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(Last update:1999/11/08)

玲奈訳『ちびくろさんぼ』は、プロジェクト杉田玄白協賛テキストです。(趣意書

この翻訳は、グラント・リチャーズ社から1899年に出版されたヘレン・バナーマン作 "The Story of Little Black Sambo"の初版をもとにしている(英文併記)。 プロジェクト・グーテンベルグに置いてある 英文 は、単純なタイプミスが何ヵ所かあるのと、それ以上に残念なのが、原作のページ割りを無視して、文章がつらなっていることだ。

原作は、センテンスや単語の途中でつぎのページに進むなど、 筋運びの効果を狙ったきめのこまかい工夫がいっぱいなされている(訳してみて気づいた)。 ――絵とくみあわせてお話を楽しむこと、ページをめくる動作にともなう喜び、くりかえしと 起承転結、えとせとら――ようするに、絵本のおもしろさのいろんな要素が詰まってる。

わらべ唄に絵をつけたり昔話に挿絵を添えた児童書が主流だった19世紀末に、 ヘレンは、真に画期的なオリジナルの物語絵本を創作した、数すくないひとりだった。

『ちびくろさんぼ』はほんとうはどんなお話だったのか。日本では、改作だけが氾濫して、しかも原典に忠実な訳本の出ないうちに、いっせいに絶版(1988年末)という過去があるから、うろ覚えの記憶やかんちがいが伝言ゲームのように広まってゆくばかり。

絵本は本来、絵と文とを切り離せるものではない。 できることなら、このサイトに置いた『ちびくろさんぼ』も、 ウェブとハイパーリンクの特性を生かしながら、絵本をめくる感覚に近づけたかった。 版権のために肝心のヘレンのイラストを使えないのはざんねんだけれど、 苦肉の策にいたった心中を察してくださいな。 (レオ・レオニの『Little Blue and Little Yellow』からインスピレーションを得た。 けれども後半に行くほどこの方法では描くのがむずかしくなっていって困った。ヤシの木とか、バターとか……)。

能書きが長くなりすぎじゃあ。それでは、お楽しみくださいまし。 あっ、と、そのまえに、じゃなくて、あとでもいいんだけど、 この下のほうの、リカちゃんによるこの物語の背景説明にも、 ちょっと寄ってってくださいな。(99/10/22)


バナーマン、ヘレン『ちびくろさんぼ』

原題:The Story of Little Black Sambo
訳者:玲奈

バージョン:1.1(99/11/08)
翻訳: html版Text版
コメント:原文併記。訳者によるイラストつき。


脚注のほうが長い、作品の歴史的な背景といくつかのポイント
(といっても、注はまだ散らかりほうだい。本文も未推敲)by Licca

初代リカちゃん人形の看板 もしもし、あたしリカよ。 5月3日生まれの永遠の11歳。よろしくっ☆ ラッセルさんによれば、リカは “日本人の理想的な自画像”をあらわしてるんですって。それはともかく。 きょうは、パリに住んでるいとこのシャルルくんについてじゃなくって、 インドに住んでたすてきなヘレンおばさま(の受難)と彼女の(ちょっと人騒がせな) 作品をめぐるお話よ。

原作はこんなふうにして19世紀末に出版された

それは1898年のこと。インドで暮らすヘレンおばさまは、離れた避暑地にいる 6歳と3歳の娘ふたりを喜ばせるために、自分で考えたお話に挿絵をつけ、 絵本にして送りました。 あるとき訪ねてきた友人アリス・ボンド夫人の目にとまり、近々イギリスに戻るから 出版してくれるところを探したいともちかけられます。 ヘレンは気がすすまなかったけれど、 「版権だけは売らないでほしい」と条件をつけて、その手づくり絵本をあずけたの。

アリスさんがロンドンの若い出版社にもちこんだら、すぐに採用されたのは よかったけれど、リチャーズ社長に強引におしきられて、版権も手放してしまったの (ヘレンおばさまの受難その1)。 そうしてクリスマス商戦もあてこんで、 1899年10月31日、「ずんぐり文庫(DUMPY BOOKS)」の第4巻として出版されたのです。 []

有力週刊誌の超好意的な書評も得て[]、『ちびくろさんぼ』は売れに売れ、 1902年4月までに47,000部、1903年までに8版を重ねました。 すさまじい人気はまもなくアメリカにも飛び火したのだけど、 リチャーズさんが版権登録の手続きを怠ったものだから、 すぐにたくさんの海賊版が出まわってしまったの(ヘレンおばさまの受難その2)[]

ヘレン・バナマンという作者名の表示すらしないで、舞台をアメリカ南部にうつしかえて、 黒人を主人公に描いたものが多かったみたい (海外の「さんぼ」の本にすこし画像を紹介)。 そのことをヘレンがどれぐらい知っていたかはわからないけれど、 どのみち、どんな「にせもの」に対しても、法律的にまったくなすすべがなかったわけ。 []

日本で出まわった改作にしても、まあ、似たような状況で、 アメリカの海賊版をお手本にしたようなものまであったというしだい。日本の 「さんぼ」の本リストを参照ね。 []

それでも、アメリカではいちおうオリジナル直系の本も――しだいに版が痛んで線が つぶれたり、すこし絵に手が加えられて魅力が半減してはしているけれど―― ちゃんと出版されつづけてきたのに対して、日本では、一度も、1冊の絵本としては、 ヘレンの絵によるオリジナルが出版されたことはなかったの(1999年5月に径書房から復刻版が出るまではね)。 []

いろんな誤解をうけたまま100年を経て現在にいたる

もうひとつ、リチャーズさんの過失について書いておかなくちゃ。 初版本に書かれた序文には、まったくいいかげんな「作者紹介」がふくまれているの (ヘレンおばさまの受難その3))。 まさか嘘が書いてあるなんて読者は思いもしないから、 それがずっとうのみにされてきたおかげで、いまだにかんちがいしたまま、 ヘレンおばさまを批判する人もいるのね。序文をここで訂正して おくわね。

原作のすごくてすばらしいところ

てのひらサイズで幼い子でも読みやすいことや、 見開き単位で、絵と文章がぴたりとくみあわさっていたり、 ときどき文章がページで完全に終わってなくてつぎにつづいてることなども、 当時としては画期的な試みだったの。

広告コピーふうにいうと、 型破りの話題の書としてイギリス中の老若男女に熱狂的に歓迎され、 無名の主婦が一躍ベストセラー作家、ってわけ。 絵本は決して、「挿絵の多い童話」や「文字量の少ない児童文学」ではないし、 イラストのすきまに文字が並んでるだけのものでもない、ってことを、 リカも『ちびくろさんぼ』からおそわったの。

『ピーターラビットのおはなし』が造本や構成に似た特徴をもっているから、日本の読者にもすっかりおなじみだけれど。これはぐうぜんなんかじゃなくて、1902年にイギリスで出版されたときに、作者のビアトリクス・ポターや編集者が、当時ベストセラーだった『ちびくろさんぼ』を参考にしたものだったのよ。[]

それから、『かいじゅうたちのいるところ』や『まよなかのだいどころ』なんかで 超人気のモーリス・センダックさんも、進んでお手本にしたんですって。[]

日本でのおさわがせな事情

日本で最初に、きちんとした1冊の絵本として出たのは、 1953年の、「岩波の子どもの本」シリーズの第1号でした。 「Little Black Sambo」に「ちびくろ・さんぼ」という言葉を初めて あてはめたのも、この岩波版。 岩波書店が初めて手がけた記念すべき絵本だったわけ。期待の大きさがうかがえるでしょ。 []

日本で『ちびくろさんぼ』の原作を詳しく紹介した最初の本は、 石井桃子さんの『子どもの図書館』(岩波新書 1965/5/20)でした。 『ちびくろさんぼ』原作のイラストの横に自身の翻訳をつけて、 ていねいに解説しながら、まるまる28ページにもわたって、ほめちぎっているの。 そうして、
「アメリカでも、すぐに海賊版が出ました。まだ著作権は、あまり守られていない、 十九世紀末の話だったのです(p.149)」
残念なことに、日本語になっている『ちびくろ・さんぼ』は、この本で 示した形ではありません(p.166)」

と書いています。

だけどね! 「子どもの本」シリーズの記念すべき第1作に、その「海賊版」のほうを 選んだ張本人は、その桃子さん(当時岩波の嘱託社員)だったのはいったいどういうわけぇ!? [] 

(桃子さんは『ピーターラビットのおはなし』の翻訳者でもあるんだけど、 こちらのほうは、皮肉にも(?) てのひらにすっぽりおさまる大きさといい、 原著のスタイルをそっくり伝えてあるのに……。 『ちびくろ・さんぼ』をあまりにもずたずたにしてしまったことへの反省が 生かされていたのかもしれないわね。それにしても、同じイギリスで、ほぼ同じころに、 たった1歳ちがいの2人の女性による、それぞれ子どもへの絵手紙がもとになって誕生した、 共通点の多いこの2つの作品のたどった運命の違いといったら!)

ともかく、岩波のこのやり方がほかの出版社に与えた影響力は かなり大きかったんじゃないかしら。そんなふうにして、 いったいどれくらいの改作が生まれたかは、 「さんぼ」の本のリストを見てね。 []

岩波版『ちびくろ・さんぼ』は1953年12月10日から1988年12月13日の絶版に いたるまでの35年間で、120万部以上を売る大ロングセラーになったの。 原典のよいところがあちこち改悪されたものでも、ここまでみんなに歓迎されて 売れつづけたというのは、もとのお話の力を証明するものだとリカは思うわ。 []

このつづき、つまり、絶版をめぐる経緯や近年の復活状況なんかについてはまたの機会に。 (そうそう、リカの生みの親であるタカラさんちの商標「ダッコちゃん」も、 カルピスくんといっしょにこの濁流にのみこまれて命を落としてしまったのだった。涙)

そ〜んなわけで、お電話まってるわ。ちゃお☆ 初代リカちゃん人形


1897年1月1日(日本では明治30年の元旦)のロンドンに誕生した、 当時24歳のグラント・リチャーズ(1872-1948)の起こした小さな出版社だった。

リチャーズはボンド夫人を追いつめるようにして強引に出版を急ぎ、ヘレンの意向を 無視するかたちで版権を「買い取り」、最初の手づくり絵本もついに ヘレンの元にもどらなかった。 そのために、ヘレンの原画と初版本の絵とを比較することもできない。

『ちびくろさんぼ』の初版本で現存するのはたった8冊であり、 アメリカの絵本作家モーリス・センダックの蔵書にある無償の1冊を別にして、 ほとんどがいたんでいるという(1974年『ブックコレクター』誌より)。 エジンバラのスコットランド国立図書館にヘレンの作品すべての初版本が ひとそろい所蔵されている。閲覧を希望する場合は前もって手紙で申請して おかなければならない。

1899年12月2日、有力週刊誌『スペクテイター』に載った書評: 「『ちびくろサンボの物語』は明らかに幼い少年少女を楽しませること、 そのためだけに創作され、それ以外のことには何の注意も払っていないし、 矛盾していることもこれっぽっちも気にしていない。ひたすらおとぎの世界で、 その単純かつ率直な魅力を発揮している。大人たちはただちに、この本を手に入れて 子ども部屋に、教室に備えるべきだろう」

「序文」を「創作」したのは、リチャーズの顧問をつとめたジャーナリスト (「ずんぐり文庫」の編集者)、エドワード・ヴェラル・ルーカス(1868-1938) だといわれている。 1937年、『ホーン・ブック・マガジン』誌のインタビューに ヘレンは、 「まあ、それは全部事実だったというわけじゃなく、 いわば本を出すにあたってE・V・ルーカスがつくったお話ですね」と答えている。


ちびくろサンボのお話については、とりたてていうことは ありません。何年か前にインドにひとりのイギリス人の女性 が住んでいました。そこには肌の色の黒い子どもたちが たくさんいて、虎も毎日のように出没しました。その女性には ふたりの幼い娘がいて、この子たちを喜ばせるために、その 女性はときどきお話を創ってあげました。その上彼女は とても才能があって、絵を描き、色もつけたのです。 長い汽車の旅の途中でつくられた『ちびくろサンボ』も、 こうした彼女のお話のひとつで、娘たちの大のお気に入り でした。そこでできるかぎり原画に忠実な絵をつけて、 ダンピー・ブックの仲間入りをすることになったのです。 ふたりの幼い少女たちと同じく、みなさまがこの本を 気に入ってくださるよう願っています。


1941年アメリカ・ノースカロライナ州にある学校の校長がヘレンに この本を分類するのにインドの話にすべきか、黒人の話にすべきか 問いあわせた手紙に対して、ヘレンの返事には 「 私は、『ちびくろサンボ』の話を黒人の話だとする考えが大いに 気に入って、うれしくなりました。そのとおりですと自慢したい ところですが、そうするわけにはいきません。」とあった。

1889年に、27歳のヘレンはインド医務官職ウィル・バナーマンと結婚して、 のちの人生の大半をインド(当時はイギリス領)で暮らすことになるの。 ウィルもスコットランド人で、母国で医師の資格をとったあと、 厳しいインド医務官職の試験に合格して、ヘレンにプロポーズした。

なぜヘレンおばさまがそれを訂正させなかったのかについての正確な 情報はないけれど、ロンドンで初版が出版されたときに、ヘレンはまだ インドで暮らしていたので、気づいたときには手遅れだったのだろうし、 それを正す手段もなかったのだろう。

「母は、少女時代に自分のてのひらにすっぽり入るほどの大きさで、 絵と文字が見開きにおさまっていて、絵を見るためにページを めくったり戻したりしなくていい本があるといいなと思っていた そうです」 (1971年4月、BBCラジオで放送されたヘレンの特集番組中での、娘デイの回想より)

ポター研究の日本での第一人者、吉田新一氏は 『絵本の魅力』の「ビアトリクス・ポター」の章で、 商業版の前年に250部だけ出された私家版と比較して、 「物語のはじめの部分は、私家版のほうが絵本の出来栄えは、はるかに 優れていました。……最初に、ピーターがきょうだいと一緒に紹介 されます。つぎに、母親と住まいが紹介される、という具合に、 二段に区切ってありました。これが商業版の初版から現行版に見る ように、ひとつにされました。が、幼い読者には、ここはぜひ二つに わけておいてほしかったところです。……こういうふうに絵が順序を ふんでていねいに物語を展開していく仕方は、……そのほうがはるかに 現行版に勝ると私は思います。(『ちびくろ・さんぼ』の原著の構成が 全くこれと同じでした。詳しくは石井桃子著『子どもの図書館』を参照。)」 (p.88)

「必要以上に細々していない略画風の挿絵は、モーリス・センダックが進んで お手本にしたと伝えられるのが頷ける。生き生きとした描線、それに輝く 色どりも偶然の効果ではない」と『さよならサンボ』の巻頭に、 アン・ヘリングさんが書いている。センダックの話の出典を知りたい。

「岩波の子どもの本」シリーズを刊行するにあたって、 岩波書店の嘱託社員として石井桃子は、 光吉夏弥に話をもちかけ、いっしょに本の選定をおこなった。 そして、1・2年生向けの第1号が『ちびくろ・さんぼ』だった (光吉はその訳者となる)。

「リトル・ブラック・サンボ」を「ちびくろ・さんぼ」と訳したのは、 当時岩波書店常務長田幹雄のアイデアで、「のらくろ」からの連想だったという。 (光吉「岩波の子どもの本――その発刊のことども――」月刊『絵本』1973年5・6月号)
ちなみにこの記事で、光吉はすでに「サンボ」という名前が差別にあたるかどうかに ついて 「一九五二年にニューヨーク州ロチェスターで、この町の全米有色人種振興協会支部が、 町の学校からの『(ちびくろ)さんぼ』の追放を叫んだときにも、協会支部のウォルター・ボナー という人が、『サンボという名前からして、黒人をけなすものだ』といっている。 けれども、『(ちびくろ)サンボ』よりずっとあとに書かれたウォルター・デ・ラ・メア の、やはり黒人の男の子を主人公にした童話が『サンボと雪の山』という題名なのにも 見られるように、ジャンボ、マンボ、サンボという名まえが黒人蔑視になるとは思えない」 と書いている。絶版騒ぎの15年以上も前に、童話や児童文学にかかわる人々のあいだでは、 これらのことはすでに知識としてあったのである。 そうして、 「ヘレンは、この物語をはっきりインドのものとしては書かなかった。 そうした地域的な限定は、一度も文中に出てこない」と、的確な指摘をしている。

石井桃子は1937年から英米児童文学の翻訳を手がけ、40年『クマのプーさん』の翻訳を 岩波書店から出版、44年処女作『ノンちゃんクモに乗る』執筆。 1949年から岩波書店に勤務、「岩波少年文庫」の編集を担当していたが、 そこへ、ロックフェラー財団の奨学金による留学の話がもちあがり、 1954年に岩波書店を辞めて留学の途につく。 「この本は落第だとか、この本は子どもがおもしろがるな、とかいうようなことを、 あてずっぽうでなく評価することができ」るようになるために。 「編集者として、自分の身につけたいと思っていたのは、つまり、 このはっきりとした鑑識眼だったのです」(『図書』1965年8月号で述懐) そうやって帰国した石井がとりわけ絶賛したのが、オリジナルの『ちびくろ・さんぼ』 だった。

この「残念なことに」に秘められた思いは、彼女自身にしかわからない。 もしかすると、それと知らずにマクミラン版のほうを「岩波の子どもの本」 に選んでしまったことへの後悔の気持ちがあったのだろうか。 (「世の中には謎などないのだ((c)京極夏彦)」っていうおじさまには、 ぜひとも解き明かしてほしいものだわ)

その少し前、1954年夏から55年秋にかけての欧米留学から帰国した 石井を中心に、5人の児童文学研究者が5年にわたって 話しあい研究した結果をまとめた『子どもと文学』(1960 中央公論社)でも、 『ちびくろさんぼ』だけは別に1章をさいてとりあげて高く評価し、 「時代によって価値のかわるイデオロギーは……それをテーマに とりあげること自体、作品の古典的価値(時代の変遷にかかわらず かわらぬ価値)をそこなうと同時に、人生経験の浅い、幼い子どもたちによって 意味のないことです」と、児童文学の手本とすべきであることを述べている。

「おとなたちが、この本に注目しはじめたのは、初版後、十年たっても、 子どもたちがまだこの本を愛読することをやめなかったからです。…… そして、おとなたちは、おとなの目でこの本を見なおし、 これが傑作であることを発見して、びっくりしました。このように『ちびくろ・ さんぼ』の値うちは、おとなにはながいあいだわからなかったのですが、 子どもには、一ぺん読めば、わかることだったのです。そして、毎年、 いれかわり、たちかわり、この本をおもしろがることによって、子どもたちは、 この本が、この世の中から消えていかないように守ったのです。(p.150)」 「このごろ、私は読めば読むほど感心しないではいられません。……この話は、 私には、ほとんど完全無欠なものに思え、よくも、一人の個人がこれだけの ものを創作し得たとおどろかされるのです。(p.153)」 「『ちびくろ・さんぼ』は、四、五歳の子どもが一ばん喜ぶ話だと思いますが、 この話を、おとなは百万べんも勉強する必要がある(p.156)」

ヘレンのイラストについては「稚拙な絵」といっているが、けなしているわけ ではない。 「(絵本には)あまりいろいろなひらひらが出てきてはいけないし、 単純に生き生きととらえていなければなりません。死んだ絵で、形さえなぞって あればいいというのは、まちがいです。(p.159)」とある。

光吉は、岩波版にオリジナルを採用しなかった経緯について、先の『絵本』論文で、 「絵を原本どおりでは、古めかしい復刻のようになるだけで、だめだと思った」、 小型本であること、左ページに文、右ページに絵、という画一的な仕立て方を、 この絵本の長所としてはみなさず、 「絵と文章の有機的なからみ合いなどなく、絵に感動もない」 と否定的に評価している。そして、採用したマクミラン版の ドビアスの絵にしても、レイアウトを大胆に変え、絵をあちこち切り貼りして、 改変しつくしたのだった。 さらには、マクミラン版には載っていない『サンボとふたご』 “The Story of Sambo and the Twins”まで、「ちびくろ・さんぼ2」として フランク・ドビアスをそっくりまねたイラストで収録してある。それを 描いた岡部冬彦って人の名前もちゃんと載ってる(けど、ふつうはみのがしちゃうよね)。

参考文献は、とくにことわっていない箇所はおもにエリザベス・ヘイ『さよならサンボ』、 灘本昌久『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ』による。


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