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Robert Todd Carroll

SkepDic 日本語版
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自然主義 naturalism

自然主義は形而上学的理論のひとつで、すべての現象は自然(超自然ではないという意味での自然)の中にひそむ原因や法則から、機械論的に説明可能であるとしている。自然主義では、宇宙は巨大な機械あるいは組織であり、その全体には目的などなく、人間の欲求や願望とは無関係な存在であると仮定している。

自然主義は無神論唯物論論理実証主義経験論決定論科学主義などと混同される場合が多い。

アメリカ合州国を建国した人々は理神論的であったが、自然主義を唱道していた。理神論は超越的な創造主の存在を認めているが、創造主が自然界に介入するという概念は否定している。したがって、世界を理解するのに、神を理解する必要はないのである。

古代のストア学派や、ジョン・スコット・エリウゲナ(9世紀アイルランド)、ジョルダノ・ブルーノ(16世紀イタリア)、スピノザ(17世紀オランダ)など、汎神論的な哲学者は、自然主義的であった。汎神論では、神はすなわち世界にほかならないのである。

したがって、自然主義は神の存在を否定も肯定もしないし、神を超越的存在とも内在的存在とも規定していない。しかし、自然主義は神を不必要な仮定としており、また科学研究では本質的に余計なものだと見なしている。科学的説明では、モラルや神の目的を引合いに出す余地はないのである。その一方で、科学の守備範囲は、超自然的な力やエネルギーや影響を伴わない、経験的に得られる現象に限られるのである。

西洋哲学における自然主義と超自然主義における見解の違いは、簡単にわかりやすく説明すると、前者では機械論的説明を重視するのにたいして、後者は目的論的説明を重視するという点である。機械論的説明は、非-目的論的 dysteleological、(神の)目的や配剤を引合いに出したりしないのである。生物学などでメタファーとして使う場合は、もちろん例外である(たとえば、心臓は血液を輸送するように作られた、など)。

機械論的見解と目的論的見解を理解するために、いくつか例をあげて見てみよう。

性衝動

目的論的な見地では、性衝動は種の再生産のためにつくられたものである。セックスでよろこびを得られることは、再生産という目的を実行する誘因となる。もしセックスがたいへん苦痛をともなうものなら、種を構成する動物はセックスを避けるだろうし、そうすればその種は絶滅してしまうだろう。カトリックの目的論者には、性的動機づけの中で正しいのは、再生産のためのセックスだけである、と唱える者もいる。再生産というセックスの持つ目的を失わせることは、神の定めた目的に反することであり、背徳的だとしているのである。したがって、家族計画やホモセクシャルは、不自然であるがゆえに、道徳的に間違っていることになるのである。

機械論的見地では、性的欲求に目的は存在しない。動物は再生産をおこなうよう動機づけられているわけではない。むしろ、性的衝動が強い動物ほど再生産を活発におこない、したがってより多く繁殖するのである。性的衝動の弱い種は、生存の可能性が低くなる。こうした見地からは、セックスの目的が失われることはありえない。なぜなら、セックスには一般に目的がないからである。(もちろん、特定の相手とセックスをしたいという欲求には目的性がある。対象の性別にかかわらず特定の相手とセックスをしたいというのこそが、ここで見られる目的なのである。)ある特定の目的を満たすようにつくられているわけではないため、道徳的な善し悪しは、それが自然かどうかでは判断できない。有益性のように、それ以外の倫理的原則をあてはめるべきである。いずれにしても、自然主義はすべて自然であるがゆえに善いものである,とは仮定しないのである。

ハチの受粉

目的論的見地では、ハチが果樹園で受粉をするのは、目的のために、そうつくられたからである。機械論者からすると、ハチはたんに蜜を集めているだけで、果樹が受粉するのは結果にすぎない。ハチのような活動をおこなう動物が存在しなければ、果樹園など存在しないだろう。世界は今とは違ったものになるだろうが、それもまた世界なのである。メカニズムが異なれば、世界もまた違ったものになるのである。世界が存在するか否かではなく、この世界か別の世界か,なのである。

幼児愛好癖

目的論的な超自然主義者にとっては、幼児愛好癖や性的略奪者もある種の神の目的にしたがって存在するのである。機械論的な自然主義者にとっては、幼児猥褻犯や幼児殺人犯は、無目的な存在である。こうした連中の欲望は自然なものかもしれないが、その欲望にしたがって行動すべきではない、と考えるのである。超自然主義者も自然主義者も、幼児愛好癖や性的略奪を邪悪な行為と見なすことができるが、自然主義者はこうした悪がなぜ存在するのか、その理由を説明する必要性は、まったく感じない。自然主義者の中には、邪悪な欲望を持った悪人が悪を選択するのだという説明を、理由を挙げて否定するものもいるだろう。欲望そのものは、個人の責任範囲の外で生じたメカニズムによって、完全に説明可能であるという意見には、自然主義者はすべて賛同する。しかし、実際に実行に移した欲望が、悪事を働いた本人の自由と責任にもとづいてなされたかどうかについては、自然主義者の間でも意見は分かれる。

悪の目的とは何か?

超自然主義者は、現実すべてには道徳的かつ神秘的な固有の目的が備わっていると考えている。したがって、悪の存在についても、ある種の説明を心に抱いているに違いない。神学から派生して、こうした固有の目的性を説明しようとするものは、セオディシー theodicy と呼ばれる。セオディシーでは、悪の存在は``神が神秘なることを示したもの''、あるいは、``我は神なり:我は自身を説明するに及ばず''ということになる。これは、旧約聖書でヨブが``なぜ私なのか?''と、あえて神に問いかけたとき、神がヨブに``汝は神の手を持つと言うのか?'' と答えた、とされるのにもとづいている[訳注]。神が善なることを誰でも理解できるのは、悪が存在するためなのである、したがって、悪の存在にも理由がある。まったくそのとおり信仰しているのである。

[訳注] 旧約聖書のヨブ記。あるとき神は悪魔の挑戦を受けて、敬虔な善人ヨブに試練として大変な苦難を与えた。ヨブは「おれは神を信じる善人なのに、なんでこんな目に遭わなあかんのだ?」と神に直接訴えようと望んだ。すると神は、「この世もお前も全部おれが作ったんだ。不完全な人間のくせして神に意見しようなんて、お前一体何様だぁ?」とヨブを諫めた。

スピノザの論じた目的論

スピノザは目的論的思考を、非科学的な祖先のおこなった原始的思考であると論じた。``究極的理由''を追い求めるても、自然界を理解しようとする人間の探求には、何の役にも立たなかったのである。自然界の理解は、気象や地理や物理を神の目的に沿ったものと考えるような擬人的思考方法をやめることで、はじめて可能になるのだ、と述べている。スピノザが正しかったことは、歴史が証明している。超自然主義のような目的論的理論は、科学的には不必要なのである。

一方、スピノザが目的論に加えた批判は完全なものだった:彼は、人間の行動を自然界と切り離して理解することができるとは、考えなかったのである。人間の行動は、自然現象を説明するのと同じように、機械論的な原因にもとづいて説明されるべきである。石が落下するとき、その進む方向は決まっている。それと同様に、人間も行動を自由に変えることはできないのである。また、人間も石も、その行動や動きによって、何らかの結果を生ずるのである。しかし、スピノザが自由意志を否定したのは、自然主義の結論を否定したということではないし、それに汎神論の否定でもない。つまり、決定論汎神論も、自然主義を伴うと述べているのである。



参考文献

Science and Religion: Some Historical Perspectives, John Hedley Brooke, The Cambridge History of Science Series (Cambridge University Press, 1991).

Copyright 1998
Robert Todd Carroll
Last Updated 12/15/98
日本語化 10/20/99

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