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Robert Todd Carroll

SkepDic 日本語版
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ダイアネティックス
Dianetics

“ハバードは女性の根深い憎悪をあらわにしている。...ハバードの母親が夫に腹を蹴飛ばされたり、あるいは愛人と情事をおこなったりしないのなら、彼女らは中絶未遂--ふつう編み棒をつかっておこなわれる--に気をとられているのだ”--マーチン・ガードナー、奇妙な論理 I だまされやすさの研究、教養文庫、267ページ.

1950年、ラファイエット・ロン・ハバードは、ダイアネティックス:自分の能力を最大限にする本Dianetics: The Modern Science of Mental Health)を出版した。[ロサンゼルスのThe American Saint Hill Organization 刊。ここで参照しているページは、すべてこのハードカバー版による。] この本は、みずからを科学であり、教会と宗教でもあると呼ぶ、サイエントロジーの“聖書”である。ハバードは読者に、ダイアネティックスは“...有機的でない精神の病すべてと、有機的な心理的・身体的な病すべてに適用でき、しかも確実な治癒を保障する、癒しのテクニックです...”と教える。彼は“精神錯乱の唯一原因”を発見したと主張している(6ページ)。だがこの本の扉に書かれた前口上では、“サイエントロジーとその派生研究であるダイアネティックスは、教会がそうするのと同様に、...身体病や精神病の治療を望む人たちを受け入れようとは望みませんが、これらの人々を、こうした問題を扱っている機関の、有資格の専門家に紹介することはおこなっています”と教えられる。この前口上が、無免許の医療行為で生じる裁判沙汰に対抗するための保護措置であろうことは、明白だと思われる;というのも、この著者はダイアネティックスならあなたを苦しめるどんなことがらも治癒できる、と繰り返し力説しているからだ。また彼は、ダイアネティックスは科学である、とも繰り返し力説している。だが、科学の文章に馴染みのある人なら誰でも、この文章が科学的著作などではなく、しかも著者は科学者などではないことも、ダイアネティックスの最初のほんの数ページを読めばわかるだろう。ダイアネティックスは疑似科学の古典的実例なのだ。

ダイアネティックスの5ページでハバードは、心の科学は“狂気、精神病、神経症、欲望、抑圧、そして社会的錯乱すべての唯一原因”を見い出すものでなければならない、と定めている。彼によると、こうした科学は“人間の心の根本的本質と機能的背景について、唯一の科学的証拠”を提供するものでなければならない。そして、この科学は“すべての心理的・身体的な病の原因と治療方法”を理解するものでなければならない、と彼は言う。だが彼は、心の科学にすべての狂気の唯一原因を見い出すことを期待しても、それは不合理であろう、なぜならその中には“脳や神経系の奇形や欠落や、病理学的な損傷”に依存するものもあるし、医師が原因となるものもあるからだ、とも主張している。こうした明らかな矛盾に臆することもなく、彼は続けて、この心の科学は“その実験的正確性において、物理と化学に並んで位置づけられることでしょう”と述べている。そして彼は、ダイアネティックスは“...明確な公理、すなわち物理学における自然法則の秩序にもとづく自然法則の定理に立脚する、思考の組織化された科学です...”と教える。(6ページ)

このいわゆる心の科学は科学でもなんでもないが、そのヒントは、ダイアネティックスは“明確な公理”に立脚しているという主張や、心の科学は精神病や心身症の唯一原因を見い出さねばならない、とする彼のアプリオリな観念の中に散見される。科学は公理に立脚するものではないし、どんな現象についても存在するに違いない、その原因となる無数のメカニズムについても、アプリオリに知っているなどと主張したりはしない。本物の科学は、観察された現象を説明する暫定的な提言に立脚するものなのだ。原因に関する科学的知識は、その原因がただ1つなのか、それとも複数あるのかも含め、規定によって知るような質のものではなく、発見によって知るものだ。また、科学者はふつう論理に敬意を払うものであり、この新しい科学がすべての精神病は、その他の原因によって生じる精神病を除いて、唯一の原因によって生じる、などと真顔で述べるようとしたら、困難に直面するだろう。

ダイアネティックスが科学でないというのには、別の証拠もある。たとえば、彼の心の理論は、現代の神経生理学や、脳について、あるいは脳がどうやって機能するのかについて知られていることがらと、ほとんど何も共有してはいない。ハバードによると、心には3つの部分がある。“分析心は、問題を構成して解決し、生物を4つのダイナミックスへ導くために、経験というデータを知覚して保持しておく意識の一部分です。この心は相違や相似について考えます。反応心は、生物を刺激-反応系にのみもとづいて導くために、肉体的な痛みや痛みを伴う感情や思考を整理して保存しておく意識の一部分です。この意識は主体性についてのみ考えます。肉体心は、分析する意識や反応する意識に導かれて、物理的レベルで解答を実行する意識です。”(39ページ)

ハバードによると、精神病と心身症の唯一原因は、エングラムである。エングラムは“エングラムの貯蔵庫”つまり反応心に見い出されるべきものである。“反応心は”、彼曰く、“関節炎、滑液包炎、ぜんそく、アレルギー、副鼻腔炎、冠動脈疾患、高血圧、その他あらゆる心身症を引き起こします。この中には、これまではっきりと心身性と分類されることのなかった風邪も加わります。”(51ページ)こうした主張の証拠を捜し求めても徒労に終わるだろう。私たちは、ただこう教えられる:“科学的根拠はあります。これらはつねに、観察実験と比較しています。”(52ページ)

エングラムは“刺激が組織の原形質に残す明確かつ永遠的な痕跡”と定義されている[訳注]。エングラムは一連の刺激であり、エングラムの影響を受けるのは細胞として存在するものだけだと考えられている(60ページ補遺)。私たちは、エングラムは肉体的あるいは精神的な傷を受けている間にだけ記録されるのだ、と教えられる。この間、“分析心”は閉じてしまい、反応心が作動する。分析心はあらゆる素晴らしい特徴を備えており、それには誤りをおかし得ないというものまで含まれる。反応する貯蔵庫とは逆に、標準的な記憶の貯蔵庫もある、と私たちは教えられる。これら標準的な貯蔵庫は、可能な限りすべての知覚と、彼が言うには完璧に、見たり聞いたりしたものごとなどを、すべて正確に記録している。

[訳注]ハバードの言うエングラムは、生物学のエングラム仮説とは別物であることに注意されたい。

エングラムが存在して、肉体的あるいは精神的に痛みを伴う経験をしている間、これらが細胞に“直結している”という証拠は、いったい何なのだろうか?ハバードは、実験室で研究をおこなったとは言っていないが、次のように述べている:

ダイアネティックスでは、驚くべきことに細胞が現在ではまったく説明不可能な方法によって、明らかに知覚能力を備えているということを、実験室レベルでの観察にもとづいて発見しました。精子と卵が受胎するときに人間の魂が入り込むというのを公理としないかぎり、これらの細胞が何らかの方法によって知覚能力を備えていることの説明となるような公理は存在しません。(71ページ)

この説明は“実験室レベルでの観察に”もとづくものではなく、誤った二律背反であり、論点を事実とみなして話を先に進めてしまっている。さらに、魂が胚に入り込むという理論は、ハバード自身の理論に、少なくとも1つ有利な点を与えている:この理論は欺瞞的なものではなく、明らかに形而上学的なものだ。ハバードは自身の形而上学的主張に、科学の衣を着せたのだ。

思考単位としての細胞は、思考単位としての肉体や生命体にたいして、明らかに細胞として影響をもたらします。私たちは、機能にかんする公理を解決することによって、この構造的な問題を解き明かす必要はありません。細胞は明らかにつらい出来事のエングラムを保持しているのです。ようするに、これらは傷ついた体験なのです...。

反応心は細胞が知性を持つという事実と、たいへんうまくつじつまが合うすることでしょう。こうしたことを仮定する必要はありませんが、この構造という分野では実質的な研究がほとんどおこなわれていないので、これは便利で構造的な理論なのです。反応のエングラム貯蔵庫は、細胞そのものに収められる物質なのかもしれません。これが驚くべきことであろうと、そうでなかろうと、今のところはどうでもいいのです...。

生物が肉体的な痛みを与えられると、分析回路は焼き切れてしまいますから、生物個体として個人が持つとされる意識は量的に限られているか、あるいはまったくないのです。これは観察と検証がなされた科学的事実です。(71ページ)

観察と検証にもとづく科学的事実があると断言しているが、この分野で本当の研究などなされたことはない、というのが事実だ。以下の描写は、ハバードが彼のエングラム理論のために提供しているこの類の“証拠”の典型だ。

ある女性が風で打ち倒されたとしましょう。彼女は“無意識”に陥るのです。彼女は蹴飛ばされて、いかさま師、悪女、尻軽女などと言われれます。この間、椅子をひっくり返します。キッチンの蛇口から水を流します。車が外の道を通りすぎます。エングラムはこうした知覚すべての記録を保持しているのです:景色、音、触れたもの、味、臭い、生物的知覚、運動知覚、関節の位置、喉の乾きの記録などなど。エングラムは、彼女が“無意識”にあったときに、彼女に起きたことすべてからなるのです:口調や、声に込められた感情や、最初の風やそのあとの風の感覚、床の触覚、おそらく口の中の血の味や、その他の味、彼女を蹴飛ばした人物の臭いや部屋の臭い、通りすぎた車の音やタイヤの軋みなど。(60ページ)

この事例が精神病や心身症とどう結び付けられるのか。ハバードの説明によるとこうなる:

この女性が受け取ったエングラムは、神経学的に有効な示唆に満ちています...。彼女は、いかさま師、悪女、尻軽女などと言われます。考えられる何らかの手段の1つによって[たとえば、蛇口から水が流れていて椅子がひっくり返ったときに、車が通りすぎる音を聞くなどして]エングラムが再び刺激を受けると、彼女は自分のことをいかさま師、悪女、尻軽女だと思うことになるのです。(66ページ)

このような主張を経験的に検証する方法はありえない。このような主張ばかりからなるような“科学”は、科学ではなく疑似科学である。

ハバードは、膨大なデータが集められ、彼の理論に反するようなデータはひとつも見当たらなかったと主張している(68ページ)。私たちは彼の主張を額面どおり受け取る羽目になる。というのも、彼が示す“データ”は、すべて上に挙げたような逸話やでっち上げの事例だからだ。

ダイアネティックスは科学ではなく、またその創設者ハバードは科学がどのように機能するのかまったく解っていない。このことを示すもう1つの証拠は、次のような主張でみられる:“なぜ人間の心はこのように進化したのか、これについての理論のいくつかは公理とすることができます。ですがこれは理論ですし、それにダイアネティックスは構造には関わりを持たないのです”(69ページ)。このような、エングラムが観察できなくても彼には関係ない、エングラムを細胞の永続的な変化であるとさえだ定義しているにもかかわらず、エングラムは物理的構造としては検知できない、というのが彼の言い方である。すべての病を治癒するには、反応貯蔵庫にあるこうした“永続的”な変化を“消去”する必要があるということも、彼には問題とはならない。エングラムは実際には消去されることはなく、たんに標準貯蔵庫に転送されるだけだと主張する。これが物理的あるいは構造的に、どのように起こるのか、これは明らかに不適切だ。彼は議論も根拠もなしに、ただこのように起こると断定しているのだ。彼は、これは科学的事実であるとただ繰り返すだけである。まるで言い続けていれば本当にそうなるとでもいうように。

ハバードによるもう1つの“科学的事実”は、最も有害なエングラムは子宮で生じるというものである。子宮は最低の場所だったというわけだ。子宮は“湿っていて、不快で無防備なところです”(130ページ)。

ママがくしゃみをすると、赤ちゃんは“無意識のうちに”打たれることになります。ママがちょっと呑気にテーブルの方に走ると、赤ちゃんは頭を突くことになります。ママが便秘になると、赤ん坊はママがいきむ度に押しつぶされることになります。パパが情熱的になると、赤ちゃんはまるで洗濯機の中にいるような大騒動になります。ママがヒステリーになると、赤ちゃんはエングラムを受けます。パパがママを叩くと、赤ちゃんはエングラムを受けます。子供がママの膝にとび乗ると、赤ちゃんはエングラムを受けます。これがずっと続くのです。(130ページ)

私たちは、人は出生前に“200個以上の”エングラムを受け、“接合子として受けたエングラムは潜在的にもっとも重大です。胚として受けたエングラムはきわめて重大です。胚として受けたエングラムは、それだけで人を病院送りにするのに充分なほどなのです。”と教えられる(130〜131 ページ)。こうした主張にはどんな証拠があるのだろうか?どうやって、エングラムが記録されているかどうか胚を検証するのだろうか?“これらはすべて、検証に検証を重ねた科学的事実です”とハバードは言う(133ページ)だがあなたは、L・ロン・ハバードのこの言葉を、額面どおり受け取らねばならないのだ。科学者なら、ふつうはこうした芝居がかった主張を受け取れなどと望んだりはしない。

そのうえ、病気を治すにはオーディターとよばれるダイアネティックスのセラピストが必要なのだ。オーディターとして認められるのは、どのような人なのだろうか?“知的で平均的な粘り強さを備えており、この本[ダイアネティックス]を読み通せる人なら、ダイアネティックスのオーディターになることができます”(173ページ)。オーディターは治療のために、“ダイアネティックスの想い”を用いる。ダイアネティック療法の目標は“解放”あるいは“クリアー”をもたらすことだ。解放とは、主要なストレスや不安がダイアネティックスによって取り除かれた状態のことである;クリアーとは、心身医学的疾患が潜在的にも存在しない状態のことだ(170ページ)。“このセラピーの目的と、そのたった1つの目標は、反応心に蓄積したエングラムを取り除くことです。解放では、情緒的ストレスの大半は、この反応心の貯蔵庫から消去されます。クリアーでは、そのすべてが消去されます”(174ページ)。こうした不思議を成し遂げるのに用いられている‘幻想’は、誰もが持っている脳の特定機能を強化して用いるものだと述べられているが、“考えてみれば奇妙な話ですが、人は今までそれを発見していなかったのです”(167ページ)。ハバードは、それまで誰にも見いだせなかったものを発見したのだが、しかし彼が述べているこの‘幻想’とは、座って別の人(つまりオーディター)に悩みを打ち明けている人の‘幻想’なのだ(168ページ)。こうした推論にもとづいてもいない華々しい結論の中で彼は、“個人や社会を何らかのかたちで傷つけてしまう”精神分析心理学催眠術と違って、オーディティングは“すべての既成法則の外にあるもの”だと宣言している(168-169ページ)。だが、人に自分の悩みを伝えるのがなぜ記念碑的発見となるのかは、明らかではない。オーディターが個人や社会を傷つけることはないというが、それがなぜなのかも明らかではない。というのも、とくにハバードはオーディターに対して次のようにアドバイスしているからだ:“データを評価してはいけません。...データの有効性について質問してはいけません。懸念は自分の内にしまってきなさい”(300ページ)。これでは、追随者に説得力のあるアドバイスを与える科学者とはいえない。これでは、まるで弟子にアドバイスを与えるグルではないか。

ハバードが心の科学として売りつけているものには、科学に求められる鍵となる要素が1つ欠落している:主張の経験的検証だ。ハバードは科学的事実と数多くの実験で得たデータだけを前提としていると繰り返し主張しているけれども、彼の言う科学の鍵となる要素は、検証可能とは思えない。こうした“データ”とはいったいどんなものかさえ、明らかではない。彼のデータのほとんどは、たとえば自分は9歳のとき父親にレイプされたと信じている患者といったような、逸話や憶測といったかたちのものだ。“精神病患者のたいへん多くがこれを信じています”とハバードは言い、この患者は“受胎した9日あとに、本当に‘レイプされた’のです。性交の衝撃と混乱は子供にとってたいへん不快なものですし、ふつうは子供に、性行為とそこで語られた言葉からなるエングラムを与えるでしょう”と続けて主張する(144ページ)。このような憶測はフィクションとよぶのがふさわしい。科学とよぶのは不適切だ。



参考文献

読者のコメント

Atack, Jon. A Piece of Blue Sky : Scientology, Dianetics, and L. Ron Hubbard Exposed (New York, NY: Carol Pub. Group, 1990).

Gardner, Martin. Fads and Fallacies in the Name of Science (New York: Dover Publications, Inc., 1957), chapter 22.
マーチン・ガードナー,奇妙な論理 I だまされやすさの研究.市場泰男訳.教養文庫 1288.社会思想社.

Copyright 1998
Robert Todd Carroll
Last Updated 11/21/98
日本語化 05/18/00

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