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ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936) 第 II 巻:定義と考え方

第 II 巻:定義と考え方


第 4 章 単位選び

(山形浩生
原文:https://bit.ly/otXDbh)

セクションI

 本章とその後三つの章では、いくつかの混乱を整理する試みに専念するものとします。こうした混乱は、私たちが特に検討を目指している問題とは、個別ないし特別な関係を特に持っていません。ですからこれらの章は、脱線に類するもので、このためしばらくは主な主題の追究がお留守になります。そんな話題を議論するのは、なぜか他のところでは、私自身の探究に適切と思われる形でこれまで扱われていないからです。

 本書を書く最大の障害となり、解決しないと便利な形で主張を表現できなかった三つの混乱とは、第一に経済システム全体の問題にとって適切な量の単位選び、第二に、経済分析において期待が果たす役割、第三に所得の定義です。

セクションII

 経済学者が通常使うような単位では不足だと言うことは、国民配当、実物資本ストック、一般物価水準という概念を見れば示せます。

(i)
国民配当(訳注:現在ではまったく使われない概念で、歴史的な興味以外の対象ではない)というのは、マーシャルとピグー教授が定義した形では1、当期の産出や実物所得の物理量を測るもので、産出の価値または名目所得金額を測るものではありません2。さらに、これはある意味で純産出にも左右されます——つまり、当期の経済活動や犠牲によって得られたものから、期首に存在していた実物資本のストックからの摩耗損失分を差し引いて、資本ストックとして社会の消費や保有に供されたものの純増分も影響してくるのです。これをもとにして、定量的な科学を構築しようという試みがなされています。でもそんな目的にこの定義を使うのは大いに問題があります。というのもこれだと、社会の財やサービスは不均質なモノのごたまぜでしかなく、厳密には計測もできないものだからです。計測できるのは、たとえばある産出の全アイテムが、別の産出でもまったく同じ構成比で含まれているといった、一部の特殊な場合だけです。
(ii)
純産出を計算しようとして、資本設備の純増分を測ろうとすると、困難はさらに増大します。というのも、その期に生産された新しい設備と、摩損によって消えた古い設備とを定量的に比較する基準が必要だからです。国民配当を導出するため、ピグー教授3は陳腐化した設備のうち「公平に考えて『通常』と呼ばれるようなもの」を差し引きます。「そして通常かどうかを実用的に検討するには、その劣化が十分に定常的に発生して、細部はさておき、少なくとも大まかには予見できるかどうか、というのが基準となる」とのこと。でもこの差し引き分は、お金による差し引きではないので、彼は物理的な変化がなくても、物理量に変化があり得るという想定にはまりこんでしまっています。つまりピグー教授はいつの間にか価値の変化を導入しているのです。さらにピグー教授は、新旧の設備が技術変化により同一ではないときに、その新旧設備を比較するための満足のいく公式をまったく考案できていません4。ピグー教授が狙っている概念は、経済分析の概念として正しく適切なものだと思います。でも満足のいく単位系を採用しないと、その厳密な定義は不可能です。ある実物生産を他のものと比べて、それから新しい設備を古い設備の摩損と相殺させて純産出を計算するというのは、絶対に解決できない難題を引き起こすことは自信を持って言えます。

(訳注:いまのぼくたちは、産出とか資本とかいうと、当然その金額換算の話だと思うけれど、当時は必ずしもそうではなかった。資本設備は高炉2基とトラクター10台で産出は鉄鋼100トンと米300俵、来年は減価償却がすすんで実際の数は変わらなくても、資本設備は高炉1.8基とトラクター8.7台、産出は鉄鋼生産は110トンに米430俵といった議論が行われていた。なぜこんな異様な話をまじめに考えていたかというと、市場価格は需給変動するしインフレもあるし、物価は不安定すぎてお金に換算するとわけわからん、とされていたから。だからこれはすべて、名目値を実質化しようという涙ぐましい努力なのだ。ケインズはそれがあまりに苦しすぎるからやめようぜ、といっている。トラクターの米俵ベースの収益性とか、意味わかんないよ、と。だから全部金銭で見ようじゃないか、と言っている。でもケインズも経済学者たちの悩みは知っている。だからこの直後に、それを賃金で割って実質化しようぜ、と提案しているわけだ。)
(iii)
第3に、一般物価水準という概念に明らかに伴う、有名で避けがたいあいまいな部分があるので、この概念は厳密であるべき因果関係の分析においてはとても不満なものとなっています(訳注:具体的にどんな曖昧さを念頭においていたかは不明。現在では統計的な整備も進み、大きな問題はない。これも歴史的興味にとどまる。)

 それなのに、こうした問題は正しくも「判じ物」扱いされています。それらは絶対に実際の事業判断を混乱させたり、あるいはそこでいかなる形でも考慮されることすらなく、経済的な出来事の因果連鎖とはまったく関係ないという意味で、純粋に理論的です。経済的な出来事の因果は、こうした概念が定量的に決まらなかろうと、明快であり確然としたものなのです。したがって、こうした概念は厳密性を欠くばかりか、不要だと結論するのが自然です。当然ながら、私たちの定量分析は、定量的に漠然とした表現を使わずに表現しなくてはなりません。そして、実際にやってみればすぐわかりますが、そうした概念がないほうがずっとうまくいくことがはっきりしてきます。それをこれからお示しできればと思います。

 でたらめなモノの比較しがたい寄せ集めは、それ自体としては定量分析の材料にはなれません。とはいえ当然ながら、厳密な計算でなくても大ざっぱな判断要因を使えば、近似的な統計的比較ができないというものではありません。そしてそれだって、一定の限界はあれ、それなりの重要性と意義を持つかもしれません。でもそうした純実物産出だの一般物価水準だのといったものは、歴史的記述や統計的記述の分野にいるのがふさわしいのです。そしてその目的は、歴史的・社会的な興味を満足させることです。そうした目的だと完全な精度は通例でもないし、また必要でもありません。でも私たちの因果分析では、そうした精度が必須なのです。それは関連する量の実績に関する知識が十分で正確なものかどうかにかかわらず不可欠です。今日の純産出は十年前や一年前よりも大きいが、物価水準は低い、と言うのは、ビクトリア女王がエリザベス女王よりもよい女王だったが女性としては幸せではなかった、という主張と似たような性質のものです。無意味ではないし、興味深くないともいいませんが、でも微分解析の材料には不適切なのです。定量分析の基盤として、こうした曖昧な部分を持つ定量化不能な概念を使おうとすれば、厳密さもまやかしになってしまいます。

セクションIII

 個別の事例ではすべて、ある事業者は決まった資本設備をどれだけ使うかという規模を決定しようとする、というのはお忘れなく。そして需要増加の期待、つまり総需要関数増加の期待が、総産出の増大につながると言うときには、実際にはその資本設備を保有する企業が、その設備に対する総労働雇用を増やすよう促される、という意味なのです。個別企業や、均質な製品を作る産業の場合なら、その生産高が増えるとか減るとかお望み次第では問題なく言えます。でもあらゆる企業の活動を総計しているときには、ある設備に対する雇用量で考えない限り、正確な議論はできません。総産出とかその価格水準といった議論は、この文脈では不要です。というのも当期の総産出の水準と、別の資本設備や別の雇用から生じる他の総産出の水準とを比べるためには、絶対的な尺度が必要になってきますが、そんな尺度は不要だからです。記述や大ざっぱな比較のために、産出の増大の話をしたければ、一定の資本設備と関連づけられた雇用量こそが、結果として生じる産出の十分な指標となるのだ、という一般的な想定に頼らざるを得ません――雇用量と産出は、一緒に上下するのです。ただしその比率は絶対に同じ数字になるわけではありませんが。

 ですから雇用の理論を扱うに際し、量の基本的な単位としては二つしか使わないことを提案します。つまり、お金で測った価値の量と、雇用の量です。このうち前者は文句なしに均質だし、後者は均質になるよう補正できます。というのも、各種等級の労働や給料つき補佐業務は、おおむね相対的に固定された報酬を享受しているので、雇用量というのは本書での用途でいえば、通常労働の雇用1時間分と定義して、特別な労働の雇用1時間分は、その報酬に比例して加重すれば十分なのです。つまり通常賃金の倍の報酬がもらえる、特別な労働1時間分は、労働の2ユニットと数えましょう。雇用量を測る単位を労働ユニットと呼びます。そして労働ユニットの名目賃金を、賃金単位と呼びましょう5。つまり $E$ が賃金(や給料)の総額で、 $W$ が賃金単位、 $N$ が雇用量なら、 $E = NW$ になります。

 この労働供給の均質性という想定は、個別労働者の技能の専門度合いに大きな差があって、各種職業への適合性もまったくちがっているという明らかな事実によっても、ひっくり返ることはありません。というのも、労働者が得る報酬がその効率性に比例するなら、個人がその報酬に比例する形で労働供給に貢献しているのだという私たちの想定によって、そのちがいはすでに処理されているからです。産出が増えるにつれて、ある企業が特殊労働のために、賃金単位あたりの効率がますます劣る労働を雇わなくてはならなくなる場でも、これは単に、資本設備に対して雇われる労働が増えるにつれて、その設備の収穫逓減が起きる要因の一つでしかありません。私たちは、同じ報酬の労働ユニットにおける不均質性を、いわば設備に吸収させてしまうのです。生産高が増えるにしたがって、その設備が投入される労働ユニットをあまりうまく使えなくなってくるのだ、と考えることにしましょう。資本設備を均質と考え、投入される労働ユニットの適合性がますます下がる、という風には考えないことにするのです。ですから、専門労働や熟練労働の余りがなくて、あまり適さない労働を使うと産出1ユニットあたりの労賃が高くなってしまうなら、これはつまり、雇用が増えるにつれて設備が収穫逓減する減り具合が、そうした労働に余りがある場合に比べて大きい、ということなのです6。ちがう労働ユニットがきわめて専門化していて、相互に入れ替えることがまったく不可能な限られた場合ですら、収まりの悪さはありません。というのもこれは単に、ある特定種類の資本設備の利用に特化した労働がすでに全員雇用されている場合には、その設備からの産出の供給弾性が、いきなりゼロになる、というだけのことだからです7。したがって、均質な労働ユニットという想定は、労働ユニットごとの相対的な報酬がきわめて不安定でない限り、何ら問題とはなりません。そしてこの困難ですら、実際に発生した場合には、労働供給と総供給関数の形が急激に変化しかねないことを想定することで対処できるものなのです。

 経済システム全体のふるまいを扱うときには、お金と労働という二つの単位だけしか使わないようにすれば、かなりの無用な混乱は避けられると私は思います。そして個別生産物や設備を単位として使うのは、個々の企業や産業の産出を個別に分析するときに限りましょう。全体としての産出量とか、全体としての資本設備の量とか、一般価格水準といった漠然とした概念の使用は、どのみちある程度の幅(かなり広い幅かもしれません)の中で明らかに大ざっぱな近似でしかないのが確実な、歴史的比較を試みている場合に限りましょう。

 ということは、当期の産出変化を測るときには、いまある資本設備の元で雇用される人数を見ることにしましょう(その新規雇用者が消費者を満足させるためのものだろうと、資本設備を生産するためだろうと)。この場合、熟練労働者はその給料に比例して加重することにしましょう。こちらの産出と、別の資本設備で別の労働者群を使っているあちらの産出とを定量的に比較する必要はありません。ある設備を持つ事業者が、総需要関数のシフトにどう対応するかを予測するには、結果として生じる産出量、生活水準、一般物価水準が、別の時点や別の国と比べてどうか、などということを知る必要はないのです。

セクションIV

 通常は供給曲線であらわされるような供給条件と産出と物価の関係を記述する供給の弾性は、総供給関数を使えば、ここで選んだ二つの単位で扱えることはすぐに示せます。個別企業や産業を扱っている場合だろうと、経済全体の活動を扱っている場合だろうと、産出の量を参照する必要はありません。ある企業(あるいはある産業や、全産業でも同じ)の総供給関数は以下のように書けます  $$Z_r = \phi_r(N_r),$$

 ただし $Z_r$$N_r$ という水準の雇用を引き起こすだけの期待収益です。ですからもし $N_r$ の雇用が $O_r$ の産出をもたらすような雇用と産出の関係 $O_r = \psi_r(N_r)$ があれば、通常の供給曲線は以下のようになります。  $$p = \frac{Z_r+U_r(N_r)}{O_r} = \frac{\phi_r(N_r)+U_r(N_r)}{\psi_r(N_r)}$$

 ただしここで、$$U_r(N_r)$$は、雇用水準 $N_r$ に対応する(期待)利用者費用です。

 ですからそれぞれ均質な財で、 $O_r = \psi_r(N_r)$ にきちんとした意味がある場合、 $Z_r = \phi_r(N_r)$ は普通のやり方で分析できます。でもその後 $N_r$ は合算できますが、 $O_r$ は合算できません。というのも $\sum O_r$ は数値量ではないからです。さらに、もしある環境で、総雇用が各産業に一意的な形で配分されると想定できるのであれば、 $N_r$$N$ の関数となり、もっと単純化できます。


  1. ピグー『厚生の経済学』随所、特に第一部iii章を参照。

  2. ただし便宜的な妥協として、国民配当を構成するとされる実質所得は、通常はお金で買える財やサービスに限られるのが通例。

  3. 『厚生の経済学』第一部第v章、「資本を十全に維持するとはどういう意味か」に関する部分。『エコノミック・ジャーナル』1935年6月、p.225にて補論。

  4. ハイエク教授の批判を参照、『エコノミカ』1935年8月, p. 247.

  5. $X$ がお金で測った量ならば、同じ量を賃金単位で測ったものを $X_w$ と書くと便利なことが多いのです。

  6. このために、いま使われているのと同じ設備が余っていても、産出の供給価格は需要が高まるにつれて上昇するのです。もし労働供給の余剰が、あらゆる事業者の使える労働プールとなって、ある目的で使用される労働に報酬が、少なくとも一部は、その労働者の努力(労働時間)に比例して与えられて、その実際の個別雇用における効率は厳密に評価されないのであれば(これはほとんどの場合には現実的な想定です)、雇用される労働の効率性逓減は、内部的な負の経済によらない、産出増大に伴う供給価格増大の例として見事なものです。

  7. 通常使われる供給曲線が、この困難にどう対処すべきかについては私には言えません。というのも、この曲線を使う人々は、前提をあまり明確にしないからです。たぶんある目的用に雇用された労働は、常にその目的に照らした効率性に厳しく連動した報酬を得ることになっているのでしょう。でもこれは非現実的です。各種の労働効率のちがいを、設備に所属するものとして扱う本質的な理由は、産出が増えるにつれて出現する剰余の増大が、実際にはその設備所有者の手元に残り、効率の高い労働者には残らない、という事実にあります (ただしそうした労働者はもっと安定して雇用され、早く出世するというメリットを得るかもしれませんが)。つまり、同じ仕事をしている人は、作業の効率がちがっても、その効率にかなり比例するような賃金をもらうことはほとんどない、ということです。でも効率が上がれば賃金が増える場合にも、私の手法はそれを反映できます。というのも雇用される労働ユニットを計算するときに、個々の労働者はその報酬に比例した重み付けをされます。私の想定だと、確かに個別の供給曲線を考えるときには、おもしろい面倒が生じます。というのもそれらの形は、他の方面に適した労働の需要に左右されるからです。こうした面倒を無視するのは、すでに述べたように、非現実的です。でも経済全体の雇用をかなえるときには、これを考慮する必要はありません。ある有効需要の量に対し、個別製品に対する需要の特定の分布が一意的に対応していると想定すればいいだけです。でもこれは、需要変化の個別理由によらず成立するとは限りません。たとえば消費性向の上昇による有効需要の増加は、投資誘因が増えたことによる同じだけの有効需要増大とは、総需要関数がちがってくるかもしれません。でもこれらはどれも、本書で説明した一般的なアイデアの詳細分析に属する話であって、ここで今すぐ検討すべきことではありません。

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2011.12.26 YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)


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