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Robert Todd Carroll

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理論
theories

‘理論’という語は、‘強い’意味と‘弱い’意味の両方で理解されている。強い意味では、理論とはある範囲の現象を説明したり構成したり、統合したり、そしてまた理解するための原理や、一組の原理のことである。弱い意味では、理論とは信念や憶測のことである。科学者でない者はふつう‘理論’という語を、限られた情報や知識にもとづく信念や憶測や当て推量を指して、弱い意味で用いる。たとえば、婚前交渉に関する私の理論は...とか、ヤンキースがこれほど何度も優勝していることについて私の理論は...とかいったものである。ここでは強い意味での理論についてのみ考察することにする。

理論は科学的なものと科学的でないものに分けられるだろう。後者はさらに経験的なものと概念的なものに分けられるだろう

科学的理論

科学的理論は経験論的であり、反証可能であり、そして予測能力を備えている。たとえば光の波動理論や進化論、ビッグバン理論である。科学的理論は本質的に自然界が機能しているメカニズムを発見することに関与するものである。

科学的理論は、観察と知覚経験の世界を理解しようとする試みである。これらは、自然界がどのように機能しているのかを説明しようとする試みである。科学的理論は、その理論にもとづいて自然界にたいする予測や原因の解明をおこなって検証できるような、何らかの論理的帰結を備えていなければならない。予測や原因の解明をおこなうことと、これらが科学的理論の検証としてどれだけ貢献しうるかということの間の関係が正確にどのようになっているのかについては、哲学者と科学者の間で意見が大きく別れているようだ(クラニー,1997)。

科学的でない経験的理論

科学的でない経験的理論は、ある範囲の経験的現象を説明しようとする試みだが、反証不可能であり、また予測能力を備えていない。たとえば、フロイトの抑圧の理論や、エディプスコンプレックスの理論などがこれにあたる。

概念的理論

概念的理論は、科学的でないし経験的でもない。概念的理論には、たとえば創造論唯物論二元論といった形而上学的理論のように、解釈的なものがある。あらゆる概念的理論と同様に、創造論や唯物論や二元論は経験的に検証することができない。これらは反証不可能であり、予測能力も備えていない。各々の理論は論理的には一貫性を備えている。つまり、あらゆる実体は物質であると信じても論理矛盾とはならないし、実体には物理的実在と霊的実在という2つの根元的存在があると信じても矛盾はないのだ。宇宙には創造主がいると信じてもまったく矛盾はないし、無神論にも根本的に自己矛盾はない。これらの理論はみな、私たちがこの世界について知っていることがらとの一貫性を備えている。霊や非-物理的実在で説明できることは、どれも唯物論で説明できるのだ。ところが、唯物論も二元論も経験的に検証することはできない;したがって、どちらも意味のあるような方法で経験的に確実なものとすることはできないのだ。この宇宙には創造主によって説明できないものはないし、創造主ぬきで説明できないものもない。一方、概念的理論は論駁も不可能である。有神論や無神論、唯物論や二元論には、経験的証拠を示してそれが誤りであると証明できるような方法はない。さらに、唯物論と無神論の価値や有効性について述べられていることがらは、どれも二元論と有神論にも同様にあてはまるのだ。

概念的理論には、たとえば功利主義といった倫理的理論のように、規定的なものもある。こうした理論は、どうあるのかではなく、どうあるべきかを規定するものだ。

理論の検証

一般に、科学的でない理論は、その統一性や論理的一貫性(つまり理論を構成する概念との整合性)や、私たちがこの世界について知っていることがらやその他の信念との無矛盾性によって検証される。

科学的でない理論は、もしそれが一貫性を備えているならば、この世界において想像し得るあらゆることがらと矛盾しない。そして、科学的でない理論の多くは教条的なものとしてはたらく。これらは検証されるべきものとしてではなく、絶対無誤謬の真実として受け入れられるべきものである。

科学的理論の検証には経験的な観察が用いられるが、科学的でない理論の検証にはこれらが用いられることはない。経験的事実は、どんな類の理論とも矛盾なく適合するだろう。だが経験的事実では論理的一貫性を備えた科学的でない理論を論破することはできない。したがって、こうした理論を検証するのに経験的事実を用いることはできない。

事実と科学的理論

無学な大衆にとって、事実とは理論の反対語である。だが、科学的理論にはその確からしさの度合いに大きなばらつきがあり、きわめて怪しいものからきわめて確らしいものまである。つまり、理論が違えばその根拠や証拠には大きなばらつきがある。要するに、ある理論は別の理論よりも合理的に受容し得るということなのだ。だが、最も合理的な科学的理論であっても、絶対的な真実ではない。一方、いわゆる‘事実’もまた絶対的な真実ではない。事実には、かんたんに検証できる知覚要素だけが含まれるわけではない;そこには解釈もまた含まれるのだ。あるアイデアが絶対的に確実で反駁不可能だなどと主張していたら、そのアイデアが経験的なものでも科学的なものでもないということを示している。絶対的に確実なアイデアは、経験的には検証できないからだ。無誤謬だと主張したり絶対的真実を希求したりするのは科学ではなく、形而上学や疑似科学である。

だが科学の歴史は、科学理論が永遠不変のまま残るわけではないことを明白に示している。科学の歴史は、ある絶対的真実が別の絶対的真実の上にうち建てられる歴史ではないのだ。むしろ科学の歴史は他の何にもまして、理論化、検証、議論、洗練、棄却、置き換え、いっそうの洗練、いっそうの検証、といったことの歴史なのである。科学の歴史とは、理論はしばらくの間はうまく働き、例外事象が起き(つまり既成理論に当てはまらない新たな事実が発見され)、新理論が提示され、ついには古い理論と部分的あるいは全面的に置き換えられる、そういった歴史なのである。

無誤謬を仮定している理論は、科学的理論ではない。ジェーコブ・ブロノフスキが述べているとおり、科学とは“非常に人間的なかたちの知識である。...科学ではどんな判断も誤りの淵に立っている。... 科学とは、自身の誤りやすさにもかかわらず、私たちが何を知ることができるかにたいして貢献することである”(ブロノフスキ,374)ということを、私たちは忘れてはならない。“自然科学の目標の1つは”、彼が言うには、“物質世界に関する正確な描写を与えることである。20世紀物理学の業績の1つは、この目標が到達不可能だということを証明したことである”(ブロノフスキ,353)。ブロノフスキは、科学的知識には人間的な特質が備わっているという彼の見解を、おそろしく強烈なやり方で示してみせた。彼は彼の著書人間の上昇Ascent of Man)のテレビ版のために、アウシュビッツにある強制収容所と焼却場へ赴いた。第二次大戦中、そこでは何百万人ものユダヤ人や同性愛者や、その他‘望ましからざる人物’がドイツ人によって殺害され、焼却された。抹殺された者の中にはブロノフスキの親類もいた。ブロノフスキは犠牲者の遺灰が捨てられた池の中に立ち、身をかがめて汚泥を手ですくい、そして語った。

科学は人々の人間性を奪い、たんなる統計数字にしてしまうと言われています。それは間違いです。ひどい間違いです。よく考えてみてください。ここはアウシュビッツにある強制収容所と焼却場です。ここは人々が統計数字にされてしまった場所です。この池にはおよそ400万人もの遺灰が捨てられました。そしてこうしたことが起きたのは、ガスのせいではありません。無知のせいなのです。これこそが、人々が実際の検証もなしに絶対的な知識を持つと信じたときに、おこなわれることなのです。これこそが、人が神の知識を熱望したときになすことなのです(374)。

科学的知識はヒトの知識であり、科学者はヒトである。ヒトは神ではないし、科学者も無謬ではない。だが一般大衆は、科学的主張は絶対的に正しい真実だと考えてしまうことが多い。もしあることがらが不確かならそれは科学的ではないし、もし科学的でないなら、それは他のどんな非科学的意見とも同等の立場でしかない、彼らはそう考えるのだ。科学的理論の本質が一般に理解されていない背景には、少なくとも部分的には、ここで述べたような誤解があるものと思われる。

科学理論とポストモダン主義

よくある誤解にはもう1つ、科学理論はヒトの知覚にもとづいているから必然的に相対的なものであり、したがって本当の世界については何一つ伝えていないのだ、というのもある。特定の“ポストモダン学派”によると、科学は経験的世界が実際にはどういうものかという事実の描写を、私たちに与えているとは主張できない;科学は経験的世界が科学者には一体どう見えるのかを伝えているのにすぎないというわけだ。科学理論はすべて、単なるフィクションにすぎない。だがしかし、事実を見るための、たった1つの、本物の、究極の、神のような方法が存在しないからといって、科学的事実など存在しないということにはならない。最初の原子爆弾が一部の科学者らの予測したとおり爆発したとき、経験的世界に関する新たな事実がほんの少し明らかになった。私たちは、何が事実で何が誤りかを、科学理論を経験的に検証することによって、少しずつ見い出しているのだ。宇宙探索を可能にした理論が“相対的なものにすぎず”、事実の“一面的な見解を示しているにすぎない”などと主張するのは、科学や科学的知識や科学的理論の本質を、完全に誤解しているということである。

ヒトの行動の理論

科学的な理論化の対象となり得るのはどういったものか、という問題については意見が大きくわかれている。気体や粒子のふるまいは科学の対象となり得るが、ヒトの行動は科学の対象となり得るのだろうか?哲学者や、社会科学すなわち心理学、社会学、歴史学、それらの関連分野に携わっている者たちの間では、この問題について意見が大きくわかれている。ヒトの行動は、粒子や波のふるまいと同様に、一組の原理や法則へ還元できるのだろうか?ヒトの行動は、観察可能な現象や、法則や秩序に従った現象に起因する観察可能な結果へと還元できるのだろうか?もしそれが可能なら、ヒトの行動は科学的理論化の対象となり得る。もし不可能なら、ヒトの行動に関する研究がどれほど経験的なものであっても、それは科学的なものとはなり得ない。もしヒトの意志や欲求や動機が規則的な原理に還元できないならば、ヒトの行動は本質的に自然界に存在する他の物のふるまいとは異なることになるし、科学的な理論化の対象とはなり得ない。だが、たとえヒトの行動が科学となり得ないとしても、ヒトの行動に関する説明や理論は、心理学的、社会学的あるいは歴史学的なものであれ、存在し得る。こうした説明はきわめて経験的なものとなり得るだろうが、反証不可能であるため、科学的なものではない。

疑似科学的理論

疑似科学的理論は科学的理論や概念的理論とともに評価すべき理論ではなく、これらとは別物の理論である。いわゆる科学的創造論のような疑似科学的理論は、科学的理論ではなく、さも理論であるかのように主張している代物にすぎない。これらは経験的証拠にもとづいていると主張して、科学的な手法さえ用いているかもしれない。だがこれらは根本的に反証不可能であり、支持者は理論を反駁するような証拠を拒否して受け入れないのだ。疑似科学者は、既知の事実や予測される結果を使って自説に矛盾がないと主張することなら喜んでやるが、自説が矛盾していないというだけでは何の証明にもならないということを認識していない。たとえば、“悪霊から身を遠ざければ伝染病を避けられるということから演繹しても、伝染病の原因が悪霊であるという仮説が真実だと確定するわけではない”(ビバレッジ,118)。同様に、ダウザーが時々水源を見つけ出すからといって、彼がそのとき超常的な能力を使っているということにはならないのだ。

関連する項目:対照研究 (control study)創造論 (creationism)二元論 (dualism)経験論 (empiricism)唯物論 (materialism)実証主義 (positivism)疑似科学 (pseudoscience)科学主義 (scientism)



参考文献

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Copyright 1999
Robert Todd Carroll
Last Updated 11/01/99
日本語化 06/03/00

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