ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936) 第 IV 巻:投資誘因
(山形浩生 訳
原文:https://bit.ly/pdhJ85
すると、お金に対する利率は、雇用水準に限界を設けるにあたり、奇妙な役割を果たすようです。というのもそれは、資本的資産が新設される場合に実現しなければならない、限界効率性の基準を設定してしまうからです。そんなことが起こるというのは、パッと見には、とても変な話に思えます。他の資産に比べてお金の特殊性がどこにあるのか、利率を持つのはお金だけなのか、非貨幣経済では何が起こるのかについて考えてみるのは自然なことでしょう。こうした問題に応えない限り、私たちの理論が持つ意義の全貌は明らかになりません。
金利、お金につく利子の率というのは——改めて申し上げますが——たとえば一年後の先物提供契約した金額が、その契約のために支払われたお金の現金価格、またはスポット価格とでも言うべきものに比べて、どれだけ多いかを比率で示したものでしかありません。だから、どんな資本的資産についても、金利に相当するようなものが あるうように思えます。たとえば、一年後に提供される小麦のある絶対量は、今日の「スポット」物の小麦100クォーターと同じ交換価値を持つからです。もし前者の量が 105 クォーターならば、小麦の利率は年 5 パーセントだと言えましょう。それが 95 クォーターなら、マイナス5 パーセントです。ですからあらゆる耐久商品について、それ自身で測った利率が得られます——小麦の利率、銅の利率、家屋利率、鉄鋼工場利率なんてものさえも。
小麦などの商品の「先物」と「スポット」契約の価格差は、市場で公表されており、小麦の利率とは直接的に関連していますが、先物契約は先物提供の金額で表記されており、スポット物の小麦量では表示されていませんので、金利が持ち込まれています。厳密な関係は以下の通りです。
仮に、小麦のスポット価格が 100 クォーターあたり 100 ポンドだとして、一年後に提供される小麦の「先物」契約は 100 クォーターあたり 107 ポンドだとして、金利は5パーセントだとします。小麦利率はいくらでしょう? 100 ポンド分のスポット物現金は、先物の現金 105 ポンド分を買えます。そして 105 ポンドの先物現金は $\frac{105}{107}100 (=98)$ クォーターの先物小麦を買えます。あるいは、100 ポンドのスポット現金は、100 クォーターのスポット物小麦を買えます。したがって 100 クォーターのスポット小麦は、98 クォーター分の先物小麦を買えます。そこから、小麦利率は年率マイナス2 パーセント、ということになります1。
ここから、商品がちがえばその李率が同じであるべき理由はないことになります——小麦利率と銅利率は同じでなくてもいいはずです。スポット物と先物契約の関係は、市場価格を見ると、商品ごとにずいぶんちがうことで悪名高いのです。これから見るように、これこそが求めているヒントにつながります。というのも、こうした自己利率(とでも呼びましょう)のうち最大のものがすべてを牛耳ることになるかもしれないのですから(なぜかというと、資本的資産が新たに生産されるためには、限界効率がそうした自己利率の最大のもの以上でなくてはならないからです)。そして、お金の利率こそが最大のものになるべき理由があるのです(それは、これから見るように、他の資産の自己利率を引き下げるように働くいくつかの力が、お金では作用しないからです)。
付け加えると、いつでも商品ごとに利率がちがうように、外国為替のディーラーならばお金の種類がちがえば(たとえばポンドとドル)金利がちがうこともよく知っています。ここでも、外貨の「スポット」価格と「先物」契約の差は、外貨ごとにちがうのが普通なのです。
さて、こうした商品基準のそれぞれは、資本の限界効率を測るにあたり、お金と同じ機能を提供してくれます。好きな商品を選びましょう。たとえば小麦です。そしてあらゆる資本的資産の見込み収益を、小麦価値で計算するのです。そしてその資産から生じる一連の年間小麦量収益を、その資産の現在の供給価格の小麦表示と等しくするのが割引率で、それがその資産の小麦で測った限界効率です。この二つの基準の相対的価値がまったく変化しないと期待されていれば、どちらの基準で測っても、資本的資産の限界効率は同じです。限界効率を測るときの分母も分子も、同じ割合で変わるだけだからです。でも、どちらかの基準が相対的に価値が変わると予想されるなら、資本的資産の限界効率もどちらの基準で測っているかに応じ、同じ比率で変わります。これを例示するために、別の基準の一つである小麦が、お金で見たとき毎年ある一定の比率 $a$ パーセントで価格上昇するものとしましょう。そして、ある資産の限界効率は、お金で見て $x$ パーセントだとします。すると、その資産の小麦で見た限界効率は $x-a$ パーセントとなります。あらゆる資本的資産の限界効率は同じ率で改定されるので、それらの大きさの順番は、どんな基準を選んでも変わらないことになります。
もし厳密な意味で代表的と考えられるような複合商品があったらい、利率や資本の限界効率をこの商品を基準に測って、それがある意味で問答無用の利率と問答無用の資本の限界効率として一意的に決まると考えることができます。でもこれだともちろん、価値の一意的な基準を打ち立てようという場合と同じ障害が出てきます。
つまりここまでの話では、利率をお金で測ったものは、他の商品に基づく率にくらべて独自性はまったくなく、まったく同じ立場にあります。でもお金で見た利率はこれまでの章で、圧倒的に実用面での重要性を与えられてきましたが、その原因となる特異性はどこにあるのでしょうか? なぜ産出量や雇用は、小麦利率や家屋利率よりもお金の利率と密接にからみあっているのでしょうか?
たとえば一年の期間を考えたとき、各種の商品利率がどのくらいになりそうか考えてみましょう。基準としてそれぞれの商品を順番に考えるので、それぞれの商品の収益はこの文脈では、その商品自身で測ったものだと考えてください。
それぞれの種類の資産は、以下の三つの属性をちがった度合いで保有しています。つまり:
すると、ある期間に資産の所有から得られると期待される総利益は、収益から保有コストを引いて流動性プレミアムを足した物、つまり $q - c + l$ となります。つまり $q - c + l$ はあらゆる商品についての自己利率なのです。この $q, c, l$ はいずれもそれ自身を基準に計測されています。
装置的な資本(たとえば機械)や消費資本(たとえば家)は使われている場合には、その収益が保有費用を上回るのが常で、流動性プレミアムはたぶん無視できる程度です。流動的な財や余剰で寝かせてある装置や消費資本の在庫は、それ自身で測った保有コストはありますが、それを相殺する収益はありません。この場合の流動性プレミアムも、その在庫がほどほどの量を超えれば通常は無視できる程度でしょう。でも特殊なケースでは、かなりの額になるかもしれません。商品によっては、それ自体の中でも流動性プレミアムの度合いがちがうこともあるし、お金も多少は保有費用がかかることもあります。たとえば、安全に預託しておく費用などです。でもお金と他のあらゆる(またはほとんどの)資産との本質的なちがいは、お金の場合には流動性プレミアムが保有費用をはるかに上回る、ということです。これに対して他の資産だと、保有費用が流動性プレミアムをはるかに上回ります。たとえば例示のために、家屋の収益は $q_1$ で保有費用と流動性プレミアムは無視できるとします。そして小麦の保有費用は $c_2$ で、流動性プレミアムは無視できます。さらにお金だと流動性プレミアムは $l_3$ で、収益と保有費用は無視できるとしましょう。つまり、家屋利率は $q_1$ 、小麦利率は $-c_2$ 、 $l_3$ はお金の利率、ということになります。
均衡と整合性のある、各種資産の期待収益の相互関係を決めるためには、その年の相対的な価値変化についても知る必要があります。その計測基準をお金にすると(この場合には数えるためのお金だけでしかなく、別に小麦でもかまいません)、期待される価格上昇(または下落)率を、家屋なら $a_1$ 、小麦なら $a_2$ とします。 $q_1, -c_2, l_3$ は、それぞれ家屋、小麦、お金についてそれ自身を価値基準としたときの、自己金利です。つまり $q_1$ は家屋利率を家屋で測ったもの、 $-c_2$ は小麦利率を小麦で測ったもの、 $l_3$ はお金の利率をお金で測ったものです。またいまと同じ値を、価値基準としてお金を使ったものに換算したとき、 $a_1 + q_1, a_2 - c_2, l_3$ を、それぞれ金利の家屋率、金利の小麦率、金利のお金率と呼ぶと便利です。この書き方をすれば、富の持ち主は $a_1 + q_1, a_2 - c_2, l_3$ のうち最大のものはどれかを見て、それぞれ家屋や小麦やお金に向かうことになるのがすぐにわかります。ですから均衡状態では、家屋と小麦の需要価格をお金で見たら、どっちを選んでも特にいいことはない、という状態になります——つまり $a_1 + q_1, a_2 - c_2, l_3$ はどれも等しくなります。価値の基準をどう選んでもこの結果はまったく変わりません。基準をあれからこれに変えても、あらゆる数字は同じように変わる、つまりその新しい基準を古いもので測ったときの期待増加率(または減少率)と同じだけ変わるのです。
さて、通常の供給価格が需要価格より低い資産は新規に作られるし、それは限界効率が(通常の供給価格から見て)利率よりも高い資産となります(どちらもなんであれ同じ価値基準で計測します)。当初は金利と少なくとも同じだけの限界効率を持っていた資産の在庫が増えると、その限界効率は下がりがちになります(理由はかなり自明ですが、すでに説明しました)。ですから、利率がいっしょに下がらない限り、もはやその資産を作っても儲からない点がやってきます。限界効率が利率より高い資産が一つもなくなれば、資本的資産の生産は止まってしまいます。
仮に(議論のこの段階では、単なる仮説にすぎません)利率が固定された何らかの資産(たとえばお金)があったとしましょう(あるいは、産出増大につれての利率低下ぶりが、その資産では他のどんな商品利率よりも小さいとしましょう)。この立場はどう調整されるでしょうか? $a_1 + q_1, a_2 - c_2, l_3$ は必然的に等しくて、 $l_3$ はここでの仮定から、固定されているか、 $q_1$ や $-c_2$ よりも下がり方がゆっくりしています。すると $a_1$ と $a_2$ は増えていなくてはなりません。言い換えると、お金以外のあらゆる商品の場合、現在の金銭価格は、その期待将来価格に比べて下がるのです。ですから $q_1$ と $-c_2$ が下がり続けるなら、どんな商品を作っても儲からない点がきてしまいます。もちろんどこか将来の生産費用が現在の生産費用に比べ、いま作ったものを値段が上がるはずの将来まで在庫で持つ費用を含めても大きくなるようなら別ですが。
いまや、お金の利率が産出の量に影響を与えるといったようなこれまでの主張は、厳密には正しくないことが明らかになりました。 あらゆる資産の儲かる生産を潰してしまうのは、正しくは資産全般の在庫が増えるにつれて、最もゆっくりと利率が低下する資産の利率なのだ、と言うべきでした——ただし前段の最後で述べた、現在の生産費用と将来見込み生産費用とに特別な関係があれば別ですが。産出が増えると、自己利率は次々に儲かる生産基準を下回るようになります——そしてついには、どんな資産の限界効率をも上回る自己利率は、一つかそこらしか残っていないことになります。
もしお金というのが価値の基準の話であれば、別にお金の利率が問題を起こすわけではないのは明らかです。黄金やポンドのかわりに小麦や家屋が価値基準になると宣言するだけでは、いまの困難から脱出はできません(そんなことを主張する人もいますが)。というのも、産出が増加しても自己利率が下がらないような資産が存在し続ければ、どんなものでも同じ困難が生じることがこれでわかったからです。たとえば、非兌換紙幣制度に切り替えている国でも、黄金がこの役割を果たし続けるかもしれません。
ですから、お金の利率に特別な意味を与えるに際して、私たちは慣れ親しんだお金というものに何か特別な性質があるんだと知らぬ間に想定していることになります。お金はその性質のために、それ自身で測った自己利率が、他のどんな資産のそれ自身で測った自己利率に比べ、全般的な資産の在庫が増えたときに下がりにくいのだ、というわけです。この想定は正当化できるものでしょうか? 考えてみると、私たちの知るお金を一般に特徴づける、以下のような特異性は、それを正当化してくれるものだと思います。価値の確立した基準がこうした特異性を持つ限り、重要な利率とはお金の利率だという結論は成り立ちます。
この反応がお金の利率に適切な低下を可能にするものか、純粋に理論的な見地からだけで議論することはできません。でも、なぜ私たちの慣れ親しんだような経済で、お金の利率がしばしば適切に下がってくれないのか、という理由はいくつかあって、それを組み合わせるとかなり説得力が出てきます。
お金の低い(無視できる)保有費用が重要な役割を果たすのは、これとの関係においてです。その保有費用が目に見えるものなら、それは将来の時点でのお金の見込み価値について、期待の役割を相殺してしまいます。人々が比較的小さな刺激でお金のストックをすぐに増やしたがるのは、流動性のメリット(それが本当だろうと思い込みだろうと)が、時間経過とともに急増する保有費用で相殺されるのに甘んじなくてすむためです。お金以外の商品だと、多少の在庫があれば、その商品の利用者にとっては多少便利かもしれません。でも大きな在庫は価値の安定した富の貯蓄として多少の魅力はあるものの、その魅力は保管、損耗などによる保有費用で相殺されてしまいます。ですからある点までくれば、それ以上の在庫を持つのは必然的に損失をもたらすのです。
でもお金の場合には、いままで見たように、これは当てはまりません——そしてそれは、お金が一般の目から見て、きわめて「流動的」と見なされる各種の理由のためです。ですから法定通貨が定期的に、決まった費用を払って印紙を貼らないとお金としての価値を失うようにするとか、それに類する方法でお金に人工的な保有費用を作るといった解決策を考えている改革者たちは、正しい方向を向いていました。そしてかれらの提案が持つ実用的な価値は、検討に値します。
* * *
ですからお金の利率の重要性は、流動性動機の働きのおかげでこの利率が、お金の量に対して他の富の形態をお金で測ったものが見せるよりも変化の比率がちょっと鈍く、そしてお金が生産と代替についてゼロ(または無視できる)弾性を持つ(かもしれない)という特徴の組み合わせから生じるものなのです。最初の条件は、需要が圧倒的にお金に向かうかもしれないということで、二番目はそれが起こったら労働を雇用してもっとお金を作ることはできないということ、そして三番目は何か他の要因が、十分に安ければ、お金の仕事を同じくらい立派にこなしてこの状況を改善してくれることはあり得ない、ということです。唯一の救済——資本の限界効率の変化とは別に——は(流動性に対する性向が変わらなければ)お金の量の増大か、あるいは——基本的には同じことですが——お金の価値を増して同じ量のお金が果たせる金銭サービスが改善される場合だけです。
ですからお金の利率が上がれば、生産が弾性的でお金の産出を刺激できないあらゆるもの(お金は仮説上、完全に非弾性的です)の産出が低下します。お金の利率は、他の財で見た利率のペースを決めてしまい、こうした他の財の生産用投資を抑える一方で、お金生産への投資は刺激できません(お金は仮説上、生産できないのです)。さらに負債に対して流動的な現金の需要は弾性的なので、この需要を律する条件がちょっと変わっても、お金の利率はあまり変わらないかもしれず、一方(公共の行動を除けば)お金の生産が非弾性的なため、自然の力が供給側に作用してお金の利率を引き下げるということも非現実的です。通常の商品の場合なら、流動的な在庫の需要の非弾性的な面は、需要側でちょっと変化があれば、その利率が急速に上がったり下がったりするということです。そしてその供給の弾性もまた、スポット物に比べた先物に高いプレミアムを防ぐように働くでしょう。ですから他の財は自分で何とかするしかなく、「自然の力」つまり市場の通常の力はそうした財の利率を引き下げて、完全雇用を出現させ、あらゆる商品に対して、お金の通常の特性だと述べた供給の非弾力性をもたらすことになります。ですからお金の不在と、お金に想定される特徴を持つ他の商品も一切ない——もちろんそう仮定せざるをえません——状態では、利率は完全雇用のときにしか均衡に達しません。
つまり失業が発達するのは、人々が月を求めるからなのです。人々は、欲望の対象(つまりお金)が作り出せず、それに対する需要を簡単には抑えられない場合には、雇用されなくなってしまいます。その治療法といえば唯一、月でなくてもグリーンチーズでかまわないんだよと人々に納得させて、グリーンチーズ工場(つまり中央銀行)を一つ、公共のコントロール下に置くことです。
ちなみにおもしろいことですが、価値基準として黄金がきわめて好適な理由として従来挙げられてきた特性、つまりその供給が非弾性的であることが、実はまさに問題の根底にある特徴なのだということがわかります。
ここでの結論をいちばん一般性ある形で(ただし消費性向は一定と想定)述べると以下のようになります。あらゆる資産の中で自己利率の自分で測った率が最も高いものが、自己利率の自分で測った率が最大であるような資産で計測したあらゆる財の限界効率の中で最大のものと等しくなったとき、それ以上の投資速度増大は不可能となる。(訳注:こういうわざと金釘流の、厳密だけどわけわかんない表現をやってみせて喜ぶのは、悪趣味だからやめてほしいよなあ……)
完全雇用の状態だと、この条件は必然的に満たされます。でも、もし生産弾性も代替弾性もゼロ(または極小)な資産で6、産出が増えても利率がそれを基準に測った限界効率ほどは急速に下がらないようなものがあれば、完全雇用に達する前に満たされる可能性もあります。
ここまでで、ある商品が価値の基準となるだけでは、その商品の利率が重要な利率になる条件としては不十分だ、ということを示しました。でも、おなじみのお金が持つ特徴のうちで金利を重要な利率にしているものが、負債や賃金を決める基準になっているという事実とどれほど深くからみあっているかを考えると、興味深いものです。この問題は二つの側面から検討が必要です。
まず、契約がお金をもとに決められて、賃金もお金で測るとかなり安定しているという事実は、お金にこれほどの流動性プレミアムがつく理由の大きな一部なのは確実です。将来の支払い義務が課せられるのと同じ基準の資産を持ったり、それで測ると将来の生活費が比較的安定になるような基準の資産を持ったりするのは、明らかに便利なことです。同時に、お金で測った未来の産出が比較的安定していると期待できても、その価値の基準が高い生産弾性を持っていたら、あまり安心はできません。さらにおなじみのお金が持つ低い保有費用は、お金の利率を重要なものにする高い流動性プレミアムに対しても、かなりの役割を果たしています。というのも、重要なのは流動性プレミアムと保有費用との差だからです。そして金や銀や紙幣以外のほとんどの商品の場合、保有費用は少なくとも、契約や賃金が決まる基準となるものに通常付随する流動性プレミアムと同じくらい高いのです。ですから、いまたとえばポンドなどに付随する流動性プレミアムを、たとえば小麦などに移転することができたとしても、小麦利率はたぶんゼロ以上にはならないでしょう。ですから、契約や賃金がお金で決められているという事実は、お金の利率の重要性を大幅に高めるものではあれ、この状況だけでは、お金の利率として見られる特性を説明するのにはやはり不十分なのです。
検討すべき二番目の点は、もっと細かいものになります。産出の価値は、お金で測るほうが他の商品を基準にするより安定だという一般の期待は、もちろん賃金がお金で設定されるということによるのではなく、賃金がお金で見ると比較的変わりにくいということにあります。では、賃金がお金以外の何か商品で見たときに、お金自身でみたときよりも変わりにくい(つまり安定している)としたら、どういうことになるでしょうか?こうした期待は、その問題の商品の費用が、産出規模の大小を問わず、期間の長短を問わず、賃金単位で見て比較的一定であることを必要とするばかりか、現在の費用価格における当期需要を超える余剰分が、費用なしで保管できる、つまりその流動性プレミアムが保有費用を上回る必要があります(そうでないと、価格上昇で儲ける見込みはない以上、在庫保有は絶対に損失をもたらします)。もしこうした条件を満たす財が見つかれば、それはまちがいなくお金のライバルとして成立します。ですから、論理的には産出の価値がお金で測ったときよりも安定になるはずの商品が存在しないとはいえません。でも、そんな財が実在するとは考えにくいようです。
ここから私は、それを単位とした時に賃金がもっとも変わりにくいと予想される商品は、生産弾性が最小でないものではあり得ず、また流動性プレミアムに対する保有費用の超過分が最小でないものでもあり得ない、と結論します。言い換えると、お金で見た賃金が相対的に変わりにくいことは、保有費用に対する流動性プレミアムの上回り具合が、他のどんな資産よりもお金のほうが大きいことの副作用なのです。
ですから、お金の利率を重要なものにしている各種の特性は、累積的な形で相互に作用しあうことがわかります。お金の生産弾性や代替弾性が低く、低い保有費用を持つことは、名目賃金が比較的安定になるという期待を高めがちです。そしてこの期待はお金の流動性プレミアムを高め、お金の利率と他の財の限界効率とのきわめて高い相関(存在すればですが)が、金利の効力を奪ってしまうのを防ぐのです。
ピグー教授は(他の人々同様)名目賃金よりも実質賃金のほうが安定しているはずだという想定になれてしまっています。でもこれは、雇用が安定質得るという前提があって初めて成立することです。さらに、賃金財の保管コストが高いという困難があります。もし賃金を賃金財基準で固定することにより、実質賃金を安定化させようという試みがあれば、それは金銭物価の激しい上下動をもたらすだけでしょう。というのも、消費性向と投資誘因がちょっと変動するだけで、物価はゼロと無限の間ですさまじく揺れ動くことになるからです。名目賃金のほうが実質賃金よりも安定しているというのは、本質的な安定性を持つシステムの条件なのです。
ですから、相対的な安定性を実質賃金のせいにするのは、単なる事実と経験上の誤りにとどまりません。消費性向や投資誘因がちょっと変わっても、それが物価に激しい影響を与えたりしないという意味で目下のシステムが安定だとみるなら、それは論理上の誤りでもあるのです。
今の話に対する補注として、すでに述べたことを改めて強調しておく価値はあるかもしれません。つまり「流動性」も「保有費用」も、どちらも程度問題だということです。そして後者よりも前者が相対的に高くなっているのが、「お金」の唯一の特異性なのだ、ということです。
たとえば、流動性プレミアムが保有費用を常に上回るような資産が一つもない経済を考えましょう。これは「非貨幣経済」のいちばんいい定義だと思います。その経済ではつまり、個別の消費財があり、個別の資本設備は長期ないし短期にわたり、生み出せしたり、生み出すのを支援したりできる消費財の性質に応じておおむね差別化されています。そしてそれらはすべて、現金とはちがって、保管しておくと摩損劣化するか、費用がかかり、それはその財にともなう流動性プレミアムを上回っています。
こんな経済では、資本設備同士のちがいは以下の三つで決まります。 (a) それが支援できる消費財の種類 (b) その産出の価値の安定性(これはパンの価値が、流行の嗜好品に比べると時間を通じた価値が安定しているというような意味です)、(c) それに内包される富が「流動的」になれるすばやさ、つまり売り上げを望み次第でまったく他の形に包み直せるような産出を生産できるすばやさ。
すると富の保有者たちは、富の保管媒体としての各種資本設備における上の意味での「流動性」欠如を、リスクまで考慮した各資本の見込み収益に対する可能な限り最高の統計的推計に対比させます。流動性プレミアムは、これからわかるように、一部リスクプレミアムと似ていますが、一部はちがいます——そのちがいは、可能な最高の確率推計と、人々がそれに対して抱く自信とのちがいなのです7。これまでの章で、見込み収益の推計を話題にしたときには、その推計をどうやるか詳しくは考えませんでした。そして議論をややこしくしないために、流動性のちがいと普通のリスクのちがいとは区別しませんでした。でも自己利率を計算する場合には、どちらも考慮しなくてはならないのは明らかです。
明らかに「流動性」の絶対基準などはなく、流動性にもいろいろな程度があるだけです——各種の形態で富を持つ相対的な魅力を見積もるときには、その使用からの収益と保有費用に加えて、こうした流動性プレミアムのちがいも考慮しなくてはいけません。何が「流動性」をもたらすかという発想は部分的には漠然としたもので、時によっても変わるし、社会的な慣行や制度にもよります。いつの時点でも、流動性についての気持ちを富の所有者が述べるとき、その内心における選好の順番は絶対的なもので、経済システムのふるまいの分析においては、それさえあれば足りるのです。
もしかすると一部の歴史環境では、富の所有者の頭の中では、土地所有が高い流動性プレミアムを持つと思われていたかもしれません。そして土地は生産や代替の弾性がとても低いという点でお金に似ているので8、歴史の中では土地保有願望が、最近お金が果たしたのと同じように、利率を高すぎる水準に保つ役割を果たしたことは考えられます。土地の先物価格を土地で測った値というデータがないので、お金の負債にかかる利率と厳密に比べられるものがなく、この影響を厳密に定量的にたどるのは困難です。でも、時にはそれとかなり近いものがありました。それは担保融資に対する高い金利です9。土地担保融資の高い金利は、しばしばその土地耕作から得られる純収益を上回るものでしたが、これは多くの農業経済でおなじみの特徴でした。高金利禁止法は、主にこうした抵当融資を禁止するために設けられたものです。そしてそれは正しいことでした。というのも初期の社会組織では、現代的な意味での長期債が存在せず、土地担保融資に対する高金利競争こそが、新規生産された資本的資産に対する当期投資による富の成長を抑える効果を持っていたのかもしれません。これは最近の長期債に対する高金利が持っているのと同じ効果です。
世界が何千年もずっと個人貯蓄をしてきたのに、その累積資本資産がこんなにも貧しいというのは、私の見立てでは人類の抜きがたい性向によるものではなく、かつては土地保有に付随し、いまやお金に付随している高い流動性プレミアムにあるのです。この点で私は、古い見方とはちがっているのです。古い見方は、マーシャルが『経済学原理』p.581 で、いつになく教条的な物言いで、こんな風に記述しているものです —
富の蓄積が抑えられ、利率がいまのところ維持されているのは、人類の大半が、満足を遅らせるよりは今のほうを選好し、言い換えると「待つ」のをいやがるために生じるのだ、というのは周知のことである。
拙著『貨幣論』で、私は独特な金利と思ったものを定義し、それを自然金利と呼びました——つまり『貨幣論』の用語を使うなら、貯蓄率(同書での定義)と投資率との等価性を保存するような金利です。私はこれが、ヴィクセルの「自然金利」を発展させて明確にしたものだと考えていました。ヴィクセル的にはこれは、何らかの明記されていない物価水準安定性を保存するような金利だそうです。
でもこの定義にしたがうと、どんな社会でも仮想的な雇用水準ごとにちがった自然金利が決まる、という事実を見すごしていました。同様に、あらゆる金利水準について、それが「自然」金利になる雇用水準が存在してしまいます。ですから、ある唯一の自然金利の話をしたり、上の定義で雇用水準とは関係ない一意的な金利の値が得られると思うのはまちがいでした。その時点では、完全雇用以下でシステムが均衡できるとは理解していなかったのです。
以前は「自然金利」がとても有望な概念だと思っていましたが、今の私はこれがなにか便利なものや重要なものの分析に貢献してくれるとは思っていません。単に、現状を維持する金利というだけです。一般には、現状それ自体において支配的な金利などというものはありません。
もしそんな金利があるなら、ずいぶん独特で重要な金利です。言わば中立金利とでも言うべきものにちがいありません10。つまり、経済システムの他のパラメータを前提として、完全雇用と整合性のある、上の意味での自然金利です。でもこれはむしろ、最適金利と呼ぶ方がいいかもしれません。
中立金利は、産出と雇用の関係が、雇用弾性が全体としてゼロになるようになっているときの均衡金利として定義するともっと厳密です11。
これはまたもや、金利の古典派理論をきちんと理解しようとすれば、そこにどんな暗黙の想定が必要かについて教えてくれるものです。この理論は、金利の実績値が常に自然金利(いま定義したような意味で)に等しいと想定しているか、そうでなければ実際の金利が常に、雇用をどこか所定の一定水準で保つような率になっている、と想定しています。もし伝統理論をこんなふうに解釈すれば、その実用的な結論には、注目すべきものはほとんど何もなくなってしまいます。古典派理論は、銀行当局や自然の力が働くために自然金利が上のどちらかの条件を満たすのだ、と想定しています。そしてそれは、この条件の下で社会の生産的な要素の適用や報酬をもたらす法則を検討します。そんな制約が働いていれば、産出量は現在の設備や技術の下で、想定された一定の雇用量だけに左右されます。そして私たちはしっかりとリカード的世界に落ち着いてしまうのです。
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