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ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子、お金の一般理論』(1936) 第 II 巻:定義と考え方

第 6 章 所得、貯蓄、投資の定義

(山形浩生
原文:https://bit.ly/pvuf4Y

セクションI: 所得

 どんな期間をとっても、ある事業者は完成した産出を消費者や他の事業者に販売し、一定の金額を受け取ります。この金額を $A$ と書きましょう。さらに、他の事業者から完成品を買うために、ある金額 $A_1$ を使っています。そしてまた手元に資本設備が残っています。この用語は、仕掛品や運転資金や完成品在庫も含むものです。この価値を $G$ とします。

 でも $A + G - A_1$ の一部は、検討しているその期の活動からきたものではなく、期首にその事業者が持っていた資本設備によるものです。したがって当期の所得と言うときに意味するものを得るには、 $A + G - A_1$ から一定の金額を差し引く必要があります。その額は、前期から引き継いだ設備が(言わば)貢献した価値を示す分です。この差し引き分を満足のいく形で計算できる手法が見つかれば、所得の定義問題はすぐに片付きます。

 これを計算する原理としては二つの可能性があり、どちらもそれなりの意義を持っています——一つは生産から見るやり方、もう一つは消費との関連で見るやり方です。これを個別に見ていきましょう。

 (i) 期末の資本設備の価値 $G$ は、その事業者が一方では当期中にそれを維持改善した結果であり(これは他の事業者から何か購入して行ったり、あるいは自分で何か作業をした結果だったりします)、一方ではそれが産出を生産するために使うことで、摩耗したり償却したりした結果でもあります。でもそれを産出の生産に使わないことにした場合でも、その維持管理や改善のために支払うべき、ある最適な額があります。仮にここで、そうした維持管理や完全に $B'$ が支払われたはずだとして、もしその支出が行われていれば、その設備の期末価値は $G'$ になっていたとしましょう。つまりその設備が $A$ の生産に使われなければ、前期から保存された最大の純価値は $G' - B'$ だということです。 この設備の潜在価値が $G-A_1$ を上回る分は、 $A$ の生産により(何らかの形で)犠牲になった分の指標です。この量、つまり:  $$(G' - B') - (G - A_1)$$

 すなわち、 $A$ の生産のために犠牲となった価値を、 $A$ の利用者費用と呼びましょう。利用者費用は $U$ であらわします1。この事業者が、他の生産要素に対してそのサービスの対価として支払う金額は、その生産要素側から見れば自分たちの所得になりますが、これを $A$ の要素費用と呼びましょう。要素費用 $F$ と利用者費用 $U$ の合計を、産出 $A$ の原価と呼ぶことにします。

 すると事業者の所得2は、当期に売却された完成品の価値のうち、原価を上回る部分として定義できます。つまり事業者の所得は、生産規模に応じてその事業者が最大化しようとするものの量、つまりごく一般的な意味での総利潤に等しいというわけです——これまた常識になじみます。ですから、社会の他の部分の所得は事業者の要素費用に等しいので、社会全体の総所得は $A-U$ となります。

 このように定義された所得は、完全にあいまいさのない量です。さらに事業者が、他の生産要素に対してどの程度の雇用を提供するか決めるときに最大化しようとするのは、この所得が他の生産要素に対する支出をどれだけ上回るかという期待額です。ですから、雇用の因果関係にとって重要となるのは、この量なのです。

 もちろん、 $G-A_1$$G'-B'$ を上回ることは考えられ、利用者費用がマイナスになることもあり得ます。たとえば期間の選び方次第では、その期の投入は増えていたけれど、それによる産出の増分はまだ仕上げが間に合わずに販売できないかもしれません。また投資がプラスなら、産業があまりに統合されすぎて、事業者たちはほとんどの設備を自前で作るようになるかもしれません。でも利用者費用がマイナスになるのは、事業者が資本設備を自分の労働によって増やしている場合だけです。だから資本設備のほとんどが、その使用者とは別の企業によって製造されている経済においては、利用者費用は普通はプラスだと考えてよいのです。さらに、 $A$ の増加に伴う限界利用者費用、つまり $\frac{dU}{dA}$ がプラスにならない例はなかなか考えられません。

 ここで、本章の後の部分を先取りして、社会全体としては当期の総消費 ( $C$ ) は $\sum(A-A_1)$ に等しく、総投資( $I$ ) が $\sum (A_1-U)$ に等しいことを述べておくと便利でしょう。さらに $U$ は、個々の事業者が自分の設備に対して行うマイナス投資(そして $-U$ は投資)で、他の事業者から買う分を除いたものです。ですから完全に統合された経済系( $A_1=0$ の場合)では、消費は $A$ に等しく、投資は $-U$ に等しく、つまり $G-(G'-B')$ に等しくなります。いまのがちょっとややこしいのは $A_1$ を導入したからで、これは統合化されていない生産系の場合用に、一般化した記述をするのが望ましいからです。

 さらに有効需要というのは単に、事業者たちが、現在提供しようと決めた雇用量に基づいて受け取ると期待している総所得(または売り上げ)のことです。これは他の生産要素に支払う所得も含みます。総需要関数は、各種の仮想的な雇用量を、それによる産出が生み出すはずの収益と関連づけるものです。そして有効需要とは総需要関数上の点で、それが有効になるのは、供給条件とあわせて考えたとき、そこが事業者の期待利潤を最大化する雇用水準に対応する点だからなのです。

 この定義群は、限界売上(または限界所得)を限界要素費用と同一視できるというメリットもあります。したがって、利用者費用を無視したりゼロと仮定したりすることで、供給価格3と限界要素費用4とを等しいとしてきた一部の経済学者の主張と同じような主張に到達し、こうして定義した限界売上げを限界要素費用と同一視できるわけです。

 (ii) 次に、上で言及した第2の原理に目を向けましょう。ここまでは、期首と比べた期末の資本設備の価値変化のうちで、利潤最大化を狙う事業者の自主的な決断に関わる部分を扱ってきました。それに加えて、自分にはどうしようもなく、現在の決断とは関係ない理由で生じる、非自発的な損失(あるいは利得)があるかもしれません。それは例えば市場価値の変化、陳腐化や単なる時間経過に伴う価値低下、あるいは戦争や地震などの災害による破壊などがあるでしょう。さてこうした非自発的な損失は、避けがたいものですが——全般的には——予想外ではありません。使用の有無にかかわらず時間経過で生じる損失や、「通常」の陳腐化、ピグー教授に言わせると「十分に定常的に発生して、細部はさておき、少なくとも大まかには予見できる」もの、あるいは追加して言うなら「保険可能なリスク」と一般に思われるものも含みます。期待損失の量はその期待がいつ形成されると想定するかにもよる、という事実はとりあえず無視しましょう。そして設備の減価償却(これは非自発的ですが予想外ではありません)、つまり予想される減価償却のうち利用者費用を超える分を、補填費用と呼び、 $V$ と書きましょう。この定義がマーシャルの補填費用の定義とはちがうことは、言うまでもないでしょう。でもその根底にある発想、つまり予想される減価償却のうち原価に入らないものを別立てにしようという考え方は似ています。

 ですから事業者にとっての純所得と純利順を考えるにあたっては、上で定義した所得や粗利から推定補填費用を差し引くのが通例です。というのも、自分が使うか貯蓄するか自由に決められるのはいくらかを考えているとき、補填費用が事業者に与える心理的な影響は、それが粗利からやってきた場合と実質的に同じだからです。設備を使うかどうか決める生産者としての立場だと、上で定義した原価と粗利が重要な概念となります。でも同じ人が消費者の立場だと、補填費用がいくらあるかは、それが原価の一部であるかのように作用するのです。ですから、もし総純所得を定義するとき、利用者費用に加えて補填費用も差し引いて、総純所得が $A-U-V$ となるようにすれば、一般の用法にきわめて近いところに来ただけでなく、消費額に関係した概念にも到達したわけです。

 残るのは、市場価格の予想外の変動、異常な陳腐化や、災害による破壊などです。これはどれも非自発的だし——広い意味では——予見できません。この費目下の実際の損失は、純所得でも含め名図に資本勘定に計上しますが、突発損失とでも呼びましょう。

 純所得の因果関係における重要性は、 $V$ の規模が当期消費量に与える心理的影響にあります。というのも純所得とは、一般人が当期消費にいくらかけるかを決めるとき、自分の使える所得として認識する額だと想定されるからです。もちろん、いくら使うか決めるときに考慮する要因は、これだけではありません。たとえばその人が資本勘定でどれだけの突発利益や損失を出しているかは、かなりのちがいをもたらします。でも補填費用と突発損失とでちがうのは、前者の変化は粗利の変化とまったく同じ形で影響する、ということです。事業者の消費に関係するのは、現在の産出の売上げが、原価と補填費用の合計をどれだけ上回るかということです。これに対して、突発損失(または利益)は決断を左右はしますが、同じ規模では左右しません——ある突発損失は、同額の補填費用と同じ影響は持たないのです。

 でもここで思い出しておくべきことがあります。補填費用と突発損失との間の一線、つまり所得勘定から差し引くのが適切だと思われる、避けがたい損失と、突発損失(または利益)として資本勘定に計上するのが適切だと思われるものとの間の一線は、部分的には慣習または心理に基づくものでしかなく、前者を推計するために一般に認められた基準に左右されるのだ、ということです。というのも、補填費用の推計には、これ一発という原理は確率できず、その額は会計手法の選択に左右されるからです。その設備が最初に製造された時点なら、補填費用の見込み価値は決まった量です。でもそれがその後見直されると、その設備の残った寿命についての補填費用は、それまでの期待変化のおかげで変わっているかもしれません。突発資本損失は、前者と $U+V$ の見込み時系列値の差を割り引いた値になります。補填費用と利用者費用の合計金額を設備購入時に計算して、それを設備寿命の間ずっと維持し、その後の期待がどう動こうと変えない、というのは企業会計で広く認められた手法だし、税務当局もこれを認めています。この場合、ある期間の補填費用は、この事前に計算した数字に対して、実際の利用者費用がいくら上回っているかという金額だと解釈すべきです。これは突発利益や損失が、設備の寿命全体で見ると確実にゼロになるという利点があります。でもある状況では、任意の会計間隔をおいて、当期の価値や期待に基づいた補填費用の見直しをするほうが理にかなっていることもあります。実はビジネスマンたちも、どっちの道を採用するかで意見がわかれています。設備が最初に購入されたときの、当初の期待補填費用を基本補填費用と名付け、現在の価値と期待に基づき計算しなおしてアップデートさいたものを、当期補填費用と呼ぶといいかもしれません。

 ですから、補填費用というのは典型的な事業者が、配当(株式会社の場合)や当期の消費(個人の場合)を決めるときに、何を自分の所得として考えるか決める際の、控除金額を構成するものです。補填費用について、これ以上の定量的な定義には近づけません。資本勘定への突発的な計上を考慮からはずしたりはしないので、迷ったらその費目は資本勘定につけて、補填費用にはどう見ても明らかにそちらに属するものだけを含めるほうがいいでしょう。というのも資本勘定につけすぎた場合でも、それが当期消費に与える影響を増やせば補正できることだからです。

 これから見ることですが、ここでの純所得の定義はマーシャルによる所得の定義ときわめて近いものです。マーシャルは所得税徴税官たちの慣行にすがり——大ざっぱに言えば——徴税官たちが経験の上から所得として扱うことにしたものはすべて、所得だと考えることにしました。というのもかれらの意思決定の細かい内容は、通例として何を純所得として解釈するかについての、もっとも慎重で徹底した探求の結果と考えられるからです。これはまたピグー教授による直近の国民配当の定義の金銭価値にも対応します5

 しかしながら、純所得は各種の権威の間でも解釈が異なりかねないようなあいまいな基準に基づいているので、完全に明確ではないというのもやはり事実です。たとえばハイエク教授は、資本財の個人所有者は自分の所有物から得る所得を一定に保とうとして、投資所得が何らかの理由で低下する傾向を相殺できるだけの額を予備で持たない限り、所得を自由に消費したいとは思えないかもしれない、と指摘しています6。私はそんな個人が実在するとは思えません。でも当然ながら、こうした控除が純所得の心理的な基準をもたらす可能性について、理論的に反対することはできません。でもハイエク教授が、貯蓄や投資の概念がこれに対応したあいまいさという難点を持つと言い始めると、それが正しいのはハイエク教授が純貯蓄や純投資の話をしている場合だけです。雇用の理論に関係する貯蓄と投資はこうした欠陥を持たず、したがって客観的な定義が可能です。これは上で示した通りです。

 ですから、純所得は消費に関する決断にしか関係しないし、それ以上に、消費を左右する他の要因とはきわめて微妙にしか隔てられていないので、そればかりを強調するのはまちがいです。そして通常の所得の概念を(通例のように)見すごすのもまちがいです。これこそ当期生産に関わる決断に関係がある概念だし、まったくあいまいなところがないからです。

 上の所得と純所得の定義は、できるだけ一般用法に合致するよう意図したものです。したがって、ここで読者のみなさんに、拙著『お金の理論』では所得というのを特別な意味で定義したということを、あわてて忠告しておくべきでしょう。かつての定義の奇妙なところは、総所得のうち事業者に集積する部分に関連するものです。というのも私は当期の活動での実績利潤(粗利だろうと純利潤だろうと)を使わず、また当期の事業を行うと決めたときの期待利潤も使わず、ある意味でいうなら(今にして思えば産出規模の変動の可能性を考えればきちんと定義されていないのですが)通常利潤または均衡利潤とでも言うべきものを考えていたのです。結果として、この定義によれば貯蓄は投資を上回り、その差額は通常利潤が実績利潤を上回った額ということになっていました。残念ながら、この用語法はかなりの混乱を引き起こしたようです。特にそれと関連する貯蓄という用語の利用の場合です(特に貯蓄が投資を上回るという議論の場合)。そうした議論は、私の特殊な用法で解釈した場合にしか有効ではないのですが、それが一般の議論で、もっと通常の語法で使われているかのようにしばしば濫用されてきたのでした。この理由と、そしてもはや以前の用語で私の考えを正確に表現しようとする必要がなくなったために、前の定義は捨てることにしました——それが引き起こす混乱については大いに遺憾とするものです。

セクションII:貯蓄と投資

 用法がばらばらな用語だらけの中で、何か一つ固定された点を見つけるのは望ましいことです。私の知る限り、みんな貯蓄というのが、所得のうち消費を超える分を意味する、という点では合意しています。したがって、貯蓄ということばの意味について疑念があれば、それは所得または消費ということばの意味に関する疑念から生じるものであるはずです。所得は上で定義しました。あらゆる期間で、消費支出というのはその期間に、消費者に対して売られた財の価値を意味するはずで、これは消費者-購買者というのが何を意味するのか、という問題に逆戻りです。消費者-購買者と、投資家-購買者との間の一線については、それなりの定義であれば、どれだろうとここでの議論には不都合はありません。ただし、それを一貫して適用することが重要です。たとえば、自動車を買うのは消費者購買で家を買うのは投資家購買として扱うのが正しいか、といった問題は何度も議論されていて、その議論に追加すべき内容を私は持ち合わせていません。この基準は明らかに、消費者と事業者との一線をどこに引くか、という問題に対応しています。ですから  $A_1$ をある事業者が別の事業者から購入したものの価値と定義したとき、私たちは暗黙のうちにこの問題を解決してしまったわけです。そこから、消費支出というのはあいまいさのない形 $\sum (A-A_1)$ と定義できます。ここで $\sum A$ はその期の総売り上げで、 $\sum A_1$ はある事業者が別の事業者に対して行った総売上げです。以下では、原則として $\sum$ は取って、あらゆる種類の総売上げを $A$ と書き、ある事業者から別の事業者への総売上げを $A_1$ 、そして事業者にとっての総利用者費用を $U$ と書くとベルン李です。

 これで所得と消費を定義したので、貯蓄の定義も自然に出てきます。貯蓄は所得が消費を上回る余りです。所得は $A-U$ で消費は $A-A_1$ なので、貯蓄は当然 $A_1-U$ となります。同様に、純所得が消費を上回る余りとして純貯蓄が得られ、これは $A_1 - U - V$ となります。

 ここでの所得定義はまた、すぐに当期投資の定義も出してくれます。というのも当期投資というのは、その期における生産活動の結果として得られた、資本設備の価値に対する当期の追加分を意味するとしか考えられないからです。これは明らかに、いまここで貯蓄として定義したものと同じです。というのもそれは、その期の所得のうちで消費にまわらなかった部分だからです。上で見たように、ある期の生産結果として、事業者たちは $A$ の価値を持つ完成品を販売し、それを生み出すために資本設備は、他の事業者からの購入のために $A_1$ を支払った後で、摩耗 $U$ を被った(あるいは $U$ がマイナスなら、 $-U$ に相当する改良をほどこされた)わけです。その同じ期に、 $A-A_1$ の価値を持つ完成品が消費にまわったことになります。 $A-U$$A-A_1$ を上回る分、つまり $A_1-U$ は、その期の生産活動の結果として資本設備に追加されたもので、したがってその期の投資ということです。同様に $A_1 - U - V$ は、資本設備への純追加分で、使用による損耗以外の通常の資本価値低下と、資本勘定に計上できる予想外の設備価値変化を除外したものです。これはその期の純投資となります。

 したがって、貯蓄の量は個々の消費者の集合的な行動の結果だし、投資の量は個々の事業者たちの集合的な行動の結果ですが、この二つは必然的に等しくなるのです。というのも、そのどちらも所得が消費を上回る分だからです。さらにこの結論はいかなる点でも、上で挙げた所得の定義の細部や特異性に依存したものではありません。所得が当期産出の価値に等しいこと、そして当期投資は、当期産出のうち消費されなかった部分の価値に等しいこと、さらには貯蓄が所得のうち消費されなかった余りに等しいことが同意されれば——このどれも、常識にしっくりなじむし、また大多数の経済学者による伝統的な用法にもなじみます——貯蓄と投資の等価性は自然に出てくるのです。つまり——

所得 = 産出の価値 = 消費 + 投資
貯蓄 = 所得-消費
よって、貯蓄 = 投資

 したがって、上の条件を満たす定義群はどれも、同じ結論をもたらします。この結論を避けるには、定義のどれかの有効性を否定するしかありません。

 貯蓄量と投資量の等価性は、資本設備の生産者と、その反対にいる消費者または購入者との取引が双方向的なものだという性質からきます。

 所得は、生産者が売却した産出から得た価値のうち、利用者費用を上回る分で創られます。でもこの産出のすべては、消費者か別の事業者に売られたのはまちがいありません。そしてそれぞれの事業者の当期投資は、他の事業者から購入した設備のうち、自分自身の利用者費用を上回る部分となります。したがって経済全体で見れば、所得のうち消費を上回る部分、つまりここで貯蓄と呼ぶものは、資本設備への追加、つまりは投資と呼ぶものと等しくならざるを得ないのです。そして純貯蓄と純投資についても話は同じです。貯蓄というのは、単なる剰余分でしかありません。消費しようという決断と投資しようとする決断が、共に所得を決定します。投資しようという決定が有効になったら、それは消費を抑えるか所得を拡大するかで実現されるしかありません。ですから投資という活動自体が、ここで貯蓄と呼ぶ剰余または余白を同じだけ増やさざるを得ないのです。

 もちろん個人がそれぞれ、いくら貯蓄して投資するかという決断においてあまりに混乱しているため、取引が起こるような価格均衡点は存在しないかもしれません。この場合にはここでの用語はあてはまらなくなります。というのも産出にははっきりした市場価値がなくなり、価格はゼロと無限の間で落ち着き場所がなくなるからです。でも経験から見て、これは実際には起こらないことがわかります。そして心理的な反応の習慣のおかげで、売る意欲と買う意欲が等しくなったところで均衡が生じることもわかります。産出の市場価値なるものが存在するということは、同時に名目所得がはっきりした価値を持つための必要条件でもあり、また貯蓄する個人たちが決めた総額が、投資する個人の決めた投資総額に等しくなるための十分条件でもあります。

 この問題について頭をすっきりさせる最高の方法は、貯蓄する決断というものを考えずに、消費するという決断(または消費しないという決断)を考えることかもしれません。消費するかしないかという決断は、まぎれもなく個人の力の範囲内にあります。投資するかしないかの決断も同じです。総所得の量と総貯蓄の量は、消費するかしないか、投資するかしないかという個人の自由な選択の結果なのです。でもそれはどちらも、消費と投資に関する決断を無視した勝手な決断に基づくような、独立した値を採ることはできないのです。この原理にしたがって、本書のこの先では、貯蓄性向または貯蓄傾向のかわりに、消費性向という概念を使います。


  1. 本章のおまけで、利用者費用についてはさらに考察を行います。

  2. これは以下で定義する、事業者の純所得とは別物です。

  3. 供給価格というのは、私が思うに、利用者費用の定義問題を無視するなら、不完全にしか定義されていない用語になると思います。この問題は本章のおまけでさらに議論されており、そこでは利用者費用を供給費用から除外するのは、ときに供給総額の場合には適切ですが、個別企業の産出一単位の供給価格の問題においては不適切だ、と論じます。

  4. たとえば総供給関数として $Z_w = \phi(N)$ 、あるいは $Z = W\phi(N)$ を考えます( $W$ は賃金単位で $WZ_w = Z$ )。すると限界生産の売上げは、総供給曲線上のあらゆる点で、限界要素費用と等しくなるので、 $$\Delta N = \Delta A_w - \Delta U_w = \Delta Z_w = \Delta \phi(N)$$ となります。これはつまり、 $\phi'(N)=1$ ということです。ただし、要素費用が賃金単位に対して一定の比率で、各企業(企業の数は一定とする)の総供給関数は他の産業で雇用されている人数とは独立だと仮定します。これで上の方程式の各項は、個別事業者についても成り立ち、また全事業者について総和もできます。これはつまり、もし賃金が一定で他の要素費用が賃金総額に対して一定比率なら、総供給関数は線形となって、その傾きは名目賃金の逆数で与えられます。

  5. 『エコノミック・ジャーナル』1935年6月, p. 235.

  6. 「資本の維持」、『エコノミカ』1935年8月 p. 241 et seq.

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2011.12.26 YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)


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