ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936) 第 IV 巻:投資誘因
(山形浩生 訳
原文:https://bit.ly/pdQQzy
マーシャル、エッジワース、ピグー教授の著作には、金利のまとまった議論はありません――ぱらぱらと散発的に触れられているだけです。すでに引用した一節(p. {marshalinterest}) を除くと、金利に対するマーシャルの立場のヒントとして唯一重要なものは、『経済学原理』 (第6版), VI巻 p. 534 と p. 593に見られるものしかありません。その要点は以下の引用でわかります:
「利子は、ある市場において資本の使用に支払われる価格であるが故に、その利子率においてその市場における資本の総需要が、その率で提供される総ストックと等しくせしむる均衡へと傾くのである1。もしも目下検討中の市場が小さいものであるなら――たとえば一つの町、あるいは進歩的な国における一つの産業――そこで資本需要が増えれば、すぐに周辺の地区や産業からの増加したる供給によって迎えられるであろう。しかるに資本の一つの市場として全世界を考えるのであれば、あるいは大きな国の全体を考えるのであっても、金利の変化によってその総供給が、急速かつ広範に変わると考えることはできない。というのも、資本の一般資金は労働の産物と待つことである。そして金利上昇がインセンティブとなる追加の仕事2と追加の待ちは、結果として既存の資本ストックを生み出したその労働と待ちに比べると、すぐには大したものにならないのである。一般に資本需要が大幅に増えれば、したがって一時的には供給増ではなく、金利上昇で迎えられる3。これにより資本は、限界効用が最低の用途から順に、己自身を引き上げることとなる。金利による総資本ストック増大は、ゆっくりと徐々に行われるしかないのである」 (p. 534).
「『金利』という用語は、古い資本投資についてはきわめて限られた意味合いでしか適用できぬのであるということは、強調してもしすぎることはない4。たとえば、我が国のちがった産業は、金利 3 パーセントほどで 70 億ほどが産業資本に投資されていると推計できるであろう。だがこうした物言いは、多くの目的のために便利であり正当化できはしても、正確ではない。本当に言うべきなのは、それぞれの産業において新規資本への投資 [つまり限界的な投資です] に対する純金利を 1 パーセントとするとこうした各種産業に投資された産業資本全体から得られる総純所得はその資本を 33 年分の購入で資本化するなら(すなわち金利 3 パーセントとすると)およそ 70 億ポンドになる、ということである。というのもすでに土地改良や建物建設や鉄道や機械製造に投資された資本の価値は、その推定将来純所得 [あるいは疑似賃料] の総割引価値だからである。そしてもしその見込み収益獲得能力が現象するなら、その価値もそれに伴い減少し、その減少して小さくなった所得を資本化した価値となるのである」 (p. 593).
『厚生の経済学』 (3版), p. 163で、ピグー教授はこう書きます。「『待つ』というサービスの性質は大いに誤解されてきた。ときにはそれは金銭の提供だと想定され、時には時間の提供だと想定され、どちらの場合にも、それにより配当には一切の貢献がなされないと論じられてきた。どちらの想定も正しくない。『待つ』というのは単に、即座に享受できる消費を先送りして、それにより破壊されたかもしれないリソースが、生産道具の形を取ることを可能にするものなのである5。 (中略) したがって『待つこと』の単位は、一定量のリソース——たとえば労働や機械——の一定期間の利用なのである6。(中略)もっと一般的に言うと、待つことの単位は年あたり価値単位、あるいはもっと単純だが精度の劣るカッセル博士の言い方では、年ポンドである。(中略)ある年に蓄積された資本量が、必然的にその年の「貯蓄」量に等しくなるという一般的な見方に対しては、注意を加えておくべきかもしれない。これはその貯蓄というのを純貯蓄の意味だと解釈して、ある人の貯蓄で他の人の消費を増すべく他人に課されたものを差し引き、サービスに供されず銀行のお金という形で一時的に貯まる未使用価額を無視した場合でも同様である。というのも多くの貯蓄で資本になるべく意図されたものは、行き先を誤って無駄な用途にまわされ、その目的を果たせないからである」7
ピグー教授による、金利がどう決まるかについての唯一のまともな言及は、『産業変動』(初版)pp.251-3 に見られるものだと思います。ここで彼は、金利というのが実質資本の需給の一般条件で決まるのだから、中央銀行だろうとどんな銀行だろうとコントロールできないものなのだ、という見方に反駁します。この見方に対してピグー教授が論じるのは以下の通りです。「銀行家たちが事業者たちに対し、もっと多くの信用創造をすると、第i部の第xiii章に述べた説明を条件として8、彼らは自分たちの利益のために、世間からの実物に対し強制課税を行い、これにより自分たちに供される実質資本の流れを増して、長期短期問わずあらゆる融資の実質金利の低下を引き起こす。一言で、銀行の金銭に対する率は、長期融資では実質金利と機械的な縛りによって結びついている。でもこの実質金利が銀行家のコントロールから完全に外れた条件により決まる、というのは事実ではない」
上について私の並行したコメントは脚注に入れました。この件に関するマーシャルの説明で私が困惑するのは、たぶん貨幣経済に属する「金利」という概念を、お金について何の考慮もしていない論考に組み込もうとしているところに根本的な原因があるのだ、と私は思います。マーシャル『経済学原理』には、実は「金利」など出る幕はないのです——それは経済学の別の方向に属するものです。ピグー教授は、他の暗黙の想定とあわせて(『厚生の経済学』では)待つことの単位が、当期投資の単位と同じで、待つことの報酬は純賃料だと匂わせ、実質的にほとんど金利の話をしません——これはそうあるべきです。それでも、こうした論者は非貨幣経済を扱っているのではありません(そんなものがあればですが)。実にはっきりと、お金が使われていると想定し、銀行システムがあるとも想定しています。さらに金利はピグーの『産業変動』(これは主に資本の限界効率変動の研究です)でも『失業の理論』(これは主に非自発失業がないと想定したときに、雇用量の変化を決めるのは何かという研究です)では、『厚生の経済学』での役割以上のものはほとんど果たしません。
以下の『政治経済学原理』 (p.511) からの引用は、リカードの金利理論の要点をとらえています。
金利は銀行が貸す金利(それが5%、3%、2%だろうと)では左右されず、資本の雇用によって得られる利益率によって左右される。そしてこれは追い金の量や価値とはまったく独立である。銀行が数千万貸そうと数億貸そうと、それは市場金利を永続的に変えることはない。その後発行したお金の価値を変えるだけである。ある例では、同じ事業を実行するのに、別のもので必要な金額の十倍、二十倍ものお金が必要かもしれない。お金を求めて銀行に融資申し込みをするのは、そのお金を使うことで得られる利潤の率と、銀行が融資したがる率との比較に依存する。もし市場金利より低い利率を銀行が課せば、かれらは幾らでも貸せることになる——その率より高い率を課せば、それを借りようとするのは浪費家や放蕩者だけとなろう」
実に明快で、後の論者たちの著作よりも出発点としてはよいものです。後の論者たちは、リカード派の教義の本質からは実は決別していないのに、そこに居心地の悪さを感じて、話をぼかして逃げを打っているのです。上の引用は、リカードの常として、長期の見解として解釈すべきものであり、引用部分の真ん中あたりにある「永続的に」ということばが強調されるべきです。そしてこれを裏付けるために必要な想定を考えてみると、おもしろいことになります。
ここでも必要とされる想定はいつもの古典派の想定で、常に完全雇用があるというものです。ですから、製品に対して労働の供給曲線はまったく変わらないと想定され、長期均衡にはたった一つしか可能な雇用水準がありません。この想定と、あとはいつもの「他の条件がすべて一定」というやつで、つまり心理的性向や期待はお金の量の変化に伴うもの以外はないとすれば、リカードの理論は成り立ちます。ただし、こういう想定をしたら、長期では完全雇用と一貫性を持つ金利水準は一つしかないという意味においてです。リカードとその後継者たちは、長期でさえ雇用量は必ずしも完全雇用ではなく変動し、そしてあらゆる銀行方針に対して長期雇用の水準はそれぞれちがってくる、という事実を見すごしています。ですから、金融当局側として考えられる各種の金利政策に対応して、長期均衡のポジションはたくさんあるのです。
もしリカードが、この議論を単に、金融当局の作り出す一定のお金の量に適用されるものにすぎないとして提示したのだとしても、これは名目賃金が柔軟だと想定すればやはり正しいことになります。つまりリカードが、金融当局によってお金の量が一千万に固定されようと一億に固定されようと金利には永続的な変化はないと論じたなら、その結論は成り立つという意味です。でも金融当局の方針といったとき、それがお金の量を増減させる条件の話をしているなら、つまりそれが、割引の量を変えたり公開市場操作などを通じて、自分の資産を増減させたら——これはリカードが上の引用ではっきり言っていることです——金融当局の政策が無価値だとか、長期均衡と合致する政策が一つしかないというのは、いずれも成り立ちません。ただし、非自発失業において、失業者同士の無意味な競争を通じて名目賃金が無制限に下がると想定される極端なケースでなら、確かに、長期的なポジションは二つしかあり得ません——完全雇用と、流動性選好が最大になる金利水準に対応する雇用(これが完全雇用より低ければですが)です。柔軟な名目賃金を想定すれば、お金の量は、確かに長期では無意味です。でも金融当局がお金の量を変える条件は、経済の仕組みの中で、本物の決定要因として入り込んできます。
上の引用で、最後の一文を見ると、リカードは投資額に応じた資本の限界効率変化の可能性を見すごしていたようだ、と付け加えておきましょう。でもこれまた、後継者に比べてリカードが内的一貫性の面で勝っていたという別の例だと解釈できます。というのも、雇用の量と、社会の心理的性向は所与とすれば、資本蓄積速度としては一つしかあり得ず、結果として資本の限界効率の値は確かに一つしかあり得ないのです。リカードは見事な知的成果を与えてくれました。これは心の軟弱な者には達成できないものであり、経験からはかけ離れた仮想的な世界を採用して、それが経験世界であるかのようにふるまい、そしてその中に一貫性をもって暮らして見せたのです。その後継者のほとんどだと、どうしても常識が割り込んできてしまいます——そしてその論理的な一貫性が台無しになるのです。
金利について奇妙な理論が、フォン・ミーゼス教授によって提唱され、彼からハイエク教授と、たぶんロビンズ教授にも受け継がれています。つまり、金利の変化は、消費財と資本財の相対価格変化と同じだと見なせる、というものです9。どうしてこんな結論が出てきたのかははっきりしません。でも理屈はこんな感じです。いささか大胆な単純化によって、資本の限界効率は、新しい消費財の供給価格が、新しい生産者財の供給価格に対して持つ比率で計測できるとされます10。そしてこの比率が、こんどは金利と同じだとされるのです。この理屈から出てくる事実として指摘しておきたいのは、金利が下がると投資に有利になる、ということです。よって、消費財価格の生産者財価格に対する比率が下がるのは、投資にとってよい、というわけです。
これはつまり、個人による貯蓄増大と、増えた総投資との間に結びつきができている、ということです。というのも個人の貯蓄が増えれば消費財の価格が下がり、そしておそらくは生産者財の価格はもっと下がるというのは共通認識だからで、したがって上の理屈によれば、投資を刺激する金利の低下を意味するからです。でももちろん、ある資本的資産の限界効率を引き下げ、それにより資本全般の限界効率
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