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ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936)

序文

(山形浩生訳
原文:http://bit.ly/cqnrZk

  この本は主に、経済学者仲間に向けたものです。他の人にも理解してもらえればとは思います。でも本書の主な狙いは理論上のむずかしい問題を扱うことで、その理論を実践にどう適用するかは二の次でしかありません。というのも、既存経済学の悪いところは、その上部構造のまちがいにはありません。上部構造は論理的な整合性を持つように、とても慎重に構築されています。まちがいはむしろ、その前提に明確さと一般性がないことです。ですから本書の目的は経済学者たちに対し、自分たちの基本的な前提の一部を批判的に再検討するよう説得することです。でもそれを達成するには、とても抽象的な議論と、かなりのケンカ腰が不可欠でした。後者はもっと減らしたかったところ。でも自分の見方を説明するだけでなく、それがどんな点で主流理論と乖離するかを示すのも大事だと思ったのです。私が「古典派理論」と呼ぶものに強くこだわる人々は、私がまるでまちがっているという信念と、目新しいことは何も言っていないという信念の間で揺れ動くでしょう。そのどっちが正しいか、あるいは第三の選択肢が正しいのかを決めるのは、それ以外の人々です。ケンカ腰の部分は、その答を出すための材料をある程度提供しようという狙いです。そして、ちがいを際だたせようとするあまりケンカ腰があまりに強いようならお許しを。この私だって、かつては自分が今や攻撃している理論に自信を持っていたし、たぶんその強みを知らないわけでもないのですから。

 争点となっている事項は、これ以上はないほど重要なものです。でも私の説明が正しいなら、まず説得すべきは経済学者仲間であって、一般大衆ではありません。議論のこの段階では、一般大衆は論争にお呼びでないとは申しません。でもある一人の経済学者と他の経済学者との間の深い意見の相違を明るみに出そうという試みにおいては、野次馬でしかありません。でもその意見の相違点は、現在経済理論が持っていた現実的な影響力をほとんど破壊してしまい、そしてそれを解決しないと、今後もその影響力を阻害し続けてしまうのです。

 この本と、五年前に刊行した『貨幣論』との関係は、自分でははっきりしているつもりですがど、他の人にはわかりにくいでしょう。そして自分では過去数年にわたり追求してきた考え方からの自然な流れに思えても、読者には理解不能の転向に思える話もあるでしょう。この困難に拍車をかけるのは、必要に迫られていくつかの用語を『貨幣論』から変更したことです。こうした用語変更は、以下の話の中で指摘します。でもこの二冊の本の関係はざっと以下のように言えます。『貨幣論』を書き始めたときには、まだお金の影響というものが、いわば需要と供給の一般理論とは切り離されたものだという伝統的な話の流れで考えていたのです。書き終えてみると、金融理論が経済全体の産出に関する理論になるよう押し戻す作業は少し進んでいました。でも、先入観から解放されていなかったことが、同書の理論的な部分(特に第三巻と第四巻)での突出した欠陥に思える部分に顔を出しています。つまり、産出水準の変化に対する影響を十分に扱いきれなかったのです。私の「基本方程式」なるものは、産出が決まっているという仮定の下でのスナップショットでした。それは、決まった産出を想定したとき、利潤の不均衡をもたらすような力が生まれて、したがって産出の変化が必要となる、というのを示そうとしたものです。でもスナップショットではない動的な展開は不完全で、きわめて混乱したままでした。これに対して本書は、経済全体としての産出規模と雇用規模の変化を決める、各種の力を主に研究したものとなりました。そして本書は、お金という者が経済の仕組みの中に、本質的で奇妙な形で入ってくることを発見しましたが、細々した金融の細部は背景に押しやられています。これから見るように、貨幣経済というのは、将来についての見方が変わると、雇用の方向性にとどまらず、その量まで影響されてしまえるものなのです。でも、将来見通し変化に影響されるような現在の経済行動分析手法は、需要と供給の相互作用に依存するもので、それによって価値の根本理論と結びついています。こうして私たちはもっと一般的な理論にたどりつきます。それはおなじみの古典派理論が、特殊ケースとして含まれるものなのです。

 こんななじみのない道を進む本の著者は、必要以上のまちがいを避けるため、批判と対話にきわめて大きく依存します。一人きりで考えすぎると、実にばかげたことでも一時的には信じてしまうようになって驚かされます。特に経済学では(他の道徳科学もそうですが)自分の発想を、数式的にも実験的にも決定的なテストにかけることができない場合が多いのです。本書では、たぶん『貨幣論』を書いたとき以上に、R・F・カーン氏の絶え間ない助言と建設的な批判のおかげを被りました。彼の助言なしにはこのような形を取らなかったはずのものが、本書にはたくさんあります。またゲラを全部読んでくれたジョーン・ロビンソン夫人、R. G. ホートレー氏、R. F. ハロッド氏にも感謝します。索引をまとめてくれたのは、キングス・カレッジの D. M. ベンスサン=ブット氏でした。

 本書の構築は著者にとって、脱出のための長い闘いでした。そして読者に対する著者の攻撃が成功するなら、読者にとっても本書は脱出に向けた長い闘いとならざるを得ません――それは因習的な思考と表現の形からの脱出なのです。ここでくどくど表現されている発想は、実に単純で自明だと思います。むずかしいのは、その新しい発想自体ではなく、古い発想から逃れることです。その古い発想は、私たちのような教育を受けてきた者にとっては、心の隅々にまではびこっているのですから。

JMケインズ
1935年12月13日

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2011.12.25 YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu), 2011


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