(Last update:2000/12/17)
「黒人差別をなくす会」の「過去の戦歴」を追加編集。(2000/12/17)
分量が増えてきたので、新しいリンクは What's new!にひとまず置き、 つぎの更新のときに分類し、新たなものと入れかえることにしました。 名づけて超整理法折衷方式(^^; (99/10/29)
以下の分類は便宜的なもので、かなり無理があります(^^;; また、文中には事実誤認も見られますが――そしてそれがこの「ちびくろさんぼのちいさいおうち」を作った動機の一つでもありますが――そのまま並べておきます。引用した文章は、一部分ですので、リンク先をたどってたしかめてね。(99/10/14)
図書館の授業で、サンボ問題に関するビデオを見たの。見てて、日本はことなかれ主義が強いのかなーと思った。出版社も書店も図書館も、自主的にとりあつかいをやめてる。自分で判断するのじゃなく、差別だと言う人がいるから、世間で騒がれる前に、存在そのものを無かった事にしてしまおうという姿勢。結果、サンボは差別的な悪い図書という烙印が押された形になり、世間もそういう眼で見るようになった。 これは読む人の選択権を奪っているし、表現の自由も無視している、本当は許されない行為なのに。 ちびくろサンポってゆう、黒い犬を主人公に置き換えた作品が紹介された時には、力抜けたね。教室中、失笑。分かるけど・・・。やっぱそれはちょっと違うっしょ。
ぼくはこの絵本が好きだった。 どのくらい好きかっていうと、この絵本を読みなおしてしまうと 別に好きでもないパンケーキを食べたいと母親にせがんでしまうくらい好きだった。 単純だったのだ。それは今でも変わっていないという話もあるんだけど。 ところでこの絵本なのだが、人種差別のからみで発禁になってしまった。 どうも、世の中せちがらくなっているようだ。 ぼくはそのうちイッセー尾形の芸も見れなくなるんじゃないか、と心ひそかに恐れている。
いやもう、これを読んだらホットケーキが食べたくてしょうがない。 「ちびくろサンボ」が世に出なくなって久しい。 その是非は別として、今の子ども達がこの話を読めないのは、僕はとても悲しく思う。 これはホットケーキのための文学なんだから。(10/23)
「サンボ」は明らかに、スペイン語のzamboから来ており、ラテンアメリカでのいわゆる先住民と黒人との混血で生まれた人々を指す。この言葉自体、新大陸の歴史において白人優位主義から見た「カースト」的社会関係のなかで、差別的に位置づけられているのだが、加えて、zamboという言葉(英語ではsambo)がおそらくは、ギリシア語のskambosを語源にしているらしいということも付け加えておかなければならない。このskambosとは、要するに差別的に「片輪」とか「不具」とかを意味しており、それゆえにzamboは非ヨーロッパ人を欠如態として表現する(としてしか表現できない)ヨーロッパ中心主義の伝統のなかにしっかりと捕らえられているのである。
「サンボ=差別語」論を出自をもちだして、熱く語ってらっしゃる。 「イノセント」は言葉それ自体に宿るのではなく、それを使う人間に帰すのでは?
メールマガジンの「ちびくろサンボ特集」。いくつかの「ちびくろサンボ」本と解説書の書評など。
残したいという気持ちは分かるのですが、設定や名前を変えてしまったら やっぱりそれは違うお話でしかない気がする・・
今、読み返してみて、あたたかい南の国の暖かな家庭と、そこに伝わるバターに関する面白い民話として、そこに描かれているあたたかくのんびりした絵とともに、僕は楽しくこの本を読めた。(なお、僕が今回読み直したのは、「ブラック・サンボ」である。)これからの子供達にも是非読んでもらいたいと思う(1999/4/30)
『チビクロさんぽ』書評:。絵もあまりうまくないし、文章もこなれない感じなので、単独では絵本としての価値は低いです。しかし、差別表現に関してのアプローチの仕方としては面白いと思います。ちょっと姑息ですがね。
「かい人36面相」氏の意見。ざんねんながら、論議を巻き起こすこともなかったようです。本命の原書復刻版が出たのに、「黒人差別をなくす会」は抗議文書をまだ送っていないそうだし(理由は「宣伝になるから」だって)。
blackという言葉は私の中ではいいイメージがある。音楽やスポーツにおいてblack はwhite と何ら変わりない、ひいては優れた地位を得つつあると私は考える。しかし、黒人への差別がなくなっているわけではない。
漫画者としてこの話を聞くにつけ、黒人差別の問題はまた別としても、この人権団体が何を考えていたのか考えあぐねるところである。
もしも今アメリカで日本に原爆を落とした話を面白おかしく漫画にでもされたら、私たちは腹を立てるだろう。「あなたたちは何も反省していないのか!」と腹を立てるだろう。 『ちびくろサンボ』の本が地球上から消えてしまったことは、歴史的にしかたのないことだったのかもしれない。けれどもまたいつか、「サンボ」という名前が差別的でなくなり、人種差別がこの世から完全に消えてしまった頃、あの元気な男の子が再び帰ってきてくれることを私は予見している。さよならサンボ、また会う日まで。(98/8/9)
「知らなかった」事は別に悪いことではない。問題は「知ったあとどうするか」だということは言うまでもない。ここで日本人は重大な過ちを犯してしまったのだ。それがすなわち性急かつ一方的な、各社の相次ぐサンボ絶版だ。正確に言えば過ちを犯したのは日本人全体ではなく、このことを「知った」一部の出版杜の人間ということになる。つまリサンポ絶版にあたって何の説明も受けていない私たちは、未だにサンボが絶版になる前の「何も知らない」状態のままなのだ。残念ながらサンポは犬死にだ。
例の径書房の「ちびくろサンボ」が入荷していた。サンボ絵本に対する関心が高いと見えて売れているらしい。当店ではまだ一冊も売れていない。うちの客層からいってしかたがないんだろうな。原作者バナマンの原画を使って本の大きさも当時のまま(10cm×15cmくらい)のもの。けれどこの大きさはサンボ絵本を喜ぶような年代の子供には小さすぎるような気が私にはするがどうなんだろうか?絵本の好きな大人が喜びそう。(99/7/5)
何ということだ 先日のコミケで買ってきた某藤子先生追悼本に書いてあった事だが、あの名作「ジャングル黒べえ」が発禁になっていたという。発禁の理由は「ちびくろサンボ」と同じ。にんともかんとも。 どうも気に食わない。以前ゴー宣にて、「ちびくろサンボ」が発禁に追い込まれた原因となった「黒人差別問題」の発起者がわけの分からん親子だったと書いてあったが、ほんと、その親子は何様のつもりでそんなことやったのだろう。 とにかく、これでジャングル黒べえのアニメの再放送は永久的に見られなくなったわけね。すごく面白かったのに。(1997/8/26)
昨日、本屋に行ったら"ちびくろサンボ"が、『おしゃれなサムとバターになったトラ』とかサンボが黒犬になって『チビクロさんぽ』なんて名前になってた。あほか?(98/03/07)
それより、当事者さんにとっては、歴史的な事実が重くのしかかっているのでしょう。米国欧州系民族が、アフリカ系民族などを奴隷として連れてきた事実。現地では、そのイメージが強いから、日本でキャラクター商品が出回った事実を差別的と受け止めたのでしょう。でも、日本では違うと思うんですよね。 (6/17)
絶版になったことを小学校の頃に聞いた時点で、何故なのかまったく不明だった。 「黒人差別につながる」だあ?なんで?サンボは悪役じゃないぞ? サンボって名前が悪いってのはきいたけどさ。 いいじゃんかなあ、「ちびくろサンボ」で「サンボ」にいいイメージがつくのなら、 それをもっと世に広めるべきだったと思うのだけど。(99/6/17)
なんでサンボは駄目でババールはノー・プロブレムなんだろうなぁ。 まぁ、いずれの話にしても今日の(大人の)目からすると、植民地的支配と それからの自立・独立、という裏読みができる話ではありましょうか。
98年1月31日:1ヶ月前の朝日の投稿に『ちびくろサンボ』の事が載っていた。 サンボと言う名前がいけないなら、インドのサンボさんに「お前らは黒人を侮蔑する名前だ。変えろ!」とか、親に「何故黒人を侮蔑する 名前を付けた?」と聞いてみるといい。あれはインドの話だ。まてよ、サンボがインド人なら何で挿絵は黒人なんだ? インド人は色黒の白人、色黒の黄色人種だぞ。何処で間違ったんだ?
魅力的な話ですが、「差別的」とされるのはなぜでしょう。「サンボ」は英米で「従順な」黒人奴隷や召使いの代名詞的イメージで使われていた蔑称なのだそうです。たとえばヴェトナム戦争を題材にしたアメリカの演劇作品『ストリーマーズ』(1976年)では、黒人の仲間を「サンボ」と罵ったことがきっかけで、白人の青年が殺されます。「サンボ」という名称は、それだけ重い差別の歴史を担っているのですが、一方で、田中啓史先生によれば、この話はもともとインドを舞台に、英国婦人によって書かれたのだそうです。とするなら、『ちびくろサンボ』は、奴隷制と帝国主義という二重の社会的不正を刻印されたテクストだということになります。
渡辺宏の宮沢賢治に関するメールマガジン: 6月17日(木)のNHKの番組で、「ちびくろサンボ」が再刊されたという話題が取り上げられていました。出版社は、径書房で、ここは以前に「ちびくろサンボ絶版を考える」という本を出した所で、確信犯ではあるようです。
私も、幼稚園時代に「ちびくろサンボ」を読んだ覚えがありますが、ノスタルジーの要素をのぞけば、今の時代に価値のある本だとは思えないのです。特に今回は原著の絵を使用しているようなので、最低の話に最悪の絵、というとりあわせになります。
まことに文学作品、わけても子ども向きのものが、百年の命脈を 保つ、というのは難しいものです。
「この絵本を読むことによって 黒人を侮辱したいという気持ちが満たされたか」「この絵本は黒人への侮辱を欲する人の気持ちを満たすか」 「この絵本は読者に黒人への侮辱を奨励しているか。 または侮辱したいという欲求を喚起するか」「この絵本を読んで得た知識は黒人に対する誤解を生むか」 「誤解の可能性は排除されるべきか」 「侮辱のための手段は排除されるべきか」「我々は互いを理解すべきか」
(1998/11/15) 日本人にあてはめて考えてみよう。例えば、『リトル・イエロー・エタ』という本があったとする。このエタというのは、ご存知の通り差別用語だ。 もし、あなたの子供が、この本があったために、例えば外国で、エタというあだ名がついたらどうだろう? もちろん、呼んでる側には全く悪意はないのだ。思わずうなってしまった。 なんとこの人の説明は分かりやすいのだろう。 確かにそんな本があったら、絶版を希望してしまう気がする。 相手の立場になって考えよう、というのは基本なんだが、こう書かれて初めて理解した。
「『ちびくろサンボ』絶版を考える」の東郷茂彦氏(ワシントン・ポスト紙極東総局記者)による 「日本人として外国で生活し、自分の子供が、外国の友達からエタと呼称されるような事態に会い、その原因が『リトル・イエロー・エタ』という童話にあるとわかったら、どうするだろうか。このような名称で呼ばれることにより、傷つき、怒る人々がいる以上、日本における歴史的経過と現状を説明し、このような呼び方をやめてもらうよう、童話の存在も含めてなんらかの抗議行動をとるだろう」という文章を読んでのものだろう。
11月6日日本経済新聞朝刊で、“ちびくろサンボ”復活の記事があった。にいはおが高校生の時に論争となり、一旦絶版。あれから10年か、というのは個人的な感慨で、この本をろくな論争なしにわずか10年で再版するとは、意外であった。賛成派は文学性が優先するとみる一方で、反対派は文学性は差別性を超えるものではない、とみる。にいはおは、後者。再版では、名前や民族に変更を加えたとのことだが、この本の持つ問題点はもっと深いところにあるのではないだろうか。すなわち、そもそも奴隷の生活を描いたものという点を見つめなければならない。確かに、子供にとって魅力的な作品であり、にいはお自身も何度も読んだ口である。トラがバターになり、それでホットケーキを作るなんて素晴らしいと思った。しかし、作品の根底に差別意識がある以上、そして、それを見る度にイヤな想いをする民族がいる以上、作品の面白さだけを評価して良いものであろうか。
日本人は被差別経験が少ない民族である、とにいはおは思う。地理的、歴史的にやむを得ないが、そのような自分達の基準で差別問題を考える態度には、賛成しかねる。被差別経験がなくて差別問題を自分の問題としてとらえることができるのか、非常に疑問である。
黒人からの批判が出はじめて四〇年あまりたってなお原作に近い『ちびくろサンボ』が出版されているアメリカやイギリスに対し、原作本(日本では出版されていない)の存在さえあまり知られないうちに論争が終息し、絵本が一掃された日本の状況は、異様としかいいようのないものである。
(「週刊金曜日」第213号 1998.4.3 学生による投書) 一斉に『ちびくろサンボ』が絶版になったとき、日本に住む、肌の黒い人々の多くはホッとしたのかもしれない。しかし、それで日本人が肌の黒い人々への偏見・差別をなくしたとは、誰も思っていない。『ちびくろサンボ』を愛してきた人間としては、この絵本への愛情を偽らずに、なおかつ、肌の黒い人々の声に耳を傾ける用意がある。差別表現への抗議をする人々にとっては不満かもしれないが、この絵本への愛情を棄てることが、差別をなくすことにつながるとは限らない。
申し入れを受け入れた教育委員会のえらい人は、解同の申し入れ 文書そのままに、各保育園、幼稚園、図書館から「ちびくろサン ボ」を奪った。人形劇すら出来ない。また指導によって園児の各 家庭にある「ちびくろサンボ」も廃棄させられた。 ある幼稚園の先生は「子どもに最後のお別れでちびくろサンボの 紙芝居をしてやって、子どもが帰ったあと燃やしました」と証言 する。この話を聞いたときは本当に悔しくて、一週間連続飲酒し た。1933年ベルリン大学前広場、ナチスによる焚書の祭典の 映像が目に浮かぶ。
長野市の“焚書事件”のことをいってるのだろう。 この事実経過は『「ちびくろサンボ」が焼かれた』(1991/06) 『焼かれた「ちびくろサンボ」』(1992/11)に詳しい。
6月11日(金): かつて『ちびくろ』が絶版にされた経緯には、灘本氏もご指摘のように「差別問題には近寄るな」という事なかれ主義があったように思う。明らかな差別本であっても、差別のやり玉に挙げられている本であっても、あるいはオウムの宣伝本であっても絶版や発禁という形で決着をはかることには反対。「よく考え、自分のオリジナルの意見を形成した上で判断する」ことを妨げてはならない。
日本の図書館での「ちびくろサンボ」の扱い('98)
・開架のまま 28.8%
・閉架 33.6%
・廃棄 1%
残りの30%以上はよく分からない。
1935年に発表された黒人知識人による推薦図書に入っていたくらいだから、 黒人の間では高い評価を得ていたことに間違いはなかった。 黒人朗読家のジャッキー・トーレンスさん(55)は語る。 「私はこの絵本に小学校1年生の時に初めて出会いました。先生が昼食のあとに本を読んでくれたのですが『お願い、あれ読んであれ読んで』とみんながせがむ一冊になっていたくらいですよ」
NHKで「ちびくろサンボ」問題特集。岩波書店版で育ったわたしは大好きな話なのだがなあ。
わたしが何故サンボ発禁に反感を感じてたかてえと、テレビというこれほどビジュアルでストレートに訴え易い媒体で日本人の右往左往はよく目にしてる割に、当の黒人が怒ってるのを見たことないからなんだ。
普段生活する上で黒人差別と全く縁のない(ように見える)極東の島国の人間が「抗議があったんだし、不愉快と思うひとがいる以上やめるべきなんですよ!」と懸命に訴えてるってのはギャラリイとして言わせてもらうとなんだか滑稽。「なんでキミがそこまで怒るの?」という感じでイメージ戦略として失敗かと。
よくまとめられているのだけれど、他の著書――『「ちびくろサンボ」絶版を考える』『焼かれた「ちびくろサンボ」』――からの転載(孫引き)がほとんど。せめて出典を明示してほしい。「哀歌」のほうはデッドリンクが多いので、更新してくれないかなあ。
これも他の著書からの転載で構成し、出典明記なし。事件の発端となったワシントンポストの記事(1988/07/22,07/29)の記事と、インターネットでの1995年の議論(改作を出版したジュリアス・レスタースリアス・レスターなどが参加)が転載してある(URLなし)。
ヘレン・バナーマンについての簡単な解説、イギリス版書籍の注文もできる。
みなさんは「ちびくろサンボ」が絶版になったこと、その経緯、理由を何(書籍、新聞、知人から等)から知りましたか? それを知って、一番わからない、曖昧だ、情報不足だと思うことはなんですか?
……この「サンボ」問題以来、差別用語と言うことに対して日本はものすごく過敏になりましたよね。……でも、こうした「差別用語」は、発した方にその意識(差別や侮蔑の意識)がなくても、受け取る方が「いや」と思えば、それはやっぱりよくないんですよね・・・。「サンボ」も、黒人の人たちがいやな思いをしていることを思うと、どうなのかなあ・・・と考えてしまいます。
でも、そういう問題はさておき、あのお話がこれだけ惜しまれて、話題になるというのは、お話の内容そのものにすごく強い力があるからだと思います。「ちびくろサンボ」と言って、知らない人はほとんどいないくらいに知られているんですものね。
「差別」というのも、わからなくはないものの、この本がそれだけで葬り去られるのを、釈然としない気持で見てました。 「めんどうなことがおこったらいやだ」というようなかんじで、正面きって語ることもなく、なくなるなんて、変でした。径書房だけでしたよね、きちんと語ったのは。 「さんぽ」は、やめて、という感じ。あれは、物語そのものをゆがめているような気がします。
特集記事の一つに「ひとりの少年を傷つけるとしたら」(田島征三)という文章があります。 サンボだけでなくインディアンや被爆二世、「シナの五人きょうだい」について、またキーツの「ピーターのいす」との比較などを交えて書かれているのですが、結びの文にこう書いています。 【差別される者の痛さは常に踏みつけられてきた人にしか本当にはわからない。「ちびくろ・さんぼ」の問題も差別されつづけてきた側に立って考えなければ大事なことを見失ってしまう。「ちびくろ・さんぼ」という絵本の為に一人の少年が傷つくとしたら、この絵本は全ての子供達にとっても必要でないと僕は思う。】 この部分だけを取り出して論じると誤解をまねくかもしれませんが、言わんとすることや理屈は理解できても、やはり「必要でない」という意見には閉口してしまいます。 「ひとりの少年を傷つけるとしたら」みなさんはどう感じますか?
えびあん - Tue May 12 00:45:00 JST 1998
いわゆる「ばかちょん」について、僕は差別用語と認識していません。 えっと、昔に調べたことがあって、語源は明治一桁(2〜4年)の戯曲であ る、というところまでまでさかのぼれます。ただし、その言葉が特定の国の人たちを侮蔑して呼ぶ為の言葉であるという証拠にめぐり合うことは出来なかったのです。
でも、日本の差別問題って結局「言葉狩り」と「マーク狩り」にしか 過ぎないんだよな。問題の根本って議論されてないもの。ZETTON - Tue May 12 03:31:35 JST 1998
その特定の国の血が混じっている私とその家族は、問題(?)のその単語を私が幼少の頃より全く普通の言葉として家庭内で使用してきましたし、今現在も使っています。…… しかし、確かにあまり聞きたくは無い単語というのは存在します。 ただ、相手に悪意が無い場合ほとんど気にもなりませんが。(^^) 私も言葉狩りという行為は無意味だと思います。そんなのただ「隠蔽」ですから。えびあん - Tue May 12 12:57:43 JST 1998
僕が差別問題に興味を持ったのは高校の時で、ちょうどその時に「ちびくろサンボ」の問題が出たときでした。あれは読めばわかるように、差別など何もない物語のはずが、題名が差別であるという理由で発禁(廃刊?)になったということでショックを受けたからです。 僕は基本的に、「肌の色が・・・」とか「どこそこの民族で・・・」とか言われても「で、それがどうしたの?」って感じでしか取りません。 別にそんなことで、人との付き合いを制限するのって面倒だし、適切な理由にはならないと思うからね。ぽーすけ - Tue May 12 20:50:00 JST 1998
これは私も大学で考えさせられた問題でした。(ちなみに私は図書館屋) サンボの他にもハックルベリー・フィンの冒険とか、そういう扱いされた本って色々あるんですよね。問題はもっと根本的なものだろうに、そんな臭いものに蓋をするようなやり方はどうも納得いかないぞ、と思いましたです。(微妙で難しい問題ですけどね)
「差別語問題」を考えるとき、言葉ではなく、言葉に含まれている差別的内容のみを問題にするべきであるというのが、ぼくの考えです。言葉だけを切り取って論じるということは不毛であって、その言葉をはさんでいる人間関係を検討し論じるべきと思います。これは「言うは易し、行うは難し」ですけれども、そう問題をたてるべきなんです。
「××は差別語であり、被差別者を傷つける」という論法の有害性は、三つあると思う。第一は、ある言葉を用いるときの妥当性や正当性あるいは正義が、自分の外部からしかやってこないということだ。…… 有害性の二つめは、被差別者がある言葉で傷つく原因の一半が被差別者自身に内在することを見落とすことである。…… 三つめは、反差別運動が安易に差別の証拠の仕入れができてしまうということである。差別反対運動にある程度成果があがると、差別事象は減ってくる。そのとき、なお差別が存在すると言いつのるのに、単語狩りは汲めども尽きぬ証拠物件の泉となる。むろん、そうした運動は退廃する。
守られるべき権利とは? この団体のアクションは、一般社会の中ではそれぞれの人が道徳的に吸収しうる小さな違いであっても、「みなさん差別して下さい」と小さなDifferentialを誇張して一般世間にアピールしているに過ぎないと思います。
仮に小さな子供に差別用語が教えられたとしても、それだけでは差別は起きません。なぜなら差別はそういった用語ではなく、差別の精神を覚えることで行われるものだからです。さらに言うと「ちび」や「くろ」が差別用語にあたるかも怪しいと思うのですが。
子供達の本から差別用語(らしきもの)を消したところで何の解決にもなりません。人間ひとりひとり違いますから白人もいれば黒人もいて、ちびもいればのっぽもいるのが当たり前じゃないですか。肝心なことはそういった違いから目を背けることではなく、しっかり差別用語も事実も見つめて考えて行くことです。「差別用語を教えるからダメ」ではなく、人間にはそれぞれ違いがあることを教えることのほうが重要です。それが本当に差別に反対する者のすべきことだと思います。 (千葉県立東葛飾高校社会研究部発行 社研タイムズ 5月号)
断言しておくが、黒人を貶めるとかバカにするとかそーゆーよーなことではない。しかしワタシの持っている黒人観は白人文化からの借物であり、それをそのまま使うことは表現者としてあまりに不用意であるということだ。人が考えて作り出した概念を検証せずにそのまま使うことは、私にとって最大のタブーである。それでなくとも気がつかずに検証なしにつかっている概念が多すぎるのに、気がついてそれでもなお使うなどはそんなものはもはや表現者ではない。
あと、この本にはいろいろなえーと知識人の人が書いていて、当時はゴー宣も始まったばかりだったからどうも思わなかったが、本多勝一氏とか田原総一郎氏とかが書いていておもろかった。本多氏はサンボよりも「みにくいアヒルの子」のほうが断然差別的じゃーよーとかなんかえーとこれはそーゆー問題なのかという気になるコメントだった。この世に差別的でない物語なんかないと思うけど。サンボは直接一部の人に屈辱の感情をもたらすから問題なんだと思うけど。
『チビクロ・さんぽ』:絶版された本の復元版みたいなだけに、この本の作家と出版社から出版にあたってのいきさつを記述していました。 それによるとどうやら元の『ちびくろさんぼ』の絶版には黒人差別だけではなく、海賊版を日本語訳していたということにも問題があったようです。 元々はイギリスだったかのお母さんが自分の子供のために書いた童話で、 その話では、インド人の子供の話だったようです。 その海賊版がアメリカで作られ、これを基に日本で出版されたようです。 いろいろ問題はあったんですね〜。(98/01/20)
うわ、なんて懐かしいのでしょう! 私、その1〜2年生の時この話を題材にして日記に詩を書いたところ、先生に上手だと誉められ、さらに教室の後ろにでっかく張り出されるという栄誉に輝いた事があるのです。
この『チビクロさんぽ』は、元の本が差別的であると断定的に書いていて、自分の改作については「差別語」を除いたからOKだなんて、読者にもそれを信じ込ませるんだから、どうしようもなくかんちがいした罪深い本だ。
本書中の言葉に*「良くない作品は、社会的・歴史的批判のなかで、数多くの人々の評価にたえられない作品として淘汰されていくのである。」*と述べ、ゆえに『ピノキオ』を*「…歴史という厳密な査定にかけられてなおかつ、生き残った人類への贈り物なのである」*と言う飯沢匡氏の指摘を正しいものとしている。しかし、障害者が権利を主張し、被差別者として自己権利擁護に立ち上がったのは、僅か数十年前からの事ではないのか? 社会的、歴史的に淘汰されるというのであれば、今まさにその淘汰が行われようとしているのではないのか?当事者が自らの権利を主張する事が出来なかった社会や歴史によって淘汰されなかったからといって、そのことで作品を安易に保護するのはフェアではないのではないか? 1998.4.27
『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ』: 当時マスコミでも、「差別的と指摘を受け廃止した」 という以上につっこんだ論調はなく、事は簡単に終わってしまったように見えた。 だが、実際には、「ちびくろさんぼ」のような名作を、 「アメリカ版が出来た後の時代に、アメリカ社会の要請により廃止し、 世の中から消し去るのは行き過ぎではないか」との疑問も出され、 この論争の震源地アメリカでも「ちびくろさんぼ」の扱いは現在 「正確には」まちまちである (昨晩17日夜NHKが放送したクローズアップ現代では、この事実を 「アメリカ社会はこの本を社会から見えないところへ移す というコンセンサスに達した」と意図的に(?)歪めて伝えていたが)。
世の中の多くの人は、スコットランド人原作者ヘレン・バナーマンが、 この物語の舞台をインドとし、サンボもネパールのシェルパ族の名前から とった少年としたと推定されていること。一方でアメリカの当時 (19世紀末)の黒人蔑視社会とは無関係に創作したこと、 さらにアメリカに今世紀はじめに、外来のイギリス童話として紹介された後に、 アメリカ版ではじめて登場人物が黒人蔑視的ステレオタイプに 改作されたという事実を知らない。さら に、前出「黒人差別を無くす会」 を支援した海外の黒人組織が、日本企業に対して「この本は欧州、 アメリカではすでに絶版である」 と虚偽の圧力を加えたことなどの諸事実を知らないだろう。 ……質の高い問題提起をするという意味で、誰にでも読んでほしい一書。
練習していた人形劇が部落解放同盟からの問い合わせで「アンパンマン」になってしまったり、家庭の本棚の本の提出をもとめるような空恐ろしい国際感覚よりも、「家の中の本のことに行政から指導されるのはおかしい。判断は親が独自でします」という教育観の方が普遍的でニュートラルな考え方だと私 は思います。
色々な意味で有名な堺市女性団体連絡協議会の話では「ちびくろサンボ絶版は当然。それ以外にも問題図書456点」…だそうです。 「その言葉で傷つく人が1人でもいれば…」という理由で言葉や絵本を抹消していくのは、自分の差別心に目を向けずに、原告と裁判官と執行官を 兼ねてただ言葉に責任を押しつける態度じゃないでしょうか。
一番読んでいて残念だったのが童話作家でもある灰谷健次郎さんの意見でした。 「オモシロイコトモナントモナイお話ですのに、だれかバカな子がいておもしろがったものだから、いつのまにかおもしろいお話になってしまいました。…『ちびくろ・さんぼ』はバナマンおばさんが、飢えたるインド人にかしずかれ、クジャクのうちわかなんかで、すずしい風をおくってもらいながら、アーラヨ、とかきあげたお話なんですものね。」
差別、弱者、いじめ…という話を聞くと、無条件で反対側に立ってしまって。何でも許されるという単純な正義感を感じます。オモシロクモナントモナイ本が保護もされずに海を越えて100年近くも生き延びたのです、おもしろがった読者までバカ扱いするなんて…。物語を削除するより作ることの面白さを知っている人だと思ったのですが…。
これがサンボという名前で無くても、黒人が差別されて扱われている…という事実がある限り、黒人が出てくる物語は全て偏見の目でしか読まれないんだと思います。
『「ちびくろサンボ」絶版を考える』: でも、当事者(黒人)でもない「黒人差別をなくす会」が出版社に抗議をし、アメリカの黒人解放団体から「差別をなくすチャンピオン」と賞賛されてしまうというのは、どう考えてもおかしいし、危険を感じる。「悪良識」(小林よしのり『ゴーマニズム宣言』)の跋扈を許すようなものだからだ。 (03/31/98 15:20)
『ちびくろサンボ』が差別的か否かは未決定問題であるというのが編集部の基本姿勢らしい。読んだ感じでは容認派寄りのような気もするが、規制派の意見もきちんと載せているので、私としては、いちおう編集部の姿勢を支持したい。 だが、『日本人の黒人観 問題は「ちびくろサンボ」だけではない』の著者であるJohn G. Russellはこの編集姿勢に我慢できず、依頼されていた原稿を引き上げたといわれている。
「さよならサンボ」: '60年代にアメリカで追放され、'70年代にはイギリスで日陰者扱いされ、 '80年代に日本で死んだ「サンボ」。 「これからは読者がまた時代にふさわしい本を創り出していくだろう。 『ちびくろサンボ』のもち時間はすでに切れてしまっている。さようならサンボくん」という著者のコメントに深く肯くところがあった。
この問題に関しては私自身の不勉強を恥じている。そして韓国人牧師、李仁夏氏の「ひとの足を踏みつけている側は、その痛みは分かりません。」という言葉と「中国を知るために」(竹内好著)の中の「侮辱が問題になるのは、主観の意図においてではなく、受けとり手の反応においてなのだ」という個所を自戒とともに深く心に刻みたいと思う。
ここで疑問なのは「差別は社会制度である」という命題が、証明も否定もされなかったこと。一部の差別はそうだと思うのだが、身体障害を表現する言葉がマスメディアから駆逐されたことの背後にあるのは「差別」ではないのだろうか?
問題の表現は、あんみつ姫が自分の外国人家庭教師について「人間じゃない! 気にくわないと相手を食べたり あたまの皮をはいだり…」と想像するシーン。背景には、どくろを首に巻いた黒人と見られる怪人や、両足がしっぽになった“インディアン風”の怪人が描かれている。
ウェブ絵本 「ちびくろさんぼ 」でバナーマンのイラストが見られる (著作権の問題が気になるけど…?)
トーマスが教育上好ましくない「悪書」だと酷評された時期があるということを知っていましたか?一部の図書館からは追放されたこともあったなんて、今の隆盛を見る知っている日本人には考えられないでしょう。 日本では「ちびくろサンボ」が有名ですが、一昔前、いろいろないわゆる名作絵本の世界観が果たして本当に教育上よいものであるかどうかの論議が取り沙汰されました。そうして槍玉に挙げられたうちのひとつがトーマスです。
今年の新作で1番の問題作。人種差別どころの騒ぎではない。家は恐竜(?)の骨でできて、しかも蓄光で光ります。これに比べると「カルピス」や「ちびくろサンボ」の問題は何だったんだろうと思いますねやり過ぎだよ。
SWのエピソード4でも黒人が出ていないってクレームが入ってエピソード5でランドが登場したし。
ちなみに今回のSWエピソード1ではサミュエル・L・ジャクソンをいい役で出したので、黒人問題は起きなかったみたいだけど、ジャージャーを初めとしたエイリアンが変なアクセントの英語を話すのが、「日本や韓国人の英語をバカにしている」ってクレームがついているらしい。
日本人は人種問題に無神経である。その理由は極めて簡単、自分らが 差別されることを全然気にしない民族だからである。 日本人というのは、ジョン・ベルーシの『サムライ・デリ カテッセン』をげらげら笑える例外的な神経の持ち主なのである。 そうは言っても平均的日本人はそれほどバカではないので、「差別 はいけないこと」というのは知っている。この「知っている」というのがくせ者で、別に頭で理解してるわけでもなければ、まして本心から思っているわけ ではない。知識として身につけているだけなので、「いけない」というのも「悪い」とか「許されない」というよりは、むしろ「まずい」に近い。 「美容室クロンボ」, 「じゃんぐる黒べえ」, 「スナック くろんぼ」
この中の「メリーゴーランド」という曲に
〈止まらないメリーゴーランド/回りつづけていくよ
明日もメリーゴーランド/歳の数だけ回る/回りを走る/そろそろバターになるよ〉 という歌詞があるけど、まさにぐるぐる回っていくような、 回りすぎて溶けてしまうような、そんな感触のアルバムです。
やはりこの展開はかなりのインパクトがあるのか、 覚えている人もいるにはいます。 昔ウルトラクイズで優勝した長戸さんという方が、 彼の家の周りをぐるぐる回るファンのことを、「バター」とよんでいたり、 ある本で、主人公をぐるぐる振り回しながら、 「そーらぐるぐる回ってバターになってしまえー!」 と叫ぶキャラクターなど、まじめな一般社会の片隅に潜んでいます。