Robert Todd Carroll SkepDic 日本語版 |
オッカムの剃刀 Occam's Razor``Pluralitas non est ponenda sine neccesitate''、あるいは、``不必要に複雑な言明を提示すべきではない。''これは、中世イギリスの哲学者でフランシスコ会の修道僧であった、オックハムのウィリアム(1285頃-1349)の言葉である。フランシスコ会の他の多くの修道僧と同様に、ウィリアムはミニマリストとして清貧を実現した人生を送り、また聖フランシスと同様に、さまざまな問題について法王に論戦を挑んだ。ウィリアムは法王ヨハネ12世によって破門された。彼は法王ヨハネを異端とする論文を書いて反論した。 オッカムの剃刀として知られているものは、中世哲学の一般的な原理であり、オックハムのウィリアムが作り上げたものではなかった。しかし、この原理をウィリアムが頻繁に用いたので、彼の名が永く添えられることになった。現代のわれわれが彼の名においておこなっていることを、修道僧のウィリアムが喜ぶとは思えない。なにしろ、無神論者は神の存在について反論するとき、神の存在を仮定するのは不必要だという理由で、オッカムの剃刀をしばしば用いるのだから。われわれはどんなことがらであれ、神という特別な形而上学的存在を議論に持ち込まなくとも、説明できるのだ。 ウィリアムが複雑な意見を不要とする原理 (the principle of unnecessary plurality)を用いたのは、現代でいうサイ (psi) に関する議論にはじまる。たとえば、ピーター・アベラルドのCommentary on the Sentencesの第2巻で、彼は``上位の天使は下位の天使よりものごとを知悉しているかどうか''という問題について深い思索をおこなっている。彼は``不必要に複雑な意見を提示すべきではない''とした原理に当てはめて、この問題の解答は全肯定命題になるとしている。また、彼は``自然が完全であればあるほど、その動作に要する手段も少なくなる''としたアリストテレスの意見を引用している。この原理は、無神論者が進化論を肯定して神-創造主の仮定を否定するのに用いている:もし万能なる神が宇宙を創造したのなら、宇宙もその構成要素も、もっと単純であるはずだ。ウィリアムは認めないだろうが、これは確かだ。私はそう思う。しかし、彼は自然神学など不可能だと論じている。自然神学は、神を理解するのに推論のみを用いる。これとは逆に、啓示神学は聖書学的な啓示にもとづいている。オックハムのウィリアムによると、神の概念は明白な証拠や明白な推論結果にもとづくものではない。われわれが神について知ることがらは、すべて啓示にもとづくのだ、ということになる。したがって、すべての神学の立脚点は誤っていることになる。われわれはオッカムの剃刀を、精神世界すべてを斬り捨てるのに用いているが、オックハムが信仰の表明にまでは倹約の原理を用いていなかったことは明記すべきだろう。もしそうしていたら、彼はジョン・トーランド(神秘的でないキリスト教、1696、邦訳は玉川大学出版部)のようなソチニ派になって、三位一体論やキリスト教の二面性をひとつにまとめていたかもしれない。 オックハムは哲学のミニマリストのような存在で、当時ポピュラーだった実在論的視点に反対して、唯名論を提唱していた。つまり、彼は全称(universals)が心の外には存在しえないと述べたのだ;全称とは、われわれが個々の人や物の集合や特性を指すのに用いる名称のことである。実在論者は、個々の物体とそれに対するわれわれの概念の背後には、全称というものがあると主張している。オックハムはこれを意見の過剰な複雑化だと考えた。われわれはなにごとを説明するにも、全称を必要とはしない。唯名論と実在論、いずれの立場であっても、ソクラテスは一人の人間存在であり、またソクラテスについての概念をあらわす。実在論者にとっては、さらにソクラテスの人間性や動物性などが存在することになる。つまり、ソクラテスに関する質的なことがらすべてには、各々対応する``実在(reality)''に加えて、``全称''あるいはプラトンの言う形相(イド、eidos)があるということになる。ウィリアムは、全称論的世界観とよばれるこうした多義的世界に懐疑的だったといわれている。これは論理や認識論、形而上学にも不必要だ、ではなぜこうした不要な多義的世界を仮定するのか?もちろん、プラトンや実在論者が正しいのかもしれない。現実の事象の背後には、永遠不滅の理想存在で構成された、形相や全称の世界があるのかもしれない。しかし、個々の事象や概念や知識を説明するのに、こうしたものを前提にする必要はないのだ。プラトンの形相は、形而上学的にも認識論的にも、過剰で不必要なお荷物のである。 ジョージ・バークレー司教 は、物質的存在を不必要な多数意見として斬り捨てるのにオッカムの剃刀を使った、と言えるだろう。なにごとを説明するにも、われわれが必要とするのは意識とその概念だけである、と言うのだから。しかし、バークレーはこの剃刀を用いるとき、少しばかり恣意的だったかもしれない。彼は神を、誰もいない場所で木が倒れるのさえ知覚できるような(超越的な)意識であると仮定する必要があったのだ。主観的な理想論者は、剃刀を神から逃れるのに用いるかもしれない。すべては意識とその概念で説明できるからである。もちろん、これでは唯我論に帰着する。唯我論では、自分自身と自分自身の想念だけが存在する、存在するように見える物は自分の意識から生まれた幻にすぎないとしている。これとは逆に、唯物論者は意識をすべて斬り捨てようとして剃刀を使っている、と言われる。われわれは頭脳の多義性と意識の多義性を、ともに仮定する必要はないからだ。 オッカムの剃刀は、倹約家の原理 principle of parsimonyともよばれている。最近では、``説明は簡単なものほど優れている''、``不必要に仮定を増やすな''などの意味に訳されている。いずれにせよ、オッカムの剃刀は存在論の外でも頻繁に用いられる。たとえば、科学者は同じぐらい確からしい仮説がいくつもある場合、もっとも適する仮説を選び出すのにオッカムの剃刀を使う。なにかを説明するための仮定を与える場合、不必要に複雑な仮定をたててはいけない。フォン・デーニケンは正しいのかもしれない:地球外の生命体が古代地球人に芸術や技術を教えたのかもしれない。しかし、古代人の技術や芸術について説明するのに、宇宙人の来訪を仮定する必要はないのだ。なぜ不必要に複雑な仮定を立てるのだろうか?また、多くの人がするように、立てるべき仮定以外は立ててはいけない。遠方で起こることがらを説明するのにエーテルを仮定することはできるが、それを説明するのにエーテルは必要ない。では、なぜ根拠の薄いエーテルをわざわざ仮定するのだろうか? オリバー・W・ホルムズとジェローム・フランクは、``モーゼの律法(the Law)''など存在しないと議論するのにオッカムの剃刀を使ったかもしれない。ここにあるのは法的判断だけである;法律は、個人的な判断とその合計によって形成される。こうした危険な法律家は、自分たちの視点を法律的唯名論ではなく法の存在論などと称しているため、さらに問題が複雑化している。 オッカムの剃刀は単純性の原理 (the principle of simplicity) ともよばれるため、単純馬鹿な創造論者の中には、創造論を支持して進化論を棄却するのにオッカムの剃刀が使える、と主張している者もいる。つまり、神が全てを創造したと考える方が、複雑な仕掛けで説明する進化論より、ずっとシンプルだと言うのである。しかし、オッカムの剃刀は``単純馬鹿ほど優れている''なととは言っていない。もしそうだとしたら、オッカムの剃刀は、愚昧な大衆にとってはたいそう鈍い剃刀だ、ということになるだろう。それにもかかわらず、オッカムの剃刀を予算削減 を正当化するのに使うことまで考え出した。``少ない予算でやれるということは、多くの予算をつぎこんでも無駄ということだ''と言うのである。こうしたアプローチでは、オッカムの剃刀を、その原理そのものに向けて使っているように思われる。つまり、``仮定''を切り落としてしまっているのだ。``質の多少''と``数の多少''を混同しているために、いっそうわけがわからなくなってしまっている。オッカムが手掛けたのは仮定の簡便化であって、予算削減などではない。 もともと、この原理は、完全性とは簡潔性にほかならない、という概念を信奉したところから生じたのだろうと思われる。この概念は、われわれが中世や古代ギリシャの人々と共有する、形而上学的な先入観だろう。というのは、われわれも彼らと同様に、原理そのものではなく、その使い方について議論しているからである。唯物論者にとって、二元論者は仮定を不必要に複雑化していることになる。二元論者からすると、精神と身体を仮定することは必要条件である。無神論者にとって、神と超自然的世界を前提とするのは不必要な複雑化になる。有神論者からすると、神の存在は必要条件である、などなど。フォン・デーニケンにとっては、おそらく事実を説明するには超自然的なことがらを前提とすることが必要だったのだろう。その他の人にとっては、こうした宇宙人は不必要な複雑化である。おしまいに、オッカムの剃刀は、おそらく無神論者には神は不要だと示し、有神論者にはそれが誤りだと示すことだろう。もしそうなら、この原理はあまり役には立たない、ということになる。一方、オッカムの剃刀が、信じ難い説明と確からしい説明のうちから一つを選ぶような場合には確からしい方を選ぶべし、という意味なら、この原理は不要だろう。これはふつう、言うまでもない明らかなことだからだ。しかし、この原理が真にミニマリストの原理であるなら、より還元論的な方を選ぶべきだ、という意味になるだろう。ならば、この倹約の原理はオッカムのチェンソーと呼ぶ方がふさわしい。なにしろ、その主な使用目的は実在論 をバッサリと斬り捨てることにあるだろうから。 関連する項目:その場しのぎ仮説 (ad hoc hypotheses)、対照研究 (control study)、コールド・リーディング (cold reading)、組織的強化 (communal reinforcement)、確証バイアス (confirmation bias)、プラシーボ効果 (the placebo effect)、因果の誤り (the post hoc fallacy)、選択的思考 (selective thinking)、自己欺瞞 (self-deception)、主観的な評価 (subjective validation)、証言 (testimonials)、ジェームズ・ヴァン・プラーグ (James Van Praagh)、ないものねだり (wishful thinking)。 参考文献Internet Encyclopedia of Philosophy "William of Ockham" Hyman, Arthur and James J. Walsh, Philosophy in the Middle Ages 2nd ed. (Indianapolis: Hackett Publishing Co., 1973). W.M. Thorburn, "The Myth of Occam's Razor," Mind27:345-353 (1918). |
Copyright 1998 Robert Todd Carroll |
日本語化 09/12/99 |