神託(預言、天啓)
oracles (prophecies and revelations)
神託所とは神殿や寺院の聖域のことで、預言にある神への崇拝と神のもとで諮問を受けるために神聖化されている。こうした神殿で神の預言を伝える人物は神託者(または預言者)と呼ばれ、預言そのものは神託と呼ばれる。[訳注] こうした神殿で伝えられる預言は、しばしば意味不明な言葉の羅列だったり、寓話だったりする。ユダヤ−キリスト教の伝統では、神託は預言(prophecy)あるいは啓示(revelation)と呼ばれる。
[訳注]英語では神託所、預言者、神託はすべて oracle とよばれる
たとえ神が特別な人間にしか話さないとする意見を認めたとしても、ではそれ以外の者は、妄想と本物の神託を、いったいどうやって区別したらよいのだろう?啓示を受けなかった者は、啓示を受けたと主張する者が本当に啓示を受けたのかどうか、いったいどうやって知ったらよいのだろうか?
神託と啓示は人の言葉である。こうした言葉に神性を与えうるのは神への忠誠心だけである。
幻視や夢の中に天使が現れて、息子を生け贄にささげるよう命じられたとしよう。たとえそれが神の意志だからといっても、自分の息子を殺そうとするような人間がいったいどんな人物か(この場合はどんな動物か、と問うてもいいだろう)、自問してみたらいい。こうした夢や幻視が妄想や悪夢だと即座に判断できないとしたら、そいつは一体どういう類いの人物だろうか?人はいつも、自信の悪しき行いを正当化する理由を探しているものだ。そして``神の意志''こそがその言い訳の最たるものなのだ。人はまた、いつも他人を操る方法を探しているものだ。そして人を意のままに操るには``神の力''は銃と同じぐらい役に立つのだ。
預言者の中には、ノストラダムスのように宗教とは無関係な者もいる。
オカルト信仰は未来を知りたいという願望から発したものだ、私はそう思う。だが残念ながら、未来へ確かなガイドは過去しかないし、それすら常に信頼できるわけではない。預言の中にはある程度当たったものもあるからという理由で、預言の信者は預言の現実性には確かな証拠があると考えている。だが預言の多くは曖昧なもので、何通りもの解釈ができるし、およそ幅広い出来事に当てはめることができる。こうした預言の中には互いに相反する出来事だってある。預言の中には、出来事が起きた後で作られたものもある。たとえば、ノストラダムスがナチスの事件を何世紀も前に預言していた、といわれたのは、ヒトラーが死んで打倒されたあとの話である。預言の中には偶然当たったものもある。偶然の出来事の中には、ちょっと聞いただけでは起こりそうにないけれども、じつは全然珍しくない、ありがちな出来事だってある。カリフォルニアで地震が起きるだろう、と預言するのは、べつにたいしたことではない。というのも、カリフォルニアでは毎年何千回も地震が起きているからだ。アメリカ兵がボスニアで地雷を踏んで死ぬだろう、などという預言を聞いたらびっくりする人がいるだろうが、じつはたいして危険な預言でもないのだ。結局のところ、オカルト信仰は選択的思考によるところが大きいのだ。私たちは当たったことばかり覚えていて、はずれたことは都合よく忘れてしまうものなのだ。
関連する項目:神 (God)、易経 (I Ching)。
|