Robert Todd Carroll SkepDic 日本語版 |
自由意志 free will自由意志とは伝統的な哲学の概念で、人間の行動は外的要因によって絶対 的に決定されているのではなく、行動主体が意志によって選択した結果であ るとする哲学的信念である。これらの選択は、それ自体は外的要因によって 決定されてはいないが、行動主体の動機や指向から特定可能である。動機や 指向そのものは、外的要因から完全に特定することはできないとされる。 伝統的に、自由意志の存在を否定する者は、運命や超自然的な力や、ある いは物質論的な要因を、人間の行動を決定する要因と見なしている。自由意 志の信奉者は自由論者とよばれることもあるが、彼らは人間の行動以 外の世界がすべて、外的要因による不可避的な帰結かもしれないが、人間の 行動そのものは独自のものであって、行動主体によってのみ決定可能であり、 神や星々や自然法則で決定されるものではないと信じている。 自由意志にかんする伝統的概念は、モラル行動における人間の責任という 形而上学的命題において、西洋哲学の主流になっている。自由意志にかんす る現代の議論では、しばしばモラルにたいする責任と犯罪行動という問題と 混同されている。自由意志の問題について基本的枠組を提供したのはキリス ト教だが、キリスト教の伝統の中では、自由意志を信じるかどうかは、非-物 理的実在を信じるかどうかという形而上学的信念によって決まってくる。意 志は魂や意識の一部と見ることができるが、それら魂や意識は物理的世界や 自然界の法則の外部に位置づけられる。したがって、唯物論を信奉すること は、多くの場合、自由意志を否定することを意味するのである。 現代の見解では、決定論と自由意志は、 互いに排反する概念とは見なされていない。この見解はホッブズらの議論を 通じて形を整えはじめた。神はあらゆる事象において究極的な原因であると ホッブズは説いている。しかし、個々の人間を見る限りは、神から物理的に 行動を強制されているわけではないので、行動は自由であるといえる。ホッ ブズは、自由意志と絶対的に決定された意志を対置した議論を、自由なのか 必然なのかという議論へ置き換えたのである。たとえば、崖の上に立った人 が風で飛ばされたとしたら、それは一連の原因に続く必然的結果として起き たといえるのである。崖から人が飛び降りた場合にも、彼にそうさせた原因 はたしかに存在するだろう。しかし、その人が誰かに崖まで追い詰められて いたり、あるいは必然的に崖から飛び降りさせるような、他の物理的な原因 がなかったならば、崖から飛び降りたのは彼の自由意志にもとづく行動であ る。 ホッブズの見解は、唯物論と決定論、そして自由意志の和解にとっては前 進だったが、不十分なものであった。唯物論と決定論では人間は形而上学的 自由を持たないとしている一方で、内的な決定要因が何かという問題につい ては、何ら回答を与えなかったからである。もしある人が崖っ淵に立って、 その神経化学的状態がどうであれ、押されたり追い詰められたりしていない し、空を飛べるという妄想にとり憑かれてもいないのに飛び降りたとしよう。 現代の唯物論者ならば、その行動を自由意志の現れだとはしないだろう。 現代の見解としては、自由意志と唯物論のどちらを信奉するかという二項 対立の図式ではなく、神経学的見地に置き換えることができるだろう。自由 意志と決定論の論戦から枝分かれして出てきた問題の鍵は、人間の行動にお ける責任という問題である。しかし、責任は少なくとも2つの要素から成り 立っている:すなわち、調節と理解である。聖アウグスチヌスや聖トマス・ アクイナスといった初期のキリスト教哲学者でさえ、乳児や幼児や精神遅滞 障害者には調節と理解の能力が欠けていると考えており、自由意志にもとづ く行動に必要な形而上学的存在が欠けているとは考えていなかったのだ。乳 児や幼児や精神障害者に自由意志が存在とするというのは、明らかにばかげ た考えである。伝統的な自由論者は、子供は``動機年齢(the age of reason)'' に達してはじめて自由意志が導入されるのだというだろう。大人としての合 理的指向を獲得することのなかった者には、自由意志は導入されないのであ る。 私たちが抱く概念は、すべて毀誉と褒貶をともに免れることはできない。 人間の責任についてどういう信念を持つかによって、褒めるかけなすかが決 まってくるのである。脳の発達が未熟だったり、脳に障害を持っている人、 あるいは神経化学的な疾患を抱えている人は、調節や理解が妨げられて いる状況では、その思考や行動に責任を持つことはない。人が自身の行 動を調節できるというだけでは、人が責任を備えるべき十分条件とは いえない。精神疾患や障害を抱えた人、あるいは子供の場合は、自身の行動 そのものを理解できない場合があるのだ。自身の行動を理解できないという ことは、思考に対する責任は免れ得ないとしても、行動に対する責任が免除 されることになる。たとえば、ある人が自分から崖から飛び降りることはあ るかもしれないが、もし彼が自殺しようとしたわけではなく、たんに空を飛 ぼうとしたのなら、それを自殺という自由意志にもとづいた行動だと見なす のは誤りである。 脳で起こる発達や障害や疾患には程度の差があるため、思考と行動を理解 して調節するのにも程度の差が生じる。極端な場合には、思考や行動を調節 したり理解したりすることは、ほとんどまったくできないかもしれない。あ るいは、誰が見ても明らかな超人的能力を備えていて、思考や行動を優れた やり方でコントロールすることができるかもしれない。形而上学的な`自由' という意味では、自己をこのように訓練できている人こそが真の自由人の規 範と呼べるかもしれない。因果律に支配されながら真に自由であると主張す ることなどできない、と考える必要はないし、ばかげている。自由に行動す るためには、結果にたいしてそれに先立つ原因が与えられる必要はないので ある。もし結果すべてに原因が必要だとするなら、何らかの結果を生じ させる原因とはならないような、まったく自由な行動が必要となるし、 それはばかげた考えである。この概念のもとでは、自分がどう思考してどう 行動すべきか、それを判断するための手がかりとなるものを何も持たない人 間だけが自由人となってしまう。もしこうした人がいるとしたら、その人は きっと想像もできないほど不自由に苦しむことだろう。したがって、 こうした見地からは不自由こそが自由であるということになるのだ。 今日では、人間の責任にかんする議論は、意志という存在が形而上学的に 実在するかどうかを議論するのではなく、人が思考と行動を調節する能力に かんする議論へと収束している。`自由意志'という語は人の思考や行動を調 節する能力の一問題を示しているにすぎない。だからこの語は捨て去るべき なのだが、決定論はそうした`自由意志'と互換性があるのだ。人の思考や行 動を調節する能力は、唯物論や二元論の真実とは関係ないのだ。私たちヒトとい う生物種がいかに自由を謳歌しようとも、そこでは特定の神経物理学的、神 経化学的状況が存在するに違いない。自由意志か決定論か、という古典的な 哲学的命題を議論するだけでは、こうした問題をより深く理解することはで きないだろう。神経科学者が知識を提供し、神経哲学者が理解を生み出せば よいのだ。 関連する項目:決定論 determinism、二元論 dualism、記憶 memory 、意識 mind、自然主義 naturalism、魂 souls。 参考文献
Churchland, Patricia Smith. Neurophilosophy - Toward a Unified Science of the Mind-Brain (Cambridge, Mass.: MIT Press, 1986). Dennett, Daniel Clement. Brainstorms: Philosophical Essays on Mind and Psychology (Montgomery, Vt.: Bradford Books, 1978). Dennett, Daniel Clement. Consciousness explained illustrated by Paul Weiner (Boston : Little, Brown and Co., 1991). Dennett, Daniel Clement. Kinds of minds : toward an understanding of consciousness (New York, N.Y. : Basic Books, 1996). Dennett, Daniel Clement. Elbow room : the varieties of free will worth wanting (Cambridge, Mass. : MIT Press, 1984). Hofstadter, Douglas R. and Daniel C. DennettThe mind's I : fantasies and reflections on self and soul (New York : Basic Books, 1981). Ryle, Gilbert. The Concept of Mind (New York: Barnes and Noble: 1949). Sacks, Oliver W. Awakenings; A leg to stand on; The man who mistook his wife for a hat, and other clinical tales (New York: Quality Paperback Book Club, 1990). |
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