ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936) 第 VI巻 :一般理論が示唆するちょっとしたメモ
(山形浩生 訳
原文:https://bit.ly/ooYBLM
私たちが暮らす経済社会の突出した失敗とは、完全雇用を提供できないことであり、そして富と所得の分配が恣意的で不平等であることです。今までの理論が前者に対してどういう関係を持つかは明らかです。でも二番目に関係する重要な側面も二つあります。
十九世紀末以来、富や所得のきわめて大きな格差を取り除くにあたり、大きな前進が見られました。これは直接課税という道具によって実現されたものです——所得税、付加税、相続税——特にイギリスではこれが顕著です。多くの人々は、このプロセスをもっと進めたいと思うでしょうが、二つの懸念事項があるのでそれがためらわれます。一つは、巧妙な税金逃れがあまりに割りのいい商売になってしまうこととリスク負担に対する動機を無用に削減してしまうことです。でももう一つ大きな障害は、資本の成長が個人の貯蓄動機の強さに左右されるという信念であり、そしてその資本成長の相当部分は、金持ちによる余剰分の貯蓄からきているのだ、という信念なのだと私は思います。私たちの議論は、この前者の懸念には影響しません。でも、後者については、人々の態度をかなり変えるかもしれません。というのもこれまで見てきたように、完全雇用が実現されるまでは、資本の成長は低い消費性向に依存するどころか、むしろそれに阻害されるからです。そして低い消費性向が資本成長に有利になるのは、完全雇用が実現した後でしかありません。さらに経験から見ると、既存の条件下では各種機関による貯蓄や減債基金による貯蓄でも十分すぎるくらいで、消費性向を挙げそうな形で所得を再分配する手段のほうが、資本の成長には積極的に有利なのです。
この問題について今の世間の考え方がいかに混乱しているかは、相続税が国の資本的な富の削減の原因だという、きわめてありがちな信念にもよく表れています。仮に国がこうした相続税の税収を通常の歳出にあてて、その分だけ所得税や消費税が減らされたり廃止されたりするとしましょう。するともちろん、相続税を高くすれば社会の消費性向を上げる効果があります。でも習慣的な消費性向が上がれば一般に(つまり完全雇用以外では)投資誘因も増すように作用するので、通常考えられている議論は真実の正反対なのです。
ですから私たちの議論から得られる結論は、現代の条件にあっては富の成長は、一般に思われているような金持ちの倹約から生じるものではまったくありません。そんなことをすればかえって富の成長が阻害されてしまいます。富の大幅な格差について、主要な社会的正当化の一つは、したがってこれで排除されます。一部の状況である程度の格差を正当化できるような、私たちの理論には影響されない他の理由がないとは申しません。でも、これまでは慎重に動くのが堅実と思われていた理由のうち、最も重要なものはこれで棄却されます。これは特に、相続税に対する私たちの態度に影響します。というのも所得の格差については多少の正当化理由が存在しますが、その一部は相続の格差にはあてはまらないものだからです。
私はといえば、私は所得や富のかなりの格差については社会的心理的な正当化ができると考えていますが、でも今日存在するほどの大きな格差は正当化できないと考えます。価値ある人間活動の一部は、金儲けという動機を必要としたり、個人の富の所有がないと完全に花開くことはできなかったりします。さらに、人間の危険な性向も、金儲けと個人の富の機会があると、比較的無害な方向に昇華できます。そうした形で満たされなければ、そうした性向は残酷な活動や、個人の権力や権威の無軌道な追求など、各種の自己強大化に出口を見いだしかねません。人が市民仲間を強権支配するよりは、己の銀行口座を強権支配するほうがましです。そして銀行口座の強権支配は市民仲間の支配の手段でしかないと糾弾されることもありますが。少なくとも時には銀行口座が身代わりになってくれることもあるのです。でも今日ほどの高い掛け金でこのゲームが実施されているのは、そうした活動の刺激や、そうした性向の満足のためだけでは必ずしもありません。ずっと掛け金が低くても、プレーヤーたちがそれに慣れてしまえば、同じ目的は十分に実現できます。人間性を変えるという作業と、それを管理するという作業とを混同しててはいけません。理想的な共同体においては、人はそうした掛け金に一切興味を示さないよう教わったり指導されたり育てられたりするかもしれません。それでも平均的な人や、社会のそれなりの部分だけでも、お金儲けの情熱に強く中毒しているのであれば、そのゲームの実施は許し、ただルールと制限は設けるだけにするのが、賢く堅実な国家運営というものでしょう。
しかし私たちの議論からは、第二のずっと根本的な議論が導かれ、これも富の不平等の未来に関わるものです。その議論とは、金利の理論です。これまでは、そこそこ高い金利を正当化する理由は、十分な貯蓄誘因を提供することが必要だから、というものでした。でも有効な貯蓄の規模は必然的に投資規模で決まるのであり、投資規模を促進するのは低金利だということを私たちは示しました(ただし完全雇用に対応する点を超えて、こういう形での刺激はしない限りですが)。ですから完全雇用をもたらす資本の限界効率をにらんで、金利を引き下げるのが私たちにとっていちばん有利なのです。
この基準だと、これまで支配的だったものよりずっと低い金利につながるのは確実です。そして資本の増大をもたらすのに対応した資本の限界効率
資本需要にはっきり上限があるのは確実だと思います。つまり、限界効率がとても低い値になるまで資本のストックを増やすのは、むずかしいことではないはずです。だからといって、資本設備の利用がほとんど無料になるという意味ではありません。単にそうした設備からの収益は、摩耗や陳腐化による損耗と、リスクや技能と判断の適用をカバーするだけのマージンをほとんど超えないものとなる、というだけです。一言で言うと、耐久財がその寿命期間中にもたらす総収益は、短命な財の場合とまったく同じで、その生産の労働費用と、リスクや技能と監督分の費用をカバーするだけになる、ということです。
さて、こうした事態はある程度の個人主義とは何の問題もなく相容れるものですが、でもそれは金利生活者の安楽死を意味し、そして結果として、資本家たちが資本の希少価値を収奪せんとする、累積的な抑圧も安楽死することとなります。今日の金利は、地代と同じで、何か本当の犠牲に対する報酬などではありません。資本の所有者が利子を得られるのは、資本が希少だからです。これは地主が地代を集められるのが土地の希少性のためなのと同じです。でも土地の希少性には本質的な理由があるかもしれませんが、資本の希少性には本質的な理由などありません。そうした希少性の本質的な原因、つまり利子という形で報酬を提示しない限り集められない、本当の犠牲という意味での希少性要因は、長期的には存在しません。例外は、個人の消費性向が奇妙な特徴を持っていて、完全雇用下における純貯蓄が、資本が十分豊富になる以前に終わってしまうような場合だけです。でもその場合ですら、国の機関を通じての共同貯蓄を維持することで、資本が希少でなくなるまで増大することはできます。
ですから資本主義の金利生活者的側面は移行期のものでしかなく、役目を終えたらそれは消え失せると私は考えます。そしてその金利生活者的側面が消えれば、資本主義の他の多くの面も、激変に直面することでしょう。そして金利生活者の安楽死、機能なき投資家の安楽死が突然のものとはならず、単に最近イギリスで見られたようなものが延々と引き延ばされて続くだけのものになるというのは、私が提唱する物事の秩序にとっては大きなメリットではあります。それは革命など必要としないのです。
ですから実務的には(というのもここには実現不可能なものは何一つないからです)、私たちは資本の量を増大させてそれが希少でなくなるようにすることを目指すといいかもしれません。そうなれば機能なき投資家は最早ボーナスを受け取れなくなります。さらには直接課税方式を使って、金融業者や事業者等々(かれらはこの稼業が隙でたまらないはずなので、その労働は現在よりずっと安く調達できるはずです)の知性と決意と実施能力を、適切な報酬で社会のために活かすようにすべきです。
同時に、一般の意志(これは国家の政策に内包されています)を誘導することで投資誘因の増大と補完をどこまで実施できるかは、やってみないとわからないことは認識すべきです。また、平均的な消費性向への刺激も、資本の希少性価値を一、二世代のうちになくすという狙いを潰さずにどこまでやって安全化は、実地に試すしかありません。やってみたら、消費性向は金利低下によってあっさり強化されて、完全雇用は現在よりちょっと大きいだけの蓄積量で実現されてしまうかもしれません。そうなれば、高額所得や相続に対する課税強化には反対論が出ても仕方ありません。そうした課税強化は、現状よりもずっと低い蓄積で完全雇用が達成できるようにしてしまう、というのがその反対論となるでしょう。こうした結果の可能性、いや蓋然性すら私が否定していると思われては困ります。というのもこうした事態では、平均的な人が環境変化にどう反応するかを予想するのは拙速にすぎるからです。でも、現在よりちょっと多い程度の蓄積率で完全雇用を確保するのが簡単だとわかれば、少なくとも巨大な問題は解決されたことになります。そして、いま生きている世代に消費を制限してもらって、いずれその子孫たちの代で完全雇用が実現されるようにする場合、その制限の規模や手法をどうするのが適切かというのは、別の議論に委ねられることとなるでしょう。
他の一部の側面からしても、これまでの理論が示唆するもの、そこそこ保守的です。というのも、現在は主に個人の主体性に任されている事柄に対して、中央によるコントロールをある程度確立することがきわめて重要だと示してはいるものの、まったく影響を受けないきわめて広範な活動領域が残されているからです。国家は、一部は課税方式を通じて、一部は金利の固定を通じて、そして一部はひょっとして他の方法でも、消費性向に対して誘導的な影響を与える必要があります。さらに、銀行政策が金利に与える影響は、最適な投資量を独自に決めるには不十分だろうと思えます。ですから、いささか包括的な投資の社会化が、完全雇用に近いものを確保する唯一の手段となるはずだ、と私は考えるのです。これは、公共政府が民間イニシアチブと協力する各種の妥協や仕組みを排除するものである必要はありません。でもそれを超えるところで、社会のほとんどの経済生活を包含するような、国家社会主義体制などをはっきり主張したりするものではありません。国家が実施すべき重要なことがらは、生産の道具を所有することではないのです。もしも国が道具を増やすための総リソース量を見極められて、その所有者に対する基本的な報酬率を見極められたら、それで必要なことはすべてやり終えたことになります。さらに社会化に必要な手立てはだんだん導入すればよく、社会の一般的な伝統に断絶が生じる必要はありません。
受け入れられている経済学の古典派理論に対する私たちの批判は、その分析に論理的な誤りを見つけようとするものではありませんでした。むしろその暗黙の想定がほとんどまったく満たされておらず、結果として現実世界の問題を解決できないというのが批判の中身です。でも私たちの中央コントロールが、実際に可能な限り完全雇用に近い総産出量を確立するのに成功したとしても、その点から先になると、古典派理論は再び活躍するようになります。産出量が所与とすれば、つまり古典派の思考方式の外側で決まるとすれば、何を生産するか、それを生産するのに生産要素がどんな比率で組み合わさるか、最終製品の価値がその生産要素にどんな形で配分されるかについては、民間の自己利益をもとにした古典派分析に対して、何ら反対すべき理由はないのです。あるいは、倹約の問題に対して別の形で対応したとしても、完全競争や不完全競争などの条件下で、民間の利点と公共の利点をどれだけ一致させるかについては、現代古典派理論に対してまったく反対するものではありません。ですから消費性向と投資誘因の間での調整には中央のコントロールが必要ですが、その範囲を超えてまで以前より経済生活を社会化する理由はまったくありません。
この論点を具体的に説明すると、今のシステムが、使われている生産要素を大幅にまちがった形で雇用していると想定すべき理由はまったく見あたらないと思うのです。もちろん予想がまちがう例はあります。でもそれは意思決定を中央集権化したところで避けられません。働く能力も意欲もある人が1,000万人いて、雇用されている人が900万人いたら、その900万人の労働力がまちがった方向に振り向けられているという証拠はありません。現在のシステムに対する文句とは、その900人を別の仕事に就けるべきだということではありません。残り100万人にも作業が与えられるべきだということです。現在のシステムが壊れてしまっているのは、実際の雇用の量を決める部分であって、その方向性を決める部分ではないのです。
ですからこれは私がゲゼルと同意見の部分ですが、古典派理論のギャップを埋めた結果として生じるのは「マンチェスター方式」を捨て去ることではなく、経済の各種力の自由な活動が生産の潜在力を完全に活かすためには、どんな性質の環境が必要なのか示すことなのです。完全雇用の確保に必要な中央のコントロールはもちろん、政府の伝統的な機能の大幅な拡張を必要とします。さらに現代の古典派理論自体も、経済的な各種力の自由な活動を抑えたり導いたりすべき各種の状況を指摘しています。でも、民間の発意と責任を行使する余地は相変わらず広範に残されるでしょう。その余地の中では、伝統的な個人主義の長所が相変わらず成り立つのです。
ここでちょっと立ち止まって、これらの長所は何だったか思い出してみましょう。その一部は効率性という長所です——分散化と自己利益作用がもたらすメリットです。意思決定の分散化と個人の責任からくる効率性のメリットは、十九世紀の想定よりも大きいかもしれません。そして自己利益の活用に対する反動は、行きすぎているかもしれません。でも何よりも、個人主義は、その欠点や濫用さえ始末できるなら、個人の自由をいちばん守ってくれるものとなります。なぜなら他のどんなシステムと比べても、それは個人選択を実施する場を大幅に広げるからです。また人生の多様性をいちばんよく守ってくれるものでもあります。これはまさに、それが個人選択の場を拡大したことで生じており、それを失ったことは均質国家や全体主義国家の損失の中でも最大のものです。というのもこの多様性は、全世代の最も安全で成功した選択を内包した伝統を保存するからです。それは現在をその気まぐれの分散化によって彩ります。そしてそれは伝統と気まぐれの従僕であるとともに、実験のメイドでもあるので、将来を改善するための最も強力な道具なのです。
ですから政府機能の拡大を行い、消費性向と投資誘因それぞれの調整作業を実施するというのは、十九世紀の政治評論家や現代アメリカの財務当局から見れば、個人主義への恐るべき侵害に見えるかもしれません。私は逆に、それが既存の経済形態をまるごと破壊するのを防ぐ唯一の実施可能な手段だという点と、個人の発意をうまく機能させる条件なのだという点をもって、その方針を擁護します。
というのももし有効需要が不足なら、資源の無駄遣いという公共スキャンダルは耐えがたいばかりか、そうしたリソースを活動させようとする個々の事業者たちは、きわめて不利な条件で活動することになってしまうからです。事業者が遊ぶ危険の遊戯は、無数のゼロだらけで、プレーヤーたちは手札を全部ディールするだけのエネルギーや希望があっても、全体としては負けてしまいます。かつて世界の富の増分は、プラスの個人貯蓄総量より少なくなってしまいました。これまで世界の富の増分は、プラスの個人貯蓄総量より少なく、その差額を補填してきたのは、勇気と発意を持ちつつも傑出した技能や異様な幸運が伴わなかった者たちの損失でした。でも有効需要が適切なら、平均的な技能と平均的な幸運だけで十分なのです。
今日の権威主義国家体制は、失業問題を解決するのに、効率性と自由を犠牲にしているようです。確かに世界は、現在の失業を間もなく容認できなくなるでしょう。その失業は時々短い興奮の時期を除けば、今日の資本主義的な個人主義と関連しており、私の意見ではその関連性は必然的なものなのです。でも問題の正しい分析があれば、その病気を治癒させつつ、効率性と自由を維持できるはずです。
さっきさりげなく、新しいシステムは古いものよりも平和をもたらしやすいかもしれないと述べました。その側面を改めて述べて強調しておく価値はあるでしょう。
戦争にはいくつか原因があります。独裁者のような連中は、少なくとも期待の上では戦争により楽しい興奮が得られるので、国民たちの天性の好戦性を容易に煽れます。でもこれを超えたところでは、世間の炎を煽る仕事を手助けするのが、戦争の経済的な要因、つまり人口圧と市場をめぐる競争的な戦いです。十九世紀に圧倒的な役割を果たしたのはこの第二の要因だし、今後もそうなるかもしれません。こちらの要因がここでの議論の中心となります。
前章で、十九世紀後半に主流だった国内のレッセフェールと国際的な金本位制のシステムでは、政府が国内の経済停滞を緩和する手段として、市場を求めて争う以外に手がなかったと指摘しました。というのも国にとって、慢性的または間歇的な失業を緩和できるあらゆる手段が排除されており、残った手段は所得勘定上の貿易収支の改善だけだったのですから。
ですから経済学者たちは現在の国際制度について、国際分業の果実を準備しつつ各国の利益を調和させているのだ、と賞賛するのに慣れていますが、その奥にはそれほど優しくない影響が隠されているのです。そして各国の政治家たちは、豊かな老国が市場をめぐる闘争を怠るならば、その繁栄は停滞して失速すると信じておりますが、それは常識と、事態の真の道筋に関する正しい理解であり、それが彼らを動かしているものなのです。でも各国が自国政策によって自国に完全雇用を実現できることを学習すれば(そしてまた付け加えなければならないのは、彼らが人口トレンドで均衡を実現できれば、ということです)、ある国の利益を隣国の利益と相反させるよう計算された、大きな経済的な力は存在しなくてすみます。適切な状況下では、国際分業の余地もあるし、国際融資の余地も残されています。でも、ある国が自分の製品を他の国に押しつけなければならない火急の動機はなくなりますし、他国の産物を毛嫌いする理由もなくなります(しかもそれが買いたい物を買う金がないからというのではなく、貿易収支を自国に有利に展開するため収支均衡をゆがめたいという明示的な目的のために行われることはなくなります)。 国際貿易は、今のような存在であることをやめるでしょう。今の国際貿易は、自国の雇用を維持するために、外国市場に売上げを強制し、外国からの購入は制限するというものです。これは成功しても、失業問題を闘争に負けた近隣国に移行させるだけです。でもそれがなくなり、相互に利益のある条件で、自発的で何の妨害もない財とサービスの交換が行われるようになるのです。
こうした発想の実現は非現実的な希望なのでしょうか? 政治社会の発達を律する動機面での根拠があまりに不十分でしょうか? その発想が打倒しようとする利権は、この発想が奉仕するものに比べて強力だしもっと明確でしょうか?
ここではその答を出しますまい。この理論を徐々にくるむべき現実的手法の概略を述べるのでさえ、本書とはちがう性質の本が必要となるでしょう。でももし本書の発想が正しければ——著者自身は本を書くときに、必然的にそういう想定に基づかざるを得ません——ある程度の期間にわたりそれが持つ威力を否定はできないだろう、と私は予言します。現在では、人々はもっと根本的な診断を異様に期待しています。もっと多くの人は喜んでそれを受け入れようとし、それが少しでも可能性があるようなら、喜んで試してみようとさえしています。でもこういう現代の雰囲気はさて置くにしても、経済学者や政治哲学者たちの発想というのは、それが正しい場合にもまちがっている場合にも、一般に思われているよりずっと強力なものです。というか、それ以外に世界を支配するものはほとんどありません。知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかのトンデモ経済学者の奴隷です。虚空からお告げを聞き取るような、権力の座にいるキチガイたちは、数年前の駄文書き殴り学者からその狂信的な発想を得ているのです。こうした発想がだんだん浸透するのに比べれば、既存利害の力はかなり誇張されていると思います。もちろんすぐには影響しませんが、しばらく時間をおいて効いてきます。というのも経済と政治哲学の分野においては、二十五歳から三十歳を過ぎてから新しい発想に影響される人はあまりいません。ですから公僕や政治家や扇動家ですら、現在のできごとに適用したがる発想というのは、たぶん最新のものではないのです。でも遅かれ早かれ、善悪双方にとって危険なのは、発想なのであり、既存利害ではないのです。
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