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ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936) 第 V 巻 :賃金と価格

第 21 章 価格の理論

(山形浩生
原文:https://bit.ly/pgarsQ

セクションI

 経済学者たちが「価値の理論」なるものに取り組んで以来ずっと、価格というのは需要と供給の条件に支配されると教えるのに慣れてきました。そして特に、限界費用と短期的な供給弾性が大きな役割を果たしてきたのです。でも第二巻に入り『お金と価格の理論』なる部分にやってくると(これは別の論考となっていることも多いようです)もうこうした素朴ながらもわかりやすい概念にはお目にかかれません。そこでの価格はお金の量とか、所得速度とか、取引量と比較した流通速度とか、抱え込みとか、強制貯蓄とか、インフレとかデフレとか、その他あれやこれやに支配されています。そしてこうした漠然とした用語を、以前の需要と供給の弾性といった概念と関連づけようという試みは、ほとんどまったく行われません。教わったことを振り返ってそれを合理化しようとしたら、単純なほうの議論では供給の弾性がゼロになり、需要はお金の量に比例するようになったということに思えます。そしてもっと高度な議論となると、何一つはっきりせず、何でもありの五里霧中となってしまいます。私たちみんな、時には月のこっちがわにいて、時にはその裏側にいて、それらを結ぶ道筋も旅路もわからず、両者の関連はまるで、私たちの目覚めた世界と夢の世界とを結びつけるもののようなのです。

 これまでの章の狙いの一つは、この二重生活を脱して価格理論を全体として価値の理論と密接に結びつけることでした。経済学が、一方では価値と分配の理論となり、一方でお金の理論になったのは、私が思うに、偽の分裂にすぎません。私としては、正しい二項対立の片方は個々の産業や企業の理論で、ある一定量のリソースの使い方を変えたときの報酬や分配についてのものです。そしてもう一方は、経済全体としての産出と雇用の理論です。個別産業や企業の研究に限り、雇用されたリソースの総量は一定だという想定を置き、他の産業や企業の条件は変わらないと一時的に考えるなら、お金の重要な特徴など考えなくてよいのは事実です。でも、全体としての産出と雇用を決めるものは何かという問題に移ったとたん、金銭経済の完全な理論が必要になるのです。

 あるいは、分割線は固定された均衡の理論と、移動する均衡の理論との間に引いてもいいかもしれません——後者はつまり、未来についての見方が変わることで現在の状況に影響が及ぶシステムの理論です。というのもお金の重要性とは基本的に、それが現在と未来を結ぶものであることから生じているのです。将来についての見通しが、あらゆる点で固定されて信頼できる世界において、通常の経済的な動機の下、各種の用途の間でどんなリソース分配が均衡と整合性を持つか、ということは考えられます——さらに分けるなら、変化のない経済と、変化の生じる経済を考えてもよいのですが、その場合にもあらゆることが最初から予見されている場合となります。あるいはこんな単純化した入門編から、以前の期待が失望させられることもあり、未来についての期待が今日の行動に影響する現実世界の問題に移行することもできます。この移行を果たしたときにこそ、現在と未来のつながりというお金の風変わりな性質が計算に含まれるべきときなのです。でも変化する均衡の理論も、必然的に金銭経済において検討されねばなりませんが、それは価値と分配の理論のままで、別個の「お金の理論」にはなりません。お金の重要な特性とは、何にもまして、現在と未来を結ぶさりげない装置だということなのです。そして現在の活動に期待変化がどんな影響を与えるか論じるには、お金を使わなければ話になりません。黄金や銀や法定通貨などを廃止したところで、お金をなくすことはできません。耐久財がある限り、それはお金の属性を持てますし1、したがって金銭経済に特徴的な問題だって引き起こせるのです。

セクションII

 単一の産業では、その固有の価格水準は、その限界費用に入ってくる要素への支払い率に部分的に左右されますし、部分的には産出規模に左右されます。全産業へと移行したとき、この結論を変えるべき理由はありません。一般物価水準は、限界費用に含まれる生産要素への支払いに一部は左右され、そして一部は全体としての産出規模、ひいては(設備と技術は所与と考えれば)雇用量に左右されます。確かに、全体としての産出へと移行すれば、どれか一つの産業における生産は、部分的には他の産業の産出に左右されます。でも私たちが考慮すべきもっと重要な変化は、需要の変化が費用と量の両方に与える影響です。総需要を一定として個別の製品の需要を単独で考慮するのではなく、全体としての需要を扱うようになると、需要側にこそまったく新しいアイデアを導入しなくてはならないのです。

セクションIII

 もし話を単純化して、限界費用に含まれる生産の各種要素に対する支払いがみんな同じ割合で変わるとすれば(つまり賃金単位と同じ割合で変わるとする)、一般物価水準(設備や技術は所与とします)は部分的には賃金単位に左右され、部分的には雇用量に左右されるということになります。したがってお金の量の変化が物価水準に与える影響は、賃金単位への効果と雇用への効果の複合物だと考えられます。

 関係するアイデアを明らかにするために、想定をさらに単純化しましょう。 (1) 失業したリソースはすべて、必要なものを生産する効率において均質であり交換可能とします。 (2) また限界費用に含まれる生産要素は、失業者が余っていれば同じ名目賃金で満足するとします。この場合には、収穫一定で、賃金単位は失業がある限り硬直的となります。すると失業がある限り、お金の量は物価に何一つ影響しないことになります。そしてお金の量の増加がもたらす有効需要増加にずばり比例して、雇用も増えることになります。一方で、完全雇用が実現されたとたんに、有効需要の増加とずばり比例して増えるのは、賃金単位と物価ということになります。ですから、失業がある限り完全に弾性的な供給があり、完全雇用になったとたんに完全に非弾性的な供給があるならば、そしてさらに有効需要がお金の量とまったく同じ割合で変わるなら、貨幣数量説は以下のように言い換えられます。「失業がある限り、雇用はお金の量と同じ割合で変わる。また完全雇用下では、物価はお金の量と同じ割合で変わる」

 でも、貨幣数量説を記述するために、単純化用の想定をいくつも導入して伝統を満足させたからには、こんどは実際に出来事に影響する、ありそうな複雑性を考えてみましょう。

  1. 有効需要がお金の量とずばり同じ割合で変わらない場合
  2. リソースが均質でなく、雇用がだんだん増えるにつれて、収穫は一定ではなく逓減する場合
  3. リソースが交換可能でなく、一部の商品は他の商品生産に使えるリソースが失業している状態であっても、非弾性的な供給の状態になってしまう場合
  4. 賃金単位が完全雇用に到達する前に上昇し始める場合
  5. 限界費用に含まれる要素への支払いが、どれも同じ比率では変わらない場合

 ですからまずは、お金の量の変化が有効需要の量にどう影響するか考える必要があります。さらには、有効需要の変化は、概して一部は雇用量の増加に使われ、一部は物価水準上昇に使われます。ですから失業があれば物価一定、完全雇用ならばお金の量に比例した物価上昇、というのではなく、雇用の増加につれて物価がだんだん上昇するという条件ができます。つまり価格の理論というのは、お金の量の変化と物価の変化との関係を分析することで、ひいてはお金の量の変化に対する物価の弾性を決めるということですが、その理論というのは上に述べた五つの複雑化要因に取り組まなくてはいけないということです。

 それぞれ順番に考えていきましょう。でもこの手順のせいで、それらが厳密な意味で独立だと思い込むようになってはいけません。たとえば、有効需要の増分が、産出の増加に向けられる部分と物価上昇に向けられる部分の比率は、お金の量と有効需要の量との関連にも影響するかもしれません。あるいはまた、各生産要因への支払いが変わる比率も、お金の量と有効需要の量との関係に影響しかねません。ここでの分析の狙いは、無謬の答えを出してくれる機械ややみくもな操作手法を提供することではなく、個別の問題を考えるための、組織だった秩序ある思考方法を提供することです。そしてややこしい要素を一つずつ選り分けて、仮の結論に到達したら、こんどは自分のやってきたことに立ち戻り、それぞれの要因の可能な相互作用の可能性を、できる限り検討しなくてはなりません。これが経済学的思考の本質です。形式化された思考原理(でもこれがないと森の中で迷子になります)をこれ以外のやり方で適用しようとしたら、まちがいにはまりこんでしまいます。経済分析システムの定式化として使われる、記号重視の数学もどき手法(本章のセクションIVでやるようなものです)の大きなまちがいは、関連要素同士が厳密に独立だとはっきり想定してしまい、その仮説が許されない場合には説得力や意義が一切失われてしまうということなのです。これに対して、普通の言葉での表現だと、やみくもに操作を行うだけではなく、常に自分が何をしていて言葉が何を意味しているか知っているので、後で考慮すべき留保条件や但し書きや調整をすべて「頭の後ろに」持っておけるのです。でもややこしい偏微分方程式を何ページにもわたる数式(しかもその偏微分がすべて消えてしまうと想定しているもの)の「後ろ」に置いておくことなどできません。最近の「数理」経済学のあまりに大きな部分は、単なる作り物でしかなく、その根底にある当初の想定と同じくらい厳密性に欠け、著者はもったいぶった役立たずな記号の迷路の中で、現実世界の複雑性や相互依存性を見失ってしまうのです。

セクションIV

 (1) お金の量の変化が、有効需要の量に与える主な影響は、金利への影響を通じての者です。これが唯一の反応であれば、定量的な影響は三つの要素から導けます—— (a) 流動性選好の関係(スケジュール)。これは新しいお金が希望者に吸収されるにはどれだけ金利が落ちるべきかを教えてくれます。 (b) 限界効率の関係(スケジュール)。これは金利が落ちたときに、それがどれだけ投資を増やすか示します。そして (c) 投資乗数。これは投資が増えたときに、それがどれだけ全体としての有効需要を増やすか示します。

 でもこの分析は、検討に秩序と手法を持ち込む点では価値がありますが、いまの三要素 (a), (b), (c) がそれ自体として、まだ検討していない複雑化要素である (2) (3) (4) (5) に一部依存していることを忘れると、その単純さも誤解のタネとなります。というのも流動性選好の関係(スケジュール)自体が、新しいお金のどれだけが所得と産業的な循環に吸収されるかに左右されるし、それらはさらに、有効需要がどれだけ増えるか、その増分が物価上昇と賃金上昇と産出量増大や雇用増でどんなふうに山分けされるかで決まります。さらに限界効率関係(スケジュール)は部分的には、お金の量が将来の金融見通しの期待に与える影響が決めるような状況に部分的に依存しています。そして最後に乗数は、有効需要増大で生じる新しい所得が、ちがう種類の消費者間でどう分配されるかにも影響されます。またこうした相互作用の可能性一覧は完全にはなりません。それでも、すべて事実が目の前にあれば、十分な連立方程式が得られ、決定的な結論がわかるでしょう。すべてを考慮したうえで、お金の量の増加に対応し、それと均衡した有効需要量の増加が決定されるでしょう。さらに、お金の量の増加が、有効需要量の減少と結びつくのは、きわめて例外的な状況に限られるでしょう。

 有効需要の量とお金の量との比率は、通常は「お金の所得速度」と呼ばれるものと密接に対応しています——ただし有効需要は生産の原動力となった所得の期待に対応しているのであって、所得の実績に対応しているのではないこと、そしてそれが総所得であって純所得に対応するものではない点がちがっています。でも「お金の所得速度」はそれ自体としては、何も説明しないただの名前です。それが一定であるべき理由は何もありません。というのも、これまでの議論で示したように、それは多くの複雑で変動する要因に依存するからです。この用語を使うと、因果関係の本当の性質が覆い隠されてしまい、混乱以外の何物も生じていないと思うのです。

 (2) 上(第4章セクションIII)で示したように、収穫逓減と収穫一定のちがいは、労働者たちがその効率性に厳密に比例した形で報酬を受け取るかどうかに部分的に依存します。もし比例するなら、雇用が増えたときにも労働費用(賃金単位で計測)は一定となります。でももしある水準の労働者の賃金が、その個人の効率性とは関係なく一様なら、設備の効率性にかかわらず、労働費用は逓増します。さらに、もし設備が不均一で、その一部は産出1ユニットあたりの原価が高くなるのであれば、労働費用逓増の分を超える限界原価の上昇も起きます。

 したがって一般に、一定量の設備からの産出が増えるにつれて供給価格も増加します。ですから産出増大は賃金単位の変化とは別に、価格増大を伴うのです。

 (3) (2) では、供給の弾性が不完全である可能性を考察してきました。もしそれぞれの専門化した失業リソース量の間に完全なバランスがあるなら、それらがすべて同時に完全雇用に到達することになります。でも一般に、一部の商品に対する需要は、供給が少なくとも短期的には完全に非弾性的な水準を超えますが、他の部分ではかなりの失業リソースが残っているものです。ですから産出が増えるにつれて、一連の「ボトルネック」が次々に起こり、一部の商品の供給は弾性的でなくなって、価格は需要を他の方向にふりむけるだけの水準に上昇するしかなくなります。

 あらゆる種類の高効率失業リソースがあるならば、産出が増えるにつれて、一般物価水準はあまり上がらないことは考えられます。でも産出がこうした「ボトルネック」に到達できるだけの水準まで増えたとたんに、一部の商品価格は急上昇する見込みが高いのです。

 でもこの項目については、項目 (2) もそうですが、供給弾性はある程度は時間の経過にも左右されます。設備の量自体が変われるくらいの十分な期間を想定すれば、供給弾性もやがては目に見えて大きくなります。ですから広範な失業がある状況で有効需要が少々増えれば、物価上昇はほとんど起きず、主に雇用増大を引き起こすでしょう。これに対し、もっと大きな変動で予想外のものは、一時的な「ボトルネック」を引き起こし、これにより当初は雇用増以外に物価上昇を引き起こすでしょう。でもその後は、それが緩和されます。

 (4) 完全雇用達成以前に賃金単位が上昇を始めるかもしれないという点については、あれこれコメントや説明の必要もないでしょう。それぞれの労働者集団は、他の条件が同じなら自分の賃金上昇で得をするので、あらゆる集団について、この方向での圧力が生じますし、事業者のほうとしても商売が好調であればその要求に喜んで応じることでしょう。このため、有効需要の増加はすべて、ある程度は賃金単位の上昇傾向を満足させるほうで吸収される見込みが高いのです。

 ですから、名目金額での有効需要が増えた結果として、名目賃金が賃金財価格上昇とまったく同じ比率でどうしても上昇しなくてはならないという完全雇用の最終的な臨界点があります。でもそれに加えて、それに先立つ一連の準臨界点があって、そこでは有効需要の増大が名目賃金を引き上げるものの、その上昇率は賃金財価格の増加率には満たないものとなります。有効需要の減少の場合でも同じです。現実の経験では、賃金単位は有効需要がちょっと変わっただけでいちいち名目値が連続的に変わったりはしません。むしろ不連続的に変わります。こうした不連続点は、労働者の心理と雇用主や労働組合の方針によって決まります。開放経済では、賃金単位の変化というのは他の国での賃金費用の変化との相対での変化という意味になります。そして交易サイクルにおいては、閉鎖経済の中ですら賃金単位の変化というのは将来の期待賃金費用との相対での変化という意味です。これらの場合、その賃金単位の変化はかなり実務的な重要性を持つことになります。こうした準臨界点は、お金で見た有効需要がそれ以上増えたら賃金単位に不連続な上昇を引き起こすような点ですが、ある見方からすれば絶対インフレ点(以下のセクションV参照、完全雇用下での有効需要増の際に起きるもの)との比較で、準インフレの位置と言えるかもしれません(アナロジーとしてはきわめて不完全なものですが)。さらにこうした点は、かなり歴史的な重要性を持っています。でも簡単に理論的な一般化ができるようなものではありません。

 (5) ここでの第一の単純化は、限界費用に含まれる各種の要素に対する報酬がすべて同じ比率で変わる、という想定でした。でも実際には、各種の要素に対する名目報酬額は硬直性も様々だし、提供される金銭報酬変化に対する供給弾性もちがっているでしょう。そうでなければ、物価水準は賃金単位と雇用量という二つの要素の複合物でしかないと言えるところです。

 限界費用の中で、賃金単位とはちがう比率で変わりそうで、しかもずっと変動幅の大きそうな要素として最も重要なのは、限界利用者費用でしょう。というのも増える有効需要が設備更新の必要となる期日に関する期待を急変させた場合には(これはたぶんそうなるでしょう)、雇用が改善し始めたら限界利用者費用は急増しかねないからです。

 多くの目的においては、限界原価に含まれる要因すべての報酬が賃金単位と同じ比率で変わると想定するのは、一次近似としてとても有用ではありますが、限界原価に含まれる要素の報酬の加重平均を取って、それを費用単位と呼ぶほうがいいかもしれません。この費用単位、あるいは上の近似で言えば賃金単位は、価値の基本的な基準と見なすことができます。そして技術と設備の状態が決まっているときの物価水準は、部分的には費用単位に左右され、部分的には産出規模に左右されます。そして、物価水準は産出が増える場合には、費用単位の増加率より高い比率で、短期的には収穫逓減の法則にしたがって高まるのです。ある代表的な生産要素から得られる限界収益が、その産出量を生産するための最低水準となるところまで産出量が増えたら、完全雇用が実現したことになります。

セクションV

 有効需要量がさらに増えても、産出がそれ以上増えることはなく、増分がすべて有効需要の増加率と同じだけの費用単位増加に費やされる場合には、真のインフレと呼ぶのが適切な状況に達したことになります。この時点まで、金融拡大の影響は純粋に程度問題で、インフレ条件が調ったとはっきり宣言できる点はありませんでした。これ以前のお金の量の増大は、有効需要を増やす限りにおいて、部分的には費用単位増加に使われますが、部分的には産出増大に使われます。

 したがってどうやら、ここを超えると真のインフレが起きるという重要な臨界点をはさんで、一種の非対称性があるようです。というのも有効需要がこの臨界点以下に収縮すると、費用単位で測った有効需要の量は減ります。一方で、有効需要がこの水準より上がると,一般には費用単位で測った有効需要が増える効果は生じないのです。この結果は、生産要素、特に労働者たちは名目報酬削減に抵抗しがちであり、増加に対してはそれに対応するような抵抗が見られないという想定から出てくるものです。でもこの想定は、明らかに事実の根拠を十分に持っています。これは経済全体の変化でない限り、そうした変化は上向きならば関連する個別要素にとって有益だし、下向きならば有害だという状況によるものです。

 もし逆に、完全雇用以下の状況なら名目賃金がどこまでも下落するのであれば、この非対称性は確かに消えます。でもその場合には、金利がそれ以上下がらない下限に達するか、あるいは賃金がゼロになるまで、完全雇用以下での落ち着き場所はなくなることになります。でも金融システム内での価値に少しでも安定性を与えるためには、お金で測ったときの価値が固定ないしは、少なくとも粘着的であるような何らかの要素が必要なのです。

 お金の量を増やすと必ずインフレになるという見方は(インフレというのが単に物価上昇という意味でない限り)、生産要素に対する実質報酬を減らせば必ずその生産要素の削減につながるという古典派理論の想定に絡め取られてしまっているのです。

セクションVI

 第20章で導入した記述方法を使って、お望みならば上の議論の中身を式で表現できます。

 まず $MV = D$ と書きましょう。ここで $M$ はお金の量、 $V$ は所得速度(この定義はさっき述べたように、通常の定義とはちょっとだけちがいます)、 $D$ は有効需要です。もし $V$ が一定なら、物価は $e_p (= \frac{Ddp}{pdD}) =1$ ならばお金の量と同じ比率で変化します。この条件は、 $e_o=0$ または $e_w=1$ ならば満足されます(第二十章セクション1を参照)。 $e_w = 1$ という条件は、お金で測った賃金単位が有効需要と同じ割合で上昇するということです。というのも、 $e_w = DdW/WdD$ だからです。そして $e_o = 0$ という条件は、有効需要がそれ以上増えても $e_o = DdO/OdD$ なので産出は反応しないということです。どちらの場合にも、所得は変わりません。

 次に、所得速度が一定でない場合を扱えます。これにはもっと弾性を導入しましょう。つまり有効需要の、お金の量の変化に対する弾性です。  $$e_d = MdD/DdM$$

 すると以下が得られます:  $$Mdp/pdM = e_pe_d,  ただし e_p = 1 - e_ee_o (1 - e_w)$$

 したがって  $$e = e_d - (1 - e_w)e_de_ee_o= e_d (1 - e_ee_o + e_ee_oe_w)$$

 ただし添え字なしの $e ( = Mdp/pdM)$ はこのピラミッドのてっぺんにあって、名目価格がお金の量にどう反応するかを測ります。

 この最後の式は、お金の量の変化に対する物価の変化比率を与えるものなので、貨幣数量説の一般化した記述と考えることができます。私自身は、この手の操作をあまり重視していません。そして上で述べた警告を改めて繰り返しておきましょう。こうした式はどの変数を独立とするかについて(偏微分は一貫して無視します)、普通の言葉での表現と同じくらい暗黙の想定をたくさん含んでいるし、普通の言葉での表現に比べて大した知見を与えてくれるかどうか怪しいと思うのです。これを式で書く御利益といえば、せいぜいが物価とお金の量との関係を定式化しようとしたときの、すさまじい複雑さを示すことくらいかもしれません。とはいえ、お金の量の変化が物価に与える影響を左右する四つの変数 $e_d, e_w, e_e, e_o$ のうち、 $e_d$ はそれぞれの状況でお金の需要を決める流動性要因を示し、 $e_w$ は雇用増に伴う名目賃金の上昇幅を決める労働要因(またはもっと厳密には、原価に含まれる各種要素)を示し、 $e_e, e_o$ は既存設備に投入される雇用が増えたときの収穫逓減の率を決める物理的要因に対応していることは、指摘してもよいでしょう。

 もし人々が、所得の一定割合を現金で保有するなら、 $e_d=1$ です。名目賃金が固定なら、 $e_w = 0$ です。もし収穫がずっと一定で、限界収益が平均収益と同じなら、 $e_ee_o = 1$ です。そして労働か設備のどちらかが完全雇用されていれば、 $e_ee_o = 0$ です。

 さて $e_d = 1$ かつ $e_w = 1$ なら、 $e = 1$ です。あるいは、 $e_d = 1, e_w = 0, e_ee_o = 0$ でもそうなります。あるいは $e_d = 1$ かつ $e_o = 0$ でもそうなります。そしてその他、 $e=1$ となる特殊な場合はいろいろあるでしょう。でも一般には、 $e$ は1ではありません。そしてたぶん、現実世界に関する現実的な想定をして、「通貨からの逃亡」という例を除けば(この場合は $e_d$$e_w$ が大きくなります)、 $e$ は一般には1より小さくなります。

セクションVII

 これまでは、お金の量の変化が物価に与える影響を、主に短期で考えてきました。でも長期だと、もっと簡単な関係がないのでしょうか?

 これは純粋理論というよりは歴史的一般化の問題です。もし流動性選好に長期的な均一性の傾向があるなら、確かに国民所得と流動性選好を満たすのに必要なお金の量との間には、悲観期と楽観期の平均を見れば、荒っぽい相関があり得ます。たとえば、人々が国民所得のうち、何も生まない現金として長期的に持ちたがる水準がかなり安定して決まっているかもしれません。ただしこれは金利が何らかの心理的最低線を上回る場合です。そうなれば、活発に流通する量以上の現金があれば、遅かれ速かれ金利はこの最低線のちかくにまで下がってくるでしょう。すると他の条件が一定なら、金利の低下は有効需要を増やし、増えた有効需要は賃金単位が不連続な上昇を起こす、準臨界点のどれかに達します。そしてそれは、物価にもそれ相応の影響をもたらすでしょう。余ったお金の量が国民所得に比べて異常に低い比率ならば、逆の傾向が生じるでしょう。だからある機関にまたがる変動の純効果は、国民所得とお金の量との安定した比率と整合する平均値を確立することであり、人々の心理は遅かれ速かれそこに戻るのだ、と考えられることになります。

 こうした傾向はたぶん、上昇時のほうが下降時よりもうまく機能するでしょう。でもお金の量が長い間不足し続けたら、その逃げ道としては通常、賃金単位を無理矢理下げて債務負担を増やすよりはむしろ、お金の基準を変えたり通貨システムを変えたりすることです。ですから超長期で見た物価はほぼ常に上昇傾向にあります。なぜならお金が比較的たっぷりあるときには、賃金単位は上がります。そしてお金が比較的少ないときには、実質的なお金の量を増やすための何らかの手段が編み出されるからです。

 十九世紀には、人口増と発明増、新しい土地の開放、安心の状態や、(たとえば)10年ごとの平均戦争頻度などのおかげで、消費性向もあいまって、そこそこ満足のいく平均雇用水準と、富の保有者にとって心理的に容認できる金利とが整合するだけの資本限界効率関係(スケジュール)が実現されていたようです。証拠を見ればほとんど百五十年にわたり、主要金融センターにおける長期金利の通例は5%くらいでした。そして優良金利は3-3.5%です。そしてこうした金利は、まあまあ我慢できる程度の雇用を平均で維持できるくらいの投資量を促せる程度に低いものでした。時には賃金単位も調整されましたが、もっと多かったのはお金の基準や金融システムが調整されることで(特に銀行紙幣の発達でこれが生じました)、賃金単位で見たお金の量が、上で示した標準的な金利からほとんど下がらない程度の金利でも、通常の流動性選好を満足させられる程度となっていました。賃金単位の傾向は、いつもながら全体としては安定して上昇しましたが、労働の効率もまた上昇しました。ですから力のバランスを見ると、物価はそこそこ安定したものとなっていました――1820 年から 1914 年にかけての5年ごとのサウアーベック物価指数を見ると、最高時は最低時のたった50%高いだけです。これは偶然ではありません。それは個々の雇用者集団が強くて、賃金単位が生産効率性をあまり上回る速度では上がらないようにできた時代でもあり、また金融システムがそこそこ流動的で十分に保守的なため、賃金単位で見た平均的なお金の供給が金利水準を、富の保有者たちに(その流動性選好の影響下で)容認できる最低水準に抑えられた時代でもありました。そうしたいろいろな力のバランスが、物価安定を可能にしたのです。平均的な雇用水準はもちろん完全雇用を大幅に下回ってはいましたが、革命的な変化を引き起こすほど我慢ならない低さというわけではありませんでした。

 今日、そしておそらくは将来も、資本の限界効率(スケジュール)は各種の理由のために、19世紀よりはずっと低いでしょう。つまり現代の問題が持つ熾烈さと特異性は、したがってそこそこの平均雇用水準を可能にする平均金利が、富の保有者たちから見るとあまりに受け入れがたく、お金の量を操作するだけではすぐに確立できないということから生じているのです。我慢できる程度の雇用水準が、賃金単位で見たお金の適切な供給保証だけで十年、二十年、三十年にもわたって実現できるものなら、十九世紀ですらその方法を見つけ出せたことでしょう。これがいまの唯一の問題なら——もし十分な価値切り下げだけですむなr——今日のわれわれは確実にその方法を見つけ出すはずです。

 でも私たちの現代経済において、最も安定していて変えるのが最も難しい要素は、これまでも、そしてたぶん将来も、富の所有者全般に受け容れられる最低限の金利です2。もし我慢できる雇用水準が、19世紀に主流だったのよりもずっと低い金利を必要とするなら、それをお金の量の操作だけで実現できるかどうか、怪しいものです。資本の限界効率(スケジュール)を見て借り手が期待する利潤率からは、(1) 借り手と貸し手を引き合わせる費用、(2) 所得税など公租公課、(3) 貸し手が自分のリスクと不確実性をカバーするための余裕、という三つが差し引かれて、やっと富の保有者に流動性を犠牲にするよう誘惑するための純収益が得られます。耐えられる平均雇用の条件下でこの純収益がないも同然になってしまったら、昔ながらの手法はつかいものにならないかもしれません。

 話を戻しますと、国民所得とお金の量との長期的な関係は流動性選好に左右されます。そして物価の長期的な安定性や不安定性は、賃金単位(もっと厳密には費用単位)の上昇傾向が、生産システムの効率性向上速度に比べてどれだけ強いかにかかってきます。


  1. 本書17章を参照。

  2. バジョットが引用していた19世紀の格言を参照:「ジョン・ブルはいろんなものに耐えられるが、二パーセントには耐えられない」。

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