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ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936) 第 IV 巻:投資誘因

第 13 章 金利の一般理論

(山形浩生
原文:https://bit.ly/poKG6N

セクション I

 第11章で、投資を上下に動かして資本の限界効率が金利に等しくなるようにする力がいくつかあるものの、資本の限界効率自体は、その時の金利とは別物なんだ、ということを示しました。資本の限界効率(スケジュール)は、融資可能な資金が新規投資のために要求される条件を律する、と言っていいかもしれません。一方、金利は資金が目下供給される条件を律するものです。ですから私たちの理論を完成させるには、金利が何で決まるのかを知る必要があります。

 第14章とそのおまけで、この問題について過去に提出されてきた答を検討します。ざっと言うと、過去の論者たちは、金利というのが資本の限界効率{表} {スケジュール}と、心理的な貯蓄性向との相互作用に依存するのだと主張していることがわかります。でも、ある金利で実施される新規投資という形の貯蓄需要と、社会の貯蓄性向によりその金利がもたらす、貯蓄の供給とを等しくするのが金利なのだ、という発想は、この二つの要因を知っているだけでは金利を導出できないことがわかると、崩壊します。

 では、この問題に対する私たち自身の答は何なのでしょうか?

セクション II

 ある個人の心理的な時間選好は、完全に機能するには二つのちがった決定を必要とします。第1のものは、消費性向と名付けた時間選好の側面です。これは第三巻で述べた各種の動機に影響されて作用し、所得のうちどれだけを消費して、どれだけを将来の消費に役立てるべく何らかの形で保存しておくのか、というのをそれぞれの個人について決めます。

 でもその決断を下したら、その人を待ち受ける決断がさらにあります。将来消費に役立てるための保存分(これは当期の所得から保存する分もあるし、以前の貯蓄からのものもあります)を、どんな形で保有するか、という決断です。それをすぐ使える流動的な状態(つまり現金かそれにあたるもの)で手元に持ちたいか? それともすぐ使えなくてもよくて、定期不定期をとわずある程度の期間は手元から離してもいいだろうか? その場合、将来消費用の個別財に対する支配を、すぐに使えるあらゆる財に対する支配に切り替える条件は、将来の市場条件に任されることになります。言い換えるとこれは、その人の流動性選好はどのくらいか、ということです。ある人の流動性選好というのは、お金や賃金単位で計測したリソースのうち、条件ごとにどれだけの量をお金として手元に置きたいか、という関係(スケジュール)で与えられるものとなります。

 これまで受け入れられてきた金利理論は、この心理的な時間選好の構成要素のうち、最初のものから金利を導こうとして、二番目のものを無視していたのがまちがいだった、とこれから示します。そして私たちが改めなくてはならないのは、この無視なのです。

 金利というのが、貯蓄に対する収益や、待つことに対する収益だけではあり得ないことは、もう明らかなはずです。自分の貯蓄を現金として抱え込めば、金利はつきませんが、貯蓄額は変わりません。これに対して、金利の定義自体を見れば、それが一定期間だけ流動性を手放す報酬なのだ、とことばを尽くして書かれています。金利というのはそれ自体では、お金の総計と、そのお金と負債1を一定期間だけ2交換することにより、コントロールを手放すことで得られるものとの比率以外の何ものでもないのです。

 ですからいつの時点でも、金利というのは流動性を手放す報酬なのであり、お金を持っている人が、それに対する流動的な支配力の放棄をどれほどいやがるか、という指標なのです。金利というのは、投資するリソースの需要と、現在の消費を控える意欲とを均衡させる「価格」ではありません。それは、現金の形で富を保有したいという願望と、実際にある現金の量とを均衡させる「価格」なのです——つまり金利が下がれば、すなわち現金を手放す報酬が減れば、人々が持ちたいと思う現金の総量は、世の中の現金供給を上回り、そして金利が上がれば、だれも保有したがらない現金の余りが出る、ということになります。この説明が正しければ、ある状況で実際の金利を決めるのは、流動性選好とともに、お金の量だということになります。流動性選好は可能性または機能的な傾向で、金利が与えられているときに、人々が保有するお金の量を決めます。ですから金利が $r$ でお金の量が $M$ 、流動性選好関数が $L$ なら、 $M = L(r)$ となります。こんな具合に、ここで初めてお金の量が経済の仕組みに入ってくるのです。

 でもここでちょっと立ち戻り、なぜ流動性選好なんてものがあるのかを考えましょう。これとの関連で、お金というのが現在の事業取引のために使われる場合と、富の蓄積装置として使われる場合とがあるという、昔ながらの区別が便利に使えます。 この二つの用途のうち最初のものはといえば、ある程度までは多少の利息は犠牲にしても、流動性の便利さを手にする価値があるのは明らかでしょう。でも金利は決してマイナスにはならないのに、どうして一部の人々は富を利子のつく形では持たず、ほとんどあるいはまったく利息のつかない形で持ちたがるのでしょうか?(むろんこの段階では、銀行口座と債券とのデフォルトリスクは同じだと仮定します。)完全な説明は複雑なので、15章までお待ちください。でもある必要条件がないと、富の保有手段としてお金を持ちたがる流動性選好は、存在できないのです。

 その必要条件とは、将来金利についての不確実性があることです。つまり将来の時点で、いろいろな満期期間についての金利の束がどうなるかはっきりしない、ということです。もし将来の全時点での金利が確実にわかっていれば、各種期間の負債すべてについて、あらゆる将来の金利は現在の金利から導出できます。それはわかっている将来金利にあわせて調整されるからです。たとえば $_1d_r$ というのが、現時点である1年目に1ポンドだった価値を、 $r$ 年先送りにした価値だとしましょう。そして $_nd_r$ は、 $n$ 年目に1ポンドだった価値が、 $r$ 年先送りにされたときの価値だとします。すると以下の通り。

  $$_nd_r = _1d_{n+r} / _1d_n$$

 したがって、 $n$ 年後に何らかの負債を現金化できる率は、現在の各種金利のうち二つを見ればわかることになります。もし現在の金利があらゆる満期期間の不参についてプラスの値なら、富の着く関としては、常に現金を持つよりは負債を買った方が有利になります。

 逆に、将来の金利がはっきりしないなら、その将来時点で $_nd_r$$_1d_{n+r}/ _1d_n$ と等しくなるとは確信できません。ですから流動的な現金の必要性が、 $n$ 年目の期末までに生じることが考えられるなら、長期負債を買って、その後それを現金化するのは、ずっと現金で持っているのに比べて損失が発生するリスクがあります。いまわかっている確率に沿って計算した、確率的な利潤や数学的な期待利益——そんなものが計算できるかは怪しいものですが——は、予想がはずれるリスクを補うに足りるものでなくてはなりません。

 さらに、もし負債を取引する組織的市場があるなら、さらなる流動性選好の根拠としては、将来金利について不確実性があるために生じるものがあります。人によってその見通しの推計はちがいます。ですから市場価格に表現された優勢な見解とはちがった意見を持っている人は、自分が正しければ、いずれ $_1d_r$ が相互にまちがった関係にあることが判明するので、そこから利益を得るために流動的なリソースを保つに十分な理由があるかもしれません3

 これは資本の限界効率との関連で詳しく論じたものと、とてもよく似ています。資本の限界効率は「最高の」意見で決まるのではなく、大衆心理による市場の値づけで決まるのだ、と示しましたが、それと同じように、大衆心理によって決まる将来金利についての期待は、流動性選好に影響するのです——でもそれに加えて、将来金利が市場の想定より高くなると信じる個人は、実際の流動的な現金を保有する理由ができます4。一方で、市場想定金利について逆方向の見解を持っている人は、短期の資金を借りて、長期の負債を買う動機ができます。市場価格は、「弱気派」の売却と、「強気派」の購入が釣り合うところで決まります。

 ここまでで区別してきた流動性選好の三つの分類は、以下に依存するものとして定義できます。 (i) 取引動機、つまり個人的、事業上の交換のために現在の取引で必要となる現金ニーズ、 (ii) 用心動機、つまり総リソースの一定割合を将来も現金で持ちたいという安心の欲求、 (iii) 投機動機、つまり未来がどうなるかについて、市場よりもよく知っていることから利益を確保することを狙ったもの。資本の限界効率の議論と同様に、負債取引のためにきわめて組織化された市場を持つのが望ましいかどうかという問題が、ここでもジレンマをつきつけます。組織化された市場がないと、用心動機からくる流動性選好が大幅に増えます。でも組織化された市場があると、投機動機からくる流動性選好の大きな変動が生じる可能性があるのです。

 議論を明らかにするために指摘しておきましょう。取引動機と用心動機による流動性選好が、それ自体としては金利変化にあまり敏感でない現金の量を吸収すると考えます。するとお金の総量からその分のお金を引いたものが、所得変動に対する反応とは別に、投機動機を満たすために使える現金の量として残ります。その場合、金利や債券価格は、一部の個人が現金を持ちたがる欲望(その人たちはその水準だと債券の将来価格について「弱気」なのです)が、投機動機のために提供されている現金の量とずばり同じになるような水準で決まります。ですから、お金の量が増えるたびに、債券価格は上がって、一部の「強気」派の期待を上回り、その人が「弱気」軍団に加わるように仕向けます。でも、短期のつなぎ期間以外の現金需要がほとんどなければ、お金の量が増えたら金利は一瞬で下がるしかなく、その下げ幅は雇用と賃金単位を引き上げて、追加の現金が取引動機と用心動機で吸収されるのに必要な水準となります。

 基本的には、お金の量と金利とを関連づける流動性選好の関係表(スケジュール)は、お金の量が増えると金利が下がることを示すなめらかな曲線になるものと想定できます。なぜかというと、この結果につながるいくつかのちがった原因があるからです。

 まず、金利が下がると、他の条件が同じなら、取引動機によって流動性選好で吸収されるお金はたぶん増えます。金利が下がって国民所得が増えると、取引用に持っておくのが便利なお金の量は、だいたい所得と比例して増えるからです。一方で同時に、手元現金がたくさんあるという便利さの費用は、金利収入喪失で示されますが、これは減ります。流動性選好を名目金額でなく賃金単位で測るのでない限り(一部のケースだとこれは便利です)、金利低下に続いて起こる雇用増が賃金増大につながる、つまり賃金単位の額面が増える場合にも、同じ結果が起こります。第二に、金利が下がるたびに、いま見た通り、一部の個人は手元に置きたいと考える現金を増やします。その人たちの将来金利見通しは、市場の見通しとはちがうからです。

それでも、お金の量を大幅に増やしても、金利には比較的小さな影響しか出ないような状況が生じることもあります。お金の量を大幅に増やすと、将来についてあまりに不確実性が大きくなりすぎて、用心動機からくる流動性選好が強化されてしまうのです。一方、金利の未来についての見方があまりに全員一致状態なら、現在の金利がちょっと変わっただけで、みんなが一斉に現金に飛びつくかもしれません。おもしろいことですが、システムの安定性と、そのお金の量の変化に対する感度の安定性は、何が不確実かという見解がいろいろあることにかかっているのです。いちばんいいのは、みんなが未来を知っていることです。でもそれが無理なら、お金の量を変えることで経済システムの活動をコントロールしたいのであれば、人によってちがった意見があることが重要なのです。ですからこのコントロール手法は、意見の相違が日常茶飯のイギリスに比べ、全員が同時に同じ見解を持ちやすいアメリカではあてにならないのです。

セクション III

 これで初めて、因果関係のつながりにお金が導入されました。そしてお金の量の変化が、経済システムにどんな形で入り込んでくるのか、初めて垣間見ることができました。でも、お金というのが経済システムの活動を刺激するドリンクなのだと考えたい誘惑にかられたら、そのコップと唇との間にもいくつか邪魔が入るかもしれないことはお忘れなく。 というのも、お金の量が増えれば、他の条件さえ同じなら金利は下がるかも知れませんが、お金の量の増加よりも、人々の流動性選好のほうが急上昇している場合には、そうはなりません。そして金利低下は他の条件さえ同じなら、投資の量を増やすものと期待されますが、資本の限界効率表が金利より急速に低下している場合には、そうなりません。そして投資量を増やせば、他の条件が同じなら雇用が増えると予想されますが、消費性向が低下していたら、そうはなりません。最後に、雇用が増えたら、部分的には物理供給関数の形に左右され、部分的には賃金単位の名目値の上昇しやすさに左右される形で、物価も上がります。さらに産出が増えて物価が上がれば、これが流動性選好に与える影響は、一定の金利を保つのに必要なお金の量を増やすことになります。

セクション IV

 投機動機による流動性選好が、拙著『貨幣論』で「弱気状態」と呼んだものに対応しているのは事実ですが、この両者は決して同じものではありません。というのもあの本での「弱気性」というのは、金利(または負債価格)とお金の量の関数関係ではなく、資産と負債をあわせた価格と、お金の量との関係として定義されていたからです。でもこの処理は、金利変動による結果と、資本の限界効率関係(スケジュール)の変化による結果とで混乱が生じてしまいました。そうした混乱は、本書では避けられたものと期待したいところです。

セクション V

 抱え込みという概念は、流動性選好という概念の一次近似と考えていいでしょう。もし「抱え込み」の代わりに「抱え込む傾向」と言えば、それは本質的に同じことになります。でも「抱え込み」というのが実際の現金保有増加ということなら、それはアイデアとしては不完全です——そしてそのために「抱え込む」と「抱え込まない」が単純な代替選択しだと思ってしまうなら、それは深刻な誤解です。なぜなら、抱え込むという決断は、単独で行われるものではないし、流動性を手放すメリットを考慮せずに行われるものでもないからです——それは各種メリットを天秤にかけた結果で、したがって天秤の向こう側に何が載っているかを知る必要があります。さらに「抱え込み」が実際の現金保有を意味するなら、世間の人々の決断だけで抱え込みの量が変わることはできなくなります。というのも、抱え込まれた現金量は、お金の量(あるいは——一部の定義だと——お金の量から、取引動機を満たす現金量を差し引いたもの)と等しくなければいけません。そしてお金の量は、世間の人々が決めるものではないからです。世間の抱え込み性向が実現できるのは、総抱え込み願望が総現金量と一致するような金利水準を決めることだけです。 金利と抱え込みとの関係を見すごす傾向があるために、これまで金利は消費しない報酬と思われていたのかもしれません。でも実際には、それは抱え込まないことに対する報酬なのです。


  1. この定義を乱すことなく、「お金」と「負債」の一線は、個別問題を解くのにいちばん便利なところに勝手にひけばいいのです。たとえば、お金というのは一般購買力に対する支配力のうち、その所有者が三ヶ月以上は手放していないもの、という扱いは可能です。そして負債とは、それ以上たたないと回収できないものとすればよいのです。あるいは今の「三ヶ月」を一ヶ月にしても、三日にしても、三時間にしても、その他どんな期間でもかまいません。あるいはお金から、法定通貨でないものをすべて排除することもできます。実際には、お金に銀行の定期預金を含めると便利ですし、ときには短期国債(Tビル)のような証券を含めることさえできます。私は基本的に拙著『貨幣論』でやったように、お金というのは銀行預金を含めるものとしています。

  2. 負債の期間が明示されている個別問題ではなく、一般の議論であれば、金利というのは各種期間についての様々な金利の複合物、つまり様々な満期の負債に対する利子だと考えるのが便利です。

  3. これは拙著『貨幣論』で、二つの見方と「強気-弱気」ポジションという表題の下に論じたのと同じ論点です。

  4. 同様に、投資の期待収益が市場の期待よりも低くなると信じている個人は、流動的な元気を持つ理由が十分にあると思われるかもしれません。でもそうはなりません。株式に比べて現金や負債を持つ理由は確かにあります。でも、現金を持つよりは負債を買うほうが有利な選択となります。ただしその人が、将来金利水準が市場の想定より高くなるはずだと同時に信じている場合は別ですが。

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2011.12.26 YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)


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