ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936) 第 IV 巻:投資誘因
(山形浩生 訳
原文:https://bit.ly/nBvezr
投資をしたり資本財を買ったりするとき、その人はその資本財の寿命の間ずっと、それが生み出す産物を販売し、そこからそのための運転費用を差し引くことで得られる一連の収益見込みを買っていることになります。この年間収益 $Q_1, Q_2, ... Q_n$ を、投資の見込み収益と呼びましょう。
投資の見込み収益のもとになるものとして、資本資産 (固定資産) の供給価格があります。これはその種の資産が実際に市場でいくらで買えるか、という市場価格のことではなく、メーカーが新たにその資産を1ユニットだけ追加生産するよう促す価格、つまり時に再調達原価とも呼ばれるものです。固定資産の予想収益とその供給価格または再調達原価との関係、つまりその種の資本1ユニット以上からの予想収益と、そのユニットの製造費用との関係は、その種の資本の限界効率を与えてくれます。もっと厳密に言うと、私の言う資本の限界効率の定義とは、その資本の寿命期間中の収益から得られる一連の年次利益を、その供給価格と等しくするような割引率です(訳注:現在でいう内部収益率、IRRですな)。これで個々の種類の固定資産が持つ限界効率がわかります。こうした限界効率の最大のものが、資本全般の限界効率と見なせます。
ここで定義した資本の限界効率は、その固定資産の収益に対する期待と、当期の供給価格で定義されていることに注意してください。それは新しく製造された資産に投資を行ったときに、得られると期待される収益率に依存しています。その固定資産の寿命が尽きたあとで、その投資が原価に対してどのくらい稼いだかという歴史的な実績には依存していません。
もしある種類の資本に対し、ある時期に投資が増えたら、その種の資本の限界効率は投資の増加につれて減少します。一つにはその種の資本供給が増えると見込み収益は下がるからで、一つには一般に、その種の資本製造設備に需要圧力がかかって、供給価格が上がるからです。この後者の要因のほうが、短期的な均衡に達するときには重要なのが通例ですが、検討している期間が長くなるほど、前者の要因の比重がそれに取って代わるようになります。したがってそれぞれの種類の資本について、限界効率がある値にまて低下するためには、その期間内に投資がどれだけ増える必要があるかを示すような、
さて当然のこととして、当期の実際の投資額は、もはや限界効率が現在の金利を超えるような種類の固定資産が残されていないところまで増えます。言い換えると、投資額は投資需要
次のように表現しても同じことです。 $Q_r$ を、 $r$ 時点における資産の見込み収益だとして、 $d_r$ を当期の金利で $r$ 年先送りにした1ポンドの現在価値だとします。 $\sum Q_rd_r$ はその投資の需要価格です。そして投資は、 $\sum Q_rd_r$ が投資の上で定義した供給価格に等しくなるまで実施されます。もし $\sum Q_rd_r$ が供給価格より低ければ、その資産に対して当期は投資が行われません。
すると投資をうながすには、一部は投資需要
上で定義した資本の限界効率は、この用語の一般的な用法とどう関係するのでしょうか? 限界生産性とか収益とか効率性とか資本効用といった用語は、みんながしょっちゅう使う、おなじみの用語です。でも経済学文献を探しても、そうした用語で経済学者たちが通常は何を意味しているのか、はっきりした記述はなかなか見つかりません。
はっきりさせるべきあいまいさは、少なくとも三つあります。まず、考えているのは資本の物理ユニットを一つ以上雇用することで、ある一定時間に生じる物理的な産物の増加なのでしょうか、それとも資本の価額1ユニット以上を雇用することで、生産の価値がどれだけ増えるか、という話なのでしょうか。前者は、資本の物理ユニットというものの定義がむずかしいし、それは私が思うに、解決不能で不必要だと思います。もちろん、一定面積の畑で働く労働者十人は、何らかの機械を追加で使えればもっと多くの小麦を生産できる、といったことは言えます。でもこれを理解可能な数値比率に還元するには、価値を使う以外の方法を私は知りません。それでも、この点について多くの議論は、もっぱらある意味で資本の物理生産性を考えているように見えます。とはいえその書き手はそれを明言するわけではありませんが。
第2に、資本の限界効率というのが、絶対量なのか比率なのか、という問題があります。この用語が出てくる文脈と、それを金利と同じ次元の数字として扱うという慣習を見ると、比率でなければならないようです。でもそれが何と何の比率なのか、通常は明記されません。
最後に、いまの状況で資本量を追加したときに追加で得られる価値を扱っているのか、それとも追加の固定資産の寿命すべてを通じて期待される収益増分を扱っているのか、という相違点があります。これを無視することで、混乱や誤解のほとんどが生じているのです。つまり、 $Q_1$ だけを扱うのか、 $Q_1, Q_2, ... Q_r …$ という数列すべてを扱うのか、というちがいです。これは経済理論における期待の役割という大きな問題に関わるものです。資本の限界効率に関するほとんどの議論は、この数列の中で $Q_1$ 以外の数字にはまったく目を向けないようです。でもこれはすべての $Q$ が等しくなる静的な理論以外では適切ではありえません。通常の分配理論では資本が現時点でその限界生産性(どんな意味にせよ)を得ていると想定しますが、これは静的な状態でしか意味がありません。資本に対する現在の総収益は、その限界効率とは何ら直接の関係がありません。また生産の限界における現在の収益(つまり産出の供給価格に入ってくる資本収益)はその限界利用者費用であり、これまた限界効率とは近しい関係がまったくありません。
さっきも言いましたが、この問題については驚いたことに、明確な記述がまったくありません。一方で、上で述べた私の定義は、マーシャルがこの用語で言わんとした意味とかなり近いと思っています。マーシャル自身が使っている用語は、生産要素の「限界純効率性」、あるいは「資本の限界効用」です。以下は、マーシャル『経済学原理』で私が見つけられた、いちばん関係ありそうな部分(第六版pp.519-520) のまとめですが、その主張の要点を伝えるべく、いくつか連続していない文章をつなげています。
「ある工場では、追加で百ポンドの機械を導入して他に何ら費用をかけず、その機械自身の摩耗を差し引いたあとで、純産出を年3ポンド分追加できるものとする。もし資本の投資家が、高い収益をもたらすと思われる職業すべてに資本を押し込むとすれば、そしてそれが実行されて均衡点が見つかったあとでも、ぎりぎりこの機械を利用するだけの収益があるとすれば、その事実から年間金利は3パーセントだと推定できる。しかしこうした例示は単に、価値というものを律する大きな要因の活動の一部を示すに過ぎない。それを利子の理論にしようとすれば循環論法に陥ってしまう。これは賃金の理論にすることができないのと同じである。(中略)金利が、完全に安全なものについて年 3 パーセントだとしよう。そして帽子製造業が、100 万ポンドの資本を吸収するとする。これは帽子製造業が、その 100 万ポンドをまったく使わないよりは、その資本全額をとてもよい目的に使って、その利用のために 3 パーセントを支払えるということを意味する。金利が 20 パーセントなら帽子製造業が絶対に使わなかった機械があるかもしれない。もし金利が年 10 パーセントなら、使われる機械は増える。6 パーセントなら、もっと増える。4 パーセントなら、もっと増える。そして最後に金利が 3 三パーセントなら、もっとたくさん使うであろう。それだけの量を持っているとき、その機械の限界効用、つまり彼らが利用する価値があると考える機会の効用は、3 パーセントと計測されるのである」
ここで明らかにわかるのは、実際の金利水準をこの論法で決めようとしたら循環論法に陥るということを、マーシャルがしっかり認識していたということです2。この一節で、彼は上で述べた見方を受け入れているようです。つまり金利は、資本の限界効率の
アーヴィング・フィッシャー教授は『利子論』(1930) で、「費用に対する収益率」というものの定義を挙げています。これは「資本の限界効率」とは呼ばれていませんが、定義は私のものとまったく同じです。曰く「費用に対する収益率とは、あらゆる費用の現在価値と、あらゆる収益の現在価値を計算するために使用すると、両者が同じになるものである」3。フィッシャー教授は、どちらの方向でも投資の規模は、この費用に対する収益率と金利との比較に依存するのだ、と説明しています。新規投資をうながすには「費用に対する収益率は金利を上回らなくてはならない」4。「当研究におけるこの新しい量(または要因)は、金利理論の投資機会側において中心的な役割を果たすのである」5。つまりフィッシャー教授は「費用に対する収益率」というのを、私の「資本の限界効率」の使い方と同じ意味でずばり同じ目的のために使っているわけです。
資本の限界効率の意味と重要性について、最も重大な混乱はそれが単に当期の収益に依存する数字ではなく、資本の見込み収益に依存するのだ、ということを理解できないことから生じています。これを最もよく示すには、生産の見込み費用変化の期待が、資本の限界効率に与える影響を指摘するのがよいでしょう。その変化が労働費用(つまり賃金単位)の変化からくると予想されているのか、あるいは発明や新技術によると予想されているのかは関係ありません。今日生産された設備からの製品は、その設備の寿命の間ずっと、その後生産された設備からの製品と競争しなくてはなりません。新しい設備からの製品は、労働費も低いかもしれず、技術も改善しているかもしれず、するとその製品の価格は下がり、生産量はその産出の価格が適切な低い水準に下がるまで増えます。さらに、あらゆる製品がもっと安く生産されるようになれば、新旧の設備から得られる事業家の利潤(名目値)も下がります。そうした発展があり得るものとして予想されているなら、あるいは考えられなくもないと思われているだけでも、今日作られた資本の限界効率は、その分だけ下がります。
お金の価値変動の期待が、当期の産出の量を左右するのはこの要因を通じてのことです。お金の価値が下がると予想されたら、投資は刺激され、したがって雇用も全般に刺激されます。なぜならそれは、資本の限界効率
これこそ、アーヴィング・フィッシャー教授が当初「価値増大と金利」と呼んだ理論の根底にある真実です——つまり名目金利と実質金利のちがいで、前者はお金の価値変化を補正すると後者になります。この理論を額面通りに理解するのがむずかしいのは、お金の価値変化というのが事前に予想されたものと想定されているのかどうか、はっきりしないからです。それが予想されていないなら、現在のできごとには何も影響しないでしょう。一方、予想されていれば、既存の財の価格はそれに応じて調整され、お金を保有したり財を保有したりするメリットは、またもや均等化されてしまい、お金を保有している人は、融資期間中に予想される貸したお金の価値変化を相殺するような、金利変化によって儲けたり泣いたりするには手遅れとなってしまいます。このジレンマからは逃れようがありません。実際、ピグー教授はお金の価値の予想変化が一部の人たちには予見され、別の人々には予見されないと想定しましたが、それでもこのジレンマからはうまく逃れられていないのです。
まちがいがどこにあるかというと、将来のお金の価値変化が直接作用する先が、ある資本ストックの限界効率ではなく、金利だと想定することです。既存資産の価格は常に、予想されるお金の価値に関する期待変化に応じて調整されます。そうした期待の変化が持つ意義は、資本の限界効率に対する作用を通じて、新規の資産を生産しやすくする効果にあるのです。高価格期待が持つ刺激効果は、それが金利を引き上げるために生じるのではなく(これは産出を刺激する方法としてはパラドックスじみています——金利があがれば、その分だけ刺激効果は相殺されてしまいます)、ある資本ストックの限界効率を上げるために生じるのです。もし金利が資本の限界効率と並行して上昇したら、価格上昇の期待からくる刺激効果はなくなります。なぜなら産出への刺激は、ある資本ストックの限界効率が、金利との比較で上昇することにより生じるからです。実際、フィッシャー教授の理論は「実質金利」に基づいて書き直すのほうがよいでしょう。実質金利とは、お金の将来価値に関する期待状態の変化を考慮した金利です。そうすればこの変化は、当期の産出に何ら影響を及ぼさなくなるのです6。
金利が将来下落するという期待は、資本の限界効率
ある資本ストックの限界効率性が、期待の変化に左右されるのだということを理解するのは重要です。というのも、資本の限界効率がいささか激しい変動に見舞われるのは、まさにこのせいだからです。そしてこれが交易サイクル(訳注:景気循環)の説明となります。第22章では、好況と不況の交替が、資本の限界効率と金利との相対関係によって記述分析できることを示します。
投資の量を決める二種類のリスクがあります。これらは通常あまり区別されてきませんでしたが、でも区別するのは重要です。第一のものは事業者または借り手のリスクであり、自分の望む見込み収益を本当に稼げるかどうかについて、内心で事業者が感じる疑念から生じます。もしその人が自分のお金を投資しているだけなら、関係するのはこのリスクだけです。
でも貸し借りのシステムが存在する場合、つまり実物または個人的な保証をつけて融資を行う仕組みでは、第2の種類のリスクが関連してきます。これを貸し手のリスクと呼びましょう。これはモラルハザード、つまり意図的なデフォルトなど、返済義務を逃れる、合法非合法を含む手段のせいもあるでしょうし、保証の幅が不十分な場合、つまり期待が満たされないことからくる非自発的なデフォルトもあるでしょう。さらに第3のリスク源を追加してもいいかもしれません、つまり金融基準の価値が悪い方に変化して、これにより金銭融資が実物資産よりも安全性の低いものになる、という可能性です。でもこのすべてかほとんどは、すでに耐久実物資産の価格に反映されているはずで、したがって吸収されているはずです。
さて第一種のリスクはある意味で、本当の社会的なコストです。ただしこれは、平均化すれば減るものですし、また予測の精度が増せば減ります。でも第二のものは、投資費用に純粋に追加されたもので、貸し手と借り手が同一人物なら存在しなかったものです。さらに、それは部分的に事業者のリスクの一部を繰り返しており、その分はその投資を引き起こす、最低の予想収益を与える純粋金利に二重に計上されているのです。その事業が高リスクなら、借り手は期待収益と、借りる価値があると考える金利との間にもっと大きなマージンを要求します。一方同じ理由で、貸し手もまた自分が課す金利と、その人に融資をうながす純粋金利との間に大きなマージンを要求します(借り手が強力でお金持ちであるために、異様な保証マージンを提供できる場合は別ですが)。きわめて有利な結果が得られるかもしれないという希望は、借り手にとってはリスクを相殺してくれるものですが、貸し手の安心材料として提供されることはないのです。
このリスクの一部についての二重計上は、私の知る限りではこれまでは強調されてきませんでした。でも一部の場合には、これが重要になるかもしれません。好況期には、こうしたリスク双方の規模に関する一般の推計、つまり借り手のリスクと貸し手のリスクの両方は、異様かつ堅実さを欠くほどに低くなりがちです。
資本の限界効率
今日の経済理論の根底に、静的な状態の想定がしばしば置かれているという事実のために、経済理論には大量の非現実性という要素が持ち込まれています。でも利用者費用と資本の限界効率性という概念を導入することで、それを必要最小限の改変だけで現実に引き戻す効果があると思うのです。
経済の未来が現在と結びついているのは、耐久設備が存在しているという理由のおかげです。したがって、将来の期待が耐久設備の需要価格を通じて現在に影響するというのは、私たちの思考原理全般と矛盾しませんし、それを支持するものとなっているのです。
<-- 10 章 目次 12 章 -->
YAMAGATA Hiroo日本語トップ