上野千鶴子「『マザコン少年の末路』の末路」から、「差別的表現を含む出版物」をめぐる問題、そして著者・編集者・出版社の対応を考える
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まずは、灘本さんの 『上野千鶴子著「マザコン少年の末路」の記述をめぐって』と、 黒木さんの 「『マザコン少年の末路』の末路」の末路 からお読みください。
両者の見解のことなる点は、灘本さんが、 上野千鶴子氏だけが「かやの外」のようになってしまった原因の ひとつは、一回目の対話に上野氏が出席していなかった(そのときが いちばん互いの本音をわって激しい話しあいになった)からでは ないか、と上野氏に同情的な書き方をしているのに対して、 黒木さんのほうは、 「誠実な学者であれば、「自閉症」に関する誤解があったことを契機に、自分自身が広めて来たドグマの限界を正直に語るように変化しなければいけない」 と、かなり厳しく評価しているところです。
じっさい、黒木さんの意見を読むまで、私が灘本さんの文章でいちばん印象に残っていたのが、「第一回目の話し合いに上野氏が同席していれば、もう少し抗議側を納得させられたのではないかと思う」という、意見や立場の異なる両者の話し合いの重要性をしるす一文であり、そこに「差別問題」の解決の可能性を見出す気持ちを私もまた託していたのでした。
お二人の文章を読んで、私自身がまず不思議だったのは、上野千鶴子氏はフェミニズムを推進してきた人なのに、「『母子密着の病理』を強調したい」のはなぜだろうということです。 母親の影響力を絶対視することで、子と密着するか放任するか、 どちらを選んでも、けっきょくは、問題点を「母子関係」に帰着させて、母親は重責から逃れられないことになりますよね。 フェミニズムって、ひとことでいうと、女性がよりらくになれる道をさぐってきたものだと思ってたけれど、母子密着タイプは見捨てられている感じ。 女性を分断して、一方の(子育て以外にさまざまな仕事をしている女性の)生き方にプライオリティを置いて、もう一方の専業主婦をそちらに先導したいあまりに、その生き方の否定面を強調した勇み足というところでしょうか。
そのあとで、86年の初版から約8年後に出された 『マザコン少年の末路〈増補版〉』(94/02/01)の「<付録>『マザコン少年の末路』の末路」を入手して読むと、そのあたりの気づきと反省は書かれていました。
(p.100)久徳重盛の問題の多い著作、『母原病』が刊行されたのは一九七九年のことです。……この本は、版をかさねて八一刷に達し、その後、新装版になってからも四版を重ねています。教育研究者はその後サンマーク出版と名を改め、一九九〇年にさらに『新・母原病』を出版しています。一九八〇年には川名紀美の『密室の母と子』(潮出版社)がでています。その少し前の一九七八年には岩佐京子の『TVに子守をさせないで――ことばをなくした子どもたち』 (水曜社)が物議をかもし、一九八〇年には木村栄の『母性をひらく』(汐文社)が出ました。
マスメディアが喧伝した「母子密着」というキーワードに、私もまたふかくからめとられていました。その点では私もまた、マスメディアの無批判な受け手のひとりであったことを、認めないわけにはいきません。
となると、増補版でいちばん気になる箇所は、最後のまとめのところで、 自分が「障害者の母親」ではないからと、以下のように結論づけているところです。
(p.110)自分の知らない経験については、その当事者に聞くほかないのです。 そうでなければ、女もまた知らず知らずのうちに、他者に対して抑圧的な立場に立っているかもしれません。
この一文は、今回のミスが、自分が当事者でなかったがゆえに起こったことである、という免罪符のようでもあります。それ以上に問題だと思うのは、こういった“直接経験至上主義”とでもいうものが、例の、「差別された者の痛みは本人でないとわからない」といった反差別論のよくある論調にたやすく重なってしまう、ということです。たとえば、「子どもを産んだことのない女にはわからない(女は子どもを産んで一人前)」といった主張を、フェミニストであればもっとも警戒するはずではないでしょうか?
同時に、この主張はもうひとつの面を見えなくさせます。それは「たとえ経験したからといって、その人が(経験していない人以上に)ものごとをわかっていることにはならない」ということです。経験したことそれ自体は、なにかの保証には決してならないと思うのです。経験を絶対視するところには、なにか別の思惑が働いているような気がします。
それはともかくとして、自閉症児の「親の会」などからの抗議によって、話しあいも重ねられ、上野氏の謝罪文(「末路の末路」)を掲載した増補版を出すこと、やりとりの経過を 「上野千鶴子著『マザコン少年の末路』の記述をめぐって」『河合おんぱろす』増刊号として出版したこと、の2点はたいへん評価されるべきことであり、そのおかげで私たちもこうして経緯をさかのぼることができるのだし、このような積み重ねによってこそ、「自閉症の神話」が崩れてゆくのだと信じます。
まさにこの本を参考文献にあげた、 「“「家族」はどこへ” 僕たちマザコン世代の家族」という、 学生によるエッセイに、上野氏の主張の端的な“成果”が見えます。
布施佳宏さんの 自閉症の神話(「京都外国語大学研究論叢」XLZ 1996/09/30)と 自閉症という問題(「京都外国語大学研究論叢」XLU 1994/03/31)。
前者では、 『マザコン少年の末路』『《マザコン少年の末路》の記述をめぐって』 のほか、山田宏一『トリュフォー ある映画的人生』('91)、吉本隆明・ 芹沢俊介『対幻想』('95)の四冊の自閉症を論じた部分について論じて あります。 『カジュアルな自閉症』を知ったことがこの文章を書くひきがねに なったそうです。
布施さんの上野氏への評価も黒木さんとほぼ同様、同情の余地を残して いません。
(上野氏が)巧みなのは、漫談家の如き話術のみである。
日本の学会が「脳の器質障害」という点では一致していることは認めな がら、まだあれこれ逃げ口上をいっているのは、見苦しいかぎりである。
山田宏一氏と布施氏の手紙のやりとりと増補新訂版の顛末は、『マザコン少年』と対照的です。 『対幻想』については、なんと上野千鶴子氏がその問題の箇所をコピーして 河合文化研究所に送ったのが発端だそうです。
文句をつけている母親たちは、自閉症は器質的障害だと学会で決まっている ようなことを言っています。そんな馬鹿なことは絶対ありえないです。つま り細胞の次元まで精神とか振る舞いの異常とか解明できたらそれは言えるけ ど、そんなことが解明できていないのに器質的障害だって言えるのか。ああ いうことを言うやつらのほうがおかしいんですよ」(『対幻想』p.50)。
自閉症の原因が親(とくに母親)にあり、自閉が心因に対する防衛であるとする「自閉症の神話」を完成させたのがベッテルハイム『自閉症・うつろな砦』('67)であり、
「1973年、ベッテルハイムが、フランスのテレビに出演する事なった時、その番組を放映するテレビ局以外のテレビ局はストをしていて、ベッテルハイムの番組がすべてのチャンネルから流れることになり、自閉症関係者の間に大混乱が生じた」
という例を紹介しています(当時から心因説と脳障害説の争いがあったが、 これによって脳障害説の影が薄くなった)。
あと関連するものとして、 よくある嘘のパターン、 自閉症に関する嘘の再生産。
自閉症の人の文章もけっこうウェブで読めるんですね。 (多くは、「高機能群」に属する方々なのだと思いますが) マルハナバチさんによる以下の文章がおもしろかったです。 佐々木正美先生の講演会にいきました、 ろう文化は自閉文化のモデルになりうるか。
以下のような意見は微妙でしょうか?
「新しい障害者運動の視点」菅井邦明(コミュニケーション障害学 東北大学教育学部教授)「ノーマライゼーション 障害者の福祉」1997年10月号(第17巻 通巻195号)20頁
第79回人口問題審議会総会議事録の、おしまいのほうの宮台真司氏の意見。また障害児だからといって、本人の意志を十分聞かずに、援助・介助する ような子育ての仕方を変えていかないと、一人で生きていく心が育ちにくい。 マザコン、過保護、障害者の自立を阻むのは親だ、等の言葉に我々大人は 十分耳を傾け、反省する必要があると思われる。
ブルーノ・ベッテルハイムの著書
人間として生まれた子が野生児になるとき20年以上前、[うつろな砦]というベストセラーにより、 [自閉症=冷淡な親の育て方に起因する精神疾患]というイメージを 作ったシカゴの児童心理学者ベッテルハイムが進める療法です。 子供のいやがることはしない/させない(=非命令、非指示)、子供 のしたがることはすべて受け入れ(=絶対受容、完全受容)、 アイコンタクトを求めてきた時にはしっかり微笑んであげるという ようなものです。この療育法が成果をあげないことは現在はっきり しています。
[うつろな砦]自体は、自閉症児の親からの間違った記述の指摘をうけ、現在出版されていないため読むことはできません(読みたくもありません)が、ベッテルハイムの理論を受け継いだ人たちによってかかれた本は今現在でも大手書店の障害、福祉のコーナーにならんでいます。 ハイファンクション(高機能)自閉症者であるドナ・ウィリアムスさん 自身も、母親からひどい仕打ちを受けたにもかかわらず、自閉症を母親に起因する心因性の疾患とする人たちの事を[なんでもかんでも母親が悪い症候群]と呼んでいます。
20年以上前までは大学の授業の中で自閉症のことを[母源ママ病] として講義されていたそうです。専門外の医師や自閉症について 新しい情報を学んでいない医師には、まだまだこういった考えの方が多く 非常に困りものです。(高齢の医師に多いようです。)
ブルーノ・ベッテルハイムは次の様に述べている。
野生児というのは、アベロンの野生児のような精神薄弱児もいるだろうが、大部分の子は重度の幼児自閉症なのだ、と。彼らの行動は、破壊的ともいえるほど続けさはてきた諸経験と結びついた、極度な情緒的孤立によるものである。換言すれば、野生児は狼が母親のように行動するときに生ずるものでなく、人間の母親が人間味に欠けた行動をする時に生ずるものである。(89/10/30) 【国際学院埼玉短期大学・卒業研究論文集・平成元年度】
nifty三原順会議室 発言00974 おかのさん”マーシア発見!”より
「マーシア」というキャラが登場します。しかもも、やはりくるくると 指を廻し、耳(鼻も)をふさいで食事をするとのこと。 症状はクークーよりも重い描写。「ローリー」と「ジョイ」という名の 子も、この本で登場するということです。 「カッコーの鳴く森」でのクークーの言葉?にたいして三原さん ご自身が「B・ベッテルハイム『うつろな砦』がもとです」 とコメントしているそうです(「はみだしっこ語録」より)。
ベッテルハイム著『自閉症 うつろな砦』に対して絶版要求を行った時の経過を記録した、大山正夫著『ことばと差別 本の絶版を主張する理由』 明石書店(1994)
四章構成。第一章は『ちびくろサンボ』の絶版について考察したもの。
- 流通している書籍に対して抗議や批評を行う自由が存在するなら、 絶版や回収を求める自由も同様に存在する。
- ある呼称の差別性の判定は、呼称によって表現されている人々が 依って立つルールに基づいてなされるべきである。たとえその判定が、 当該ルールを共有しない者から見れば理解不能であったとしても、 相手のルールが出した結論を受け入れるべきである。
第二章は、著者がベッテルハイム著『自閉症 うつろな砦』 (みすず書房)に対して絶版要求を行った時の経過を記録したもの。 著者からみすず書房に宛てて送られた書簡がほぼ原文どおりに収め られている。絶版要求の論拠は次の二点。みすず書房はこれを認め、 絶版要求に応じたらしい。
『昔話の魔力』など、昔話の子どもへの影響を 論じたベッテルハイムの著作については、現在も肯定的に引用されている。引用した文面を読むかぎり、私には「とんでも」に近いと思われるのだけど。
『昔話の魔力』 ブルーノ・ベッテルハイム 著、 波多野 完治・乾 侑美子 共訳 (評論社) 1976年
昔話の中によく登場する 数字の3は、潜在的に”性”を表現しているのだという。 ほかにも「赤ずきんちゃん」のおおかみは”男性”を 赤いずきんをかぶるということには”性のめざめ”を意味する。 「シンデレラ」が寝床にしていた炉の側も"母性”を象徴していて、脱ぎ捨てていく ガラスの靴もやはり"性”を意味するのだという。「ジャック と豆の木」の豆の蔓が上に向かって伸びていくのは”男性性器”お母さんのいいつけにそむいて大事な牛を豆と取り換えるのは”母からの自立 ”を現しているというのだ。
『赤ずきん』の童話−ヴァリエーションとパロディの世界−
B・ベッテルハイムは、「赤ずきんは、まるで帝王切開のように狼の腹を切って助け出されるから妊娠と出産がほのめかされている」と言っている。 処女を失った後、彼女からは以前の子供らしさは消え失せている。 この後、大きな石ころをいくつも狼のおなかの中へ詰め込む赤ずきんの 行動は彼女が既に幼児性を脱却し大人の仲間入りをしたことを示している。