ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936) 第 I 巻 はじめに
(山形浩生 訳
原文:https://bit.ly/oiATfW)
価値と生産の理論についてのほとんどの論考は、ある決まった量のリソースがいろいろな用途にどう分配されるか、そしてその量のリソース雇用を前提としたとき、それらの相対的な報酬や製品の相対的な価値がどう決まるかを主に考えています1。
また利用可能なリソースの量、つまり雇用できる人口の規模や自然の富の量、蓄積された資本設備という意味ですが、これまた記述的に(所与のものとして)扱われています。でも利用可能なリソースの実際の雇用を決めるのは何かという純粋理論は、詳しく検討されたことがほとんどありません。もちろん、まったく検討されていないと言うのはばかげています。雇用の変動に関する議論はたくさんありますし、それらはすべて、その理論に関わるものなのですから。言いたいのはつまり、この議論が見過ごされてきたと言うことではなく、その根底にある理論があまりに単純で自明だとされ、せいぜいがサラッと流されるだけだった、ということなのです2。
雇用の古典理論――単純で自明なものとされています――は、思うに二つの基本的な公準に基づいていますが、それについては実質的に何の議論もありません。その公準とは具体的に以下の通り:
i. 賃金は、労働の限界生産に等しい
つまり、雇われた人の賃金は、雇用が1ユニット減らされたときに失われる(生産物の)価値に等しいということです(むろんこの産出低下によって減る費用はすべて差し引く必要があります)。ただし条件として、競争や市場が不完全な場合には、何らかの原理にしたがって、両者の等しさは損なわれるかもしれません。
ii. ある量の労働が雇用されたときの賃金の効用は、その量の雇用による限界的な負の効用と等しい
つまり、雇われた人物の実質賃金は、実際に雇われている労働量が喜んで働こうとするのに過不足のない(これを見極めるのは、雇われた人々自身です)水準となる、ということです。ただし条件として、労働の個々のユニット間の平等性は、第一公準の条件として挙げた競争の不完全性に相当する、雇用可能なユニットの組み合わせによって損なわれるかもしれません。ここでの負の効用は、ある人、あるいは人間集団が、その人にとってある最低基準を下回る効用しかもたらさないような賃金を、受け容れずに労働を控えるための、ありとあらゆる理由が含まれるものと考えてください。
この公準は、「摩擦」失業とでも言うべきものにあてはまります。というのも、これを現実的に解釈すると、継続的な完全雇用の障害となるような、調整における各種の誤差が無理なくおさまります。たとえば、専門技能の量について、計算ミスや需要の断続性のおかげで一時的な不一致が起きるための失業などです。あるいは、予測外の変化の結果として生じる時間的な遅れによる失業、あるいは、ある仕事から別の仕事への転職にはどうしても多少の遅れがあるので、静的でない社会では、リソースの一部は「仕事の合間」で失業している、といったことです。「摩擦失業」に加えて、この公準は、労働ユニットが働くのを拒否したり働けなかったりする「自発失業」にもあてはまります。たとえば、法制度や社会慣習や、団体交渉のための団結、またはありきたりな人間の引っ込み思案からくる、変化への反応の遅さ、 限界生産性に対応した製品の価値に対応する報酬を受け入れたくない場合などがそれにあたります。でもこうした「摩擦」失業と「自発」失業という二つのカテゴリーですべてです。古典派の公準は第三のカテゴリー、つまり以下で「非自発」失業と定義するものは認めません。
こうした条件はつきますが、雇用されたリソースの量は古典派理論によれば、この二つの公準できっちり決定されます。第一公準は、雇用の需要
ここから導かれるのは、雇用を増やせる手段は四つしかない、ということです:
私が理解できる限り、これはピグー教授の『失業の理論』――現存する唯一の失業に関する古典理論的な詳細説明――の立場です3。
人々が一般に、いまの賃金水準で働きたいと思うだけ働けていることがほとんどない、という事実を前にしたとき、上のカテゴリーですべてだというのは本当なのでしょうか? というのも、もし仕事の口があるならば、いまの名目賃金でもっと多くの労働力が喜んで働くのはまちがいないことだからです4。古典学派はこの現象と折り合いをつけるのに第二公準を持ち出します。いまの名目賃金での労働需要は、その賃金で働きたい人が全員雇用されないうちに満たされてしまいますが、それはそれ以下の賃金では働くまいという労働者間の公然または暗黙の合意によるものであり、もし労働者が全体として名目賃金引き下げに合意すれば、もっと多くの働き口も出てくる、というわけです。もしそうなら、そういう失業は見たところ非自発的ながら、厳密には非自発的ではなく、団体交渉の影響による「自発」失業などのカテゴリーに含めるべきだ、ということになります。
ここから二つの考察が出てきます。一つは実質賃金と名目賃金のそれぞれに対する、労働者の実際の態度に関するもので、実質賃金のほうは理論的にはどうでもいいのですが、二番目は重要です。
いま仮に、労働者がもっと低い名目賃金では働きたがらず、いまの名目賃金水準を下がると、ストライキなどを通じて、いま雇われている労働者が労働市場から退出してしまうとしましょう。だからといって、既存の実質賃金が労働の限界的な負の効用を正確に表していると言えるでしょうか? いや、そうとは限りません。というのも、いまの名目賃金を減らしたら労働者の退出が起きるからといって、賃金財の価格が上昇した結果として、既存の名目賃金を賃金財で測った価値が低下した場合にも労働者が退出することにはならないからです。言い換えると、ある範囲内では、労働者が求めるのは最低限の名目賃金であって、最低限の実質賃金ではないのかもしれません。古典学派は暗黙のうちに、これが自分たちの理論を大きく買えることはないと想定しています。でもそんなことはありません。というのも、労働の供給が実質賃金を唯一の変数とする関数ではないなら、古典派の議論は完全に崩壊し、実際の雇用がどの程度になるかという問題にまったく答えられなくなるからです5。古典派は、労働の供給が実質賃金だけの関数出ない限り、労働の供給曲線は物価がちょっと動くたびに、派手に動き回るということに気がついていないようです。ですからかれらの手法は、とても特殊な想定に縛り付けられていて、もっと一般的なケースを扱えるようには適応できないのです。
さて、通常の体験からすると、労働者が実質賃金よりは名目賃金を(ある程度までは)求めるという状況は、単なる可能性どころか、こっちのほうがまちがいなく通例です。労働者は名目賃金削減には抵抗しますが、賃金財の価格が上がるたびに労働力を引き揚げる、などということはやりません。労働者たちが名目賃金引き下げに反対するのに、実質賃金低下に文句を言わないのは非論理的だ、などと言われることもあります。以下(セクション III)で述べる理由から、これは一見したほど非論理的ではないかもしれません。そして後で見るように、これはありがたいことです。でも、論理的かどうかにかかわらず、経験によれば労働者の実際の行動はそうなのです。
さらに、不況を特徴付ける失業が、労働者による名目賃金引き下げの受け入れ拒否によるものだという考え方は、事実面で明らかに裏付けられてはいません。1932年アメリカでの失業が、名目賃金引き下げを受け入れない頑固な労働者のせいだったとか、経済マシンが実現できる生産性を超える実質賃金を頑固に要求する労働者のせいだった、という主張はかなり考えにくいものです。労働者の最低限の実質要求や、労働者の生産性が目に見えて変わらないのに、雇用の量は大きく変動します。労働が、好況時よりも不況時のほうが頑固だなどということはありません——正反対です。物理的な生産性も下がったりしません。経験からのこうした事実は、古典派の分析が適切かを疑問視する、明らかな根拠となるのです。
名目賃金と実質賃金の、実際の相関について統計調査の結果を見るとおもしろいことでしょう。ある特定産業だけの変化の場合なら、実質賃金の変化は名目賃金の変化と同じ向きになるはずです。でも全般的な賃金水準変化となると、たぶん実質賃金と名目賃金の変化の関係は、同じ方向が通例どころか、ほとんどかならず反対方向に動くでしょう。つまり名目賃金が上昇すれば実質賃金は下がっているはずですし、名目賃金が下がっているときには、実質賃金が上がっているはずです。なぜかというと、短期的には名目賃金低下と実質賃金上昇は、それぞれ別々の理由から、雇用量の減少に伴う可能性が高いからです。雇用が減っているときには、労働者は賃金削減を受け入れやすくなりますが、雇用が経れば資本設備からの限界収益が、生産量低下にともなって上昇するため、実質賃金は確実に上がるのです。
もし既存の実質賃金というのが、それ以下だと現在雇われている以上の労働者がどんな状況でも喜んで求職に応じないような、最低限の実質賃金であるなら、摩擦失業はあっても、非自発失業は存在しないことになります。でもそんな想定が常に成り立つと想定するのはばかげています。というのも、現在雇われているよりも多くの労働者は、いまの名目賃金でも手に入るのが通例だからです。これは賃金財の価格が上がっていて、結果として実質賃金が下がっている場合でも言えます。もしそうであるなら、既存の名目賃金を賃金財で測ったもの(訳注:ほとんど実質賃金と考えていい)は、労働の限界的な負の効用の指標として正確ではなく、したがって第二公準は成立しない、ということになります。
でももっと本質的な反論があります。第二公準は、労働者の賃金が労働者と事業者との賃金交渉によるという発想からきています。もちろんそうした交渉がお金を単位として行われることは認識されますし、労働者が容認できる実質賃金が、そのときにそれと対応する名目賃金と完全に独立したものではないことは古典派も認めます。でも、そうやって決まった名目賃金が、実質賃金を決めるのだ、と主張されるのです。したがって古典派理論は、労働者は常に名目賃金の削減を受け入れることで、実質賃金を削減できるのだと想定します。実質賃金が、労働の限界的な負の効用と等しくなる傾向があるのだという前提は、労働者自身が自分の働く実質賃金を決められるという前提にたっているのです(ただしその賃金で喜んで働く雇用量は決められませんが)。
要するに伝統的な理論は、事業主と労働者との賃金交渉は実質賃金を決めると想定しているのです。ですから、事業者同士が自由に賃金競争できて、労働者側が制約的な団結をしないとすれば、労働者たちはお望みなら実質賃金を、その賃金で雇用者が提供する雇用量の限界的な負の効用と一致させることは可能だ、ということになります。もしそうでなければ、もはや実質賃金と労働の限界的な負の効用とが等しくなりがちだと予想すべき理由はなくなります。
忘れてはいけませんが、古典派の結論は労働者全体にあてはまるはずのものです。単にある一人の労働者が、仲間のいやがる名目賃金カットを受け入れれば職がもらえる、というだけの話ではありません。それは閉鎖経済でも開放経済でも同じくあてはまるはずで、開放系の特徴や、ある国での名目賃金低下が国際貿易に与える影響などにも依存しないはずです。もちろん国際貿易の話は、ここでの議論からは完全に外れています。また、それは名目人件費が下がって、それが銀行システムや融資状況に及ぼす間接的な影響に基づくものでもありません。この効果については第19章で詳しく見ます。それは閉鎖経済において、名目賃金の全般的な水準が下がると、それに伴って、少なくとも短期ではほとんど何の保留条件もなしに、実質賃金の低下がある程度(ただし比例するとは限りませんが)起こるという信念に基づいているのです。
さて、実質賃金の全般的な水準が事業者と労働者との名目賃金交渉に左右されるという想定は、明らかに正しいとは言えません。実際、それを証明・棄却するための試みがほとんど行われていないのは不思議なことです。なぜなら、それは古典派理論の一般的な性質とはまったく相容れないのです。古典派理論では、価格というのがお金で測った限界原価で決まると教わってきました。そして、名目賃金が限界原価を大きく左右する、とも教わってきました。ですから名目賃金が変わったら、古典学派ならそれとほとんど同じ比率で物価水準も変わり、実質賃金と失業水準は、以前とほとんど変わらず、労働者のわずかな利益や損失の増減は、限界費用の中で変わっていない他の要素へのしわよせで生じると主張するのが筋です6。でも古典派たちは、この考え方から逸脱してしまったようです。その一部は、労働者は自分の実質賃金を決められる立場にある、という思い込みのせいだし、また一部はおそらく、価格水準はお金の量に依存するという発想に縛られていたせいでしょう。そして労働者が常に自分の実質賃金を決められる立場にあるという主張への信仰は、いったん採用されてしまうと、労働者は完全雇用(つまりある実質賃金で可能な最大の雇用量)に対応した実質賃金をいつも決められる、という主張と混同されることで延命したのです。
まとめましょう。古典派理論の第二の公準には、二つの反論があります。一つは、労働者の実際の行動に関係します。名目賃金はそのままでも物価上昇(インフレ)で実質賃金が低下した場合、その賃金で働く気のある労働者の供給は、物価上昇以前の水準と比べて特に下がったりしません。下がると想定するなら、いまの賃金水準で働きたいのに失業している全員が、生活費がちょっと上昇しただけで、就職する気を失う、と想定するに等しいことです。でもこの奇妙な想定こそまさに、どうやらピグー教授の『失業の理論』の根底にあるものなのです7。そしてこれは、正統学派の一味全員が暗黙に想定していることでもあります。
でももう一つ、もっと根本的な反論があります。これは今後の章で明らかにするものですが、実質賃金の一般水準は賃金交渉の成り行きで直接決まる、という想定に対する否定から出てくる議論です。賃金交渉が実質賃金を決めると想定することで、古典学派は禁断の想定に陥ってしまいました。というのも、労働者全体として、名目賃金の総水準を現在の雇用量に伴う労働の限界的な負の効用と一致させる手法などまったくなさそうだからです。事業者との賃金交渉改定により、実質賃金を労働者が全体として引き下げる方便は存在していないかもしれません。これが私たちの論点です。実質賃金の全般的な水準を決めるのは、主に他の何らかの力なのだということを示していきましょう。これを明らかにする試みが、本書の主要テーマの一つとなります。私たちの住む経済が、この面で実際にどう機能するのかについて、根本的な誤解があったのだ、と私たちは主張していきます。
実質賃金の全体水準を決めるのは、個人と集団間の名目賃金をめぐる闘争だと思われることが多いのですが、賃金闘争は実はちがう狙いを持っているのです。労働の移動性は不完全だし、賃金は職ごとに純利益が厳密に一致するわけではないので、まわりと比べて相対的な名目賃金の低減に合意する個人や集団は、実質賃金の相対的な低下に苦しむことになります。だから、彼らとしては名目賃金の低下には低下するのです。一方で、お金の購買力が変わることからくる実質賃金低下すべての抵抗しても、実用的な意味はありません。それはすべての労働者に同じように影響するからです。 そして実際、こうした形で生じる実質賃金の低下は、よほどひどい損害を引き起こさない限り、一般に抵抗は受けません。さらにある特定の産業だけに対する名目賃金の削減への抵抗は、実質賃金の全面的な削減に対する類似の抵抗から生じるような、総雇用の増大に対する克服しがたい障害は引き起こさないのです。
言い換えると、名目賃金をめぐる労働紛争は、主に各種の労働集団間の総実質賃金の分配に影響するのです。雇用一ユニットあたりの平均実質賃金には影響しません。平均実質賃金は、これから見るように、別の力に依存しています。労働者集団の団結効果は、かれらの相対的な実質賃金を守ることです。実質賃金の全体的な水準は、経済システムの中の別の力に左右されます。
したがって、労働者たちが無意識とはいえ、古典学派よりは直感的にもっとまともな経済学者だというのは幸運なことです。既存の賃金を実質化したときに、それが既存雇用の限界的な負の効用を上回っている場合でも、彼らは名目賃金の削減には抵抗します。そうした削減が万人に等しく生じることは、ほぼ確実にありません。一方で、かれらは実質賃金が下がっても抵抗しません。これは総雇用を増やしますし、相対的な名目賃金は変わらないのです。ただし、実質賃金が下がって、既存雇用量の限界的な負の効用を下回るようになりそうな場合は別ですが。どんな労働組合も、ちょっとでも名目賃金引き下げがあると抵抗して見せます。でも生活費が上昇するたびにいちいちストをする労組はありません。ですから労働組合は古典派が言うような、総雇用増加の障害にはなっていないのです。
ではここで失業の第三カテゴリーを定義しましょう。つまり厳密な意味での「非自発」失業、古典理論が認めようとしない可能性です。
「非自発」失業という場合、もちろん単に働ける能力がすべて雇用されていない、というだけの意味ではありません。人は一日十時間働く能力はありますが、だからといって一日八時間労働は失業とはいえません。また、一定の実質報酬以下では働きたくないから、仕事を控える労働者たちは「非自発」失業と考えるべきではありません。さらに、「非自発」失業の定義から「摩擦」失業は除いたほうが便利です。ですから私の定義は、以下の通りです。賃金財の価格が名目賃金に比べてちょっと上がったとき、現在の名目賃金で働きたがる労働者の総供給と、それに対する総需要が、既存の雇用量よりも高くなる場合に、人は非自発的に失業している。別の定義を次の章で挙げます(p.26) 。もっとも両者は結局同じことなのですが。
この定義から出てくるのは、実質賃金が雇用の限界的な負の効用に等しいという第二公準の想定は、現実的に解釈すれば、「非自発的」失業の不在に対応するのだ、ということです。こうした状況を「完全」雇用と呼びましょう。この定義では「摩擦」失業や「自発」失業があっても、完全雇用と矛盾はしません。これから見ますが、これは古典派理論の他の特徴ともうまく合致します。古典派理論は、完全雇用下での分配理論として考えるのがいちばん適切なのです。古典派の公準が成り立つ限り、上の意味での非自発的な失業は起こり得ません。ですから一見すると失業に見えるものは、一時的な「転職中の」失職状態の結果か、きわめて特殊なリソースに対する需要が断続的にしかないためとか、労働組合が自由な労働者の雇用を「妨害した」結果となります。だから古典派の伝統にしたがう論者たちはみんな、その理論の根底にある特殊な想定を見すごして、一見すると失業に見えるものは(明らかな例外を除き)根本的には失業した連中が、自分の限界生産性に見合った報酬を受け入れようとしないからだ、という結論に達しています。これはかれらの想定からすれば、まったくもって論理的です。古典派経済学者は、名目賃金の削減を拒む労働者に同情はするかもしれないし、一時的でしかない状況にあわせるためにそんな賃下げに応じるのは賢明でないとも認めるかもしれません。でも科学的な誠実さのおかげで、経済学者はそうした拒否が、なんのかのいっても根本的な問題なのだ、と宣言せざるを得ないのです。
でも、もし古典派理論が完全雇用の場合にしか適用できないなら、それを非自発失業の問題に適用するのは、まったくまちがっているのは明らかです——非自発失業などというものがあればの話ですが(でもそれをだれが否定できるでしょう?)。古典派理論家たちは、非ユークリッド幾何学の世界におけるユークリッド幾何学者のようなものです。その世界で彼らは、明らかに平行な線がしばしば実際の体験では交わるのを見て、頻発する不幸な衝突の唯一の療法として、線たちがまっすぐになっていないと叱責しているのです。でも実際には、平行線の公理を投げ捨てて、非ユークリッド幾何学を構築する以外に対処方法はありません。経済学でも、何か似たようなものが必要です。古典派教義の第二公準は投げ捨てて、厳密な意味での非自発失業があり得る体系のふるまいを見極めなくてはならないのです。
古典体系からの逸脱点を強調しすぎて、重要な合意点を見すごしてはいけません。というのも、今後私たちは、第一公準は維持するからです。そしてそれにつける条件も、古典理論と同じです。それがどういうことか、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。
これはつまり、ある組織と設備と技術が決まっていたら、実質賃金と産出の量(したがって雇用量)には一意的な関係があるため、一般に雇用の増加はそれに伴う実質賃金の低下がないと起きない、ということです。 ですから私は、古典派経済学者たちが(正しくも)否定しがたいと主張するこの重要な事実については、争っていません。組織、設備、技術が決まっていれば、労働一ユニットが稼ぐ実質賃金は、雇用量と一意的な(逆)相関があります。だから雇用が増えたら、短期的には、労働一ユニットあたりの報酬は、一般には下がり、利潤は上昇しなくてはなりません8。これは単純に、産業界は設備などが一定と見なせる短期だと、収穫逓減の下で機能しているというおなじみの主張を裏返しただけです。ですから賃金財産業の限界生産(これは実質賃金を左右します)は、雇用が増えると必然的に下がります。そしてこの前提が成り立つ限り、雇用を増やすあらゆる手段は、同時に限界生産を引き下げるしかなく、したがってその産物で測った賃金水準(訳注:ビール工場なら、その工員の賃金は一日ビール100本分、という具合に考える。実質賃金というのとほぼ同じ)を減らすことになります。
でも、第二公準をうっちゃってしまうと、雇用が減少したら、必然的に労働者がもっと大量の賃金財に相当する賃金をもらえることにはなりますが、労働者が大量の賃金財を要求するから雇用が減少する、ということにはなりません。そして労働者が名目賃金引き下げに同意しても、それで絶対に失業が収まるとも限りません。話は賃金と雇用の関係の理論に向かっていますが、でもそれをきちんと説明するのは、19章とそのおまけを待ちましょう。
セイとリカードの時代から、古典派経済学者たちは、供給が独自の需要を作り出す、と教えてきました。これが意味するのは、非常に重要ながらはっきりとは定義されない形で、生産費用のすべてが経済全体では必然的に、直接にせよ間接にせよ、その製品の購入に費やされなくてはならないということです。
J. S. ミル『政治経済学の原理』で、このドクトリンはこんなふうにはっきり書かれています。
商品に対する支払い手段となるのは、単に他の商品だ。それぞれの人が、他の人の生産物に対して支払う手段は、その人自身が保有する生産物だ。あらゆる売り手は、必然的に、ことばの定義からして、買い手でもある。国の生産能力をいきなり倍にできたら、市場のあらゆる財の供給は倍になる。だがそれは同時に、購買力も倍増させる。だれもが倍の供給とともに、倍の需要を持ってくる。だれもが倍のものを買える。というのも、だれもがそれと交換に差し出せるものを倍持っているからだ。 [『政治経済学の原理』第三巻, Chap. xiv. § 2.]
同じ教義から導かれることとして、個人が消費を控えれば、その消費分の供給から解放された労働や財は、資本財の生産に投資されることになり、この両者は同じことなのだ、と想定されてきました。以下の一節はマーシャル『国内価値の純粋理論』9からの一節で、伝統的なアプローチをよく表しています。
人の所得の総額は、サービスや商品の購入に支出される。確かに一般には、人は所得の一部を消費して、残りは貯蓄すると言われる。でも、貯蓄した分でも、消費した場合とまったく同じだけの労働と商品を購入しているというのは、おなじみの経済学的原則である。消費していると言われるのは、購入するサービスや商品から現在の楽しみを得ようとする場合だ。貯蓄していると言われるのは、購入する労働や商品が富の生産にまわされて、そこからその人が将来の楽しみを得る手段を得ようとしている場合である。
確かにこれに該当するような一節を、後期マーシャル10やエッジワースやピグー教授の著作から引用するのはむずかしい。この教義は今日では、こんな粗雑な形で述べられることは絶対にありません。それでも、これは未だに古典理論全体の根底にあって、これがないと古典理論は崩壊します。現代の経済学者は、ミルに賛成するのはためらうかもしれませんが、ミルのドクトリンが前提として必要になる結論は、平気で受け入れます。たとえばピグー教授のほとんどあらゆる著作の根底には、お金は多少の摩擦以外は何一つまともなちがいを生まないし、生産と雇用の理論は(ミルのように)「実物」交換だけに基づいて編み出せて、お金なんて後のほうの章で適当に触れておけばいいんだ、という発想があります。これは古典派伝統の現代版なのです。今の考え方は、もし人がお金をある方法で使わなくても、別の方法で必ず使うもんだという考え方に深くはまっているのです11実は、(第一次)世界大戦後の経済学者がこの立場を一貫して維持できることは滅多にありません。というのも今日のかれらの思考は、それとは正反対の傾向と、以前の見解とあまりに明確にずれている経験上の事実に浸かりすぎているからです12 。でもそれが、十分に深い影響をもたらすことはありませんでした。そしてそれが彼らの基本理論を改定させることもありませんでした。
一義的には、こうした結論は何やら、交換のないロビンソン・クルーソー的な経済とのまちがったアナロジーで暮らしているような経済に適用できたかもしれません。そこでは、生産活動によって得た所得(個人はこれを消費したり手元に置いたりします)は、実際的にもその活動の産物自体によるものでしかあり得ません。でもそれ以外でも、産出の費用が常に経済全体としては需要から生じる売り上げでカバーされているという結論は、なかなかもっともらしいものです。なぜなら、それは疑問の余地のない別の似たような主張となかなか区別がつかないからです。それは、生産活動に従事するコミュニティの全参加者が全体として生み出した所得の価値は、必然的にその産出とまったく同じ価値を持つ、という主張です。
同じく、他人から何も奪わずに己を豊かにする個人の活動は、コミュニティ全体をも豊かにすると想定するのも自然なことです。ですから(さっきマーシャルから引用した一節にあったように)個人の貯蓄活動は、まちがいなくそれに並行する投資行動につながります。というのも繰り返しますが、個人の富の純増を総計すると、コミュニティの富の純増総計とまったく同じになることは疑問の余地がないからです。
でもこういう考え方をする人は、錯覚にだまされているのです。その錯覚は、根本的にちがう二つのものを、同じであるかのように見せてしまいます。その人々は、現在の消費を控える決断と、将来の消費をもたらそうという決断との間に結びつきがあると誤って仮定しています。でも後者を決める動機は、前者を決める動機とは、何ら単純な結びつきを持っていないのです。
すると、産出の需要総額と、その供給総額とが等しいという想定こそは、古典派理論においてユークリッドの「平行線公理」と考えるべきものです。これを認めれば、その後すべてが導かれます——個人や国レベルの倹約の社会的なメリット、伝統的な金利に対する態度、古典派の失業理論、貨幣数量説、外国貿易における自由放任の裏付けのないメリット、その他いろいろなものを疑問視しなければなりますまい。
この章でのそれぞれの部分で、私たちは古典理論が順番に以下の前提に依存していることを示しました:
でもこの三つの想定は、どれも同じことなのです。どれをとっても論理的に他の二つが関わってきて、全部成立するかどれも成立しないかのどちらかでしかないのです。
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