ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936) 第 I 巻 はじめに
(山形浩生 訳
原文:https://bit.ly/otXDbh
)
手始めに、いくつかの用語から始めましょう。厳密な定義は後でやります。技術とリソースと費用は変わらないとして、事業主がある量の労働を雇った場合、二種類の経費がかかります。一つは生産要素の当期サービスに対して(他の事業者以外の人々に)支払う費用。これはその雇用の要素費用と呼びましょう(訳注:ケインズは本書で、生産要素として労働しか考えていない。だからこの要素費用は、人件費や賃金とほぼ同じ)。そして第二に、 必要なものを仕入れるために他の事業者に支払う費用と、設備を遊ばせずに稼働させるのに必要な支出の合計があります。これはその雇用の利用者費用と呼びましょう1。結果として生じる産出が、その要素費用と利用者費用の合計より高ければ、その分は利潤です。本書では事業者の所得と呼びましょう。事業者の側から見れば、要素費用というのはもちろんその生産要素側(訳注:労働者なんか)が自分の所得と見なすものです。だから要素費用と事業者の利潤を合計したものを、その事業者が提供する雇用からの総所得と定義しましょう。事業主は当然ながら、どのくらい雇用するか決めるときに、このように定義した事業主の利潤を最大化しようとします。事業主の立場から見ると、ある雇用量からの総所得(つまり要素費用+利潤)を、その雇用の収益と呼ぶのが便利でしょう。一方、ある雇用量からの売り上げを得るための供給総額2とは、その事業者がそれだけの雇用を提供しようと思うに足るだけの収益期待のことです3。
ここから出てくるのは、ある一定の技術、リソース、雇用一ユニットあたりの要素費用(訳注:賃金)が与えられたとき、雇用の量は、個別企業の場合でも経済全体の場合でも、事業者たちがそこから得られると予想する産出の量に依存する、ということです4。というのも事業者たちは、売り上げが要素費用を上回る分を最大化すると予想した水準で雇用を決めたがるからです。
$N$ 人雇ったときの産出の供給総額を $Z$ であらわします。 $Z$ と $N$ の関係は、 $Z = \phi(N)$ と書けます。これを総供給関数と呼びましょう5。同様に、 $N$ 人雇うことで事業者が予想する売り上げを $D$ とします。 $D$ と $N$ の関係 $D = f(N)$ を総需要関数と呼びましょう。
さて、ある $N$ に対して期待収益が供給総額より大きい(つまり $D>Z$)なら、事業者としては今の $N$ を増やそうというインセンティブができます。そして必要であれば、生産要素を巡ってお互いに競争して費用(訳注:つまり賃金)を引き上げようとします。これで $N$ は増え、 $Z=D$ となるまでそれが続きます。ですから雇用量 ($N$) は、総需要関数と総供給関数の交点で与えられます。というのもこの点で、事業者の利潤期待が最大化されるからです。総需要関数と総供給関数の交点における $D$ の値を、有効需要と呼びましょう。これぞ私たちが探究しようとする『雇用の一般理論』の本質ですので、この先の章ではおもに、この二つの関数がどんな要素に左右されるかを検討することになります。
一方、古典派の教義はひとくくりに「供給は自分の需要を創り出す」と表現され、いまだに正統経済学理論の基礎です。この発想によれば、この二つの関数には特別な関係があることになります。つまり「供給が自分の需要を創り出す」なら、 $N$ の値がどうだろうと(つまりは産出と雇用がどの水準にあっても)、 $f(N)=\phi(N)$ だということです。そして $N$ の増加に対応して $Z(= \phi(N))$ が増えたら、 $D(=f(N))$ も必然的に、 $Z$ と同じだけ増える、ということです。言い換えると古典派理論は、需要総額(または収益)が常に、供給総額にあわせて動く、と想定しているわけです。ですから $N$ の値がどうあれ、収益 $D$ はその $N$ に対応した供給総額 $Z$ と等しい値をとります。つまり有効需要はたった一つの均衡値になるのではなく、取れる値は無限にあって、どれでもかまわないことになります。そして雇用量は、労働の限界的な負の効用で頭打ちにならない限り、まったく決定されません。
もしこれが事実なら、事業者同士が競争して雇用は拡大し、産出の総供給が弾性的でなくなるまでそれが続きます。つまり、有効需要を増やしても、産出がそれ以上は増大しない地点ということです。明らかにこれは、完全雇用と同じことです。第二章で、労働者のふるまいから見た完全雇用を定義しました。別の基準(でも同じことなのですが)は、いま説明したもので、産出に対する有効需要の増大に対して、総雇用が弾性的でない状況というものです。ですから、産出の需要総額はあらゆる産出についての供給総額に等しいというセイの法則は、完全雇用には何も生涯がないという主張と等価なのです。でも、もしこれが総需要と総供給関数を関連づける正しい法則でないなら、経済理論にとってきわめて重要な一章がいまだに書かれていないことになります。その章がなければ、総雇用の量に関するあらゆる議論は無意味なのです。
まだ完全には理解できないかもしれませんが、本書で説明する雇用理論をこの段階でざっとまとめておくと、読者にとって有益かもしれません。出てくる用語については、それぞれ後で折りを見てもっと慎重に定義します。このまとめでは、雇用された労働一ユニットの名目賃金などの要素費用は一定だと仮定します。でもこの単純化は、単に検討をわかりやすくするためだけのもので、後で外します。議論の本質的な性格は、名目賃金などが変わってもまったく同じです。
私たちの理論の概要は、こんなふうに表現できます。雇用が増えると総実質所得が増えます。社会の心理のおかげで、総実質所得が増えると総消費も増えますが、所得の増分すべてが消費にまわるわけではありません。だから事業者たちは、増やした雇用のすべてが、即座に消費需要の増加を満たすのに使われるなら、損をすることになります。ですからある雇用量を正当化するためには、雇用がその水準にあるときに、社会が総産出のうち、消費して余った部分を吸収するだけの当期投資が必要だ、ということになります。それだけの投資がないと、事業者の実入りは、その水準の雇用を維持するのに必要な額よりも低くなってしまうのです。すると、社会の消費性向が一定とすれば、雇用の均衡水準(つまり事業者たちが全体としての雇用を減らしも増やしもしたがらない水準)は、当期投資量に依存するということになります。そして当期の投資量は、こんどは投資の誘因と呼ぶものに依存します。そして投資の誘因は、資本の限界効率
ですから消費性向と新規投資の率がわかれば、均衡を実現する雇用水準は一つしかありません。それ以外の雇用水準だと、全体としての産出の供給総額と、その需要総額との間に差ができてしまうからです。この雇用水準は、完全雇用を上回ることはありません。つまり、実質賃金は労働の限界的な負の効用を下回ることはできません。でも、一般にそれが完全雇用と等しくなるべき理由もありません。完全雇用をもたらす有効需要は特別なケースで、消費性向と投資誘因がある特定の関係にある場合にのみ実現されます。この特定の関係は、古典派理論の想定に対応したもので、ある意味で最適な関係ではあります。でもそれが存在し得るのは、偶然にせよ計画的にせよ、当期の投資が、完全雇用時に得られる産出の供給総額と、完全雇用時に社会が消費したがる分との差額にちょうど等しい金額になる場合だけです。
この理論は以下の主張にまとめられます:
ですから、雇用量は実質賃金で計測した、労働の限界的な負の効用で決まるのではありません(ただしある実質賃金での労働供給が、雇用の最大水準に達している場合は別です)。消費性向と新規投資がいっしょになって、雇用の量を決めます。そしてその雇用の量は、ある実質賃金水準と一意的に結びついているのです――その逆ではありません。もし消費性向と新規投資率のおかげで有効需要が不十分になれば、実際の雇用水準は、そのときの実質賃金で潜在的に得られる労働供給より低くなってしまいます。そして均衡実質賃金は、均衡雇用水準における限界的な負の効用よりも大きくなります。
この分析で、なぜモノが有り余っているのに貧困があるのか、というパラドックスの説明が得られます。有効需要不足が存在するだけで、完全雇用に達する前に、雇用の増加は足踏み状態になりかねないし、実際になりがちなのです。有効需要の不足は、労働の限界生産が、まだ雇用の限界的な負の効用を上回っているにもかかわらず、生産プロセスを阻害してしまうのです。
さらに、社会が豊かなほど、潜在的な生産能力と実際の生産量とのギャップは大きくなりがちです。ですからその経済システムの欠陥も、目に見えてとんでもないものになります。貧しい社会なら、産出の相当部分をどうしても消費せざるを得ませんから、ごくわずかな投資でも、完全雇用を実現できます。でも豊かな社会は、その金持ちの成員たちの貯蓄性向が、貧しい成員たちの雇用と整合するためには、ずっと多くの投資機会を見つけなくてはならないのです。つまり、潜在的に豊かな社会では投資誘因が弱いなら、有効需要の働きによって、潜在的な富にもかかわらず、その社会は実際の産出を減らすことになってしまいます。やがて、その潜在的な富にもかかわらず、その社会がきわめて貧しくなり、消費分以上の余剰が十分に減って、投資誘因の弱さに対応したものになるまでそれは続くのです。
でも話はもっとひどくなります。限界消費性向6は豊かな社会では弱くなるばかりか、資本蓄積がすでに大きいので、利率が十分な速度で下がらない限り、それ以上の投資機会の魅力は低くなってしまいます。というわけで、利率の理論と、なぜそれが自動的に適切な水準に下がらないのか、という理由の話が出てきます。これは第4巻の話となります。
ですから消費性向の分析、資本の限界効率の定義、利率の理論は、既存の知識で欠けている三つのギャップであり、埋める必要があります。これが達成されたら、価格の理論は一般理論の下位に属する事項という適切な場所におさまるでしょう。でも、利率の理論で、お金が重要な役割を果たすことがわかってきます。そしてお金を他のものとは変わった存在にしている奇妙な特徴を、解きほぐしてみましょう。
リカード派経済学では、総需要関数をあっさり無視してかまわないという発想が不可欠です。このリカード経済学は、過去1世紀以上にわたり、私たちが教わってきた経済学の根底にあります。実はマルサスが、有効需要の不足なんかあり得ないというリカードの教義に猛烈に反対しています。でも無駄でした。というのも、マルサスはなぜ有効需要が不足したり過剰になったりするかをはっきり説明できず、一般の観察から得られた事実を指摘するだけだったので、代替理論を構築できなかったのです。おかげでリカードは、異端審問がスペインを席巻したように、イギリスを完全に席巻したのでした。シティや政治観、学界に受け容れられただけではありません。反対論が消えました。別の見方が完全に消滅したのです。議論にさえなりません。マルサスが格闘した有効需要の謎は、経済学文献から姿を消しました。古典理論を最も成熟した形で記述したマーシャルやエッジワース、ピグー教授の全著作を隅から隅まで探しても見つかりません。ひっそりと水面下で、カール・マルクスやシルヴィオ・ゲゼル、ダグラス少佐などの日陰でしか暮らせないのです。
リカード派の勝利があまりに完璧だったのは不思議でもあり謎でもあります。たぶんその教義は、それが発表された環境にとって、いろいろ好都合な部分があったのでしょう。それが教育を受けていない一般人の予想とはまったくちがう結論をもたらすというのも、たぶんその知的な栄誉を高めたでしょう。その教えを実践に移すと実に厳格でしばしば受け容れがたいものになるという点は、その美徳を高めたでしょう。後代で一貫性を持った論理的上部構造を持つように改定されたことが、それに美しさを与えました。多くの社会的不公正や明らかな残酷さを、進歩における不可欠な出来事として説明してしまえて、そうした不公正や残酷さを変えようとすれば、全体としてはかえって害を及ぼすと主張できることで、その理論は権威の地位に上り詰めました。個人資本家の自由な活動を正当化する手段を与えたことで、当局の背後にいる支配的な社会勢力の支持も得られました。
でもこの教義自体は正統派経済学者たちにごく最近まで疑問視されませんでしたが、科学的な予測という目的において明らかに失敗してきたために、やがて経済学者たちの威信は大いに失墜しました。マルサス以降、専門の経済学者たちは、自分たちの理論の結果と観測事実との対応欠如に動じなかったようです――が、一般人はその乖離をちゃんと見ていますし、おかげで理論的な結果が事実に適用されると観測で裏付けられる、他の科学者集団に与えられるような敬意は、経済学者にはますます与えられなくなりつつあります。
伝統的経済学理論の名高い楽観論のおかげで、経済学者たちはカンディードたちとして崇められるようになりました。カンディードたちというのは、この世界を離れて自分たちだけの庭を耕しに出かけた人々で、余計な手出しさえしなければ、可能な限り最高の世界においてあらゆることは一番よい形でそのまま提供されているのだ、と教えます。その楽観論もまた、有効需要の不足が繁栄の足を引っ張るのを考慮しなかったことに根があるのだ、と私は思っています。というのも、古典派の仮定どおりに機能する社会では、明らかにリソースの最適雇用に向けて自然に推移するからです。古典派理論というのは、経済がこうあってほしいという願望を表しているのかもしれません。でも実際にそう機能していると想定してしまうのは、仮定によって困難を見ぬふりをするに等しいのです。
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