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ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936) 第 III 巻:消費性向

第 III 巻:消費性向


第 8 章 消費性向: I. 客観的な要因

(山形浩生
原文:https://bit.ly/mPVL6r

セクション I

 第一巻の終わったところで、手法と定義の全般的な問題を扱うためにちょっと脱線しましたが、これでもとの話に戻る用意ができました。本書の分析の最終目的は、雇用量を決めるのが何かをつきとめることです。今のところ、雇用量というのは総供給関数と総需要関数との交点で決まるんだ、というとりあえずの結論は確立できました。でも、総供給関数のほうは、供給の物理的な条件で主に決まります。だからおなじみでない考慮事項はほぼありません。式の形は見慣れないかもしれませんが、その根底にある要因は目新しいものではないのです。総供給関数は第二十章でまた検討します。そこでは、その逆関数を雇用関数という名前で議論します。でも全体としては、これまで見すごされてきたのは総需要関数の果たす役割です。ですから、第三巻と四巻では、総需要関数に専念します。

 総需要関数は、ある雇用の水準を、その雇用が実現するはずの「収益」と関連づけるものです。「収益」は、二つの量の合計で構成されます——一つは雇用がその水準にあるときに、消費にまわされる金額と、投資にまわされる金額です。この二つの量を左右する要因は、ほとんど別々のものです。この巻では、前者を検討しましょう。つまり、雇用がある水準のとき、消費にまわる金額を決めるのはどんな要因か、ということです。そして第四巻では、投資にまわる金額を決める要因に進みましょう。

 雇用が決まっているときに、いくら消費にまわるか決めたいわけですから、厳密にいえば消費量 ( $C$ )を雇用 ( $N$ ) に関連づける関数を考えるべきです。でも、ちょっとちがう関数を考えたほうが便利です。それは、賃金単位 ( $W$ ) で測った消費 ( $C_w$ ) と、賃金単位で測った所得( $Y_w$ ) との関係を示す関数です。( $Y_w$ ) は $N$ だけで決まるわけじゃないぞ、という反論はあり得ます。 $N$ はすべての状況で同じはずですから。なぜかというと、 $Y_w$$N$ の関係は雇用の細かい性質に(たぶんごくわずかでしょうが)依存するからです。つまり、ある総雇用 $N$ の中に二種類の雇用があったとき(これは個々の雇用関数の形がちがうことから起きます——これについては20章で扱います)、その分布が変われば、 $Y_w$ の値が変わるからです。これを考慮した特別な措置が必要な場合も、実際に考えられます。でも一般に、 $Y_w$$N$ で一意的に決まるというのはよい近似です。したがって、消費性向というものを、 $Y_w$ (賃金単位で見た所得) と $C_w$ (その所得水準での消費支出分) との関数関係 $\chi$ として定義することにしましょう。つまり

  $$C_w = \chi(Y_w) または C = W\chi(Y_w)$$

(訳注:ここらで理解不能になる人が多いのでちょっと説明。まず、賃金単位って何? これは4章でささっと出てきた、一人あたりの平均賃金(ホントは時給だが日当でも月給でも年収でも可)。で、それで消費を割ったり所得を割ったり、というのは具体的にどんな話? はい、それはですね、いまの日本の総所得 (GDP) が470兆円で、年平均賃金が470万円なら、日本のGDPは1億賃金単位、というふうに表現しよう、ということ。年間賃金単位の単位として「年賃」というものをでっちあげると、いまの日本では、1年賃=470万円で、日本のGDPは1億年賃です、という具合。タイのGDPは10兆バーツ。一人当たり年収(=賃金)は20万バーツ。だからタイでは1年賃=20万バーツ、タイのGDPは5千万年賃です、ということになる。

この背景は4章とその注を参照。そこにも書いた通り、実用的にはこれは要するに、名目金額を実質化していると考えればほぼOK。むろん、賃金と一般物価との上昇率がちがう可能性等々、細かい話はできる。でも、ケインズはここで、これが近似だと書いている。だったら、それ以下の細かい話は、とりあえず気にする必要はない。)

 社会が消費に使う額は、明らかに以下の三点に左右されます。 (i) 一部は、その所得の量に左右されます。 (ii) 一部は、それを取り巻く客観的な状況によります。 (iii) 一部は、それを構成する個人の主観的なニーズと心理学的傾向や習慣、そして所得がそれぞれに仕分けされるときの原則(これは産出が増えると変わりかねません)に左右されます。お金を使ういろいろな動機は相互に作用しあうので、それを分類しようとするのは、実際には存在しない区別になってしまう危険はあります。それでも、それを大まかに二つの見出しで分けて、主観的な要因と客観的な要因と呼びましょう。主観的な要因は、次の章でもっと詳しく検討しますが、人間生来の心理的特性や、社会的慣習や制度を含みます。後者は変えられないわけではないけれど、異常事態や革命でもない限り短期では大きく変わりにくいものです。歴史的な研究や、ちがった社会システム導師を比較する場合には、こうした主観的要素が消費性向にどう影響するかを考慮する必要があります。でも一般に、主観的要因は所与のものとしましょう。そして消費性向は、客観的要因の変化だけに左右されるとしましょう。

セクション II

 消費性向を左右する主な客観的要因は、以下のもののようです。

(1) 賃金単位の変化
— 消費 ($C$) は当然ながら、名目所得よりは(ある意味で)実質所得の関数である面がずっと強いのです。ある一定の技術、嗜好、所得分配を決める社会条件の下で、人の実質所得は労働単位(つまり所得を賃金単位で割ったもの)をその人が変えることで変動します。ただし産出の総量が変わると、実質所得は(収穫逓減が効くので)賃金単位で測った所得に比べ、比率的には上がり方が小さいはずです。ですからとりあえずの近似として、賃金単位が変われば、ある水準の雇用に対応する消費支出も物価のように同じ比率で変わる、と想定しても問題はないでしょう。ただし、賃金単位が変わると事業家と金利生活者との実質所得分配が変わってくるので、それが総消費に与えかねない反応も考慮すべき場合もあるかもしれません。消費性向は賃金単位で測った所得で定義しているので、これ以外の点では、賃金単位変化はすでに反映されています。
(2) 所得と純所得の差の変化
— 消費額は、総所得より純所得に依存すると述べました。人が消費の規模を決めるときに主に念頭におくのは、自分の純所得だからです。他の条件が同じなら、この両者の間にはかなり安定した関係がありそうです。つまり、それぞれの所得水準を一意的に、対応する純所得と関連づける関数があるという意味です。でももしそんな関数がなければ、所得変化のうち純所得に反映されないものはすべて、無視されなくてはなりません。それは消費にまったく影響しないからです。そして同様に、純所得の変化の中で所得には反映されないものも算入すべきです。でもかなり例外的な状況でもない限り、こんな要因が現実的に重要になるとは思えません。所得と純所得との差が消費にどんな影響を与えるかについては、この章のセクションIVでもっと詳しく採り上げます。
(3) 純所得の計算に算入が認められない資本価値の予想外の変化
— これらは消費性向の変化にとってずっと重要です。というのもそれは、所得の量と安定した規則性のある関係は一切持たないからです。富を保有する階級の消費は、その財産の金銭価値が予想外の変化を遂げたら、きわめて大きく変動しかねません。これは消費性向の短期変化をもたらしかねない、大きな要因の一つと考えるべきです。
(4) 時間割引率の変化
— つまり、現在の財と将来の財との交換比率の変化です。これは金利とはちょっとちがうものです。予測できる範囲でのことではありますが、割引率には将来のお金の購買力変化も含まれるからです。また将来の財を享受するほど長生きできないとか、収奪的な課税にあうとかいった各種のリスクも考慮されています。でも近似としては、これは金利とほぼ同じと見なしてよいでしょう。
 この要因が、ある所得の支出比率に与える影響には、いろいろ疑問の余地があります。古典的な利子理論1は、利子が貯蓄の需給を均衡させる要因だ、という発想に基づいていました。だから他の条件が同じなら、消費支出は金利変化とは負の相関があり、金利があがれば消費は目に見えて減ることになります。でも昔から認識されていたことですが、金利変化が支出意欲に与える総合的な影響は複雑ではっきりせず、それを左右する各種の性向には相反するものもあります。貯蓄の主観動機のうち、一部は金利上昇で満たされ安くなり、一部は逆に弱まるのです。長期的に見ると、金利が大きく変われば社会慣習もかなり変わって、主観的な消費性向にも影響します——でもそれがどちらの方向を向くかは、実際の体験を見ない限りはっきりしません。でも、よくある短期的な金利変動は、プラスマイナスいずれの方向だろうと、支出に大した直接的な影響はないでしょう。総所得が変わらなければ、金利が 5 パーセントから 4 パーセントに下がったからといって、暮らしぶりを変えようという人はあまりいません。間接的な影響はいろいろありますが、その方向は様々です。一定所得からの支出意欲に対する影響として最も重要なのは、証券などの資産価格の上下変動に対して金利が持つ影響かもしれません。手持ちの資本の価値が予想外に増えたら、所得への影響から見ればその資本は以前とまったく価値が変わらなくても、その人は当期支出を増やしたくなるのが自然です。そして資本価格が下がったら、支出する気も薄れるでしょう。でもこの間接的な影響はすでに上の項目 (3) で扱いました。これ以外にある所得からの個人の支出に対して金利が与える短期的な影響は、経験的に見ると二次的なものでしかなく比較的どうでもいいものだという結論が示唆されます。ただしその金利変化が異様に大きい場合には話は別かもしれませんが。金利がものすごく下がったら、 ある金額で買える年次払い債券と、その金額に対して得られる利息との比率が上昇するので、老後の備えとして年次払い債券を買うのが流行り、それがマイナス貯蓄の重要な源となるかもしれません。
 将来とその影響についての極端な不確実性が生じ、それで消費性向が急激な影響を受けるという異常事態も、このくくりの中にまとめるべきかもしれません。
(5) 財政政策の変化
— 個人に貯蓄をうながすには、その人が期待する将来の見返りが効いてきます。それは明らかに金利だけでなく、政府の財政政策にも左右されます。所得税 (特に「不労所得」に不利な扱いをする場合)やキャピタルゲイン課税、相続税などは、金利に負けない影響があるでしょう。さらに財政政策の変化幅の可能性は、少なくとも期待の上では、金利の変化幅よりも大きいかもしれません。もし財政政策が所得のもっと公平な分配の手段として意図的に使われたら、その消費性向上昇への影響も、当然ながらさらに上がります2
 また、政府が一般徴税分から債務返済を行うために設けた、減債基金が消費性向に与える影響も考慮すべきです。というのも、これは一種の企業貯蓄であり、したがって大量の減債基金を要求する政策は、その状況における消費性向を引き下げると考えるべきだからです。だからこそ、政府借り入れ方針からその正反対の減債基金準備方針へと切り替えたら、有効需要の急激な収縮を引き起こしかねません(その逆ならば大幅な増大が起きます)。
(6) 現在と将来の所得水準の関係についての期待変化
— 形式的に完全を期するため、この要因も一応は挙げておきましょう。でもある個人の消費性向はこれでかなり変わるかもしれませんが、社会全体では相殺される見込みが高いのです。さらにこの要因は一般に、あまりに不確実性が多すぎて大した影響は持ち得ないでしょう。

 すると残された結論は、ある状況での消費性向はかなり安定した関数かもしれない、というものです。もちろんこれは賃金単位の名目値変動を排除した場合という条件つきですが。資本価値の予想外の変動は、消費性向を変えるかもしれないし、金利や財政政策が大幅に変わってもある程度の影響はあります。でもそれ以外の客観条件は、無視はしないにせよ、通常の状況ではたぶん重要ではなさそうです。

 つまり一般的な経済条件の下だと、消費支出を賃金単位で測ったものは、主に産出と雇用の量で決まります。この事実から見て、それ以外の要因をひとくくりにして「消費性向」という関数にしてしまうのは正当化されます。他の要因も変わります(これはお忘れなく)が、賃金単位で測った総所得は、一般に総需要関数の消費部分を左右する主要な変数なのです。

セクション III

 消費性向はかなり安定した関数で、総消費は主に総所得の量(どちらも賃金単位で計測)に依存します。消費性向自体の変化は二次的な影響でしかないとしましょう。その場合、この関数は普通はどんな形をしているでしょうか?

 人は所得が増えると消費を増やす傾向にありますが、一般に平均してみると、その増分は所得の増分ほどではありません。これは人間性についての知識からも、経験の詳細な事実からもアプリオリに、大いに自信を持ってあてにできる、根本的な心理法則です。つまり、 $C_w$ が消費量で、 $Y_w$ が所得なら(どちらも賃金単位で計測)、 $\Delta C_w$$\Delta Y_w$ と符号は同じで絶対値は小さい、つまり $dC_w/dY_w$ はプラスで1より小さい、ということです。{incomeconsumption}

 これは特に短期を考えているときにあてはまることです。たとえば習慣(長期的な心理的傾向とは別です)が、客観的な状況の変化に適応する暇がないような、いわゆる雇用の周期変動なるものの場合などがそうです。人はまず何よりも自分の習慣的な生活水準を維持すべく所得の中から支出を行い、実際の所得と習慣的な生活水準の支出で差額が生じたら、それは貯蓄するのが常です。あるいは、所得にあわせて支出を変える場合にも、短期では不完全な形でしか調整が進みません。ですから所得が上昇すると、まずは貯蓄が増えることが多く、所得が減れば貯蓄が減るのが通例です。これは当初に起きやすく、その後はだんだんおさまっていきます。

 でも所得の短期的な変化の他に、所得の絶対水準が高いと、一般には消費と所得のギャップは大きい、というのも明らかでしょう。人とその家族の、目先の主要ニーズを満たすというのは、蓄財よりは動機として強いのが通例です。蓄財はある程度の安楽さが実現され後で、ようやくまともな力を持つようになる動機なのです。こうした理由からすると、一般には実質所得が上がると、貯蓄の比率は大きくなりそうです。でも貯蓄比率の大小はさておき、実質所得が増えたときに、消費がまったく同額だけ増えることはなく、したがって貯蓄額の絶対値は増えるはずです。これはあらゆる現代社会の根本的な心理法則だと考えますし、何か大きく異様な変化が他の要因に対して同時に作用していない限り成立するものだと思います。後で見るように3、経済システムの安定性は基本的に、このルールが現実の場で成立しているおかげなのです。すると雇用、ひいては総所得が増えても、追加の消費ニーズを満たすためには、追加雇用のすべてが必要となるわけではない、ということになります。

 逆に、雇用水準が下がると所得が下がりますが、それが進むと消費が所得を上回ることもあり得ます。これは一部の個人や機関が好況時に用意しておいた準備金を取り崩す場合だけではありません。政府は、否応なく財政赤字に突入し、あるいは失業手当などを支給するため、その分を借り入れでまかなうようになります。ですから雇用が下がると、総消費は実質所得の低下よりは小幅に下がります。その理由は個人の習慣的な行動、そして予想される政府の方針です。これでなぜ均衡点にちょっとした変動幅だけで到達できることが多いのか、説明がつきます。そうでないと雇用と所得の低下がいったん始まったら、かなり極端なところまで進行しかねません。

 これから見るように、この単純な原理は以前と同じ結論をもたらします。つまり、雇用が増えるには並行して投資が増えるしかない、ということです。ただしもちろん、それは消費性向が変わらない場合です。というのも消費者は雇用が増えた場合の総供給価格増分ほどは消費を増やさないので、増えた雇用はそのギャップを埋める投資が増えない限り、収益性がないことになるからです。

セクション IV

 雇用というのは期待消費と期待投資の関数ですが、これに対して消費は、他の条件が一定ならば、純所得つまり純投資の関数です(純所得は消費と純投資の合計ですから)。この事実の重要性を見くびってはいけません。言い換えると、純所得の確定以前に必要な財務手当が大きいほど、ある投資水準が消費、ひいては雇用に与えるプラスの影響は下がってしまうのです。

 この財務手当(または補填費用)の総額が、実際に既存設備の保守のために支出されているならば、この点は見過ごしにはされないはずです。でも財務手当が当期の保守費用より多ければ、雇用に対してこれが与える実用的な結果は、決してよいものとは限りません。というのも、この過剰分は当期投資を直接増やすこともなく、消費にもまわらないからです。したがって、新規投資で埋め合わせるしかありません。でも新規投資需要はこうした財務手当が行われている古い設備の当期損耗とはまったく独立のものです。すると、当期所得を生み出すための新規投資はその手当分だけ減り、ある量の雇用を実現するには、ますます多くの新規投資が要求されるということになります。さらに利用者費用でも損耗用の手当を用意していますが、それが実際に支出されなければ、その分についてもほぼ同じ議論があてはまります。

 たとえば、取り壊されたり廃屋になったりするまで居住可能な家を考えましょう。その住人が支払う家賃のうち、家主は一部を償却分として差し引き、それを維持修繕にも使わず自分の消費に使える金額とも思わなかったとします。するとこの償却費は、それが $U$ の一部だろうと $V$ の一部だろうと、その家の寿命の間ずっと雇用の足を引っ張り、家が建て替えられるときに、やっとまとめて適切な目的のために使われることになります。

 定常状態の経済では、こんな話はすべて言うまでもないことです。毎年、古い家の償却手当はすべて、その年に寿命が尽きた家の建て替えによって完全に相殺されるからです。でもこうした要因は、静的でない経済、特に長寿命資本に対する活発な投資が一時的に噴出した直後の時期には、深刻なものとなります。というのもそうした状況だと、新規投資のかなりの部分が、既存の資本設備について事業者が留保する大量の財務準備金に吸収されてしまいます。そうした設備は確かに時間とともに摩耗はしていますが、留保された準備金ほどの支出が必要となる時期にはとても達していないのです。結果として、所得は低い総純投資に対応した低い水準以上には上がれないことになります。ですから減債基金などは、保守交換支出の需要(そうした基金の予想しているもの)が出てくるはるか前に、消費者から消費力を吸い取ってしまいかねません。つまり当期の有効需要を減らし、実際に更新が行われる年にやっと、有効需要を高める、ということです。この影響が「財務堅実性」(つまり設備の実際の摩耗よりも早く初期投資を「償却」するのがいいという発想)で拍車がかかっていれば、その累積結果はかなり深刻なものとなりかねません。。

 たとえばアメリカでは、1929年には過去五年の急激な資本拡大により、更新の必要もないプラントに対する減債基金や償却手当などの設置が山積みになり、その規模があまりに大きいために、そうした財務手当を吸収するためだけに、すさまじい量のまったく新しい投資が必要になりました。そして豊かな完全雇用の社会 では、それほどの貯蓄を埋め合わせるほど大規模な新規投資をさらに見つけるのは、ほとんど絶望的となりました。たぶんこの要因だけで景気停滞が十分引き起こされたでしょう。そしてさらに、不景気中ですら余力のある大企業はこの種の「財務的堅実性」を実行し続けていたので、たぶん不景気からの早期脱出にあたって深刻な障害となったはずです。

 あるいは、現在(1935年)のイギリスでは、住宅建設や各種新規投資が戦後(訳注:第一次大戦後)に大量に行われたため、大量の減債基金が設置されて、現在の修理や改善に必要な金額をはるかに上回るものとなっています。この傾向は、その投資が地方自治体や公共的な委員会によって行われる場合に特に顕著です。かれらは「堅実」な財政と称して、実際に更新が行われるよりも前に初期投資を償却できるようにしています。結果として、民間の個人が純所得を全額使おうとする場合でも、公共や準公共機関によるすべての新規投資とはまったく無関係に創られるこうした準備義務の重たい負担のせいで、完全雇用復活はきわめて厳しいものとなります。こうした地方自治体による減債基金は、新規開発に対する地方支出の半分以上の金額になっている4はずです5。でも、保健省は地方自治体に厳しい減債基金を要求するとき、それがどれだけ失業問題を悪化させているか、気がついているとは思えません。住宅金融組合が、個人の自宅建設を支援するとき、家が実際に劣化するよりもはやくローンを完済したいという欲求は、住宅所有者に従来より貯金を殖やすよう仕向けるかもしれません—— ただしこの要因は、消費性向を直接減らしているのであって、間接的に純所得への影響を通じて減らしているのではないと考えるべきかもしれません。実績値を見ると、住宅金融組合への住宅ローン返済額は1925年には2,400万ポンドでしたが、それが1933年には6800万ポンドに増えました。一方、その都市の新規ローン契約額は1.03億ドルです。現在では、返済額はたぶんもっと多くなっているでしょう。

 産出統計から出てくるのが純投資ではなく投資だ、ということは、コリン・クラーク氏による『国民所得 1924-1931』を見ると自然に否応なくわかります。また、投資の価値に減価償却などがいかに大きく効いてくるかも示してくれます。たとえばこの推計だと、イギリスでは1928-1931年にかけて6、投資と純投資は以下の通りでした。ただしクラーク氏の総投資は、たぶん私の言う投資よりはちょっと多いでしょう。それは利用者費用の一部を含んでいそうだし、またクラーク版「純投資」が私の言う「純投資」とどこまで近いのかは、はっきりわかりません。

コリン・クラーク推計のイギリスにおける投資と純投資、1928-1931
(100万ポンド)
  1928年  1929年  1930年  1931年
総投資-産出791731620482
「古い資本の物理的摩耗価値」433435437439
純投資35829618343

 クズネッツ氏は、アメリカにおける 1919-1933 年の総資本形成(私が投資と呼ぶものを彼はこう呼びます)の統計をまとめてほぼ同じ結論に達しました。産出統計が対応する物理的な事実は、まちがいなく総投資であって、純投資ではありません。クズネッツ氏はまた、総投資を純投資に変換するときの難しい点を発見しています。彼曰く「総資本形成から純資本形成に変換する際の困難、つまり既存の耐久財の消費分を補正する際の困難は、単にデータがないというだけではない。何年も保つ財の一年あたりの消費という発想自体があいまいさを伴うものなのだ」7。だからクズネッツ氏は「企業の帳簿における減価償却や摩耗が、その企業の使用する既存の完成耐久財の消費量を正しく記述しているものとする」という想定に頼ります。一方で彼は、家屋やその他個人の保有する耐久財についてはまったく差し引きません。アメリカについてのクズネッツ氏のとてもおもしろい結果を以下にまとめます。

クズネッツ推計のアメリカにおける資本形成、1925-1933
(100万ドル)
1925年1926年1927年1928年1929年1930年1931年1932年1933年
総資本形成(企業在庫の純変動反映済)30,70633,57131,15733,9334,49127,53818,7217,78014,879
事業者の保守、修繕、整備、減価償却、摩耗 7,6858,2888,2238,4819,010 8,5027,6236,5438,204
純資本形成(クズネッツ氏定義)23,02125,28322,93425,45325,48119,036 11,0981,2376,675

 この表から、いくつかの事実が強く浮かび上がってきます。1925-29年の五年間で、純資本形成はとても安定しており、上昇の後半部分でも10%しか増えませんでした。事業者の保守、修繕、整備、減価償却、摩耗は、不況の底でもかなり高い水準でした。でもクズネッツ氏の手法ではどう考えても、減価償却等の年増推計が低くなりすぎてしまうはずです。というのも、かれは減価償却が新規の純資本形成の1.5パーセントしかないと想定しているからです。何よりも、純資本形成は1929年以降に目を覆わんばかりの急落を見せ、1932年には1925-29年の5年平均より95パーセント超も下がってしまっています。

***

 これはいささか寄り道ではあります。でも、すでに大量の資本ストックを持っている社会において、消費に普通に使える純所得を算出する場合、社会の所得からこんなにも大量の控除が必要なのだということは強調しておくべきです。これを見すごせば、人々が純所得の相当部分を消費したい場合にすら消費性向が大量の重荷を引きずっているのを見すごしがちだからです。

 消費は——当然のことを繰り返しますと——あらゆる経済活動の唯一の終点であり、目的です。雇用機会は必然的に総需要の規模に制約されます。総需要は、現在の消費か、将来消費のため現在行う準備からしか出てきません。有意義な形で現在準備ができるような未来の消費というのは、無限に先送りすることはできません。社会全体として将来の消費に備えるには、金銭的な方便ではだめで、現在物理的に何かを産出するしかありません。私たちの社会と企業組織が、将来のための財政的な用意を、将来のための物理的な用意と区別し、前者を実現しようとする努力に後者が必ずしも伴わなければ、財政規律は総需要を減らすことになってしまい、したがって福祉を悪化させてしまいます。これを裏付ける事例はたくさんあります。さらに、非常に大きな将来消費に備えようとすれば、その分だけ他のことの用意はむずかしくなり、需要の源としては現在の消費に依存するしかなくなります。ですから、何か目新しい仕掛けでもない限り、これから見る通りこのパズルに答はありません。唯一あるのは、失業を十分に高くしておいて、人々をずっと貧困にさせることです。それにより、所得の中で消費の占める割合を高めて、将来の消費のための準備として今日用意する物理的な準備のための支出以外はすべて消費にまわるようにするわけです。

 あるいはこう考えてみてください。消費の一部は、現在作られるモノでまかなわれ、一部は過去に作られたもの(負の投資)でまかなわれます。後者でまかなわれる部分が増えると、当期の需要は減ることになります。というのも当期の支出はその分だけ、純所得として還流しなくなるからです。逆に、将来の消費を満たす目的で何かが今日作られると、当期の需要拡大が起こります。さてあらゆる資本投資は、遅かれ早かれ資本のマイナス投資(訳注:減価償却や除却費用)につながる運命にあります。ですから、新規の資本投資が常に資本のマイナス投資を上回り、さらに純所得と消費とのギャップを埋めきる水準を確保するという問題は、資本が増えるにしたがってますますやっかいなものとなります。新規の資本投資が当期の資本マイナス投資を上回るには、将来の消費支出が増えるという期待が不可欠です。今日の均衡を投資拡大で確保するたびに、私たちは明日の均衡確保をますます困難にしているのです。今日の消費性向低下が公共にとって有益となるのは、いつの日か消費性向の増大が期待されるときだけです。『蜂の寓話』を思い出しましょう——今日の生真面目さの存在理由を与えるには、明日の楽しみが絶対に不可欠なのです。

 指摘しておくべき不思議な点として、一般の人々は道路建設や住宅建設といった公共投資の場合にしか、この究極の謎について認識しないかのようです。公共的な機関が投資をすることで雇用を増やすという仕組みに対する反対論として、将来に禍根を残すという説がしょっちゅう持ち出されます。「将来の横ばいとなる人口に必要なはずの、住宅も道路も市役所も電力網も水道もあれもこれも作りきってしまったらどうするんだ?」と尋ねられます。でも、同じ困難が民間投資や産業の拡大にもあてはまることは、あまりよく理解されていません。特に後者の場合は顕著です。というのも、個別には大したお金を吸収しない新工場や新プラントの場合、住宅に比べて需要がすぐに満たされてしまうのはすぐにわかることだからです。

 こうした例では、明確な理解を阻害しているのは学術界における資本の理解を阻害しているのとまったく同じものです。つまり資本というのは消費と独立に存在する自立した存在などではない、ということを十分に理解していないことです。それどころか、長期的な習慣としての消費性向が弱まるたびに、消費需要だけでなく、資本需要も必ず弱まってしまうのです。


  1. 第14章を参照。

  2. 余談ながら、財政政策が富の成長に与える影響は重要な誤解のもととなっています。でもこれについて適切に議論するには、第四巻の利子の理論を援用しなくてはなりません。

  3. p. 251.(訳注:18章) を参照

  4. 1930年3月31日終了の会計年度において、地方自治体の資本勘定は8.7億ポンドで、そのうち3700万ポンドがそれまでの資本支出に対する減債基金などからのものでした。1933年3月31日終了の会計年度だと、これらの数字はそれぞれ8100万ポンドと4600万ポンドでした。

  5. 実績値はまったくつまらないものと思われているので、二年かそこらに一回発表されるだけです。

  6. Op. cit. pp. 117 と 138.

  7. こうした引用は、アメリカ経済研究所 (NBER) 概要52における、クズネッツ氏の近刊書の速報結果をもとにしている。

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2011.12.26 YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)


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