Valid XHTML + RDFa cc-by-sa-licese

<-- 21章  目次  23章 -->


ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936) 第 VI巻 :一般理論が示唆するちょっとしたメモ

第 VI巻 :一般理論が示唆するちょっとしたメモ


第 22 章 事業サイクルについてのメモ

(山形浩生
原文:https://bit.ly/pzSbxe

 これまでの章では、あらゆる時点における雇用量を決めるのが何かを示したと主張してきましたので、それが正しいならば当然出てくるのは、この理論が事業サイクル(訳注:景気循環)という現象を説明できるはずだ、ということです。

 実際の事業サイクルの事例をどれでも詳しく検討すれば、それがきわめて複雑で、それを完全に説明するためには私たちの分析のあらゆる要素が必要となることがわかるでしょう。特に、消費性向や流動性選好、資本の限界効率の変動がすべて関係していることがわかるはずです。でも事業サイクルの本質的な特徴、特にそれを周期(サイクル)と呼ぶことを正当化する、時系列変化と継続期間の規則性は、主に資本の限界効率が変動する過程から生じているのだ、と私は主張します。事業サイクルは資本の限界効率の周期的な変化によって引き起こされると考えるのがいちばんいいのではないでしょうか。ただしそれが、経済システムの他の重要な短期変数に生じる関連した変化のために複雑化し、時に増幅されているのです。この理論を展開するには一章ではすまず、丸ごと本一冊が必要ですし、事実関係をもっと詳しく検討する必要があります。でも以下の手短なメモは、これまでの理論から示唆される検討の方向性を示すには十分でしょう。

セクションI

 周期(サイクル)的な運動というのはつまり、システムがたとえば上向きに進むにつれて、それを引き揚げている力が当初は威力を拡大し、相互に累積的な効果を持つけれど、だんだんその力を失って、やがてどこかの時点で、反対方向に働く力に置き換えられます。そしてこんどはそちらが威力を集め、相互に強化しあいますが、これもまた最高潮に達してから弱まり、また反対の動きに道をゆずる、ということです。でも周期(サイクル)的な運動というのは、単に上がったり下がったりする傾向がいつまでも続かずにいずれ逆転する、というだけの話を意味するのではありません。その時系列推移や、上下変動の期間に、ある程度それとわかるだけの規則性があるということも意味しています。

 でも、事業サイクルについての説明が適切なものであるためには、カバーすべき特徴がもう一つあります。つまり、危機という現象です——上昇から下降への転換が、しばしば突然暴力的な形で生じるのに、下降傾向が上昇傾向に変わるときには、そんな急激な転回点はないのが通例だ、ということです。

 投資変動で、それに対応した消費性向の変化が起きないものは、すべて雇用の変動をもたらします。投資の量はきわめて複雑な影響を受けるので、投資自体の変化や資本の限界効率の変動が、すべて周期的なものになることはほぼあり得ません。 ある特殊な一例、つまり農業の変動に関係したものは、本章のあとのセクションで別に検討します。でも十九世紀の環境における典型的な産業事業サイクルの場合、資本の限界効率変動に周期性があるべき決定的な理由がいくつかあるのだ、と私は考えます。こうした理由は、それ自体としても事業サイクルの説明としても、決して目新しいものではありません。ここでの私の唯一の狙いは、それをこれまでの理論と結びつけることなのです。

セクションII

 私の言いたいことをいちばんうまく紹介するには、好況の後期に入って「危機」が到来するところから始めるのがいいでしょう。

 これまで資本の限界効率1は、資本財の既存の豊富さや希少性や、また資本財の現在の生産費用に依存するだけでなく、資本財の将来収益についての現在の期待にも左右されるということを見てきました。ですから耐久資産の場合には、新規投資が望ましいと思われる規模を決めるに際して、将来についての期待が大きな役割を果たすのは自然だし、もっともなことだと思えます。でもこれまで見た通り、こうした期待の根拠はとてもあぶなっかしいものです。変動する信頼できない証拠に基づいているため、そうした期待は突然のすさまじい変化を起こしかねません。

 さて、私たちはこの「危機」を説明するのに、取引目的と投機目的の双方でお金の需要が増大することから、金利が上昇傾向になることを強調するのに慣れてきました。ときにはもちろん、この要因が確かに加速要因となりますし、ときには危機の火付け役になることさえあるかもしれません。でも私は危機の説明としてもっと典型的で、しばしば支配的なものは主に金利上昇ではなく、資本の限界効率が突然崩壊することなのだ、と主張したいのです。

 好況の後期段階は、資本財の将来収益に関する楽観的な期待が十分に強いため、それがますます豊富になり、生産費用が上昇して、おそらくは金利も上昇しているのも相殺できるほどです。組織化された投資市場の性質として、自分が何を買っているかほとんど何も知らない購入者と、資本的資産の将来収益についての妥当な推計をするよりは、次の市場感情の推移の予測に血道をあげる投機家たちに影響されているため、過剰に楽観的で買いのかさんだ市場に幻滅が到来すると、それは突然に、カタストロフ的な勢いで下落します2。 さらに、資本の限界効率崩壊に伴う失望と将来に対する不確実性は、自然に流動性選好の急増をもたらします——そしてそのため金利も上がります。ですから資本の限界効率崩壊がしばしば金利上昇を伴うという事実は、投資減少を深刻に悪化させます。でもこの状況の本質はそれでも、資本の限界効率崩壊にあるのであって、特にそれがそれまでのフェーズにおける、大量の新規投資に最も貢献していた資本の場合にはそれが言えます。流動性選好は、それが事業や投機の増加と関連してあらわれるもの以外は、資本の限界効率崩壊の後でないと増えません。

 これこそまさに、不景気をかくも御しがたくしているものなのです。後になれば、金利低下が回復に大きく貢献するし、おそらくはそれが回復の必要条件でもあるのでしょう。でもとりあえずは、資本の限界効率崩壊があまりに徹底していて、現実的に可能な金利削減をいくらやっても不十分かもしれません。もし金利削減だけで有効な療法となり得るのであれば、大して時間をかけずに回復もできるし、金融当局が多かれ少なかれ直接コントロール可能な手法だけですむでしょう。でも実際には、普通はそうは行きません。 そして資本の限界効率を回復させるのは、そうそう簡単ではありません。というのもそれを決めているのは、実業界の制御不能で聞き分けのない心理だからです。普通の言い方をすると、個人主義的な資本主義経済において実にコントロールし難いものといえば、安心の復活なのです。不況のこの側面は、銀行家や実業家が正しく強調していたことで、「純粋金融的」対処法を信奉していた経済学者たちはこれを甘く見ていたのです。

 ここで私の論点です。事業サイクルにおける時間要素の説明、つまり回復が始まるまでに通常はある程度の時間規模が必要だという事実の説明は、資本の限界効率回復を律する各種の影響に求めるべきなのです。第一に、ある時期における通常の成長率と比較した耐久資産の寿命、そして第二に余剰在庫の保有費用のおかげで、景気下降の期間は偶発的なものにはならず、たとえば今回は一年で次回は十年などといった変動はみせず、習慣上の規則性、まあ三年から五年といった期間が毎回観測されるのです。

 危機で何が起こるかを思い出しましょう。好況が続いている限り、新規投資のほとんどが見せる当期収益は、そんなに不満なものではありませんでした。幻滅がやってくるのは、見込み収益の信頼性について突然疑念がわき起こるからです。それは新規に生産された耐久財の在庫が増えるにつれ、当期収益がだんだんジリ貧になってきたからかもしれません。もし現在の生産費用が後日よりも高いと思われたら、これも資本の限界効率低下のさらなる理由となります。疑念はいったん始まると、急速に広がります。ですから不況の発端では、たぶん限界効率がゼロかマイナスにすらなった資本がたくさんあるでしょう。でも、利用や劣化、陳腐化を通じた資本の減少が、一見してわかるほど十分な希少性を作りだして限界効率を上げるまでにかかる時間は、その時代での平均的な資本の寿命からくる、かなり安定した関数になっているかもしれません。もしその時代の特徴が変われば、標準的な時間間隔も変わります。たとえば人口増の時代から人口減少の時代になれば、サイクルを特徴付けるフェーズは長くなります。でもこれまでの話で、なぜ不況の期間がその時代における耐久資産の寿命や通常の成長率と明確な関係を持つのか、本質的な理由が得られます。

 第二の時間安定要因は、余剰在庫の保有費用によるものです。それはその在庫吸収を一定期間内で終えるよう強制しますが、それはあまりに短期ではなく、あまりに長期でもありません。危機の後で突然新規投資が止まれば、仕掛品の余剰在庫が積み上がるでしょう。こうした在庫の保有費用は、年率10パーセント以下になることはほとんどないはずです。ですからその価格低下はそれらが、せいぜい三年から五年で吸収されるような条件をもたらすに足るものでなければならないことになります。さて在庫吸収プロセスはマイナス投資ですから、これはさらに雇用を抑えることになります。そしてそれが終われば、目に見えて回復が感じられるでしょう。

 さらに、運転資金削減も、下降期の産出低下には必然的につきものですが、これまたマイナス投資の一要素となります。これはかなりのものとなりかねません。そして不景気がいったん始まると、これは景気低下方向への強い累積的な影響を与えます。典型的な不況の最初期フェーズでは、たぶん在庫積み増しにつながる投資が続いていて、これが運転資金のマイナス投資を相殺するでしょう。次のフェーズでは、短期的に在庫と運転資金両方でマイナス投資が見られるでしょう。最低点を過ぎた後、たぶん在庫はさらにマイナス投資が続き、運転資金の再投資が相殺されます。そして最後に、回復がようやく軌道に乗れば、どちらの要素も同時に投資を後押しします。耐久消費財の投資変動に対する追加的で付加的な影響は、この背景の中で検討しなくてはなりません。この手の投資減少が周期的な変動をスタートさせてしまえば、この周期がある程度進行するまでは、回復の後押しはほぼ不可能です3

 残念ながら資本の限界効率が大きく下がると、消費性向も悪い方向に動きがちです。というのもそれは、証券取引所の株式の市場価値を暴落させるからです。さて証券取引所の投資に積極的な興味を示す人々にとって、特にその人が借りた資金で株式投資をしている場合には、これは当然ながらきわめて気の滅入る影響を及ぼします。こうした人々は実際の所得の状態よりも、そうした投資価値の上下動のほうが消費意欲に強く影響するかもしれません。今日のアメリカのように「株式志向」の社会だと、株式市場の上昇は満足のいく消費性向にとって、ほとんど不可欠な条件なのでしょう。そしてこの状況は、ごく最近までは見すごされてきましたが、明らかに資本の限界効率低下による景気沈滞効果をさらに悪化させるものなのは確実です。

 いったん回復が始まれば、それが自分で自分を強化して累積する様子は明白です。でも下降フェーズだと、固定資本と原料在庫がどちらも一時的に余っていて運転資金が減らされている状態だと、資本の限界効率関係(スケジュール)が下がりすぎて、金利を実施可能な範囲でどれだけ下げても、新規投資を十分に確保するような形でそれを修正することはできなくなります。ですから現在のように市場が組織されて影響されていると、資本の限界効率に関する市場の推計は、実にすさまじい上下動を起こして、それに対応して金利が変動しても十分に相殺できないかもしれません。さらに上で見たように、株式市場でこれに対応する動きは、消費性向が最も必要とされるときに、それを抑えてしまうのです。自由放任条件では、雇用の大幅な変動を避けるのは、投資市場の心理が徹底的に変わらない限り不可能かもしれません。そしてそんな心理の変化が起きると期待すべき理由はありません。私は、当期の投資量を秩序だてるという責務は、民間の手に任せておくのは安全でないと結論します。

セクションIII

 これまでの分析は、好況の特徴は過剰投資であり、来る不況の唯一の対策はこの過剰投資を避けることだ、という見方をする人々と同意するものだ、と思われるかもしれません。その見方によれば、上に挙げた理由から低金利で不況を防ぐことはできないが、高金利で好況を避けることはできるとのこと。確かに、低金利が不況対策になるのに比べれば、高金利は好況対策としてずっと効果が高いという議論には説得力があります。

 でもこうした結論を上の議論から導き出すのは、私の分析を誤解しています。そして私流の考え方からすれば、深刻なまちがいを含んでいます。というのも過剰投資ということばがあいまいだからです。それはその投資の原因となった期待を失望させるような投資を指すのかもしれず、あるいは厳しい失業状況ではまったく使い道がない投資を指すのかもしれず、あるいはあらゆる資本財があまりに豊富で、完全雇用の条件下ですら、その設備の寿命の間に置き換え費用以上のものを稼ぎ出せないような状態を指すのかもしれません。厳密に言うと、過剰投資の状態とは一番最後のものだけで、それ以上の投資がすべて単なるリソースの無駄遣いとなるような状態のことです4。さらに、この意味での過剰投資が好況の通常の特徴だったとしても、その対処方法は高金利ではありません。高金利は有益な投資も排除してしまいますし、消費性向をさらに引き下げることにもなります。対処法は、所得の再分配などを通じて消費性向を刺激するような手立てを講じることなのです。

 でも私の分析によれば、好況の特徴が過剰投資だと言えるのは、前者の意味においてのみです。私が典型的だとする状況は、資本があまりに豊富で社会全体としてもそのまともな使い道がまったくないような状況ではありません。どうみても失望せざるを得ないような期待に動かされた、不安定で持続不能な条件下で投資が行われているような状況が典型なのです。

 もちろん、好況時の幻影のために、ある特定の資本的資産があまりに過剰に作られすぎて、産出の一部はどんな尺度で考えても、資源の無駄遣いになっていることはあり得ます——いや実際その可能性は高いでしょう。ちなみに付け加えておけば、これは好況でないときにもたまに起こることです。するとつまり、それは行き先のまちがった}投資につながるわけです。でもそれを超えたところでは、実際には完全雇用条件下でも 2 パーセントくらいの収益しかない投資が、たとえば 6 パーセントの収益をもたらすという期待で実施され、それに基づく値づけがされることが、好況の基本的な特徴として挙げられます。幻滅がやってくると、この期待は正反対の「悲観論の誤謬」で置き換わり、実際には完全雇用で 2 パーセントの収益をもたらす投資が、いまやマイナスの収益しかもたらさないという期待になってしまいます。その結果として生じる新規投資の崩壊のせいで失業が発生し、そのおかげで完全雇用下でなら2パーセント稼いでいたはずの投資も、本当にマイナスの収益しかあげられません。すると家は不足しているのに、それでも今ある家は高すぎてだれも住めないというような状態になります。

 ですから好況への対処方法は、金利の引き上げではなく、金利の引き下げなのです5! そうすることで、その好況なるものが長続きできるかもしれないのですから。事業サイクルへの正しい対処法は、好況をつぶして世界を常にミニ不況状態にしておくことではないはずです。むしろ不況をつぶして、世界を常にミニ好況状態にしておくことであるはずです。

 つまり不況を終わらせるはずの好況を起こすのは、高すぎる金利と常軌を逸した期待の状態ということになります。金利は適切な期待の状態だと完全雇用には高すぎるのですが、常軌を逸した期待の状態は、それが続く限り、その高金利で実際に抑えられるようなものではないのです。好況というのは過剰な楽観論が、冷静になれば高すぎる金利に勝利する状況なのです。

 戦争中を除けば、近年では完全雇用につながるほど強い好況の経験は一つもないのではないかと思います。アメリカでは、1928-29 年の雇用は通常の基準からすればきわめて満足のいくものでした。でも一部のきわめて専門的な労働者群を除けば、労働不足の証拠はまったく見られませんでした。一部の「ボトルネック」は起こりましたが、経済全体としての産出はもっと拡大余地がありました。また住宅の標準や設備があまりに高くなっていて、完全雇用を想定すれば家の寿命を通じて、全員が利払い分など考慮せずとも置き換え費用だけをカバーする利率で、欲しいだけのものをすべて得ていた、などということもありません。また交通や公共サービスや農業改良が究極まで進み、それ以上の追加が置き換え費用すらまかなえるとはまともに期待できない状態になっていたということもありません。正反対です。1929 年のアメリカが厳密な意味での過剰投資状態だったと想定するのは馬鹿げています。実情は別の性格のものでした。それに先立つ五年間の新規投資は、確かに全体として実にすさまじい規模だったので、それ以上の追加投資から来る見込み収益は、冷静に考えれば、急落していました。ただしい予想をしていれば、資本の限界効率は空前の低い水準に下がったことでしょう。ですから「好況」は長期金利がきわめて低く、特定方向の投資があまりに過剰でまちがったものになるのを避けない限り、安定して続くことは不可能だったはずです。実際には金利はかなり高くて、投機的な興奮状態の影響下にある特定方向——したがって過剰になる危険がことに強かった分野——以外では投資を抑えていたのです。そして投機的な興奮を抑えるほどの高い金利は、同時にあらゆるまともな新規投資をも潰していたでしょう。ですから異常に大量の新規投資が長引くことで起こる状況に対する治療法として金利を引き上げるのは、病気は治すが患者も殺すような類の療法に属しているのです。

 実際、イギリスやアメリカ並みに豊かな国で完全雇用に近い状態が長期間続けば、消費性向が現状通りだと新規投資の量があまりに多くなりすぎて、いずれ完全投資の状態に到達することは十分に考えられます。この場合の完全投資とは、それ以上どんな耐久財を増やしても、まともな計算では総収益が置き換え費用を超えることはまったく期待できないような状態です。さらにこうした状態は比較的近い将来にやってくるかもしれません——たとえば25年以内かそれ以下で。厳密な意味での完全投資がいまだかつて、一瞬たりとも起こったことはないと主張しているからといって、私がこれを否定していると思っていただいては困ります。

 さらに、もし現代の好況が厳密な意味での一時的な完全投資や過剰投資と関連しているのだと想定するにしても、高金利が適切な対処方法だと考えるのはやはりばかげています。もしそれが適切ならば、病因は過少消費にあるとする論者たちの議論が完全に正しいことになるからです。すると対処方法としては、所得の再分配やその他の方法で、消費性向を高めるような各種の手法だということになります。そうすれば同じ量の雇用でも、それを支えるために必要な当期投資は少なくてすむのですから。

セクションIV

 ここで便宜的に、各種の観点から現代社会が過少雇用に陥るという慢性的な傾向の原因は過少消費にあるのだ、と主張する重要な学派について一言述べておきましょう——つまり、社会慣行や富の分配で消費性向が無用に低くなっているのがいけない、という学派です。

 既存の条件——あるいは少なくとも最近まで存在していた条件——では、投資の量が計画されずにコントロールもされず、鞭だったり投機的だったりする個人の私的な判断によって決まる、資本の限界効率の狼藉と、因習的な水準からほとんど決して下がらない長期金利に委ねられていました。そういう条件でなら、こうした学派の発想は現実的な政策のガイドとしてまちがいなく正しいものです。というのもそうした条件では、雇用水準をもっと満足のいく水準に引き上げる手段が他にないからです。もし投資を増やすのが物質的に実施不可能なら、明らかにもっと高い雇用を確保するには、消費を増やす以外に手はありません。

 実務的には、こうした学派と私の唯一のちがいは、まだ投資を増やすことで得られる社会的な便益がたくさんあるのに、消費の増大にばかりちょっと力点を置きすぎじゃないかと思うところです。でも理論的には、彼らは産出を増やす方法が二つあることを無視している、という批判を受けることになります。資本の増大をもっと緩めて、消費増大に努力を集中すべきだと判断するにしても、代替案をよく考えて、目を開けた状態で判断しなくてはなりません。私自身はというと、資本が希少でなくなるまで資本ストックを増やせば実に多大なメリットが得られることに感嘆しています。でもこれは実務的な判断であり、理論的な審判ではありません。

 さらに、私としてはすぐに譲歩して、いちばん賢明なのは両面から同時に攻めることだと言いたい。投資の量を社会的にコンとロー李して、資本の限界効率をだんだん下げるようにする一方で、私は同時に消費性向を増やすあらゆる政策を支持します。というのも投資で何をしようと、現在の消費性向では完全雇用は維持できそうにないからです。ですから、両方の政策が同時に機能する余地はあります——投資を奨励し、同時に消費を奨励するのです。それも単に、既存の消費性向で増えた投資に対応する水準の消費にとどまらず、もっと高い水準の消費をもたらすのです。

 もし——例示のためにキリのいい数字を使うなら——今日の産出水準が、継続的な完全雇用の場合に比べて 15 パーセント低いとしましょう。そしてこの産出の 10 パーセントが純投資で、90 パーセントは消費だとします。さらに、現在の消費性向の下で完全雇用を確保するには、純投資が 50 パーセント増えなくてはいけないとしましょう。そうなれば産出は 100 から 115 に上昇し、消費は 90 から 100 に、純投資は 10 から 15 に上がります。もしそうならば、消費性向を変えることで、消費が 90 から 103 になるようにすれば、純投資は 10 から 12 に上がるだけですむのです。

セクションV

 別の学派によれば、事業サイクルを解決するには消費や投資を増やすのではなく、雇用を求める労働の供給をへらすこと、つまり雇用や産出を増やさなくても、既存の雇用量を再分配すればいいとか。

 これは私には拙速な方針に思えます——消費増加計画よりずっと明白に拙速です。どこかの時点では、各個人はこれ以上所得を増やすべきか余暇を増やすべきか、それぞれの利点をてんびんにかけるでしょう。でも私が思うに、現在の証拠を見れば、大半の個人は余暇を増やすよりは所得増を望むというのが強く裏付けられます。そしてもっと所得が欲しいと思う人々に、もっと余暇を楽しみなさいなどと説得するに足る十分な理由はまったく思いつきません。

セクションVI

 驚異的に思えることかもしれませんが、事業サイクルの解決には、好況期の初期段階で金利を引き上げて、景気を冷やすことだと考える学派が存在します。多少なりともこの政策への裏付けを持った唯一の議論は、D・H・ロバートソン氏が提唱しているもので、彼は要するに、完全雇用なんて実現不可能な理想でしかなく、せいぜい期待できるものといえば現在よりもずっと安定して、平均で今よりちょっと高いくらいの雇用を目指すことだ、と想定しているのです。{p327}

 投資のコントロールや消費性向を左右する政策が大きく変わることはなく、おおむね現状が続くものと想定すれば、好況が起こりそうになるたびに最もピント外れな楽観主義者ですら怖じ気づくような高金利を課して、それを蕾のうちに刈り取るような銀行政策により、平均ではもっと有益な期待の状態が生じるのだ、という議論もできなくはないとは思います。景気沈滞を特徴づける期待の失望は、あまりに大量の損失と無駄を生み出しかねず、好況を潰しておいたほうが有用な投資は平均で見ると高くなるかも知れません。これが本当に正しいかどうかは、この想定を見ているだけでははっきりとは言えません。これは現実的な判断の問題で、詳細な証拠が必要とされる話です。ただしこの議論は、まるで見当外れだった投資にすら伴う消費増加からくる、社会的なメリットを見すごしている可能性はあります。だからそうした投資があったほうが、何も投資がないよりはマシかもしれません。それでも、1929 年アメリカのような好況に直面したとき、きわめて開明的な金融コントロールですら、手持ちの武器が当時は連邦準備制度しかない状態では、手のうちようがあったかどうか。それが実施できるどんな代替案も、結果には大した差をもたらさなかったかもしれません。でもこれが正しかったとしても、そんな見通しは危険で無用なほどに敗北主義です。それは現在の経済制度においてうまく機能していないものを、あまりにたくさん今後もずっと容認しつづけろと奨励するか、すくなくともそうなると想定してしまっているのです。

 しかしながら、雇用水準がたとえば以前の十年の平均水準よりも目に見えて上がりそうになったら、高金利を課してすぐにそれを潰すという厳しい方針は、通常は頭の混乱以上の根拠がまったくないような議論に基づいていることが多いのです。この議論はときには、好況時の投資は貯蓄を上回りがちなので、高金利にすれば一方では投資が抑えられて一方では貯蓄が奨励されるから均衡が回復するといった信念から生じています。これはつまり貯蓄と投資が等しくないことがあるという意味で、したがってこうした用語を何か特殊な形で定義し直さない限り、何の意味も持っていません。あるいは投資増大に伴う貯蓄増大は望ましくなく不公正だとされますが、その理由は、一般的にそれが物価高と結びついているから、というものです。でもそれなら、既存の産出水準や雇用水準が上がるのはすべて否定されることになります。というのも物価高は本質的には投資増のせいではないからです——短期的には産出が増えると供給価格も増えるという事実からくるものです。それは収穫逓減という物理的な事実のせいでもあり、産出が増えると費用単位の名目額が増える傾向にあるせいでもあります。供給価格一定の条件下なら、もちろん物価上昇もありません。それでもやはり貯蓄増には投資増が伴います。貯蓄増をもたらすのは産出増です。そして物価上昇は産出増の副産物にすぎず、貯蓄増がなくて消費性向が増しただけでも同じように起きます。物価が低くても、それが産出が低いだけのせいだったら、そんな物価で買える状態に既得権益を持つ人はいません。

 あるいはまたもや、投資増がお金の量の増大で仕組まれた金利低下によるものなら、そこに邪悪なものが忍び込むなどと言われます。でも、既存の金利水準に特段の美徳があるわけではないし、新しいお金はだれも「押しつけられる」わけではありません——それは低金利や取引量増大からくる流動性選好の上昇を満たすべく作りだされただけで、低い金利で貸し出すよりは現金を持ちたいという人がそれを保有するだけです。あるいはまたもや、好況を特徴付けるのは「資本消費」だとか言われます。資本消費とはどうやらマイナスの純投資のことのようです。つまり消費性向が高すぎるということです。事業サイクルという現象が、戦後ヨーロッパの通貨崩壊で生じた通貨からの逃亡のような事態と混同されているのでない限り、証拠はすべて正反対のことを示しています。さらにもし彼らの言う通りだったとしても、過小投資の条件に対する療法としては、金利引き上げよりは金利引き下げのほうが適切でしょう。こうした学派の言うことは、私にはまったく理解できません。いや、ひょっとして総産出は絶対に変わり得ないという暗黙の想定を入れれば理解はできるかも。でも産出一定を想定するような理論は、明らかに事業サイクルの説明にはあまり役にはたちません。

セクションVII

 事業サイクルの以前の研究、特にジェヴォンズによるものでは、工業の現象よりも季節による農業の変動で説明をつけようとしていました。上の理論からすると、これは問題へのアプローチとしてきわめて見込みの高いものです。というのも今日ですら、農業産品在庫の年ごとのちがいは、当期投資の速度変化をもたらすアイテムとしては最大のものの一つだからです。ましてジェヴォンズの執筆当時——さらには特に、彼の使った統計がカバーする期間——では、この要素は他のあらゆるものを大きく引き離していたことでしょう。

 ジェヴォンズの理論は、事業サイクルが主に収穫の豊作・不作変動によるものだというのは、以下のように言い直すことができます。大豊作となると、後の年に持ち越される量にかなりの追加が行われるのが通例です。この追加分の売上げは農民たちの当期所得に追加されて、彼らはそれを所得として扱います。一方持ち越し分の増加は社会の他の部分に対し、何ら所得支出の減少はもたらさず、貯蓄から資金調達されます。つまり持ち越し分への追加は、当期投資の追加となるわけです。価格が暴落した場合でも、この結論の有効性は変わりません。同じように不作だと、この持ち越し分が引き出されて当期に消費され、消費者の所得支出で対応する部分は、農民たちにとって当期所得は作り出しません。つまり持ち越し分から引き出される分は、それに対応した当期投資の削減をもたらす、ということです。ですから、もし他の方面への投資が一定とすれば、持ち越し分に大量の追加が行われる年と、そこから大量の引き出しが行われる年とでは、総投資の差はきわめて大きくなります。そして農業が支配的な産業である社会では、それは他の投資変動の通常要因に比べると、圧倒的に大きくなります。ですから上昇転換点は豊作の年で、下降転換点は不作の年だというのは自然なことです。豊作と不作の定期的な周期には物理的な原因があるというその先の理論は、もちろんまったく別の話で、ここでは扱いません(訳注:ジェヴォンズはそれが太陽黒点によるという理論を展開していた。)

 もっと最近になってこの理論がさらに進み、事業にとってよいのは豊作ではなく不作だとか言われています。なんでも、不作だと少ない報酬でも人々が喜んで働くようになるからだとか、あるいは結果として生じる購買力の再分配が消費にとってなにやらよいものだからとか。言うまでもなく、豊作・不作現象が事業サイクルの説明になるという記述で私が念頭においているのは、この手の理論ではありません。

 でも変動の農業的な原因は、現代世界ではずっと重要性が下がっています。理由は二つあります。第一に農業産出は世界の総産出に占める割合がずっと小さくなっています。そして第二に、ほとんどの農業産品には世界市場が発達して、それが両半球にまたがっているので、豊作年と不作年の影響は均されてしまい、世界全体での収穫変動は、個別の国の収穫変動率に比べてずっと小さなものとなっています。でも昔は、各国はほとんど自国の農業収穫だけに依存していたので、農業産品の持ち越し量変動に多少なりとも比肩する変動要因は、戦争を除けば見つけるのはきわめて困難だったのです。

 今日ですら、当期投資の量を決めるにあたって原材料の在庫変動が果たす役割には、農作物も鉱物も含め、十分注目することが重要です。転換点に達した後も不景気からの回復が遅い原因は、主に余剰在庫が減って通常水準に戻るのにデフレ効果があるせいだと私は思います。当初は在庫の蓄積は、好景気が破綻した後で起こり、崩壊の速度を緩和します。でもこの救済に対する支払いは、その後の回復率が引き下げられることで行われなくてはなりません。実際、目に見えるほどの回復が多少なりとも起こるためには、在庫削減がほとんど完全に進まないとダメなことさえあります。というのも他の方向への投資は、それを相殺するような在庫への当期マイナス投資がないときには景気の上昇を生み出すに十分なものであっても、そうしたマイナス投資がまだ進んでいる限りはまったく不十分かもしれないからです。

 私が考えるに、この典型的な例はアメリカの「ニューディール」の初期段階で見られました。ルーズベルト大統領の大規模な借り入れ支出が始まったとき、各種の在庫——特に農作物の在庫——はまだかなり高い水準にありました。「ニューディール」は部分的にはこうした在庫を減らそうという厳しい試みを含んでいました——そのために当期産出を減らしたりなど、手は尽くされたのです。在庫の通常水準までの削減は、必要なプロセスでした——このフェーズは耐えるしかありません。でもそれが続く限り、つまりは二年ほどは、それは他の方面に対して行われていた借り入れ支出を大幅に相殺してしまいました。それが完了してやっと、まともな回復に向けて道が調ったのです。

 最近のアメリカの経験も、完成品在庫や仕掛品のストック——「在庫」と呼ぶのが通例となりつつあります——が景気変動に果たす役割の好例を与えてくれます。それは事業サイクルにおける大きな動きの中で、細かい上下振動を引き起こすのです。製造業者は、何ヶ月か後に生じると期待される消費規模に備えるべく産業を動かしますが、ちょっとした計算ミスもしがちで、通常それはちょっと先走りすぎる方向のまちがいとなります。自分のまちがいに気がついたら、かれらは当期消費の水準よりも生産をちょっと収縮させて、過剰在庫を吸収させる必要があります。そしてちょっと先走っては少し待つというペースの差は、当期の投資量への影響をそれなりに見せて、現在のアメリカで得られる見事に揃った統計を背景に、その影響ははっきりとうかがえるのです。


  1. 誤解の余地のない文脈ではしばしば「資本の限界効率の一覧表(スケジュール)」という意味を便宜的に、「資本の限界効率」と書きます。

  2. 本書で前に(12章)示したことですが、民間投資家は新規投資に自分が直接責任を持つことはほとんどないが、直接責任のある事業者たちは、自分ではもっとまともな理解をしてはいても、市場の空気に流されるほうが財務的に有利でしかもそれがしばしば避けがたいことなのだと知ることになるのです。

  3. 拙著『貨幣論』第四巻の一部の議論はこれに触れたものです。

  4. でも、消費性向が時間の中でどう分配されるかについての特別な想定のもとでは、マイナス収益をもたらす投資は有益かもしれません。社会全体として見ると満足を最大化しているかもしれないからです。

  5. 逆側から主張されるいくつかの議論については以下の記述 (p. {p327}) を参照。というのも現在の手法を大きく変えることが許されないのであれば、私も好況期に金利を上げるのは、実際の状況においては、望ましくはなくても害が相対的に小さいと同意するからです。

<-- 21章  目次  23章 -->

YAMAGATA Hiroo日本語トップ


Valid XHTML 1.1! クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
2011.12.27 YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)


このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。