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ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936) 第 II 巻:定義と考え方

第 7 章 貯蓄、投資の意味をもっと考える

(山形浩生
原文:https://bit.ly/qF2u5R

セクション I

 前章では、「貯蓄と投資」は必然的に等しくなるよう定義されました。というのも、社会全体で見れば、それは同じもののちがう側面でしかないからです。でも同時代の論者の一部(『貨幣論』での私自身も含みます)は、こうした用語について特殊な定義をしており、それらは必ずしも同じではありません。また、それらが同じではないという想定で著述を行った人々もいますが、その際にもまったく定義がされていないのです。ですから、これまで述べてきたものをこうした用語に関する他の人々の議論と関連づけ、現在出回っているとおぼしき、そうした用語の各種の用法を整理してみるのもよいでしょう。

 知る限りでは、貯蓄というのが所得のうち消費に使われた分を超える余りだ、という点ではみんな合意しています。それ以外の意味だと、明らかにとても不便だし誤解のもとでしょう。また、消費支出とは何かについても、大きな見解の相違はありません。ですから用法のちがいは、投資の定義か、所得の定義から生じているのです。

セクション II

 まず投資からいきましょう。一般の用途では、投資とは個人や企業が、新旧問わず資産を買うことです。たまにこの用語は、証券市場での資産購入だけを指すこともあります。でもたとえば、家に投資するとか、機械に投資するとか、株や、完成品や仕掛品の在庫に投資する、などという表現も平気でしています。そして大まかに言うと、再投資ではない新規投資というのは、自分の所得の中から資本的資産を買うという意味です。投資を売却するのがマイナス投資、つまり負の投資だと認識すれば、私自身の定義は一般の用法と一致していることになります。というのも、古い投資の売買は必然的に 打ち消しあうからです。確かに、負債の創造と償還の分は調整が必要でしょう(信用やお金の量の変化も含みます)。でも社会全体で見れば、総貸し手ポジションの増減は常に、総借り手ポジションの増減とずばり一致します。ですから総投資を考えるときには、この面倒ごとも相殺されます。ですから一般的な意味の所得が私の総所得に対応するとすれば、一般的な意味での総所得は、私の定義する純投資と同じです。つまり、あらゆる資本設備の純増分であり、総所得集計のときに考慮される、古い資本設備の価値変化を考慮したものです。

 ですからこういうふうに定義した投資は、つまりは固定資本だろうと運転資金だろうと流動資本だろうと、資本設備の増分を含みます。そして投資ということばの定義に見られる大きなちがいは(投資と純投資との差を除けば)いまのカテゴリーのどれかを算入するかどうかという点からくるものです。

 たとえばホートレー氏は、流動資本の変動(つまり売れ残り在庫の予想外の増減)をとても重視しており、こうした変動を除外して投資を定義しようと提案しています。この場合、貯蓄が投資を上回る差分というのは、売れ残り在庫の予想外の増分と同じ、つまり流動資本の増加と同じです。これが重視すべき要因なのだというホートレー氏の議論に、私は納得していません。というのもこの議論は、よかれあしかれ予想されていた変動の補正よりも、当初は予想外だったはずの変動の矯正にばかり力点を置くからです。ホートレー氏は事業者による産出規模についての日々の意志決定が前日の決定と変わってくるのは、売れ残り在庫の変化によるのだ、と主張します。確かに、消費財ならこれは決断にとても重要な役割を果たします。でも決定に作用する他の要因を排除するのは、まったく意味がないと思います。ですから私は、有効需要の変化すべてを強調したいと思います。単に前期の売れ残り在庫増減に対応する部分だけを強調したいとは思いません。さらに固定資本の場合、未使用生産能力の増減は、生産の意志決定への影響においては、売れ残り在庫の増減に対応するものです。ホートレー氏の手法では、この少なくとも同程度には重要な要因を扱えないと思います。

 オーストリア学派の経済学者たちの使う、資本形成や資本消費というものは、上で定義した投資や負の投資と同じではないし、純投資と負の投資ともちがうようです。特に資本消費というのは、上述のような資本設備の現象がどう見ても起きていない場合にも起こることになっています。でもこうした用語の意味を明確に説明する参考文献は未だに見つけられません。たとえば、生産期間の延長があると資本形成が起こるといった文は、あまり役には立たないのです。

セクション III

 次に、所得に特殊な定義をしていて、したがって消費を上回る所得という意味も特殊で、それにより貯蓄と投資が一致しない場合を見ましょう。拙著『貨幣論』での私の用法がこの見本です。というのも6章で説明しましたが、あの本で私が使った所得の定義はいまの定義とちがっていて、事業者の所得として利潤の実績ではなく(ある意味で)「通常の利潤」を使っているからです。ですから投資を貯蓄が上回るというとき、私が意図していたのは、事業者たちが資本設備の所有で得られるはずの通常利潤よりも少ない金額しか稼いでいないような産出の規模、ということです。そして投資に対する過剰貯蓄の増加というのは、実際の利潤が減少していて、産出を収縮させる動機となる、という意味でした。

 今にして思えば、雇用量(つまりは産出と実質所得の規模)は現在の利潤と見込み利潤を最大化したいという動機を持つ事業者によって決まっています(利用者費用の分は、設備の寿命全期間で見た収益性を最大化しようとする事業者の考え方によって決まります)。そして事業者の利潤を最大化する雇用量は、各種の仮説に基づく消費や投資から生じる、売り上げ総計見通しから来る総需要関数に左右されます。『貨幣論』では、貯蓄に対する投資過剰の変化という概念は、同書で定義したように、利潤の変化を扱う手法でした。でも同書では、期待と実績をはっきり区別しませんでした1。同書で私は、貯蓄に対する投資の過剰は、産出規模の変化を左右する動機となるものだ、と論じました。したがって本書の新しい議論は、(いまにして思えば)ずっと正確でわかりやすいものですが、基本的には前著の議論を発展させたものです。拙著『貨幣論』の用語で言うならこうなるでしょう。「貯蓄に対する投資過剰の増大期待は、事業者が以前の規模に比べて雇用と産出を増やすよううながすのである」。現在の議論と以前の議論に共通する意義は、雇用の量が事業者たちによる有効需要の推計で決まるということを示した点にあります。『貨幣論』で定義されたような、貯蓄に対する投資増大期待とは、有効需要増大の指標なのです。でも『貨幣論』での書きぶりはもちろん、その後発展させてここに述べたものと比べれば、とても混乱した不完全なものでした。

 D. H. ロバートソン氏は、今日の所得を、昨日の消費に投資を足したものと等しいと定義しています。ですから彼にとっては、今日の貯蓄というのは、昨日の投資に、昨日の消費が今日の消費より多かった分を足したもの、ということになります。この定義だと、貯蓄が投資を上回ることはあります。つまり、昨日の所得(私の言う意味で)が今日の所得を上回る分だけ貯蓄が多くなります。ですからロバートソン氏が、投資を上回る貯蓄があるというとき、それはまさに、所得が下がっていると私がいうのと同じことをまさに言っているのだし、彼の言う貯蓄過剰というのは、私の言う所得の減少とまったく同じです。現在の期待が常に昨日の実績値で決まるというのが事実なら、今日の有効需要というのは、昨日の所得と等しくなります。したがってロバートソン氏の手法は、有効需要と所得を対比させることで行おうとした因果分析においてきわめて重要となるのと同じ区分をしているという点で、私の代替手法と見なせます(その一次近似と言うべきでしょうか)2

セクション IV

 さて次に、「強制貯蓄」なる用語に伴う、ずっと漠然とした考えに移りましょう。そこに何か明確な重要性は見いだせるでしょうか? 拙著『貨幣論』 (第i巻. p. 171, 脚注) この用語の過去の用例を指摘し、それが投資と、『貨幣論』で私が述べた意味での「貯蓄」との差額となんとなく似ているのではないか、と示唆しました。いまや私は、その時に思ったほどの類似性がそもそもあったのか、もはや自信がありません。どのみち私は「強制貯蓄」だの、もっと最近使われた似たような用語(たとえばハイエク教授やロビンズ教授によるもの)が、投資と、『貨幣論』で私が述べた意味での「貯蓄」との差額には直接何の関係もないと確信しています。というのもこの著者たちはこの用語で何を意味するのかきちんと説明していませんが、彼らの言う「強制貯蓄」がお金の量や銀行信用の量の変化から直接出てきて、それで計測できる現象だというのは明らかなのです。

 産出と雇用の量が変われば、確かに賃金単位で測った所得は変化が生じるのは明らかです。賃金単位が変われば借り手と貸し手の間に再配分が生じ名目の総所得も変わります。そしてどちらの場合にも、貯蓄金額には変化がある(かもしれない)のも事実です。したがって、お金の量の変化は金利への影響を通じて、所得の量と分配を変えるので(これは後で示します)、こうした変化は間接的に、貯蓄金額の変化をもたらしかねません。でもこうした貯蓄量の変化は、他の状況変化に伴う貯蓄額変化とまったく同じで、ちっとも「強制」ではありません。そして強制かそうでないかを区別する方法もありません。やるならば、ある所定条件の下での貯蓄額が規範または基準なのだと定めるしかないでしょう。さらにこれから見るように、お金の量が変化したことによる総貯蓄の変化はきわめて変動が激しく、他の多くの要因に左右されるのです。

 したがいまして「強制貯蓄」なるものは、標準的な貯蓄率を指定しない限り何の意味もありません。もし完全雇用が実現した状態での貯蓄率を選ぶなら(これはあり得るでしょう)、上の定義はこうなります。「強制貯蓄とは、完全雇用が長期均衡の状態として存在している場合に起こる貯蓄に対する、実際の貯蓄の過剰分である」。この定義はまともに筋が通っていますが、でもこの意味では過剰な強制貯蓄はきわめて珍しくきわめて不安定な現象となり、通常は強制貯蓄不足が起こることになるでしょう。

 ハイエク教授の興味深い「強制貯蓄ドクトリンの発展に関するメモ」3によれば、これこそ実はこの用語のもとの意味だったそうです。「強制貯蓄」または「強制倹約」は、もともとはベンサムの着想でした。そしてベンサムははっきりと、そこで念頭にあったのが「あらゆる手が雇用され、しかももっとも有益な形で雇用されている」4状況におけるお金の量(これはお金で買えるものの量と相対的に見た量です)が増加した時の結果だと述べています。こうした状況では、実質所得は増やせないし、結果として追加投資も増やせない、とベンサムは指摘します。その推移の結果として起こるのが「国民の快楽と国民の正義を犠牲にした」強制倹約というわけです。この問題を扱った十九世紀の著述家は、すべて同じ考えを抱いていました。でもこのきわめて明快な発想を、完全雇用でない状況に拡張するのは困難です。むろん確かに、一定の資本設備に投入する雇用を増やすと収穫逓減が起こるという事実のため、雇用を少しでも増やせば、すでに雇われていた人々の実質所得は多少下がります。でもこの損失を、雇用増大に伴うかもしれない投資増と関連づけようとするのは、たぶん実り薄いことでしょう。いずれにしても「強制貯蓄」に関心ある現代の著述家たちで、それを雇用増大の状況に拡張しようとした試みは、寡聞にして知りません。そして彼らは一般に、ベンサム主義的な強制倹約の概念を、完全雇用でない条件に拡張すると、ある程度の説明や条件づけが必要だという事実を見過ごすようなのです。

セクション V

 貯蓄と投資がその額面通りの意味で理解したときにも、差が出ることがあるのだという発想が普及しているのは、個人預金者と銀行との関係が実際には相互の取引なのに、一方的な取引に見えるという錯覚で説明できるように思います。預金者と銀行がなにやら手管を弄し、貯金が銀行システムの中に消え失せて消費にはまわらないとか、逆に銀行システムは対応する貯金がなくても投資を発生させられるとか思われています。でも現金や債務や資本財などの資産を獲得することなしには、だれも貯金なんかできません。そしてだれかが以前は保有していなかった資産を獲得するには、同じ価値の資産が新規に作られるか、あるいはその人がそれまで持っていた価値に相当する資産を誰かが手放すしかないのです。前者の場合には、それに対応する新規投資があります。後者の場合、だれか他の人が同じ額だけ負の投資をしているのです。というのも、その人が富を失ったら、それは消費が所得を上回ったことが原因のはずで、資本的資産の価値変動から来る資本勘定の損失のせいではないはずです。というのもそれは、元々持っていた資産の価値低下から苦しい思いをしているわけではないからです。資産の現在の価値はきちんと受け取りつつ、その価値を何らかの富により保持していないので、よってその人は当期所得より多くを当期に消費しているはずだということになります。さらにもし資産を手放しているのが銀行システムなら、だれかが現金を手放している必要があります。すると、問題の個人やその他の人々の総貯蓄をまとめると、必然的に当期の新規投資と同額になるはずです。

 銀行による信用創造により、銀行が「まともな貯金」に対応しない投資を実施できるという発想は、銀行信用増大の帰結について、一つの側面だけを抜き出し、他を無視した結果でしかあり得ません。もし銀行がある事業者に対し、その事業者の既存融資に加え、さらに銀行信用を提供して、それが他では起こりえなかった当期投資を可能にしたなら、所得は通常は投資増分を超える速さで必然的に増えます。さらに、完全雇用でない限り、名目所得だけでなく実質所得も増えます。世間は所得増分のうち、貯蓄と支出に分ける比率について「自由選択」を実施します。そして、投資を増やそうとして借金した事業者の意図が(そうでなければ起こったはずの他の事業者による投資の代替として起きるのではない限り)世間が貯蓄を殖やそうと決める速度よりも速く成長することはあり得ません。さらに、この決断から生じる貯蓄は、他のどんな貯蓄とも遜色ない、普通の貯蓄です。他の富の形態ではなくどうしても現金を保有したいというのでない限り、ある人が新規の銀行信用で得た追加現金を、そのまま保有するよう説得するわけにはいきません。それでも雇用、所得、価格は、新しい状況でだれかが追加のお金を保有しようとするような方向に動くのです。確かに、特定方向への投資が予想外に増えたら、総貯蓄と総投資の比率は変なことになるかもしれません。それはその変化が十分に予想されていた場合とはちがうでしょう。また、銀行信用が認められると、以下の三つの傾向が出るのも事実です。(1) 産出が増える, (2)賃金単位で測った限界生産の価値が増える(これは収穫逓減の条件下だと、産出増加に必然的に伴います)、 (3) 賃金単位の額面が増える (というのもこれはしばしば雇用改善に伴うからです)。そしてこうした傾向は、各種集団間の実質所得分配に影響するかもしれません。でもこうした傾向は、産出が増えている状態すべてに共通する特徴であり、その産出増大が銀行信用の増大以外の原因で起きた場合にも、同じように起きます。それらを避けるには、雇用を改善できるような行動をすべて避けるしかありません。でもいまの議論の多くは、まだきちんと論じていない議論の結果を先取りしたものです。

 ですから、貯蓄には常に投資が関与するという古くさい見方は、不完全で誤解のもとではありますが、投資なしの貯蓄があるとか、「まともな」貯蓄なしの投資があるとかいった、目新しい見方よりも定式としてはきちんとしています。そこにあるまちがいとは、個人が貯蓄をしたら、その人が総投資を同額だけ増やすのだ、というありがちな早合点です。確かに個人が貯蓄したら、その人は自分の富を増やしています。でもその人が社会全体の富を増やすという結論は、個人の貯蓄行為が、だれか他人の貯蓄にも影響して、したがってだれか他の人の富を変えるかもしれないという可能性を無視しています。

 貯蓄と投資が等価だという事実と、他人がどんな投資をしていようとお構いなしに、個人は好きな額を貯蓄できるという一見した「自由意志」とで折り合いをつけるには、貯蓄というのが基本的には支出と同じく、双方向の行為だという事実が効いてきます。というのも、ある個人がいくら貯蓄しても、それはその当人の所得にはあまり影響しませんが、その消費が他人の所得に与える影響を考えると、あらゆる個人が同時に一定金額を貯蓄することは不可能になるのです。消費を減らして貯蓄を殖やそうとする試みはすべて所得に影響し、必然的に自滅的な結果となります。もちろん同じように、社会全体として当期の投資金額より少ない額を貯蓄するのも不可能です。そんなことをしようとしても、必然的に所得が上昇して、結果として個人が貯蓄しようとする金額の合計は、投資額とまったく同じ数字になってしまうのです。

 上の議論は、手持ち現金の量を好きなときに変える自由(あらゆる個人が持っています)と、個人の残高を足し上げたお金の総額が、銀行システムの作り上げた現金総量と完全に一致せざるを得ないという必然性とを調和させる命題と、きわめて類似したものです。後者の場合、それが等しくなるのは、人々が手元におく現金の量が、実は所得や、現金保持の自然な代替物となるモノ(主に証券)の価格と独立ではない、という事実によって生じます。したがって、所得やそうしたモノの価格は必然的に変化し、やがて個人が新しい所得と価格水準のもとで保有する現金量の総額は、銀行システムが作った現金の量と等しくなるのです。これぞまさに、金融理論の根本的な主張です。

 これらの主張はどちらも、買い手がいないと売り手もありえず、売り手がなければ買い手もいない、という事実だけから出てくるものです。市場に比べて取引量の小さい個人は、需要というのが一方的な取引ではないという事実を無視してもまったく問題ありません。でも総需要でそれを無視すると、まったくのナンセンスになります。これは社会総計としての経済行動理論と、個人単位の行動理論との決定的な相違です。個人ならば、その人自身の需要変化はその人の所得には影響しないのです。


  1. 同書での私の手法は、当期の実績利潤を、当期の利潤期待を決めるものとして扱うことでした。

  2. ロバートソン氏の論文「貯蓄とため込み」(『エコノミック・ジャーナル』1933年9月号, p. 399) およびロバートソン氏、ホートレー氏、私との討論 (『エコノミック・ジャーナル』1933年12月, p. 658)を参照。

  3. 『クォータリー・ジャーナル・オブ・エコノミクス』 1932年11月, p. 123.

  4. Loc. cit. p. 125.

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2011.10.01 YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)


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