳になっていて、雰囲気としては新庄訳より後退している印象さえ受けた。せっかく新訳するなら、もうちょっとなんとかしたいところ。また、著作権が切れたからだろうか、角川から田内志文の翻訳が2021年に出ている。フラットな翻訳ではあるが、あまりにフラットすぎて、プロレの訛りなどを完全に無視。やはり、それはちょっとオーウェルの意図を無視しすぎではないだろうか? 訛りを変な関西弁にしてみたりするのもアレではあるし、全部は出せないのだけれど (特に歌でHを発音しないコックニー訛りを表現するのは無理!) 原文にある工夫の存在くらいは匂わせたいところ。
またいずれも、ジュリアちゃんの話し方が、完全な女性役割語のものすごく上品でていねいなものになっていて、ウィンストンと会ったとき「ごきげんよう」とあいさつしないのが不思議なくらいになっている。かなり下品で粗野な話し方をする、と文中で書いてあるのに。本書では、なるべく周辺の口の悪い知り合い女性の口の利き方を参考にしてみた。役割語がなくてだれの発言か少しわかりにくくなる部分もあるうえ、たぶんなじめない人もいるんだろうね。だがフリー文書なので、そこを自分なりに直して別バージョンを作っていただくことも可能ではある。
さらに、ニュースピークとかの処理もいろいろある。が、個人的に特にこれまでの訳で気になったのは、悲しいところ、優しいところのちょっとしたヒントの処理なのだ。その代表が、何度か繰り返される以下の詩だ。
オレンジにレモン、とセントクレメントの鐘
お代は三ファージング、とセントマーチンズの鐘
お支払いはいつ、とオールドベイリーの鐘
お金持ちになったら、とショーディッチの鐘
この二行目、「お代は三ファージング」の部分は、「You owe me three farthings」というのが原文で、これまでの翻訳はどれも「お前に3ファージングの貸しがある」というような訳になっている。だがそれだとなんだかいきなり借金取りが追いかけてきたような、おっかない感じだ。なんでオレンジやレモンがいきなり借金取りの話に? 詩としても脈絡がない。
この詩自体は、マザーグース的なもので、必ずしもその意味がはっきりしているわけではない。最後の、頭を切り落とす話から、ずいぶん残酷な事件の比喩という説もある。だから、まあいきなり借金取りが来てもいけないという法はない。が、ここの部分のやりとりはもう少し優しいものと考えたほうがいいと思う。
実は「you owe me xxxx」というのは、買い物の常套句なのだ。スーパーマーケットでは出ないけれど、そこらのお店にいったら「xxxxになります」という代わりに「you owe me xxxx」と言われる。特に子どもがお使いで行くと、店のおじさんによく言われたものだ。「3ファージングちょうだいねー」くらいの感じだろうか。すると最初の一行は、オレンジとレモンくださいな、といった雰囲気になる可能性が高い。庶民が普通にオレンジやレモンを買って、それが手元不如意で、ああお金持ちになったらいいな、という空想につながり、それがロンドン中の鐘の音として響いているという、庶民の日常と生活のちょっとした苦しさと淡い希望の詩、と解釈できるのだ (その後、「それっていつ?」「わかりません」という太いやりとりにはなるのだけれど)。そしてそれが、ウィンストンの満たされぬ思いと淡い希望と絡み合う。だからこそ、それはウィンストンの心に響くのだ。
どうせ翻訳では、そこまでの雰囲気は出ないのだけれど、でもその心は多少は汲んであげたいとは思う。そうでないと、なぜウィンストンがこの詩に惹かれるのかも感じ取りにくくなってしまう。他のところも、こうしたちょっとした郷愁みたいなのはなるべく活かすようにしてみた。
というわけで、フリーの翻訳ではあるけれど、既訳よりはかなり改善されているとは思う。こうした部分以外にも、理論的な解説となるゴールドスタインの本『寡頭制集産主義の理論と実践』や、補遺のニュースピークの原理の部分も、既訳よりはかなりわかりやすくしたつもりではある。ところで、『寡頭制集産主義』はもっとたくさん書かれていたらしく、本書で使われた部分はそこから抜粋したような話も聞く。残りの部分はどっかに残っていないのだろうか? オーウェルが考えていた、不平等を維持しなければならない根本的な動機とは何なんだろうか? オブライエンは第3部でそれを、「権力の自己目的化」と述べるが、ぼくから見るとそれは「なぜ?」にはまともに答えていない。上層階級の自己保身、というそれまでの部分の説明のほうがずっと「なぜ?」に答えられているような気もする。さて本当に答はあるのだろうか? (実はオーウェル自身も思いついておらず、なんか思わせぶりに終わっただけ、という気もするが……)
この本は、書いた年(風刺の対象とした年)が1948年だったので最後の数字をひっくり返して『1984年』にしたのだ、という説をずっと昔にきかされて、特に疑うこともなくそれを信じていたが、どうもそうではないらしい。ペンギン版についたピーター・デヴィッドソンの説明によると、実際の草稿を検証すると、もともと『1980年』の予定で、病気のせいもありそれが長引いて『1982年』になって、仕上げたときに『1984年』にしたそうな。
へえ、そうなんだと思う一方で、なぜ執筆に時間がかかると題名の年を先送りしなければいけないのかはよくわからない。刊行からXX年先に題名を設定したい、というふうに考えたということか? まともな執筆開始は1946年だったとのこと。これで1980年だと34年先。キリが悪いなあ。1980年に意味はあったのかな? ご存じの方がいれば教えてほしい。
さて冒頭で引用したトマス・ピンチョンの序文は、ハヤカワ文庫の新訳版に収録されている (Kindle版には含まれていないのでご注意を!)1。だがそれ自体は、シャープさに欠けて、さほどの慧眼は見られない。ただそこで唯一おもしろい指摘がある。本書は、完全に壊れたウィンストン・スミスとジュリアで終わる、このうえなく暗い話ではあるが、その後に「補遺:ニュースピークの原理」という論説がついている。なんだか不思議な、蛇足めいた印象さえある (出回っているフリーの本などでは、これがあることにさえ気がつかずに章をわけずそのまま続けてしまったり、ひどい場合にはこのところを削除してしまったりしたものさえある)。だがピンチョンは、この最後の論説が完全に過去形になっていることを指摘し、この後のどこかでオセアニアとビッグ・ブラザーの監視社会が滅び、ニュースピークは過去のものとなり、それについて自由に語れる社会が実現する、という希望がここにあるのでは、と述べる。
これはなかなか面白い指摘ではある。どうだろうか。もちろん、執筆当時の視点からオーウェルが俯瞰して書いているだけ、とも読める。が、小説の読み方は人それぞれなので、読む人が自分なりに様々な解釈をしてくれれば、訳者としては幸甚。ピンチョン的な読みも可能にするために、この部分はちょっと過去形に気をつかった訳にしている。それがどこまで成功しているかどうかは、仕上げをごろうじろ。では。
2023年11月 デン・ハーグにて
山形浩生 (hiyori13@alum.mit.edu)
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