(Last update:1999/11/06)
小浜逸郎 PHP研究所 1999/08/04 657円 新書 p.222 ISBN4569607268 「弱者に優しい政治を」「差別のない明るい社会を」といった、だれも異議を唱えること のできないスローガン。しかし、現代社会における「弱者」とは、ほんとうはどういう存 在なのだろうか? 本書では、障害者、部落差別、マスコミの表現規制など、日常生活で 体験するマイノリティの問題について、私たちが感じる「言いにくさ」や「遠慮」の構造 を率直に解きおこしていく。だれもが担う固有の弱者性を自覚し、人と人との開かれた関 係を築くための考え方を「実感から立ちのぼる言葉」で問う真摯な論考。 第1章 「言いにくさ」の由来(「弱者」というカテゴリー;個別性への鈍感さ ほか) 第2章 「弱者」聖化のからくり(建て前平等主義;部落差別をめぐって) 第3章 「弱者」聖化を超克するには(共同性の相対化;言葉狩りと自主規制問題) 第4章 ボクもワタシも「弱者」(既成概念の見直し;新しい「弱者」問題)
どう見ても差別的なところなど感じられない『ちびくろサンボ』を、きちんとした議論の 俎上に載せることなく、版元が問答無用で絶版にしたのなどは、メディアの側のまずい反応の 典型である。`(p.179)
ある表現が差別的であるかどうかは、受け手の感覚に左右される面が強く、この作品のこの 部分が実体として「差別」の要素だと確定することは難しい。これは、一つには、表現という ものが、テキストそれ自体として自立してあるのではなく、テキストと受け手との関係を 通してその本来の役割を全うするという事実に根ざしている。表現の本質には、受け手に向かって 多くの触手を伸ばすということ、つまり「多義性」ということがもともと含まれているのだ。 (p.181)
読んだ順序は逆ですが、これは 『力への思想』の第3章のテーマをふくらませたというか煮詰めてって できた本という感じですね。そこに5年間のひらきがあるのですが、読むべき部分があまり増えて いるとは申せません。 一例をあげれば、 「谷川俊太郎さんが、『ちびくろサンボ』を絶版にするのではなく、差別を考えるための教材として残すということがあってもいいのではないかと言っているのを読んで、ぼくはなるほどなと思いました」(『力への思想』p.174)から 「議論の材料としては今後も残しておくべきである。」(『「弱者」とはだれか』p.179)へ、思想としてはむしろ窮屈になっているように思えます。本書全体の スタンスは、ほぼうなずけるものではあるのですが。
(私が「ちびくろサンボ」にこだわっているせいだと思いますが) 「議論の材料としては」という留保付きなのが気になります。 「だれも異議を唱えることのできないスローガン」に 異議を唱えるはずの本書で、小浜氏もけっきょく「誰も異議を唱えることのできない」落としどころを見つけて安心しようとしてはいませんか。 それってたとえば図書館で“問題図書”を所蔵するときに、 「“利用者の研究目的としては”閲覧を認める」とかいうのと同じ発想でしょう。 けっきょく、「問題がある」という点は認めているんだけども、 どこがどう「問題」なのかをはっきり示さないまま、そういう言い方で逃げ道をつくっておく 態度は、「21世紀になっていつかこの世から差別がなくなったときに読みましょう」って いってる赤木氏・竹内氏と 五十歩百歩ですよね。
上に引用したように、「少しも差別的とは感じられない」 「ちびくろサンボ」が径書房から復刻されたことについて、 「差別問題を考え直す資料として貴重なこの本」(p.182) というただし書きをつけちゃうところが、用意周到というべきか。 それによって小浜氏の限界をかえってはっきりと浮かびあがらせています。 「表現の本質には多義性がもともと含まれている」と 書いているわりには、 径書房が復刻版に「ことわりがき」を一切つけずに、おはなしだけをそのまんま 出したことの意味をわかっていない。 「○○の材料/資料として」だけ存在する本というものが ほんとに可能だと信じておられるとしたら、 おめでたいとも言えるし、それこそ危険思想にもつながりかねないのでは。
だからそういうのって、黙ってるよりたちが悪いのよ。 でも、しゃべらずにはいられない、立場は保留っていうのは、ご自分のアリバイ証明 なんでしょうね。 将来どんなふうにこの本の評価が変わっても、ぼくはちゃんとそれを見越していました とふるまえるように。 その一方で、『諸君』11月号の原稿「ちびくろサンボを"抹殺した"新犯人」さらには 『正論』11月号の対談とどんどん「乱暴な論旨になっていってて、だいじょぶなのかなあ。 (これについては別途検討)
本筋とは関係ないですが、プロロ−グにある、 「少年犯罪」の報道の仕方について、少年による凶悪犯罪の検挙数は高度成長期の ピーク時に比べて3分の1ほどに減少しているという指摘などは、さすがです。 小浜氏は、「少子化」だとか「離婚の増加」だとかをあおるマスコミの風潮に 一石を投じて、データ的にはそういう事実がないことなどをきちんと指摘してきていて、 そういう点はいつも信頼おけると思ってます。(99/11/06)
灘本昌久 径書房 2,400円 1999/05 A5 266p. ISBN 4770501714 日本で『ちびくろサンボ』が一斉に絶版になってから10年。 アメリカでの調査をふまえて、はじめて明らかにされる 『ちびくろサンボ』評価の変遷。日米に共通の反差別運動の問題点。 差別撤廃の希望はどこにあるのか。被差別者の真の友とはなにか。 第1章 サンボ絶版 第2章 反サンボ運動の論拠―アメリカ・イギリス・カナダ 第3章 反差別運動の正義―日本 第4章 『ちびくろサンボ』の現在 第5章 反差別の思想―被差別の痛み論批判
灘本氏による 「なぜ『ちびくろサンボか』 読まれることこそ重要」 : 必要なのは、イギリスで生まれた『ちびくろサンボ』に投影された、アメリカでの人種差別の暗い影を引き剥(は)がしていくことなのである。
そのためには、『ちびくろサンボ』の作られた心温まる歴史をしっかりと確認し、人種を問わず、子どもたちのあいだで楽しく読まれることこそ重要である。そうした道が、絶版によって著しく困難になっていたのだが、今回の出版が、人種差別解消への小さな一歩となることを心から願っている。書評; 言葉により傷つき、その痛みを一生背負う人たちがいるのは事実である。 それに差別が問題であることは言うまでもないが、一方で安易な抗議と、言葉狩りが逆に差別を無くそうという運動自体を妨げている構造を、 本書は解き明かしている。また、日本国内における類似例にも本書は言及している。 著者の文章から拡がる世界、 そして童話を通して見える様々な社会の問題が秀逸な展開で検討される力作である。 質の高い問題提起をするという意味で、誰にでも読んでほしい一書。
赤木かん子 フェリシモ出版 1,143円 1999/05 B6 p.126 ISBN 4894321505 “子どもの本の探偵”をやっている著者が、何十人もから訊かれた本を一冊にまとめたもの。
頂いた依頼で一番多かつたのが、この『ちびくろさんぼ』でした。 けれどもこの本はみなさんもご存じの通り、アメリ力で〃さんぼ〃と いうのは黒人蔑称であると大変に問題になったため、岩波書店はこの 本をもう作らないことに決めてしまいました。だからいくら復刊願い を出してもこの本ばかりはもう二度と作らないだろうと思います。
いつの日か世界中から人種差別が消えて、「『さんぼ』っ てなーに?!昔黒人の人をバカにして白人がそういってたの? ヘえ〜、なにそれ、初めて聞いた」という人たちでいっぱいになれば、あの本ももうー度甦ることでしょう。
だから私は『ちびくろさんぼ』については21世紀の課題として持ち越そうと思っているのです。
一見バランスのとれた良識派のよそおいのなかに、自己保身に回った政治家の老獪な計算と無責任を感じます。
「いつの日か」は誰が作っていくの?
「人種差別が消え」る日は、どこか向こうからやってくるの?
この本、「ちびくろさんぼのおはなし」復刊と
同時期に出ちゃって、赤木氏はどう思ったかな。
こういう人はけっきょく、いまの世の中はな〜んにも変わんなくていいと言ってるのと同じなのよね。そのくせ、今の世の中を嘆くポーズだけはするんだから、ずるいよなあ。「21世紀の課題として持ち越す」だなんて、自分が受け持つ気はぜんぜんないくせに。
ところで、ホットケーキは192枚じゃないんですけど。
新編 子どもの図書館 石井桃子集 5
石井桃子 岩波書店 1999/02/10 2900 p.303 全7巻のうちの第5巻
巻末の「初出・出典一覧」には、 「子どもの図書館 岩波書店 一九六五年五月二〇日初版(岩波新書)」 の「最終版に加筆し、今回あらたに「付記」を増補したものである」と書かれているが、大幅に削除されていることにはまったく触れていない。 『子どもの図書館』では、「『ちびくろ・さんぼ』の教訓」という項目で28ページにもわたって原作をこまかく解説しながら絶賛を惜しまなかったのに、この新編ではその項目自体が消え(よって、もくじを見ただけでは「ちびくろ・さんぼ」が紹介されていることもわからない)、ほんの4ページほど、昔の英米で子どもたちに喜ばれた本だったことと、筋運びのおもしろさについて触れてあるだけだ。とうぜん、「残念なことに、日本語になっている『ちびくろ・さんぼ』は、この本で示した形ではありません」という文章も消えている。
「はっきりとした鑑識眼」を身につけるために岩波書店を辞めて欧米留学に行った石井氏が、帰国後に手がけた『子どもと文学』『子どもの図書館』の2冊で明らかに特別あつかいして高く評価した「ちびくろサンボ」なのに、「時代によって価値のかわるイデオロギーは……、幼い子どもたちによって意味のないことです」とも述べているのに、その曇りのない鑑識眼を、否定してしまったのか。――彼女は、どんな思いで、35年前の自分の著書に赤を入れていったのだろう。彼女がちびくろサンボから得た教訓は何だったのだろう。1999年の今こそ、1965年の石井氏の評価が読み直される価値があると思うのだが。作品背景も参照のこと。
唯幻論論 岸田秀コレクション
岸田秀 青土社 2,200円 1997/06 B6 p.365 ISBN 4791791029 フロイドの精神分析をバックボーンに練り上げた「唯幻論」をひっさげて、 アクチュアルなプロブレマティークにきりこんでゆく対話集。 ちびくろサンボの絶版について(竹田青嗣;灘本昌久) カウチポテトの天皇制(竹田青嗣;加藤典洋)〔ほか〕 (1992/12 初版)
森且行のおヘソ 徹底解明
森且行応援団 鹿砦社 971円 1996/11 B6 p.219 ISBN 4846301753 同級生たちの生の証言。大事故から生還。オートレーサーへの夢。 SMAP美形ナンバー1の森くんがオートレース界に進出。 そんな彼の幼年時代から現在までを一挙公開。 俊足・ちびくろサンボ 全身アディダス『メーカー野郎』〔ほか〕
☆偏見と差別はどのようにつくられるか ――黒人差別・反ユダヤ意識を中心に
ジョン・G・ラッセル (John G.Russell) 明石書店 2,000円 1995/10/31 B6 p.175 ISBN 4750307459 日本の「国際化」は「国砦化」か。在日外国人が問いかける日本人論。 1 「外人」と「内人」との間 「外人」の中の外人―日本人が観る黒人; 日本の黒人グッズの悪癖;商品化された流行の黒人文化 ほか
著者がうっぷんを晴らしているだけの本。 『日本人の黒人観』から4年半。著者が何を研究してきたのか 知るよしもありませんが、前著に書かれた根拠の薄弱な主張は、この本においてもまったく 証拠立てられることなく、暴論のどあいはいっそうひどくなっている。 きっと、検証の必要などなにもないと思ってるんでしょうね。なぜなら、ご自分がそう 信じていることは正しいのだから。 というわけで、黒人に対するアファーマティブ・アクションとしては、明石書店の貢献度の 高さがきわだってます :-p (99/11/06)
☆力への思想
竹田青嗣、小浜逸郎 学芸書林 1,748円 1994/09/20 B6 p.270 ISBN 4875170084 資本主義の変容、都市のエロス、フェミニズム、差別と差別語、癌告知、超常現象など 現在のヴィヴィッドな課題を素材に、ポスト・モダン以降の思想の出立を宣言する。 第1章 時代・社会体制・生活世界 第2章 エロス・家族・教育 第3章 フェミニズム・差別・メディア 第4章 死・異界・心
これは「サンボ」という呼び名、イラスト、ストーリーなどが差別的だと された。だけどそれらがほんとうに差別にあたるか否かについて、告発 する側とこの絵本の多くの読者の感覚とのあいだにそうとうギャップが あったわけです。・・・いかにうまくこの「合意」を取りだすかについて、 思想的にはっきりできなければ、差別は必ず「囲い込み」状況になって いくわけです。
「囲い込み」というのは、つまり、告発者と一般の人間の感覚のギャップが 埋められないほど大きくなるけれど、その告発者の主張を表向きはだれも 反対できない場合、その差別問題が一般の人間にとって一種禁じ手に、 つまり「触れないほうがいい問題」「触れたくない問題」になってしまうと いう事態です。
白人の子どもは「そうか、“サンボ”という言葉は使ってはいけないんだ、 使うと差別することになるからいけないだ、それじゃあ使わないことにし よう」という具合に考える。これが一般的な状態になるとすると、実は白人 が無意識には自分たちが上だと思っていることにはまったく手が触れられて いないことになるわけです。 (竹田 p.174)
ある禁止、しかも被差別者(およびその代弁者)が一方的に指摘した かたちでの禁止を、表向き反対できないので、建前上守るというやりかた では、差別問題の進めかたとして、本質的にはゼロに近い。むしろ さっき言ったような囲い込みのなかに閉じられてしまうという点では 後退とも言えるかも知れない。…… そこで、あの白人のように「この言葉を使うと差別することになるから 使ってはいけない」と考える人間が増えていくとすると、事態は深刻です。 (竹田 p.178)
書評: 現代という時代はエロスという軸を中心にして回っている。 一定のルールさえ守ることができれば「快・不快」ということを行動の基準にして人々は振る舞うことができるようになった。 このような生活世界の中で「思想という道具がいかに力となりうるか」を説いたのが本書である。
「ちびくろサンボ」の絶版をふくむ「差別語」の問題については 「第3章 フェミニズム・差別・メディア」で検討されている(しかし、このくくり方は ……苦笑)。『絶版を考える』の対談と 『「弱者」とはだれか』を先に読んでたので、 とくに新たな発見はなかったけれど、上に引用した個所などは、 自分の問題意識を再確認するのに役立ちました。 ただ『「弱者」とはだれか』はこの本の5年後に出されているわりには、 思想的に深化したというよりは、ちょっと凝りかたまっちゃった感じがする (「諸君!」11月号の 「弱者の聖化」論とまとめて検討する予定)。
おおざっぱにいうと、小浜氏がよくいう「実感から立ち上がる」 思想ってことだけど、自分自身の“感覚”をたのみにしすぎなんじゃないかな。それが 観念的な思想・哲学に対するカウンターとしての意義はあるとしても、 「思想は……そのなかに、個人の生がぶ つかる具体的なテーマが保存されていて、それを読んだ人が、あっ、オレの人生のことが書かれている、という驚きを発見するのでなければウソだと思うんですね」 という、その驚きが「ウソ」である可能性も同時にあるわけで(カルトやセミナーのマインドコントロールにはまっちゃうケースとかね)。人は自分自身の“実感”に容易にだまされるというのもまた真実でしょ。現象学っていうのがいまひとつうさん臭いのはそのあたりなのだ。
あ、でも、『間違えるな日本人!』ていう林道義との対談本では、 小浜氏のバランス感覚がいたるところで歯止めになってます(林オヤヂと比べるなという話も(笑))。 成功した対談とはお世辞にもいえないけれど、吉本隆明『共同幻想論』について考察した章だけは ちょっとおもしろかった。宮台真司ワナビーたちが無批判に「共同体ってのはしょせん幻想なんだから……」的に吉本「共同幻想論」の言葉尻だけ使っちゃってることだとか。でもその小浜氏も、 『力への思想』では無防備かつ無前提に「共同幻想」ってことばを好んで使っているような。
ことばと差別 本の絶版を主張する理由
大山正夫 明石書店 2,524円 1994/08 B6 p.243 ISBN 4750306215 本書は、差別と言葉、表現・出版の自由などが絡み合うところを中心に扱っている。 いくつかの具体的な問題を検討することで、差別について考えた私的覚書といったものである。 「ちびくろサンボ」絶版再考―「『ちびくろサンボ』絶版を考える」を中心に 「自閉症うつろな砦」絶版のてんまつ 「無人警察」教科書掲載と筒井康隆断筆騒動 「差別語」言い換えの一面
まだこの本を入手していないので、内容については ここを参照しただけ。 「著者がベッテルハイム著『自閉症 うつろな砦』(みすず書房)に対して絶版要求を行った時の経過」というのが気になった。自閉症に関する誤解にもとづいた表現については、灘本氏の「上野千鶴子著『マザコン少年の末路』の記述をめぐって」や、布施佳宏氏の自閉症の神話にも興味深い報告がある。あまり手を広げても収拾がつかなくなるのだけど、いろいろと示唆に富む話なので、ウェブで拾える範囲でまとめているところ。→さて、絶版が正当化される場合があるのだろうか、あるとしたらどういう場合なのか? ひとまずまとめたものを公開 「差別的表現」のケーススタディ(99/10/17)
「言葉狩り」と出版の自由 出版流通の現場から
湯浅俊彦 明石書店 2,427円 1994/05 B6 p.230 ISBN 4750305820 1 差別的表現を通して出版の自由の現代的課題を考える 2 出版流通の視点から 3 問題事例(「ちびくろサンボ」問題;『悪魔の詩』問題;「ポルノ・コミック」問題)
道徳授業改革双書 11 人権・その他編 深沢久 明治図書出版 1,920 1994/04 A5 p.153 ISBN 4186758077 4 『ちびくろサンボ』と「黒人キャラクター商品」で差別を考える
成沢栄寿 部落問題研究所 2,136円 1993/06 B6 p.293 ISBN 4829810335 序説 言論・表現の自由と「部落解放同盟」 1 言論・表現の自由と抑圧 2 長崎市長狙撃事件と『長崎市長の7300通の手紙』 3 言論・表現の自由とマスコミ・図書館(表現の自由の侵害を考える―『ちびくろサンボ』問題を通して)
馬場俊明 青弓社 2,000円 1993/01 B6 p.186 ISBN 4787200178 図書館の役割の、理念と決意の表明としての「図書館の自由に関する宣言」。わが国における「図書館の自由」の史的位相―「公序良俗」の思想との関連において 「ちびくろサンボ」問題とはなにか 情報民主主義としての図書館
★さよならサンボ 『ちびくろサンボの物語』とヘレン・バナマン
エリザベス・ヘイ、湯浅ふみえ訳 平凡社 4,660円 1993/01 A5 p.386 ISBN 4582333087 1899年の初版『ちびくろサンボの物語』の完全紹介と、このベストセラーがたどった数奇な運命。 各国での論争と対応。 誤伝に満ちていた原作者ヘレン・バナマンの詳細な伝記と 彼女の「絵ごころ」を物語るインドからの絵手紙。
書評:'60年代にアメリカで追放され、'70年代にはイギリスで日陰者扱いされ、'80年代に日本で死んだ「サンボ」。「これからは読者がまた時代にふさわしい本を創り出していくだろう。『ちびくろサンボ』のもち時間はすでに切れてしまっている。さようならサンボくん」という著者のコメントに深く肯くところがあった。
★焼かれた「ちびくろサンボ」 人種差別と表現・教育の自由
杉尾敏明・棚橋美代子 青木書店 2,800円 1992/11 B6 p.358 ISBN 4250920305 日本における88年の翻訳・出版の歴史。 オリジナル版・マクミラン版・岩波書店版を比較研究。 第1部 消される「黒人」像―「ちびくろサンボ」「ジャングル大帝」 第2部 差別的表現と表現の自由―「ちびくろサンボ」論議とかかわって 第3部 「ちびくろサンボ」と黒人解放―ジョン・G.ラッセル氏(黒人)への反批判 第4部 「ちびくろサンボ」の歴史―日本における88年の歩み おわりに―子どもの文化財(絵本・児童文学)創造の原則 あとがき―「朝まで生テレビ」と糾弾
書評: 様々な主題が考察されているが、その主張は次の五点に要約できよう。
a.ある表現が「差別表現」であるかどうかを最終的に決定することは誰にもできない。
b.ある表現が「差別表現」であるかどうかを決定する根拠のうち最も重視されるべきものは、当該表現者の「差別をする意図」である。従って、表現者の意図を無視した「差別表現」の定義は一切無効である。
c.「表現の自由」とは「『なんでも好き勝手なことをしゃべる』自由」〔p181〕である。従って、そこには差別表現をなす自由も含まれる。
d.ある表現に対して、その内容の評価に関わる批判を行うこと(例えば、「『ちびくろサンボ』の内容は差別的である」という発言)は、「表現の自由」の擁護の下にある。
e.ある表現に対して、撤回や回収、絶版を求めるような批判を行うことは、表現の自由に擁護下にはなく、かつ表現の自由に抵触する。従って、撤回・回収・絶版要求を行ってはならない。
山中央 汐文社 3,204円 1992/07 A5 p.390 ISBN 4811301323 差別用語をめぐる20年最新状況徹底リポート。 みんなで渡ればコワくない『ちびくろサンボ』総絶版事件。 その他多数の事件を検証。差別用語事件年表(69年〜92年)付。
名指しの国際問題化に驚いたサンリオ側では、日米摩擦のシンボルになっては困るとして、 7月23日直ちに「サンボ&ハンナ」と「ビビンバ」のキャラクター商品(浮輪、バッグ、タオルなど)の回収と企画中止を決定、同時に絵本『ちびくろサンボ』の絶版を決めた。不幸にして、これが「サンボ」狩りの発端となった。(p.261)
サンリオに次いで、88年8月中旬、大手の学研が販売停止・絶版にしたのをはじめ、『ピノキオ』でミソをつけた小学館、さらに講談社、ポプラ社、永岡書店、金の星社が右へならえで次々に絶版を決め、老舗の岩波も88年12月9日ついに廃刊絶版に踏み切り、最後まで残った雄鶏社も89年1月20日絶版を決めて一一社が全滅した。幾度も“虎口”を脱した「サンボ」も「差別」の二字には勝てなかったのである。
ところで、「差別図書」と抗議されていきなり絶版というのは、過去にあまり例がない。76年の「ピノキオ」問題の時ですら、障害者差別と抗議されて絶版にしたのは小学館など数社にとどまった。一部の字句・表現の修正やあとがき・解説で註釈をつけるなどのケースは他でもあるが、『サンボ』絶版は、日本の出版史上最悪の出来事といっても過言ではない。
絵本以外にも、89年6月下旬には、「カルピス」食品工業のシンボル“黒人マーク”が、「なくす会」の「典型的な黒人差別表現」という指摘を受けて使用廃止を決め(90年1月から)、六五年にわたる“生涯”を閉じたのをはじめとして、89年7月18日には、おもちゃメーカー「タカラ」が二八年間使ってきた「だっこちゃん」マークを89年限りで廃止すると発表した。まさに、“小さな会で大きな成果”をあげたのである。
小学四年生の子どもを書記長に据え、その子が差別商品探しの先頭に立つ光景といい、「ウン十万円」をかけ、夏休みを棒にふってまで商品集めに走る様子といい、これはタダゴトではない。
人権のオモテとウラ 不利な立場の人々の視点
内野正幸 明石書店 1,825円 1992/07 B6 p.246 ISBN 4750304379 4 表現の自由と差別的表現(差別的表現の問題の扱い方;『ちびくろサンボ』とその周辺;差別的表現とマスコミ)
「ちびくろサンボ」が焼かれた 長野市における「ちびくろサンボ」廃棄依頼問題資料集
図書館問題研究会 図書館問題研究会、発売所=教育史料出版会 1,165円 1991/06 B5 p.149
☆日本人の黒人観 問題は「ちびくろサンボ」だけではない
ジョン・G.ラッセル 新評論 1,600円 1991/03 B6 p.232 ISBN 4794800916 人種とは何か―この本を読むために 序章 問題は『ちびくろサンボ』だけではない 第1章 表象としての他者―日本大衆文化における黒人 第2章 マンガとアニメに描かれた黒人像 第3章 日本社会における黒人差別―日本企業の対応を中心として 第4章 対談 差別する側とされる側 第5章 座談会 日本人はなぜ「壁」をつくるのか 資料(梶山法相発言関連日誌;黒人の歴史、固定観念および差別についてよく知るために)
書評: 全体の論旨は次の三点に要約できる。
a.一般に、日本人の黒人観は、人種的優越感に基づいた、ステレオタイプ的・蔑視的なものである。
b.日本人の黒人に対する人種的優越感は、白人によって過去に形成された黒人観をそのまま受容することによって形成された。
c.この受容は、日本人の白人に対する劣等感の裏返しになっている。
文学や漫画に現れた黒人像から日本人一般の黒人観を帰納するくだりは、論証精度が低く感じられる。
この著者の本は『偏見と差別はどのようにつくられるか』のほうを先に 読んでいて、ずいぶん荒っぽい、矛盾した主張を断定的に書く人だなあ、とあきれたんですが、 こっちの本も似たようなものでした。 それについては、『もじゃもじゃペーター』 あとがきの注に書きました。 せっかく、「黒人差別をなくす会」をはっきり支持している貴重な論客のひとりなのに、 ざんねんな気持ちです。 たとえば次の一節。
“有害書物”の絶版に対して色々な意見があるが、私自身は原則として絶版に反対である。 とはいえ『ちびくろサンボ』はどうみても子供に読ませるべき本ではない。 日本社会における黒人差別の存在を認めない日本では、このような人種差別を助長する本は 非常に危険である。それに『ちびくろサンボ』が消えたからといって、黒人に対する差別的 風潮がなくなるというわけではない。
「黒人差別を認めない日本」がどうして「ちびくろサンボ」を ことごとく絶版にしたんですか? 黒人差別の存在 11/06を認めたからこそではないですか。 どうして「ちびくろサンボ」が「差別を助長する」といえるのですか? 岩波版の出た1953年から絶版までの35年間で「ちびくろサンボ」が「差別を助長」したといえる証拠をひとつでもあげてから言ってください。 最後の文章はまあその通りなのですが、じゃあ結局、 ラッセルさんは「ちびくろサンボ」をどうしろとおっしゃってるんでしょうね。 わずかこの4つの文だけでもつながりがわかりにくいし、検証はなされていないし、 論旨が不明瞭なのです。
ともかく、ひがみ根性で強弁している個所ばかりなので、こういう人と ちゃんと議論するのは無理ですね。じっさい、この本の 『ちびくろサンボとピノキオ』批判に対して、 著者の杉尾敏明氏が『焼かれた「ちびくろサンボ」』で反論、 さらにラッセル氏が『偏見と差別はどのようにつくられるか』で再反論 という流れを追うと、ちっともかみあっていないことがわかります。
『「ちびくろサンボ」絶版を考える』のインタビューに応じて、いったんはその原稿掲載を 「満足している」と快諾していながら、編集部の問い合わせをきっかけに断った、という 経緯については、 径書房が(たぶん)不定期に出して本にはさみこんである「径通信」のバックナンバー 43号(1991.12)に、「掲載できなかった原稿のこと」というラッセル氏への反論が 載っています。
ラッセル氏の主張のうち検討する価値があるかもしれないと思われるのは、 「ステレオタイプという影のほうが、実は現実の社会関係を 規定しているということがあるのではないか」(p.172)です。 この仮説がその通りであれば、たとえば「ちびくろサンボ」の改作に見られるような、 「黒人のステレオタイプ」の表現が、「差別を助長」しているという主張にも 信憑性が出てくるでしょう。 しかしその前提はまだ仮説にすぎないのだから、納得いくデータなり根拠なりを あげて読者を説得してほしいものです。研究者なんですし。 そう望んでいるのはだれよりもラッセルさんでしょうから。(99/11/06)
☆ちびくろサンボとピノキオ 差別と表現・教育の自由
杉尾敏明・棚橋美代子 青木書店 2,800円 1990/12 B6 p.274 ISBN 4250900428 『ちびくろサンボ』や『ピノキオ』の絶版・回収、図書館での閲覧制限は妥当か否かを、子ども文化、表現・教育の自由の観点から、詳細に論じる。 第1部 『ちびくろサンボ』と人種差別 第2部 『ピノキオ』と障害者差別 付論 表現・出版の自由と削除要求・糾弾
感想: いつの間にか「ピノキオ」も差別的だと殆どの出版社からは既に絶版扱いになっているんだそうです。色々な意味で有名な堺市女性団体連絡協議会の話では「ちびくろサンボ絶版は当然。それ以外にも問題図書456点」…だそうです。… 楽しむためではなく、これは使用法を間違えて差別表現を見つけるために読んでるとしか思えないです。
「ちびくろ・さんぼ」を読んで「真っ黒な肌に真っ赤な唇。黒人をグロテスクなステレオタイプで描いている」、「169枚もケーキを食べるシーンは、黒人は異常な食欲を持つというステレオタイプに基づいている」、「親の名前があって姓が無いのは、黒人は性的に乱れているという偏見を持たせる」、「黒人は地面に落ちてるものを食べるべき奴隷民族だ」…そんな事を思う人の 方がどうかしてます。差別心があるからそれを押しつけて勝手にありもしない差別を見つけてしまうのです。書評 : 本書のサブタイトルは「差別と表現・教育の自由」となっている。当然、本書の中では【差別】と表現・教育の自由について語られていく訳である。そこには、出版と表現の自由が高らかに謳われ、いかなる表現、文章であろうとも、その存在を脅かす事は許されないと叫ばれる。ましてや差別語や差別表現というものは存在しないのであるから、これを理由に糾弾し回収を要求し絶版に追い込み、存在を許さないなどという事は不当であり、何人たりともこのような行動をとることは許されないと繰り返し述べられている。もちろん、批判、批評の自由は保障されるべきだという大前提はあるのだが。……出来うる事ならば、もっと、【差別】と表現、教育の自由について考察して欲しかったところである。本書の目的は、他団体の批判が目的ではないはずなのだから。1998/04/27
径書房編 径書房 1,700円 1990/08 A5 p.277 ISBN 4770500874
灘本昌久:「サンボ」を通して差別と言葉を考える(91/05)
書評1: 日本人が「サンボ」問題を語るとき、それは「ちびくろサンボ」に限定して話されがちですが、問題はもっと大きなものであって、その認識の差に、この問題の難しさがある、というのがこの本の出発点にもなっています。かなり濃い内容の本です。この問題に興味のある方は、読んでみることをおすすめします。
書評2:この本の中でひとつだけ心地良い話がありました。ブルースアーティスト、ハイ・タイド・ハリスさんの話です。 「黒人が道ばたで銃弾を打ち込まれて倒れているというのに、それをこの本のせいにするのですか。そのような考え方は、まさに眠っている者の考え方ではありませんか? 彼らは「ブラック・イズ・ビューティフル」といいながら、「ちびくろサンボ」を拒否するのです。本当にバカげています。」 「名前が「サンボ」であれなんであれ、それは関係ないのです。たとえば、これが「ジャックボー」という名前であったとしても、黒人であることの劣等感や自己嫌悪があったなら、誰かが「ジャックボー」と呼んだだけで私は深く傷つきます。劣等感や自己嫌悪が問題なのです。」まったく同意見です。黄色人種であり、黒人差別の歴史も知らない私にとって、黒人差別の中に産まれ育ったハリスさんのこの話が読めただけで十分です。
書評3:「ちびくろサンボ」が差別図書かどうか、読了してもまだわからない。でも、当事者(黒人)でもない「黒人差別をなくす会」が出版社に抗議をし、アメリカの黒人解放団体から「差別をなくすチャンピオン」と賞賛されてしまうというのは、どう考えてもおかしいし、危険を感じる。
書評4: 『ちびくろサンボ』が差別的か否かは未決定問題であるというのが編集部の基本姿勢らしい。読んだ感じでは容認派寄りのような気もするが、規制派の意見もきちんと載せているので、私としては、いちおう編集部の姿勢を支持したい。だが、『日本人の黒人観 問題は「ちびくろサンボ」だけではない』の著者であるJohn G. Russellはこの編集姿勢に我慢できず、依頼されていた原稿を引き上げたといわれている。
☆「ちびくろサンボ」問題を考える シンポジウム記録
日本図書館協会 日本図書館協会 728円 1990/08 A5 p.68 ISBN 4820490060 講演者:松岡玲子(目黒区立目黒本町図書館司書) 関 日奈子(練馬地域文庫読書サークル連絡会) 竹内 サトル〔「折」の下に「心」〕(図書館情報大学副学長) この問題はどのような内容を含んでいるのか、図書館の自由との関わりの中で考えてみよう という主旨で、「図書館の自由に関する調査委員会関東地区小委員会」の主催により、 1989年4月27日に開催。
巻末の参考資料にあげてあったジョン・レノン「WOMAN IS THE NIGGER OF THE WORLD」の歌詞とジャケット。"Woman is the slave of the slaves..." これは『黒い憂鬱』の石川好氏の解説にある「日本の戦後経済は家庭、特に女性を植民地とした」という一文を思いださせる。レノンの曲は72年、『黒い憂鬱』が書かれたのは90年。これらのたとえは、その当時においてどれぐらい正当で、また、有効だったのか。そして、現在(99年)においてどのような意味をもつのだろうか。
講演者3名の主張は似たり寄ったりの用心深さで、よーするに「ちびくろさんぼは人種差別の観点からは確かに問題がありまして、図書館の対応はひじょうにむずかしゅうございますが、その大変重い問題を考えるためにも資料としてきちんと収集しておきましょう」というものである。とくに竹内氏は、ワシントン大学図書館情報学科の教授を退官したスペンサー・G・ショウ氏の手紙を「お手本」として長々と引用し、同氏による「人種問題にかかわる本の選び方についての6箇条」をまるごと載せている。ショウ氏の意見は、たとえば「サンボとエパミナンダスは適切でなく、白人がこれをかわいくておもしろいというのは、保護者としての上からの姿勢だ」というもの(興味深いことに、ジョン・G・ラッセル氏もまったく同じ主張をしている)。この指摘について竹内氏は「多年にわたってそのように扱われてきたという事実の説明であると共に、私たちの考え方を厳しく問いかけるもの」と結論づけている。そういう竹内氏へ問いかけてみたいことを、『図書館の自由とは何か』の項に書いた。 また竹内氏は『「ちびくろ・さんぼ」はどこへいったの?』シンポジウムの会場アンケートにも答えている。
子どもの本の明日を考える会 子どもの本の明日を考える会、取扱所=地方・小出版流通センタ− 777円 1990/02 B6 p.129 1989年7月17日におこなわれた同タイトルのシンポジウムを編集したもの。 パネラー:金原瑞人、福嶋礼子、松岡玲子、宮川健郎、百々佑利子、脇明子 「ちびくろさんぼ」関連年表
本というのはいってみればひとりの人間と同じなのです。…… つまり上野(瞭)さんは、本が一冊殺されてせいせいしたといっているわけです。……いい作品がほかにたくさんある……ということは、ひとつの作品が消えていい理由にはならないのです。……作品ひとつひとつは、人間ひとりひとりと同じなのだという認識に立たないでは、ろくな論議は成り立たないのではないでしょうか。(金原瑞人)
昔話を含む児童文学の作品のいくつかについて、今回『ちびくろ・さんぼ』に抗議したグループが批判をしているという。…… 第一部の途中で 発言した、大阪から来ていた体格のよい女性がそのグループの一人だそう だが、彼女の自信たっぷりの様子は、いかにも自分は「正義」そのもので、 「児童文学」には「悪」がはびこっていると前提をおいた上で、それを ただすのだ、というように見受けられた。(会場アンケートから)
ぼくの勤め先での話をする。暴走族の兄ちゃんみたいな若い教師が、 子ども相手に疲れ果て、「あーっ、思いっ切り、車ぶっとばしたいなーっ」 といった。すぐ横にいた、やはり車きちがいの教師が、 「夜中に、首都高の環状をグルグルぶっとばしてきたらどうだい。 その内、バターになっちまうよ」といった。ぼくは、これを聞いたとき 「さんぼ」の底力を見せられたような気がした。(会場アンケートから)
絶版事件のあといちはやく出たコンパクトな本だが、視点の異なるパネラーによって種々の問題点が目配りされているほか、会場アンケートのなかに図書館員や教員などのおもしろい意見がある。金原瑞人氏(法政大学専任講師 翻訳家)の発言は(岩波書店の絶版理由について細かな事実誤認はあるものの)、上野瞭氏のさんぼ批判ににとどめを刺している。というか、上野氏の「ちびくろさんぼは大英帝国の植民地主義ふんぷんたるもの」「子どもの本の世界とは一冊の絵本を『資料棚』にほうりこむだけでガタガタになるほどの世界なのか」という主張がはずしすぎてるんだけど。 (批判の対象になっているのは、『子どもの国の太鼓たたき』に収録された『月刊絵本』1974.12の「『ちびくろ・さんぼ』のため息」というエッセイ。この号に載った児童文学者たちの「ちびくろさんぼ」に対する悪口の貧困さといったら! 昔の左翼の亡霊みたい。今江祥智氏のは『絵本の新世界』に収録されてるから、前言を改める気にならなかったんですね)
ただ、金原氏が、伊丹十三による『クマのプーさん』が「イギリス植民地主義の臭いふんぷん」という週刊朝日の記事を援用して、『ちびくろさんぼ』より 『プーさん』のほうが危険だ、と書いているのはよくわかりません。もっと悪いものをひきあいに出して「ちびくろさんぼ」をかばうやりかたは、いっぱい見かけるけど、それは相手の批判した基準――ここでは「イギリス植民地主義」ってこと――自体は認めているわけだから、かしこい反撃じゃあないと思う。
松岡玲子氏(公共図書館員)の「最後に、さんぼをめぐって論議がわきおこっている中で、『ブラック・サンボくん』というタイトルで出版の動きがあると聞いた。……せっかくの論議のチャンスを投げ打つことにならなければよいが」の懸念はちょっと理解不能。またアンケトートで竹内サトル氏(図書館情報大学副学長)は「将来、子どもたちが、『二〇世紀の終わりには、人間が人間を差別していたんだって! まさか!!」と言うようになることを期待したい。その時にこそこの本(ちびくろさんぼ)は再評価されるであろう」と、赤木かん子氏とまったく同じことをいってる。私からもまったく同じコメントをお返ししよう。しかもこの竹内氏、松岡玲子氏とともに『「ちびくろサンボ」問題を考える』のパネラーであり、巻末の出版目録を作った方でもある。――となると、90年頃の図書館関係者方面で主流をなした“良識的”スタンスがおおまか見えてくる気もする。 『図書館の自由とは何か』も参照。