ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936) 第 V 巻 :賃金と価格
(山形浩生 訳
原文:https://bit.ly/r4sCPu
名目賃金の変化の影響に関する議論は、もっと前の章で論じられたらよかったかもしれません。というのも古典派理論は、経済システムの自己調整特性なるものを、名目賃金の変動性を想定するだけですませるのが習慣だからです。そしてそこに硬直性があったら、その硬直性は調整の失敗が悪いとされるのです。
でも、私たち自身の理論が十分に展開するまでは、この話を十分に議論するのは無理でした。というのも名目賃金の変化の結果はややこしいからです。名目賃金は、一部の状況では古典派理論の想定通り、産出を刺激するのにかなり有効です。この理論と私の理論のちがいは主に分析上のものです。ですから、読者が私の手法になじむまでは、はっきりと説明できなかったのです。
私の理解する限り、一般に認められた説明は、とても単純なものです。以下に議論するような、もってまわった影響などに依存しません。議論は単純に、名目賃金が下がれば、他の条件は一定として最終製品の価格が減るので需要が刺激され、したがって産出と雇用は増え、産出と雇用は増える、というものです。そしてその増え方は、労働が受け容れることにした名目賃金低下分が、産出増(設備一定)に伴う労働の限界効率低下で相殺されるところまで増えるのだ、というわけです。
一番粗雑な形だと、これは名目賃金が下がっても需要には影響しないと想定しているのに等しくなります。需要に影響が出るはずがない、と固執する経済学者もいるかもしれません。総需要は、お金の量にお金の所得速度をかけたもので決まるんだし、名目賃金が下がってもお金の量や所得速度が変わるべき明白な理由なんかない、というわけです。あるいは、賃金が下がったら利潤が必然的に上がる、という主張さえあるかもしれません。でも、名目賃金が下がったら、一部の労働者の購買力は下がるので、総需要にだってちょっとくらいは影響があると合意するほうが普通だとは思います。ただ、他の労働者たちの実需は、所得が減っていないので、物価下落に刺激され、労働者自身の総需要は雇用増大の結果として増えるのがほぼ確実です。むろん、名目賃金変化に対する労働の需要弾性が1以下ではないとしての話ですが。ですから、新しい均衡では他の場合よりは雇用が増えます。異様に限られた場合には別かもしれませんが、それはたぶん実際にはまったく現実性がないでしょう。
私はこの手の分析とは根本的にちがっています。あるいは、上のような主張の背後にあるとおぼしき分析とちがっていると言うべきでしょうか。というのも上は、多くの経済学者たちの主張や著作をかなりよく表していますが、その根底にある分析が詳しく記述されたことはほとんどないからです。
でもどうやら、こうした発想は以下のように到達されるようです。任意の産業で、言い値と売れる量とを関係づけた、一連の需要
もしこれが、古典派議論の根底にあるなら(そしてそうでないなら、何が根底になっているのかわかりません)、これは明らかにまちがっています。ある特定産業の需要
では、この問題に答えるのに、私たち自身の手法を適用してみましょう。それは二つの部分に分かれます。 (1) 名目賃金の削減は、他の条件が同じなら雇用を増やす直接的な傾向があるでしょうか? ここでの「他の条件が同じなら」とはつまり、消費性向、資本の限界効率の{関係} {スケジュール}、金利が社会全体で前と同じということです。そしてもう一つは、 (2) 名目賃金の削減は、この三つの要因に対する確実または見込みの高い影響を通じて、雇用をある特定方向に動かす確実または見込みの高い傾向を持っているでしょうか?
最初の質問には、これまでの章ですでにノーという答を出しました。というのも、雇用の量は賃金単位で測った有効需要と一意的に相関しており、有効需要は期待消費と期待投資の和なので、消費性向と資本の限界効率
名目賃金を引き下げると「生産費用が下がるから」雇用が増える、という粗雑な結論をまず論駁しておくとよいでしょう。この仮説の中で、新古典派の見方にもっとも有利な事態の流れをたどるとそういう話になります。つまり、事業者が当初、名目賃金を引き下げるとこういう影響が出ると期待するのだ、という話です。確かに、個々の事業者は自分の費用が下がったのを見て、当初は自分の製品の需要に対する影響を見すごし、以前よりも大量の生産物を儲かる形で売れるようになる、という想定に基づいた行動をとるかもしれません。もし事業者たちみんながこの想定に基づいて行動するなら、本当に利潤増加を実現できるでしょうか? そうなるのは社会の限界消費性向が1に等しく、所得増分と消費増分にギャップがない場合だけです。あるいは所得増分と消費増分のギャップを埋めるだけの投資増があってもいいでしょう。でもこれは、資本の限界効率が金利との見合いで増加した場合だけにしか起こりません。ですから増えた産出で得られる売り上げは、事業者たちをがっかりさせて、雇用はまた以前の水準に戻ります。ただし限界消費性向が1だったり、あるいは名目賃金削減の引き下げが、金利に比べて資本の限界効率
ですから名目賃金削減は、社会全体の消費性向に影響を与えるか、資本の限界効率
これらの要因に対する最も重要な影響は、実務上は以下のものになりそうです:
これは複雑な現実世界で、賃金引き下げに対する可能な反応すべての完全なカタログではありません。でも、通常はいちばん重要なものはこれでカバーできていると思います。
ですから話を閉鎖経済に限って、実質所得の新たな分配が社会の消費性向に与える影響として、正反対のことしか期待できないと想定するのであれば、名目賃金低下により雇用によい影響が出る唯一の希望は、(4)で見た資本の限界効率の増加か、(5) で見た金利低下による投資増からやってくるものと期待しなくてはなりません。この二つの可能性を詳しく見ましょう。
資本の限界効率向上に有利に働く条件は、名目賃金が底を打って、これ以上変化があるとしたら賃金は上昇するだろうと期待されるということです。もっとも不利な条件は、名目賃金がジリ貧で下がり、下がるごとにそれ以上は賃金が下がらないという自信が減っていくような場合です。有効需要が弱まる時期に入ると、名目賃金がいきなり大幅に削減されて、だれもそれがいつまでも続くとは信じない場合が、有効需要強化にとって最も有利となります。でもこれは行政の政令によって実現するしかないし、自由な賃金交渉制度の下では、まったく現実的な政治とは言えません。これに対し、賃金はがっちり固定されていて、目に見えた変動は不可能だと思われていたほうが、不景気にともなって名目賃金がじわじわ下がり続けるよりはずっといいのです。賃金がちょっと下がったら、それは失業者数が、たとえばさらに1パーセントあがるという信号だと思われてはたまりません。たとえば、来年は賃金がさらに2パーセント下がるなと思われたら、同じ時期の支払い金利がおよそ2パーセント増えるに等しくなります。同じ話は、好況の場合にも、符号だけ変えて同様にあてはまります。
ここから、現代世界の実際の慣行や制度から見て、柔軟な賃金政策でじわじわ失業に対応するよりも、硬直的な名目賃金政策を目指すほうが好都合なのだ、ということになります——少なくとも、資本の限界効率から見る限りでは。でもこの結論は、金利から見るとひっくりかえるでしょうか?
ですから、経済システムの自己調整能力を信じる人々は、賃金——そして物価——水準の低下がお金の需要に与える影響に頼った議論を展開せざるをえません。もっとも彼らが実際にそうしているかどうか、寡聞にして知りませんが。 もしお金の量自体が賃金と物価水準の関数であるなら、この線の議論には何一つ期待できません。でもお金の量が実質的に固定されているなら、賃金単位で測ったその量が、名目賃金を十分に引き下げることでいくらでも増やせるのは明らかです。そして、所得に対するその量の比は、一般に大きく増やせます。その増加の上限は、限界原価に対する人件費の比率と、下がる賃金単位に対して限界原価の他の要因が見せる反応によります。
ですから少なくとも理論的には、賃金を変えずにお金の量を増やしたときの金利への影響とまったく同じものを、賃下げにより生み出すことはできます。すると賃下げは、完全雇用を確保する手段としては、お金の量を増やすのと同じ制約に直面するということになります。お金の量を増やして投資を最適水準にまで引き上げようととしても効力が限られてしまう理由を上で述べましたが、それと同じ理由をちょっと手直しするだけで、賃金削減にもあてはまります。お金の量を少しだけ増やしても、長期金利には十分な効果が出ないかもしれず、またお金を少なからぬ量だけ増やしたら、信頼性を乱す効果によって他の長所を相殺しかねません。それと同じく、名目賃金をちょっと減らしても不十分で、大幅に減らすなどということができたとしても、それは安心を潰してしまいかねません。
したがって、柔軟な賃金政策が継続的な完全雇用を実現できるという信念には根拠がありません——公開市場金融政策が、単独でその結果を実現できるのが根拠レスなのと同様です。経済システムは、この路線で自己調整的にはなれないのです。
もし完全雇用以下になったら、労働者が常に行動を起こせて(そして実際に起こして)団体行動で名目賃金要求を引き下げ、賃金単位に比べたお金をきわめて潤沢にして、金利が雇用と整合する水準まで下がるようにする地点まで行動する、というのだったら、これは銀行システムではなく労働組合が、実質的に完全雇用を目指した金融管理を行っているということになります。
それでも、柔軟な賃金政策と柔軟なお金の政策は、分析上は同じことで、賃金単位で測ったお金の量を変えるためのちがう手段にすぎないとしても、他の面では両者には天と地ほども差があります。突出した考慮事項を四つ、ざっと思い出していただきましょう。
よってここから、労働がじわじわ減る雇用に対応して、じわじわ減る名目賃金でサービスを提供するとしたら、これは実質賃金を減らす効果は持たず、むしろ産出へのマイナス効果を通じてかえってそれを高めるかもしれない、ということになります。この方針の主要な結果は、物価をすさまじく不安定にすることで、その変動があまりに激しくて、私たちの暮らす社会で見られるような事業上の計算をするのが無意味になるかもしれません。全体として自由放任であるようなシステムにおいて、柔軟な賃金政策が正当にもつきものなのだと想定するのは、真実の正反対です。柔軟な賃金政策がうまく機能できるのは、突然の根本的で全面的な変化が命令できるような、きわめて全体主義的な社会だけなのです。そんな仕組みはイタリア、ドイツ、ロシアでは機能するかも知れませんが、フランス、アメリカ、イギリスでは無理です。
オーストラリアでやったように実質賃金を法制によって固定しようとしたら、その実質賃金に対応した何らかの雇用水準があるでしょう。そして実際の雇用水準は、閉鎖経済でなら、その水準と雇用ゼロとの間を激しく振動することでしょう。上がるか下がるかは、投資の率がその水準と整合性のある率より下か上かで決まります。一方で物価は、投資がその境界の水準ちょうどならば不安定な均衡状態になり、投資がそれより下がればいきなりゼロに突進します。そしてそれより上なら無限大を目指します。何とか安定性を見いだそうとすれば、お金の量を左右するあらゆる要因が、常にある条件を満たすような一定の名目賃金を存在させるような形で決まっていなくてはなりません。その条件とは、金利と資本の限界効率との関係が、常にその境界の水準ちょうどを維持するようなものになるようにお金の量が決まっている、というものです。もしそうなれば、雇用は一定(法定実質賃金と整合した水準)となり、名目賃金と物価は、投資をこの適切な水準に保つように急激な細かい変動を繰り返します。オーストラリアの実例では、もちろんこの法制が当然ながら狙いをまったく実現できなかったこと、そしてオーストラリアが閉鎖経済ではなく、名目賃金水準そのものが外国投資の決定要因であり、つまりは総投資を左右し、同時に交易条件が実質賃金に重要な形で影響したことで、逃げ道が見つかったのでした。
こうした考察に照らし、私はいまや、安定した名目賃金の全体的な水準を維持するのは、いろいろ考えても閉鎖経済にとってはもっともお奨めできる政策だという意見です。同じ結論は開放経済にもあてはまりますが、それは世界の他の部分との均衡が、変動為替レートによって確保できるという条件つきです。一部の産業では、賃金がある程度柔軟だとメリットもあります。衰退しつつある産業から成長しつつある産業への移転を促進したりできるからです。でも全体としての名目賃金水準は、少なくとも短期では、できるだけ安定に保つべきです。
この政策は、少なくとも柔軟な賃金政策に比べれば、物価水準はそこそこの安定性を実現できます。「統制」価格や独占価格を除けば、物価水準は短期的には、雇用量が限界原価に影響する限りでしか反応しません。一方、長期的には新技術や新しいまたは増設した設備からくる、生産費用の変化に反応して変わるだけです。
確かに、雇用に大きな変動があれば、物価もそれに伴って大きく変動します。でも前に述べた通り、その変動は柔軟な賃金政策の場合よりは小さくなります。
ですから硬直的な賃金政策だと、物価安定性は短期的に、雇用の変動回避と密接にからんできます。一方、長期で言うと、技術と設備の進歩にあわせて物価がゆっくり下がるのを許す一方で賃金は安定に保つ政策と、物価を安定させて賃金をゆっくり上昇させる政策との選択肢があります。全体として私は後者の選択肢が好みです。将来は賃金が上がるという期待があれば、賃金が下がると思うよりは、実際の雇用を完全雇用の範囲内におさめやすいことがあります。そしてだんだん負債の負担を減らし、衰退産業から成長産業への調整を容易にし、名目賃金がだんだん上がることから来る心理的な鼓舞も、こちらのほうがよいと思う理由です。でもここには原理上の重要な点は含まれていませんし、このどちらがいいかという議論をいずれの方向に展開するのも、本書の目的を超えるものとなります。
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