ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936) 第 III 巻:消費性向
(山形浩生 訳
原文:https//bit.ly/pbEQd0
第八章で、雇用は投資と並行して増えるしかないのだ、と示しました。こんどはこれをもう一歩先に進めましょう。どの状況についても、所得と投資の間には明確な比率(これを乗数と呼ぶことにします)が決まるし、少し単純化すれば、総雇用とその投資で直接雇われた雇用(これを一次雇用と呼びましょう)との間にもその乗数が決まるのです。この追加の一歩は、本書の雇用理論の不可欠な一部です。消費性向が与えられているとき、総雇用と所得と投資率の間に、この議論が厳密な関係を構築してくれるからです。乗数のアイデアを最初に経済理論に導入したのは、R. F. カーン氏の論文「国内投資と失業の関係について」(『エコノミック・ジャーナル』1931年6月号)です。この論文でのカーン氏の議論は、各種の仮想的な状況における消費性向(と他のいくつかの条件)が一定として、金融当局などの公共が投資を刺激したり抑えたりする手段を取ると考えたとき、雇用量の変化は投資総量の純変化の関数になる、という根本的なアイデアに基づいています。そして同論文は、純投資の増大と、それに伴う総雇用の増加との実際の定量関係を推計するための一般原理を定めようとしています。でも乗数の話に入る前に、限界消費性向というアイデアを紹介しておくほうが便利でしょう。
本書で検討している実質所得変動は、決まった資本設備に各種の雇用量(つまり労働ユニット)を適用することで生じます。実質所得は、雇用労働ユニット数に応じて増減します。もし決まった資本設備で働く労働ユニット数が増えるにつれて、限界での収益は減ると想定すれば、賃金単位で計測した所得は雇用量に対して比例以上の増え方となり、つまりは製品の数で計測した実質所得(それが可能ならばの話ですが)に対しても比例以上の増え方を見せます。 でも、製品の数で計測した実質所得と、賃金単位で測った所得は(資本設備がほぼ変わらない短期では)いっしょに増減します。だから、製品の数で見た実質所得は厳密に数字で測れないかもしれないので、賃金単位で測った所得($Y_w$) を実質所得の便宜的な指標と考えるのが便利です。文脈によっては、 $Y_w$ が実質所得よりも一般に大きな比率で増減する、というのを見すごしてはいけません。でもそうでなければ、この二つが常に並行して増えたり減ったりする、という事実のために、両者はほぼ入れ替え可能です。
通常の心理法則では、ある社会の実質所得が増減したら、その消費も増減しますが、その変動幅は所得ほどではありません。完全に正確な記述ではありませんが、自明で完全に定式化できる条件をいくつかつければ—— $\Delta C_w$ と $\Delta Y_w$ は符号は同じで $\Delta Y_w > \Delta C_w$ だというという命題になります。ここで $C_w$ は賃金単位で測った消費です。これは単に、第3章セクションiiですでに述べた命題を繰り返しただけです。
では $dC_w/dY_w$ を限界消費性向と定義しましょう。
この量はとても重要です。産出が1増えたときに、それが消費と投資でどう山分けされるかを教えてくれるからです。 $\Delta C_w$ と $\Delta I_w$ をそれぞれ消費と投資の増分としたとき、 $\Delta Y_w = \Delta C_w + \Delta I_w$ となります。ですから $\Delta Y_w = k\Delta I_w$ 、ただし $1 - (1/k)$ は限界消費性向に等しいものとします。
$k$ を投資乗数と呼びましょう。これは総投資が増えたときに、所得は投資増分の $k$ 倍増える、ということです。
カーン氏の乗数は、今のとはちょっとちがっていて、 $k'$ で示される雇用乗数とでも言うべきものです。投資産業における一次雇用の増分と、総雇用の増分との関係を示すものだからです。つまり投資増分 $\Delta I_w$ が一次雇用を $\Delta N_2$ 増やしたら、総雇用の増分 $\Delta N = k'\Delta N_2$ ということになります。
一般的に、 $k = k'$ となるべき理由はありません。というのもそれぞれの産業に関連する総供給関数の部分を見たとき、雇用の増大とそれを刺激した需要の増加の比が、どの産業でも同じになるという想定に必然性はないからです1。たとえば、消費性向が平均の性向と大幅にちがっていて、消費財と投資財の需要変化がかなりちがった比率変化を見せて、 $\Delta Y_w/\Delta N$ と $\Delta I_w/\Delta N_2$ がそれぞれ大きくなるとしましょう。もしこうしたそれぞれの産業群が総供給関数上で対応している部分について、考えられる形の差を考慮したいのであれば、以下の議論をもっと一般化した形で書くのは簡単です。でもそこに含まれる考え方を明確にしたいので、 $k=k'$ の単純な場合を扱うほうが便利です。
つまりここから、社会の消費心理が所得増分のたとえば9割を消費したがるなら2、乗数 $k$ は $10$ になります。そして、たとえば公共事業の増加で引き起こされる総雇用は、投資が別の方向に減らされないとすれば、公共事業自体がもたらす一次雇用の $10$ 倍になります。社会が雇用(ひいては実質所得)は増やしたのに消費をそのまま維持した場合に限り、雇用増は公共事業による一次雇用だけになります。一方、もし所得増分を全額消費しようとしたら、安定する点はなくて、物価は無限に上がります。通常の心理的な想定からすると、雇用増大が消費の低下をもたらすのは、同時に消費性向の変化が起きた場合だけです——それはたとえば、戦時中のプロパガンダで個人消費を抑えようとした結果として起こるかもしれません(訳注:「欲しがりません、勝つまでは」……)。そしてそういう場合にのみ、投資で増えた雇用が、消費向けの産業の雇用にマイナスの影響をもたらすのです。
これは単に、読者が今やざっとわかっているはずのことを、数式としてまとめただけです。賃金単位で測った投資の増加は、大衆が賃金単位で測った貯蓄を殖やす気がない限り実現しません。一般に言えば、人々は賃金単位で見た総所得が増えている場合にしか貯蓄は殖やしません。ですから増えた所得の一部を消費しようという人々の努力は、産出を刺激して新しい所得水準(と分配)が投資の増分に対応できるだけの貯蓄余力をもたらします。必要な追加貯蓄をしてもらうために必要な実質所得増をもたらすには、雇用をどれだけ増やすべきか教えてくれるのが乗数です。そしてこれは、人々の心理的傾向の関数となります3。もし貯蓄がクスリで消費が(それを飲むための)ジャムだとすれば、追加のジャムは、追加のクスリの量に比例する、というわけです。世間の心理傾向がここで想定しているものとちがうのでない限り、投資のための雇用増が必然的に消費財産業をも刺激し、投資で必要な一次雇用の倍数となる総雇用の増加につながるのだ、という法則が、いま確立されたわけです。
以上から、もし限界消費性向が1よりあまり小さくなければ、投資がちょっと変動しただけで、雇用も大幅に上下します。でも同時に、投資を比較的ちょっと増やすだけで完全雇用は実現できます。一方、限界消費性向がかなりゼロに近ければ、投資がちょっと上下動しても、雇用の上下動は同じくらい小さなものとなります。でも同時に、完全雇用を生み出すには投資を大幅に増やさなくてはいけません。前者の場合、非自発失業は楽に治せる病気ですが、こじらせると面倒になりかねません。後者の場合、雇用の変動はそんなに大きくないのですが、かなり低い水準に落ち着いてしまい、よほど過激な治療を施さないとなかなか治りません。実際の限界消費性向は、この両極端のどこか間にいて、ゼロよりはずっと1に近いようです。結果として私たちは、ある意味で両方の悪いところ取りをしているに等しく、雇用の上下動はかなり大きいのに、完全雇用を実現するための投資増分は大きすぎてなかなか実行できないことになっています。残念ながら上下動が大きいために、この病気の性質はなかなかわかりにくいのに、かなり悪性なのでその性質をきちんと理解しないと治療しようがない状態です。
完全雇用が実現すると、それ以上投資を増やそうとがんばっても、限界消費性向がどうあれ物価が無限に上昇しがちとなります。つまり真のインフレ状態に到達するわけです4。でもその時点までは、物価上昇は総実質所得の上昇と結びついています。
ここまで投資の純増を考えてきました。でも、もし特に条件なしで、たとえば公共事業増大の影響にいままでの話を適用したいなら、他の方面で投資減少が起きて相殺されたりはしない、と想定しなくてはなりません——そしてもちろん、それに伴って社会の消費性向には変化がないということも。カーン氏は上で触れた論文で、重要となりそうな相殺物として何を検討すべきかを考え、その定量推計を示唆するのに注力していました。というのも実際の場合には、ある投資の個別増大以外にも、いくつか最終結果に影響する要因があるのです。たとえば政府が公共事業に10万人を追加で雇用して、(上で定義した)乗数が4だとしても、総雇用が40万人増えると想定するのは早計です。というのも、新政策は他方面での投資にマイナスの影響を及ぼすかもしれないからです。
(カーン氏にしたがうと)現代社会で見すごしてはならない最も重要な要因としては、以下のようなものがあるようです(もっとも最初の二つは、第四巻が終わるまでは完全には理解できないでしょう)。
さらに、もしかなりの変化を考えているなら、限界のところでのポジションがだんだん変わってくるので、限界消費性向もだんだん変わることを考慮する必要があります。ということは乗数もだんだん変わる、ということです。限界消費性向は、雇用のあらゆる水準で一定というわけではなく、一般に雇用が増えると下がる傾向がありそうです。つまり実質所得が増えたら、社会が消費したがる割合はじわじわ減ってくるのです。
いま述べた一般則の働き以外にも、限界消費性向(ひいては乗数)をもっと変えるような他の要因も働いています。そしてこうした他の要因はおおむね、一般則を相殺するよりは強化する方向に働くようです。なぜかというと、まずそもそも雇用増は、短期的には収穫逓減があるので、事業者に集まる総所得の比率を高めますが、事業者個人の限界消費性向はたぶん、社会全体の平均よりは低いからです。また第二に、失業は官民問わずマイナスの貯蓄につながりやすいものです。失業者は自前や友人の貯金を取り崩して暮らしたりするし、失業手当をもらう場合にも、それは財政の借り入れでまかなわれたりするからです。結果として、再雇用はこうしたマイナスの貯蓄をだんだん減らすことになり、したがって社会の実質所得が他の形で増える場合に比べ、限界消費性向は急激に下がることになります。
いずれにしても、投資が小さく純増したほうが、大きく増えた場合より乗数はたぶん大きいでしょう。ですからかなり大きな変化を視野に入れる場合、検討している範囲の限界消費性向の平均をもとにした、平均の乗数で判断することが必要です。
カーン氏はいくつか仮想的な特殊ケースを使って、こうした要因であり得る定量結果を検討しています。でも明らかに、これらの一般論であまり話を進めるのは無理です。せいぜい言えるのは、たとえば普通の現代社会はたぶん、実質所得が増えたら消費にまわるのはその8割弱くらいか、という程度の話です。それが(訳注:貿易のない)閉鎖経済で、失業者の消費分は他の消費者の消費分からの移転でまかなわれるなら、相殺分を考えたら乗数は5弱というところでしょうか。でも外国との貿易が消費の2割くらいになり、失業者たちは雇用されている場合の通常消費の5割くらいを、借り入れに類するものから受け取っているとしましょう。乗数は、個々の新規投資が提供する雇用の2倍か3倍程度にとどまるかもしれません。ですから貿易が大きな比率を占め、失業手当がかなり借り入れでまかなわれている国(たとえば1931年のイギリスがそうでした)では、そうした要因の重要性が低い国(たとえば1932年のアメリカ)に比べて、投資の変動からくる雇用の変動幅はずっと穏やかなものとなります5。
とはいえ、国民所得の中では比較的小さな比率でしかない投資の変動が、それ自身よりもはるかに大きな振幅の変動を総雇用や所得に引き起こせるのか、という理由を説明するには、乗数の一般原理を検討する必要があります。
今までの議論は、総投資の変化を消費財産業が資本財産業と並行して十分前に予見した場合の話でした。そこでは消費財の生産量が増えて、収穫逓減により価格が下がりますが、それ以上に価格が乱されることはありません。
でも一般には、きっかけとなる資本財産業の産出増が完全には予見されていない場合を考えねばなりません。明らかにこのような場合のきっかけだと、雇用に対する影響が出尽くすまでにはしばらくかかります。でも議論の中でわかってきたのですが、この「明らか」な事実は、タイムラグなしであらゆる時点で連続的に成立する論理的な乗数理論と、資本財産業で起きた拡大が、タイムラグを持って、しばらくたってからじわじわ効いてくる場合の結果とで、いささか混乱を引き起こすようです。
この両者の関係をはっきりさせるには、まず予見されない、あるいは不完全にしか予見されない資本財産業の拡大は、総投資額を即座に全額増やすものではなく、総投資額をじわじわと増やすように効いてくるのだ、ということを指摘しましょう。そして第二に、それによって一時的に限界消費性向が通常値からずれるかもしれないことも指摘しましょう。ただし、その後それはだんだん通常値に戻ってきます。
ですから、資本財産業での拡大は、ある程度の時間をかけて数期にまたがる形で総投資が生じるように進行し、その数期における限界消費性向の一連の値は、拡大が予見されていた場合ともちがうし、社会が総投資の新しい安定水準に落ち着いたときの数字ともちがいます。でもその間の各期で、乗数理論はきちんと成立しているのです。つまり、総需要の増分は、総投資増分に限界消費性向をかけたものとなっているのです。
この二つの事実についていちばん明確に説明するには、資本財産業における雇用拡大がほぼ完全に予想外で、当初は消費財の産出がまったく増加しないという極端な例を考えてみましょう。その場合、資本財産業で新たに雇われた人々が、増えた所得の一部を消費しようとしたら、消費財の価格は上がって、一部では高価格のために消費を先送りする人もでるでしょうし、一部では高価格により利潤が増えて、貯蓄階級寄りに所得の再分配が起こるでしょうし、一部では高価格のために在庫が減るでしょう。これにより、一次的な需給の均衡が生じます。消費の先送りで均衡が復活する限り、限界消費性向は一時的に下がります。つまりは乗数自体が下がるわけです。そして在庫が減る場合には、その間の総投資増は、資本財産業での投資増分よりも少なくなります――つまり乗数が掛けられるはずのものは、資本財産業での投資増分の全額hどは増えない、ということです。でも時間がたつにつれて、消費財産業は新しい需要に対応した調整を行い、やがて先送りした消費が享受されると、限界消費性向は一時的に通常水準より高くなり、それまで下がっていた分を補おうとします。そしてその後は通常値に戻ります。一方で、在庫がかつての水準に戻ることで、総投資の増分は一時的に、資本財産業での投資増分よりも高くなります(生産量増大に伴う運転資金の増加もまた、一時的に同じ効果をもたらします)。
予想外の変化が雇用に影響しきるには時間がかかるのだ、という事実は、ある状況では重要になります――特に交易サイクル(訳注:景気循環)の分析に使われる場合には(拙著『貨幣論』でその方向での分析をしています)。でもだからといって、本章で述べた乗数理論の重要性はいささかも変わりません。また、資本財産業拡大によって期待される、雇用への総便益の指標として使えなくなることもありません。さらに、消費産業がすでに容量いっぱいで稼働していて、産出を増やすには既存工場の雇用を増やすだけではすまず、工場自体の増設が必要となる場合を除けば、消費産業での雇用が資本財産業での雇用と並行して、通常の乗数にしたがった拡大を見せるようになるまで、ごくわずかの時間しかかからないはずなのです。
これまで見てきたように、限界消費性向が高いほど乗数も大きくなり、したがって投資が変わったときの雇用変動も大きくなります。すると、貧しい社会のほうが、貯蓄が所得に占める割合がとても小さいので、その割合が多くて乗数も小さい豊かな社会よりも、雇用がすさまじく変動するというパラドックスめいた結論が出てきそうな気もします。
でもこの結論は、限界消費性向の影響と、平均消費性向の影響とのちがいを無視しています。限界消費性向が上がれば、投資の割合が変化したら、相対的な影響は比率としては大きくなるのですが、平均消費性向も同時に高ければ、その絶対的な影響は小さいものにとどまるのです。これを数字の例で説明してみましょう。
仮に、ある社会が既存の資本設備で 500 万人以下しか雇っていないときには、その実質所得のうち全額が消費にまわるとします。そして 500 万人を超えて次の10万人からくる実質所得は、99 パーセントが消費にまわり、その次の10万人雇用からくる所得は 98 パーセント、その次の 10 万人では 97 パーセント、という具合に限界消費性向が決まるものとします。そして1000万人が雇われたら完全雇用です。すると、もし $500万 + n \times 10万$ 人が雇われていたら、限界乗数は $100/n$ で、国民所得のうちで投資にまわるのは $n(n + 1)/2(50 + n)$ パーセントということになります。
ですから 520 万人しか雇われていないときの乗数はとても大きく、50 になります。でも投資は当期所得に比べてごくわずか、たった $0.06$ パーセントです。結果として、投資がたとえば三分の二とか、大幅に下がった場合にも、雇用は 510 万人に下がるだけ、つまり2パーセント減るだけです。一方、900 万人が雇用されているときには、限界乗数は比較的小さく 2.5 ですが、投資は当期所得のかなりの部分、9 パーセントを占めるようになります。結果として、投資が三分の二ほど下がったら、雇用は 730 万人になり、19 パーセントも低下するわけです(訳注:この部分の数字のミスは、間宮訳での指摘を入れて直した。TNX!)。極端な場合として投資がゼロになったら、雇用は前者だと4パーセント下がりますが、後者だと 44 パーセントの下落です6。
上の例だと、両社会のうち貧しいほうは、雇用不足のために貧しくなっています。でも同じ理屈は、その貧困が低技能のせいだったり、技術水準や設備が悪いせいだったりする場合でも、ちょっと変えればすぐに当てはまります。ですから乗数は貧しい社会のほうが大きいのですが、投資の変動に対する雇用への影響は、豊かな社会のほうがずっと大きいことになります。これは豊かな社会での当期投資が、当期所得に対してずっと大きな比率を占めると想定した場合です7。
また以上から明らかなように、公共事業で(前記の前提のもと)ある数の労働者が雇われたら、完全雇用に近い場合よりも、失業が厳しい時期のほうが、総雇用に与える影響は大きいのです。上の例だと、雇用が520万人に下がり、公共事業で 10 万人が新たに雇われたら、総雇用は 640 万人に増えます。でも雇用がすでに 900 万人の状態だと、10 万人を新規に雇っても、総雇用は 920 万人になるだけです。ですから失業が激しいときには、かなり効果の疑わしい公共事業ですら、失業手当が減る分だけ考えても投資額の何倍分もの見返りをもたらしそうです(ただし失業が多いときには所得のうちで貯蓄にまわる割合が小さいと想定できる場合です)。でも完全雇用に近づけば、その公共事業は効果が怪しくなってきます。さらに、完全雇用に近づくと限界消費性向が下がるという想定が正しいなら、投資を増やすことで雇用の増分を確保するのは、ますますむずかしくなってきます。
総所得と総需要の時系列統計(あればですが)をもとに、交易サイクル(訳注:景気循環)のそれぞれの段階における限界消費性向の表をまとめるのは難しくないはずです。でも現在では、統計にそこまでの精度はないし(あるいはこの目的を十分念頭に置いて集計されていないため)、きわめておおざっぱな推計しかできません。私の知る限り、一番この目的に適しているのは、アメリカについてクズネッツ氏がまとめた数字です(すでに第八章で言及しています)。が、それでもかなり不確実性があります。国民所得の推計値とあわせて考えると、投資乗数の数字は私が予想したよりも小さくて安定しています。各年を個別に見ると、結果はかなり不安定です。でも対にして二年ずつまとめると、乗数はどれも3以下、2.5の周辺でかなり安定しているようです。すると、限界消費性向はたぶん 60 パーセントから 70 パーセントは超えない、ということになります――好況期なら結構ありそうな数字ですが、不況時としては私が見る限り、あり得ないほど低い意外な数字です。ですが、アメリカにおいては不況時ですら企業財務がきわめて保守的であることで、説明はつくかもしれません。言い換えると、修理交換をサボっているせいで投資が急落している場合でも、そうした損耗に対する財務的な手当が行われているのであれば、そうでない場合に起こったはずの限界消費性向上昇が、結果として抑えられるということです。この要因は、最近のアメリカにおける不況悪化でも大きな役割を果たしただろうと私はにらんでいます。一方で、統計を見るとアメリカの投資は 1929 年から 1932 年にかけて、75 パーセントも下がり、純「資本形成」は95パーセント以上も下がったということになっているのですが、これはいささか統計が投資低下を過大に見積もっているのかもしれません――こうした推計値がちょっと変わるだけで、乗数は大きく変わってきます。
非自発的な失業が存在するとき、労働の限界的な負の効用は、必然的に限界生産物の効用よりも小さくなります。それどころか、きわめて小さいかもしれません。長く失業していた人物にとって、何らかの労働は負の効用を持つどころか、正の効用を持つかもしれないのです。もしこれが認められれば、「無駄」な借り入れ支出8なるものが、実はそれでも全体としては社会を豊かにするのだ、という理由が上の説明でわかります。ピラミッド建設、地震、戦争ですら、我が国の政治家たちが古典経済学原理の知識のせいでもっとましなものを実施できないようであれば、富を増やすのに貢献してくれるかもしれません。
おもしろいことですが、異様な結論から何とか逃れようともがく常識は、部分的に無駄な借り入れ支出より、まるっきり「無駄」な借り入れ支出のほうを好みがちです。部分的に無駄な借り入れ支出は、完全には無駄でないために、純粋に「事業」原理に基づいて判断されがちです。たとえば、借り入れで失業手当をまかなうほうが、を市場金利以下の建設融資を行うよりも受け容れられ易いのです。金の採掘と呼ばれる、地面に穴を掘る活動の一形態がありますが、これは世界の真の富に一切貢献しないどころか、労働の負の効用をもたらすものですが、これがあらゆる解決策で最も受け容れられやすいのです。
もし財務省が古いビンに紙幣を詰めて、適切な深さの廃炭坑の底に置き、それを都市ゴミで地表まで埋め立て、そして民間企業が実績抜群の自由放任原則に沿ってその札束を掘り返すに任せたら(その採掘権はもちろん、紙幣埋設地の借地権を買ってもらうことになります)、もう失業なんか起こらずにすむし、その波及効果も手伝って、社会の実質所得とその資本的な富も、現状よりずっと高いものになるでしょう。もちろん、住宅とかを建設したりするほうが、理にはかなっています。でもそれが政治的・実務的な困難のために実施できないというのであれば、何もしないよりは紙幣を掘り返させるほうがましです。
この考察と、現実世界の金鉱とは、一分のちがいもないほどに似通っています。黄金が適切な深さで採れる時代には、経験的に見て世界の富は急激に拡大します。そして楽に手に入る黄金が少ないと、富は停滞または衰退します。ですから文明にとって、金鉱は最大の価値と重要性を持っています。ちょうど政治家たちが正当化できると考える大規模な借り入れ支出の唯一の形態が戦争だったのと同様に、金の採掘は銀行家たちが堅実な融資先として受け容れる、穴掘りの唯一の口実だったのです。そしてこのいずれの活動も、進歩においてそれなりの役割を果たしてきました――それよりましなものができなかったから、ではあるのですが。細かい話を一つすると、不況時に黄金の価格が労働や原材料に比べて上昇する傾向は、その後の景気回復に役立ちます。もっと深いところから黄金を掘っても引き合うようになり、収益性のある金鉱石の品質の下限も下がるからです。
もし有用なストックも増やすような形で雇用を増やせないのであれば、黄金の供給が金利に与えそうな影響に加えて、黄金採掘は実に有用な投資形態となっています。理由は二つあります。まず、それがもたらすギャンブルの魅力のおかげで、その時の金利にあまりとらわれずに実行されます。第二に、その成果である黄金のストック増大は、他のものとはちがってその限界効用を減らす効果を持ちません。住宅の価値はその効用で決まるので、家を一軒追加で建てるごとに、その後の住宅建設から得られる見込み賃料は下がり、したがって同時に金利も下がっていない限り、同様の投資に対する魅力も下がっていきます。でも黄金採掘の成果はこの欠点を持っていません。制約条件としては、黄金で測った賃金単位が上昇することだけですが、これは雇用がかなり改善されるまでは、まず起きないでしょう。さらにもっと耐久性のない富の形態の場合とはちがって、利用者費用やその他費用からくる、結果的な逆効果もありません。
古代エジプトには、消費によって人のニーズに応るのではなく、したがって増えすぎて価値を失うこともない果実を生み出す活動が二つありました。貴金属探求に加えて、ピラミッド建設です。そのような活動を二つも持っていた古代エジプトは二重の意味で幸運だったし、その有名な富はまちがいなくその恩恵を被っていたでしょう。中世は大聖堂を建設して葬送歌を歌いました。ピラミッド二つ、死者のためのミサ二件は、それぞれ一つの場合より二倍よいものです。でもロンドンからヨークへの鉄道が二本あっても、二倍よいことにはなりません。ですから私たちは実に賢くて、堅実な支出者に近づこうとして己を教育し、子孫が暮らす家を建てる際にもその子孫たちの後世の「財政」負担について慎重に考慮したりするようになり、そのおかげでいまや失業の苦しみから逃れるための、ピラミッドや大聖堂づくりなどの手段を持ち合わせなくなってしまったのです。私たちがそうした失業を受け容れるしかなくなってしまったのは、個人を「豊かにする」よう見事に計算された方針を、国の行動に適用した不可避の結果なのです。その方針は、個人がいつ行使するともはっきり意図していない、享楽の可能性をため込むためのものなのですから。
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